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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2014年10月20日 07時57分31秒

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    内観法における人称認識と存在の交換関係

    内観法における人称認識と存在の交換関係

    内観法は一人称の認識でありながら二人称の存在を前提とする存在論です。何故かというと、内観するには対象が必要だからです。対象とは対話の相棒であり二人称です。これを量子過程まで拡張したのが松野氏の内観法です。物体を相互作用する主体=存在を認めるというのはこれまでの科学にはない発想です。ですから内観法が科学だと言えるのかどうかはその物語がどう展開するかにかかっています。科学は客観であり、内観は主観だからです。客観=三人称と主観=一人称という二元論をどう超克するのかということが問題となります。

    量子に主体性を認め量子同志が対話をしているというのはなかなかなじみにくいのですが、ライプニッツのモナドを思い出せばそう特別な概念ではありません。モナドは単子(一)であり自ら動くという性質を持っているのです。内観法の認識の主体と対象は分離不可能な対ですから単子(一)です。ですから内観法の対はモナドと同型と言って良いでしょう。陰陽論の陰陽対は一元気の太極(一)ですから一元論です。プラトンを受け継いだプロティノスは二元論を超克するためにルーツを一者としてそこからすべてが流出するとしました。

    人称認識を語るときに、単純に一人称、二人称、三人称という具合に割り切って語れるものではありません。一人称の私というときには既に他者の存在を前提にしていますし、私の中にも別の私(他者)が存在しています。ですから認識を語るときに存在を意識しなければ成り立たないことが分かります。ですから内観法は認識論である前に存在論なのです。このことを踏まえた上で内観法を見て行くと、二人称(相棒)の存在が重要になってきます。何故なら内観とは相互作用の事ですから、相棒がいないことには始まらないのです。内観を停止すると三人称になり、評論家になります。また内観を再開するときにその第三者の知を利用することができます。このように認識と存在は内観の両輪なのですね。存在と認識は人称関係を交差・交換して自己回帰的に循環するのです。その様子を黄金比によるフラクタル分割の螺旋運動として可視化したのです。言い換えると内観法は生成方程式の時間展開ということになります。

    以下、内観法における人称認識と存在の交換関係を呟いたものです。ご賞味ください。

    2014年10月18日(土)1 tweetsource
    10月18日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    生態観察は一人称であるがその相棒は生態系である。そしてその記録は生体の行動である。ところが相棒たちもまた内部観測者である。彼らは互いに会話をしたりして相互作用している。そこに研究者は内観者として参加するのである。だから内観をしているのを観察する内観とも言える。
    posted at 09:13:04

    2014年10月01日(水)2 tweetssource
    10月1日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    人間は一人称=内部観測で生きる。
    それは外部観測を時間発展させて内部観測とすることで為す。
    それが
    Xn+1=Ft(Xn)
    であり、これは極限ではX∞=Ft(X∞)だから
    矛盾であるが時間発展させて
    Xn+1=Ft+1(Xn)
    として矛盾を先送りしている。
    posted at 09:23:27

    10月1日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    自己言及の矛盾は外部観測をすることで起きる。 外部観測を三人称=客観、内部観測を一人称=主観とすると分かり易いかもしれない。二人称は対話であるが、一人称と三人称を繋ぐ認識の有り様である。二人称は間の主観であるから間主観性である。人間はこのすべてを使って生きている。
    posted at 09:03:32

    2014年09月27日(土)1 tweetsource
    9月27日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    内部観測とは研究ないし探究的態度のことである。西田幾多郎の行為的実践=現在進行形である。無常である。一人称の主観と三人称の客観を媒介する二人称の認識=間主観である。だから関数型言語による右脳思考である。
    posted at 08:46:58

    2014年09月26日(金)1 tweetsource
    9月26日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    郡司氏の内部観測という方法は極めて難しい。何故難しいかというと我々が外部観測に慣れてしまっているからである。禅の内観法である。これが科学になるかという問題である。内観とは一人称である。科学は三人称である。だからこれを繋ぐ必要がある。それが哲学なのだろうか。
    posted at 08:59:47

    2014年09月20日(土)1 tweetsource
    9月20日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    命令型は外部観測者を前提とする。しかし、関数型言語は内部観測者の世界である。一人称=主観から延長した間主観の世界である。関数型言語ではどのようにして外部とやりとりするのだろうか。普通にやっていたら命令型になってしまう。そこで登場するのがMonad=モナドである。
    posted at 09:27:37

    2014年09月16日(火)2 tweetssource
    9月16日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    人間は内部観測者=一人称でありながら外部の観測者=三人称の認識が可能となったただ一つの生命である。三人称の認識とは、記号過程の外に出たのである。
    外部の観測者(内部観測者の解釈:原因⇒結果の観測者)である。これが左脳の認識である。
    posted at 16:11:11

    9月16日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    パースの記号過程、観測者の解釈:原因⇒結果の観測者とは主体である。その主体は内部観測者=一人称=主観である。古代人が化粧をしたのは象徴思考であるが、その意味が集団の中で共有できていたのである。一人称から二人称へ拡大して共同主観=間主観となったのである。しかしまだ三人称ではない。
    posted at 15:57:11

    2014年09月08日(月)1 tweetsource
    9月8日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    ライプニッツは内部観測論=一人称として宇宙を見ていたのである。内部に宇宙が実現していたのである。だから窓から外を見る必要がないのである。外の支配者からの影響を受けないのである。モナドとして自立しているのである。だとするとMonadが窓でないとすると何だろうか。しかし外がある。
    posted at 09:24:00

    2014年09月06日(土)1 tweetsource
    9月6日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    瞑想は内観法=内部観測、科学は外観法=外部観測。科学は本来三人称である。量子論は内観法を取れた一人称の科学である。芸術も三人称(写実)から一人称(印象、抽象)に変容した。三人称の極限は神であるが神にはなれないから不完全である。一人称の認識は場に限定されるから不完全である。
    posted at 10:26:47

    2014年04月17日(木)3 tweetssource
    4月17日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    「月を見る」そして「月は丸い」と言う。それは一人称の内部観測のライブだ。現在進行形の体験である。ところがそれを主観的か客観的かと問う。その「問う」ということが問題の発端である。生で見たものを想起するのだ。それが反省だ。見ていることを見る。三人称の外部観測だ。その後の話なのだ。
    posted at 08:56:17

    4月17日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    Nの暗号を解読する。その鍵は純粋の経験にある。純粋とは原初的な認識に態度であり、一人称=内部観測者の位置である。何故そうしなければならないのか。禅の目的は不安解消にある。その不安=阻害の原因が主客二元論にある。それを乗り越える方法が主客一元論=純粋の経験=一人称となる。
    posted at 07:33:51

    4月17日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    Nの純粋経験という概念(武器)は内部観測者=一人称の視点で禅=善=悟を探求するという宣言だ。決して、外部観測者になってはならない。
    posted at 07:28:21

    2014年04月03日(木)2 tweetssource
    4月3日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    自分の独立、対象に支配されないようにするためには対象と密接不可分の関係になるしかない。自分を()に入れてはならない。これを可能とするのは一人称=内部観測の視点しかない。主体と対象の不可分の関係とはそれと一体になることである。
    posted at 14:30:54

    4月3日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    三人称の反対が芸術=主観=内部観測=一人称である。内部観測論は物理が御法度としてきた一人称の認識を持ち込んだのだ。これは物理=唯物という構図を破ったということだ。ライプニッツはこれを見透かしたようにモナドは一人称から心を定義したのだと考えてみよう。
    posted at 14:04:21

    2014年04月02日(水)2 tweetssource
    4月2日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    どんな心も相互に作用しないなら会話なんか成り立たない。何故、モナドは独立しているのだろうか。モナドは単体であると言うが内部はどうなっているのだろうか。内部観測論は一人称である。しかし本当に一人称なのだろうか。主体と対象が分離不可能になっているのが一体=一人称である。
    posted at 11:26:51

    4月2日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    ライプニッツのモナドは一人称の心のモデルだとすると理解しやすい。三人称なら確かに外部の対象に依存している。それは第三者のの認識かも知れない。一人称なら内部観測者として直接に関わっているのだから誰かの認識とは無関係であり独立している。
    posted at 10:49:11

    2014年03月30日(日)1 tweetsource
    3月30日@fractaleman68
    森のように深い@fractaleman68
    量子論で観測者という問題が起きたことからそれを批判する目的で内部観測論が出て来たがまだまだ。一人称と三人称に間で葛藤しているような有様だ。一人称の哲学や物理や数学が存在しうるかどうかは疑問である。

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