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シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

公開 メンバー数:58人

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2011年06月18日 20時30分31秒

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    意識を切断するスイッチ

    意識を切断するスイッチ
    <観念的同時の認識の深化>

    私達の認識には無意識的と意識的の両面がありますが、では、夢を見ているときはどうなのでしょうか。

    夢を見ること自体は、無意識の出来事ですから、意識的な認識はないでしょう。

    もちろん、夢の中でも時計は出てくるでしょうから時間の認識はあるでしょう。しかし、それは意識的な認識はないでしょうから目が覚めることはないでしょう。

    しかし、寝坊ができないようなときには、目覚ましをかけて寝るぐらいですから、大概は明日のことが気になって、半分意識が残っている虚ろ寝状態でしょう。

    とても、夢を見るどころではないでしょう。

    やはり、夢を見るためには時間を気にすることがない心理状態でなければならないでしょう。そのためには、意識の回路が切断されなければならないでしょう。

    意識回路が切断されれば、自ずと潜在していた無意識が出てくるのですが、その場合、夢を見ること自体が自分にとって、「これは夢である」とは教えてくれないのでしょう。

    覚醒しているときも同じであり、ビデオを夢中で見ているときは「これは現実ではない」などと冷静には見ていないでしょう。

    ビデオは過去の記録であると認識するのは自我であり、夢中になっているときは意識の回路が切断されているのですから、それが過去のことだとは認識できないでしょう。

    つまり、見ていることがそのまま現実の出来事であり、それは夢を見ているときと同じなのです。

    夢を見ているときと違うのは自我状態にいつでも簡単に戻れるということだけです。

    いずれにしても、夢が過去のことと意識はしないとしても、過去に関連していることは確かでしょう。

    未来の夢を見るにしても、それは過去において未来を想像したことの記憶が出てきたことですので、過去の「意識がある」なのではないでしょうか。

    いや、夢は無意識の世界ですから、「意識はない」でしょう。従って、「意識がある」というのは正確な言い方ではないでしょう。

    夢を見ているときは、過去の認識はないのですから、現在しかないのです。いや、現在という意識さえもないでしょう。

    夢から覚めてはじめて、意識が戻る(意識の切断のスイッチがオフになる)のですから、そこで夢だと理解するのです。

    この意識がなくなるというのは、意識切断のスイッチがオンになることであり、ビデオを夢中で見ていることを意味します。

    つまり、意識が戻るということは意識切断のスイッチがオフになることです。

    ビデオを夢中で見ていて、電子レンジのチンで「我に返る」というのはスイッチのオフになることと同じなのです。

    ビデオでも夢でも無意識のときは時間を意識しないのですから「同じ」なのです。

    確かに、生きているのですから無意識と意識の作用は同時に存在しているでしょう。

    しかし、睡眠に入ると意識切断スイッチがオンになり、意識作用が休止するので意識が「ない」ということになるのです。

    作用としては同時には働かないのです。

    ですから、過去のことと現在を同じと看做すことは意識の作用がないことになるのです。

    それを観念的同時の認識と言うのですが、夢の中では意識が「ない」のですから、無意識の認識はあるが、意識的な認識はないことになります。

    その出来事が過去のことだとは認識できないのですから、ビデオに夢中のときや夢を見ているときは自我がなくなるということです。

    つまり、無我、忘我状態です。

    それは、潜在意識だけの世界ですから、観念的同時の認識とは「自我の後退」現象とも言えるでしょう。

    つまり、観念的同時の認識とは無意識の認識はあるが意識的認識はないということであり、自我の認識が後退するから時空を超越できるのです。

    一方、意識的状態のときは自我の認識があるということであり、過去と現在と未来という時間の流れの認識があるということです。

    言い換えれば、自我意識とは時間と空間の世界の中にいる意識を持っていることであり、その時空の舞台で出来事が生起しているのです。だから、流れる時間を意識できるとも言えるでしょう。

    結論として、無意識と意識は同時に存在しているが、同時には作用しないのです。

    体内の生理的なバランスや外界に刺激によったり、必要に応じて、意識切断スイッチが入ったり、切れたりしていると考えればよいでしょう。
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2011年06月18日 12時04分59秒

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    人類初の9秒58:ウサイン・ボルト

    人類初の9秒58:ウサイン・ボルト
    <<観念的同時の認識の深化>

    ウサイン・ボルトは、2009年8月16日の世界選手権男子100m決勝で、人類初の9秒58(世界新記録)を記録しました。

    この記録は既に過去のものですが、この脅威の走りをいつでもYouTube
    http://www.youtube.com/watch?v=ClHldiQc-6Iで見ることができます。

    これを見たのは今日、つまり、2012年6月18日ですから、私はその当事の興奮(記憶)を思い出したのです。

    そして、2009年8月16日のあの瞬間を「今、ここ」に再現したのです。

    月日の流れを無視して、興奮した瞬間だけを現在というなら、まさに、私は過去の記憶が現在に蘇ったのですから、現在という瞬間において、過去が現在という時点に同時に存在していることになります。

    無我夢中でビデオを見ているときは、文字通り、ビデオを見ていることさえ忘れている状態なのですから、無自覚的であり、時間を意識してないのですから、無意識の無我的な状態と言えるでしょう。

    記録を媒体にして過去(ビデオ)を見るということは、光を媒介にして遥か彼方の過去の星を現在、つまり、「今、ここ」で見るのと同じなのです。

    ということは、YouTubeを見なくても、あのシーンを想起すれば、過去(記憶)が現在に同時に存在していることになります。

    更に、これを延長して考えると、未来の姿をイメージさえできれば、未来(想像)が現在に同時に存在することになります。

    このような時空を超越して過去と現在を観念的(無意識的・無我的)に同時に認識する力を私達は持っているのです。

    これを観念的同時の認識と言います。

    一方で、無我夢中といってもそう長く続くわけではありません。はっと我に返り、そうだ、電子レンジが呼んでいる(チンとなった)ことに気がつくでしょう。

    そこで、現実に戻って、ビデオの中の出来事が今起きている出来事ではないことを確認するでしょう。

    つまり、「これは現在ではない」「過去の出来事である」と意識的に自我的に、反省的に認識するのです。

    言い換えれば、「過去が現在であると同時に、過去は過去である」という無我的と自我的な意識状態による二つの相反する認識が同時にあるということです。

    このような両面認識こそが人間の原点であり、自分が自分であり、自分ではないということを即非(あり・なし)として自覚している主体があるからこそ、生きる力が湧いてくるのでしょう。

    このような即非(両面)認識というのは人間本来の機能に由来するものですが、ややもすると片方(意識的状態=自我優位)だけに強く傾斜してしまうことがあるのです。それが放射能に汚染された現代文明社会なのではないでしょうか。

    自我優位というバランスに欠けた意識的状態を長い間続けること身体的にも、健康的にもよくないことは自明ですが、バランスを取り戻すことがきわめて困難になっているのが現状です。

    巷では、占いやセラピーが流行したり、新興宗教的なものがはやったりしていますが、そうした方法が成功する可能性は殆どないといっても良いでしょう。

    何故なら、自我との戦い標榜してきた仏教でさえ、4000年という長い実績と歴史があるのですが、それでも成功したとは言えないからです。「仏教の弱点は何か」
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100093748917
    を参照してください。

    それほど、自我の力は強大だと言うことです。この力の対抗できるのは今のところ、PS理論しかないと思っています。
    詳しくは、「PS理論で世界の構造は解明できた」http://sophio.blog19.fc2.com/を参照してください。
    以下引用しました。

    PS理論によって、世界の構造は解明できたと考えられる。
     media pointと精神的フィルター(連続的同一性形成構造)の二つが世界の根本構造である。そして、二つが不連続であるというのが核心である。
     media pointが生成・創造の種子であるが、根源に凹(-1)がある。そして、それが、展開して、物質現象を発現するのである。

     このmedia pointの不連続性こそ、現象形成の核心であり、これまでの理論はそれを解明することができなかったのである。
    ―――

    四次元能はこのPS理論の応用であり、臨床です。ただ、media pointと精神的フィルターと言ったボキャブラリーを自在に駆使するには、まだまだ理解不足です。

    今は、その準備をしているところであり、富士山の山登りに喩えれば、まだ裾野を歩いているような段階あることを了解してください。

    横道に逸れましたので、ビデオの話に戻りましょう。
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2011年06月15日 08時44分02秒

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    観察者は座標の外の位置している

    観察者は座標の外の位置している
    <観念的同時の認識の深化>

    物が見えるということは、光が私の目に飛び込んだときに始めて物が見えるという事実があり、その瞬間だけが私にとっての確かな現在と言えるでしょう。

    遠くの星から来た光は、それだけの旅をしてきたのですから、時間がかかっているのですが、私にはその旅のことは認識できません。遠かろうが近かろうが、私には全く関係のないことです。

    これが、「私が見ている」という当事者の認識です。

    光によらない内的な認識もありますが、これについては後で検討します。

    一方、私は観察者(観測者)として、その見た物を「見た」と確認します。この確認とは「見た」ことの認識ですから、「私が見た」とい観察者の認識です。

    見た物のイメージ(-1)と見た物(+1)は絶対に同じと看做せない違いがあると同時に見た物のイメージ(-1)と見た物(+1)の間には-1⇔+1という「疑いのない接続」があることも確認しましたが、これに続き、見ている者は誰なのか、確認しているのは誰で、どこにいるのかという認識の基本について確認しておきましょう。

    見ることと見たことは現在と過去の違いがあるようです。「見た」ということは過去のことから観察者の認識としましょう。「見ている」ということは現在の進行形のことですから、当事者の認識としましょう。

    この観察者の認識と当事者の認識について探求することが、観念的同時の認識を理解する次の段階に入ることになります。

    観察者は「見た」ことを、確認するためには、それを紙に記すことになるでしょう。

    紙に記すとは、座標にどこかに位置づけるということです。その場合、紙の左端を基準にして時刻を横軸に刻んでおきます。例えば今見ているものをボールの落としたときの高さとしますと、縦軸は高さとなります。こうしてボールの観察を続ければ、時間と高さの相関を示す時系列のグラフができます。

    観察はいつでもできますので、任意の時刻を原点として指定できます。

    観察したことを座標に記入することは、過去の時刻となります。従って、現在は次の観察で記入されるで「あろう」ということ空白になっています。

    しかし、「あろう」ですから、空白は未来のことを意味しています。現在が未来というのは変ですので、常識的には、直前に観察したことを座標に記入した時点を現在とし、次の観察で記入される「であろう」空白は未来として区別しています。

    要するに、観察者にとっては過去と未来の間が現在であり、認識上ではある程度の時間の幅があるのです。

    既に記入された出来事<直前に記入された出来事><空白><空白>
    過去過去過去過去過去(現在・・・・・・・)・・・・未来

    ところで、「見ている」という現在の進行形の当事者の認識としての現在はどうなるのでしょうか。

    ボールが跳ね返って頂点に達するのは一瞬であり、それを見るのは瞬間です。

    その現在(t)は座標のどこに位置するのでしょうか。

    観察した後に位置づけるのであれば、観察者の現在となります。既に述べたように、厳密には、それは全て過去になります。現在という時刻は流れているのですから、もうそのときは現在ではなくなっているのです。ただ、次の観察をするまでは、直前の記録を現在の出来事として認識(表現)しているに過ぎないのです。

    ここで、問題にしたいのは当事者の現在です。

    当事者の現在を(t)と表現することにします。

    観察した出来事(ボールの高さ)を-としてグラフに描くと、座標-x------となるでしょう。-にはそのときの時刻tが含まれているの- tと表記すべきですが、-(t)と混同するので、省略して-とします。

    従って、座標-x------に当事者の現在(t)を表現すると座標-x------(t)となります。

    -x 観察の始点であり、---は過去の記録です。

    tを(t)としたのは、「見ている」のですから「見た」とはなっていないので、未だ未記入なのです。しかし、未だ出来事が起きていないわけでもないので、未来でもないのです。ですから、空白であっても未来ではないのです。

    記入してしまえば-となり、過去の記録となってしまうのですから、記入できない現在があるということです。しかし、観察者は現在と言います。現在とは厄介な時間なのです。

    過去でもない、未来でもない、観察者の現在でもない、瞬間の現在があるということは、紛れもない事実であり、当事者の私はそれを確信し、認識しているのです。

    ですから、瞬間の現在tを(t)としたのは、決して、座標には位置づけることができないという意味で( )としたのです。

    つまり、瞬間の現在(t)の出来事を「見た」ら、それは過去となってしまい、-として位置づけられる、当事者の現在は次の瞬間にシフトとしているのです。これを表現すると- (t)となるでしょう。(t)に対応する-はなく、- とtは同時に表現できますが、- と(t)は同時には表現できないのです。

    瞬間の現在(t)は、その瞬間に次の瞬間の現在(t+1)になって、認識をすり抜けてしまうのです。

    観察者の現在には幅があるのですが、当事者の瞬間の現在(t)には幅があるのでしょうか。

    時系列のグラフでは、基点(原点)-xをはるかの過去として、その間の出来事を点として抽象して位置づけしますが、全ての出来事を位置けるためには、時間の目盛りを荒くとらなければならないでしょう。年代毎の歴史年表のようなものです。一秒毎に表現したのでは、いくら用紙があっても足らなくなるでしょう。

    この場合、-x----ですから、右端の-が現代となるのですが、現在の瞬間(t)は、その幅のある現代の右端に来るでしょう。つまり、-x----(t) です。

    どんなスケールでも現在の瞬間(t)は表現できないのです。現在の瞬間(t)は3次元座標上には存在しないのであり、それをあたかもあるかのように座標上の現在として表現するのが、観察者の表現方法なのです。

    この観察者の現在は幅のある現在ですが、結局、現在であると認識(仮定・解釈)したのですから、仮想された現在でしかないのです。

    仮想された現在という概念を使えば、どこを基点(原点)としても、確かに、現在があるように表現できます。

    現在を原点とすることさえできます。

    それが、-x------0??????xであり、現在を通過して未来までも表現できます。?は事実ではない空白か予定を意味します。

    これは時間が過去から未来に負かって流れていると仮定しているのであり、当然、現在(原点)もその連続の中に含まれているということになります。

    これが時間に対する常識的な考え方であり、例えば、具体的には、生産スケジュールであり、日記のような表現形式で示されるものとなるでしょう。

    日記の場合は、未来の部分は白紙ですから出来事は起きていないのですが、日付は記されているのですから、時間は存在しているかのような錯覚をしてしまいます。

    ですから、2012年5月21日には金環日食と表示されているのです。

    しかし、観察した瞬間の現在は表記できないのに、時間が流れていると考えると、過去から未来のどこかに現在を表記しできるというのは、どう考えても矛盾です。しかも、現在(原点)はどんどん移動していくのです。

    何かおかしいと思いませんか。

    そのおかしさを生み出している原因は、人間自身にあります。

    人間は観察者として振舞うこともありますが、一方、事件(行為)の当事者でもあるからなのです。

    自分とは関係ない出来事でも、それを認識するときは当事者なのです。

    何かを観察する場合は観察者ですが、観察する瞬間は当事者なのですから、対象とどっぷりとつかっているのであり、対象と切り離しては考えられないのが当事者のスタンスです。

    ですから、当事者であり続ける内は、現在の瞬間しかないのですから、時系列グラフのように座標上に-x------0-----+xとは表現はできないのです。

    観察した出来事を座標上に表現(認識)することと座標上に表現はできない体験しつつある出来事、つまり、観察した瞬間の現在(t)は同時に扱えないであり、無理に考えようとすると混同してしまうのです。

    この混同を回避するには、当事者としての観察した瞬間の現在(t)を無視することしかありません。つまり、観察対象と観察する主体(当事者)を切り離してしまうのです。

    つまり、観察者は、当事者である身分を捨てて、観察対象とは別に存在すると看做すのです。

    これを、現象を客観化する、対象化するなどと言いますが、科学的方法は、これを前提としているのです。

    客観化するとは、観察者が認識の主体ですから、観察する座標からその主体をはずすことです。そうすれば、当事者の現在の瞬間の問題は生じてきません。

    このあたりは、「主体には現在しかなく、観察者には現在はない」
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100103437824で、既に考察したので参照してください。

    ただし、この考察では、何の断りもなくいきなり複素平面を持ち出して説明をしています。何故、複素平面なのかと言う説明がないままきています。

    今、私達がやっていることは、脳の中の能、つまり、観念的同時の認識の謎を解くことです。

    そのために、何故、遠くにある星と近くにある星が重なって見えるのかという金環日食の謎、何故、フラクタル空間では光をトラップするのか、何故、石庭は人間をトラップするのか、その謎をとこうとしているのです。


    そのためには、どうしても3次元空間(4次元時空)から飛び出さなければならないのですが、そこで問題になるのが時間と空間の認識です。

    3次元空間(4次元時空)脱出するためには、複素平面を持ち込めばよいのですが、その持ち込む理由を明確にしなければ、3次元を超えた現象、例えば、光のトラップや石庭の謎、共時的な現象、神秘的な現象など、観念的同時の認識に関わる様々な応用問題を解くことができないのです。

    ですから、何故、複素平面を持ち込む必要があるのかを明らかにするために、逆説的ですが、3次元空間における観察者と当事者の時間認識の矛盾を解明することが重要だと思っているのです。

    これは、当事者の心は-1であり、観測したことは+1ですから、疑いようのない接続(-1⇔+1)とも関わってくる問題であり、それらを同時に扱う必要があるのです。

    説明がくどくなっているとは思いますが、これはあくまでフラクタルな再入力(繰り返すこと)の臨床ですので、お付き合いください。

    フラクタルな再入力の効果は、それが予想も出来ない地平に出てしまうことがあるということです。

    一方で、無限に発散してしまい、ゲームオーバー(臨終)となるときもあるかもしれません。そうならないことを祈って探検を続けましょう。

    ここまでで明らかになったことは、当事者の現在(t)と観察者の観察した現象(出来事)の時間(認識)には、根本的な断絶があるということです。

    これは、-1(心象=非存在)と+1(現象=存在)の違いの原則に当てはめると、当事者の現在(t)は、心の中の時間ですから-1、観察者の観察した現象(出来事)の時間(認識)は+1となるでしょう。従って、根本的な断絶は当然ということになります。

    時間が流れ、観察したことをすべて平等に(連続的に)位置づけるためには当事者の現在は座標の中に含めることはできないのです。

    従って、座標に出てくる現在は、真正の現在ではないということです。この理由から「観察者には現在はない」と言いましたが、もっと正確に表現する必要があるでしょう。

    当事者が観察する瞬間は、確かに現在(t)ですが、観察者として、その見た出来事を観察した事実として、座標に表現する段階では、全て過去の出来事(+1)として認識されたものであり、心で感じている現在(t)=-1は、+1だけを表現する座標には存在しないのは自明のことでしょう。

    従って、「3次元座標には現在はない」ということです。つまり、「当事者には現在はあるが、観察者には現在はない」ということになるでしょう。

    このことを分かりやすく示すために、見た出来事を座標にプロットしてみましょう。プロットすることは、既に、過去の出来事の表現です。

    プロットしなくても過去の出来事の表現とすることはできます。例えば、鉄道会社の駅員は安全確認のために、「指で指す」ことをしますが、「指す」こと自体が対象を認識したことを意味しているのですから、過去を指し示しているのです。

    私達は観察者として駅員のその行為を見ますが、駅員自身は当事者ですから、その指し示しの瞬間の現在があります。ところが、その駅員は指し示しが正しかったのかどうかの検証をするでしょうから、自分の行為の観察者になります。すると、駅員には現在があり、現在はないという複雑な状況になります。

    このことを、当事者には現在があり、観察者には現在はないという言い方になるのです。

    駅員を見ている人も同じ状況になるでしょう。駅員の呼び指しを見た瞬間は当事者ですが、それを観察し始めると観察者になるからです。

    誰でもが当事者であり、観察者になるのです。時計を気にせずにいるときは当事者ですが、腕時計を見るときは、かならず、「今何時?」と思って見るのでしょう。そのときは、観察者になっているのです。その時刻は現在ではなく、認識された時刻ですから、過去なのです。

    マラソンのコーチはランナーの「走り」を見ているときは、当事者として見ているのですが、ストップウオッチで計るというときは、その走った時間を見ているのですから、観察者として過去を見ているのです。

    つまり、ストップウオッチで計るということ自体、時間が観察者の外にあるということなのです。

    出来事を見たと同時にストップウオッチを止めて時刻を見ることでも分かるように、時刻を確認したときは過去-x(時刻) になっていることから、観察者の外に時間があることが前提となっているのです。

    当事者の現在はいつも認識から擦り抜けるのです。つまり、観察する人には現在はあるが、観察した事実には現在はないのです。
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2011年06月14日 21時47分05秒

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    絵に描いた餅

    絵に描いた餅
    <観念的同時の認識の深化>

    「疑いようのない接続」の謎を解く続きです。

    絵に描いた餅(+1)は現実の餅(+1)ではありませんが、表現された絵は3次元空間に存在する仲間(+1)として認めましょう。

    そして、絵の餅と現実の餅とは大同小異として同一視するのです。

    しかし、私達の常識的では、「絵に描いた餅にすぎない」と言って、絵の餅と現実の餅とは大いに異なると言っていることも現実です。

    だからと言って、「絵に描いた餅」を-1としてはなりません。

    確かに、「絵に描いた餅」が現実の餅ではありませんが、「絵に描いた」餅(+1)であって、「心に描いた」餅(-1)ではないのです。

    「心」・・・・「心遣い」
    と同じく
    「心に描いた」餅(-1)・・・・「絵に描いた」餅(+1)
    なのです。

    表現されたもの、描かれた物、行動した事、言ったことはすべて+1、思ったことはー1なのです。

    「+1と-1の違い」がはっきりすれば、絵の餅と現実の餅とは大同小異として同一視できる理由も分かったと思いますので、これで心置きなく、複雑な相互作用(-1⇔+1)の回路のメカニズム、即ち、「疑いようのない接続」の謎解き入って行けるでしょう。

    「絵に描いた餅」は、現実を無視した観念的だからと言って、-1の位置付けしないことが肝要であり、あくまでも人を批判する言葉ですから、それは+1の世界に出てきた出来事です。

    現実主義者と理想主義者の対立であっても、それを+1と-1に配置してはならないのです。

    これが+1と-1を区分する原理です。

    この原理によって、私達は+1と-1の錯綜した世界、複雑な相互作用(-1⇔+1)という「疑いようのない接続」に支えられて生きていることが分かってくるでしょう。

    その様子を垣間見ておきましょう。

    現実主義者(+1)は、現実的に不可能なことを言って(+1)も、切迫している現状では方法(+1)がないのに、あれこれと考える(-1)だけで行動(+1)しないのは、時間の無駄(+1)であり、現実を何とか修正(+1)してでも、先に進むしか道(+1)はないと考えて(-1)いるから理想主義者(+1)を批判(+1)するのです。

    絵に描いた餅の場合も同様です。

    現実の存在する餅(+1)から描く人の心に餅のイメージ1(-1)が形成され、そのイメージを編集してデッサン(+1)して、抽象された餅のイメージ2(-1)が形成され、何度か繰り返された後に、絵に描いた餅(+1)が完成されるでしょう。

    ここには、-1と+1のループ(疑いようのない接続)があります。

    現実主義者は自分の信念(-1)は、餅のイメージ1(-1)であり、理想主義者の信念(-1)は、餅のイメージ2(-1)であり、あなたの信念と私の信念とは違うぞ!と言っているのです。

    ただ、信念というのは見えないのですから、理想主義者の言動(+1)と絵に描いた餅(+1)を同一視(同じ仲間として認識)して、あなたの言動(+1)は描いた餅(+1)だと言っているのです。

    これをもっと詳しく言うと、現実主義者の餅のイメージ1(-1)=信念と理想主義者の餅のイメージ2(1)=信念が異なることを類推して、現実の餅(+1)と描いた餅(+1)は、次元的には共に+1なので、同じ仲間なのですが、同じ仲間でも、現実の餅(+1)と描いた餅(+1)では、違うぞ!と言っているのです。

    確かに、

    現実主義者の信念(-1)・・・・・・現実的行動(+1)
    理想主義者の信念(-1)・・・・・・理想とされる言動(+1)
    ですから、私(現実主義者)の信念とあなた(理想主義者)の信念は異なると言えるのです。

    +1と+1の違い、-1と-1の違いも、重要であることには間違いないですが、それを、更に区別するためには、複素平面の四つの象限の意味をしっかりと確定しなければなりません。

    この後で、精神的身体の概念を導入して、更に、深みのある探求ができる思考の道具としての複素平面にしていきます。

    それより重要なことは、-1と+1の違いなのです。

    +1と+1の違いは{森、山、川、犬}であり、それらの間には物質=点であるということで同一視できるのです。

    -1と-1の違いは{森、山、川、犬のイメージ}であり、点のイメージに抽象されるので、同一視できるのです。

    しかし、-1と+1は、魂と身体は絶対に同一できないように、不連続であり、同一視できないのです、しかし、接続しているのです。

    -1と+1の違いは、-1と-1や+1と+1の違いとは本質的に異なるのです。
    続く。

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    2011年06月14日 21時38分56秒

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    「心」(-1)は見えないが「心遣い」(+1)は見える

    「心」(-1)は見えないが「心遣い」(+1)は見える
    <観念的同時の認識の深化>

    物(現象)とイメージ(心象)は普通では同時には扱えないと言ったのですが、どういうことでしょうか。

    イメージのリンゴとは心にあるリンゴであり、物としてリンゴは目の前にあるリンゴですが、これらを「足せ」と言われたら困ってしまうのではないでしょうか。

    例えば、三個のリンゴは3ですが、イメージのリンゴ+物としてリンゴ=?です。「足し」ようがありません。

    心の中にあるイメージと目に前にある物は、どうしても計算できないのです。

    つまり、同時に扱うことできないのです。計算できるためには、同じ仲間と認識できて初めて出来るのです。

    侵入者の情報を仲間に知らせる見張り役のマクロファージでも、非物質なイメージが入ってきたとしても認識できないでしょう。

    イメージと物は同じ仲間ではないのです。
    これを、同じ仲間と認識できるなら手品を使うしかありません。その手品とは、観念的同時の認識です。その手品をお見せするためには虚数を導入しなければならないのですが、それはもっと後のことになるでしょう。

    その前にやるべきことは、心と物、イメージと現象がどのようにして、=ではなく⇒で接続されるのか、その精神的な作用を明らかにする必要があります。

    新幹線の地図を描くときは、その前に心の中に新幹線のイメージ(-1)があるでしょう。

    ということは、私達の脳にはイメージと物を「=」で結ばない、つまり、同一視しないで、新幹線のイメージを地図に接続するなんらかの回路(イメージ⇒物)があるのです。

    分かりやすい喩えで示しましょう。

    誰かに道を教える場合、簡単であれば口頭(+1)で、ちょっと複雑であれば地図(+1)を描いて教えるでしょう。

    その場合、その周辺を実際に行った体験(+1)がなければ、つまり、イメージ(-1)を持っていなければ、地図(+1)を描くことはできないでしょう。

    心のイメージ(-1)と地図(+1)は密接不可分にありながら、現実(+1)と地図(+1)は同一と看做せるのに、イメージ(-1)と地図(+1)は、同じ次元のものとは言えないのです。何故なら、目の前に並べて比較ができないのです。

    しかし、はっきりしていることはイメージ(-1)⇒地図(+1)という疑いようのない接続があるということです。

    疑いようのない接続とは「何か」です。

    「絵に描いた餅」という喩えが「疑いようのない接続」(⇒)という難題を解く鍵になるかも知れません。

    「絵に描いた餅」とは、現実を無視して、観念的なことを言う人を批判する言葉ですが、ここには現実主義者と理想主義者の対立があります。

    企業や政治の現場ではいつも現れる現象ですね。

    「絵に描いた餅」(+1)は、現実の餅(+1)から現実の餅のイメージ(-1)が生まれ、そのイメージ(-1)から抽象されたイメージ(-1)が形成されて、絵に描かれた餅(+1)が創作されるでしょう。

    つまり、+1と-1は下のように二段構えになっているということです。

    現実の餅のイメージ(-1)・・・・・・現実の餅(+1)
    抽象された餅のイメージ(-1)・・・・・・・絵に描いた餅(+1)

    私達は観測者としては、-1は見えないので、現実の餅(+1)から絵に描いた餅(+1)が生まれたと認識をします。

    しかし、絵を描いている本人は、無意識かもしれませんが、二段構えで自覚しているでしょう。

    これは現実主義者と理想主義者の対立に当てはめると

    現実主義者:
    現実の体験記憶(-1)・・・・・・現実の体験(+1)
    現実主義者の信念(-1)・・・・・・現実的行動(+1)

    理想主義者:
    現実の体験記憶(-1)・・・・・・現実の体験(+1)
    理想主義者の信念(-1)・・・・・・理想とされる言動(+1)
    と表現できるでしょう。

    現実主義者と理想主義者の違いは、同じ体験をしたとしても、二段目では、現実の体験記憶を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかです。

    ここには、現実の体験⇒現実の体験記憶⇒現実の否定⇒理想の信念の生成⇒理想とされる言動といった複雑な相互作用(-1⇔+1)があるのです。

    この回路のメカニズムを解明することが「疑いようのない接続」の謎を解くことになるでしょう。

    そのためにも、同一視(+1と+1、-1とー1)するものと同一視しないもの(+1と-1)との区別をしっかりと理解する必要があるのです。

    絵に描いた餅(+1)は現実の餅(+1)ではありませんが、表現された絵ですから+1に配置されます。

    +1に配置するとは、それが3次元空間に存在する仲間として認めるということであり、絵の餅と現実の餅とは大同小異として同一視するのです。

    しかし、私達の常識的では、その反対であり、「絵に描いた餅にすぎない」と言って、絵の餅と現実の餅とは大いに異なることを強調しているのです。

    このことを認めると、-1には非存在な心象、イメージを配置する原則からすると、「絵に描いた餅」は現実ではありませんから-1としたくなります。

    しかし、しっかりと原則を解釈してください。

    非存在な心象とは心の中で思うことです。「心」(-1)は見えないが「心遣い」(+1)は見えるというテレビのCMを思い出してください。

    確かに、「絵に描いた餅」が現実の餅ではありませんが、「絵に描いた」餅(+1)であって、「心に描いた」餅(-1)ではないのです。

    「心」・・・・「心遣い」
    と同じく
    「心に描いた」餅(-1)・・・・「絵に描いた」餅(+1)
    なのです。

    表現されたもの、描かれた物、行動した事、言ったことはすべて、+1、思ったことはー1なのです。

    これで、+1とー1の違いがはっきりとしたのではないでしょうか。

    「+1と-1の違い」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100103506585
    の補足説明をしました。
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2011年06月13日 20時41分04秒

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    沈黙の春

    沈黙の春
    <観念的同時の認識の深化>

    この探求では、何故、複素平面という超ド級の手品=抽象化をするのかということを探求しています。

    この探求が森羅万象の共通する宇宙の真理だということに辿りつけば、登山家の登頂のときのような感激が得られるでしょう。

    その手品を見破るには、同一視できることと、同一視できないことの間には根源的な違いがあるということを理解して置かなければなりません。

    では、どのような違いがあるでしょうか。

    先ず、複素平面を忘れて、水平軸だけを考えましょう。この水平軸は+1を物質、-1を非物質として対置していますが、まだ、複素平面の水平軸だと思う必要はありません。

    単なる鏡の関係と思ってよいでしょう。
    鏡は真ん中にあり、実像(+1)と虚像(-1)という関係になります。

    -1・・・鏡・・・+1
    虚像       実像


    実像の+1を私達の棲む3次元の物質世界を代表させています。

    ですから、これを心象と身体とすれば、

    -1・・・鏡・・・+1
    心象       身体

    となりますし、身体を現象一般と解釈もできます。

    問題は鏡ですが、これは最も重要な働きを持っているのですが、人間に関して言うなら認識する主体として良いでしょう。

    そういうことで、+1に配置されるものは、身体や物、それに言語的に表現されるものを含めました。

    そこで+1の配置される物は全て同じと看做したのですが、それは点として抽象されるから同じだとしたのです。

    しかし、-1(思い)と+1(思いやり)は同じでないと言いました。

    どうして+1の配置される物は全て同と看做すのに、-1と+1は同じと看做さないのでしょうか。その違いはどこにあるのでしょうか。

    実像と虚像の違いだからでしょうか。

    犬は鏡に映った自分を他の犬と間違えて吼えますが、人間はそのようなことはありません。人間は-1と+1は同じと看做さない能力を持っているということです。

    その認識の違いはどのような精神作用によってそうさせるのでしょうか。

    これ答えるには、人間の脳内構造を理解しなければならないのですが、脳科学を持ってきてもまだ十分な説明ができていないのが現状ではないでしょうか。

    四次元能は無謀にもこのようなことに挑戦しているのです。

    簡単ではないと思いますが、-1と+1は同じとは看做さない、その違いはどこにあるのかということから探求をはじめましょう。

    「沈黙の春」というレイチェル・カーソンの著書があります。これを題材に、その違いを探求しましょう。

    「沈黙の春」は、鳥達が鳴かなくなったのは、地球が汚染されているからだというカーソンの切実な心情があって、それが作品となって現れたのですから、心情を-1に、沈黙の春という作品を+1に配置できるでしょう。

    -1・・・・・・・・・・・・・・・・・・+1
    汚染のイメージ1     汚染の現実
    汚染のイメージ2  「沈黙の春」という作品

    汚染の現実があって、それを認識したカーソンは汚染のイメージ1(汚染されている事実関係など)を想起したでしょう。

    次に、カーソンはそのイメージ1を抽象して、イメージ2(汚染を訴えるシナリオ)を想起したでしょう。

    そして、それを「沈黙の春」として著作したのです。

    ここで、イメージ1とイメージ2は同じ対象の汚染に対する非存在のイメージですから同一視できるでしょう。

    又、認識された汚染の現実と著作された「沈黙の春」という作品は、同じ対象の汚染に対して存在するものですから、同一と看做すことができるでしょう。

    同一と看做すことができるという条件は、現実と作品の間に対応する関係があるということです。

    汚染のイメージ1(事実関係)と汚染の現実は、心の中のことと心の外にある現象ですから関係があるのですが、心と現実という質と量の違いがあるので、命に値段がつけられないという意味で、対応づけすることができないのです。だから、同一視はできないということになるのです。

    汚染のイメージ2(シナリオ)と「沈黙の春」という作品も又、心の中のことと心の外にある現象ですから、同一視はできないといいたいのです。

    同一視できる場合は、+1と+1の比較、-1とー1の比較であり、できない場合は、+1とー1の比較にあるとしたいのです。

    このような考え方は、一般化できるのでしょうか。
    同一視できる場合:
    +1と+1の比較
    -1とー1の比較
    同一視できない場合
     +1とー1の比較

    これを、更に別の例で確認しておきましょう。

    話しているときに相手が反応しないで無言でいることがあります。これを取り上げて見ます。

    無言でいる理由はいろいろあるでしょうが、抵抗していると解釈ができます。

    つまり、私はあなたを否定しているという心の表現であり、身体的表現なのですから、+1に位置づけられるのです。

    -1・・・・・・・・・・・・・+1
    私の理解   あなたの話したこと
    否定する心     無言の態度

    これは人間関係の基本であり、あなたの話したことを私が認識して、理解したことから会話が始まります。私がその内容に違和感を覚えたのであれば、「それは違う」と心の中でつぶやくでしょう。

    そして、あなたを否定すると決心します。

    ただ、それをストレートに言うのはまずいと思い、相手に考えさせようと思い、無言を通すことにします。それが無言の態度として、あなたに観察されるでしょう。

    あなたの話したことが廻り廻って無言の態度として現れたのですから、同じ次元(+1)のこととして、同じと看做せます。

    私の理解したのは、あなたの話したことであり、それから、あなたを否定する心が芽生えたのですから、私の理解と否定する心は同じ次元(-1)のことですから、同じと看做せます。

    同じ次元だから、同じと看做すというのは、どのような意味があるのでしょうか。

    それは同時に取り扱えるという意味です。

    +1であれば、3次元の物として、1、2、3と数えたり、点として座標に示すことができるからです。

    -1であれば、心にある3次元の物のイメージとして心の中で内語を使って、1、2、3と数えたり、イメージの点としてイメージの座標で心の中で想像するでしょう。

    しかし、物の1とイメージの1は同時には扱えないのです。

    物と物とでも同時には扱えないことがあるのです。例えば、計算することを考えて見ましょう。ミカン1とリンゴ3を計算することはできるでしょうか。ちょっと無理ですよね。

    物を点とし抽象化すれば、1+3=4ですがら、とりあえずは計算できたことになりますが、どうもしっくりしませんね。
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2011年06月13日 20時18分29秒

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    何故、山に登るのか

    何故、山に登るのか
    <観念的同時の認識の深化>

    認識された物は解釈された物であり、記号で表現された物と同じ次元(+1)の物であり、それぞれに多少の違いはあるにしても、大同小異であるということで、全て物は+1として配置することにしました。

    抽象される前の生の現実として認識される物(人)とある物(人)の関係を比較して見ましょう。

    物にはそれぞれに違いがあり、人もそれぞれ個性がありますから、同じとは言えないように思えます。

    しかし、これらも同じです。その根拠を示したいと思います。

    一番安易な方法は、物の属性を無視して「点」として抽象することです。

    例えば、大きな地球も太陽も月も点として抽象してしまえば同じと言えるでしょう。

    地球 月       太陽
    つまり、
    ・―・―――――――・

    物事の本質を浮かび上がらせるにはこうした抽象化という手品は実に有効なのです。

    地球や月や太陽の代わりに新幹線の各駅間の距離を無視して並べて見ましょう。

    駅にはそれらなりの特徴がありますが、それを無視してしまうと点になります。

    点は点でしかないのですから、同じとなるのは当然でしょう。人も個性やその他の属性をとったら、皆、同じ点になってしまうでしょう。

    今、問題にしているのは、+1に配置された「ある物」と「その抽象された物」物だけでなく、全てのものは同一視できるかどうかということです。

    物を点に抽象するから、同じと言えるのですが、何故、このような回りくどい探求が必要なのでしょうか。

    それは、保留してきた石庭の罠を解くために必要なのです。

    頭の体操をしていると思ってください。

    ところで、+1に配置されるは同じと看做すのに、-1と+1に配置されるものはどうして同じと看做してはいけないのでしょうか。

    類は類を呼ぶではないですが、物という世界はすべてが点として抽象できるという意味では同じだと理解してください。

    物は数量化できるので、量として測定できるということです。量として測定できるということで同じなのです。

    しかし、量と質となると事態はまるで違ってきます。量と質とは異なる次元に属するものだからです。

    例えば、「思い」は見えないが「思いやり」は見えると言いますが、これは遠いから見えないとか、隠れているから見えないとかいうレベルのことを言っているのではありません。質と量の違いを言っているのです。

    「思いやり」は、態度で示したものですから、観察にかかり、測定が可能です。例えば、それは、お金かも知れません。

    しかし、「思い」はそうはいきません。「思い」=お金という式は成り立たない事は私達が一番良く知っていることです。

    つまり、私達は量と質を同時に扱う術を知らないのです。心で思うことと身体的行動を同じ次元で扱うことができないのです。

    このことを端的に示すのは刑事事件です。

    刑事事件では、動機は立件するために重要な要素です。

    しかし、動機があるだけでは、立件できないこともまた自明です。人を恨んだだけで犯人にされたらたまったものではないでしょう。

    恨みが犯罪行為となるには、恨み⇒犯罪という実行方程式を実践しなければならならないであり、刑事はこの方程式を解かなければならないのです。

    恨み⇒犯罪(物証+アリバイ)であって、決して、恨み=犯罪ではないからです。

    この発想はPS理論からの借用ですが、真に、量と質を同時に扱うためには、複素平面を使ったプラトニック・シナジー理論でなければ、心で思ったことと身体的行動を同じ次元で扱うことができないでしょう。

    四次元能は、そのPS理論から導き出される「観念的同時の認識」を独自に探求しているのですが、複素平面が「観念的同時の認識」という人間の精神活動を説明するのに、何故、必要なのかという理由を求めているのです。

    ですから「複素平面ありき」では始めらいないのです。「何故、複素平面なのか」という問いに答えなければならないのです。

    しかし、四次元能としては、心と身体を同時に考えることについて、未だ、何も、理解できていないのが現実です。

    複素平面は、その答えを出す思考の道具、いや道具というよりそれ自身が思考そのものだと思っているのですが、それを初めに与件として持ち出すのでは、説明は簡単に済むのですが、それでは「何故、複素平面なのか」という問いには答えられないままです。

    複素平面を先に持ち出して説明するのは「神(複素平面)は全能(観念的同時の認識)である。その理由は、全能の根源は神だからである」というようなものです。

    それでは、どうも消化不良の感がするのです。

    PS理論では、複素平面が全能の根源であることを、哲学という領域で説明しているのですが、四次元能も、それを参考にして、独自に探求して行きたいと思っているのです。

    そこで、「何故、複素平面なのか」という問いを続けたいのです。

    もっとも、これまでも複素平面を持ち出して様々な現象の説明をしてきたのですから、今更、「何故、複素平面なのか」という問いを立てるのかと言われそうですが、それには目を瞑ってください。

    より深化するためには、そういう方法(受売り)も必要だったのです。

    危険な冒険でもシミュレーションすることで、その困難を克服できるといいます。山登りでも、擬似的な山で練習はするでしょう。その後で、シミュレーションの意味を把握することもできるでしょう。

    しかし、シミュレーションしたからと言って実際の体験をしたとは言えないように、実際の体験は自ら行うしかないのです。

    何故、既に答えが分かっているのにそんな遠回りをするのかという質問が出てきそうですが、それは、「何故、山に登るのか」と問われて「 そこに山があるから 」と答えることにしましょう。

    シムハンターの皆さんなら、このような飛躍的説明でも共感してくれと思うのですが、如何でしょうか。

    冒険者なら冒険の喜びを知っていると思うのです。

    危険だから、身体的に苦しいからと言う理由で冒険をしない人は、そもそもシムハンターの資格がないわけで、四次元能の臨床というスタンスとは相容れないものです。

    しかし、注意しなければならないのは、偽冒険者がいるということです。

    彼らは、危険だから、身体的に苦しいからという理由で冒険をしないことは、イメージ悪いことだと自覚していて、そんな醜い自我を偽装することがあるのです。詳しくはチュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100098199050
    「偽装自我」と「真正な無我」
    http://d.hatena.ne.jp/antares/20101021を参照してください。

    最近、目に付くのは原子力推進派という人達です。彼らは冒険することは原子力を推進することだと考えたのです。

    「原子力を推進すること」を「 そこに山があるから登るのだ 」ということと同じであるとしてしまったのでは、ジョージ・マロリー(エベレスト登山家)
    からクレームが来るでしょう。

    実際、マロリーは死地に向かったのであり、そこには安全に対しての用意周到な準備があり、万が一に死んだとしても、自己責任という覚悟であり、他人には迷惑をかけないという気構えがあったでしょう。

    しかし、原子力推進派はどうでしょうか。彼らには、死地に向かうような安全に対して用意周到な準備があったのでしょうか。

    今、分かったことは安全基準の考え方に押しても、余りにも甘かったということです。「原子力安全委員会=原発推進派学者たちの"誤解を招く"懺悔」http://d.hatena.ne.jp/ShiroiAkaiAoi/20110416/1302969822
    を参照してください。

    政府が主導して学者がそれを後押しして、村全体がその経済メリットで潤ったところまでは良かったのですが、結果として災害に見舞われ、見えない放射能という苦しみを作ってしまったのです。

    自分達が苦しみを味わったのなら、自業自得ですが、それを主導した政治家は舞台から降りていて責任を追及されることもなく、学者は懺悔するという事態になっています。

    原子力が危ないものだという認識がありながら、すべての可能性を考慮したものではなく、安全だと思っていた基準が不十分だった」と想定の甘さがあったことは認めているのですから、懺悔するなどというのは自我の偽装でしかないのです。

    彼らには冒険家の心がないのです。

    又、又、脇道に逸れてしまいましたので、軌道を修正しましょう。
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2011年06月06日 09時55分38秒

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    観測者の現在と当事者の現在

    観測者の現在と当事者の現在
    <観念的同時の認識の深化>

    全ての出来事を収納することができない無限に発散する指数関数を座標内に収納する手品(テクニック=指数関数の対数グラフ化)を使って直線化したのですが、果して、それが大同小異と言えるのでしょうか。

    単に、指数的に増加するグラフを対数グラフに変えただけなのですから、その意味する内容は「同じ」と言えるでしょう。又、言えないと「まずい」のです。


    直感的に「まずい」と思っているのは、特異点に対する扱いです。特異点とは不連続な点であり、3次元の物を点として扱って並べたグラフが無限の0に近づくとしても、0にはどうしてもならないという矛盾があります。

    大概は、多少の違いなら無視して近似するとことで難を逃れられるのですが、禁じ手を使ってしまうのでしょうか。

    ホーキンスは万年筆をボールペンにしたのですが、初めに虚時間があって実時間が生まれたら虚時間はなくなってしまうという、すっきりしない説明になっているのです。

    何か騙されているような気がしているのです。手品だから仕方がないと言われればそれまでですが。

    指数的に増加するグラフを対数グラフ
    にするには数学的には何も問題はないのですが、これを現実の問題(ただし、解釈された現実)に応用するとなると、その意味を考えていかなければなりません。

    問題は時間についての解釈です。

    四次元能では、既に、主体には現在しかなく客体には現在はないと言ってきました。その現在が「ある」とか「ない」ということの意味を考えておきましょう。

    現在が「ある」とした場合、主体がなければならないのですから、実時間ではないということです。何故なら実時間とは+1に現れるからです。

    普通の考え方では、3次元空間(4次元時空)上の現象(量子力学を除く)を考えるとき、観測者(観察者)は現象には関与しないのですから、座標の外におり、座標全体を見渡す位置にいるでしょう。

    従って、時間は座標上のいつでも、どこでも、同じように流れていると考えてよいでしょう。
    -x-------0---------+x

    この座標の表現と複素平面の表現
    -1-------0--------+1
    を同じと考えてはいけません。

    3次元時空では、ここでは便宜的に1次元(線)で考えます。1次元の線は連続しており、どこでも原点とすることができます。

    観測(察)者は、軸上にはいないのですから、座標の外に居て、客観的に見ているのです。ですから原点は適当に取れるのです。

    ところが、行為の主体者、認識の主体者となると、自分がその当事者なのですから、観測・観察するという立場には立てません。今、ここで起きている出来事は自分の身に起きていることであり、人事ではないのです。

    ですから、自分が体験しているのであり、現在進行形の出来事なのです。

    普通に観測した出来事は、原点を観察した現在として
    -x(過去)-------0
    として表現しますが、これには、あたかも時間が過去から未来に流れているとする前提があります。

    ですから、現在から未来を予測するとことができるのですが、その場合は、0---------+x(未来)と表現します。

    生産スケジュール表で考えてみましょう。日記でも良いのです。

    当然、管理者は観察者の立場のおり、原点が今日(現在)であり、-xは実績、+xは計画となるでしょう。明日になれば、現在、つまり、原点が移動します。

    このような認識は私達の常識であり、なんら日常生活に困らないし、むしろ、時計があるおかげで、その便利さを享受しているのです。

    しかし、もう一つの現実があることを忘れてはなりません。それは時間を意識しないで生きている生活です。寝ているときは時間を意識していませんし、何かに熱中しているときも時間は飛んでいます。私達は観察者、観測者として生きていると同時に当事者、当為者していきているのです。科学者だからといって、いつも物事を対象として観測しているばかりではなく、その観察した対象を分析し、モデル化して、つまり、沈思黙に没頭するでしょうし、また、それを論文にして発表するでしょう。

    何よりも、一人の生活者として生きているでしょう。

    この逆に、時間を意識しないこと専門とする芸術家や宗教者もまた、人や物事を観察するでしょうし、時間を意識した生活をしているでしょう。

    要するに、どんな人でも客観的な時間と主観的な時間な感覚で生きているのであり、二つの両面をもっているのです。

    しかし、二つの両面は不連続であり、同時に扱うことができないために、科学では、観測した事実を3次元平面に表現するのです。

    これらの相容れない二つの両面を同時に扱う空間が必要なのです。

    そのためには、複素平面が必要なのですが、いきなり複素平面を持ち出しても、何故それを持ち出すのかが分からなければ応用問題は解けません。

    そこで、少しくどくなりますが、物が見えるということと想起することの関係から現在の本質を探って見ましょう。
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2011年06月06日 09時48分11秒

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    無限をゼロと看做す手品

    無限をゼロと看做す手品
    <観念的同時の認識の深化>

    太陽と地球と月ならまだ良いのですが、これにはるか彼方のクエーサーを入れるとなると、クエーサーの方が桁違いに離れているので座標からはみ出してしまいますね。

    この場合は途中を省略したりします。手品もいろいろです。

    もっとすごい手品があります。それは途中を省略せずに、すべてをちゃんと座標の中に点として収納してしまうのです。

    それが指数的に増大する現象を表現する場合です。

    物体がブラックホールに入ると重力が指数的に増大して無限大なる点を特異点と言いますが、この変化の様子を始めから特異点までをすべてをちゃんと座標の中に収納してしまうことはできません。

    いくら点と言っても特異点を点の仲間にしてしまのはどうなのでしょうか。

    本来、特異点というのは、不連続であり、だからこそ、ビッグバン説では物理の法則が通用しなくなるので、アンタッチャブルな点なのです。

    「複素平面をブラックホールに見立てる」
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100103415377
    以下、引用しました。
    ビッグバン説の困った問題とは、始まりの点として持ち込んだ特異点があらゆる物理の理論を破綻させるという、とんだ災いをもたらしてくれたのですが、この特異点を解消するために無境界説(ホーキンス)を持ち出してきたのです。
    ―――
    指数的に増大する現象を日常問題に応用する場合に困るのは、特異点であるわけですが、ホーキンスは万年筆(とがった先が特異点)をボールペンに持ち替えて、特異点を解消したのですが、それとは異なる方法(手品)でやった人がいます。

    それは計算機科学者のレイ・カーツワイルです。

    簡単に言いますと、人間の知能の進化は、どんどん加速しており、その変化速度は無限大、つまり、変化が瞬間に起きるというのです。ということは、時間が限りなくゼロ〈特異点〉になるということです。

    猿が木に登って木上の生活者となり、やがて、木から降りてきて人間となって、地上の生活者となって、そして、火を使い、鉄を使って、言葉を発明して、文明を興隆させたきました。

    その歩みは、初めはゆっくりでしたが、やがて、産業革命を起きてからは、突然、その変化のスピードを加速して、車社会を出現させ、コンピュータを発明して、インターネット社会を創出して、更には、最近では人工知能を発達させて、人間精神まで実現しそうな勢いです。

    ということで、時間が加速してどんどん短縮していくと、最後はどうなるのでしょうか。それが特異点(0)だというなら、無限の遠点ということになります。

    無限に0に近づくなら、その過程を全て点として並べることは間を省略しない限りできないのでしょう。

    ところが、カーツワイルは無限に発散する指数的曲線を直線化する手品を使ってグラフ化してしまったのです。

    それが下の図であり、特異点へ向ってカウントダウンするようになっています。

    「特異点はいつも近い」
    http://memo7.sblo.jp/article/34660929.htmlから引用しました。


    ―――
    この図では、世界の出来事が左(過去)から右(現在に近い過去)に行くに従って、加速度的に時間が縮まっていることを示しています。

    人類の歴史がレーザービームのように
    実に見事にきれいな直線を描いて突進していることが分かります。

    これを指数関数のグラフで表現すると、ロケットのようにまっすぐ直線的に上昇して増加するような図となるのですが、それを図のように、両対数目盛のグラフにするとその上昇はまったく直線になります。

    つまり、指数関数的な上昇はグラフの軸に含まれているので、時間の短縮は真っ直ぐに特異点(0)に向って突き進むことになるのです。

    最も現在に近い点の出来事がパソコンとなっており、ここまでが、現象(主要な出来事)としてカーツワイルが観察したということでしょう。

    そこから更に右に赤い線で示しているのは、直線を延長するとこうなるという意味であり、最後の点が1ヶ月前となっています。

    現在の地点は示されていませんが、そこがカーツワイルのいる時点であり、認識の主体の位置ですから、特異点=MPということになります。

    ですから、ほぼ、1ヶ月後の点が特異点だと言っても良いでしょう。

    この図は、何を意味しているのでしょうか。

    今、ここでやっていることは、「違うものを同じ」だと言うために「大同小異」の手品をお見せしようとしているのです。

    その一つが、全ての物事や出来事(現象)を点(同じもの)として扱い、それを並べたもの(指数関数と対数のグラフ)は、現象を抽象したものであり、それらが同じ物(意味)であることを示したいのです。

    その例として取り上げたのが指数的グラフ(無限)を直線化して、座標内に収容するという数学的手品(手法)なのです。

    指数関数は無限に発散するので、全てを収納することができないのです。しかし、私達は宇宙の果て(無限)がどうなっているかを見てみたいという欲望があります。

    そのためには、座標からはみ出してしまう無限を含むスケールの指数的増加の現象を座標内に収納するための手品(テクニック)を使おうというわけです。

    その場合、指数関数の現象と対数グラフ化したものが、大同小異、つまり、同じなのかを証明しなければなりません。

    単に、座標からはみ出す、つまり、指数的に増加するグラフを、目盛りを両対数に変えただけなのですから、本質は何も変わっていないはずなのです。

    殊更、証明をする必要はないと思うのですが、物と物を点と看做して、それらを同じ看做して、更に、それら並べたものを、抽象した物2を同じと看做すためには、具体的な応用をして検証しなければならないのです。

    それでも意味が同じなら、物質世界はすべて大同小異と言えるでしょう。

    もし、解釈された現実(物1)と表現された物2が同じでないとなると、+1に位置するものは、物質の次元〈3次元〉であるとする前提が崩れてしまうので、まずいことになるのです。

    果して、どうなのでしょうか。
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2011年06月06日 09時44分13秒

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    違うものを同じと見せる手品

    違うものを同じと見せる手品
    <観念的同時の認識>

    絶対的に虹は七色として存在すると思っていたのですが、そうではないことが判明しました。

    私達の小さな世界ではそれが皆の認識する現実なので、絶対的な真実だと思っていたに過ぎなかったのです。

    こうしたことは他にもあるでしょう。

    絶対だと思っていた物理の法則も、地球では真理だと思っていても広い宇宙では通用しないこともあるでしょう。

    認識された物が絶対「ある」と確信し、それが現実に違いないと思っていたのに、実はそれは錯覚だと言われても困ってしまいますね。

    わき道に逸れないようにして、先を急ぎましょう。

    認識された物でさえ、解釈された物であり、記号で表現された物と同じ次元(+1)の物であり、それぞれに多少の違いはあるにしても、大同小異であるということで、全て物は+1として配置することにします。

    ある物とその物の表現された物との関係を調べてきたのですが、次は、ある物(人)とある物(人)の比較をして見ましょう。

    物にはそれぞれに違いがあり、人もそれぞれ個性がありますから、同じとは言えません。

    しかし、これらも同じと言ってしまうことになるでしょう。

    違うものを同じと言うためには、手品を使うしかありません。それには数学的な手品を使うことにしましょう。

    物理では良くやる手ですが、物の属性を無視して「点」として抽象することがあるのです。例えば、大きな地球も太陽も月も点として示してみましょう。

    これを座標に距離を縮約して位置すると、小さな空間に収納できますね。しかし、どのくらいの感覚では離れているかは掴めますよね。

    地球月       太陽
    ・―・―――――――・

    地球や太陽や月にはそれぞれの大きさや構成する物質、生い立ちに違いがありますが、それらを一切無視して点として表現するのは、それなりのメリットがあるからなのです。

    物事の本質を浮かび上がらせるためにはこうした手品が有効なのです。

    複素平面は、森羅万象の本質を露出させる優れた手品の道具と言えるのではないでしょうか。

    おっと、又横道に逸れました。
    続く。

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