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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月31日 11時37分13秒

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    世界遺産・知床(6) 知床の自然・「知床五胡」

    ウトロ温泉を抜けると次第に山中へ入り込むようで、高台から眺めるウトロの温泉街や港の風景が一服の絵のように輝いている。
    国道に沿った「知床自然センタ-」から左折すると、いよいよ知床の奥深い懐へ向かっていることが実感する。
    知床自然センタ-は、ちょうど知床峠と知床五湖への分岐点に位置し、知床に関するインフォメーション基地でもある。 知床の自然を知るには先ずこちらを訪問するのも良いであろう・・。
    先ず、巨大なヒグマが玄関先で迎えてくれる。 見どころは巨大映像による案内で、断崖絶壁を舞うオジロワシや羅臼岳山頂から知床岬突端までの空撮、流氷の訪れなど四季すべての美しさをダイナミックに映し出される。
    又、知床五湖やフレペの滝などのネイチャーウオッチング、夜の動物ウオッチング、オジロワシ・オオワシ観察会などの四季の催しや自然体験なども実施しているようである。

    岩尾別の渓流を眼下に見ながら、先ず名所である「知床五湖」へ立寄った。
    大駐車場へ車を置いて早速歩を進める、「望岳台」より眺める知床の大景観は素晴らしい。 特に夕刻迫る知床連山は一服の絵である。 



    ほぼ正面に知床の最高峰・羅臼岳(1661m)を筆頭に、左へ山並みが連らなり硫黄岳(1563m)で切れている。 活火山・硫黄岳の山腹にカムイワッカの温泉が湧き出し落下しているのである。

    これより徒歩で「五湖」へ向かう・・、
    全ての湖に遊歩道が整備され連なっていて、五湖の其々の神秘的な自然の景観をできる。 先刻、上さんと(妻)と訪れた時はゆっくりと散策できたが・・、今回は時間的余裕が無くなってきたので、一湖、二湖のみの見物とした。
    湿性部分は木道が敷かれて徒歩に良い、一湖、二湖とも、湖面は鏡面状態で周りの樹林や知床の連峰を写しながら静寂している、その姿はまさに原始の中の楽園にふさわしい。
    この五湖は、いずれも流れ込む川も流れ出す川も無く、水は湖底から湧きだし、湖底の岩を伝わって知床半島の西側断崖に浸みだしオホーツク海に流出しているという・・。 凡そ30分の所要時間であった。

    一湖

     二湖

    知床五湖は、湖(秘湖、沼)の観光地として五湖とあるが、湿地帯にあるため融雪期には数が増えるという。
    周辺では一湖を見下ろす展望台や湖を巡る遊歩道が整備されて、知床連山や原生林を水面に映す素晴らしく、遊歩道ではエゾリスやエゾシカなどが観察される一方、特にヒグマが目撃されることもあり注意を要する。 ヒグマの出没状況によっては、五湖のうち二湖までしか回れなくなる年、時もあるので、周辺観光地での情報収集が必要だという。

    五湖は、そもそもは無名の「沼」であったが、1980年代から1990年代にかけて、地元の営林署の職員などが積極的な歩道の整備に乗り出したことから、核となる観光地がなかった知床半島の名所として、たちまち脚光を浴びることとなった。

    知床半島は 「日本最後の秘境」言われ元々、蝦夷・北海道の中でもヒグマが多数生息することで知られていた。 従って当然、五湖近辺もヒグマの生息地の中にあるため、遊歩道を設置したとはいえ、付近ではヒグマが頻繁に出没するのは必定であり、ヒグマが遊歩道に現れた際には安全が確認されるまでの期間は立ち入りが禁止となる。
    最近では遊歩道に出没したヒグマに観光客が寄っていってフラッシュを浴びせる事件(襲撃されても不思議ではない行為)も発生しているという。
     
    次回は、 知床五胡の続き・・、


    <font size="2" color="#FF0000">下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。

    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005  『日本周遊紀行』
    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2001  『旅の記憶』


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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月30日 10時30分03秒

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    世界遺産・知床(5) 知床の温泉・「ウトロ温泉」

    一走りで「ウトロ」へ着いた。
    北海道の東海岸巡る国道を「オホーツクライン」又は「流氷ライン」ともいい、国道238号の宗谷岬から国道244号、そして、ここ知床の玄関口であるウトロの国道334号で終わっている。 総延長は、延々430kmであった。

    ウトロの港付近は奇岩怪石が多い、巨大な岩が海から突き出ている・・、オホーツクラインとしてははじめて見る光景である、やはり、知床連山が背後に迫る山地特有の海岸風景である。 
    ウトロ温泉は、知床観光船乗り場があり、温泉街が広がる。 
    昨年秋、カミさんと訪れた時、この港から半島の西側を船で遊覧した、この時の印象は海岸線は殆どが断崖絶壁で、未だ人を寄せ付けないところ・・と見聞したが、この荒々しい岸壁は流氷の成せる技で、流氷のもすごい圧力で岩肌を削りとったとされている。

    ウトロは温泉場である。 
    近年、ボーリングによって湧出した新しい温泉街であり、知床岬めぐりの遊覧船が着く港付近と、オホーツク海の眺めを望む高台に設備の整った大小さまざまな宿が点在する。 
    あの時は、たしか高台でウトロ港が一望できる「知床第一ホテル」に泊まった記憶が甦った・・。

    泉質は塩化物泉で切り傷、やけど、慢性皮膚病、神経痛などに良いとされ、温泉宿は港付近と景色の良い丘の上にある。 オホーツクに沈む夕日を眺めながら温泉は素晴らしいとか・・、日帰り入浴できる宿は、知床第一ホテル、知床夕陽のあたる家などが有るようです。
    知床が「世界遺産」に登録されたことで更に観光収益が期待されているが、同時に観光客の増加による環境破壊も懸念されているという現状がある・・。

    泉 質 ナトリウム-塩化物・炭酸水素塩泉
    所 見 無色透明・無味・無臭
    効 能 リュウマチ、神経痛、関節痛 など
    問合せ 斜里町商工観光課 TEL(01522-3-3131)
        知床斜里町観光協会 TEL (01522-2-2125)

    ところで今、ウトロの温泉街で厄介な問題が生じているという・・。
    特に近年、エゾシカの集落進出が著しく、シカが温泉街を歩く姿をよく見ることがあり、TVや新聞でもニュースに取り上げられるほどである。 
    エゾシカによって農産物や家庭の観葉植物が食い荒らされる被害も出ているらしく、糞や尿の垂れ流しによる害、シカの道路飛び出しによる交通事故も懸念材料であるという。 
    銃器による駆除は、集落に接近しすぎている上、知床半島から流れ込む無数のシカには無力として断念、抜本的対策として、集落全てをフェンスで囲むことを2006年に決定したという。 
    フェンスは高さ3m、距離は3.6kmもあり、対策費用は3600万円で、2006年9月に建設を開始して12月に完成する見込みだという。


    次回は、 知床の自然・「知床五湖」

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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月25日 13時44分27秒

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    世界遺産・知床(4) 知床の玄関・・「斜里」


    知床半島の西の玄関口「斜里町」へ入った。
    知床半島が眼前に迫る海岸線より、やや陸地に入ったところに釧網本線の「知床斜里駅」がある。
    元々、斜里駅だったのが、1998年4月11日にから知床斜里駅に改称したそうである。 
    その名のとおり,知床への玄関口となる駅であるが、斜里町は知床半島の西側半分が行政区としての地域を占めていることはあまり知られていない・・?。 
    知床観光のメッカと言われるウトロ温泉、知床五胡、カムイワッカなどは、この斜里町に含まれているのであり、つまり、知床のいいとこ取りをしているのである。 
    駅前の斜里バスターミナルからは、知床に向って定期バス(知床線)や,定期観光バス(知床ロマンふれあい号)などが発着している。

    先般訪れたが、知床斜里駅の東方海岸よりに「斜里町立知床博物館」がある。
    この博物館も北海道、オホーツク海特有の文化や歴史、自然を展示しているが、特に秘境と言われる知床半島の自然情報、動物・植物の様子、流氷や半島の自然を展示、説明しているのが特長であろう。 

    2005年(平成17年)7月に、知床は「世界遺産」の登録物件として、7月17日正式に承認登録されたが、これによって観光客の賑わいも一段と増加するだろうし、知床斜里駅や知床博物館の価値が一層高まることは確実であろう。


    網走から知床方面に伸びる国道は実に雄大で北海道らしい風景を醸し出している。 又、「豊かな大地」北海道を体感する絶好のルートでもある。 
    カラマツの保安林で区切られた色とりどりの畑が左右に広がる中を、前方に見え隠れする斜里岳やオホーツク海に向かって一直線に進む。 
    時に現れる大きなカーブやアップダウンが、角度を変えて景色を更に新鮮に見せてくれる。

    手前に斜里岳(1545m)、遠くに海別岳(1419m)の勇姿が美しい。

    阿寒の山々と知床連山の中間に聳える「斜里岳」は独立峰で、山容は知床富士の如く端正にして名峰である。 日本百名山の一つでもあり、登山も盛んな山であろう・・。
    その麓に広がるのは一面ジャガイモ畑であり、畑が所々に小山を造っている。 よく見ると収穫しばかりのジャガイモの山である・・。 
    時折ダンプカーがすれ違う、積荷を見るとこれまたジャガイモである・・、今収穫の真盛りらしい・・。 
    すれ違うトラックや農耕機械もスケールが大きく、荷台から落ちたジャガイモが道の真ん中に転がっていたりして、気分を盛り上げてくれるのである・・。

    いつの間にか国道は244から334に変わっていた。 
    「知床国道」と言われる道で、いよいよ「知床半島」へと走ることになる。 
    海岸の際を走るようになって、斜里町の広大な平野、そしてジャガイモ畑がだんだん狭くなって、ついに山岳地帯に入っていく、 知床の山肌が迫ってきたのである。

    しばらくすると知床の名所の一つの「オシンコシンの滝」に来た。

    国道からいきなり豪快な滝が流れ落ちている様を見れるのはココぐらいだろう、海岸国道が出来る以前はヒョットすると、この巨大な滝は二段三段構えでいきなり、このオホーツクの海に落ち込んでいたのかも知れない・・・、 こんなことを想像するのも面白い。 
    滝の上には旧道が通っており、そこから眺めるとオホーツク海を背景に一段とスケールの大きい姿が見れるらしい。
    この滝は高さ50mあまり、二筋に分かれて落ちる様子から「双美の滝」とも呼ばれるそうである。

    滝を見物しながら一息入れて、いよいよ「知床」の懐へと出発である・・。


    次回は、 「ウトロ温泉」

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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月25日 13時42分10秒

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    世界遺産・知床(3)・・「世界遺産について」

    世界遺産MAP(提供元へ感謝します)

    知床の「世界遺産」について・・、

    「世界遺産」というのは、各々「文化遺産」「自然遺産」「複合遺産」と三種に分類されている。
    「文化遺産」は優れた普遍的価値をもつ建造物や遺跡など、 「自然遺産は」は優れた価値をもつ地形や生物、景観を有する地域、 「複合遺産」は文化と自然の両方の要素を兼ね備えているもの・・、と国連(ユネスコ)では定義している。
    日本では自然遺産として、平成5年(1993年)屋久島と白神山地が共に登録されている。現在この「知床」を世界自然遺産としの登録を申請し、まもなく認可されようとしている。

    「知床を世界自然遺産に・・」、希少生物の宝庫であり原生的な植生など、太古の姿をいまだ残す「知床」が、2004年1月に「世界自然遺産」として、地元の要望から政府を通じ正式に推薦され、その年、7月21日から7月25日にかけて、世界遺産委員会の諮問機関である国際自然保護連合(IUCN)デビッド・シェパード保護地域事業部長による現地調査が行われた。

    そして、平成17年7月17日、南アフリカのダーバンで開催されていた第29回世界遺産委員会において日本政府が推薦した知床の「世界自然遺産」への登録が決定された。
    登録に当たっては、流氷が育む豊かな海洋生態系と原始性の高い陸息生態系の相互関係に特徴があること、シマフクロウ、シレトコスミレ等の世界的な希少種やサケ科魚類、海棲哺乳類等の重要な生息地を有すること等が評価された。

    遺産領域としては、斜里町及び羅臼町の知床半島の一部で、知床連山の遠音別岳周辺山域から北方「知床岳」までの山岳地帯を核心部として、これらを取り巻く、ほぼ半島全域と周辺海域の陸地から3kmの海域を緩衝地帯として決められた、面積は概ね71,000haである。(1ha=100㎡)

    自然環境の主な特徴として、知床は世界で最も低緯度の季節海氷域であり、海氷に特徴づけられる海洋生態系と陸上生態系が連続することによって複合生態系を形成しており、海洋生態系と陸上生態系の相互関係を示している。
    海岸から約1,600m(羅臼岳)の山頂部までの間には、人手の入っていない多様な植生が連続して存在しており、豊富な餌資源と多様な環境を背景として、ヒグマは世界的にも高密度で生息している。

    知床は、北方系と南方系の両系の種が混在するなど、地理的位置と多様な自然環境を背景として特異な種の構成、分布がみられるほか、シマフクロウ、オオワシ、オジロワシなどの国際的希少種の重要な繁殖地や越冬地となっており、これらの種の存続に不可欠な地域となっている。
    尚、海域が世界遺産に選定されたのは日本では初めてである・・。


    当時の高橋はるみ・北海道知事の話として・・ 
    「北海道が誇る知床が人類共有の遺産として評価され、世界自然遺産に登録されたことに言葉に表せない幸福を感じている。これは、知床の海域から陸域に至る比類なき生態系や各種の希少生物にとっての貴重な生息地が、世界に認められた証しであり、地元の人たちの世界自然遺産への熱い思いや国をはじめとする関係機関や団体等の熱心な努力のたまものだ。今後とも、先人が愛した豊かな自然環境を持つ知床の保全に努め、これからの世代に引き継いでいくとともに、管理に全力を傾けていく」と談話をだしている。


    【国内の世界遺産と登録年】
    登録年 世界遺産 所在
     ≪文化遺産≫
    93年 法隆寺地域の仏教建造物  奈良
    93年 姫路城  兵庫
    94年 古都京都の文化財  京都、滋賀
    95年 白川郷・五箇山の合掌造り集落  岐阜、富山
    96年 原爆ドーム  広島
    96年 厳島神社  広島
    98年 古都奈良の文化財 奈良
    99年 日光の社寺  栃木
    00年 琉球王国のグスクおよび関連遺産群  沖縄
    04年 紀伊山地の霊場と参詣道  和歌山、奈良、三重
    07年 石見銀山遺跡  島根

     ≪自然遺産≫
    93年 屋久島  鹿児島
    93年 白神山地  青森、秋田
    05年 <font size="2" color="#FF0000">知床  北海道


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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月24日 18時44分57秒

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    世界遺産・知床(2)・・「流氷について」




    最近は紋別や網走の流氷観光船が有名なため、流氷=紋別、網走と思っておられるが、以前は流氷と言えば「知床」だった。
    びっしりと流氷が来ると、船は出られなくなる。逆に、船が出られるということはそれだけ流氷の密度が少ないということである。



    知床・ウトロでは、流氷のシーズンになると船はすべて陸に揚げられ、出航はおろか、港に留めておくと船が流氷の圧力で潰されてしまうという。このことからも、流氷が相当の圧力で知床半島の陸地を押し付けているかが察せられる。


    (巡視船に救助される漁船2艘)

    知床半島の海岸の断崖絶壁は、地球的年齢の流氷による侵食作用によって生成されたものといわれる・・。

    ところで、その「流氷」について・・、
    流氷が見られるのは日本では北海道のオホーツク海岸だけであり、時期ともなると北の方から次第に流氷が押し寄せてくるのである。 

    樺太最北部、間宮海峡のアムール川(黒竜江)河口付近で流出してきた汽水域が氷結し、寒気とともに海流、風向によってやって来る。 
    北海道沿岸への流氷が襲来するのは、ほぼ一月の中旬ころであると言われ、そしてオホーツク海海域に現れるのもこの時期である。



    2月の初めには流氷は千島列島の南端(北方四島)に達して、その一部は太平洋に流出を始める。 3月の初めか中旬には、流氷域が最大となって、オホーツク海の80%を覆ってしまうこともある。4月中旬には流氷は、オホーツク沿岸から去っていき、5月下旬にはオホーツク海から完全に氷がなくなる。


    少し大業な数字を並べると・・、
    氷の厚さは、計算上、北海道沿岸では40〜50cm、オホーツク海では70〜80cmという。 
    因みに、オホーツク海の面積は153×10の4乗平方キロメートルと計算され、80%が厚さ 70〜80cmの海水に覆われるとなると、その量は、9×10の11乗立方メートルもの大量になるという。 
    毎冬これだけの氷を融かすのに必要な熱量は、極端な話、日本の原油輸入量の25年分にも相当するといわれる。
    ところで、流氷の状況の変化は早い・・、特に春の解氷期に著しいという。 
    1日のうちに見渡す限りの流氷原が流れ去ってしまったり、逆に青海原が一日のうちに流氷で覆い隠されてしまうことは珍しくない。 
    流氷の動きは速くても一時間に1kmか2kmくらいである。(風速の 2〜3%で動くと言われている)。



    流氷は近海漁業者にとっては厄介者であるともいわれるが・・?、
    漁業は出来なくなるし、流氷から吹き付ける寒風は身を切り裂く、又、防波堤など護岸設備をも破壊する。 

    しかし流氷は漁民にとって貴重な「食」をもたらしてくれる大切な存在でもある。 
    流氷は植物プランクトンを大量に運んできて、春先、太陽光に当たるとこれが爆発的に増える。これによって、海底のエビやカニ、ホタテなどを栄養にして育つ。 
    又、これを餌に動物性プランクトン(北海で人気のクリオネはこの一種)も増え、この動物プランクトンを餌に北方の魚が集まり、オホーツク海は豊かな漁場となるのである。  毎年、冬になると北海道の沿岸に押し寄せるオホーツクの流氷は、北の自然の厳しさと、その営みの壮大さを堪能させてくれると同時に、豊富な食を運んできて呉れる。



    流氷の去った後は、壮大な漁場を約束してくれるのである。

    この流氷も近年、温暖化の影響を受けているといわれる。 
    オホーツク海では、年々、流氷の到着が遅くなっていて、しかも、その広がりの範囲は減少しているという・・。
    ある機関の研究によると、50年後には流氷はすべて消えてしまうという予測もあるとか・・?。 影響で魚介類の漁獲高も激減し、漁業は大打撃をこうむるとも推測されているが・・。 


    知床半島の海岸の断崖絶壁は、流氷による侵食作用によって生成されたものといわれる。
    因みに、「日本の地質百選」というのがあり、知床半島もその一つに選ばれているらしい・・。
    その要旨として・・、
    「知床半島」は千島列島から続く火山列の一つで、ドーム型の羅臼岳や硫黄を流出する硫黄山などは活火山であり、温泉も豊富である。  もう一つに、流氷による侵食で大崩れの海岸の断崖絶壁が形成され、枕状の溶岩質地盤も観察されている。この高アルカリ玄武岩質の岩壁は、現在も崩壊を繰り返している・・、としている。

    「日本の地質百選」とは・・、
    美しい日本の国土、火山の恵み・温泉、美しい景観の観光地、これらを形作っているのは日本列島の特殊な地質があってこそといわれ、或いは地震や地すべりなどの現象もまた地質の特異性の結果であると・・。 日本の地質現象は多岐に渡っており、世界の地質学者もその素晴らしさに注目しているという。
    そこで日本全体から,地質現象のよくわかるところを百箇所選び出し、そのユニークさを顕彰し、広く知ってもらうために選出したものとである。

    平成19年3月、「日本の地質百選」選定委員会は、約1年間にわたり検討を進めてきた「日本の地質百選」の第1期選定として全国83箇所を選定した。
    其の中に「知床半島」も選ばれている。 北海道からは他に有珠山・昭和新山や夕張の石炭大露頭など7カ所選ばれている。


    <font size="2" color="#FF0000">(写真提供元に感謝します)

    次回は、 「世界遺産について・・」

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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月19日 11時40分16秒

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    世界遺産・知床(1)・・「はじめに」



    「知床半島」(写真提供者に感謝します)

    北海道・知床が「世界遺産」に選定される以前に、何度か「知床」へは訪れている。

    2003年9月北海道の道東旅行で、ウトロから知床観光船に乗って「知床半島」の東面の一部を観光した。

    大勢の観光客を乗せて港を出た観光船「おーろら」は、サケ・マスなどの定置網を避けながら沿岸を行く。 まもなく、幌別の海岸に断崖を背にへばりつくようにポツンと取り残されたように漁業用の番屋が見えた。


    ブユニ岬を過ぎると、いよいよ200メートル近い断崖絶壁、奇妙な形の海食洞などが続くようになる。 地表に湧き出た地下水があちこちで滝となって流れ落ちている。 
    観光遊覧は、西海岸の一部にすぎなかったが、半島の峻険な地形を認識できたように思う・・。


    知床半島の海岸線は、切り立った断崖が続いている。  そのため、今でも人々を寄せ付けない、大自然や野生生物のみが生息する世界である。
    知床はアイヌ語で「シリ・エトク」(大地の行きづまり、地の涯)を意味し、言葉を和名に当てはめた地名である。 
    江戸時代には東と西の蝦夷地の境界とされるなど、名実ともに北海道最果ての地であった。このオホーツク海に突き出た長さ70km、幅20〜40kmの細長い半島は、遠隔地で地形が険しく開発が進まなかったことから、国内で最も原生的な自然が保全された場所である。

    この人跡を阻む海岸線は、長い時間をかけて波や「流氷」に削られ誕生したとも云われる。
    冬、知床の海を覆いつくす流氷は、一緒に運ばれてくる栄養分であるプランクトンを養い、知床の海を豊かにする。 
    その豊かさは、アザラシなどの海獣類、海鳥やオオワシなど鳥類、海に生きる命がつながる糧となる。 回遊して海の豊かさを体一杯に蓄えたサケの仲間は、ふるさとの川に遡上し、そこで山の生き物の餌となり、死体は土に返り知床の森を豊かにする。
    生きるものと死んで行くもの、海と山の栄養の循環である命の輪が、知床の価値を高めているのである。

    それは知床半島の独特の地形にもあった。知床半島は長さで約70キロ海に突き出し、幅は基部で40キロあり、中央部には1500メートル級の山々が屏風のように連なっていて、豊かな森林を造り出している。
    そこの中央帯には硫黄山のような活火山も在り、海岸線には「カムイワッカの川」などの温泉も噴出している。

    知床の東海岸にしても西海岸に比べ、まだまだ厳しい自然のままの素朴な知床をかいま見る事が出来る。 羅臼から道道87号(知床公園羅臼線)が細々と延びているが、そのどんづまりが「昆布沢」辺りで、この先は道も人家もなく、有るのは断崖と漁師の番屋だけである。

    タラ、レバで申し訳ないが・・、
    「知床半島」が、もし海岸線に砂浜もある平坦な地域が含まれているならば、人々が容易に近づくことができ平凡な半島になっていたのかも知れない。 海岸を掘れば浅い所で温泉が湧きだし、奥に入れば珍しい自然が広がり、近海は豊かな漁場が広がっている。
    人々はこの地に生活環境を整い、温泉地を造りあげて観光客を招き寄せ、次第に自然を侵食するようになるのは必定であろう・・。

    「シリ・エトク」で大自然が残され、流氷によって生物、動物の自然循環が生かされている「知床半島」は「世界自然遺産」に登録された。

    次回は、 世界遺産・知床「流氷について」

    <font size="2" color="#FF0000">下記URLの巻末で「旅、旅行の案内」致しております、宜しかったらご覧ください・・!!。

    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005  『日本周遊紀行』
    http://blog.goo.ne.jp/orimasa2001  『旅の記憶』


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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月18日 10時50分15秒

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      『旅ごころ・Ⅱ』・・「昔の旅人達・・」

     

    『旅ごころ・Ⅱ』・・「昔の旅人達・・」

    <font size="2" color="#0000FF">前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った「御三方」の旅の様子を記したい・・。

    先ず、「吉田松陰」のこと・・、
    江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 
    その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。

    旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 
    それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。 

    吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。
    松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。
    記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。 
    無論、安らぎの一時もあったようで特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。
    松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
    松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。


    次に、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、
    江戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島⇒平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。

    芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。

    道中でこれにはこんなエピソードもある・・、
    越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。
    この時の一句に

    『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』

    を詠んでいる。 
    この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。
    そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。
    この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500〜600kmの長道中である。 
    しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。

    普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう・・。 
    推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。
    いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。


    松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である・・。
    だが、気楽な気持ち(実はそうではない、既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで・・、「正岡子規」(1867-1902)のことである。

    「子規の旅姿」

    『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、   
    しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない 』・・子規


    芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に・・

    『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』

    と軽く一句捻っている。

    四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 
    この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。 

    「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。
    巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京

    余分ながら・・、この時、山形・最上川では・・、

    『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』

    と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。
    発想の契機は芭蕉の 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』 にある。

    元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。
    子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性(「深さ」、「捻り」、「切り」)が欠けていることを難じたのであった。

    『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』
    余りにも有名な句であるが・・・、
    正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。
    この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。

    子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。
    子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く人」と呼んだ。


    さて、話を戻そう、(旅に関してであるが・・)
    昔日は、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代である、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
    日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。

    そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。
    特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。 
    それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。
    だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、今も昔も変わることは無い・・。

    文明は、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いたようにも思える。
    その事を示す例として、日本の鉄道敷設の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参拝のために造られた事が挙げられるのである。

    小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。
    それは実に単純で「計画段階の楽しみ」、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながらアレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。 
    吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」ではないが、確かめて知識を得るのも楽しみである。 
    実は、その結果がこの本文・『日本周遊紀行』を表すのに繋がったのであるが・・。

    いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである・・。

    続いて、世界遺産に関する「旅番」を載せます・・?

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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月17日 12時11分08秒

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    旅・旅・旅』・・「旅雑感」(閑話休題)


    『旅・旅・旅』・・「旅雑感」(閑話休題)

    <font size="2" color="#0000FF">「旅」という文字を三つも重ねて書くと、「旅」という字・・!、こんな字が有ったかな・・?、と不思議に見えてくる。

    「熟年」になった今日・・、
    今、「団塊の時代」(昭和20年前半頃の第一次ベビーブーム時代に生まれた世代。他世代に比較して人数が多いところから云われている)と言われて久しい。 これらの人々が定年期を迎えて、少し真面目にセカンドライフの人生設計を考える必要もあろう・・。
    少しの貯えも出来、趣味や余暇など自由に使える時間も増えるし、これからの長い時間に備えて「自分の生き方」など、可能性を模索してみるべきでしょう。


    例えば「旅」のことである・・。 
    或いはヒョットすると、旅の中で第二の人生を発見出来るかもしれないのである。
    「旅はカンフル剤」」といったのは著名な作家・五木寛之であるが、旅というのは日常空間から、日常住み慣れた地域から先ず飛び出す事から始まる。   

    「旅:たび」の語源は不定であるが、その意味上の共通性やアクセントの面から、「とぶ(飛)」との関係や、度数を表わす「たび(度)」が「たび(旅)」が転じたものともいう。 
    英語でいう「トラベル」とは旅行のことで普通にはツアー会社の旅行を想像するが、トラベルという英語の語源は「トラベイユ」(労苦、苦労の意味)、フランス語の語源「トラベラー」(拷問の意味)に近い状態であるという。 
    ラテン語の語源では何と「拷問、拷問のための責め具、拷問台」という意味もあるという。 
    それを受けて「つらいこと」や「苦しみ」という意に派生し、現在では「旅」という意味を持つに至っているという。 
    尤もで、一昔は「旅」というのは自分の脚で歩いて移動したものであって、そこには多大な苦労や苦痛があった筈である。
    然るに、語源の「トラベイユ」というのは納得なのである。

    又、「可愛い子には旅をさせよ」という諺を例にとってみても、旅というものに対する前途多難さや、若者もしくは学を志す者たちのとって、「旅」とは何らかの「苦行」から切り離せない意味合いが含まれている。
    旅が、我々に楽しみや喜びだけを付与する存在であるとは言い切ることはできないのである。

    近年よく耳にする「自分探しの旅」という言葉から連想されるように、異なる土地の住む人々の文化に触れるということは、自己を啓発し、自己の存在を再確認するためでもあるし、もしかしたら新たな自分の居場所を探し出す機会になるかもしれないのである。
    「旅」は観光と同義語のように思われ、単なる好奇心や喜びをを満たすだけの手段とも解釈できそうであるが、本来は、同時に苦しみを伴うものでもあろう。

    通常の、日常の生活の中では特別なエネルギーは必要としないが、日常から離脱しようとする時、何がしかの定量以外のエネルギーが必要であり、又、発揮されるだろう、その新鮮な活力、エネルギーが時には人間にとって必要なのである。 
    非日常体験は多岐にわたるが、その中でも代表的なのがやはり「旅や旅行」であろう。

    何事にもそれを実行しようとする時、キッカケが必要であるが、キッカケは自ら心のうちに湧き上がるものであり、決意するものである。 
    「旅」をしようとするにもそれなりの目的やキッカケはあろうが、心に決するのはやはり自分である。 
    それは積極的、能動的であれ、消極的、受動的であっても構わない、先ず行動を起こす事であるし、旅に限らず物事を起こそうとする時、とかく面倒くさい、億劫だ・・、と思ってしまったら人生の展開、発展性は望めないのである。
    日常の矮小な循環社会で、中々時間がとれないという人もいるが、それは言い訳にすぎず、思考力、行動力に乏しいソレッキリの人生であろう。


    旅は一人旅でも、二人旅(夫婦旅)、家族旅行でも何でもよいが、周りを干渉しない、されないですむ一人旅はお勧めである、密かに自分を見つめ直す機会にもなるはずである・・。
    ところで「あなたの趣味は?」と聞かれて、昨今は皆さんが無意識のように「旅行」と答えているようである。でも、「旅行」って何だろう・・?、「旅」ってなんだろう・・?

    よく、「旅行」は現実からの逃避、普段の煩わしさからの逃がれる、違う場所でぼーっとしたい、色んな観光地を訪ね、その土地を歩く、日常を刺激する営みを求める・・などと言われる。
    だが「旅」には、しっかりした目的があるはずだし、合わせて修養・冒険でもあり、楽しさもさることながら、辛さとの対比も生ずる。 
    興味の無い人に言わせれば「なぜそんな」とか、「どうして」と問われても即答に困るのである・・。 自然との触れ合いとか、異郷との交わり・・とか、何れも一端は示しているようであるが・・、 
    しかし、筆者の場合は単純である、「好奇心」である、別世界を覗き見たい願望である、その単的な例が「山」であったのだが・・・・、

    後編に続きます、・・『旅・旅・旅』・・「旅人」
    『日本周遊紀行』・・・http://www.geocities.jp/orimasa2001/


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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月14日 11時17分18秒

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    世界遺産・石見銀山(10)・・「銀山史・Ⅱ」


    世界遺産・石見銀山(10)・・「銀山史・Ⅱ」

    【大森代官の逸話・・、】
    「石見銀山」の代官所は大森町に設けられ、幕末まで59人の奉行・代官が交代で赴任したといい、当地の代官は、銀山は勿論、同時に村方の支配をも行っていたとされる。

    1731年(享保16年)、大岡忠相(ただすけ:越前守)の推挙により、第19代代官に「井戸平左衛門正明」(いどへいざえもんまさあきら)が任ぜられた。
    彼は、60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、銀山奉行のかたわら、領民から「いも代官」として慕われたという。
    その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(カライモ:さつまいも)を導入し、普及させた。 
    又、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、更に、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免したという。
    代官といえば、私服を肥やし、領民を苦しめる悪代官のイメージがあるが・・、こちらは善政の見本の如くの人物である。
    しかし、これらの所業は幕府の知られるところとなり、1733年、平左衛門は大森代官の職を解かれ、備中国・笠岡(現在の岡山県)の陣屋(代官の居所)に謹慎を命じられた。 平左衛門は幕府の正式な処分がくだる前に、自らの責任をとって腹を切り、62歳の生涯を終えたと云われている。

    井戸平左衛門を祀った「井戸神社」が大森町の中程に鎮座している。
    境内の顕彰碑には・・・、
    <font size="2" color="#000000">『 時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。 』


    平左衛門の死後、彼の功績をたたえる頌徳碑は490ヵ所にも及んでいるといわれ、島根県のほかに鳥取県や広島県にも建てられていりという。


    幕末の1866年(慶応2年)6月、第二次長州戦争において幕府は石見国に近隣藩の藩兵を出動させたが、長州軍の村田蔵六(のちの大村益次郎)隊の進発を食い止めることができず、7月に浜田藩主・松平武聡は浜田城を脱出しその後落城している。
    これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に、家来とともに備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた。
    以後、旧石見銀山領は長州藩の長州民政方(大森本陣)によって支配されることとなり、1868年(慶応4年)1月に長州藩預地となった後、1869年(明治2年)8月には大森県が設置されて長州藩による支配は終わった。

    この後、石見銀山は大正末期の頃には産出微小となり閉山している。 
    こうして鉱山としての生命は途絶えたが、日本の鉱業の先駆的役割を果たした石見銀山の産業遺跡としての価値は高く、遺跡の保存・整備が進められてきた。

    昭和44年(1969)、代官所跡・要害山・山吹城跡、各所の間歩、墓・霊所・神社、大久保長安墓が国指定史跡となり、その他、県指定・市指定遺跡が多数存在する。
    又、「石見銀山資料館」を開館し、「熊谷家住宅」等が重要文化財に指定され、現存の大森集落が、町並みの「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

    又、世界遺産の産業遺産としてはアジアでは皆無で、鉱山遺跡は、欧州や中南米にあるが、18世紀以前の、所謂、産業革命前の鉱山遺跡としては「石見銀山跡」は稀有の遺産といえるのである。
    そして、2005年9月、政府は世界遺産に推薦することを正式に決定している。 


    尚、銀山史跡、大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅した。


    【付記】
    世界遺産に指定された大森地区が山間の狭い地域のために、観光の自動車等が通るスペースが無く、「パーク&ライド方式」がとられている。
    パーク&ライド方式とは、都市部や観光地などの交通渋滞の緩和のため、自動車等を郊外の鉄道駅又はバス停に設けた駐車場に停車させ、そこから公共交通の鉄道や路線バスなどに乗り換えて目的地に行く方法である。
    こちらでは、石見銀山駐車場に車を止め、ここからバスを利用して各要所に移動することになる。

    因みに、2007年(平成19年)7月の世界遺産登録後、来訪者が急増し、8月は1カ月間で63625人が来場し、又、今年(2008年)は11月21日現在で、昨年の3〜4倍となる32万7533人が訪れたという。(協会発表)


    本稿で、世界遺産・「石見銀山」は終了いたしました、 永らくのご愛読有難うございました。
    次回は、 世界遺産・「知床」を投稿する予定です、お楽しみし・・。

    小生、若年よりの『旅』の記録です。
    宜しかったらどうぞ・・。
    http://www.geocities.jp/orimasa2001/


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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月13日 12時30分30秒

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    世界遺産・石見銀山(9)・・「銀山の歴史」


    世界遺産・石見銀山(9)・・「銀山の歴史」

    『石見銀山』が、何時、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないというが、「銀山旧記」は以下のように記されている『 室町後期、博多の商人・神谷寿禎(かみやじゅてい)が銅を買うため出雲へ赴く途中、日本海沖から山が光るのを見た。大永6年(1526)には銅山主・三嶋氏を3人の技術者を伴って採掘し、鉱石を九州へ持ち帰った・・ 』 とある。

    日本を代表される銀山として知られる石見銀山は14世紀には発見されたと伝えられ、その後、本格的な開発は貿易商人・神谷寿禎 ( かみやじゅてい )氏によってなされていたという。 
    寿禎は間歩(まぶ)と呼ばれる坑道を掘り、大量の銀鉱石の採掘に成功する。
    さらに天文2年(1533年)には「灰吹法」(金や銀を鉱石などからいったん溶融鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する精錬法)と呼ばれる精錬方法を導入し、大量の銀を生産するようになったといわれる。

    寿禎の開発後、銀山の位置する石見国周辺では山口の大内氏、出雲の尼子氏、広島の毛利氏が勢力を張っていた。
    とくに石見国の守護であった大内氏の滅亡(1551)後は、毛利氏と尼子氏の争いとなり、結局、永禄5年(1562)毛利氏が石見国を平定し、銀山と温泉津を直轄地とした。

    その後、天正18年(1590)豊臣秀吉が全国を統一した後、毛利氏は豊臣氏の一大名として中国地方を知行し、採掘した銀は豊臣氏へ納めることになる。 
    この時期、朝鮮出兵の際に鋳造したと伝えられる「石州銀」が現存するという。
    以降、慶長 5年(1600)関ヶ原の戦い終結まで豊臣、毛利氏の支配が続くことになる。

    関が原の戦いに勝った徳川家康はそのわずか10日後に直轄化している。 
    慶長5年(1600)11月、家康の重臣・大久保長安が石見に下向、毛利氏から銀山を接収、鉱山経営に見識のあった大久保石見守長安が初代の奉行となった。
    この時期、銀は海路運行から、より安全な陸路を通ることになり、その尾道までの陸上搬送においては製品管理を徹底したという。

    石見銀山街道の主要路となった「尾道ルート」は、近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道で、現在の石見街道とは異なり地名で言えば邑智町(おおちちょう)、赤来町、広島県布野町から三次市に至り、出雲街道の吉舎町(きさちょう)、世羅町を経て尾道に達している。
    天領(幕府直轄)である大森銀山で産出された銀は、陸路の難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。

    以来260年間、石見銀山は幕府の直轄領として支配され、全国の天領に代官所が設けられたのと同様に、幕府から派遣された郡代・代官が支配にあたっていた。 
    徳川天下において全国の貨幣を統一するためには、鉱山の掌握が重要な政策の一つだった。
    「石見」の場合の所領は、天領となったのは銀山を中心とする約5万石で、「石見銀山御料」と呼ばれていた。

    先に記したが、石見銀山の様子を記したものに「銀山旧記」というのがある。
    「銀山旧記」といっても、一様のものでなく数種あったとされている。
    その中に、「銀山記」や馬路町の「波積屋広平」という人物によって作成されたものもあるという。 本は、必ずしも状況を詳細に記した教書、史書ではなく、江戸期に流行した写本や一般の読み物として流布したものとされている。
    銀山が衰退する中で 山師や銀山役人たちは自らの地位を回復するため「銀山旧記」を、編さんして幕府への貢献をアピールすることも行われましたという。
    従って、誇張した表記も多く、真実性はやや乏しいともいわれるが・・。

    その一つの「銀山旧記」によれば、この頃、安原伝兵衛という者が「釜屋間歩」と名付けた坑道から年に3600貫(13,500㎏)もの運上(年貢として納める銀)を出し、家康から褒美を賜ったとあり、又、この頃の様子を<font size="2" color="#000000">『 慶長の頃より寛永年中大盛士稼の人数20万人、一日米穀を費やす事1500石余、車馬の往来昼夜を分たず、家は家の上に建て、軒は軒の下に連り・・・』
    と記している。 
    如何にも大袈裟に、誇張されて記されているが、ともあれ、この頃の繁栄ぶりは相当なものだったことは確かであろう・・。


    次回は、 「銀山史・・PartⅡ」


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