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創価学会SGIを本音で語ろう

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  • from: 22世紀さん

    2010年10月31日 14時10分14秒

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    池田大作「権力者」の構造

    第三章 戸田城聖の番頭から創価学会の大幹部へ

     狂信者戸田の指導と組織力

     昭和26(1951)年5月3日、創価学会会長の地位についた戸田は、「私が生きている間に75万世帯の折伏は私の手でいたします。・・・・・もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出して下さるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい!」
     といったという(もっともこの75万世帯は、『聖教新聞』昭和27年5月10日では「断じて150万の世帯にならなければ」となっている。が、いずれにしろ戸田の死没寸前に達成されたとされる、その75万世帯は、一世帯一人としても、就任時の会員数約3,000名の250倍にあたる)。
     戸田の願望は大きかったが、彼はそれに見合うだけの、強信に基つ゛く使命感と能力とに欠けていなかった。彼にとっては、創価学会の強化と拡大だけが広宣流布に直結して、そのまま善であったから、会の拡大が彼にもたらすはずの莫大な利益を思って後ろめたさを感じるようなことは、まずもってなかった。会員増と彼の利益の一致は、「折伏大行進」への彼の声を大きくするものの、小さくする性質のものではない。
     戸田の強みはすべて、強信に負っていた。強信でこそ、彼は他の牧口門下生を圧倒し、彼らの会長就任反対の意向を無視、あるいは封殺して独裁体制を確立することができたし、また会員を折伏という会員獲得運動に臆面もなく、強制動員することができたのである。
     マックファーランドは、ホッファーの「運動は能弁な者によって開拓され、狂信者によって実体化され、行動者によって強化される」という言葉を創価学会の三代にあてはめ、戸田は狂信的な人間で、彼の指導と組織力のもとで創価学会は勢力が著しく伸びたとしている(内藤、杉本訳『神々のラッシュアワー』)。
     戸田の強信は、それによる儲けを忘れなかったとはいえ、たしかに狂信といって差し支えないものだったし、その指導力や組織力も、牧口に較べれば文句なく、また池田に較べればその創始性において、屹立するものであった。彼がいったという「ぼくが舞台を作っておく」(池田『人間革命』四)には、誰がいったかは別として、毛ほどの偽りもない。

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  • from: 22世紀さん

    2010年10月31日 14時07分59秒

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    池田大作「権力者」の構造

     彼は信用組合が営業停止命令を受けたとき、「ぼくは経済戦で敗れたが、断じてこの世で、負けたのではない」といったという。確かに、再起不能なまでに信用も資金も失った戸田は、この世で負けたのではなかった。ふつうの事業であくせくする必要は最初からなかったのだ。彼は立正佼成会がその成功を例示している新事業、そして「信者を30人集めれば食っていける勘定の、べラぼうに高収益のあがる商売」(大宅壮一)である教団指導者業にすぐ転進すべきだったし、また彼には、逆転勝利への道はそれ以外になかった。
     戸田は早速会長着任をめざして布石を始め、まず会員間に会長推戴署名運動を起こさせ、3,000人の署名を集めた。戦前からの会員の一部は署名を拒否したが、戸田は歯牙にもかけなかった。ついで4月6日、支部をA級(1,000世帯以上)、B級(500世帯以上)、C級(500世帯以下)の3段階、12支部に格つ゛け、再編し、支部長を任命して組織再編成をはかった。また旬刊、ブランケット判二頁の『聖教新聞』の創刊にも着手し、編集主幹に入信まもない、芝浦工専卒の石田次男をあて、4月20日、第一号3,000部を刊行した。
     戸田はこれらの措置によって会長就任の花道をしつらえた後、5月3日、東京向島の常泉寺で行われた会長推戴式に臨んだ。
     式後、戸田は新組織機構と人事を発表した。筆頭理事に和泉覚、理事に柏原ヤス、森田悌二、馬場勝種、小泉隆、原島宏治、辻武寿をあて、理事長は空席のままで、それまでの理事長・矢島周平をヒラの理事からも追い落とした。各部の部長は、指導監査に矢島、財務和泉、講義原島、指導柏原、婦人和泉みよ、青年辻、男子牛田寛、女子小島栄子、企画原島、秘書室石田次男という構成で、講義部の部員は教授―助教授―講師―助師の四段階にランクつ゛けされた。
     池田はただ講義部の最後尾の助師と、蒲田支部の大森地区委員に任命されたにすぎなかったが、それでも、創価学会の発展が即、池田の出世という位置にかろうじて連なっていた。ようやく池田に「順調で申し分のない幸」が訪れかかっていたのである。



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    王様

  • from: 22世紀さん

    2010年10月31日 11時42分52秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田への真の救いは同じころ、戸田が、牧口以後長らく空席のままであった創価学会会長の地位につく意向を表明したことによってもたらされた。その時点で戸田に会長就任の決意をかためさせたものは、「ここに、不思議のことありて、大確信を得」(戸田『論文集』とある「不思議のこと」であり、その意味するところは、明らかに、彼には「ありがたい御本尊の功徳」と映じた、この信用組合の免責であった。それが立正佼成会(昭和35年に大日本立正交成会から改称)への敵対心と相乗して、ふいに戸田を会長に立たせたのである。
     立正佼成会は創価学会と同じく日蓮系で、法華経を重視し、また設立年月も昭和13年で、創価学会の設立と近接している。が、当時会員は約20万を数えて、3,000の創価学会とは雲泥の差であり、新興宗教中、最高の成長率と最大の教勢を誇っていた。
     佼成会は戸田にとって、教義上はもとより、いわば近親憎悪といった面でも敵であり、思いのたけをこめて打倒すべき邪宗以外の何ものでもなかった。
    「学会と立正佼成会は同じく正と邪の道を開き、しかも、いまだかれら邪宗をつぶすにいたらず。このまま便々としては、大御本尊様よりお叱りあることをおそる」(同前)
     が、佼成会に対する戸田の敵愾心には、一筋縄ではいかない、陰微な嫉視や競争心も混入していた。佼成会の発展は戸田には、なにより不正不当な、横取りされたような成功と感じられた。
    「学会再発足のとき、立正佼成会も同じく小さな教団として、やっと息をついていたのは、自分たちのよく知っているところである。しかるに、7ヵ年の時を経過して、かれは大なる教団となって邪教の臭気を世にばらまいている」(同前)
     規模もスタートも同じくして、一方は「邪教」の分際で大教団、一方は事業家として塗炭の苦しみ――この事実に戸田は事業上の挫折を天啓と見、また新事業を着想する視点をも得た。


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  • from: 22世紀さん

    2010年10月29日 18時58分22秒

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    池田大作「権力者」の構造

    《御本尊さまにこの苦しみだけは逃れさして下さい、という願いをして御題目を六十万遍唱えることにしました。逃れ(られ)なければやめようと思っていたのです。それが不思議にも百日過ぎて急によくなったのです。その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。私の体験は三年だけです。信仰しなければ二十三くらいで死んだだろうといわれています。信仰していなかったら貧乏で、病気で死んでいたでしょう。わたしは今それから六年経っていますが、ずっと順調で申し分のない幸を得ております》
     「この苦しみ」とは貧困や病弱、家族や友人からの信仰への反対も指そうが、中心は東京建設信用組合の事後処理問題であろう。池田は一切から閉ざされてもなお将来を賭けた戸田に、最大の苦悩を背負わされた。「逃れられなければやめようと思っていた」は、信用組合や信仰を、であろう。
     実際は、同僚はつぎつぎにやめ、池田としても苦しむために勤めるような気持にもなったにちがいない。のちに池田は「大半の人がいなくなり、私一人になった。その時、しめた! これで自分の人生は勝った! と思った」(昭和50年6月6日、第一回本部代表者会議で、内部文書)と述べているが、自らの先見性を証するための創作であり、「やめようと思った」が偽りのない気持ちだったろう。
     が、池田によれば、昭和26年1月下旬、信用組合は「大いに心配がなくなった。目鼻がついたので(戸田は)会長就任の決意を2月11日の誕生日になさった」(『社長会記録』昭和43年4月29日)という。
    「先生は事業を譲って」とあるのは、東京建設信用組合の清算事務を、牧口門下で戸田の事業仲間でもある会理事に委ねたこと、また25年秋、戸田は小口金融、不動産、保険代理業などを営む大蔵商事を設立したが、彼自らは世間をはばかってその顧問で控え、社長に会理事の和泉覚、専務理事に戸田の公認の妾である森重紀美子を立てた(由比、前掲書参照)ことの二つを指すものと思われる。
     池田が六十万遍の唱題を発心したのは、入信から満三年を経た25年晩秋のことであったが、唱題の当初は、相変わらず給料遅配で、その冬もオーバーをあきらめざるを得ないような実効性にとぼしいものであった。が、彼のいう「身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も」のうち、まず「社会的地位」が早くも彼にほほえんでくれた。
    「本日、営業部長に、昇格する。一、経済の勉強をいたすべき事、一、事業の発展に、責任を、一段と深くすべき事、一、学会の前進に、遅れざる事」(池田『若き日の日記から』11月27日)
     大蔵商事の社員は池田のほか、戸田の親戚二、三人にすぎなかったというから、「営業部長」は、およそ名刺上の箔つ゛けだけにとどまっていたにちがいない。事実、部長にともなう手当や給与の方も、翌28日を見ると、「今月で、三ヵ月給料遅配。本日、少々戴く。帰り、大森にて、シャツ等を購入。金、百六十円也」という情けない仕儀であった。
     大蔵商事は12月、新宿百人町に移転したが、その事務所が地肌のままの土間だったことに見合って、営業成績もいっこうに振るわなかった。が、22歳の池田は生まれてはじめて「長」を与えられ、大いに戸田への心証をよくしたと同時に、その妾にも仕える腰巾着の地位を、職制のうえで確立したのだった。
     池田が唱題を始めて、ほぼ「百日」後の26年2月ころから、効験はいよいよ実をともないはじめた。二月初旬、信用組合を解散してもよい、という大蔵省の内意が伝えられて3月11日、東京建設信用組合は正式に解散し、戸田への責任追及はひとまず解消した。
     戸田がどのような手段で法的制裁を免れたかは不明である。


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  • from: ハムスターさん

    2010年10月27日 15時56分46秒

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    お悔やみ

    大阪妙輪寺御住職 坂田御尊師の御逝去の報に接し、

    謹んで、御冥福をお祈り申し上げます。

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  • from: 22世紀さん

    2010年10月24日 21時05分23秒

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    池田大作「権力者」の構造

     戸田城聖の破産と教団指導業への転進

     昭和25(1950)年6月、東京建設信用組合の預金払い戻しは急増し、7月に入ると取りつけまがいの騒ぎさえ起こった。焦げつき債権の回収も、優良組合との合併策も思うにまかせず、払い戻し請求には、なりふりかまわぬ居留守と平謝りの一手しかなかった。
     同組合の被害者のひとりは、のちに戸田をインチキと激しく非難している。
    「昭和24年、当時戸田が西神田にある『東京建設信用組合』なるものの経営をしているとき、知人を通し゛て手形の割引きを依頼されました。まだ保全経済会などの事件も起きぬ前で、インフレの名残りで、高い利率にもそれほど不審も抱かず、手形の割引きを、4、5回したものです。
     また、その信用組合は定期預金なるものを作り、3ヵ月、6ヵ月満期の定期にも加入させられました。そのときすでに多額の貸付金コゲツキのため、四苦八苦の最中だとは、定期の満期の迫ったとき知ったのです。
     ようやく捕まえた戸田と会ったとき、神田の事務所の裏の小料理屋で、度の強い眼鏡をタタミにすりつけて平身低頭『生きている限り、必ずこの戸田が誓って全額返済します』といった姿を今も忘れません。しかし、その後、姿をくらまし、2年後に彼の負債(1,500万円とか)は三割返済の決議により清算されました」(『週刊朝日』昭和31年9月2日号、読者投書)
     結局、事業家・戸田の論理は宗教家・戸田の論理とゴッチャになって、無い袖は振れぬだった。戸田のなめた苦しみは、他人に対して無責任で酷薄な言い抜けや一時しのぎを許す権利を授けたわけである。
     8月、東京建設信用組合は大蔵省から営業停止を命ぜられ、ここに戸田は事業家として致命的に敗れて組合法違反を問われ、また取り立てにからむ刑事事件をひきおこし、債権者からは告訴されることになった。そのため彼は創価学会理事長の職を辞任し、後任を矢島周平に譲って夏季講習会にも出られず、一時は城聖の名を城正と変え(佐木、小口『創価学会』)、雲がくれした。戸田の破産は多くの会員を動揺させ、彼に出資していた一部会員を離反させたばかりか、中には数十世帯を集めて分派を結成するものさえ現れてきた。
     戸田は刑事事件としていつ起訴されるかも知れない身であり、彼の妻は生活のために働きはじめ、池田は牧口門下の清算事務局長の下で、毎日を希望のない善後策に走りまわり、疲労しきっていた。
     池田はのちに当時をこう回想している。
    「昭和25年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしようとする。借金取りは連日連夜悪口を云った。(池田先生が)私一人で頑張った。横領罪で訴えられそうになった。25年の12月には、もう駄目かも知れぬと思った」
    「記者が玉の井で遊んだ時、その売娼婦が信用組合に金を出して損をした話をした。26万だまされたと話したので、それをネタにして乗り込んできた。一応、私が会って、その晩玉の井へ行った。遊郭へ行って、その女に会って話をした。あなたは若いのに真心がある、あなたが来てくれたのだから、その話はもうしないと約束してくれた」(いずれも『社長会記録』昭和43年4月29日)
     東京建設信用組合は春をひさぐしか生きられない底辺庶民の金さえ、結果的にはだましとったのだから、その瓦解が明らかになったとき、出資者たちの怒りが戸田や社員に集中したのは当然である。若い22歳の池田ならずとも、修羅場と感じる。


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  • from: 22世紀さん

    2010年10月24日 15時48分06秒

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    池田大作「権力者」の構造

     戸田にインタビューした大宅壮一は彼の印象を「如才がなく、ぬけめのなさそうなところは、小さな印刷屋や製本屋のオヤジ、でなければ、地方の小学校校長か役場の収入役といった感じである。・・・・・そういえば金貸しにもむきそうな面がまえである」(『婦人公論』昭和32年10月号)と記した。
     戸田の人相、風体、言動、著作物などいずれも聖性とは縁遠く、そのすべてに俗臭が立ちこめていた。池田はそのようなものの弟子であり、戸田から池田への進化はただ一つ、後者がスノビズムを身に付けたことだけであった。
     総じて生前の戸田を知る人々の戸田像は、もうけを片時も忘れることのない小事業家、「勝負」に生きがいを見出す投機的商人、はったりと大言壮語で人をけむにまく山師的性格、さばけた苦労人といったものであった(日隈、前掲書)。
     が、そのような戸田にも、戦前、当局の弾圧に「退転」しなかったことに典型的に見られる、強い力がひそんでいた。戸田を支えた力は、初めは牧口への敬愛の念だったろうが、後には日蓮正宗への強信と入れ替わった。彼の強信は、信仰のフィルターを通せば、その人柄を十分魅力的に、人物を尊敬に値するように見させたのだろうし、一見性格的に相容れそうもない池田をはじめ、多くの青年の心をつなぎ得たのだろう。
     池田は戸田のカバン持ちとして、信用組合の厄介な外交戦の第一線に、責任を負って立たされ、金や法、人や組織、インチキや嘘や脅しなど多くのものを学んだ。
    「毎日の目標をきちんと立てさせる。私も戸田先生から厳しくやられた。耐えられる人はいないね、窒息してしまう。今日はどこに行って何をどれだけやってくるのか。株も勉強させてもらった。二百万円位やらせてもらって二年で三十五万円位損をした」(池田の回想、『社長会記録』昭和46年7月27日)
     この実地教育が大世学院で教える課目以上に有用だったことはいうまでもない。池田は後に修羅場で学んだその知識や技能をおおいに創価学会の経営に役立てたし、また創価学会の成功により、その試練の期間を、池田の先見の明を表す証左ともしたのである。

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  • from: 22世紀 - 2さん

    2010年10月23日 11時05分48秒

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    池田大作「権力者」の構造

     投機的強信者の弟子

     それほどまでに強く池田をとらえた戸田の人柄は、ざっくばらんに過ぎて人に面白がられはするものの、決して一般には尊敬をかち得られるものではなかった。
     戸田は初代会長・牧口常三郎の法要の席で、牧口と対比して彼自身のひととなりを次のように語ったことがある。
    「わたくしと先生はまったく違う。先生は理論の面から、御本尊様を信じきっていた。わたくしは、功徳の面で信じている。わたくしはある体験から、ぜったいの功徳を信じ、日蓮正宗のために命をささげるものです。先生は謹厳そのもので、わたくしは世の中をふざけて生きている。先生は謹直で、わたくしはルーズだし、先生は目白に、わたくしは目黒に住んでいる。先生は非常な勉強家で、わたくしはさっぱり勉強せぬ。先生は飲まないし、わたくしは大酒飲みだ。これだけ、まったく正反対の性格でありながら、先生とわたくしは境地はピッタリ一致していた」(戸田『講演集』上、昭和27年11月)
     戸田の酒は、「29の年から44で牢屋に入るまで一晩もかかさず、出獄後今日まで一晩もかかさない。前は料理屋と待合で飲んだが、今は本部と自宅で飲む。量は今ではウイスキーのオールドびん一本が3日間」(週刊朝日』昭和31年7月29日号)というもので、酔って大石寺での会員質問会にも臨んだ。
     また「料理屋と待合で飲んだ」ことからもうかがえるように、戸田は女性に対しても発展家であった。
     夕張郡真谷地尋常小学校に奉職中には、複数の女性と恋愛し、「恋にもつれ、恋に狂いて、最も神聖なる教職を汚」(戸田『若き日の手記・獄中記』)した結果、その清算のために退職しなければならなかった。また戦前には三角関係を経験し(小口、前掲書)、当時も、戦前、彼の経営する会社の会計役であり、会員でもあった森重紀美子との関係をつつ゛け、彼女との間には子まであったようだ。森重は創価学会幹部間で公認されていた戸田の二号である(由比宏道『毒鼓の縁』)。
     戸田には己の弱所を口にして憚らない率直さはあったものの――おそらくそれは「この世に遊びにきた」(戸田『講演集』上)という彼の行動的、快楽主義的な空無観に通じる一種の達観と関連したものであり、そうした率直さの点では池田よりはるかに上だが――、内省的な深みはまったく欠けていた。
     彼は昭和31年、参院選で柏原ヤスが落選した挙げ句、多くの会員が選挙違反に問われた際には、「(官憲は)買収をしたのじゃないかと買収の証拠を探そうとしている。柏原参議院落選候補のオチンコを探すようなものだ。ワシは柏原だけはオチンコがないから、落ちんと思っていた」(『週刊朝日』前掲号)と野卑な駄洒落をとばしたりした。軽度のアルコール依存症患者は下界に対して上機嫌で円満な態度を持し、駄洒落を好むというが、戸田のこうした言葉はまさしくその症状と思われる。

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  • from: 22世紀 - 2さん

    2010年10月21日 21時12分15秒

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    菅・仙谷が頼った「創価大学卒」の駐日中国大使/週刊現代

     藁をも掴むとはこのことだろう。尖閣問題で中国とのパイプがまったくないことを露呈した菅首相や仙谷官房長官だが、ここに来て公明党・創価学会との急接近が囁かれている。その手始めとなったのが、9月26に突然、菅首相が創価学会の池田大作名誉会長(82歳)が創設した東京富士美術館を訪問したことだった。

    「当初は将来の公明党との連携に向けて、表敬訪問したのではないかと見られたが、あれはそんな先を見越した行動ではない。とにかく目先の尖閣問題を解決するために、仙谷官房長官が創価学会と中国のパイプを使おうとし、菅首相がそれに乗ったということだろう」(民主党中堅議員)

     菅・仙谷両氏は創価学会にとって「仏敵」とされる人物。それでも学会に頭を下げざるを得ない事情があった。胡錦濤国家主席が08年に来日した際も池田氏と会談したように、中国は学会や池田氏を「古い友人」として扱ってきた。人的交流も盛んで、今年2月28日には、創価大学に留学した1期生の程永華氏(56歳)が駐日中国大使に着任したばかりである。

    「日中国交回復(72年)後、中国側が日本に留学生を送ろうとしても、日本の大学が受け入れない事態が続いた。そこで75年に創価大学が受け入れた6人の留学生の一人が程氏だった。私も在学中だったので、お世辞にも垢抜けたとは言えない格好をして、食堂で黙って食事している程氏を何度か見かけました」(ジャーナリスト・乙骨正生氏)

     大使着任直後の3月10日付『聖教新聞』では1面トップで程氏と池田氏の会談を報じている。程氏は学会と中国の関係の深さをアピールする象徴でもあるのだ。

     漁船衝突事件翌日に程氏が外務省を訪れて以降、9月27日に前原外相と会うまで、官邸は大使サイドとほとんど接触できず。それだけに学会に頭を下げてでも、程氏から中国側の本音を探りたかったに違いない。

     ちなみに、程大使は小沢元幹事長とは旧知の仲。尖閣問題でも小沢氏と非公式に2度会談を持ったという情報もある。菅・仙谷氏が小沢氏に仲介を頼む手もあったが、そんなことをするなら創価学会に頭を下げたほうがマシということか。

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  • from: 22世紀 - 2さん

    2010年10月21日 20時20分36秒

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    池田大作「権力者」の構造

    以後、池田は日曜日ごとに、後には毎朝一時間ずつ、矢田俊隆『世界史』、熊谷幸次郎『日本史――概説と問題点』、鵜飼信成『憲法』、鈴木安蔵『政治学』、高田保馬『経済学原理』、ガモフ全集などを教材に戸田の教えを受けたとされている(草柳大蔵「"手つ゛くり人間"池田大作」、『文藝春秋』昭和44年9月号)。
    戸田が学校教材風のこれらすべてを実際に用いたかは疑問であり、また戸田の講義を受けたのは池田ばかりでなく、たとえば26年入信の秋谷城永(のちに、栄之助)も受講者の一人だった。「(秋谷は8:30から)9:00までの30分、かならず博学の戸田会長から雑談ふうの講義をきいた。池田現名誉会長も仲間であった」(『文芸朝日』昭和38年8月号)
     彼らは貧弱の中で、いっそう身を寄せ合い、時に叱られながらも、猥雑なまでに密着した。
    「『さあ、寝るか、伸(池田をさす)、ぼくの布団で一緒に寝ようよ』戸田は隣室の布団に入った」
    「幾度か 戦の庭に 起てる身の 捨てず持つは 君が太刀ぞよ」(戸田から池田への返歌という、いずれも池田『人間革命』四)
     池田にとって戸田とともにする労苦は信仰の危機ではなく、信仰の証だった。彼は、「この地を受けつぐだけでなく、天国をも受けつぐことを定められながら、今はおとなしい様子をしている王子である」(E・ホッファー『大衆運動』)と自分自身を考えていた。そういう池田にとっては、あと半年通えば卒業できた大世学院を断念させられようと、金銭的に恵まれなさ過ぎようと、戸田を見限るなどは論外であり、彼はひたすらマゾヒスティックな快感さえ覚えて、日々を試練として耐えつつ゛けた。一方、それは池田のいうとおり、使われるよりは仕える境地でもあり、彼の前時代的な作風が、自己犠牲をしのびやすくしたのも事実である。


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