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輝く瞳と素敵な笑顔

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  • from: 岐阜のすーさん

    2011年11月21日 04時57分15秒

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    怒っては、いけない?

    叱るのはいいけど、怒ってはいけないと言われることがあります。怒るというのは、叱る場合と違って、相手の行いに対して自分の感情が入っていることになります。

     私たちは、常の刺激に反応しています。相手の行いに対して、自分なりに価値観をもっていれば、その価値観に関する感情があります。いくら冷静に判断しなさいと言われても、なかなか感情を抑えることはできません。
     それよりも、感情が相手に伝わってこそ、相手の感情が動くということもあります。
     ですから、価値判断する以上、感情が伴うのは当然だと考えてもいいのではないでしょうか。

     子どもは、感覚的ですから、怒っているという感情を体全体で受け止めます。しかし、冷静になって叱るというのは、きっと大人のように自分を冷静に見つめ、判断できる場合に限られているのではないでしょうか。

     多くの子どもは、叱る側の一挙手一投足を見て判断します。できる限り多くの情報が伝わった方が、子どもにとって、事の重大さがわかりやすくなります。
     また、緊急を要する場合は、何としても変えなければならないと思えば、あらゆる方法で変えようとするため、必ず感情も動員されます。

     これらのことから考えると怒ることは、決して悪いとは言えません。

     叱れと言われるのは、きっと怒るなと言われる背景に、怒る側の自分の感情のコントロールがうまくできなくなる点への危惧を配慮してのことではないでしょうか。

     自分の感情をうまくコントロールすることができれば、叱る自分、怒る自分を自由に演じることができます。

     この方が自然な気がします。

     どんな感情であっても、自由に表現でき、それを自由に使いこなせる方が豊かさを感じます。

     それに、子どもにも伝わりやすくなります。そして、子ども自身の感情も豊かになります。

     一番大切なことは、自分の感情のコントロールができるかどうかということのように思います。

     私たちの感情は、一度に2つ以上を感じることはできません。座は1つです。

     その感情が出ているのを見守る自分があれば、その座を他に譲ることも、譲り受けることもできます。

     感情的になったとき、なかなか冷静に自分を見つめることはできません。ただ、第三者のように自分を見つめる自分がいれば、コントロールが可能になります。

     私たちが鍛えなければならないのは、感情を抑えることではなく、この感情をコントロールするもう一人の自分を創り上げることではないでしょうか。

     「あっ、今私は怒っている。」と怒っている自分を見つめる自分。
     「子どもを見てご覧、ちょっと、怒りすぎかもしれないよ。」と怒っている自分を止めてくれる自分。
     「もうそろそろ、怒るのを止めた方が、いいでしょう。」と冷静に判断する自分。

     そんな自分を創り上げることができれば、自由に怒ることができます。

     こちらの方が感情を抑えることよりも数段難しいと思いますが、感情の選択が自由にできる点から考えると、やり甲斐があります。

     子どもの幸せのためにも、感情をコントロールするもう一人の自分を創り上げる努力をしたいものです。

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  • from: 岐阜のすーさん

    2011年11月14日 06時17分41秒

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    授業の意味づけ

     私たちは、価値あることには、前向きに取り組むことができます。
    このことを利用すると、物事に価値あることだと意味づけることで前向きに取り組むことができるということにもなります。
     そして、その意味づけが多ければ多い程、やる気を高めることができるのではないでしょうか。
    例えば、毎日行っている授業で考えてみましょう。
    子どもたちに学力を付けるための授業であることは確かです。
    それ以外にどんな意味づけができるのでしょう。
    ・授業を一つの課題解決する組織の仲間だと考えると、その社会でどのように生きたらよいのかを学ぶ機会になります。
     仲間と一緒に学ぼうとする子だろうか、それとも自分勝手な取り組みをしている子だろうかと考えることができます。知恵を出す子もいれば、問題を提起する子もいます。助ける子もいれば、助けられる子もいます。どんな生き方をしているのかを私たちは眺めることができます。
    ・授業を自分の夢の実現の場だと考えると、どうでしょう。思いやりのある学級を作りたいと考えるならば、活動の場面で様々な思いやりを見つける努力をします。そして、思いやりのある子を見つけて喜んだり、思いやりのある姿を紹介したり、思いやりを育てる努力をします。
    ・授業を学級目標の具現の場だと考えると、これも、前述と同様に、学級目標に合った子どもの姿を見つける努力をしたり、学級目標に合った子どもを紹介したり、育てる努力をします。
    ・授業を子ども一人一人の夢の実現の場だと考えると、どの子がどんな夢を実現しようとしているのか尋ねたくなります。そして、その子の夢が実現するために何をすべきかを考えたり、助言したり、努力している姿を応援したりすることができます。
     このように様々な見方をすることができるのが授業です。
    大事なことは、毎日の授業を淡々とこなしていると、子どもを育てる大事な機会を見失ってしまうということです。
     子ども一人一人がいかに授業に前向きになるかは、学力をつける場だけでなないという考えに立たせることが重要になります。
     一日の学校生活で多くの時間をかけているのが授業です。その授業を単に学力を付ける場としてのとらえだけではもったいないと思います。
     授業中の声かけも違ってきます。
    「あなたは、優しい子だね。」
    「あなたは、発想が豊かだね。」
    「あなたには、リーダー性があるね。」
    「あなたには、包容力があるね。」
    「あなたには、素晴らしい忍耐力があるね。」
    などと、授業の見方を変えることで、授業の中でこんな声かけができるようになります。
     どんな姿でもいいのです。子どもは常に認められたいと思っています。学力があるとかないとかという面だけを見ていると、その授業の内容に関わる視点からしか声がかけられません。
     教師の見方を豊かにすることによって、あらゆる声かけが可能になります。
    授業の意味づけをいかに豊かにするかは、教師の考え方次第です。

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  • from: 岐阜のすーさん

    2011年11月07日 06時25分07秒

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    一緒に学習すること

     子どもたちが教室に全員が揃っていると安心して授業を進めることができます。
     一人でも欠けていると、その子が気になります。
    授業に関して言うと、「遅れた分をどうやって取り戻そうか。」「何をしてあげられるだろう。」「いつ、時間を作ろうか。」などと授業とは別にしなければならないことが頭の中をよぎってしまいます。

     ですから、全員が揃うことは、とても有り難いことです。

     しかし、授業に全員が揃うというのは、全員がそこにいるというだけでは揃ったことにはなりません。学習に向かう気持ちや行動が揃って初めて、全員が揃っていると安心できます。

     授業中に話を聞く時に話を聞いていない姿を発見すると、揃っていないなあと思います。

     物の準備ができなくて、仲間に迷惑をかけていることすら気づいていない子どもがいると揃っていないなあと思います。

     どの子もわかりたい、できるようになりたいと思っています。

     それなのに、揃わないのは、なぜでしょう。

     私たちは常に人と関わりをもちながら、生きています。

    しかし、一つのことに夢中になっていると、関わりが見えなくなってしまいます。

     学習するのは自分だからといって、学習内容だけを見ていると、人との関わりが見えなくなってしいます。

     別に人が関わらない方が自分のペースで学習が進むからその方がよいと言って、人との関わりを切ってしまうことも可能です。

     これは、大きな間違いです。

     学習を手助けしてくれるだけが、関わりではありません。学習したことを認め励ましてくれることも人との関わりになります。

     せっかく学習しても、それを「素晴らしいね。」「よく頑張ったね。」と言ってくれる人がいなければ、自信がもてません。


    また、学習したことを生かす場面では、必ず人との関わりがあります。学習したことが自分の生活にどのように関わりがあるかを知れば、人との関わりを考えないではいられません。

     
     みんなで一緒に勉強を進めていることがとても大切なことです。

     一つの問題を仲間と一緒に解決しようとするときに、どんな自分なのかが見えてきます。
     困っている仲間を支えることができる自分なのだろうか。
     少しでもよいものを生み出そうと知恵を出す自分なのだろうか。
     困っていることに気づいた時、それを素直に困っていると言える自分だろうか。
     仲間を巻き込んで、よいものを生み出そうと声をかける自分だろうか。
     支え合おうと叱咤激励できる自分だろうか。
     茅の外にいる仲間に気づける自分だろうか。
     苦しむ仲間の気持ちをわかろうとする自分だろうか。

     問題解決の過程では、様々な姿が見られます。
      その時にどのように立ち振る舞う自分なのかがとても重要になります。

     これは、学習という場面だけに使えることではありません。どんな生活の場面でも同じです。得手不得手は誰にでもあり、十分に自分を生かせないと思う場面では、自分の力を発揮できず、縮こまっていることは誰にでもあります。だからこそ、自分の力を十分発揮できるように支えてくれる仲間が重要なのです。

     私たちの住む社会でも同様のことが言えます。

     このことを考えると、まさに授業は社会の縮図ではないでしょうか。

     教師は、子どもたちが創り上げる社会を今、目の前で育てているのです。
    誰がどのような働きをするのでしょうか。学習する仲間の一人として、どのような働きを期待しているのでしょうか。
     逃げだそうとする子どもを放っておくことは、その社会から抜け出してもいいという思いを作り出します。
     どの子も参加し、できるように働きかけることは、その社会の一員として、認め励ますことになります。

     授業を「社会」と重ねてみると、見えるものが違ってきます。子どもの動きが気になることも増えてきます。

     どの子も欠くことのできない大切な一人です。能力とは関係ありません。生かすも殺すも教師次第です。

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  • from: 岐阜のすーさん

    2011年11月04日 05時40分09秒

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    みんな違って、みんないい?

     「みんな違って、みんないい。」・・・これは、金子みすずさんの「わたしと小鳥とすずと」の詩の一節です。学級経営を進めていくときによく使われる言葉の一つです。
     
     子どもたちは、学級という集団の一人として、位置付くためには、みんなと同じことができると安心します。
    ・時間通りに行動できる。
    ・みんなと同じものがそろう。
    ・みんなで決めた約束が守れる。
    ・みんなと一緒にいる。
    ・みんなができることができる。
    等いろいろ揃うと安心できることがあります。

     「みんな違って、みんないい」と言われても、揃えなければと思っている子どもにとって、違うことが不安になります。

     自分の個性を生かしたいと思っているのは、教師だからだと思います。
     だから、この言葉を使うのだろうと思います。

     でも、子どもたちは、揃えるための刺激に対して、揃えるための反応をしているので、自分らしさに気づく機会は少ないと思います。

     合わせることが多ければ、自分の個性を生かすなどとは、考えられません。

     学習の中でも、みんなと揃っているから安心になります。みんなと違っていると不安になります。

     安心できるのは、「みんな違って、みんないい。」と言われるから、安心できるわけではありません。

     違っていてよかったと安心できる扱い方をされたときに安心できるのです。

     個性が発揮される時に「〜さんらしいね。」と認めてもらえるから、違っていてもいいと安心できます。
     
     学習では、必ず能力差が生まれます。ですから、ここには必ず違いが生まれます。能力を一定の高さまで引き上げるときに、この「みんな違って、みんないい。」と言うことができるでしょうか。

     よくできる子どもが認められ、あまりできない子どもはなかなか認められないという状況があるとすれば、違っていいなどと口に出すことは、できません。

     学びの過程には、その子らしさがあります。学力の違いが、学びの過程の違いにあるとすれば、その子らしい学びがどの子にもあるということがわかります。

     しかし、私たち教師には目標があるので、その子らしさを生かし、その子の学習の歩みを作ることよりも、教師自身の学びの過程に子どもたちが合わせるという形にしてしまうことが多くあります。それは、一斉指導の中では、その方が効率がよいからです。

     時間をかけ、その子の歩みのペースや、その子らしい学びの過程を生かすゆとりがないと考えてしまうからです。

     これは、教師自身の教材研究の不足だと考えた方がよいでしょう。教科の本質に根ざした授業を作り上げることができれば、必ずそこには、子ども一人一人の学びの過程を作り上げる過程を大切にしなければ、子どもの学びは成立しないことがわかります。

     いかにその子らしさを授業の中で生かすことができるか、ここが勝負になります。

     あの子の考えを生かすことができなかった。
     あの子のあの学び方を広げることができたら、もっと授業がよくなった。

    などと子どもの学びを生かそうと授業を見つめ続けることができれば、必ず授業が変わってきます。

     つまり、「みんな違って、みんないい。」という言葉は、子どもを説得させる言葉ではなく、教師である私たちが「みんなちがって、みんないい。」と言える授業を仕組んでいますかと自分に問いかける言葉なのです。 

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