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  • from: 21世紀さん

    2009年12月01日 21時44分44秒

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    私が見た創価学会

    前 編  「十一・一六」スピーチは私が録った!
    今、初めて明かす録音の経緯

    善福寺信徒 大渕清子
    (元・創価学会女子部本部長)

    創価学会は、平成三年に日蓮正宗から破門され、今では完全に邪教集団となってしまいましたが、破門に至る課程で、日蓮正宗に反逆しようとする池田大作の本音が明るみに出たのは、いわゆる「十一・一六」平成二年十一月十六日の本部幹部会における池田スピーチの録音テープでした。
    ところが、創価学会側は、この録音テープを「出所不明の代(し)ろ物」と切り捨てることによって、池田の問題発言に対する指摘を〝言い掛かりである〟と吹聴したのです。
    しかし、あの「十一・一六テープ」は、出所不明などではありません。当時学会の女子部であった私が、会場で生録音したものなのです。
    今、その時の経緯を明らかにしたいと思います。

    学会内部からの改革を決意

    女子部本部長(当時)だった私が、小川/頼宣さん(元・学会本部広報部副部長)に連れられて、後藤順子さん(当時・女子部大B長)・河上雅夫さん・大渕両平さんらと共に、福島源次郎さん(元・学会副会長)のお宅を訪問したのは、平成元年のことでした。
    その当時の私は、原島嵩氏(元・学会教学部長)や山〓正友氏(元・学会顧問弁護士)らの内部告発によって次々と明るみに出た池田大作の女性スキャンダルを耳にし、学会幹部の言う〝素晴らしい池田先生〟と〝スキャンダルまみれの池田大作〟のあまりのギャップに、頭の中は混乱していました。
    すでに池田大作の本質を見抜いていた福島源次郎さんは、私達に対し、池田の誤りを真剣に話してくれました。そして、執筆中だった『蘇生への選択』の内容にも触れて、
    「池田の邪義邪説から学会員を目覚めさせる、信心覚醒の戦いをやろうと思う」
    と、内部からの改革を志していることを打ち明けてくれたのです。
    私達はその場で、一緒に戦うことを決意し、その日から福島さんと行動を共にしました。この時参加した五人が、後に「蘇生の集い事務局」の中核になったのです。
    『蘇生への選択』が発売されると同時に、『月刊アサヒ』で「池田大作のウソと金」という特集が組まれました。朝日新聞編集局社会部長待遇を務め、長く池田大作と創価学会のアドバイザーを務めてきた央忠邦氏が一肌脱いでくれたのです。山手線等の中吊り広告で大々的に宣伝され、とても驚きました。
    読者からは数多くの賛同の声、批判の声が寄せられました。そうした中で、小川さんと後藤さんを中心に、賛同者に声を掛け、池袋の区民センターで池田の邪義を正す勉強会を開催することになりました。第一回目は小さな会議室で、受講者は二〇人にも満たないものでしたが、池田の邪義から解放されていくごとに、不思議と気分がすっきりと晴れるのです。
    一方、学会の妨害は激しく、会場の出入り口にはいつも学会員の車が駐車し、参加者の顔写真を撮ったり、尾行して自宅をつきとめ、嫌がらせをするなど、大変な日々でした。我が家にも、玄関先にゴミ袋が散乱した状態で置かれたり、玄関の扉には汚物が塗られたりしました。

    「池田の問題発言を録音しよう!」

    こうした中で、福島さん小川さん達が大阪や北海道の勉強会に行った折、御住職様方から
    「池田は間違っています。でも証拠がありません。〝昭和五二年路線〟の時は、聖教新聞や大白蓮華で池田の邪義ぶりが公然と書かれていましたから、私達も攻めやすかったのです。証拠がほしいですね」
    と言われました。
    「よし、じゃあ池田と学会幹部が何を話しているか、テープに録ろう!」 私達は、これこそ、私達の隠された任務だと思い、張り切りました。
    平成二年、会合のたびに池田大作の問題発言が続くなか、実際に本部幹部会での池田大作のスピーチをテープに録りに行くことにしました。
    まず機材が必要です。私達は、秋葉原に行き、高性能のテープレコーダーを買いました。
    第一回目は、私一人が会場の渋谷文化会館の中に入り、他のメンバーは外のホテルで待機していました。事の重大さを思うと、自然と緊張感が湧いてきます。
    ところが、会合を終えて意気揚々と皆の所に戻り、バックの中をふと見ると、機械の入力ランプが消えているではありませんか。スイッチが入っていないのです!
    もう頭の中が真っ白になってしまいました。会場では何度も何度も、スイッチが入っているかどうか点検したはずだったのですが、緊張感のあまり、逆にスイッチを消してしまったのです。
    次こそは、という思いで、二回目に臨みました。今度はうまくいった、と胸をなでおろしたのですが、マイクの位置で失敗しました。
    とにかく緊張していましたから、心臓がドキドキしており、せっかくの高性能の機材がまるで医者の聴診器のように心臓の音を拾ってしまい、肝心の池田のスピーチが聞こえないのです。
    落ち込むことばかりです。とにかく唱題をして頑張ろうと、次に臨みました。
    三回目は、マイクの位置を変えて録音をしました。とてもきれいに録音されたのですが、今度は、操作ミスのためか、テープの片面のみしか入っていませんでした。森田と秋谷の話だけで、肝心の池田のスピーチはほんの少ししか入っていません。

    「十一・一六」の録音に成功

    そして、問題の平成二年十一月十六日、四回目の挑戦です。場所は、これまでと同じ、渋谷文化会館です。
    この時は、念のため、もう一人(男性メンバー)がテープレコーダーを持ち込むことになりました。私は、入場券を準備してもらっていましたが、万一、そこから名前が判ると危ないと思い、どさくさに紛れ、入場券なしで入ることにしました。
    私はうまくいったのですが、もう一人の男性は、受付で止められ、ちょっと問題になりました。何とかうまくその場をつくろい、大事には至らなかったそうです。今思うと、やはり魔が強かったのだと思います。この間、ずっと小川さん、後藤さんは蘇生の集い事務局で唱題をしてくださっていたそうです。
    録音テープは、両方とも、きれいに入っていました。小川さんから、「池田の音声もクリアだ。これで複数本のテープが入手できた。証拠能力としては十分だよ」と言っていただき、私は、ホッとしてその場に座り込んでしまいました。
    その夜、テープを福島さんに届け、福島さんは、録音テープと反訳文にお手紙を添えて、それを重大な覚悟で総本山に送られたそうです。
    私は、「よかった、お役に立てたんだ」と、心から御本尊様に感謝のお題目を唱えました。
    後で聞いたところによれば、他にも録音された方がいたそうですが、それらのテープの中でも、私の録音したものがいちばんクリアに録れていたそうです。
    それからは、学会の警戒がとても厳しくなりましたが、一方、渋谷文化会館の他、戸田記念講堂や杉並文化会館等の入場券も簡単に入手できるようになり、録音活動も上手になって、そのつど、小川さんから福島さん経由で提出し続けました。
    時には危ないこともありました。男性メンバーが戸田記念講堂に入った時、受付で取り囲まれて別室に連れ込まれ、数時間にわたって軟禁状態になったあげく、録音機に入っていたテープを没収されたのです。
    その男性は、「蘇生の集い」の勉強会の役員をやっていたことから、学会に写真を撮られていて、その写真が戸田記念講堂の創価班まで回されていたようです。
    それにしても、「十一・一六」のテープがこんな大きな影響を与えるとは、当初は想像もつきませんでした。ましてや、池田大作の総講頭資格喪失から創価学会の破門に至るとは思ってもいないことでした。
    今でも渋谷を通るたびに、あの時の緊張感が思い出されます。先日も仕事で付近を通りましたが、あの時の「ドキドキ感」が鮮やかに思い出されました。私にとって十一月十六日と渋谷は一生忘れられないことでしょう。

    今、法華講員として

    その後、私達は創価学会を脱会して、日顕上人猊下の御慈悲により、晴れて法華講員となりました。堂々と胸を張って戒壇の大御本尊様の御開扉を受けられる身にしていただいたのです。なんとありがたいことでしょう。
    一方、私の家族のことですが、私の活動に対して狂ったように反対していた母が病で倒れ、入院中の平成二十年、やはり学会員だった姉が交通事故で亡くなりました。青信号の横断歩道を歩いている最中に、トラックに胸を轢かれて即死したのです。
    母はとてもショックを受けた様子でしたが、私は思いきって、「まじめ一方の姉ちゃんがこんな死に方をするなんておかしくない? 成仏とは程遠いよね。これは罰だと思う」と言うと、母は茫然としながらも素直にうなずきました。猛反対をし続けた母がうなずくなんて、こんなことは初めてです。
    十五年近く閉ざされていた母の心が、開かれ始めたのです。この時ほど御本尊様のお力をありがたく思ったことはありません。
    「お母さん、昔、総本山にも何度も連れて行ってくれたよね。もう一度、戒壇の大御本尊様にお目通りに行こうよ」と言うと、母は「うん」とうなづいてくれました。
    『立正安国論』正義顕揚七五〇年にあたる本年、何としてでも大御本尊様のもとに母を連れ行き、懺悔滅罪の祈りをさせたいと決意しております。
    (つづく)
    【慧妙平成21年3月1日号より転載】

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from: 21世紀さん

2009年12月09日 08時57分21秒

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「Re:私が見た創価学会」
学会の公認通訳として見た池田の姿
それは失望の連続だった――
理境坊所属妙観講 後呂聖子

私は学会二世として、創価学会員の両親のもとに生まれました。両親は、学会の活動拠点として我が家を提供し、広布のためにと、より広い会場を目指して引っ越したり、家を建て替えたり、百畳敷きの会館を提供したり、熱心に活動を行なってきました。
そうしたなかでも、私が静岡の高校にいた頃、母がある女性と大親友だったことから、その女性が池田センセーの愛人であることを知りました。
その女性は、結婚していて夫も子供もいます。御主人は、自分の妻とセンセーとの関係を承知していて、何も言わない御褒美として、センセーから大幹部に任命されたというのです。
多感な年頃だった私は、そのようなことにおぞましさを感じながらも、中学時代からの夢であった通訳になるために勉学に励み、第二志望の創価大学に入学することになりました。
そして、在学中に「通訳になりたいのは、単なる自己満足ではなく、世界中に日蓮大聖人の仏法を求めている人達がいて、その人達に仏法を正しく伝えるためである」と自覚してからは、さらに一心不乱に英語の勉強と信心活動に打ち込みました。

間近に接してショック!

当時は、池田センセーの英語の通訳として、矢倉涼子さんが活躍中でした。その矢倉さんが私の大学在学中に結婚することになり、〝ポスト矢倉涼子〟選びが始まって、まだ学生だった私にも白羽の矢が立ち、私は「涼子部隊」と称される通訳のメンバーに選ばれました。
そのグループの目的は、〝矢倉涼子に続く、池田センセーのお役に立てる通訳を育成する〟というもので、英語以外の言語も含め、全部で七、八人はいたと思います。
それまでは比較的遠い存在だった池田センセーを、私がすぐ目の前で見たのも、この涼子部隊の集まりの時でした。それまでは、池田センセーが大学に来た時に、一緒に記念写真を撮ったり、講演を聞いたり、会食会に参加したりということは数多くありましたが、私は大勢の中の一人にしかすぎませんでした。それが、私のすぐ目の前でセンセーに接する機会ができたのです。
間近で接したセンセーに対する私の印象は、「ふんぞり返っていて、何と不遜な態度の人なんだろう」という強烈なものでした。しかし、その頃の私は〝池田センセーは、信心の絶対的な指導者〟と信じていましたので、すぐさま、「自分は何て信心がないんだろう! そんなふうに思ったのは、自分の心が汚ないからだ」と思い直し、自分の直感をかき消しました。
その席では、さらに腑に落ちないことがありました。
涼子部隊の一人がセンセーに、「八〇歳を越えた祖母が体も弱っていて、どうしたらよいか」との質問をしたところ、センセーからは、「もう、そこまで生きたのだから、いいよ」といった返事が返ってきたのです。
私にはどうにも納得のいかない返事でしたが、それもまた、深く考えないようにして、心の中に封印しました。
今にして思えば、誰人たりとも、「あなたはもう充分に生きたからよい」とか「悪い」とかと判断を下す権利など、あるはずがなく、正しい仏法信仰者の言葉としては、「最後まで福徳を積ませてあげられるように、家族で助けてあげましょう」と言うべきだろう、と思います。
いずれにせよ、これが生(なま)の池田センセーとの最初の出会いでした。

異常な「恋愛禁止」のこだわり

その後、大学を卒業した私は、池田センセーから認められた最年少の「公認通訳」に任命され、本部でも池田センセーの通訳になるべく、どんどん訓練を受けていきました。国際部長からも女子部長からも後押しを受けて、センセーのもとへ、センセーのもとへと連れていかれました。
その間、同じようにセンセーの通訳になるべく訓練を受けていたポルトガル語の通訳者は、彼氏を作ったことで池田センセーの逆鱗(げきりん)に触れ、「目的が違う!」と怒鳴られて、通訳を降ろされました。池田センセーの通訳になるには、彼氏を作ることは御法度(ごはっと)だったのです。
私もそれは厳重に注意を受けていました。「彼氏ができると、そちらに心が奪われて、センセーの通訳に集中できないから」というのが理由です。
これもまた、私にはどうしても納得のいかないことの一つでした。「本物の信心というのは、周りにどんな誘惑があろうが魔の働きがあろうが、それらに影響されない強い自分を築いていくことではないのか。そうでなければ、センセーの通訳は一生結婚できないことになる」と。
その「恋愛禁止令」がセンセーの意志であることを、強く認識させられたのは、私が通訳の仕事でアメリカに長期出張していた時のことです。その時、たまたまセンセーも訪米してきて、数名の通訳と共にセンセーに再会する機会があったのですが、センセーは、まずは会って早々、私を指さして、「えーと、これは何だっけね、これは?」と、まるで物扱いするかのように聞いてきました。
私は少しショックで、何も答えられずにいると、周りの人が私の立場を説明してくれました。すると、センセーは急に、「彼氏はいるのか?」と何の脈絡もなく聞いてきたのです。二、三回、畳みかけるように同じ質問をしてきましたので、私が「いいえ」とだけ答えると、センセーは「イヤー心配だ!心配だ!」と言い出し、側にいた第一庶務の女性にすぐさま何か指示を出していました。
後でわかったのですが、その第一庶務の女性は、私がアメリカにいる間、定期的に連絡を取っていくように、と言われたのだそうで、私に彼氏ができていないかどうかの監視役として彼女を付けたようです。

「身代わり勤行」に呆然!

私がアメリカに行く二年くらい前、学会本部でセンセーと会食を共にする機会がありました。海外から来た婦人部のメンバーも交えた、六人ほどの席でした。
その時、第一庶務の若くて綺麗な女性にいろいろと世話を焼いてもらっているセンセーの姿を見て、私は素朴に、「どうして、ご飯を食べるくらい自分でできないのか」と不思議に思ってしまいました。
しかも、間近でセンセーが食べる姿を見ていると、何だかとても下品なのです。平気で口を開けたままゲップはするし、音を立てて食べるし、という感じでした。
また、センセーは、勤行もまともにしていなかったのではないでしょうか。私は、矢倉涼子さんの口から、こういうことを聞きました。
「センセーがソ連に行く時は、共産圏で勤行ができないから、私がセンセーのために朝晩とも二回ずつ勤行するの。」
共産圏といえども、ホテルの部屋で勤行することはできるはずです。私は、センセーが勤行をしないという事実を知った衝撃が大きくて、信じられない思いでしたが、二度にわたって矢倉涼子さんから同じことを聞きました。
なお、身代わりで勤行するほどセンセーの信頼が厚く、近年に至るまでずっとセンセーの側に仕えていた矢倉涼子さんは、二年ほど前、大麻所持で逮捕されるという事件を起こしましたが、これが今の池田創価学会の現実を物語って余りあるような気がしてなりません。

通訳に困ったアドリブ暴言

さて、私がセンセーの口から宗門攻撃の言葉を初めて聞いたのは、一九九〇年(平成二年)の八月頃でした。学会本部に海外メンバーが集った時に、いきなり宗門の悪口を言い始めたのです。
しかも何の脈絡もなく、「みんな騙されちゃいけない!」という檄(げき)を何度も飛ばし、矢倉涼子さんも通訳に困っていました。
一度、次のようなことがありました。
センセーは、講演直前に通訳の所に原稿を届けさせました。矢倉涼子さんが一人で全てに目を通すことは不可能だったので、皆で手分けをして翻訳文を書き込みました。
それを、センセーのスピーチに合わせて矢倉涼子さんが読み上げようとしたのですが、何人もの人の手書きで読みにくかったことに加え、センセーがアドリブで言う宗門攻撃には脈絡がないので、彼女はものすごく苦労していました。後で彼女が、「もう、泣きたかった」とこぼしていました。
センセーの口から怨念のように宗門誹謗が繰り返され、あげくは「五座の勤行はしなくていいんだ」などと言い出したのを聞いて、私は、学会は完全におかしい、と思うようになり、平成三年の三月、ついに家族全員で脱会いたしました。
【慧妙平成21年2月1日号より転載】

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from: 21世紀さん

2009年12月03日 07時27分35秒

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「:Re:私が見た創価学会」
後編  〝信心活動=選挙活動〟だった想い出
ウグイス嬢として活躍したあの頃

善福寺信徒 大渕清子
(元・創価学会女子部本部長)

四、全て選挙のために費やされた日々

昭和五十五年夏の衆・参同時選挙は、一つでさえ大変な国政選挙が二つ重なったために、睡眠を削ってもさばききれないほどの仕事量がありました。
一番大変なことは、五月十七日から六月二十二日の投票日までを四期に分けて、組織を動かすことです。当時の日程表(※別掲)やメモが残っていましたので、それに基づいて簡単に説明します。

●第一期(5月17日〜5月29日)
「人脈に総当たりする」
※これは、全活動家が人脈をたどって総当たりし、F票(=非学会員の公明支持票)見込み者を開拓し、固める期間です。この活動を徹底させるために、支部長会・大B長会・大B協議会・報告会などの会合が、間隙を縫って頻繁に設けられています。(註・大B=当時の学会組織の単位)
また、公示前日(5月29日)の「ポスターの撤去」も、学会員の活動予定に組み込まれています。
●第二期(5月30日〜6月5日)
「公示本番にあたり、Fに総当たりする」
※衆・参、それぞれの公示日(5月30日)に「大B出陣式」が設けられ、選挙ハガキを「大Bまでおろす(振り分ける)」ことになっています。そのハガキについては、衆院選用は、有力なFにお願いして、まだ公明党支持の固まっていないFへ出してもらい、参院選用は、内部(学会)の活動者がFに出す、とされています。
●第三期(6月6日〜6月15日)
「徹底した拡大」
・6月12日以降は、夜も電話作戦を行なう。
・選挙日まであと十日に迫った6月13日の「大B活動者会」で、中盤の選挙情勢分析  を発表し、その席で、〝他党から一票をもぎとること〟と、〝14、15の土日は票が  固まる大事な時期だから、中だるみを廃して終盤戦に突入すること〟を訴える。
●第四期(6月16日〜6月22日の投票日まで)
「総攻撃」
・6月16日の「大B協議会」で〝総攻撃〟を打ち出す。
・大B幹部は、18日の「大B長会」までに、投票日当日の〝連れ出し態勢〟の準備を  完了させる。
※〝連れ出し態勢〟とは、学会員がFを自動車等で投票所に連れていくことで、目的は、公明党候補者の名前を途中でダメ押しするためです。完全な選挙違反ですが、学会の内部では、「これは選挙活動ではなく、投票活動の応援しているのだ、と弁解しなさい」と教育します。
・6月19日の「大B活動者会」をもって、最後の三日間の総突撃を敢行する。

この四期にわたる活動日程に合わせ、個人演説会・立会演説会・遊説・ポスター貼り・ビラ配布等をきめ細かく実行に移していくのです。
その中で最も力を入れて推進するのが、〝不在者投票〟です。不在者投票に連れ出したFは、八〇パーセントから九〇パーセントが公明候補に投票します。投票所から出てきた後、「ちゃんと○○さんに入れた?」と聞きますので、確実な数字です。これが、学会の見えざる最高戦術で、私もずいぶん、不在者投票に知人を連れ出したものです。

五、激しい選挙戦に感じた虚しさ

前回も述べたように、当時、区の女子部本部長であった私は、この選挙でウグイス嬢の担当幹部を任されていました。
板橋文化会館の二階では、私達ウグイス嬢に対し、幹部より、本部の意向に基づく指導がありましたが、当時の信心指導のポイントは、〝広宣流布のために選挙は不可欠の戦いであること〟〝勝つためには、池田先生の心にギヤを合わせていくことに尽きる〟というものです。間違っても、池田会長の辞任(※本紙三月一日号に詳述)によって新会長に就任したはずの北条会長にギヤを合わせる、という指導はありませんでした。
そして、信心指導が終わると、会議室で、衆議院東京第九区松本候補の遊説コースと街頭演説の場所の確認、参議院東京地方区三木候補および同全国区大川候補の遊説コースを確認し、その手順を打ち合わせます。
板橋文化会館の会議室には、候補者のポスターやポスター用の証紙、ポスターを貼り付けるベニヤ板、個人ビラとそれに貼る証紙、チラシ、選挙ハガキ等が各本部別に仕分けられていました。それらの全てが、深夜までかけて手際よく搬送され、区内十一ヶ所に設けられた公明党選挙本部に届けられていくのです。
私は、選挙戦を重ねるうちに、だんだん虚しさを感じてくることもありました。折伏よりも選挙に膨大なエネルギーをつぎ込んでいる学会の活動現場に身を置いていると、「こんなことで広宣流布が本当にできるんだろうか」との疑問が湧いてきたのです。
ある時、恐る恐るその疑問を、区の選挙対策幹部の一人であった小川/頼宣氏(現在は法華講員)にぶつけてみました。ちょうど、内部告発等で池田大作の女性スキャンダルがマスコミをにぎわせている頃でもありました。
小川さんは、「そうだね、御書には〝政権をとれ〟とはおっしゃっていない。選挙活動の理論的根拠は、戸田先生の〝王仏冥合論〟によるわけだけれど、これはあくまでも試論にすぎない。僕個人としては、選挙を百年やったとしても広宣流布とは関係ないと思う。本音を言うと、じつは選挙に飽き飽きしてるんだ」と、慎重に答えてくれました。その時、私だけじゃなかったのだ、と安堵したことを、今でも覚えています。
ちなみに、秋谷栄之助副会長(当時)クラスを総指令として、組織の隅々まで選挙態勢で戦った、この昭和五十五年の夏の衆・参同時選挙では、衆議院候補の松本氏は落選してしまいました。

六、結び

この選挙の頃、『週刊文春』では、創価学会の内部告発が盛んに報じられていました。これも、選挙戦の敗因の一つだったのでしょう。
そして、その直後に内部告発者が覆面をとって、同誌に実名を公表しました。それは、原島嵩教学部長でした。
隠しようのなくなった学会本部からは、
「(原島氏については)全ての役職を解任し、除名した。昨年の十一月以来、池田先生はかばっておられたが、重ねての家族の説得も聞かず、家を出てしまった」「六老僧の中で退転した民部日向は学頭職にあったのであり、今でいえば教学部長にあたる。創立五〇周年の節にこのようなことがあるのは、仏法の方程式である」(主旨)などと説明がありました。
私は、なるほどとは思いましたが、なぜ選挙が終わった後の発表なのだろう、と割り切れないものを感じました。
前の年には、次期会長レースのトップを走っているとされていた福島源次郎副会長が大牟田事件で失脚していました。続いて原島教学部長が内部告発です。
この二人は、池田大作の側近中の側近であり、学会内の「師弟不二論」の双壁でした。私は、この二人の指導を聞いて、池田大作を人生の師匠と思い定めて歩いてきたのです。その二人でさえ実践できないような学会の師弟論とは、いったい何なのだろうか、と思い、深いため息をつくばかりでした。
そして、後年、前編(本紙三月一日号に掲載)でも述べたような経緯で創価学会を脱会し、法華講員となったのですが、今にして思えば、池田大作は日蓮正宗から破門される以前より、大聖人の仏法を利用して〝天下取り〟を狙っていたのであり、学会員はその野望の手駒にされていたにすぎない、ということが、本当によくわかります。
以上
【慧妙平成21年5月1日号より転載】

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from: 21世紀さん

2009年12月02日 04時17分22秒

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「Re:私が見た創価学会」
中 編  池田の「お詫び登山」と「引責辞任」
幹部も何も知らされていなかった!
善福寺信徒 大渕清子
(元・創価学会女子部本部長)

二、昭和五十三年の「お詫び登山」

昭和五十三年の十一月、在京の幹部は、突然の招集によって東京都立体育館の前に集められ、そこからバスで総本山の大講堂に連れて行かれました。区の女子部本部長であった私も、その一人でした。
そして、大講堂に居並ぶ幹部達の前で、池田大作は日達上人に深々と頭を下げてお詫びをしました。
私は、何のことやら、さっぱり訳がわかりませんでした。私の周りにいた人達も、「あれ! 池田先生が日達上人にお詫びをしているよ。どうして…?」と囁いていました。
これが、後に「お詫び登山」と称されているもので、創価学会の「第一次教義逸脱問題」(昭和五十二年路線)を御宗門から指摘され、進退きわまった池田が総本山にお詫びして破門を免れようとしたものだった、と私が知ったのは、ずっと後のことでした。外部からは信じ難いことかもしれませんが、その時点では一握りの首脳部以外、学会員は誰一人として、この日の会合の主旨を知らなかったのです。
そして、それから約五ヶ月後の昭和五十四年四月、池田大作は、突然、創価学会の会長を辞任しました。その時、学会本部では、「後進に道を譲るための勇退だ」とマスコミに鼓吹(こすい)しました。
しかし、池田/大作を日蓮大聖人の生まれ変わりのように信じていた幹部達は、この本部の説明を誰も納得していませんでした。何が何だかわからないまま、ただ、その事態を受け入れるしかなかったのです。
私が、この辞任の本当の理由――つまり、「お詫び登山」以後も改まらない学会の方向性を御宗門から指弾されて、池田が責任をとっての辞任であった、と知ったのも、学会を離れてからのことです。
さらに、近年、『懺悔滅罪のために』(暁鐘編集室・平成一九年発行)で、その会長辞任の直後に、池田が何と言っていたかを知り、驚きました。
そこには、学会の教学部長(当時)であった原島嵩氏が実際に遭遇した話として、
「池田/大作は、まず、首脳や最高幹部を締め上げました。五月三日(※「本部総会」の日)の直後、『創価学会は俺そのものだ。私が創価学会の魂だ。お前達は、私の全財産をただ預かっているに過ぎないのだから、【一時お預かりいたします】という一札を書くべきだ。また、私を〝永遠の師〟と仰いでいく、ということも、誓約したらどうだ』と言い、皆から誓約書を取りました。会長を退いたといっても、全てはそのまま、第一庶務も特別室も専用施設も全く変わりません」
と書かれていたのです。
当時の私達には知るよしもありませんでしたが、裏ではそのようなことがあったのか、と、あらためて池田の権力欲のすさまじさに驚いた次第です。

三、「政教一致は当たり前」の感覚

さて、その頃、『月刊ペン』(昭和五十一年三月号・四月号)のスクープに端を発し、池田大作の女性問題が週刊誌などで大変な騒ぎになっていました。
私は、初めははタチの悪いヤラセ記事だと思っていましたが、騒ぎは止む気配もありません。そして次第に、本当のことかもしれない、と思いはじめました。それは私ばかりでなく、創価学会の現場は、納得しがたい説明を繰り返す本部に対し、不信感が積み重なっていきました。
そうした状況の昭和五十五年、学会挙げての総力戦を余儀なくされる参議院選挙の年を迎えました。しかも、直前の衆議院解散により、創価学会にとって一番苦手な、衆・参同時選挙を戦うことになったのです。
参議院選挙は東京地方区と全国区がありますから、実際はトリプル選挙です。公明党候補者の票を取るためには、投票所で三人の名前を書いてもらわなければなりません。三人の候補者の名前を覚えさせるだけでも、大変な手間ひまが掛かります。
五月に入ると、六月二十二日の投票日に向けて、学会活動は選挙一色になりました。秋谷副会長(当時)からは、戦いに先立ち、次のような指導がありました。
「三種類の候補者名をいかに覚えさせるかが鍵だ。F(=フレンド票。非学会員の公明党支持者)は、三人も名前を覚えなさいと言われると、三番目あたりでだんだんイヤになるだろう。それでも、なんとか仕上げていってもらいたい。」
「東京全体で団結して、このトリプル選挙を勝ち取っていこう。衆議院の一区と八区は、辛勝がやっとで、参議院の票まで手が回るかどうかわからない。そこで余力のある選挙区がカバーして、参議院を押し込んでゆく戦いを展開してもらいたい。」
「池田先生からは、『大変だけれど、北条、秋谷を中心にして、公明党・創価学会は異体同心で戦っていきなさい。お互いに護り、励まして、この戦いを乗り越えていこう』とのお話がありました。最大のチャンスが来たと思って、遮二無二でも突っ込んで、現場の白兵戦で勝利をもぎ取っていきましょう。」(以上、趣旨)
このことからもわかるように、前年に引責辞任したはずの池田大作は、舌の根も乾かぬうちに隠然たる支配力を発揮し、選挙戦の号令を掛けていたのです。
板橋区の女子部本部長だった私は、その選挙戦でウグイス嬢の担当幹部を任され、板橋文化会館の二階和室で、選挙カーに乗るウグイス嬢に細かい技術を教えました。
板橋文化会館の一階会議室では、全国主任部長で第四東京副青年部長の小川/頼宣氏(※現在は法華講員)ら、担当の大幹部が詰めて、選挙戦の指揮を執っていました。
後に、「政教一致問題」の象徴として、非課税の特権を受けた宗教施設が選挙の際の公明党の根城になっていることを他党から追及され、創価学会側は苦しい言い逃れをしましたが、ひとたび選挙ともなれば会館がフル活用されるのは、紛れもない事実であります。
平成二〇年、矢野元公明党委員長が週刊誌誌上で創価学会を告発した中にも、「会館が選挙のために使われており、政教一致と疑われても仕方がない」というくだりがありましたが、私の経験に即して言えば、これは本当のことであり、私達にとっては当たり前のことでした。
学会員だった頃の私が所属していた地域では、区議会議員選挙、衆議院議員選挙、参議院議員選挙、都議会議員選挙等を全て、板橋文化会館を中心に選挙活動が行なわれました。
当時の私は、それに対して何の疑問も感じていませんでした。それどころか使命感に燃え、いそいそと選挙活動に頑張っていたのです。今にして思えば、創価学会という、狭窄(きょうさく)な社会の中でしか物を見ていなかったことを、つくづくと思い知るばかりです。
次回は、創価学会で経験してきた選挙活動の実態について紹介します。
【平成21年4月1日号より転載】

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