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りんごのひとりごと

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公開 メンバー数:8人

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  • from: りんごさん

    2019年10月18日 06時08分51秒

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    生い立ち

    私は親に愛されず、虐められて育った。

    「そんな風に思うだけでしょ、どこでもある話よ」
    って思いますか?

    では長くなりますがお教えしましょう。

    私の親は、大人になりきれない幼稚な人間でした。

    父親は強くもないギャンブルにハマり、
    金使いが荒かった。
    負けて帰って来ると機嫌が悪く、テレビを観ていると消され、怒鳴られ、テレビの画面は新聞紙を貼られ、コンセントを抜かれて新聞紙でぐるぐるに巻かれました。
    私は翌日、父親が帰るまではその新聞紙を取ってテレビを観て、父親が帰る頃にはまた新聞紙をもとのように貼って、自分の部屋に隠れたものでした。

    私には姉と妹がいます。
    男の子が欲しかった父親は、妹(末娘)が可愛くなかったようで、母親はそれが面白くなかったようで、でもその話を私に聞かせるのは、バカな母親だと思いました。

    母親は、そんな父親への苛立ちを、姉と私にぶつけてきて、妹(末娘)を溺愛しました。

    姉への暴力は酷く、時に母親は鬼のように姉に暴力を振るい、私は包丁を出さないかと思わず台所の包丁がしまってある扉の前に立ったものでした。

    私は暴力もあったけど、姉よりは少なかったかな?
    でも精神的に虐められました。
    妹(末娘)は、姉を「おっきいねえ」私を「ちいねえ」と呼んでいました。
    母親は事ある毎に妹(末娘)と
    「ちいねえは男勝りの〇ぽなしだ」
    「ちいねえは友達がいない」
    「ちいねえは姉のくせに妹より背が低い」
    等と悪口を並べたて、妹(末娘)に「なー」と同調を求め、母親に愛されたい妹(末娘)は「なー」と母親に同調し、二人にとにかくバカにされていました。

    母親は、姑と仲が悪く、何度も悪口を聞かされた。
    「おばあさんはツケで買い物をして、自分はその支払いに走り回った」
    「おばあさんは未婚の母で、子供を連れて今のおじいさんと再婚した。」
    そんな事、子供に聞かせる事じゃないだろう。
    私は母の言葉と裏腹に友達は多かった。
    男の子からも電話があった。
    それを「お前は男遊びをしている。おばあさんと一緒だ、ごくとされ(方言、極道者と言う意味)だ」と罵った。
    嫌いな姑と同じ私。
    と言う事は、姑嫌いレベルで私が嫌いと言う事を意味する。
    傷付いた。

    私は小学校低学年から姉と共に家事手伝いをさせられました。
    掃除機かけと床拭きを、一週間交代で、姉と分担してしてました。
    妹(末娘)は勿論免除です。
    私は、掃除機をかけたり、床を拭いたり、狭い所をくるくる回ると頭が痛くなり、気分が悪くなりました。
    29歳になって、それはメニエール病だと判りましたが、当時は「お前は掃除をしたくないから嘘をつく、怠け者だ」と罵られ、体調の心配なんてして貰えませんでした。

    小学校低学年から、夕飯の後片付け(食器洗い)もさせられていました。
    ある日、上手くお皿をくるくる回しながら濯げる事に感動し「ほら!くるくる回して洗えるようになった!」と言うと
    「そんなもん、洗えとるか!」と怒鳴られました。

    とにかく何をしても褒められた事はなかった。
    今思えば、私の完璧主義は、ここから生まれたのかな?

    朝のお味噌汁作りもさせられていました。
    姉はある日、だしじゃこを取るのを忘れて味噌を溶き、母親に
    「こんなもん、喰えるか!」と三角コーナーに捨てられ、泣いていました。
    以後、姉はお味噌汁作り担当から外され、私の担当になりました。
    小学校低学年から朝のお味噌汁作りは私の仕事でした。

    高学年になると、夕飯作りも手伝いました。
    パートで働いていた母親が帰ると
    「今夜は何を作るの?」と聞き、母親と二人で夕飯を作りました。

    これら、家事手伝いは自分の力にもなるので、さほど悪い事ではないのですが、体調不良を心配して貰えないのは悲しかった。

    そんなこんなで料理に興味を持った私は、
    母親の持っていた料理本(お蔵入りして使われていなかった)を読むのが好きで、
    ある日「これが作りたいから、材料が欲しい」と申し出ました。

    多分、白身魚のミルク煮のようなものだったと思います。

    昔の田舎ですから、生クリーム、コンソメ等、ハイカラな材料はなく、与えられたのは牛乳と、青い魚(鯖?)のアラでした。
    見よう見まねでなんとか作り、
    「出来たよ!」と言うと
    「こんなもん、猫の喰うもんだ!」と三角コーナーにぶち込まれました。
    そらそーだ、青い魚のアラと牛乳、見た目も悪いし、想像しても臭くて食べれないよね。
    でも初めて料理した私にはそんな事 分からなくて、ただ悲しかった。

    母の実家に行った時、母は台所でつまみ食いをした。
    私と姉が注意した。母は
    「ここはわち(方言、私と言う意味)の家だ!」と言った。
    恥ずかしかった。
    あんたは嫁に出て、実家には嫁が来て、しかもその子が結婚して世代は変わってるのに、まだ自分の家と言うとは!
    なんて幼稚な人間だ。
    情けなかった。

    姉は成績が悪かった。
    高校は、普通科に行きたかったけど、看護科に行けと言われ、揉めて揉めて、なんとかやっと進学校の普通科に進学しました。

    高3の時、成績の悪かった姉は進路に悩みました。
    姉は何になりたかったか知りませんが、親は「給料のいい看護婦になれ!」と言いましたが、姉は看護婦にはなりたくなかった。
    大学に行きたかったのかな?
    親は「親に借金せって言うんか!」と怒鳴り、毎日喧嘩でした。
    高3の三学期、最後の最後まで進路が決まらず、担任が家庭訪問に来て、なんとか二次募集でレベルの低い幼児教育の短大に合格し、進学しました。

    私も同じく「給料のいい看護婦になれ!」と高校は看護科を勧められましたが、姉と同じく進学校の普通科に行きました。
    私は獣医になりたくなかった。
    初めからそう言っていた。
    成績は良かった。
    数学は270人中6位だった。
    典型的なリケジョだった。
    高3で、国公立理系コースに進級した。
    ところがそこまできて
    「大学なんか行かせん!看護学校に行け!」でした。
    看護婦なんかなりたくなかった。
    ならば臨床検査技師になりたいと言ったら
    近くの大きな総合病院の看護婦総婦長をしている父親の叔母の所に連れて行かれた。
    なんで?なんかアドバイス?と思いきや
    叔母にまで「一つの病院に看護婦が何人おる?!
    臨床検査技師が何人おる?!
    就職を考えたら、臨床検査技師より看護婦の方がいいに決まってる!」と説教されました。
    はぁ?
    なんなんですか。
    ならばトリマーか動物看護婦かと専門学校のパンフを請求して見せましたが、昔の事ですから、そんなマイナーな仕事には反対されました。

    共通一次の願書を書く日、担任が私に
    「そんな事 言っても受かったら行かせて貰えるって。だから共通一次受けな」って言ってくれたけど、書かなかった。

    でもやっぱり!と思って、お昼休み、掃除をサボって担任を探したけど見つからず、共通一次は諦めた。

    私立の理系はもっとお金がかかる。
    私も最後の最後まで進路が決まらず、
    仕方なく二次募集の看護学校を受けた。

    入学してすぐの面接で
    「看護婦にはなりたくないのでやめます」と言ったくらい、嫌だった。
    でも浪人はダメだった。

    賢かったから、看護学校はそれなりに楽しくなった。
    看護学校卒業したら、保健婦助産婦のどちらも資格の取れる大学に編入試験を受けようと思うようになり、受験勉強もはじめた。

    ところが3年生の夏、妊娠。
    小さい頃から、早く温かい家庭が持ちたかったから、産みたかった。
    結婚は、あっさり許された。
    私は出産したら、復学するつもりだった。
    でも姑が「看護婦なんかならなくても、うちでようよう食べさせたげる」と言うし、学費の捻出に困ったから、看護学校は中退した。
    今思えば勿体ない事をした。

    結局、旦那の家に入ったけど、旦那と義父の喧嘩がもとで、別居した。

    切迫しようが熱が出ようが、母は助けてくれなかった。

    妹は元気でも「家事を手伝ってやらんなん」と足げく通った。

    上の子達の保育園の発表会も、姉が見に来てくれたけど、母は足がないから行けないといい、
    うちにくる姉の車で妹んちに送らせた。
    は?足がない?
    そのまま姉の車でうちに来たらいいやん。
    訳分からん。

    3人目を妊娠した。
    切迫が酷かった。
    洗濯機は二槽式洗濯機で、洗濯槽から脱水槽に洗濯物を移そうとするだけでお腹が張った。
    寝てても上二人がお腹に乗ったりする。
    母に助けを求めたが
    「そんな事、お前らもしてきた事だ!」と助けて貰えなかった。
    そして風邪をひき、くしゃみした途端破水。
    急いで病院に行ったけど、もう足が出てるからダメと言われた。
    掻爬すると子宮が傷付くので、陣痛つけますと言われた。
    見殺しか。
    早産はダメですかと聞いたら
    「早産の定義は昔は22週だったのが、20週になったが、17週では無理だ」と言われた。
    悲しかった。

    その後も熱が出ると母に助けを求めた。
    なんせ家事を一切手伝わない夫だったから。
    でも母は助けてくれなかった。
    ある時は、熱が下がってから、妹の車でうちへ来て
    「コーヒーいれて」
    へ?なにしに来たの?

    離婚の調停、手続き、一切相談もせず、手伝っても貰わず、全部一人でした。
    勿論、社会福祉の支援は受けた。
    7月に夫の元を離れ、でもその小学校で卒業したいと言う第一子の言葉に、その地に残り、妊娠中、一人で3人の子供育てた。
    出産までの3ヶ月は縫製工場でバイトしたけど、
    12月から3月まで無職だった。
    親は一度もうちに様子を見になんて来なかった。

    第一子の卒業を機に、地元に帰る事にした。
    住んでる所の保育園は3歳にならないと入れないが、地元は0歳から入れたから。

    何度も県営住宅の抽選に応募したけど、落ちた。
    親に「実家に住まわせて下さい」とお願いした。
    返事はOKのはずだったが、住民票を実家に移した時、市役所から実家に連絡が入り、父親から電話があり「勝手に人の家に住所を移したりして!」と怒鳴られた。
    おいおい、許可貰ったはずだぜ。
    でも喧嘩してる場合じゃない、とにかく頭を下げてお願いした。

    平成14年3月、小学校卒業してすぐ実家に移った。
    「お前の子の面倒は ようみん!保育園に入れろ!」と言い、妹(末娘)の2歳の子は預かって面倒をみた。
    傍から見れば、一緒に住んでる0歳児を保育園に入れ、離れて暮らす2歳児は保育園に入れずに連れて来させて面倒をみる、可笑しな事だったが、平気な親だった。

    ご近所から「娘さんお孫さんが帰ってきて、賑やかになって良かったなぁ」と言われても
    「孫がうるさくて嫌だ」と平然と言った。

    12月から無職な私に、生活費を入れろと請求した。
    2万入れつつも、食料、調味料、洗剤等、全て我が家の分は我が家用に買っていた。
    それでも「2万で足りるか!」と言われ
    2万5千円入れた。

    勿論、県営住宅の申し込みは続けていた。

    私達は実家の2階に住んでいた。

    ある日、私の末っ子が熱を出した。
    勿論「お前の子の面倒は ようみん!お前が仕事休め!」と言われ、その上、
    「〇〇(妹の末っ子)が来る、風邪を移したらあかんから、2階から降りてくるな!」と言われた。
    2階にはトイレも食料もないのに・・・。

    ある日、上の子達が友達を家に招き入れた。
    父親が即2階に上がって来て
    「ここは子供が遊ぶようには作ってない!
    出ていけ!」と追い出した。
    子供達も「お爺ちゃんは嫌い」と言った。

    私は末っ子を延長保育(普通は9時から16時だけど、延長保育を申請したら8時から19時までみて貰える。有料)をしていた。
    帰りが遅かった。
    でも両親は、うちの子の前で平然と夕飯を食べた。
    うちの子は、私が帰って夕飯を作るまで待たされた。
    そして夕飯が終わると、決まって末っ子は泣く。
    あやしていると、
    「そんな事してないで、さっさと夕飯の片付けをしろ!」と怒鳴った。
    かと言って、末っ子をみてくれる訳じゃない。
    上の子に末っ子を見て貰って夕飯の片付けをした。

    実家に移って翌年の7月、やっと県営住宅に入れた。
    県から「いつ入居されますか」と聞かれ
    反対に「いつ入居出来ますか」と聞き返した。
    「7月7日です」と言われ、
    「7月7日に入居します!」と夜逃げをするように引っ越した。

    勿論、両親は一度も県営住宅に様子を見には来てくれなかった。

    妹夫婦は働かなくなった。
    妹はもともとおかしく、職を転々とした。
    妹婿は「人の下で働くのは嫌だ」と勤めに出なかった。
    妹夫婦は莫大な借金を抱え、事ある毎に母のスネをかじった。

    国保も払わなかった。
    子供が熱を出すと、病院に行きたいが保険証がないと、滞納した国保税をまとめて親に払わせ、病院に行った。

    妹夫婦は働いてないので、借金は滞納し、第一保証人の父親が払っていたが、限界だったのか、銀行が第二保証人の姉に、妹夫婦の借金の請求に行った。
    姉に家を売って借金を返済しろ、親の家に引っ越せと言った。
    姉は怒った。
    姉婿と二人で妹宅に行き、妹婿に働いて借金を返すように言ったが
    「ないもんはない、欲しかったら家にある物でも首でもなんでも持って行け」と払う意思は全くなし。

    そして妹婿の家は、アイフルの抵当に入っており、とうとう差し押さえられ、競売にかけられた。
    でも田舎過ぎて古過ぎて売れず、母が買った。
    要するに、妹夫婦は借金を母に精算して貰って、名義が母に移る事で固定資産税も払わなくて良くなった。
    銀行の借金は焦げ付かした。

    いい子の私は時々親の様子を見に行った。
    自分で言うのも可笑しいが、ほんとにいいこちゃんだと思う。
    放っておけばいいのに。

    ある日、母が私に
    「こんな物が来た」と郵便物を見せた。
    それは、裁判所からの、家の差し押さえだった。
    すぐ市役所に相談に行った。
    「この文書が来る前に、もう一つ文書が来てるはず。その時に借金を払っていれば差し押さえは間逃れたが、払ってないからもう遅い。
    この文書が来たら、どんなにお金を払おうとも、差し押さえは決定」と言われた。

    子供が進学する際に
    「親に借金せって言うんか!!」と言った奴が、
    借金で家の差し押さえかよ。
    父はもうよぼよぼで歩けず這っていた。
    それでも携帯で人にお金を借りようとしていたので、怒鳴り、携帯を取り上げた。
    頭も どついたった。

    父は、整形に通っていたので、整形外科医が
    「うちで面倒をみます」と言って下さり、
    入院した。
    母は引き取る事にした。
    子供が使ってた部屋を一つ、母の為に開け、
    引っ越しの手伝いをした。

    その時母が「わち(方言、私と言う意味)の財産に手をつけるな!やらんでな!」と言った。
    頭に来た。
    差し押さえの事で、裁判所や市役所や司法書士や、やり取りは全部私がした。
    そして引き取ってやる事にしたのに、
    なんだ、その言葉は!!
    「もう知らん!!私に頼るな!!あんたには、あんた名義の家(妹夫婦宅)があるやろ!!そこに行け!!」と放って帰った。

    母は、電気が止まる、電話が止まる、水道が止まる末娘宅に行っても仕方ないと私に頼ってきたんだろう。
    でも知らんがな。
    私は面倒見て貰ってないんだ。
    あんだけスネかじった末娘宅に行けよ。
    水道が止まろうがなんだろうが、知らんがな。

    母の実家の叔父から電話がかかってきた。
    「りんご、すまなんだ、お母ちゃんが悪い。叱ってやった。悪いけど、叔父ちゃんに免じて許してくれ。お母ちゃんの面倒、見てくれ」
    母が困って叔父に電話したんだろう。
    仕方ないから母を引き取った。

    その時分かったけど、妹婿の銀行の借金を第二保証人の姉に家を売れと言ったのは、第一保証人の父の家はアイフルが第一抵当に入っていて、銀行は差し押さえられなかったからだった。

    姉に状況を話し、援助を求めたが
    「親の事は私に持ってこんといて!」と言われ、
    それ以来疎遠になった。
    姉の下の子と私の末っ子は同級生でひとクラスしかない田舎で同じクラスなのに、口も聞かない姉妹に、ママ友には異様に写っただろう。

    父は遠く、1時間がかかる病院に入院していたけど、休みのたびに見に行った。
    父は病院の食事は食べず、甘い物を要求し、クリームパンとミックスジュースを持ってこい、テレビカードを買うお金を持ってこいと要求したが、
    「あんたは一生に使う以上のお金を使って家まで失った!あんたに使うお金はない!入院費に食費も入ってる!病院の食費を食べろ!テレビを見る事も許さん!毎日懺悔しろ!」と怒鳴った。
    それでも頻回にコールし、看護師に「家に電話しろ」と言ったらしい。
    そしてコール頻回に看護婦が疲弊したと言う理由で、うちの近くの公立病院に突然転院になった。
    主治医にプライベートの話をし、酸素10リッター投与された。
    10リッターも投与したら意識がなくなり、死に至る。
    要は主治医に殺して貰ったようなもんだ。
    だって、アイフル以外にも数社借金があり、月5万に登った。
    司法書士曰く、自己破産する為には、生い立ちからなぜこんな借金を重ねたかを書かなければならないと言われ、よぼよぼ爺さんが書ける訳もなく、自己破産は諦め、生きている限り私は父の借金と入院費を払わなければならなかったので、早く死んで貰って、死んだら即相続破棄するしか方法はなかった。
    主治医に殺して貰ったようなもんだ。
    9月に入院、翌年5月に逝去。
    人から借りた借金の返済の請求が怖くてひっそり葬儀をあげた。
    死んだ事も知らせなかった。

    母のことは、叔父の言葉に、過去の嫌な事を心の箱にしまい、面倒を見た。2年くらい経ったかな。
    あまりに反抗的な言動に腹が立ち、心の箱にしまっていた過去の嫌な事が辺り一面に拡がり、拾う事も出来ず、そこから関係性が悪くなった。
    遅番の時は、母がデイサービスに行くまで起きない。
    早番の日は、母がデイサービスから帰る前に娘と出掛け、外食をし、母にはお惣菜を与えた。

    でも罪悪感はあった。
    施設長に面談をお願いした。
    「私は母を虐待しています。他の施設から、ここの施設の職員が親を虐待してるって知られたら、ここの法人の名前に傷がつくし、一生懸命働いている職員さんに申し訳ない。辞職させて下さい」って泣いて訴えた。

    施設長は
    「それは虐待じゃない。家族関係の歪みだ。
    なにも介護職してるから、マザーテレサのようになれとは言ってない。教師をしてる人がちゃんと子育て出来てるかって言ったらそうじゃない。
    国民的アニメ サザエさんは国民の毒だ。
    みんな、あれが普通の家庭だと思ってしまう。
    ところがそうじゃないんだ。
    そんな家はほとんどない。
    お母さんはうちでみてあげる」
    と言われた。
    母との関係性を職員に知られるのが嫌で、
    ひっそりと入所させて貰った。

    その1週間後、突然死した。
    私が母を殺してしまったと、落ち込み、
    ひと月、鬱で仕事を休んだ。


    長くなったけど、これが私と親の関係。

    これでも「そう思うだけ」と思う?

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