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シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

公開 メンバー数:58人

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2013年02月15日 19時57分40秒

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    認識の長さとは差異の程度

    認識の長さとは差異の程度
    <即非螺旋認識ゴマの臨床(2)>

    未来の認識を導くための予備訓練
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200155023

    の続きです。

    想起は記憶をスカラー(長さ)とするベクトルであると言いましたが記憶が長さであるという言い方には違和感があるでしょう。この違和感はどこからくるのでしょうか? 記憶というのは印象でもあるのですから、そこには情報があるでしょう。つまり、記憶は情報なのですね。情報は間違いなくスカラーですから、それに方向を与えればベクトルになります。ここは微妙なところです。想起するから記憶が甦るのではなく対象への指示しがあるから記憶が想起するのですね。この辺のからくりはコンピュータの仕組をイメージすると容易に類推できるでしょう。記憶されているものを呼び出すには指名しなければならないのですね。俗な例えでいうとクラブで好きなホステスがいたとしてそのホステスを指名しなければ自席に呼べませんよね。

    情報を長さと考えれば膨大な情報が含まれている記憶は長さが大きいと言えるでしょう。初対面で印象が深ければそれだけ長いというわけです。認認コマの長さは円盤の大きさになりますし、円錐の大きさになります。コマをダムに例えれば、ダムに蓄えられた水が情報(記憶)ということになります。しかし、読みが深いとか浅知恵とかいうように円盤が広くても底の浅い認識もあるわけです。扁平なコマから線の様に細長いコマまで認識の形は様々ですが、その多様性はスカラー(長さ)という量によって決まるのですね。

    それでも認識に長さがあるという考えには馴染みにくいものです。それは長さの概念が常識的な距離を連想してしまうからです。記憶が五キロと言われてもピンとこないですよね。認識のような心の作用をスカラーやベクトルという言葉で語るためには、まだ私達は準備が足りないのです。そのために必要な準備としてまずやらなければならないことは物理的な距離の概念を捨てることから始めましょう。

    二人の間には距離があるなどと言いますが、これなどは物理的な距離概念を利用した表現になっていますが違和感はありませんね。それは物理的な距離のイメージを払拭して心理的な差異のメタファーを距離として表現しているからですね。

    こうした使い方を普遍化すれば差異の程度をスカラーとして利用できることになります。もちろんそうした心理的差異は身長差などと同じように物理的な(メートル)で表現することはできないのですが、それに変わる何か別の物差しを持ってくれば可能でしょう。長さは差異の程度であるとすればベクトルの応用範囲は一段と広がるでしょう。当然ですが心の狭い人とか度量のある人などという表現もベクトルとスカラーで表現できるでしょう。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2013年02月10日 20時03分58秒

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    未来の認識を導くための予備訓練


    未来の認識を導くための予備訓練
    <即非螺旋認識ゴマの臨床(1)>

    認識の素は未来にある
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200152153

    の続きです。

    未来の認識A'を過去のAから導くベクトルの計算をしてみましょう。ここでの臨床はいずれ挑戦するレンマ関数、さらにイオタを組み込んだ四元数を使ったシンボル分析に向かうための予備的な練習として行うものです。また、ベクトルの作用を心(モナド)の作用に応用できるかどうかの検証でもあり、更に、数学的ツールとしてのベクトルに慣れる意味合いもあります。

    先ず、認識Aは想起されたベクトルです。想起とは過去の体験を現在に於いて思い起こすという述語(心の作用)であり、ベクトルはその意味でモナドの自立的な動きなのです。ベクトルがイデアであるとするとモナドはイデアのエージェントであるとも言えるでしょう。想起は過去を起点に現在に向かう方向があり記憶というスカラー(長さ)を持っていますから立派なベクトルと言えるでしょう。言語とベクトルの関係は別途探求しますが述語動詞はベクトルだと言っておきます。

    動詞はすべてを巻き込むのです。動詞だけがぽつんとあることはあり得ないのです。動詞は言語体系の中で考えるべきでしょう。つまり、動詞はベクトルですが、そこから敷衍して言語はベクトルだと言えるでしょう。言い換えると、物事はすべて言語化されるのです。すべての物事はベクトル(スカラーも含めて)で表現できるのです。四元数はベクトルとスカラーの混合体なのでその相性がさらに良いと言えるでしょう。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2013年02月08日 09時57分44秒

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    未来は過去である

    未来は過去である
    <即非螺旋認識ゴマのメカニズム(3)>

    認識ゴマは即非ゴマ、そして螺旋ゴマへと変身する
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200152140

    の続きです。



    認識ゴマに色々な意味を付与しましたので纏めておきましょう。認識ゴマは回転であり、波動であり、振動であり、螺旋であり、時間であり、即非であるということです。いろいろな顔を持っているのですね。どんな文脈でどんな顔を出すのでしょうか?

    物理ゴマは回転だけして螺旋しないですが、それは外観者の目から見た表現なのですね。内観者には螺旋と見えるのですね。外観者には内部の時間は見えないのですね。ですから時間の軸は別途に用意して時系列で見るのですね。これが鏡の世界に反転する前の現実の世界の見方です。つまり、波動という見方です。しかし、それは内観者が見る波動とは違う回転の姿です。内観者の波動は想像であり、観念的同時であり、相対的波動です。外観者の波動は時間と空間を分離した絶対的時間による波動なのです。

    認識ゴマは鏡の世界のメタファー(モデル)ですので時間は相対的です。相対的というのは人によって時間の進みが違うということです。私達の体験でも全然時間が進まないという感覚に陥ることがありますよね。何かに没頭しているときがそうです。振り返って見たり、我に返って見たりすると「えっ!もうこんな時間」というように気が付くことがありますが、それが外観者になった時の認識なのですね。

    外観者の認識とは違う内観者の三人称の認識があると言いました。それはどうちがうのでしょうか?

    内観者の三人称の認識というのは独特の認識です。何故なら、客観的というのは第三者、つまり、外観者の認識のことです。常識的には内観者とは一人称であり主観者です。しかし、内観者には一人称と同時に三人称の認識が存在するのです。所謂、唯識でいうところの自証分です。唯識では主体を相分・見分・自証分と分けますが、相分と見分は認知と認識を分けただけであって一人称と看做してよいでしょう。自証分というのは自らを証する分ですので三人称ですね。自分の中の他者です。これが第三者の他者=外観者とは区別するべきなのですね。外観者の内部化とでも言えばよいでしょう。人は誰でも他者を取り込んでいるのですね。ブログで「引用する」ということはその方法なのです。もっとも、単なる引用と瞑想によって深めた引用では質が違うでしょうが、そのことについては別途の探求としましょう。

    いずれにしても、ミクロの探検を成功させるためには他者の内部化についても認識ゴマで説明ができなければならないでしょうね。簡単に説明すると、サッカーのウエーブをどう認識するのかです。ただし、テレビを見ているあなたではなくサッカー場にいるあなたが主体です。あなたは試合も見ていますが応援もしています。どうして試合に熱中しているあなたがウエーブに参加できるのでしょうか?

    ウエーブに参加するためには全体と一体化しなければなりません。そのためには自分だけがかってに振動するというわけにはいきません。サッカー場を円盤とすると中心に主体がいるのです。それはサッカー場にいる人です。しかし、あなたの円盤はあなただけの円盤です。ではどうすればよいのでしょうか?

    他者を取り込むしかありありません。ブログなら引用ですが、サッカー場では他者に成り済ますしかありません。つまり、他者に「なる」のです。ここでモナドックスロジーが作用します。モナドはすべてを映す窓のない鏡です。モナドの法則を使って他者を内部に連れて来るのですね。それがキアスム的交差反転の術です。

    これが「すべての主体を自分に観念的に置き換える成り済ましの術」です。ウエーブに参加するとは隣の二人称の他人になることです。そして、それを繋ぐのです。そうすれば、全体=三人称となって、ウエーブ形成に参加できるのです。ウエーブ形成とは波動を想像することによって完成できるのです。

    想像とは認識=円盤であり、現在空間ですので、一人称でありながら波動を認識したのですから三人称になったのです。従って、全人称で認識したことになります。しかし、時間が進んでいないのですから、まだ、認識が完成したとは言えません。認識の目が出たにすぎません。ウエーブは運動であり、時間が進まなければなりません。時間は認識が行動になって生成するのです。認識はベクトルであり運動なのですね。モナドは心のベクトルなのですね。

    ともかく、成り済ましの術で認識の目が出たのです。あらゆることが起きていると認識できるのですが、まだ行動(身体的振る舞い=脳のアドレナリンの発生も含めて)にはなっていないのです。ですから時間が進んでいないのですね。

    成り済ましは想像で他者を取り込む術ですが、それは無限速度で認識できるから可能なのです。回転いないで認識できてしますのです。扇風機を回すと回転していないように見えますね。あれと同じ状態になるのです。すべての主体を自分に置き換えて波動を認識(想像)したとしても、回転しないなら動かない波になります。だからスナップ写真のようなものだと言ったのです。

    時間が進まない認識は陽炎のようなもので何ら実体がない妄想です。いや、妄想だって、怖い妄想なら何らかの身体的反応(汗をかく)がありますから時間が進んでいます。全く時間が進まない妄想というのはないのでしょうね。そうすると無時間で想像できるというのは不可能のでしょうか?

    自分のある位置(時)の認識と別の位置(時)の認識が同じだということは認識が変容しないことになります。それは回転していないことを意味します。三人称の無時間の認識ですべてを取り込んだのですが、無時間なら回転しないので認識が変容しないことになり、認識が行動に繋がらないので完成しないことになります。どうも、堂々巡りとなってしまったようです。

    堂々巡りから抜け出すにはどうすればよいのでしょうか? それにはやはりベクトルという数学的ツールを持ち込まなければなりません。認識がベクトルだと言っただけでは認識が変容するところまで行かないのですね。

    ベクトルというのはぽつんとそこに単独であっただけでは何も起きないのですね。フリーキックでサッカーのボールがそこに置かれただけでは何も起きませんよね。キッカーが現れて初めてボールがゴールを目指すベクトルとなるのですね。でもそのベクトルはただのボールです。そのボールがゴールを目指して動かなければならないのですね。つまり、別のベクトルが存在しなければならないということです。あらゆる物事が生成すには少なくとも二つ以上のベクトルが存在して互いに作用しなければならないのです。

    物理現象を見ればわかるように、交差点で二つ方向から来た車が衝突しなければ何事も起きません。出会うことが必要なにです。ベクトルを心に動きに応用しようとしているのですから脳内でも二つのベクトルが出会わなければならないのです。フリーキックのボールはゴールを目指すベクトルとして認識されているのですが、ゴールにボールを入れようという意志ベクトルがなければなりません。この二つのベクトルが出会って初めてボールがゴールを目指して飛んでいくのですね。

    しかし、キッカーの認識はもっと複雑です。キッカーはボールを蹴ろうとしているまさにその瞬間に一秒前の認識(ボールの確認)と一秒後の認識(蹴った後の事)を同時に認識しているのです。この時間幅を普遍化してやると時間は過去と未来になります。

    <認識の現在に於ける即非的同時性>

    現在:過去・・・・未来

    あらゆる物事の生成を認識の現在に於ける即非的同時性によって説明しようとしているのです。そのためにベクトルの衝突という概念を持ち込んでみたいのです。衝突というのは物質的なイメージがするので価値観の対立・葛藤・などと置き換えてもよいでしょう?

    人間関係や社会現象はある程度は見えるので物理的な衝突のイメージで捉えることができなますが、モナド(心)の中となるとそうはいきません。しかし、すべては認識なのですから、脳に中においても、未来と過去が現在に於いて同時に価値衝突して認識が生成されると考えなければならないのです。そのメカニズムを螺旋・即非・認識ゴマで説明しようとしているのですね。

    そこで、抑えておきたいことは認識生成が現在の認識において螺旋・即非として同時に起きているということなのです。分かりやすく言うとているということです。未来と過去が同時に認識されているということです。その意味で、即非とは同時です。しかし、一方で、未来は過去に依存しますので時間が発生します。つまり、過去➝未来という因果関係があるのですね。その即非同時と因果的な関係の矛盾を解決するのが螺旋なのです。つまり、現在という認識は円盤状では未来と過去は同時ですが、その位置は違います。位置が違うということは時間が進んだということです。つまり、未来と過去が同時でありながら同時でないというのは明らかに矛盾です。これは円盤自体が時間軸の方向に進んだ、つまり、螺旋したというしかありません。これで回りながら進む螺旋コマのイメージができました。次なる課題はこの即非螺旋未来のメカニズムをベクトルの言葉でどう説明するかですね。

    少なくとも最初の認識があって、それが未来に反映されて行くのですから、その認識の波動を説明できなければなりませんね。電磁波も回転しながら進みますが、その進み方は波動方程式で表現できます。認識も波動であるなら同じように方程式で表現できるはずですね。ただ、電磁波は電場と磁場という二つのベクトルを考えれば良いのですが、人間の認識はそう単純ではないようです。認識が未来と過去の二つのベクトルから合成されるとしても、万華鏡のような複雑な模様になってしまいます。電磁波は電磁波であって、その性質は千差万別ではありません。光は光なのですね。それに対して認識は知性・情熱・意思があり、喜怒哀楽の波乱万丈です。一筋縄では行かないのですね。そんな認識の多様性をベクトルという数学的な言葉で果たしてうまく説明できるのでしょうか?

    自然言語でさえ認識を表現するのは難しいのですから、それをベクトルという線と方向だけで表現するのは無謀のようにも見えます。途方もないことですので、とりあえずは容易な目標を設定することにします。

    はっきりしていることは認識とは過去に依存するということです。従って、未来の認識(願望とか心配・予測など)を過去の認識(想起)と時間ベクトルだけで表現できるかどうかですね。そこをクリアしてみましょう。それができれば、レンマ関数への理解が深まるかもしれません。レンマ関数というのは

    A'''・・・ = ・・・(r)(q)(p)*A*(p-)(q-)(r-)・・・

    というサンドイッチ計算を表現するSK_t(x)関数であり、時間xのベクトル関数になっています。つまり、過去Aを未来A'''・・・に絨毯しているのです。

    ですから、まずやるべきことは最初の意味の変容の式は

    A'= (p)*A*(p-)

    ですので、未来A'が過去Aと意味の変容度合、つまり、pとp-だけで表現されているのですね。pとp-は指示しですので、円盤状にあり同じものを指しています。つまり、指示しの位置が違うのですね。言い換えると角度Θが違うだけなのです。だとすると、未来A'を過去AとΘだけで表現できるはずです。それに挑戦してみましょう。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2013年02月08日 09時57分44秒

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    認識の素は未来にある

    認識の素は未来にある
    <即非螺旋認識ゴマのメカニズム(4)>

    未来は過去である
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200152152

    の続きです。




    生命の最初の認識は

    A'= (p)*A*(p-)

    です。これが

    A''= (q)*A'*(q-)

    となってフラクタルに続くのですね。常に認識は過去が未来に絨毯されるのです。コマをレンマ関数の繋げるためには、認識ゴマの未来を過去で説明しなければなりません。

    ところが認識ゴマの図では原点を未来と過去としたために現在から未来へと時間が流れるので矢印が反対になってしまいました。どうしても時間は過去から未来へと流れるという外観者の視点に立っているのですね。この呪縛から逃れられていないようですね。内観者にとって存在するのは現在であり、現在には時間が存在しないのですね。時間が存在するのは原点に立った時、つまり、内観者としての三人称の視点に立ったときなのです。

    外観者の視点には立てないのですね。原点が過去なら時間が過去から現在に流れると認識できますが、それは記憶があるからです。普通に考えれば未来とはまだ来ないときです。つまり、未来は体験ができないのですね。未来には記憶がないのですね。

    このままだと時間が流れて未来がやってきて認識されるということでしか説明ができないのですが、そうなると未来永遠に来ないのですから厄介なことになります。認識が生成するためには消滅しなければならないのではないでしょうか?

    陰陽の認識としたのですから対生成対消滅しなければならないのではないでしょうか? 認識が消滅するためには時間も消滅しなければなりません。時間が消滅するためには時間が過去から未来へ通り過ぎていくだけのイメージでは不可能です。電車を外から眺めればそのようなイメージになりますが、今、あなたは電車の内にいるのです。いつまでたっても現在にいるのです。幸い、未来と過去が対として原点にあるのです。これをよりどころにして、認識が原点で対生成して、現在で対消滅して光となって対生成すると考えられないでしょうか?

    認識というのは常に過去と未来についての意識なのですね。現在に於いて無なのです。指示しがあるだけという言い方もできるでしょう。認識空間という言い方は現在の円盤のことですが、それは指し示し空間であり、認識された空間という意味ではないということが正しい理解ですね。このように考えると認識は陰陽であり、同時に存在すると言いましたが、同時の意味が円盤状ではなく、斜めの線、想起と願望に移行して行くことになるでしょう。

    陰陽の時間が対で生成されるのなら、未来の認識(願望や心配)も同時に生成されることになります。そうすると、未来は過去であると言ったのですから齟齬となってしまいます。過去に依存する未来であり、しかも、未来には記憶がないのにどうして認識が未来から生成されるのかという新たな問題を抱え込むことになります。

    この問題はベクトルの性質を考えると解決します。未来のベクトルは単位ベクトルだけが生成されるということです。単位ベクトル(長さが1のベクトル)はいつでもどこでも生成できますので対生成されるとしても問題はないでしょう。一方、記憶はスカラーですので単位ベクトルがあれば、普通のベクトルになりますので、過去の想起は想起ベクトルとなります。その想起から未来の認識の素である単位ベクトルにスカラー部がくっつくことが認識生成のメカニズムなのです。

    そういう意味で認識の素は未来から来るのですが、それは単位ベクトルのことであり、それにスカラーがついて始めて認識が生成されるのですね。従って、未来は過去であるというのは正しいですし、未来から認識(の素)が来るというも正しいのですね。認識が「未来からくる」という見方は認識ゴマを描いてみて気が付いたことです。普通、認識ゴマの心棒は原点から中心を突き抜けて先に延びるように描くのが常識ですが、それは暗黙に外観者になっていること事を意味しているのですね。ベクトルの向きが逆になってしまうと、未来を過去の関数として表現できなくなってしまうのです。何故、未来から持続のベクトルが原点から現在に向かうのでなければならないのかについては現在に於いて持続のベクトルが消滅しなければならないからですが、詳しいことは後でベクトルを計算するときに明らかにします。

    認識の対生成・対消滅という考え方が出てきましたが、この生成消滅について思い出すのは粒子の生成消滅です。下の図は「現代物理と仏教を考えるページ」から引用しました。



    http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page032.html

    この図は時間が逆向きの粒子が表現されていますが、色々な見方ができます。例えば、過去からやってき粒子が光を放出して、その粒子が過去へ遡っていき、未来から時間を遡ってきた粒子が光を吸収して、その粒子が未来へ進んでいきます。光となった瞬間は時間が消滅したとも解釈できます。これは時間が逆向きに進む粒子というものが存在しなければ説明できない仕組みです。

    認識ゴマにも同様の事が言えるのかもしれません。そこで、この考え方を取り入れた認識ゴマに修正しました。具体的には、現在という認識平面(円盤)は認識生成のための指示し空間であり、時間が消滅する瞬間です。持続のベクトルは矢印を原点から現在に向かう方向としました。それに対応して、願望と想起のベクトルも原点からスタートして斜めに進み円盤の淵、つまり、円盤の中心から来る指示しの終点と合体するベクトルに修正しました。

    これを使って認識が生成消滅するメカニズムを明らかにします。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2013年02月08日 09時45分05秒

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    認識ゴマは即非ゴマ、そして螺旋ゴマへと変身する

    認識ゴマは即非ゴマ、そして螺旋ゴマへと変身する
    <即非認識ゴマのメカニズム(2)>

    認識の形(回転・振動・波動)
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200132540

    の続きです。

    「認識が回転である」という場合、脳の中で何かがぐるぐると廻っているわけではありませんが「頭の回転が速い」とか「頭のめぐりが良い」とかいうように、回転というのは認識のメタファーでしかありません。認識ゴマは「コマ=意味が変わる」という抽象的なメタファーなのです。

    実際、意味は時間と共に変容します。赤い夕陽を見て感動した瞬間、それは地震の前触れだと認識するのは意味の変容です。意味の変容がなぜ回転なのかということですね。

    それは中心(私)からの長さ(赤い)が同じで位置(意味)が変わったのですね。数学的にはそれは円軌道を移動したことを意味します。つまり、回転したのですね。意味の変容=回転とはアバタがエクボに変わることなのです。物理的なコマを数学的意味で理解すれば、回転はレンマ関数でサンドイッチ風に挟むことと同じ意味だと理解できるでしょう。

    サンドイッチには回転のイメージが全くありませんが、そのサッドイッチが回転と同じ意味であるということを只今臨床しているのです。数学の素人(四次元能)が臨床しているのですから危なっかしいですが何とか座礁せずに行きたいものです。

    脳の中のモナド(心)を探検するにはどうしても数学的縛りで武装された思考兵器EVA(モナドックス)を持たなければなりませんが、その一つがレンマ関数=即非関数というわけです。そのEVAを使いこなせなければ探検自体が危ういことになってしまいます。そこで認識ゴマが今や即非認識ゴマに変貌したのですが、それがどうしてレンマ関数になるのかを説明していきます。

    認識ゴマに円盤の着目してください。それは現在という認識平面です。円盤に垂直に突き刺さっているのが時間の軸です。従って、円盤には時間の進みは存在しないのです。しかし、円盤が回転すると時間が生まれてきます。パソコンに音楽DVDを挿入すると音楽を聴くことができますね。それはDVDが回転しているからであり、同時に時間が発生しているということです。つまり、回転と時間の矢が同時に出ているのですね。

    DVDは物理的回転ですが、それを「認識すること」に置き換えてみましょう。音楽をDVDで聴くという認識行為は物理的変化(回転)によっては音楽という意味に変える装置なのですね。その装置とは心の事です。その装置(心)がどのようなメカニズムになっているのかを説明する原理(モデル)がコマなのですね。

    認識には回転=時間経過が伴っていなければならないようですね。回転することによって時間が進み、音が生成され、音が出てきます。その音がただの音の連鎖ではなく意味のある音楽(メロディ・ハーモニー・リズム)に変容しているのですね。そこには音を音楽(意味)の変容させる主体の解釈という三要素、主体を入れると四要素、更に時間の経過、過去と未来の同時の認識と言った即非状態など様々な要素が絡み合ってきています。

    これらの関係を説明するために認識ゴマをモデル(メタファー)として用意して様々な要素の絡み合いを説明しようとしているのですが難題に遭遇したようです。

    何故、回転すると時間が生まれるのかという問題です。絵に描いてしまえば簡単なのですが、それではDVDを聴いたことを説明したことにはなりません。DVDをパソコンに入れて音楽を聴いたと説明しているのは外からの観測者の説明です。私ではありせん。外観者は主体が音楽を聴いているように見えるのであって、音を音楽に変容させている内実は見えていないのです。ですから、その様子を見るためにミクロの探検隊のメンバー=内観者となってEVAに乗って内部の探検をしているのです。このところが内観者自身が混同をしてしまうので何度も確認しているのですね。

    難題だと言ったのはコマ(DVD)は確かに廻っているのです。しかし、まだ、時間は生成していないのです。どうして時間が進んでいないのに回転したと言えるのでしょうか?

    内観者にとって見れば円盤(DVD)がすべて現在という時間であり、平面なのです。言い換えると、DVDには音が記録されていますが、そのすべてを同時に記録されていると想像(認識)できるのです。しかし、音楽としては認識できていません。

    このような想像では時間は進みません。想像を回転というのは展望台で全景を見たようなものです。或いはスナップショットで見たようなものです。そこには時間がないのですね。ですから、それを回転というのは正しくはないでしょう。回転には時間の進みがなければならないのです。全体を見たからと言って音楽を聴いたことにならないのですね。データベースにデータがあると想像できても、検索しなければ意味が生まれないのですね。このことから想像することと行為することを区別しなければならないことに気が付くでしょう。

    認識とは意味の生成であり運動なのですね。運動には時間の生成が伴うのですね。同じ運動でも長さが同じ運動なら回転なのですね。位置が変わっても長さが同じというのは「赤い夕陽」をずっと見ているということです。そして時間と共に位置(意味が変わる)ということです。

    回転を意味の変容=時間の進みと捉えるとそれは回転しながら進むというコマでなければなりません。回転しながら進むコマの軌跡は螺旋です。同じ場所で回転するのは展望台、物理ゴマですが、認識ゴマは回りながら進むのです。そうであるなら回転ではなく螺旋と言うしかありません。そこで、これを螺旋ゴマと呼びましょう。螺旋と言っても本質は回転ですが時間の進みを考慮した抽象的モデルです。ですから認識ゴマには心棒(時間軸)が通っているのですね。

    続く

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