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  • from: 生成門さん

    2014年04月04日 22時58分32秒

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    物理の法則を精神の法則に転用できるか?

    物理の法則を精神の法則に転用できるか?
    <意識の相対性理論>

    物質の素粒子があるのなら意識の素粒子も存在するのでしょうか。物質は三次元の空間に存在するので空間はいくらでもいくらでも小さく分割できる結果、その最小単位が明らかとなりました。ミクロの探検は佳境に入ってきました。

    意識(心)は三次元の空間に位置づけできなないのですから分割のしようがありません。意識を実体(対象として指し示すこと)として扱うことができないのです。しかし、意識が存在することは疑うことはできません。意識をどうすれば掴むことができるのでしょうか。これまでの哲学やオカルトや宗教は意識を扱ってきましたが「これだ」と言って指し示すことはできていません。もちろん意識の数学というのは存在しません。数学は意識が生み出だしたものだということは誰でも認めますが、その生む出す元となる意識が何であるかを示すことが出来ないのです。実体として示すことができなければ、数学の対象にはならないのですね。何と言っても数学の対象は座標に位置づけしてなんぼですからね。ですから、対象化=実体化=量化しなければ学にならない数学と違って、哲学や宗教は量化を問わないのでまだ対象化しやすいと言えるでしょう。それで論理や存在や認識の知が存在しているのですが、どれをとっても意識を実体として扱うことの難しさで苦労しているのです。

    私達が物と言っているのは何を指して物と言っているのでしょうか。それは物自体ではないはずです。認識の対象があってそれを表象して初めて物となるからです。それを実体といっているのです。実体とは実際に存在するかのような物の体というような意味です。物の怪ですね。ですから物自体ではないのです。物ではないのならそれは物の概念です。物では分かり難いかもしれません。物を者と言ってみましょう。者(人間)は実際に存在していないのです。存在しているのは者自体ではなく人間という概念=実体です。私達は「彼は」こういう人間だと言います。その「彼」はどこにいるのでしょうか。目に前に現れた人間がその彼なのでしょうか。それは実体としての彼(例えば、恋人)あり、彼自体ではないはずです。

    「恋人よ」という歌があるように、それは傍にいてほしい人の代名詞であり、別れ話が冗談だといって笑ってほしいというということを指し示す名前なのであり、彼自体ではないはずです。存在していないけど存在しているかのように扱う。それが実体という概念です。概念としての彼なのです。

    そんなこと当たり前だというかもしれません。しかし、哲学と言うのはそこを厳密に思考したいのです。そこからデカルトは考えることと延長するものという二元論に走ってしまったのです。延長するものとは広がりのある存在という意味ですから身体です。考えるとは思惟するという意味ですから、つまりは精神と身体ということになり、ここから精神と身体という分裂が始まり、唯心論と唯物論の血みどろの闘いが始まったと言って良いでしょう。唯心論は心の学を支え、唯物論は物の学をさえてきて現在に至っているということであり、物理学は唯物論の代名詞ともなっていると言っても良いでしょう。その物理学が最近ではミクロの世界で観測問題という超難題に遭遇し、遭難してしまいました。つまり、物質的因果に精神(観測する)が関与するなどというとんでなことを言い始めたからです。本来なら唯物論なら物質現象は物質的因果で閉じていなければなりません。連続でなければならないのです。物質は時間空間的な延長体であり、三次元空間で座標に位置づけできなければならないのです。それが観測するという行為によって突然現象として目の前に現われるのです。そこには物質的な因果がありません。まるで神隠しの反対で神が差し出したような説明になっているのです。

    唯物論を主張するなら唯物的な姿勢を徹底して維持しなくてはならないのですが、どうしてもそれができなくなってしまったのです。ミクロの世界は常識的な考えが通用しないとして唯物論を捨てているのに平然としているのはどういう神経なのでしょうか。これは超マクロの宇宙に於いても同様なことが言えます。宇宙の始まりはビッグバンだというのが主流の理論ですが、これは点から世界が生まれたと言っているようなものです。点は物質ではなく概念(特異点)であり、実在しないものです。物質世界は物質ではないモノ?から生まれたと言っているのです。

    多くの科学者はここに基本的かつ重大な矛盾があることを知っています。それは唯物論が物質現象の始めは物質でなければならないからです。しかし、ビッグバンはそれを否定しているのです。これでは唯物論が唯物論を否定しているということになってしまします。

    それでは仕方がないので、今度は特異点隠しをやって虚数時間から実時間が生まれたということにしたのですが、虚数時間というのは一体何でしょうか。これも実在しない時間です。はじめから科学は唯物論などと言わなければ仮説として受け入れることはできますが、唯物論的な立場は捨てようとしません。いくら特異点隠しをやったところで神隠しのようなものですから、唯物論の破綻は隠しようがないと言えます。

    ビッグバンはどこから来たのでしょうか。それはアインシュタインの相対性理論から導かれたものです。ところがその相対性理論の肝心要のローレンツ変換は光円錐という空間構造を前提としています。これが正しいかどうかを問うことなくビッグバンが正しい理論だと言っているのです。もし、光円錐仮説が崩れたらビッグバン理論も崩れるのです。光円錐仮説は正しくはないという物語があります。それを語っているのがS科学です。これを物語るのはまた別にします。

    いずれにしても、唯物論自体の矛盾という薄氷の上に立っているのが現代物理だと言って良いでしょう。要するにこの物理の学における物質的因果(物質だけで閉じている=連続である)が極限の状況では成り立たないことをミクロの観測問題とビッグバン理論は物語っているのです。

    私達はもう一度、原点に戻る必要があるのです。原点とはどこでしょうか。それは唯物論と唯心論の対立が起きたところです。もちろん哲学的にはデカルトの心身二元論ですが、いまだにこの二元論はあらゆる分野で生きています。唯物論と唯心論というと分かり難いので精神と物質、精神と身体と言った方が分かリやすいでしょう。精神領域の専売は文学や芸術であり、物質領域は科学です。この分裂はいまだに続いており簡単には融合しそうにありません。精神領域から物質領域へのアプローチは全くありません。又その可能性はないと言っても良いでしょう。それは両者を繋ぐ言語がないからだとも言えるでしょう。精神領域では非言語的コミュニケーションを重要視する傾向にあり、論理と数学が入り込む余地がないのですね。ですから言語としては最も強力と言われる数学が使えないのです。しかし、物質領域から精神領域へアプローチする可能性は結構あります。実際、人工知能はそれを目指していますし、現代物理は唯物論一辺倒から唯心論的要素を取り込まざる得ない状況にあります。しかし、人工知能も現代物理もその唯物的枠組みが崩壊しつつあり、その枠組みを再構築しなければ先に進めることはできないところにあります。

    唯心論(精神)と唯物論(物質)の融合の可能性を考えた場合、何が問題になるのか、その障害は何かをはっきりとさせる必要があるでしょう。先ず考えられるのは二つのアプローチです。一つは精神領域からのアプローチであり、二つは物質領域からのアプローチです。しかし精神領域からのアプローチは全く可能性がないと言って良いでしょう。それは両者を繋ぐ言語が精神サイドが持っていないからであり、第一に論理的な言語コミュニケーションは感性とか直観を表現するには向いていないとして退けているからです。これでは期待できません。

    では物質領域からのアプローはどうでしょうか。その可能性は高いでしょう。その理由は数学という言語があるからです。もちろん数学もまだ発展途上であり、使えない数学もあります。しかし、数学は物理と仲良くしてきたおかげでその言語構造はより抽象化され洗練されてきました。ただし、素人には取っ付き難くなってきたことは確かです。

    難しくはなりましたが、それは数学と物理が切磋琢磨してきた結果といえるでしょう。だからこそ言語として洗練されたと言えるでしょう。だからと言って数学は物理の専売ではありません。あくまでも数学は数学として独立しており、モナドとしての性質(窓がない)を有しているのです。数学がモナドであるということについてはまた別に探求します。

    現代の数学が抽象度を上げきたということは物質との応用において付きまとってきたことによる物質臭さを漂泊したとも言えるでしょう。それは精神物理の法則というのが生まれたことも関係します。物理という現象を抽象化して精神の法則に適用できるというものです。物質臭い法則は数学で表現されますが、それを精神の法則に適用するためには物臭さくが抜け落ちていなければならないでしょう。物臭さが現れるのは物理単位にあります。単位こそが物理量物臭さなのですね。しかし、法則にそれが付帯していては、物を心に持ってくることはできません。心の引力が法則として使えたとしてもその重さが3mgなどというのはナンセンスです。漂泊とはこの単位を捨てることです。そして心に適した新たな単位を付加することです。そうした試みはまだありませんが、精神物理法則はその可能性を示したと言えるでしょう。

    もちろん、その正当性を担保する条件(構造的な干渉)はありますが、それさえクリアすれば、かなりの物理の法則が精神の法則として転用できる可能性はあります。それ以前に精神の法則に数学を利用するということは意識が量化されていなければなりません。そこがすべての出発点だからです。意識の素粒子の様な概念が出てくれば、かなり物理で使われる法則が転用できる可能性は増えてきます。

    その一端をピタゴラスの定理で示してみましょう。ピタゴラスの定理は物理量がありませんので使いやすいと言えますが、どう応用できるかですね。ピタゴラスの定理(a^2+b^2=c^2)は直角三角形の辺の平方和であり、空間的な広がりとその関係は簡単にイメージできます。ただこれだけでは心の何を表現できるかは想像しにくいですね。

    二つの心a,bを平方したらcの心の平方になるでしょうか。式で表現するとa^2+b^2=c^2ですから、どう解釈すれば二つの心の面積の和が一つの面積の和になるのかですね。この場合、直角三角形が前提ですから、二つ心が直交するということが何を意味するのをはっきりさせなければなりません。心の面積という意味もはっきりさせなければなりません。やることが多いですね。

    「直交する」を交叉、横断、切断と解釈すると、意識の交叉点、文化の横断、歴史の切断などという表現がありますから、二つの意識を直交させることには意味がありそうです。ただ面積となると途端に訳が分からなくなります。意識調査がありますから意識の広がりなら量化できそうですね。例えば、二つの文化が交差して、そこに新たな様式が生まれたとするとその広がりを面積で表現することができるでしょう。もちろん、ここでいう面積は物理的空間の広さではないので新たに面積とは何かを定義しなければなりません。

    そこで、アインシュタインがピタゴラスの定理を使って時間の相対性を表現したように、文化の相対性を表現することをやってみましょう。文化は意識の有り様ですので、意識の相対性理論の可能性が見えてくるでしょうか。文化(意識)は光円錐で伝達されるとして、二つの文化の伝播する速度v,光速度文化速度cを考えると

    (vt)^2+(ct‘)^2=(ct)^2
    (ct)^2-(vt)^2=(ct‘)^2

    t^2(c^2-v^2)=(ct‘)^2
    t^2{1-(v/c)^2}=t'^2
    t=t'/√1-(v/c)^2

    となります。当たり前ですが、ローレンツ変換になりました。これが意識の相対性理論になるのかどうかですが、怪しいですね。

    この式ではv>cですから常にt>t'となります。これは時間が遅れるということを意味します。v≒cではt=∞となり、文化の伝達の時間がかかりすぎる、つまり、遅れるということになります。全く伝達されないとも言えるでしょう。ローレンツ変換ではv>cという縛りがあり、これが伝達速度の限界となります。意識の伝達には限界があるのでしょうか。物理ではcが光速度ですが、文化(意識)光速度の相当するのは何かですね。

    物理では真空を走る速度ということになりますが、意識の伝達の真空に相当するのは以心伝心の様な場合でしょうか。文化となると媒体が必要ですからどうしても伝達に時間がかかります。そういう意味では現代のインターネット時代は真空状態と言えるでしょう。インターネットは時空を超えると言います。つまり、伝達が速くなります。

    これはおかしいですね。ローレンツ変換によると時間が遅れることになります。逆ですね。どっちが正しいのでしょうか。それは当然、現実(インターネット)でしょう。

    やはり、アインシュタインの相対性理論は意識の伝達には使えないようですね。これはピタゴラスの定理が問題ではないということに留意しましょう。むしろ、光円錐を空間の定義にしたところの原因があるのです。ですから、むやみに物理法則を漂泊したからと言って精神の法則にできないということが判明しました。


    そこでもう一歩突っ込んで見ましょう。

    相対性理論を修正した


    t=T(1-v/c)

    を使ってみましょう。

    この式はS科学の相対性です。ニュートンの動的作用反作用F1*v1=-F2*v2から導かれるもので、ローレンツ変換の式と違うのは√がないこと、二乗がないこと、分母にないことなどです。似ている式ですが似て非なるもので、それはメービウス変換と呼ばれるくらい多くのことを物語る式です。意識についても以心伝心のような物質現象では見られないような現象も説明で来るのでしょうか。

    t=T(1-v/c)ではv<cのような制約はありません。v=cとしてみると時間が0になってしまいます。時間がゼロとは何を意味するのでしょうか。メービウス変換のx⇒1/x=tからも分かるようにt=0でx=∞となります。これはテレポートを意味するといっても良いかもしれません。無限の遠点に時間ゼロで情報を移送したとも解釈できます。

    これを私達の世界の言語で表現するなら他者の脳に想いを伝えることですから他者の脳とは繋がっていないので、事実上、無限遠点です。そこに時間0で伝わるのですから、これを以心伝心と言わないで何と言えば良いでしょうか。


    意識の伝達ではアインシュタインよりはS科学の方がより説明力があることが歴然です。

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