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  • from: 21世紀さん

    2011年06月30日 23時05分45秒

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    「Re:牧口常三郎の実像」
    【牧口会長】
    ◆吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
    -----------------------
    「無条件で敬神崇祖」とは国家神道の教えである。ここに牧口会長が国家神道を容認していたことは明らかである。「神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない」とは、日淳上人が「宗教的の上に神があるのではない」として国家神道を容認された主張を参考にしたものか。それにしても、「神社は感謝の対象」「吾々が靖国神社へ参拝するのは」とは言い過ぎではないか。



    日淳上人は神道を「神社神道」と「宗派神道」に分類し、前者は宗教的でないとして容認し、後者は邪宗教として排斥された。国家神道とは、天皇及びその祖先を神として敬うという理念(イデオロギー)であり、個人の具体的な幸不幸に関わる教義や祈念の対象としての本尊を持たない。その意味で宗教ではないのであり、その限りにおいて容認される。それに対して宗派神道は本尊(神体?)を持ち、それを信じることによって個人の幸不幸に関与する。だから邪宗教として破折排撃されるべきである。日恭上人を初めとする戦時下の宗門は、世間悉檀の上から、このような方針で国家神道に臨まれたものと拝する。


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  • from: 21世紀さん

    2011年06月30日 23時04分32秒

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    「Re:牧口常三郎の実像」
    日淳上人の神道観

    --------------------------------------------------------------------------------

    (<法蔵>H19.7.15)

    【『誤ることなかれ』】

    ************************************************************
     神道に於て神社神道と宗派神道との二流があつて、前者は祖神崇敬を中心とし、後者は神道を宗教として立てるところに両者は全く趣を異にするといふのが学者の定説である。然るに近時神道家の間に神社神道を宗教的たらしめやうとする運動が擡頭(たいとう)しつつあるやうである。此は今日の国体精神の復興に刺激せられ国粋的純情の自然の趨勢(すうせい)として起り来るもの敢へて怪しむに足らぬところであつて、一般世人も暗々裡にかくの如き傾向にあるといへる。
     此れ等の所論に従へば日本は神国であり、世界無比の国である。然るに他国より輸入せられた神仏を崇敬して膝を屈するは恥辱であり、国体観念の混乱はこのことによつて醞醸される。苛(いやしく)も文化が他国と同等若くはそれ以上に達したる現在何を苦(ママ)んで他国の神仏を崇める必要があるか宜しく此等を排撃して神道に帰すべきであるといひ、而して此のために神道も此れ等の所依となるべく宗教的にならねばならぬといふ。而して又神道を宗教たらしむることの合理的なるについては神道は本来国家的倫理的宗教的の三つの要素を包含してをる。それ故此の宗教的要素を高揚して宗教とするも毫(ごう)も差支へなく当然であるといふ。
     此れについて吾人は前の他国の神仏を崇敬するを止めんとするは別途の意義もあり大いに賛するところである。由来かかる他国の神仏を立つることは往昔我が国文化が劣つてをつた時他国文化を崇拝するあまりに起つたことである。勿論此れは人情の然らしむるところ、今更とかくいふ必要もないが今日我が国が世界のどの国にも遜色なき文化をもち、しかも真の面目を宣揚して世界を導かんとする時に当って過去の残滓(ざんし)たるものを清掃して自家の天地を自覚し、決然立つべき時に於ては当然執(と)られねばならぬ処置である。このことはけつして感情上の議論ではなく、純粋理性の上から他国の神仏を批判する時到達するところなのである。
     しかし乍(なが)ら一方論者のいふ神社神道を宗教たらしめんとすることには一言しなければならぬと思惟する。神道が三つの要素を包含してをるが故に宗教たらしむることは差支へないといふは一往もっともの如くである。しかし乍ら此れは祖神を立つるところに自ら三要素が具足するのであつて宗教的の上に神があるのではない。此れが神道の根本義である。然るにその宗教的要素の高揚は必らず宗教的なる辺に神道を立つるといふことに結果する。若し然れば今日の宗派神道と何等撰ぶところがなくなるのである。祖神を立つるところ宗教的であるといふのと、宗教的なる辺に立つるといふのとは大した差違もなく考へられるが、しかしその結果より見る時大変な相違がある。而してこのことは神道の根本義を破壊するものである。
     神道が宗教として立てられることは宗派神道に見られる。而し此等がその教義を徹底して窮極(きゅうきょく)するときどうであるか。大概は神道の根本義たる祭政一致を没却し直接祭祀のことをなすが故に神の啓示は教祖教主が或は自己にありと信じ必然的に世間法の混乱錯雑を誘引するにいたる。このことは大事が中の大事である。
     西洋の神なるものは造化神であるかまた祖神なることに違いはない。彼等は此の神を宗教の上に信ずるがため、此れに影響せられて皆悪平等に堕するのである。その結果はどうであるかといへば西洋史の上に現はれてをる。今神道を宗教たらしむることは此の弊を踏襲することに他ならぬ。
     神道に於ては祖神を崇敬するところに宗教的要素があるのであつて、宗教的なるところに神道を立てないのが根本でなければならない。此の限界は一見不分明であるが、もつとも戒心すべきところである。(第65世日淳上人『大日蓮』S11.8/『日淳上人全集』136頁〜)
    ************************************************************

    【『神道の限界性に就いて』】

    ************************************************************
     最近神道側から神社を以て宗教となし、之れを国教とせよといふ声が頻(しき)りに伝へられる。而してその論ずるところは神社以外の一切の宗教は非国家的であつて国体観念を破壊する誘引とこそなれ、豪(ごう)も涵養(かんよう)するものでないが、神社は国体の表現そのものであり、神人合一にこそ国家人としての体現があるとし、従来神道は教典を有せず三世を説かない等宗教としての要素を具備しないといはれるがけつして此見解が当つてをるものでないといふ。而して或は又神社は倫理的宗教的国家的の要素の上にあるものであるから宗教的面の高揚は少しも不都合でないとして主張するが如くである。
     宗教を国家の上から批判してその適合性によつて正邪を判断することは正当なことであり、日蓮大聖人は五綱の教判即ち教、機、時、国、教法流布の前後の五箇条を基準として宗教の正邪を判定なされてあるが此のうち国判がそれである。大聖人はこの国判によつて他一切の宗教は吾が国体に不適合であると断定せられてをる。神道側の主張は別な意味からではあるが国家を基準としてなさるゝ点は同じであり此は正当なことである。
     実際この国家を基準として現在行はるゝ宗教を見るとき吾が国体に適合するものはない。此点からいつて此等の宗教は否定されなければならない。或は此れに対して非常時に於て和を破ぶるが如き極論は避くべきでありといふものもあり、或は今日迄此等の宗教を信仰せるものの中にも日本精神を発揮せしものもあつたといふ理由をもつて抗議せんとするものもある様である。而し此等は誠に不徹底な言であつて非常時なるが故に国体に不適合なものは整理されねばならないしまたそれ等の宗教のうちに日本精神を発揮したものがあるといふもそれはそれ等の教法によつて体達されたものでなく天性の然らしめたのに他ならない。
     以上の理由によつて神道が宗教たり国教たらねばならぬといふことは一応首肯し得られやう。若しそのため必要ならば宗教的要素を補足するも可なりであつて、それは一切の宗教に於て見らるゝところであるから少しも差支へない。しかし乍ら神社を宗教たらしめた結果はどうなるであらうか。論者のいふ如く宗教として神人合一を庶幾(しょき)しその体現の上はどうなるであらうか。この事を考へる時到底此れ等の説を首肯することができない。神人合一の体現は必然的に世間法を混乱に導くことになる。今日不敬事件をもつて摘発を受けた宗教は皆神道に属するもののみである。その禍因(かいん)は他にもあらうが吾人は神道を宗教として信仰し、神人合一の結果当然堕入る結果が不敬となるものと思惟する。此ことは世間の識者に充分なる考慮を煩はさねばならぬところと思ふ。恰(あたか)も西洋の神なるものは造化神であるが祖先であることに相違はない、而して此れを宗教神として崇めるとき一切の人は平等であるといふ悪平等の思想が胚胎するその結果はどうであるか、西洋神が如実に之れを物語てをる。西洋の思想が基督教を産み出したといふも基督教が西洋思想を生み出したといふも結局同じことであつて危険なることに変りはない。
     考へてこゝにいたれば神社宗教論は国粋的純情のしからしむるところとしてその心情の辺は一応理解する事はできるが、その結果よりいつて到底賛ずる事はできない。神社はあくまで祖廟(そびょう)として世間法に属してその上に出世間法に跨(またがる)るものとしての立場を厳守しなければならない。それが神道の姿であり、本来の使命であつて此の範(のり)を超す時その面目を失ふ事になり弊害を醸(かも)すことになるであろう。(第65世日淳上人『大日蓮』S12.7/『日淳上人全集』164頁〜)
    ************************************************************

    【神社神道と宗派神道】
    <神社神道>
    [神社神道]……祖神崇敬を中心とする。祖神を立つるところに自ら3要素(国家的倫理的宗教的)が具足するのであって宗教的の上に神があるのではない。此れが神道の根本義である。(日淳上人)
    -----------------------
    「祖神崇敬を中心とする」「国家的」というから、これは国家神道のことである。

    ●それが宗教であるためには必ず本尊がある筈である。本尊のないものは思想であるか学であるに過ぎない。(『大日蓮』S10.12/『日淳上人全集』122頁〜)
    -----------------------
    宗教は本尊をもって根幹とする。本尊とは「信仰者が供養し、礼拝・祈祷し、生命を委ねる対境」(『大白法』)である。日淳上人が神社神道を宗教でないとされた理由は、まさにこの点―個人の幸不幸に関わる本尊の有無―にあったといえよう。

    ◆国家神道(こっかしんとう)とは明治から大東亜戦争(太平洋戦争)の終戦までの間に日本政府の政策により成立していた国家宗教、あるいは祭祀の形態の歴史学的呼称である。「国体神道」・「神社神道」とも、また単に「神社」とも称した。(<Wikipedia>070712)

    ◆「国家神道」を宗教では無いとする説と宗教であるとする説がある。非宗教説は、敬神を国民の義務とし、この義務は道徳の範疇にあるので、敬神は宗教では無いとする説である。(<Wikipedia>070712)


    <宗派神道>
    [宗派神道]……神道を宗教として立てる。直接祭祀のことをなすが故に神の啓示は教祖教主が或は自己にありと信じ必然的に世間法の混乱錯雑を誘引するにいたる。(日淳上人)



    【日恭上人】
    ●畏(おそれおお)くも聖上陛下には昨冬12月12日伊勢神宮に御親拝と拝承し奉る、是れ赤子(せきし)たる我等国民の齊(ひと)しく恐懼(きょうく)感激する所なり。(第62世日恭上人=報国団結成の「祈願文」S18.1.15)
    -----------------------
    日恭上人も国家神道の祖神崇敬自体については一往容認されていた。天皇がその祖先を崇敬すること自体は、仏教の教えにも適っている。

    ●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候 甚だ乍略寸暇も無之最中御海容願上候 拙僧に対し責任ある身之上なるが故に時局柄手紙にては法義を論ずべからずと注意せられ候間此等之点に就而以後は他之方へ御照会願上候 右之次第に付是迄にて御断り申候(第62世日恭上人『特高月報』/『慧妙』H6?)
    -----------------------
    これは、第62世日恭上人が小笠原慈聞師に宛てた書簡である。「大聖人を本仏として人本尊と仰ぐ」ことは「第一義の法門」であると断言されている。しかし、これを公言して神本仏迹論を否定することになれば「不敬に渡る事故言ふべからざる事」と仰せである。天皇の祖先を神と仰ぐ国家神道としては、神を仏の垂迹とする法門は受け入れられない。よって世間悉檀(世界悉檀)の上から、本地垂迹説の主張を控えられたものと拝する。

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  • from: 21世紀さん

    2011年06月30日 22時57分41秒

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    「Re:牧口常三郎の実像」
    【学会の矛盾】
    <国交正常化後の中国や旧ソ連での弘教>
    学会は、国交正常化後の中国や旧ソ連において、まったく布教できていません。それは何故でしょう?おそらくは、国家として信教の自由を認めていなかったからです。布教自体が国家によって禁止されていたからです。


    <折伏放棄>
    ◆SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して(中略)対話し、その解決のために協力していく(SGI第20回総会・H7.10.17※<SOKAnet>WSによれば「H7.11.13」/『大白法』H15.10.16)
    -----------------------
    「尊重」する「他の宗教」の中には神道も含まれるのであろう。戦時下の学会会長が池田大作だったら、不敬罪で投獄されることもなかったし、組織が壊滅することもなかったでしょう。(笑)

    ◆創価学会は平成6年2月、それまで対立関係にあった立正佼成会に〝和解〟を申し入れ、「在家仏教団体の先輩である佼成会に教えを乞(こ)いたい。戒名の付け方等も教えてもらいたい」とまで媚(こ)びを売った。
     当時の大新聞はこのことを、政界への影響力を強めるための、創価学会の政治戦略として報じたが、事実、その後の学会は、支持拡大、票獲得のために、大聖人の謗法厳誡の御制誡を次々と破っていったのである。(『慧妙』H13.9.1)


    <自由な時代に謗法容認>
    ●とくに理解に苦しむのは、小泉首相が毎年続けた靖国神社への参拝への対応だ。形ばかりの反対に終始したのはどうしたことか。
     公明党の支持母体である創価学会は、戦中の国家神道の時代に厳しい宗教弾圧を受け、会長が獄中死した歴史もある。靖国神社はその国家神道の中心的な施設だった。
     政教分離を定めた憲法に抵触する疑いもある。信仰の自由と並んでこの党がもっとも重んじる理念のはずだが、意外にあっさりと6度の参拝を受け止めた。(『朝日新聞』社説H18.9.19)
    -----------------------
    池田学会には、国家諌暁の精神など皆無であることがよく分かります。

    ◆謗法払いについては、あくまで原則どおり、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません。(秋谷栄之助『聖教新聞』H9.2.11)
    -----------------------
    「古い対象物」とは、邪宗の本尊などです。これを所持したまま曼陀羅を拝んでもよいというのです!信教の自由が保障された時代にこんな指導をする者に、戦時下の神札受け取り(形式的なもの)を批判する資格はありません。

    ◆もし宗教目的に賛同して、他宗の本尊や神体を信じて拝むのであれば、それは謗法です。しかし、町会や自治会の一員として、仮に宗教的色彩のある祭りなどの行事に参加しても、信じて拝むのでなけれは、謗法にはなりません(秋谷栄之助『聖教新聞』H11.9.9)
    -----------------------
    「他宗の本尊や神体を」「信じて拝むのでなけれは、謗法にはなりません」一体こんな御指南が御書にあるでしょうか?これでは、外見上何をやっても謗法になりません。

    ◆祭りにおいて、御輿を担がざるをえない場面があったとしても、地域役員として宗教色の濃い儀式等に立ち会わざるを得ない場面があったとしても、それは地域の文化行事への参加と同次元のことです。”一種の文化祭”と名付けた学者もいた。それをもって、ただちに謗法とは言えません。」(秋谷栄之助『聖教新闇』同日付)
    -----------------------
    「御輿」の中には謗法の神体が入っており、これを担ぐことが謗法であることはいうまでもありません。

    ★四悉檀の上から化儀について一時的例外的に、本来の姿からの逸脱を容認する場合もありました。しかし、それは、国家の宗教政策や交通事情、宗門草創期など、弟子旦那の意思とは無関係の不可効力的な特殊な状況があったからです。しかも、化儀改変を決定されるのは血脈付法の御法主上人に限られることは、唯授一人の血脈を根本とする師弟相対の信心の上から当然のことです。信教の自由が認められた時代においてこそ、化儀は本来の姿のままに実践すべきはずです。それを、正当な理由もなく勝手に化儀を解釈し改変しておきながら、一方で日精上人や日恭上人を謗法だと詈る学会、これこそ御都合主義の最たるものであり、頭破作七分の現証としかいいようがありません。


    <牧口学会の実態は>
    ・命を賭するという正の部分もあったが、世相を無視して宗熱に突喊した似非信行という負の部分もあった。→ただし、後の戸田会長の懺悔(下記◆)と功績に鑑み、歴代上人も、正の部分のみを強調されていた。

    ・大部分の会員は退転し、組織は壊滅状態に→牧口学会総体としては、退転という最も避けなければならない謗法を犯したといえる。


    <池田学会と牧口会長との関係は>
    ・池田学会の主張する牧口像(謗法厳誡)が正しかったとしても、牧口会長の精神は池田学会には伝わっていません。(<摂受謗法路線>参照)→一般論としても正しい師匠についた弟子が異流義を構えたり、親の信心を子が受け継がない場合があります。

    ・従って、牧口会長を如何に宣揚しようとも、そのことをもって現在の池田学会を正当化することはできません。→残念でした。(笑)

    ●「先生・・・」
     戸田は数珠を手にしたまま、ふり仰いだが、あとは言葉にならなかった。彼は、堀米尊師の前に手をついて、無言のまま動かなかった。堀米尊師は、彼の傍によって、痩せた手をのばし、戸田の手をとった。大御本尊の真ん前であった。戸田は、思わず両手でその手を握った。すると堀米尊師は、もう片方の手を、その上に重ねた。2人は、互いに抱擁するような姿で、戦友のように堅く握りあった。
     2人のあいだには、語るべき多くのことが溢れていた。だが、あまりの懐かしさに、その感慨は言葉にはならなかった。ただ、無言で堅く握っている手が、言葉以上の多くを語っていた。
     堀米尊師は、戦時下、総本山の中枢であり、宗門の矢面に立って戦ってこられたのである。特に、国家権力に対峙する一切の衝にあたり、骨身を砕いてきていた。
     戸田城聖は、学会の要として、あらゆる苦難を一身にあびてきていた。そして、弾圧の2年の歳月は、2人をまったく隔離していた。複雑怪奇ともいうべき時代の激流は、助けあい、呼びあう2人を、みるみる遠ざけてしまった。流れのうえには、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた。
     後世の歴史家は、この昭和の最大の法難にあたって、勇敢に弾圧と戦った人は、2人いたというだろう。1人は、日蓮大聖人の法水を、微塵も汚すことなく護りきった、総本山側の堀米尊師、もう1人は、最大の講中である創価教育学会側の戸田城聖その人である―と。(中略)
    〈※堀米尊師〉「戸田さん、いつ?・・・」
    〈※戸田〉「おとといの夜、やっと保釈になりました」(中略)
    「この戸田の生きているかぎり、断じて御本山を安泰にお護り申しあげます。ご心配くださいますな。ただ、出獄後、まだ事業の見とおしも得ませんので、しばらくの猶予をおねがいいたします。」
     僧俗一体の実は、2年ぶりで回復したのである。(『人間革命』第1巻「一人立つ」)
    -----------------------
     戸田会長自身が「(堀米尊師が)日蓮大聖人の法水を、、微塵も汚すことなく護りきった」と言っている。当然、「法水」とは唯授一人の血脈のことであり、池田学会が謗法を犯したと口汚く詈る日恭上人所持の法水のことである。ここでは一応堀米尊師のみが「宗門の矢面に立って戦って」こられたように述べているが、結局は御法主を初めとする宗門首脳の指示のもと行動されたのであり、あるときには御法主(日恭上人)自ら、当局に足を運び「(身延との)合同不承知」を宣言されたこともある。「国家権力に対峙する一切の衝」の内容は、池田学会が誹謗する神札の件、観念文の件等も含まれると考えるべきである。これら一切の宗門側の対応について戸田会長は「日蓮大聖人の法水を、、微塵も汚すことなく護りきった」といっているのである。
     尚、「(※戸田)おとといの夜、やっと保釈になりました」とあることから、保釈後、初めて宗門御僧侶に面会したのが、このときの会話であることが推測される。実は、このとき戸田氏は、日淳上人に戦時中に僧侶誹謗の罪を懺悔していたという証言がある(下記●)。「流れのうえには、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた」とは、このことを婉曲的に述べたものだろう。

    ◆堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
    日淳上人誹謗を懺悔。仏法上、心から懺悔すれば罪障を消滅することができる。このことと、戦後の戸田会長の折伏活動および唯授一人の血脈に対する絶対的尊信の念(<戸田城聖の実像>参照)より、歴代上人は牧口会長に対しても正の部分を強調した讃歎の言を残されたといえよう。日亨上人が戦時下の学会弾圧を法難として賞賛されたのもその表れか。ただし、一般論としては、「世相を無視」(上記4●)し「官憲の横暴を徴発」(同)するような「似非信行の門徒」(同)が存在したとし、暗に学会を批判されている。尚、溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』によれば『若き日の手記・獄中記』(『獄中書簡』を納めたものか)は昭和45年に遺族が刊行。

    ●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)

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  • from: 21世紀さん

    2011年06月29日 13時46分41秒

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    「Re:牧口常三郎の実像」
    <戦時下>
    ◆第7条 国体を否定し又は神宮若は皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的して結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は無期又は4年以上の懲役に処し(治安維持法=昭和16年改正/『牧口常三郎全集』第10巻444頁)
    -----------------------
    戦時下は直接国家神道を破折すること自体が国法に触れる行為であったのです。

    ●昭和十六年五月十五日改正治安維持法施行後も前記目的を有する同会の会長の地位に止まりたる上、同会の目的達成の為(中略)昭和五年頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、東京市内其の他に於て同市王子区神谷町三丁目千三百六十四番地岩本他見雄外約五百名を折伏入信せしむるに当り、其の都度謗法罪を免れんが為には皇大神官の大麻を始め家庭に奉祀する一切の神符を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに至らしめ、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)し奉る所為を為したる等諸般の活動を為し、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に従事したると共に、神宮に対し不敬の行為を為したるものなり(「創価教育学会々長牧口常三郎に対する起訴状」/『牧口常三郎全集』第10巻252頁〜)
    -----------------------
    学会の大麻焼却は、当時の国法(治安維持法)に違反する行為であった。

    ●日本国民の総氏神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)をまつっている伊勢の神宮の御神札は、明治以前は御師(おし)といわれる神職によって全国各地の家々に配布されていました。(中略)明治の御代になって、御師による配布は廃止され、御祓大麻は神宮大麻(じんぐうたいま)と名称が改まり、明治天皇の聖旨により政府事業として全国全戸に漏れなく配布されるようになりました。(<神社と神道>WS060311)

    ●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月(※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)
    -----------------------
    神札を焼却しなくとも謗法にはならない。↓

    ●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
    ●当時、全戸に配布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫52頁)
    -----------------------
    他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」にを納めていたのである。その意義から言えば、新入信者の神札等を、世相を無視して堂々と焼却する必要はまったくなかったといえる。会員の神札受け取りについても、金銭を支払って受け取るのであれば格別、当局が勝手に配布するのであれば、一応受け取り、捨て置くか寺院に納めるか、コッソリ焼却すればよかろう。

    ●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候 甚だ乍略寸暇も無之最中御海容願上候 拙僧に対し責任ある身之上なるが故に時局柄手紙にては法義を論ずべからずと注意せられ候間此等之点に就而以後は他之方へ御照会願上候 右之次第に付是迄にて御断り申候(第62世日恭上人『特高月報』/『慧妙』H6?)
    -----------------------
    これは、第62世日恭上人が小笠原慈聞師に宛てた書簡である。「大聖人を本仏として人本尊と仰ぐ」ことは「第一義の法門」であると断言されている。しかし、これを公言して神本仏迹論を否定することになれば「不敬に渡る事故言ふべからざる事」と仰せである。勿論これは、公然と神本仏迹論を主張し身延との合同を画策していた小笠原慈聞師への書簡であるから、このように述べられたのであろう。



    【御遺命の達成と御法主の教導】
     広宣流布は絶対達成される―これは大聖人の弟子檀那の確信であり、大聖人の御指南である。また、大聖人は謗法厳誡と不惜身命の信心を強調されている。この点において、牧口会長は、謗法厳誡を貫くことによって必ず諸天の加護があると信じていたといえよう。確かに原則は、そのとおりである。しかし、よくよく大聖人の御書を拝してみれば、時機に応じた様々の御指南が存在するのである。それらを総合的に考慮し、弟子檀那の信心を擁護するために四悉檀を駆使して謗法厳誡と国法遵守の両立をはかる―これこそ広布達成時まで法体を護持し一宗を導かれる御法主上人の役割であり、そこには我々の想像を絶するほどの苦衷があったことであろう。
     牧口会長のように命を惜しまず謗法厳誡を貫くことは立派ではあるが、ある意味指導者としては楽である。が、そのようなことでは信徒の信心は守れないし、法体の護持そのものが危うくなる恐れすらあるのだ。世相を弁えずに突喊(とっかん)する信心は、決して大聖人の御意に沿う信心ではないのである。

    ●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
    -----------------------
    大聖人は、日興上人に背く者は「非法の衆」だと断定されています。このように、大聖人御自身が、滅後の師匠を日興上人御一人に限定されたのです。たとえ、大聖人の直弟子であっても、大聖人御入滅後は、日興上人を師と仰がなければならないのです。時の貫首である日興上人を蔑ろにした「大聖人直結」などありえないことは、明らかです。

    ●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
    ●明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し(中略)釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
    -----------------------
    後加文ではありません。御本尊書写の権能が唯授一人血脈相承の方に限るとされています。唯授一人の相承は大御本尊だけではなく、大聖人の御内証の伝授とともに、本尊書写の権能も含まれるのです。しかもそれは「塔中に直授せるなり」とあるように、上行菩薩への別付嘱に由来するのです。

    ●一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
    一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)

    ●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
    -----------------------
    日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのです。



    ************************************************************
    唯授一人の血脈によって大聖人の内証が伝わるのであれば、敢然と国家権力に立ち向かっても血脈が断絶することはないのではないか。
    ------------------------------------------------------------
    歴代上人は、内証(内心の悟り)は大聖人と一体であるが、外用は菩薩の位であり、自ずからその能力や振る舞いにおいて仏とはことなる。(<内証と外用>参照)

    ●殺生―下殺は螻蟻蚊蝱
         中殺は凡夫人及び前三果の聖人
         上殺は阿羅漢・辟支仏・菩薩・父母等十悪(『一代五時図』全集616頁)
    ●五逆―一殺父
         二殺母
         三殺阿羅漢
         四出仏身血
         五破和合僧(『一代五時図』全集616頁〜)
    -----------------------
    「殺生」とは十悪の1つであるが、その中に仏は含まれない。「五逆」(五逆罪)は「5種の最も重い罪のこと」(『新版仏教哲学大辞典』初版)で「これが業因となって必ず無間地獄の苦果を受ける」(同)という重罪であるが、「出仏身血」とあるのみで"殺仏"はない。すなわち、いかなる悪人であっても強大な国家権力をもってしても仏を殺害することはできないのである。これに対して菩薩方は殺害される可能性がある。御法主上人が御法の為に命を惜しむことなど有り得ないが、血脈の断絶だけは断固として避けなければならないのである。

    ◆牧口が宗門をあげての「国家諌暁」を願った時、総本山では文部省から、思想統一政策の1つとして、全日蓮宗の統合合併策を強要されていた。そして宗門の一部には、この身延との統合案に迎合する悪侶も出ていたのである。これらの節操のない僧侶が、時の軍部と手を握ったため、宗門は紛糾せざるを得なかった。
     国家諌暁の断行には、第1に宗門の内部の意志の統一が必要であることは、いうまでもない。宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。宗内の獅子身中の虫ともいうべき一派は、水魚会と称する背後の軍部勢力と結託していた。これらが、文部省の宗教政策を牛耳りつつあったのである。そのため正宗の僧侶達は、国家の危機より、宗門の7百年来の未曾有の危機を克服することに懸命であった。(『人間革命』第3巻「渦中」)
    -----------------------
    池田自身、当時の宗門の置かれていた状況を「宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。」としていた。一信徒の牧口と、宗門全体の信徒の信心と法体を守るべき立場とでは、自ずから考えや行動の視点が異なるのである。


    ●広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし(『諸法実相抄』全集1360頁)
    -----------------------
    大聖人の如説修行の御指南と上記御指南から、牧口会長は単純に、身命を賭して折伏をすれば諸天の加護があり戦争にも勝つ、と考えたのであろう。しかし、大聖人の御書をよくよく拝すれば、時機に応じた様々な御指南があるのだ。当該御指南は、血脈付法の御法主方が、必ず時機に応じた適正な教導をなさることを前提とした御指南なのである。

    ◆邪宗の本尊は、人の命を食うことは知っているが、幸福にすることはできない。われわれがお山に行って、たった300円でお参りができるのは、もったいないことである。もし、小笠原慈聞が身延へ売ったとしたら、何万円出しても拝することはできなかったであろう。(S28.3.1第2回鶴見支部総会『戸田城聖全集』第4巻20頁)
    -----------------------
    "大御本尊は絶対に守られ広宣流布は絶対できる"と運命論的に安易に考えるのは誤りであろう。戸田会長は、「(大御本尊を)小笠原慈聞が身延へ売ったとしたら」と仰せであるが、この言葉には安易な運命論はない。"命懸けで拝めば何でもかなう"と思っている人もいるが、それほど単純ではない。大聖人が御在世中に国主を帰伏させられなかったのは何故か?『三大秘法抄』の他言を制止され、大御本尊の意義を公言されなかったのは何故か?日興上人が断腸の思いで大御本尊を奉持し身延を去られたのは何故か?自身の能力や客観的状況、弟子の機根等、すべてを総合的に判断して、道理に適った努力なくして願い(目的)は達成できないし、因縁がなければすぐにはかなわないのである。

    ●日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし(『異体同心事』全集1463頁)
    -----------------------
    戦時下の宗門には、神本仏迹論を公言し身延との合同を画策する僧や、反対に世法を無視し宗熱に突喊(とっかん)する僧俗がいた。これでは宗門が一丸となって国家権力に対峙できなかったのも当然であろう。

    ------------------------------------------------------------
    ●迹門は全部で14品ありますが、その中心は方便品第2から授学無学人記品第9までの8品です。ここにおいて三周の説法というものが示され、法説周・譬説周・因縁説周という3つに区分されて説かれてくるのです。これはどういうことかというと、相手の機根によったのです。つまり説法を聞く衆生のなかに、上根の人、中根の人、下根の人というような区別がありまして、いわゆる法を聞く能力に違いがあるのです。(中略)
     このように釈尊は法説周・譬説周・因縁説周の3段階で説かれたのでありますが、このことは、まさに今日の折伏においても活用できるかと思います。特に譬え話、具体的に言うと体験談など、そういった話をとおして話をしていくことで、相手の方が納得することがあるのです。また、御親戚の方にお話をするときに「あなたと私はこういう深い関係があるのです」と言って納得されることもあるでしょう。(第68世日如上人『大白法』H20.11.16)
    -----------------------
    仏法上の機根といえば大きくは本未有善(末法の衆生)と本已有善(在世及び正法・像法時代の衆生)に分けられる。しかし、釈尊在世の弟子方の中にも機根の違いがあり、釈尊は機根に応じた説法をされた。同様に末法においても機根の違いがある。

    ●『撰時抄』のなかに、
     「世尊は二乗作仏・久遠実成をば名字をかくし、即身成仏・一念三千の肝心其の義を宣べ給はず。此等は偏にこれ機は有りしかども時の来たらざればのべさせ給はず。経に云はく『説時未だ至らざるが故なり』等云云」(御書834頁)
    と仰せのように、機根が調っていても、時が来なければ大事な法は説かれないのだとおっしゃっております。(中略)
     このように、仏法においては時を逸してはだめなのです。ならば今、私達は何をすべき時なのか。この末法に在って、明年の『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節を迎える時に、我々はいったい何をすべきなのか。
     その答えは実に明快に、日顕上人から平成14年に御指南を頂戴しております。私達は『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節へ向かって、2つの御命題を賜りました。1つは「地涌倍増」であり、もう1つは「大結集」であります。(第68世日如上人『大白法』H20.11.16)
    -----------------------
    仏法上の時といえば大きく正法・像法・末法に分けられる。しかし、釈尊在世に時の違いがあったように、末法の中においても時の違いがある。

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    k

  • from: 21世紀さん

    2011年06月29日 13時33分49秒

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    「Re:牧口常三郎の実像」
    【門外折伏・門内摂受】

    (全国布教師・正説寺住職 早瀬義久御尊師『大白法』H20.4.16抜粋)

     「門外折伏・門内摂受」、皆様には聞き慣れない御言葉かと思います。
     この御言葉は、総本山第59世日亨上人が第9世日有上人の『化儀抄』121箇条を解説された折に、大聖人様の御教示をふまえて私たちの信心の在り方、姿勢を、一言に「門外折伏・門内摂受」と説かれたものであります。
     その元は、『化儀抄』第57条の、
    ●法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背(けはい)の別名なるが故なり(聖典983頁)
    -----------------------
    という、日有上人の御教示を敷衍(ふえん)されて「門外折伏・門内摂受」と説かれるのであります。
     門外、つまり宗門の外部に向かっては、勇猛果敢に折伏を進めなくてはいけない。
     対して門内、宗門内の僧俗間にあっては「法華宗の大綱の義理」、正しく仏法僧の三宝を崇めるということでありまして、仏宝として大聖人様を御本仏と仰ぐ、法宝として本門戒壇の大御本尊様を根本の御本尊と定める、そして僧宝として2祖日興上人以来血脈付法の御歴代上人を大聖人様の御代理として、その御指南を拝する。また、他の一切の宗教を邪宗邪義として捨てる。これが「法華宗の大綱の義理」ということであります。
     この「大綱の義理」に背かない限りは、広い心、寛容の心をもって、些細なことには目をつぶり、その人の長所、すばらしいところを敬い、励まし合い、異体同心の絆を固めていく。これを「門内摂受」と説かれるのであります。
     「摂受」、摂引容受という言葉を略したもので、摂は「おさめる、包み込む」という意味があります。仏法の根本に背かない限りは、相手に仮に誤りがあっても、それを許し、包み収めて少しずつ導いていく。



    【国法遵守】
    国法遵守は当然のことであり、大聖人も国法は遵守された。

    ●よき師とは指したる世間の失無くして聊(いささか)のへつらうことなく少欲知足にして慈悲有らん僧の経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば仏は一切の僧の中に吉第一の法師なりと讃められたり(『法華初心成仏抄』全集550頁〜)


    <鎌倉時代>
    大聖人の時代はどうであったかといえば、法論そのものを禁止する法律はなかったのです。だからこそ幕府は、大聖人に付すべき罪状に困り、種々の讒言(ざんげん)を用いることによって「世間の失」なき大聖人を処刑しようとしたのです。

    ●念仏者等此の由を聞きて、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程にかなはざりしかば、長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ。されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし(『妙法比丘尼御返事』全集1413頁)
    -----------------------
    伊豆流罪は文応元年の国主諌暁を契機として起こった法難である。この流罪は、時の最高権力者が国法に則るのではなく「親の御心を知りて」「理不尽」に行ったものである。つまり仏法上は勿論、世法に照らしても違法な行為であった。

    ●然るに事しづまりぬれば、科(とが)なき事は恥づかしきかの故にほどなく召し返されしかども、故最明寺の入道殿も又早くかくれさせ給ひぬ(『立正安国論』御書1150頁)
    -----------------------
    この「最明寺の入道」というのは北条時頼のことでありますが、つまり時頼は、全く失がないのに流罪(※伊豆流罪)にしたということに気が付いて、大聖人様を赦免されたということです。(第68世日如上人『大日蓮』H18.7)

    ●故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり(『聖人御難事』全集1190頁)
    -----------------------
    「此の殿」とは北条時宗のこと。

    ●日蓮が度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頚を刎られんとせし事は別に世間の失に候はず(『清澄寺大衆中』全集893頁)

    ●我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし(『佐渡御書』全集958頁)

    ●法華経を信じ参らせて仏道を願ひ候はむ者の争か法門の時・悪行を企て悪口を宗とし候べき、しかしながら御ぎやうさく有る可く候・其上日蓮聖人の弟子と・なのりぬる上罷り帰りても御前に参りて法門問答の様かたり申し候き(『頼基陳状』全集1157頁)
    -----------------------
    貞永式目12条は「悪口は騒乱の元であるから口にしてはならない。これを犯す者は流罪および禁固の刑に処す」とあります。しかしこれは法論対決を否定するものではなかったのです。

    ●讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる(『種種御振舞御書』全集916頁)
    -----------------------
    鎌倉時代は、折伏自体は国法に触れる行為ではなかったのです。だからこそ、邪宗の連中は、他の罪を捏造したのです。


    <江戸時代>
    ●1640(寛永17)年、幕府は、寺請制度を設けて、宗門改役を設置しました。
     宗門改役は、絵踏などをさせて、キリシタンや日蓮宗不受不施派かどうかを取り調べました。これを宗門改めといいます。キリシタンでないことが証明されると、宗門改帳(宗旨人別帳)に記載されます。一度定められた寺院を変更することは出来ません。定められた寺院を檀那寺といい、記載された人を檀家とか檀徒(施主)といいます。こうした制度を寺請制度と言います。(<エピソード高校日本史>WS070803)

    ●1665(寛文5)年、4代将軍徳川家綱は、諸宗寺院法度を出しました。これは先の寺院法度を強化したもので、幕府は、各宗派ごとに、その本山・本寺の地位を公認し、本山・本寺に末寺を統制する権限を与えました。これを本山・末寺制度といいます。
     内容は、(1)各宗の法式を守る(2)寺院の住持の資格や本末関係を厳正にする(3)自由な布教活動や自由な法談は制限する(4)新寺建立やそのための勧進募財は制限する(5)寺格や僧侶の階位も細かく規定する(6)住職になるための修行年数や学問も定める、などとなっています。(同上)

    ◆日寛上人の時代には、今のような折伏をやる人もないし、やったらまた、首を斬られてしまう。そういう意味だと、わたしは思うのです。(『戸田城聖全集』第2巻452頁)
    -----------------------
    死身弘法は当然ですが、国法を遵守し四悉檀や随方毘尼の上から、時代状況に適合した修行をすることもまた必要なのです。「大石寺日俊累年の間御制法に背き自讃毀他の談義を致し」(『富士宗学要集』第9巻30頁)といって北山が日俊上人を攻めたように、江戸時代は、法論そのものが国法に違反する行為だったのです。

    ●慈雲寺(※法華宗陣門派)のほとんどの檀家が富士派となり、その近辺の寺院にも驚く程の富士派信者がいたことを、寺の過去帳などによって突きとめることができた。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』64頁)
    5●久保家子孫代々伝えまいらせ候。今日まで正宗の法華経唱え奉り候えども、藩の取締り堅固なれば思うままに信心致し難く、大石寺にまかり出る事なかなか至難に相なり候ば、ただひたすら襖(ふすま)の影より心ひそかに題目を唱え居り候。(久保専朴の遺言状・弘化3〈1846〉年/『金沢法難を尋ねて』)
    ●身業は一往は国法に任すといえども、口意の二業は全く当山興尊の付弟と申し、無二信受の大賢人あり、名を池田宗信と云う(第32世日教上人『金沢法難を尋ねて』向敏子著37頁)
    -----------------------
    金沢では、慈雲寺(法華宗陣門派)の僧、了妙が折伏を受けて富士派に改宗したことから享保11(1726)年、第1回の加賀藩の富士派信仰禁止令が出た。第5代藩主・綱紀の代には、法論に負けると潔く改宗を表明することが常識であったが、第6代藩主・吉徳の代には改宗は事実上厳禁となった。表面上は邪宗の檀徒として、葬儀などの法要を依頼する。しかし、隠れて御本尊を拝み折伏し登山もしていた。第32世日教上人は、身は国法に従わざるを得ない厳しい環境にあって、あらゆる困難を乗り越えた絶大なる信心を称讃されている。

    ●先年、岩田伝右衛門の調べの時、富土派一万二千人(寛政3〈1791〉年の記録)
    -----------------------
    この当時の金沢の人口は10万人に満たなかったであろうから、藩禁制であるにもかかわらず、この数字は藩にとって脅威の的と写ったことは言うまでもなかった。事実野田山墓地を調査して見ると富士派の人々は本当に多いのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』91頁)当時は相当の信心がなければ御本尊の下附は叶わない時代であった。(中略)城下が寝静まる夜中に題目を唱え、壁をくり抜いて御本尊をお掛けして護り抜き、折伏に走った時代なのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』110頁〜)

    6●かならず、かならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ候て御供養候とも若信心なくば詮なき事なるべし。たとへ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし。乃至・かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ(第26世日寛上人著『松任治兵衛殿御返事』妙喜寺蔵)
    -----------------------
    これは、第26世日寛上人が加賀信徒に与えられた御手紙の一節である。歴代上人の慈悲あふれる感動的な御手紙は多くの加賀信徒の中に代々語り伝えられてきたのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』84頁〜)

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  • from: 21世紀さん

    2011年06月29日 13時23分42秒

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    「Re:牧口常三郎の実像」
    <身命に及ぶ弘教、不惜身命>
    我々が模範とし、常に目指すべき聖人の修行か。ただし、「不惜身命」といっても初信の者が直ちに実践できるものではなく、初信の人々の信心を守ることも、大切なことではないか。また、自由な時代に敢えて文字通りに身命を捨てる必然性はない。

    ●仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候、死して候はば必ず各各をも・たすけたてまつるべし(『佐渡御勘気抄』全集891頁)

    ●未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)

    ●悲いかな我等誹謗正法の国に生れて大苦に値はん事よ、設い謗身は脱ると云うとも謗家謗国の失如何せん、謗家の失を脱れんと思はば父母兄弟等に此の事を語り申せ、或は悪まるるか或は信ぜさせまいらするか、謗国の失を脱れんと思はば国主を諫暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり、我不愛身命但惜無上道と説かれ身軽法重死身弘法と釈せられし是なり、過去遠遠劫より今に仏に成らざりける事は加様の事に恐れて云い出さざりける故なり、未来も亦復是くの如くなるべし今日蓮が身に当りてつみ知られて候、設い此の事を知る弟子等の中にも当世の責のおそろしさと申し露の身の消え難きに依りて或は落ち或は心計りは信じ或はとかうす、御経の文に難信難解と説かれて候が身に当つて貴く覚え候ぞ、謗ずる人は大地微塵の如し信ずる人は爪上の土の如し、謗ずる人は大海進む人は一〓。(『秋元御書』全集1076頁〜)

    ●常に仏禁しめて言く何なる持戒智慧高く御坐して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大城に堕つべし、譬えば我は謀叛を発さねども謀叛の者を知りて国主にも申さねば与同罪は彼の謀叛の者の如し、南岳大師の云く「法華経の讎(あだ)を見て呵責せざる者は謗法の者なり無間地獄の上に堕ちん」と、見て申さぬ大智者は無間の底に堕ちて彼の地獄の有らん限りは出ずべからず、日蓮此の禁めを恐るる故に国中を責めて候程に一度ならず流罪死罪に及びぬ(『秋元御書』全集1077頁)



    【四悉檀】
    四悉檀を駆使し世相に応じた教化によって僧俗の信心を擁護するのは血脈付法の御法主の役割

    [四悉檀]し‐しつだん(シシッダンとも)=仏様の教法を4種に分けたもの。『大智度論』巻1等に説かれる世界悉檀・為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀をいう。悉檀とは宗、理、成就、究極などの意。また、『法華玄義』巻1下では、仏が4種の教相をもって遍く一切衆生に施すゆえに悉檀というとしている。
    ①世界悉檀……楽欲(ぎょうよく)悉檀ともいい、一般世間の楽(ねが)い欲する所にしたがって法を説き、凡夫を歓喜させ利益を与えること。
    ②為人悉檀……詳しくは各各為人悉檀といい、生善悉檀ともいう。人によって性欲機根が不同のために、人に応じて法を説き、過去の善根をさせていくこと。
    ③対治悉檀……断悪悉檀ともいう。貪欲の多いものには不浄を観ぜしめ、瞋恚(しんに)の多いものには慈心を修せしめ、愚痴の多いものには因縁を観ぜしめること。三毒の煩悩を対治するために法を説き、遍く一切衆生に施すので対治悉檀という。
    ④第一義悉檀……真実義悉檀、入理悉檀ともいう。前の3種が仮の化導であるのに対し、真理を直ちに説いて衆生を悟らせること。

    ●予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且(しばら)く世間普通の義を用ゆべきか(『太田左衛門尉御返事』御書1222、全集1015頁)
    -----------------------
    「強ちに成仏の理に違はざれば」これを判断される方こそ、大聖人以来の血脈相承を受けられた御法主上人なのです(<化儀と血脈>参照)。

    ●各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ、若し爾らずんば五体を地に投げ徧身(へんしん)に汗を流せ、若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め若し爾らずんば奴婢と為つて持者に奉えよ若し爾らずんば・等云云、四悉檀を以て時に適うのみ(『顕立正意抄』全集537頁)
    -----------------------
    不惜身命は成仏のための大切な要件であるが、最初からそのような境界を得られるものではない。「若し爾らずんば」と仰せのように、修行者を取巻く社会的立場や世相、修行者自身の信心その他を総合的に判断し、時機に応じた信仰活動も認められるのである。

    ●日本国は神国なり此の国の習として仏・菩薩の垂迹不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに・是をそむけば現に当罰あり、委細に経論を勘へ見るに仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当れり、此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり、此の由を知ざる智者共神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義を申して多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり(『月水御書』全集1202頁〜)

    ●釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり、但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ、自身並に子にあらずばいかんがと存じ候、御所領の堂の事等は大進の阿闍梨がききて候、かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし、いつぞや大黒を供養して候いし其後より世間なげかずしておはするか、此度は大海のしほの満つるがごとく月の満ずるが如く福きたり命ながく後生は霊山とおぼしめせ。(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
    -----------------------
    この御手紙は、富木常忍へ宛てたものである。常忍は造像を好むところがあり大黒を供養することすらあった。そのような常忍が釈迦仏を造立したことに対して、権実雑乱の大謗法を制止する立場から、一時的に許可されたものと拝する。

    ●随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。(『五人所破抄』全集1614頁)
    -----------------------
    日興上人は「執する者」に対してのみ「四菩薩を加」えた造仏を許可されている。

    ●開山上人御弟子衆に対するの日仍容預進退有り是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻177頁)
    -----------------------
     日寛上人は大聖人・日興上人時代の造仏については「是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり」と容認されている。すなわち、本来の化儀からみれば逸脱(謗法)であっても、「信者を将護」するために時機を鑑みて容認する場合もある、ということである。
     ここでは本尊としての仏像安置について「宗門最初なる故に」許されたのであるが、時代が下っても相応の寛容を示されることがある。それは、江戸時代に幕府の宗教政策によって種々の弾圧を受けたり、不如意を強いられた宗門僧俗の対応について御存知だった日寛上人が「開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」(『当流行事抄』)と明言されているとおりである。↓

    ●開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり(第26世日寛上人『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)
    -----------------------
     趣旨は勤行の化儀にあるが「故に」とあるから「化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」は化儀・化法に対する一般論として成り立つ意義である。つまり、化儀・化法全体について「四百余年全く蓮師の如し」という前提が正しいからこそ「故に」勤行の化儀についても同様に「四百余年全く蓮師の如し」という文意である。「四百余年全く蓮師の如し」とあるから当然、日精上人が一部末寺での仏像安置を容認されたことや、金沢法華講衆が表面上邪宗の檀家となっていたことも含まれる(下記5●6●)。これらは、四悉檀の上から許容される範囲のことであり、謗法厳誡を説かれた大聖人の御指南に反するものではないのだ。
     ただし、血脈の真義から考えて、あくまでも化儀を決定されるのは正師(大聖人以来の別付嘱の方)である。本来の化儀から見れば逸脱であっても正師の認可がある限りにおいて血脈が流れ通い功徳が出る。その場合の化儀は正義を前提としての方便のようなものであり、逸脱であって逸脱ではない。方便の法門も絶待妙の立場からみれば体内の法となるようなものか?

    ●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇(※世界悉檀) 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候(第62世日恭上人より小笠原慈聞師への書簡S16.8.21『特高月報』所収/『慧妙』H6?)
    -----------------------
     すなわち、当時の時局や人々の機を考えて、無用の反発を生むことのなきよう(中略)世間悉檀の上から衆生教化を目されていたことが明らかである。
     また、この往復書簡を通読すると、某師は日恭上人に、わざと「神本仏迹説は邪義」と言わせることに腐心していた形跡がうかがわれる。つまり、書簡は私信ではあっても、某師の裏には軍部が控えており、わずかでも不敬にあたる言説があれば、弾圧、ひいては宗門断絶の危険性があったということであり、日恭上人はこの罠にも似た策謀を、四悉檀を駆使して巧みにかわされているのである。
     こうした、日恭上人の筆舌に尽くせぬ御苦労があって、今日、我々が妙法を信受できるのであり、多くの民衆が成仏の境界を享受できるのである。
     後年、2代会長戸田城聖氏は、某師に向かい、
     「あなたの神本仏迹論を、深く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、いまは亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです」(『人間革命』第6巻)
     と呵責したそうだが、大法を護持しぬかれた日恭上人を誹謗する学会こそ、この呵責を我が身に引き当て、真摯に受け止めるべきであろう。(『慧妙』H6?)

    ●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(第59世日亨上人『富士宗学要集』第9巻247頁)
    -----------------------
    [突喊]とっかん=①ときの声をあげること。 ②ときの声をあげて、敵陣へ突き進むこと。(『大辞泉』)
    -----------------------
    戦時下の国家弾圧において「世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒」とは一体誰で「官憲の横暴を徴発」とは何でしょうか。すぐに思い浮かぶのが、牧口会長以下学会員達が神札焼却の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等に走ったことです。

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  • from: 22世紀さん

    2011年06月28日 20時23分01秒

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    池田大作「権力者」の構造

     折伏大行進と大蔵商事の商法

    昭和26年5月、戸田は創価学会本部に常置する本尊の下賜を総本山に請願した。それはその請願書に、「一国大折伏の時機到来せり・・・・・大折伏大願成就の為の大御本尊」とあったように、同会の広宣流布という大目的の公然化と、それへの起請文にほかならなかった(またその請願は、同年4月公布施行された宗教法人法の宗教団体の定義に、「礼拝の施設を備える」という一句があり、それを字義通りに受けたうえでの、日蓮正宗から独立した宗教法人設立に向けての用意周到な布石をも兼ねていた)。
    戸田の号令一下、創価学会は折伏大行進の臨戦態勢下に入り、以後、暴力的といわれるまでの折伏が創価学会の常態になった。
    戸田の下ではすべてが組織伸張を基準に処断された。6月には10名近くを除名し、少し遅れて、前に理事長からおろした矢島周平を休養の名目で、さらに指導監査部長からもおろし、後任を柏原ヤスに兼任させた。27年4月、矢島は復帰がかなったものの、翌28年8月に出家して日蓮正宗の僧にならなければならなかった。
    池田は矢島について、「矢島さんは良い調子で派閥を作った。親の心、子知らずで、戸田先生の気持ち等全然わからず、良い調子になった」(『社長会記録』昭和43年4月29日)と語っているが、矢島自身は、「ひとくちにいえば、戸田さんに追い出されたんです。私は彼の教学に批判的だったし、事業のやり方にも反対だった。それをしばしば口にしたわけです。それが戸田さんには気に入らなかった」(『週刊ポスト』昭和53年9月22日号)としている。
    彼は昭和8(1933)年の長野県赤化教員事件で検挙された一人だったというが、昭和10年創価教育学会に入会、18年に牧口、戸田とともに検挙され、20年4月まで入獄という経歴が語るように強い意志を持つ草創期からの幹部だった。
    人事は原則として能力と実績だけで考課された。
    ふつう新興宗教では、選挙によらない非民主主義的な形態にもかかわらず、他教団との競争や分派発生防止のため、実力第一主義の人事が行われ、一般の社会のような学歴、顔、買収、追従などは通用しないとされる(高木宏夫『日本の新興宗教』)が、戸田の人事も、たとえば元子爵夫人・北条ツネ子に教学部の名誉教授を授け、その血族・北条浩の早い登用など、元華族の偏重を除けば、大約その例外ではなかった。
    池田の置かれた地位は、その当否はともかく、彼にとっては大いに満足すべきものであった。彼は最初から幹部候補生としてノミネートされていた。
     戸田の就任前には、池田は、一日の大部分の時間と精力とを大蔵商事の信用の確保と、新しい営業分野の開拓に費やし、「彼ひとり人知れぬ分野で孤軍奮闘し」(池田、前掲書)なければならなかったため、その会活動は皆無に等しく、「池田は〝退転〟したのではないか」と噂されるほどだったが、彼が日本正学館や東京建設信用組合の困難な業務に見せた努力は、戸田の心証をよくし、会活動にかわる経歴と考えられていた。
    そのころ池田は前に述べたように、蒲田支部の大森地区委員だったが、当時の戸田の池田評価は、「竜年光君、池田大作君・・・・・等は共に熱血をたぎらせて広宣流布の闘志として養成され邪宗折伏においての獅子吼は相手に一撃を加えずにはおかない」という聖教新聞(昭和26年5月1日)評とほぼ同一と見られ、池田は同支部幹部の竜年光の一ランク下ぐらいに位置つ゛けられていた。
    会員がまだ少なく、聖教新聞も同人連絡紙のおもかげを漂わす時代に零細企業で苦楽をともにしたという戸田へのコネを持つ池田は、きわめて有利な場所にいたといえよう。彼には、戸田の会長就任後一ヵ月で、さらにもう一つの有利さが加わった。
    6月、池田の勤める大蔵商事は新宿から市ヶ谷駅前の市ヶ谷ビルに移転した。戸田は翌年4月、同ビルの一室に創価学会の分室を設けたが、分室と称して差し支えないほどに西神田の創価学会本部と近く、池田の会活動には便利となった。
    また大蔵商事の社業好転も池田の活躍を助けてあまりあるものがあった。
     創価学会員の増加とともに、池田をしばり、苦しめ、彼のハンディキャップとなっていた戸田の事業は発展に向かい、昭和27年春には、戸田の7、8,000万円という借財は、三割返済を含んでいたものの、ともかく皆済されるほどであった。
     大蔵商事の営む不動産や保険代理業、高利貸し等は、いずれも顔と信用が物をいう業種であり、同社の最高顧問である戸田の背後に多数の信者が控えていることは、そのまま絶大な信用につながったし、また聖教新聞に「資金の融通は大蔵商事」と広告をうっていることからも、会員との取引が増大したことは十分察知される。
     大蔵商事の主業務は手形の割引であった。
    「割り引いてもらいたい者は創価学会支部長の紹介状をもらって朝9時までに大蔵商事に行く。商事では手形を預かり、3時にまた来いというわけだ。それから、目と鼻の先の三菱銀行市ヶ谷支店に運んで、銀行の手で振出し銀行に問い合わせ、ふるいにかけて2時に戻ってくる。割引率はふつう1割5分、3ヵ月手形なら4割5分を引く。一方、会員からは日歩15銭で運用してやると金を集めていた」(前出、瀬尾正吉談)
     池田はまた債務の取立てで「病人の寝ている布団をはぐ」こともしたといわれている。池田ののちの回顧「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どおしてこんないやな仕事をするのかと思った」(『社長会記録』昭和43年2月10日)が、その業務の非情さを裏つ゛けていよう。
     同社の繁昌は創価学会の隆盛に負うものであった。
     大蔵商事の発展は、それまでとは逆に池田の会活動を保証するものに変わった。社業がうまくいっている以上、戸田が他の事業家の誰よりも、創価学会員である部下の会活動に理解を示すのは見やすいところであり、その点、池田は他の青年男子部員の誰よりも、それ以上望みようがないほど恵まれた勤務環境にあったといえよう。
     さらに四六時中、戸田と顔をつきあわせている生活は、戸田の意向を汲み取ることを池田の得手にさせた。池田の追随的な事務家の能力は、戸田のアイデアを実行するうえに、ソツがなかった。




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  • from: 22世紀さん

    2011年06月28日 20時21分38秒

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    池田大作「権力者」の構造

    第三章 戸田城聖の番頭から創価学会の大幹部へ

     狂信者戸田の指導と組織力

     昭和26(1951)年5月3日、創価学会会長の地位についた戸田は、「私が生きている間に75万世帯の折伏は私の手でいたします。・・・・・もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出して下さるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい!」
     といったという(もっともこの75万世帯は、『聖教新聞』昭和27年5月10日では「断じて150万の世帯にならなければ」となっている。が、いずれにしろ戸田の死没寸前に達成されたとされる、その75万世帯は、一世帯一人としても、就任時の会員数約3,000名の250倍にあたる)。
     戸田の願望は大きかったが、彼はそれに見合うだけの、強信に基つ゛く使命感と能力とに欠けていなかった。彼にとっては、創価学会の強化と拡大だけが広宣流布に直結して、そのまま善であったから、会の拡大が彼にもたらすはずの莫大な利益を思って後ろめたさを感じるようなことは、まずもってなかった。会員増と彼の利益の一致は、「折伏大行進」への彼の声を大きくするものの、小さくする性質のものではない。
     戸田の強みはすべて、強信に負っていた。強信でこそ、彼は他の牧口門下生を圧倒し、彼らの会長就任反対の意向を無視、あるいは封殺して独裁体制を確立することができたし、また会員を折伏という会員獲得運動に臆面もなく、強制動員することができたのである。
     マックファーランドは、ホッファーの「運動は能弁な者によって開拓され、狂信者によって実体化され、行動者によって強化される」という言葉を創価学会の三代にあてはめ、戸田は狂信的な人間で、彼の指導と組織力のもとで創価学会は勢力が著しく伸びたとしている(内藤、杉本訳『神々のラッシュアワー』)。
     戸田の強信は、それによる儲けを忘れなかったとはいえ、たしかに狂信といって差し支えないものだったし、その指導力や組織力も、牧口に較べれば文句なく、また池田に較べればその創始性において、屹立するものであった。彼がいったという「ぼくが舞台を作っておく」(池田『人間革命』四)には、誰がいったかは別として、毛ほどの偽りもない。



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  • from: 22世紀さん

    2011年06月28日 20時20分11秒

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    池田大作「権力者」の構造

    戸田城聖の破産と教団指導業への転進

     昭和25(1950)年6月、東京建設信用組合の預金払い戻しは急増し、7月に入ると取りつけまがいの騒ぎさえ起こった。焦げつき債権の回収も、優良組合との合併策も思うにまかせず、払い戻し請求には、なりふりかまわぬ居留守と平謝りの一手しかなかった。
     同組合の被害者のひとりは、のちに戸田をインチキと激しく非難している。
    「昭和24年、当時戸田が西神田にある『東京建設信用組合』なるものの経営をしているとき、知人を通し゛て手形の割引きを依頼されました。まだ保全経済会などの事件も起きぬ前で、インフレの名残りで、高い利率にもそれほど不審も抱かず、手形の割引きを、4、5回したものです。
     また、その信用組合は定期預金なるものを作り、3ヵ月、6ヵ月満期の定期にも加入させられました。そのときすでに多額の貸付金コゲツキのため、四苦八苦の最中だとは、定期の満期の迫ったとき知ったのです。
     ようやく捕まえた戸田と会ったとき、神田の事務所の裏の小料理屋で、度の強い眼鏡をタタミにすりつけて平身低頭『生きている限り、必ずこの戸田が誓って全額返済します』といった姿を今も忘れません。しかし、その後、姿をくらまし、2年後に彼の負債(1,500万円とか)は三割返済の決議により清算されました」(『週刊朝日』昭和31年9月2日号、読者投書)
     結局、事業家・戸田の論理は宗教家・戸田の論理とゴッチャになって、無い袖は振れぬだった。戸田のなめた苦しみは、他人に対して無責任で酷薄な言い抜けや一時しのぎを許す権利を授けたわけである。
     8月、東京建設信用組合は大蔵省から営業停止を命ぜられ、ここに戸田は事業家として致命的に敗れて組合法違反を問われ、また取り立てにからむ刑事事件をひきおこし、債権者からは告訴されることになった。そのため彼は創価学会理事長の職を辞任し、後任を矢島周平に譲って夏季講習会にも出られず、一時は城聖の名を城正と変え(佐木、小口『創価学会』)、雲がくれした。戸田の破産は多くの会員を動揺させ、彼に出資していた一部会員を離反させたばかりか、中には数十世帯を集めて分派を結成するものさえ現れてきた。
     戸田は刑事事件としていつ起訴されるかも知れない身であり、彼の妻は生活のために働きはじめ、池田は牧口門下の清算事務局長の下で、毎日を希望のない善後策に走りまわり、疲労しきっていた。
     池田はのちに当時をこう回想している。
    「昭和25年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしようとする。借金取りは連日連夜悪口を云った。(池田先生が)私一人で頑張った。横領罪で訴えられそうになった。25年の12月には、もう駄目かも知れぬと思った」
    「記者が玉の井で遊んだ時、その売娼婦が信用組合に金を出して損をした話をした。26万だまされたと話したので、それをネタにして乗り込んできた。一応、私が会って、その晩玉の井へ行った。遊郭へ行って、その女に会って話をした。あなたは若いのに真心がある、あなたが来てくれたのだから、その話はもうしないと約束してくれた」(いずれも『社長会記録』昭和43年4月29日)
     東京建設信用組合は春をひさぐしか生きられない底辺庶民の金さえ、結果的にはだましとったのだから、その瓦解が明らかになったとき、出資者たちの怒りが戸田や社員に集中したのは当然である。若い22歳の池田ならずとも、修羅場と感じる。
     《御本尊さまにこの苦しみだけは逃れさして下さい、という願いをして御題目を六十万遍唱えることにしました。逃れ(られ)なければやめようと思っていたのです。それが不思議にも百日過ぎて急によくなったのです。その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。私の体験は三年だけです。信仰しなければ二十三くらいで死んだだろうといわれています。信仰していなかったら貧乏で、病気で死んでいたでしょう。わたしは今それから六年経っていますが、ずっと順調で申し分のない幸を得ております》
     「この苦しみ」とは貧困や病弱、家族や友人からの信仰への反対も指そうが、中心は東京建設信用組合の事後処理問題であろう。池田は一切から閉ざされてもなお将来を賭けた戸田に、最大の苦悩を背負わされた。「逃れられなければやめようと思っていた」は、信用組合や信仰を、であろう。
     実際は、同僚はつぎつぎにやめ、池田としても苦しむために勤めるような気持にもなったにちがいない。のちに池田は「大半の人がいなくなり、私一人になった。その時、しめた! これで自分の人生は勝った! と思った」(昭和50年6月6日、第一回本部代表者会議で、内部文書)と述べているが、自らの先見性を証するための創作であり、「やめようと思った」が偽りのない気持ちだったろう。
     が、池田によれば、昭和26年1月下旬、信用組合は「大いに心配がなくなった。目鼻がついたので(戸田は)会長就任の決意を2月11日の誕生日になさった」(『社長会記録』昭和43年4月29日)という。
    「先生は事業を譲って」とあるのは、東京建設信用組合の清算事務を、牧口門下で戸田の事業仲間でもある会理事に委ねたこと、また25年秋、戸田は小口金融、不動産、保険代理業などを営む大蔵商事を設立したが、彼自らは世間をはばかってその顧問で控え、社長に会理事の和泉覚、専務理事に戸田の公認の妾である森重紀美子を立てた(由比、前掲書参照)ことの二つを指すものと思われる。
     池田が六十万遍の唱題を発心したのは、入信から満三年を経た25年晩秋のことであったが、唱題の当初は、相変わらず給料遅配で、その冬もオーバーをあきらめざるを得ないような実効性にとぼしいものであった。が、彼のいう「身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も」のうち、まず「社会的地位」が早くも彼にほほえんでくれた。
    「本日、営業部長に、昇格する。一、経済の勉強をいたすべき事、一、事業の発展に、責任を、一段と深くすべき事、一、学会の前進に、遅れざる事」(池田『若き日の日記から』11月27日)
     大蔵商事の社員は池田のほか、戸田の親戚二、三人にすぎなかったというから、「営業部長」は、およそ名刺上の箔つ゛けだけにとどまっていたにちがいない。事実、部長にともなう手当や給与の方も、翌28日を見ると、「今月で、三ヵ月給料遅配。本日、少々戴く。帰り、大森にて、シャツ等を購入。金、百六十円也」という情けない仕儀であった。
     大蔵商事は12月、新宿百人町に移転したが、その事務所が地肌のままの土間だったことに見合って、営業成績もいっこうに振るわなかった。が、22歳の池田は生まれてはじめて「長」を与えられ、大いに戸田への心証をよくしたと同時に、その妾にも仕える腰巾着の地位を、職制のうえで確立したのだった。
     池田が唱題を始めて、ほぼ「百日」後の26年2月ころから、効験はいよいよ実をともないはじめた。二月初旬、信用組合を解散してもよい、という大蔵省の内意が伝えられて3月11日、東京建設信用組合は正式に解散し、戸田への責任追及はひとまず解消した。
     戸田がどのような手段で法的制裁を免れたかは不明である。
     池田への真の救いは同じころ、戸田が、牧口以後長らく空席のままであった創価学会会長の地位につく意向を表明したことによってもたらされた。その時点で戸田に会長就任の決意をかためさせたものは、「ここに、不思議のことありて、大確信を得」(戸田『論文集』とある「不思議のこと」であり、その意味するところは、明らかに、彼には「ありがたい御本尊の功徳」と映じた、この信用組合の免責であった。それが立正佼成会(昭和35年に大日本立正交成会から改称)への敵対心と相乗して、ふいに戸田を会長に立たせたのである。
     立正佼成会は創価学会と同じく日蓮系で、法華経を重視し、また設立年月も昭和13年で、創価学会の設立と近接している。が、当時会員は約20万を数えて、3,000の創価学会とは雲泥の差であり、新興宗教中、最高の成長率と最大の教勢を誇っていた。
     佼成会は戸田にとって、教義上はもとより、いわば近親憎悪といった面でも敵であり、思いのたけをこめて打倒すべき邪宗以外の何ものでもなかった。
    「学会と立正佼成会は同じく正と邪の道を開き、しかも、いまだかれら邪宗をつぶすにいたらず。このまま便々としては、大御本尊様よりお叱りあることをおそる」(同前)
     が、佼成会に対する戸田の敵愾心には、一筋縄ではいかない、陰微な嫉視や競争心も混入していた。佼成会の発展は戸田には、なにより不正不当な、横取りされたような成功と感じられた。
    「学会再発足のとき、立正佼成会も同じく小さな教団として、やっと息をついていたのは、自分たちのよく知っているところである。しかるに、7ヵ年の時を経過して、かれは大なる教団となって邪教の臭気を世にばらまいている」(同前)
     規模もスタートも同じくして、一方は「邪教」の分際で大教団、一方は事業家として塗炭の苦しみ――この事実に戸田は事業上の挫折を天啓と見、また新事業を着想する視点をも得た。
     彼は信用組合が営業停止命令を受けたとき、「ぼくは経済戦で敗れたが、断じてこの世で、負けたのではない」といったという。確かに、再起不能なまでに信用も資金も失った戸田は、この世で負けたのではなかった。ふつうの事業であくせくする必要は最初からなかったのだ。彼は立正佼成会がその成功を例示している新事業、そして「信者を30人集めれば食っていける勘定の、べラぼうに高収益のあがる商売」(大宅壮一)である教団指導者業にすぐ転進すべきだったし、また彼には、逆転勝利への道はそれ以外になかった。
     戸田は早速会長着任をめざして布石を始め、まず会員間に会長推戴署名運動を起こさせ、3,000人の署名を集めた。戦前からの会員の一部は署名を拒否したが、戸田は歯牙にもかけなかった。ついで4月6日、支部をA級(1,000世帯以上)、B級(500世帯以上)、C級(500世帯以下)の3段階、12支部に格つ゛け、再編し、支部長を任命して組織再編成をはかった。また旬刊、ブランケット判二頁の『聖教新聞』の創刊にも着手し、編集主幹に入信まもない、芝浦工専卒の石田次男をあて、4月20日、第一号3,000部を刊行した。
     戸田はこれらの措置によって会長就任の花道をしつらえた後、5月3日、東京向島の常泉寺で行われた会長推戴式に臨んだ。
     式後、戸田は新組織機構と人事を発表した。筆頭理事に和泉覚、理事に柏原ヤス、森田悌二、馬場勝種、小泉隆、原島宏治、辻武寿をあて、理事長は空席のままで、それまでの理事長・矢島周平をヒラの理事からも追い落とした。各部の部長は、指導監査に矢島、財務和泉、講義原島、指導柏原、婦人和泉みよ、青年辻、男子牛田寛、女子小島栄子、企画原島、秘書室石田次男という構成で、講義部の部員は教授―助教授―講師―助師の四段階にランクつ゛けされた。
     池田はただ講義部の最後尾の助師と、蒲田支部の大森地区委員に任命されたにすぎなかったが、それでも、創価学会の発展が即、池田の出世という位置にかろうじて連なっていた。ようやく池田に「順調で申し分のない幸」が訪れかかっていたのである。



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  • from: 22世紀さん

    2011年06月28日 20時18分47秒

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    池田大作「権力者」の構造

    投機的強信者の弟子

     それほどまでに強く池田をとらえた戸田の人柄は、ざっくばらんに過ぎて人に面白がられはするものの、決して一般には尊敬をかち得られるものではなかった。
     戸田は初代会長・牧口常三郎の法要の席で、牧口と対比して彼自身のひととなりを次のように語ったことがある。
    「わたくしと先生はまったく違う。先生は理論の面から、御本尊様を信じきっていた。わたくしは、功徳の面で信じている。わたくしはある体験から、ぜったいの功徳を信じ、日蓮正宗のために命をささげるものです。先生は謹厳そのもので、わたくしは世の中をふざけて生きている。先生は謹直で、わたくしはルーズだし、先生は目白に、わたくしは目黒に住んでいる。先生は非常な勉強家で、わたくしはさっぱり勉強せぬ。先生は飲まないし、わたくしは大酒飲みだ。これだけ、まったく正反対の性格でありながら、先生とわたくしは境地はピッタリ一致していた」(戸田『講演集』上、昭和27年11月)
     戸田の酒は、「29の年から44で牢屋に入るまで一晩もかかさず、出獄後今日まで一晩もかかさない。前は料理屋と待合で飲んだが、今は本部と自宅で飲む。量は今ではウイスキーのオールドびん一本が3日間」(週刊朝日』昭和31年7月29日号)というもので、酔って大石寺での会員質問会にも臨んだ。
     また「料理屋と待合で飲んだ」ことからもうかがえるように、戸田は女性に対しても発展家であった。
     夕張郡真谷地尋常小学校に奉職中には、複数の女性と恋愛し、「恋にもつれ、恋に狂いて、最も神聖なる教職を汚」(戸田『若き日の手記・獄中記』)した結果、その清算のために退職しなければならなかった。また戦前には三角関係を経験し(小口、前掲書)、当時も、戦前、彼の経営する会社の会計役であり、会員でもあった森重紀美子との関係をつつ゛け、彼女との間には子まであったようだ。森重は創価学会幹部間で公認されていた戸田の二号である(由比宏道『毒鼓の縁』)。
     戸田には己の弱所を口にして憚らない率直さはあったものの――おそらくそれは「この世に遊びにきた」(戸田『講演集』上)という彼の行動的、快楽主義的な空無観に通じる一種の達観と関連したものであり、そうした率直さの点では池田よりはるかに上だが――、内省的な深みはまったく欠けていた。
     彼は昭和31年、参院選で柏原ヤスが落選した挙げ句、多くの会員が選挙違反に問われた際には、「(官憲は)買収をしたのじゃないかと買収の証拠を探そうとしている。柏原参議院落選候補のオチンコを探すようなものだ。ワシは柏原だけはオチンコがないから、落ちんと思っていた」(『週刊朝日』前掲号)と野卑な駄洒落をとばしたりした。軽度のアルコール依存症患者は下界に対して上機嫌で円満な態度を持し、駄洒落を好むというが、戸田のこうした言葉はまさしくその症状と思われる。
     戸田にインタビューした大宅壮一は彼の印象を「如才がなく、ぬけめのなさそうなところは、小さな印刷屋や製本屋のオヤジ、でなければ、地方の小学校校長か役場の収入役といった感じである。・・・・・そういえば金貸しにもむきそうな面がまえである」(『婦人公論』昭和32年10月号)と記した。
     戸田の人相、風体、言動、著作物などいずれも聖性とは縁遠く、そのすべてに俗臭が立ちこめていた。池田はそのようなものの弟子であり、戸田から池田への進化はただ一つ、後者がスノビズムを身に付けたことだけであった。
     総じて生前の戸田を知る人々の戸田像は、もうけを片時も忘れることのない小事業家、「勝負」に生きがいを見出す投機的商人、はったりと大言壮語で人をけむにまく山師的性格、さばけた苦労人といったものであった(日隈、前掲書)。
     が、そのような戸田にも、戦前、当局の弾圧に「退転」しなかったことに典型的に見られる、強い力がひそんでいた。戸田を支えた力は、初めは牧口への敬愛の念だったろうが、後には日蓮正宗への強信と入れ替わった。彼の強信は、信仰のフィルターを通せば、その人柄を十分魅力的に、人物を尊敬に値するように見させたのだろうし、一見性格的に相容れそうもない池田をはじめ、多くの青年の心をつなぎ得たのだろう。
     池田は戸田のカバン持ちとして、信用組合の厄介な外交戦の第一線に、責任を負って立たされ、金や法、人や組織、インチキや嘘や脅しなど多くのものを学んだ。
    「毎日の目標をきちんと立てさせる。私も戸田先生から厳しくやられた。耐えられる人はいないね、窒息してしまう。今日はどこに行って何をどれだけやってくるのか。株も勉強させてもらった。二百万円位やらせてもらって二年で三十五万円位損をした」(池田の回想、『社長会記録』昭和46年7月27日)
     この実地教育が大世学院で教える課目以上に有用だったことはいうまでもない。池田は後に修羅場で学んだその知識や技能をおおいに創価学会の経営に役立てたし、また創価学会の成功により、その試練の期間を、池田の先見の明を表す証左ともしたのである。




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