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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月13日 12時30分30秒

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    世界遺産・石見銀山(9)・・「銀山の歴史」


    世界遺産・石見銀山(9)・・「銀山の歴史」

    『石見銀山』が、何時、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないというが、「銀山旧記」は以下のように記されている『 室町後期、博多の商人・神谷寿禎(かみやじゅてい)が銅を買うため出雲へ赴く途中、日本海沖から山が光るのを見た。大永6年(1526)には銅山主・三嶋氏を3人の技術者を伴って採掘し、鉱石を九州へ持ち帰った・・ 』 とある。

    日本を代表される銀山として知られる石見銀山は14世紀には発見されたと伝えられ、その後、本格的な開発は貿易商人・神谷寿禎 ( かみやじゅてい )氏によってなされていたという。 
    寿禎は間歩(まぶ)と呼ばれる坑道を掘り、大量の銀鉱石の採掘に成功する。
    さらに天文2年(1533年)には「灰吹法」(金や銀を鉱石などからいったん溶融鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する精錬法)と呼ばれる精錬方法を導入し、大量の銀を生産するようになったといわれる。

    寿禎の開発後、銀山の位置する石見国周辺では山口の大内氏、出雲の尼子氏、広島の毛利氏が勢力を張っていた。
    とくに石見国の守護であった大内氏の滅亡(1551)後は、毛利氏と尼子氏の争いとなり、結局、永禄5年(1562)毛利氏が石見国を平定し、銀山と温泉津を直轄地とした。

    その後、天正18年(1590)豊臣秀吉が全国を統一した後、毛利氏は豊臣氏の一大名として中国地方を知行し、採掘した銀は豊臣氏へ納めることになる。 
    この時期、朝鮮出兵の際に鋳造したと伝えられる「石州銀」が現存するという。
    以降、慶長 5年(1600)関ヶ原の戦い終結まで豊臣、毛利氏の支配が続くことになる。

    関が原の戦いに勝った徳川家康はそのわずか10日後に直轄化している。 
    慶長5年(1600)11月、家康の重臣・大久保長安が石見に下向、毛利氏から銀山を接収、鉱山経営に見識のあった大久保石見守長安が初代の奉行となった。
    この時期、銀は海路運行から、より安全な陸路を通ることになり、その尾道までの陸上搬送においては製品管理を徹底したという。

    石見銀山街道の主要路となった「尾道ルート」は、近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道で、現在の石見街道とは異なり地名で言えば邑智町(おおちちょう)、赤来町、広島県布野町から三次市に至り、出雲街道の吉舎町(きさちょう)、世羅町を経て尾道に達している。
    天領(幕府直轄)である大森銀山で産出された銀は、陸路の難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。

    以来260年間、石見銀山は幕府の直轄領として支配され、全国の天領に代官所が設けられたのと同様に、幕府から派遣された郡代・代官が支配にあたっていた。 
    徳川天下において全国の貨幣を統一するためには、鉱山の掌握が重要な政策の一つだった。
    「石見」の場合の所領は、天領となったのは銀山を中心とする約5万石で、「石見銀山御料」と呼ばれていた。

    先に記したが、石見銀山の様子を記したものに「銀山旧記」というのがある。
    「銀山旧記」といっても、一様のものでなく数種あったとされている。
    その中に、「銀山記」や馬路町の「波積屋広平」という人物によって作成されたものもあるという。 本は、必ずしも状況を詳細に記した教書、史書ではなく、江戸期に流行した写本や一般の読み物として流布したものとされている。
    銀山が衰退する中で 山師や銀山役人たちは自らの地位を回復するため「銀山旧記」を、編さんして幕府への貢献をアピールすることも行われましたという。
    従って、誇張した表記も多く、真実性はやや乏しいともいわれるが・・。

    その一つの「銀山旧記」によれば、この頃、安原伝兵衛という者が「釜屋間歩」と名付けた坑道から年に3600貫(13,500㎏)もの運上(年貢として納める銀)を出し、家康から褒美を賜ったとあり、又、この頃の様子を<font size="2" color="#000000">『 慶長の頃より寛永年中大盛士稼の人数20万人、一日米穀を費やす事1500石余、車馬の往来昼夜を分たず、家は家の上に建て、軒は軒の下に連り・・・』
    と記している。 
    如何にも大袈裟に、誇張されて記されているが、ともあれ、この頃の繁栄ぶりは相当なものだったことは確かであろう・・。


    次回は、 「銀山史・・PartⅡ」


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