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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月27日 11時52分22秒

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    世界遺産と熊野地方(28) 「安珍・清姫伝説」

    世界遺産と熊野地方(28) 「安珍・清姫伝説」

    <font size="2" color="#0000FF">国道311が富田川沿いに少し下ったところに、「清姫」の故郷と言われる地に来た。 
    茅葺屋根の小店が立ち、山菜や川魚などの山の幸を使った料理が楽しめるスポットでもある。 この先に、清姫の墓や園地があって富田川の「澱んだ淵」が見渡せる。

    この辺りは「真砂の里」といって清姫の故郷といわれる。 
    「安珍清姫の物語」は、能や歌舞伎の「娘道成寺」などで有名である。 芝居では、裏切られた清姫は安珍を道成寺まで追いかけて焼き殺すということになっているが、この真砂の里に伝わる伝説では、哀しみの余り世を儚んでこの地の富田川に身を投げたということになっているらしい。 


    『 昔々、熊野権現にお参りに来た男前の旅の僧「安珍」が、紀伊の国の真砂の庄の一家に一泊させてもらうことになった。 その家の娘・清姫が安珍に恋をし、夜半に寝床までいって迫った。驚いた安珍は「修行中の身なので、熊野参詣の帰り道もう一度ここに寄るので、それまで待っていてほしい」とその場を逃れた。参詣を終えた数日後、破戒を恐れた安珍は清姫のもとを素通りして逃げてしまった。それを知った清姫は後を追いかけ、やっと安珍に追いついて「主は、安珍か・・?」嘘の返事で人違いと言われ、清姫は激怒した。安珍は「南無金剛童子、助け給え」と祈る。祈りで目がくらんだ清姫、安珍を見失い更に逆上。追いつ追われつ、日高川に到った安珍は船で渡るが、話を聞いた船頭は清姫を渡そうとしない。
    清姫遂に一念の蛇体となって川を渡り、更に、追い続ける。道成寺に逃げ込んだ安珍を寺僧が匿い、鐘の中に身を隠した・・。間もなく清姫もやって来てたが、その姿は完全に大蛇と化していた。安珍の隠れた鐘を見つけた清姫は、その鐘に巻きつき炎を吐いて鐘もろとも焼き払ってしまったという。その後、清姫は蛇体のまま入水してはてたという・・。安珍が焼死、清姫が入水自殺した後、住職は二人が蛇道に転生した夢を見た。そして法華経供養を営むと、二人が天人の姿で現れ、熊野の宮と観音菩薩の化身だった事を明かす 』

    真砂の里、冨田川の淵は清姫が水垢離(みずこり:神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)をとり入水したという「清姫渕」、その時衣を掛けた「衣掛松」、安珍の帰りを待った「のぞき橋」、水鏡にした「鏡岩」、蛇となってその幹をねじた「捻じ木の杉」などの伝説がのこっている。 
    尤も、二人が、熊野の宮(安珍)と観音菩薩(清姫)であったとすると、平安初期以降にみられた神仏集合、本地垂迹の思想、実践、つまり、神に仏が宿り、その内仏が神を呑み込んでしまった実情が、透けて見えてくるのであるが・・?。
    次に、その「道成寺」を訪ねてみよう・・。


    田辺市に出た・・。
    和歌山県中部の中心地であり、熊野古道の中辺路ルート、大辺路ルートの分岐点で、「口熊野」(くちくまの)とも称される。
    現在の田辺市(新制)は、2005年5月1日に、田辺市(旧制)、龍神村、中辺路町、大塔村、本宮町の新設合併によって発足した、中辺路町から本宮町まで広大な地域になって、面積的には和歌山県全域の約22%を有し、県内でも圧倒的最大の面積になったという・・。 尚、全国都市の面積順位では11位になっている。

    国道311から、海道の国道42へ合流し、南部(みなべ)から阪和道にでて「御坊」へ向う。 


    次回は、 御坊・「道成寺」

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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月26日 12時12分40秒

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    世界遺産と熊野地方(27) 熊野古道・「滝尻王子」

    滝尻王子と乳岩のお地蔵さん

    世界遺産と熊野地方(27) 熊野古道・「滝尻王子」

    <font size="2" color="#0000FF">ところで、今日は南紀旅行の最後の日となった、本日の予定コースとしては、中辺路から田辺に抜けて御坊、和歌山から関西空港を経て、帰路を辿ることになるが・・、

    昨日往来した国道311号線を再び西下する。 
    小広のトンネルを抜けると「小広王子」で、ここからは古道、旧国道、新道が概ね並行している。 昨日見物した熊野古道の「中辺路」のハイライトともいえる格式の高い王子や旧跡が数多く残されていた地域であった。
    熊野古道は、「道の駅・中辺路」付近の逢坂峠(国道はトンネル)で国道と交差し、再び北側の山中の地へ分け入る。 
    国道は、冨田川の川沿いを走り栗栖川、中辺路の山あいの町から滝尻へ至る。 ここで再び古道と国道が接近し、ここに「滝尻王子社」が鎮座している。

    滝尻王子は、周囲がやや開けた国道の富田川と、東から流れ込む石船川が合流する所にかかる滝尻橋の袂にある。 立派な鳥居と参道奥の森の中に、社宮が鎮座していた。 
    又、小橋の向こうに八角とんがり屋根の「熊野古道館」があった。 古道館は、熊野古道を中心とした中辺路の観光案内や歴史紹介を兼ねた休憩施設がある。

    滝尻王子の社宮は五体王子の一つとして尊ばれ、鎌倉・室町期の笠塔婆や宝篋印塔(ほうきょういんとう:供養塔・墓碑塔)があり、また奥州平泉の藤原秀衡奉納と伝えられる黒漆小太刀(国重文)を蔵しているという。
    本宮参りで平安貴族・藤原宗忠が、「はじめて御山(熊野権現)の内に入る」と記していて、 滝尻王子に始まるこのコースからいよいよ熊野三山の神域に入るといわれる。 
    又、富田川で禊(みそぎ)を終えると、この滝尻王子に参拝して、神道、仏教の宗教儀式の後、神楽や相撲、歌会などの奉納も行われたといい、特に、後鳥羽院が主催した歌会の折に、藤原定家など当時を代表する歌人が和歌を詠んだという記録も残っているという。 

    滝尻王子社の左脇から、山中へ向かう熊野古道の階段が伸びている。 
    サンダル履きの上さん(妻)をであったが、何とか無理して「乳岩」まで登ることにした。 急斜面であるが、道はシッカリしていて歩きやすい、凡そ20分ほどの登りで古道に沿って横たわる巨岩があった。
    それは人一人がやっと通れる程の穴があいていて、これは「胎内くぐり」ともよばれている。 又、胎内くぐりの大岩の上方に、奥州平泉の豪族・藤原秀衡にかかわる伝説の乳岩があった。 
    昨日の「継桜王子」の項でも記したが、藤原秀衡夫妻が熊野詣での途中、夫人がここで産気づいて男を出産し、この岩穴に残して参詣をすまして戻ってきてみれば男子は、オオカミに守られて、岩から滴る乳を飲んで成長していたと伝えられている。 
    それにしても、赤子を置き去りにしたり、オオカミに育てられたり・・と現実離れした伝承であるが、これら裏側にある事実の説話は何なのか興味深いところでもある・・。


    次回は、 「安珍・清姫物語」

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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月25日 10時50分07秒

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    世界遺産と熊野地方(26) 湯の峰温泉・Ⅳ「昭和の大僧正・山本玄峰」

    世界遺産と熊野地方(26) 湯の峰温泉・Ⅳ「昭和の大僧正・山本玄峰」

    ところで、大正から昭和初期の日本は、次第に暗い戦争時代へと向かいつつあった。 
    そうした中、山本玄峰老師は常に変わらない不動の人物とされ、公平でかつ平和を願う姿勢を曲げなかったといわれる。 
    昭和の名僧、昭和期最大の禅僧と言われたる由、この時期多くの著名人が参禅に訪れたといい、又、戦後多くの政治家が日本の復興のため老師の真実の意見を求めて龍澤寺に馳(は)せ参じていたという。

    その中には、終戦時の鈴木貫太郎首相やその後の吉田茂、池田勇人両首相もいたが、中でも老師は、当時の首相・鈴木貫太郎の相談役でもあった。 
    首相が三島の龍沢寺を訪ねた時に、昭和天皇が終戦の詔勅・玉音放送の中の文言について相談した際、進言したのは「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」という言葉であった。 
    昭和天皇の戦争終結詔書(※)の一部は、首相によって聞き入れられ挿入されて、御前会議に諮った上で作成されたものとも言われる。

    老師は多くの文字は知らなかったとされるが豪傑として知られ、その姿を見た剣の達人は「あの人は斬れない。衣と体がひとつになっている。ああいう人は斬れない」と周囲に洩らしたという逸話もある。
    終戦後は、アメリカ、イギリス、ドイツ、インドなど諸外国を歴訪、又、憲法調査員会において「天皇は空に輝く国民の象徴である」と答えたというエピソードは象徴天皇を鋭く示唆するものであった。
    圧巻なのは入寂(僧の死去・96歳)の2週間前に書かれた「玄峰塔 九十六才自筆」と記した自筆で、これが絶筆といわれている。 

    「東光寺の玄峰塔」については・・、
    老師は「わしが死んでも、墓や塔を建てるな。・・」と常々言ってたが、これは生誕地の湯の峰温泉地に塔を建てたいという信徒達の熱望に折れて書かれたものであるという。 
    揮毫(きごう:筆をふるう意・書画をかくこと、揮筆)の際には筆が畳に食い込んだといわれており近くで様子を見ていた人は、その気力に身動きが出来なかったそうである。

    老師はご近所さんにも頼まれて気安く書かれたものを含め、幾つかの名書を残しているが、精神一到して書かれた、この一書は国中に居られる名書家と言われる書の中でも絶品の部類に入るだろうと・・。
    これを機に、貴品の展示されるのに合わせて再度龍澤寺を訪ね、この大書に見入って精神の一塵でも授かればと思うのだが・・。

    昭和36年6月、三島の庵で遷化(せんか:仏になること)し、96歳の大往生を遂げている・・。 
    葬儀には外遊中の池田勇人首相の名代として大平正芳官房長官などが列席したという。
    熊野の山奥、辺境の地「湯の峰」に、近年これだけ偉大な人物が輩出したことに、驚嘆と敬意を表したい・・。 
    東光寺の石碑も風雪の歳月に打たれながら、毅然としていた・・!!。


    (※)昭和20(1945)年8月15日正午、「大東亜戦争」の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送・・、所謂「玉音放送」で知られる昭和天皇の詔勅である。 
    終戦前日の8月14日、御前会議に於いて、昭和天皇の「御聖断」(最後決定)により実施となったもので、終戦は、昭和天皇の「鶴の一声」で降伏を甘受、整然と矛を収め、粛々と武装解除に応じる事となったという・・。

    昭和天皇の戦争終結詔勅 【 原文 】
    朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
    朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
    抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
    朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所<font size="3" color="#FF0000"><b>耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
     朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ
    (御名御璽)
    昭和二十年八月十四日

    昭和天皇の戦争終結詔勅 【 現代文 】
    余は、深く世界の大勢と、帝国の現状を顧みて、非常措置をもって事態を収拾しようと欲し、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。
    余は帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。
    そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにする事は、天照大御神から始まる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、余はそれを常々心掛けてきた。先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するが如きは、もとより余の志す所ではない。しかるに、交戦状態はすでに四年を過ぎ、余の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、余の全ての官僚役人の精勤と励行、余の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善を尽くしたのにも関わらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の大勢も又、我が国にとって有利とは言えない。
    そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、幾度も罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、誠に計り知れない。この上、なお交戦を続けるであろうか。遂には、我が日本民族の滅亡をも招きかねず、更には人類文明そのものを破滅させるに違いない。その様になったならば、余は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊に謝ればよいか。以上が、余が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。
    余は、帝国と共に終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるを得ない。帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、及びその遺族に思いを致す時、余の五臓六腑は、それが為に引き裂かれんばかりである。且つ、戦傷を負い、戦争の災禍を蒙り、家も土地も職場も失った者達の健康と生活の保証に至っては、余の心より深く憂うる所である。思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。汝ら臣民の真情も、余はそれをよく知っている。しかし、ここは時勢の赴く所に従い、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々の為に、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。
    余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実と真心を信頼し、常に汝ら臣民と共にある。もし、事態に逆らって激情の赴くまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、その為に天下の大道を踏み誤り、世界の信義を失うが如き事態は、余の最も戒める所である。
    その事を、国を挙げて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いと言う事を思い、持てる力の全てを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道に遅れを取らぬ様、心掛けよ。汝ら臣民、以上の事を余が意志として体せよ。
    (御名御璽)
    昭和二十年八月十四日
    [以下、内閣総理大臣・鈴木貫太郎はじめ、十六名の閣僚、連署] </b>



    <font size="2" color="#0000FF">朝の冷気を吸いながら、ユックリ散策した後、宿へもどった。
    ところで、今日は南紀旅行の最後の日となった、予定コースとしては、中辺路から田辺に抜けて御坊、和歌山から関西空港を経て、帰路を辿ることになる。


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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月22日 10時08分59秒

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    世界遺産と熊野地方(25) 湯の峰温泉・Ⅲ「東光寺」

    東光寺と「玄峰塔」石碑   

    世界遺産と熊野地方(25) 湯の峰温泉・Ⅲ「東光寺」

    <font size="2" color="#0000FF">翌朝、谷川のせせらぎで目が覚めた、昨日とは変わって眩しいくらいの好天である。
    例によって上さん(妻)と朝飯前に一風呂浴びて、朝のシジマ(静寂)の中散歩へ出掛けた。 宿の近く、東光寺の裏手の丘の上に「湯の峰王子」がひっそりとあった。 
    この王子は平安期の頃は未だ開かれてなく、鎌倉末期に新しく「熊野道・赤木越」が開発されて湯の峰王子社が開かれたという。 
    北方の五体王子の一つ「発心門王子」(本宮大社・聖地への入り口とされた)から本宮までは二つのルートに分かれる。 この赤木越では本宮の手前になるため、湯の峰の湯で邪気を洗って参詣するようになったともいわれる。 
    この王子は元は東光寺の境内・寺堂にあったが、明治中期の火災で東光寺の本堂ともに焼失、現在地に小さな社が再建されたという。

    次に、その東光寺を訪ねた。 
    湯の峰温泉・公衆浴場の手前にある寺院で、当地の温泉が最初に噴出した所に建っているといわれる「東光寺」である。
    本尊・湯胸薬師如来座像は石仏のように見えるが、実際は噴出した温泉の湯の花が積もりに積もって石のようになり、高さ約3mの仏仏の形になったといわれている。胸の辺りに温泉が噴き出していた名残を示す穴があいている。 かつて湯の胸薬師と呼ばれており、湯の胸が転化して湯の峰温泉の名が生まれたとも云われている。
    湯の峰温泉は古墳時代頃から開湯されたともいわれる。

    古来、熊野三山が示すとおり水辺は神聖な場所とされてきたが、とくに温泉は病気や怪我を癒す不思議な水として利用され、人々は畏敬の念を以て接してきた。
    それはやがて、神に対するものと同等の信仰の対象へと昇華されて、やがて温泉の神として大己貴命(オオナムチ:大国主)や少名毘古神(スクナヒコ)が祀られるようになった。 そして仏教が伝来し、更に仏教があまねく普及すると、国家が神仏習合を唱えだし、民間信仰の神は次第に整理されて医療の神である大国主命(オオクニヌシ)の化身と考えられた「薬師如来」の信仰が盛んとなった。 
    従って、全国の温泉地の持つ仏堂・寺院は概ね、「薬師如来」を祀る様になっている。


    「東光寺・玄峰塔」のこと・・、
    境内の一角に自然石で「玄峰塔」と彫られた大きな石碑がある・・、当地、湯の峰生まれの昭和の名僧「玄峰老師」の塚である。

    玄峰老師が生まれたのは慶応2年(1866)、青年の頃に目の病にかかり医師から失明の危険性があるとの宣告を受け、四国・八十八ヶ所の遍路を行おうと決心したのは、この目の病が動機だった。 
    霊場巡りの時、高知の「雪渓寺」の門前で行き倒れとなったところを、山本太玄和尚に助けられ、その養子になった。 その後、雪渓寺の住職となり、得度(とくど)して、「玄峰」と号し始めた。
    玄峰は、数々の臨済宗妙心寺派の寺院を再興し、後に駿河・三島の「龍沢寺」(りゅうたくじ)の住職となる。 この時周囲の人は「白隠の再来か・・!!」、はたまた「今白隠か・・!」と称されたという・・。 
    龍沢寺(りょうたくじ)は臨済宗妙心寺派の名刹で、白隠(はくいん)禅師により開山されている。
    龍沢寺住職は代々老師として称えられ、多くの雲水の修行を導くとともに日本全国から各界名士の来訪を受け、禅行を施し、仏法の教えを説いている名刹でもある。
    因みに、白隠禅師は臨済宗の中興の祖として知られ、龍沢寺の隣町、沼津の「原」に生まれている。

    『 駿河には、すぎたるものが 二つあり  一に富士山、二に原の白隠 』

    とも言われた名僧であり、臨済宗十四派(京及び鎌倉の大本山寺院)は、全て白隠を中興としている・・。

    私事ながら・・、
    小生の田舎の寺は臨済宗妙心寺派.で京の妙心寺を本山に持つが、無論、白隠禅師が中興した寺院である・・。 
    偶々(たまたま)昨年、これらが縁と恒例の秋の宝物開示を知った我ら二人(お上さん)は駿河路の「龍澤寺」を訪れた。 
    寺には白隠や同寺院の高僧達が描いた禅画、禅筆が多数展示され、見入ったものである。 龍澤寺では文筆も修行の一つとされ、特に僧たちは「書」に励んだといわれ名筆者が多いという。 
    時の龍澤寺の座主・玄峰老師の描いた書・画も当然有ったものと思われるが、当時は知る由もなかった・・。


    次回は、 山本玄峰・『・・耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・』

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    2008年02月21日 11時10分12秒

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    世界遺産と熊野地方(24) 湯の峰温泉・Ⅱ「湯治伝説」


    世界遺産と熊野地方(24) 湯の峰温泉・Ⅱ「湯治伝説」

    <font size="2" color="#0000FF">熊野の地は弱者に温かい浄土の地といわれ、復活、そして再生の地とも云われることは先に記した・・。
    湯の峰温泉には実際にそれらの伝説も有り、その一つの例として「小栗判官・蘇生の湯」というのが伝えらている。

    その昔、常陸の国( 現在の茨城県真壁郡協和町)に城を構えていた「小栗氏」という一族が居た。今から凡そ600年前(室町前期)の戦乱の時代であった。
    関東で上杉禅秀(ぜんしゅう:上杉 氏憲・うえすぎ うじのり、出家して禅秀:室町時代前期の関東管領)が乱を起こした際、小栗氏はその上杉方に味方したが、結果は足利持氏に敗れてしまう。 
    城主・小栗判官満重とその子助重は、小栗一族の住む三河の国を目指して逃れようとして相模の国に潜伏していたが、その時、権現堂にてある盗賊に毒を盛られて苦難する・・。 しかし、居合わせた「照手」という遊女に救われ、馬に乗って藤沢まで逃れ「遊行上人」に助けられる。
    だが、その後も病は良くならず、遊行上人の導きと照手をはじめ多くの人々の情けを受けて熊野に詣でることになる。 相模の国を出て444日の苦難の旅を経て熊野本宮大社に詣でることができ、約3km離れた湯の峰温泉に逗留、湯治の結果、見事に蘇生したという。 七日で両目が開き、14日で耳が聞こえ、21日で話せるようになり、49日で回復したという。 
    熊野権現の加護と湯の峰の薬湯の効き目により全快したと語り継がれている。
    遊行上人とは、時宗の祖師である「一遍上人」のことで、相模の国(神奈川)の藤沢に時宗の総本山である「遊行寺」を建てた。 その一遍上人も、この地・熊野に詣でていると古書に記されている。

    「小栗判官」の「判官」(はんがん・ほうがん:検非違使尉・けびいしのじょう)とは、平安期における中央官の役職名で、犯罪・風俗の取り締まりなど警察業務や訴訟・裁判をも扱う強大な権力を持っていた。 
    源義経の通称でもあり、裁判官の元になったものである・・。

    小栗満重は桓武天皇の曽孫・高望王の末裔ともわれ、常陸国真壁郡小栗邑(現茨城県真壁郡協和町)の領主であったが、15世紀初期の頃、関東管領・足利持氏との戦に敗れ、後に城主・満重は鎌倉・八幡宮で自殺したとされる。これが、小栗判官満重に関する歴史的事実らしいが・・。 
    満重は特に歴史の流れの上で 大きな役割を果たしたわけではないが・・、しかし小栗判官満重の名は照手姫とともに、浄瑠璃、歌舞伎、人形芝居などで庶民に親しまれている。
    最近では、市川猿之助演じるスーパーカブキ・「オグリ」(小栗判官と照手姫の物語)でも有名である。 
    満重は歴史上の人物でもあるが、伝説上の人物ということにもなるなのだろう・・。

    小栗判官に関する伝説は、一遍上人の説く「時宗」の布教との関係もあるらしく、後に遊行寺に詣でた満重は、上人にお礼するとともに亡くなった家来達の菩提を弔っている。 
    又、美濃の地で下女として働いていた照手姫を救い出し二人は夫婦になるが、満重が亡くなると弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に来た折には遊行寺に参り、満重と家来の墓を建てたという。 
    又、照手姫も仏門に入り遊行寺内に草庵を営みながら、永享元年(1429)には「長生院」を建てたといわれる。 
    これらは遊行寺・長生院に伝わる伝説でもあるが、小生の住む相模の地には藤沢を始め周辺各地には小栗判官に関する各種伝説が伝わっている・・。


    熊野の地は古くから死霊の集まるところであり、また死者再生の聖域でもあった。 
    男女の別、貴賎、淨・不浄を問わず何人とであっても受け入れ、熊野の参詣者の中には、病人や乞食などの姿も多くみられたという。 
    彼らは熊野に詣でれば病苦から逃れられ、たとえ途中で行き倒れても来世で救われると信じ、また道行く人々と助け合うことが死んだ者への供養になると信じて長旅の苦しみを分かちあった。

    実際に、昭和の代になっても差別と偏見で見られた「ハンセン病」(癩病・らいびょう:感染力の弱いらい菌による皮膚伝染病。昭和期まで誤解による偏見や差別で強制隔離や事件が発生している。)であるが、湯の峰温泉では大正時代までハンセン病を受け入れた宿もあったといわれる。 熊野では、昔から偏見や誤解はなかったのである。 
    小栗判官の伝説は、こうした熊野の霊地が基盤になって語り継がれてきた、云わば「死と病の再生復活の物語」の中の一説なのであろう。


    日本最古といわれる湯の峰温泉、その開湯は古く奈良期以前の古墳時代とも言われる。平安期の熊野御幸の時代には、皇族や貴人が参詣の傍ら、この地を休養として訪れている。 室町時代には、一般参詣人達は旅の疲れを癒す意味もあるが、参拝前に入浴し身を清めてから本宮参詣に出立したともいう。
    この時期に、時宗開布のため全国を行脚していた一遍上人も熊野の地を訪れ、この地で修行に励んだといわれる。

    江戸時代に作成された温泉番付では、「本宮の湯」として勧進元(興行主、事を発起してその世話をすること)に名を連ねている。
    小栗判官も入湯したと言われる世界遺産にも登録された「坪湯」は、温泉街を流れる小川の河床にあり、岩盤が自然に抉(えぐ)られてできたという。 
    二人がやっと入れるぐらいの小さな温泉場であるが、川下にある川湯温泉が川を堰き止めて作られる巨大な露天風呂「千人風呂」との対比が面白い。

    1957年(昭和32年)熊野本宮温泉郷の一部として川湯温泉、渡瀬温泉とともに国民保養温泉地に指定され、共に毎年10月に「献湯祭」を開き、熊野本宮大社に献湯しているという。
    2004年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産登録されたため、世界遺産の温泉になった。

    次回は、 湯の峰温泉・Ⅲ「東光寺」

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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月20日 09時49分31秒

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    世界遺産と熊野地方(23) 本宮・「湯の峰温泉」

             湯の峰温泉と坪湯  


    世界遺産と熊野地方(23) 本宮・「湯の峰温泉」

    <font size="2" color="#0000FF">国道311号線で再び本宮方面を目指した。 
    山間地の谷間のような地域を四村川と並行して走っているが、熊野川に近づくに従って山岳が異様に入り組んでいて、そのため河川も道路も複雑に曲折していて判りにくい。 
    四村川も大きく蛇行しながら請川あたりで本流の熊野川に合流しているようである・・。 R311も旧道、新道、その他の道路が複雑に絡み合って湯の峰方面はカーナビでも判りにくい・・。 
    それでも案内にしたがってどうやら「湯の峰温泉」に辿り着いたようで、急峻な山間地、四村川の支流である湯の峰川・・?に沿って温泉場はあった。

    熊野詣の信仰の歴史は古い、その古さと相まって熊野本宮詣の湯垢離場(ゆこりば:神仏に祈願するため、温泉を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)として身を清めたのが、ここ日本最古の温泉・湯の峰であるという。 その歴史は、なんと1800年前にまで遡るという。 
    ある温泉愛好家に言わせると、温泉好きでここに来なければモグリだとも言っている。 
    湯の峰は小さな温泉地で木造の旅館が数件、身を寄せあっている程度の温泉場で全国的には余り知られてはいないかもしれない・・。

    我等、本日の宿舎は谷川の少々上流部の辺にあった・・、「よしのや」という民宿であるが建物も部屋もピカピカと新しく気持ちがいい。 
    尤も、新築・リニューアルが3年前と言うからそのはずであるが・・、おまけに宿の美人女将が、心憎いほどの応対振りで何とも心安らぐ・・。

    玄関で応対してる時、芳紀女性が二人入って来た。 
    聞くところ、あの小広王子から熊瀬川王子、岩神王子、湯川王子、発心門王子、猪鼻王子、水呑王子、伏拝王子、祓戸王子そして本宮大社と・・、何と山坂9時間ごしで越え、八カ所の王子社を巡ってきたという。
    小広王子といえば我らが最後に訪れた王子で、この先は急峻な山岳地のはずである、通しで20km以上はあるだろうか・・?、難路の長距離を疲れきった様子も無く健気に談笑する彼女達が眩しく見えた。

    宿所といえば、「よしのや」は前日、前々日宿泊したホテル浦島とは全てが好対照の感がある・・、否、只一つ共通するものがあった「温泉」である・・。 
    宿には無論内風呂があるが、玄関前に離れの露天風呂があった。露天は普通の住居地域で塀に囲まれてはいるが樹木が繁る中、野趣満点に創作、造作された露天は最高であった。上さんと貸切混浴しながら湯趣・湯味をたっぷり楽しんだ・・。 
    後に帰宅後、記念写真を見たら上さんの色っぽいヌードが写っていた・・、これは余計か・・!。

    湯上りの食事前に浴衣姿で小さな湯の町を散歩した。 
    街の中ほど湯の峰川の河原に「湯筒」という施設がある、コンリートで良く整備された河原に四角い湯の桶と隅には湯筒地蔵が祀られていた。 対岸には源泉自噴湧出の大きな槽があって、モウモウと白煙が噴出している。湯筒の温度は92度と高温の温泉が湧いていて、この槽で食料品を蒸かしているようで、来客人もそうであるが地元の人の共同炊事場としても利用されているようである。 近くの店で玉子を買ってきて漬けてみた・・。

    下駄の音も高らかに川岸をぶらつく、下の方に共同浴場もあった・・。 何とも風流で、実に雰囲気が良い・・。
    河原にある湯の峰名物の「坪湯」を覗いてみた。 定員2名の小さな小さな湯小屋であり、湯船である。 
    坪湯の場所は、我が宿舎・「よしのや」のほぼ真下の河原にあって、がっちりした石橋の向こうに東屋が待機所としてあり、湯屋がこれまた風流に造られている。
    人の気配が無いようなので定額を銭箱に入れて、ここでも一っ風呂浴びた。
    石組みとコンクリで呈よく造られているが、浴槽の横に「シャンプー、石鹸の使用はご遠慮下さい」とあった・・、納得である。

    出来合いの温泉タマゴを持ち帰りながら食事と一緒に食したが、その湯宿の食卓も中々であった・・。 一杯機嫌で出来上がった後、再び露天風呂に浸かり・・、夢路を辿った。
    ああ・・極楽極楽・・!!。


    次回は、 湯の峰・「湯治伝説」


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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月19日 11時46分52秒

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    世界遺産と熊野地方(22) 世界遺産・「熊野古道・中辺路・Ⅱ」

    継桜王子と野中の一方杉、 野中の清水


    世界遺産と熊野地方(22) 世界遺産・「熊野古道・中辺路・Ⅱ」

    <font size="2" color="#0000FF">「継桜王子」に来た・・、野中地区の氏神でもある王子社で社殿もあり、古木杉の囲まれた石段の上の境内に建つ。 
    この境内斜面には「一方杉」といわれる巨木が現存する。 杉の樹齢は800年前後の巨木で、特徴的なのが南向きだけに枝を伸ばしている、ことから「野中の一方杉」と呼ばれており、県の天然記念物に指定。 確かに10本近くあるうち、皆同じように南方にある熊野大社を慕うように枝を伸ばしているともいう。 このため一方杉と呼ばれているわけで、この不思議な現象は、生物の生態を知る上でも貴重なものと言われている。

    道の下位、斜面下に石垣でしっかり囲まれた石造りの池に清涼な清水が結構な勢いで湧き出し、溜められている。 「野中の清水」といわれるもので、周りは朱色の欄干の手摺が施してあり、丁寧に管理、保管されているのが判る。
    小生も早速、ペットボトルに頂いて・・、手すくいで二口、三口流し込んだ。まろやかで清涼感たっぷりの水が喉越しに落ちてゆくのが判る。 思わず美味いと・・叫ぶ程である・・!!。

    清水は野中・坂巻山の湧水で、付近住民の飲料水、生活用水として利用されており、地元住民が清掃などで清水の維持と環境整備を行っているという。 
    日置川の源流の一つでもあり、古来より涸れることなく水が湧出していて、熊野詣の古道「中辺路」の途中で旅人がこの湧水に癒され、この縁を歌枕に詠んだ数々の歌や句を残している。 古記にも「野中の清水と云う名水有り」と記されていて、日本名水百選のひとつにも選ばれている。

    「 住みかねて 道まで出るか 山清水 」  服部嵐雪(1705年) 


    水場より継桜王子まで戻って先へ行く。 
    すぐ其処に茅葺屋根の一軒家がある、「とがの木茶屋」といって貧しい農家の家といった感じであるが、どっこい今では郷愁を誘う雰囲気たっぷりの休憩舎であり、旅籠(はたご:民宿)でもあるとか・・。 
    中には懐かしい囲炉裏なども有って、この囲炉裏を囲んで宿の女将が古道にまつわる「民話」なども語ってくれるらしい。

    「秀衡桜」(ひでひらざくら)は、継桜王子社から約100m東の道端にある、今は三代目としての石碑が建つが・・。 
    『 平安時代後期、奥州の豪族・藤原秀衡夫妻が本宮をお参りするために途中の滝尻(滝尻王子:乳岩や胎内くぐりといわれる秀衡の説話)まで出来たとき、急に産気ずき男の子を出産した。岩屋に残したわが子の無事を祈願しながら野中の地へきたとき、杖代りにしていた桜の木をこの地に植えた。その後本宮を参拝した帰り道再びこの地を訪れたとき挿した桜の木に綺麗な花をつけていた。「これでわが子は無事であろう」と喜び、一枝切って別の木にその桜を継いだ。そして、急いで滝尻まで戻ると確かに息子は元気で無事であったという・・。この子はやがて平泉で成長して藤原忠衡となり、奥州落ちしてきた源義経を助けたという 』・・以上、秀衡桜と継桜王子に因む伝承がある。 
    東北・陸奥から紀伊までは遠かったであろうが紀州・熊野には藤原秀衡にかかわる伝承がいろいろと残っているという。
    ただ、史実は、陸奥国に新熊野社を勧請したとする古記があるらしく、秀衡が熊野を信仰してことは確かだと見られるが、熊野に参詣したという史実は確認されていないともいう。


    継桜王子を過ぎると古道は旧国道と合流し、旧国道を行くことになる。 
    しばらく進むと「中ノ河王子」跡がある。 今は、文字が刻まれた石碑があるのみで寂しげであるが、後鳥羽院や修明門院(平安末期:高倉重子・順徳天皇の母)の参詣録にも記されている由緒あるものだったらしい・・。

    ここからは暫く森の中の旧道を行く。
    「中ノ河王子」から、旧国道を本宮に向かって約2kmで小広峠に着いた。 
    道端の草生した石垣の石段を数段登った奥の草むらに、上方の欠けた「小広王子跡」の石碑が立っていた。 
    村の古記録の説明によれば、元々、小広王子権現は村はずれの小広峠付近にあったが「宮居」が古く維持困難になったため1573年、神意を伺って遷宮と決まり、「継桜王子社」へ移したという。 その後江戸中期、紀州藩が再建したが、明治の道路建設で再び破損したとある。

    歴史は、特に歴史的事実や遺構は栄枯盛衰が繰り返され、やがては消え去って行くものであるが、それらが自然な状態なら良しとするが、人為的に、無意識に、無分別に消されてゆくのは悲しいことで、あってはならないことである・・!。

    小広王子からは、旧車道と分かれて再び険しい山道の参詣道になるが・・・。


    ところで・・、
    冒頭にも記したが平成16年7月に世界遺産として「紀伊山地の霊場と参詣道」と題して認定された。
    紀伊山地には修験道の「吉野」、神仏習合の「熊野」、密教の「高野山」と、三つの異なる宗教の山岳霊場があるが、それら三大霊場とそれらを結ぶ参詣道を「熊野参詣道」、「高野山町石道」、「大峯奥駈道」などによって世界遺産は構成されている。
    この世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の特徴として、まず「道」であることが挙げらる。 「道」の世界遺産は、他にはスペインからフランスを繋ぐ「サンチアゴへの道」があるのみである。

    和歌山・奈良・三重の3県29市町村にまたがり、コアゾーン(世界遺産の資産となる区域)とその周辺のバッファゾーン(緩衝地帯。資産周辺の環境や景観を保護するために、土地の利用に規制がかかる資産周辺の区域)を合わせた面積は約12000haで文化遺産としては日本最大である。 
    また、文化遺産でありながら滝や原始林や川や海岸、岩、温泉など自然景観を資産として多く含む点も特徴のひとつである。これは、文化遺産の中での自然遺産でもあり、所謂、複合遺産としての性格や価値が十分に有るとも思うが・・??。
    因みに、世界遺産には文化遺産・自然遺産・複合遺産の三種類があり、「紀伊山地の霊場と参詣道」は文化遺産である。
    日本の12件の世界遺産のうち10件が文化遺産であり、屋久島と白神山地の2件のみが自然遺産、だが文化と自然の両方を兼ね備える複合遺産は日本にはまだない。

    紀伊山地の三つの霊場・吉野・熊野・高野山は山岳宗教の霊場であり、それぞれ、紀伊山地の自然のなかで育まれたものであって、紀伊山地の自然なしには山岳霊場たりえない。又、三つの霊場がそれぞれ異なる宗教の霊場であるという点が特徴的でもある。
    これらの霊場が熊野本宮を中心として「参詣道」で結ばれている。
    紀伊半島は、日本でも有数の降雨量の多い地域である。このため、所々に石畳で舗装された道跡が残っている。 また江戸時代、紀州藩により整備された一里塚などがが残っている個所もあるという。

    しかし、熊野古道の中には、国道や市街地に吸収されてしまったものもある。 
    例えば、かつて十津川街道として知られていたルートは国道168号線に吸収されており、紀伊路(大阪-田辺)が登録外であるのも同様の事情によるらしい。 又、登録されたルートでも、大辺路・伊勢路の大部分は国道42号線に吸収されている。
    紀伊半島の中央部は、際立った高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われているため、古来より交通開発が困難であり、交通路が敷かれうる場所も限られていた。 そのため、小辺路や大峯奥駈道のような例外はあるものの、古人の拓いた道と現在の主要な交通路が並行(中辺路と国道311号線、JR紀勢本線や国道42号線の紀伊半島部分と大辺路・伊勢路)していることや、重複(前述)していることが少なくないのである。

    「熊野詣」それ自体の盛衰もあり、又、歴史的な変遷から生じた派生ルートなどもあって現在では正確なルートが不明になっている区間も多数在る・・。 世界遺産に登録された熊野古道は、これら全てではないことに留意する必要もある。
    そうした「忘れられた」ルートを再発見しようとする地元の動きもあるようだが、更に、車道に併合されて消された部分や不明な部分は、世界遺産に登録されたのを機に再復活の試みとして、新しく「古道」(・・?復古古道)を造成することも考えられるが・・??。 

    最近、「ご当地ソングの女王」と言われる「水森かおり」が、「熊野古道」という歌を唄っている。 歌の内容はともかく、これを機に地元の有志達が何処かに記念碑を建てて熊野を更にP・Rし客寄せを計っているという。 
    尤もなようだが、もっと前向きで建設的な方法を創造(新たに創り出す)、模索しては如何だろうか・・?。


    この先、中辺路は「小広王子」から「湯の峰王子」までの凡そ20km、険しい山道を辿ることになるが・・、我等は新道の国道311号へ戻って今夜の泊まり宿である「湯の峰温泉」へ一路目指した。

    次回は、 本宮湯宿・「湯の峰温泉」


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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月18日 10時58分55秒

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    世界遺産と熊野地方(21) 世界遺産・「熊野古道・中辺路」

    中辺路「牛馬童子」と王子 

    世界遺産と熊野地方(21) 世界遺産・「熊野古道・中辺路」

    <font size="2" color="#0000FF">国道311号線を西に向って走る、熊野は確かに山また山の世界である。
    暫く行ったところに、その名も「熊野古道・中辺路」という道の駅があった。 
    道の駅舎には色々な古道歩きのグッズ類が置いたあるが、小生は古道の案内地図を戴いて出発である。

    国道を挟んだ古道入り口には、賑やかに案内板が立つ。
    杉木立が奇麗に立ち並ぶ間の道は良く整備されていて、坂道には木製の階段が施してあり歩きやすい。 暫く山歩き気分でジックリ歩を進める。
    午前中は好天であったが山中で変わりやすく、曇りから今は小雨模様になってきた。

    ところで、中辺路の西部域には国道に沿って冨田川が流れる。この川沿いを北上してきた古道は滝尻地区の「滝尻王子」から奥は御山、熊野の霊域だと考えられ、これら前後の険しい山々を越えてきて逢坂峠の「大坂本王子」までは急峻な山道となる。 
    これらを越えた現在地が国道311号線と接するところである。

    上りきった所に平坦な広場があって墨に石造が祀ってある、「牛馬童子」といって50〜60cmの極小さなものであるが、よく見ると一人の童子が一頭の牛と馬に跨っている姿であり、服装は庶民のと異なって高級感がある。 きっと、やんごとなき宮家の童子がこの地で何かの不幸があったとも想像されるが・・、すぐ右に同じく石の童子の姿像が安置されている。

    そこから緩い登り坂となり「箸折峠」に着く。 峠からは見通しも良く近露の里も眺望出来、旅人の絶好の休憩所となっている。

    宮の参詣者・花山法皇もここで休憩した思われ、この時、「昼食の弁当を開いたが箸がついてなかったので、ススキの軸を折って箸にした」、このことから箸折の峠名が付けられたという。 この時、ススキの軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねられたので、この地が「近露」(ちかつゆ)という地名になったとも云われる。 
    法皇の法衣と経を埋め建てられたという「宝篋印塔」もあり、これは鎌倉時代のものと推定されて県指定の文化財である。
    石仏の牛馬童子は花山法皇の旅姿だとも言われるが・・?。

    ここ箸折峠に至って間もなく「近露王子」に至る。 杉の植え込まれた段々のやや急な坂道を一気に降りて、集落の一端に辿り着いた。
    この地は熊野本宮に至る中で、最も大きな集落であり、参詣の人々が出会う人里で、昔、「道中」とよばれていた区間である。 従って、今なお多くの旅籠跡が残っており、往時の熊野詣での賑わいを忍ばせてくれる。

    日置川を渡った旧道沿いに、その「近露王子」があった。
    入り口に「史跡・近露王子」と名柱があり、苔むした石段の奥はコンモリした森を造っているが社宮らしいのは無かった、代わって古石の碑が置かれてあった。 
    近露は、熊野道を巡る各王子の中でも最も早く設けられた里宮で、前後に険しい山岳地をひかえる中にあってこの地は拓けた里に在り、旅人は心安らぐ一点の地だった。

    そんな中、近露王子は近露の里の真ン中に鎮座して、かつては産土神(うぶすながみ・
    生れた土地の守り神、氏神・鎮守)としても祀られていた。 
    平安時代からの熊野詣の記録にもしばしば登場していて、宮人により「近露の水は現世の不浄を祓う」とあり、すぐ下を流れる日置川で神にお参りするために身を清めたという。 近露王子は参詣に備えて身を清浄にする霊場となっていて、川の近くの御所では後鳥羽院が歌会を催したことなど・・、歌人・藤原定家の参詣記などにも記されている。 

    近露は田辺と本宮の中程に位置し、辺りが盆地となっていたので食糧にも比較的恵まれたことから、熊野詣での宿所としても賜わったといわれる。

    熊野道中でよく「王子」と言われる宮社が存在し、九十九王子といわれるが・・?。
    九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道沿いに在する社宮のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護・安全を祈願された社をいう・・。

    「王子」とは若王子を意味し、熊野三山の御子神と言われるが本来は沿道住人が祀る雑多な在地の神々・産土神であった。
    これら諸社を王子と認定したのは、中世熊野詣において先達をつとめた熊野の修験者によるものであり、修験者は院政期以降の皇族・貴人たちの参詣の先達をつとめた人々でもあった。 そこには、参詣途上、身の安全を祈願する目的の他、儀礼・儀式を行う場所でもあり、歌会などを行う催場でもあったという。 又、併せて参詣者の庇護、物品の補給を行ったとされる。
    今日(こんにち)で端的に言えば、一般道の「道の駅」、高速道で言えば「サービスエリア」みたいのものであろうか・・??。

    九十九王子の「九十九」とは古来数の多さに喩えられるが、王子は実際に90を越す数に上り、その分布は参詣路で最も華やかで賑わったとされる紀伊路・中辺路の沿道に限られているのも特徴である。
    王子社の中でも位の高いのが五体王子と呼ばれるもので、藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子の五社とするのが一般的である。 これらは、熊野の主神の御子神ないし属神として三山に祀られる五所王子と呼ばれる神々であり、三山から勧請したものと考えられている。
    各王子社は、現在でもその痕跡は見られ、特に中辺路は熊野古道のハイライトともいえるほど格式の高い王子や旧跡が数多く残されているという。


    近露王子かすぐ近く、この土地で南北朝時代から連綿と続き現在29代目の野長瀬家(のながせけ)がある、そして土豪「野長瀬一族の墓所」の一群がある。
    この地に隠匿していた護良親王(もりながしんのう:後醍醐天皇の皇子、鎌倉幕府滅亡の主唱者の一人)を五代に亘って庇護した土着の豪族で、「太平記」にも登場している。 外れには一族を祀る観音寺があり、県文化財に指定されている。

    護良親王のこと・・、
    鎌倉末期、京では後醍醐天皇が中心となって鎌倉倒幕の機運が上る。しかし当初は失敗して流刑の処分にあい隠岐に流されてる。
    この頃、後醍醐天皇の第一皇子は叡山にこもって修練し、天台座主となり「大塔宮」と称して武力をもとにした寺院勢力を味方につけ、そして間もなく還俗して「護良親王」となった。
    楠木正成らの反幕勢力と合流して蜂起し、吉野、高野山、熊野などを転々としながら2年にわたり幕府軍と戦い続ける。 
    今でもこの地方には親王の痕跡が残っているし、紀州の「大塔村」や「大塔山」は親王の名を記念して付けたものと思われる・・。

    車ををソロリと進ませる・・、
    この辺りの地は国道311の旧道にもなっていて地元の生活道でもある、一部は古道とも重なっていて、古道の面影や史跡も多く残っているところでもある・・。
    2kmほど進んだ車道わきの山の斜面、杉の根元に「比曾原王子」の碑がひっそりと立つ。 ヒソ原、比曾原という地名で鎌倉末期頃まで諸書に登場するという、現在地名が比曾原であるかどうかは不明である。 

    この辺りは山腹を縫うように旧道が屈曲しながら延びている、遥か下方の新道R311が車の快走往来を見せている。


    次回は、 「中辺路・・Ⅱ」

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    2008年02月15日 11時08分19秒

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    世界遺産と熊野地方(20) 世界遺産・「熊野参詣・・Ⅱ」

    世界遺産と熊野地方(20) 世界遺産・「熊野参詣・・Ⅱ」

    <font size="2" color="#0000FF">引き続き「熊野参詣」についてであるが・・、
    神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは以前にも数度に亘り記してきたが、日本固来の神祇信仰(神々を祀る・・、※天津神と国津神などで、)と仏教が混ざり合い、独特の行法・儀礼・教義を生み出した宗教現象をいう。 
    日本では千年以上のもの間、複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教と日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出したとされる。
    ただ、神を仏の鎮守として祀ったのは朝廷や権力者の、所謂、政治支配側の政策的なものでもあった。
    仏に対して神を低く位置づけるのは・・?、一般民衆を含めた地域社会に僧侶が仏教を弘める方便として考えだしたものであり、仏教政策の作為的面が見られるのである。
    これらの永年に亘る政策を打破し、日本固有の神を主神として復活させるのは、遥か後年の明治時代に到ってからであるが・・。

    熊野大社に今も見られる「権現」とは権(か)りに仏が化して神と現われるの意で、習合の理論となる本地垂迹説の先駆を示すものである。 
    中世(平安、鎌倉期)には祭神に本地の仏尊を設定することが一般化し、本地垂迹思想が徹底するところとなった。


    その前に・・、※天津神と国津神の神々について・・、  
    奈良・律令期における神別けとして、「天神地祇(テンシンチギ)」というのがあった。 天神つまり天津神は天上はるかの雲の上におり・・、地祇つまり国津神は山の重なる地上の山中にあって、すなわち雲や霧のなかに鎮まるとしている。 
    天津神は天孫降臨で高天原に縁のある神々で「アマテラス」や「ニニギ」(大和系)などであり、その中でも有力な神でありながら、その秩序を乱して高天原から地上に追放されてしまう「スサノオ」や「オオクニヌシ」などの系譜に連なる神々が「国津神」(出雲系)ともされている・・。

    さて、「本地垂迹説」は仏・菩薩が人々を救うために様々な神の姿を借りて現われるという教えであり、日本における本地垂迹説は奈良期・聖武天皇(東大寺の創健者)の時代にまで遡るという。 
    当時の朝廷は、高度な外来文化としての「仏教」(6世紀中国より伝来)を重んじたので、神仏同体の思想を打ち出して土着の信仰を宥和(ゆうわ:ゆるして仲よくすること)しようとした。 実際、神仏習合の思想としての本地垂迹説が一般に広まるのは、平安時代も中期以降のことと考えられている。
    神仏習合はさまざまな面で進んだが、平安時代の中期になると多くの神社で祭神の本地仏を特定するようになった。
    そんな中、最も影響を受けたのが熊野三神であり、今に至っても「熊野三山」といい、「山」は仏教用語における「本山」を意味しているのである。
    そして、熊野三山となった頃の平安中期には、強力な信仰の対象となり官、朝廷、天皇の厚き庇護を受け、参詣の対象になっていった。

    「熊野信仰」は中世の朝廷、貴族の時代を経て武士、庶民へと広がりを見せ、熊野大神の前に額ずけば、その慈悲により俗世に傷ついた我が身も往生決定して生まれ変わり、幸せ多い人生が約束されると信じた。 
    仏教が習合し、更に熊野修検道が加わり、当時の末法思想とも合わさって、一つの浄土思想を形作っていった。 
    この信仰は『道の辺に飢え死ぬるもの数知れず・・』といった、中世の地獄を見た人々の心を激しく揺り動かし、熊野へと聖域めざし参詣心をかき立てたのであった。

    人々は京より往復およそ1ヶ月、雲を分け昇り、露を凌いて熊野三千六百峰の山々をよじ登り、谷を下り、僻遠の地・熊野本宮を目指して参詣した。 
    この道は難行苦行の旅であるからこそ、一切の罪行が消滅するという信仰になり得たのであろう。 
    藤原定家は『山川千里をすぎて遂に宝前に額ずく、感涙禁じがたし・・・』と記している。


    熊野道は「蟻の熊野詣」とも称され、聖地を目指す人々の行列を「熊野三山詣」と喩えた。
    熊野三山は万民を受け入れ、伊勢のように僧職を避けることもなく、高野のように女人を拒むこともしなかった。 所謂、天皇直々の参詣から、広く下位層の一般庶民まで信仰の自由が保障されていたのである。 
    こんな多層の人々によって歩かれた熊野道は次第に拓かれていった。 今でこそ「熊野古道」といわれるが、平安期の頃には既に紀伊路と伊勢路の二つの大きなルートがあった。

    その紀伊路は、京より淀川を下り和泉国をへて紀伊国に入り、大辺路、中辺路、小辺路の三つのルートに分かれる。これら三ルートのうち、中世にもっぱら利用されたのは中辺路であった。 
    伊勢路は京より南下して大和国、さらに東に向かって伊勢国に入り、南下して東から入るルートである。
    又、いま一つに大峰道がある。大峰道は本宮と吉野を結ぶ険しい山岳ルートで、山伏の修行地とされた。 現在も大峰奥駆修行と呼ばれ、天台宗山伏(本宮より吉野へ=順峰)、真言宗山伏(吉野から本宮へ=逆峰)の修行の地となっている。
    これらの辺路道、修行道は熊野の最奥部と言われる「熊野本宮大社」をほぼ中心に開けているのが判る。 
    最も歩かれた道としては紀伊路が海沿いを南下し、途中、田辺あたりで山道を本宮大社に向う「中辺路」といわれ、険しい山々を縫うように辿っていて、古くより参詣の道として定着していたという。

    「紀伊山地と熊野参詣道」・・、熊野で語り伝えられてきた神話や伝説は、現在も暮らしの中に息づいている。つまり過去と現在、生と死が連続している風土が広がっているのである。 
    中世の昔より巡礼者が、この世界を歩くことによって浄化され救われると信じたものが、今なお存在し、実感できるのである。
    これらの情景が色濃く残っているのが「中辺路」でもある。

    次には、本宮大社を後にして、その「中辺路」を歩くことにする。


    次回は、 熊野古道・「中辺路」

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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月14日 10時02分35秒

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    世界遺産と熊野地方(19) 世界遺産・「熊野参詣について・・」

    熊野参詣道(提供者に感謝)

    世界遺産と熊野地方(19) 世界遺産・「熊野参詣について・・」

    <font size="2" color="#0000FF"> 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を総称して「熊野三山」と呼ぶ。「三山」の山というのは仏教用語であり、本地垂迹(ほんちすいじゃく)の精神は今も尚生きている表れである。

    このことはさておいて、熊野三山は水に関わる神々であるということは前回の本宮大社を含め何度も述べてきたが・・、
    熊野本宮大社は今でも熊野川を自然神としているし、そこに鎮座する「大斎原」が聖地であることに変わりはない。 
    又、熊野速玉大社は河口部、港にあり、神事には「御船祭」という船にまつわる祭事が1800年以上も続いているという。 
    そして熊野那智大社は高さ133m、幅13mの「那智の滝」が信仰の根本であることは言うまでもない。 

    川、滝、港という水に関わる三つの立地を総称した熊野三山は、水の在り方、水の形態の三つの側面を表しているといわれる。
    このように熊野三山は三方に分布しているが、これは何故だろう・・?、何か根拠が有るのではない・・?。
    或る史家が推察するに・・、
    三方は、きれいな二等辺三角形を構成しているのが判るという。 
    これは仏教に於ける循環の構図を現していると仮定している。それを三角形の中心点からの方位で見ると熊野速玉のある方向は卯、熊野本宮のある方向は亥、それに熊野那智のある方向が未の方角に当るといわれる・・。
    これは常世の輪廻にあたるとされて卯(兎)の如くで生まれ、亥(猪)の様に盛んとなり、未(蛇)のようにソロソロとで死んでいくとも譬えられるという。

    那智には、補陀落渡海で有名な補陀落山寺があり、最後は仏になって海で入滅するという思想、行動があったことは既に述べた・・。 
    山は水の流れの源とし、罪の穢れを川の如く浄化するとともに、海の冥界へ旅たつ・・、この輪廻転生を現しているのではないかと・・。
    この世における自然界の輪廻、水に関わる生物の循環、人間本来の姿の生死観をこの三角形は示していると考えられると・・、いう思想である・・?。


    水に関わる熊野の地、紀伊半島は大台ケ原、大峰山系、高野山系を有し、日本一の多雨地帯であることは周知である。
    これらの水系は主に山系を流れ落ち、各種渓流、支流を合わして、熊野川や紀ノ川となり、大海の熊野灘、太平洋に注ぐ・・。
    水多きことは故に、紀伊地方は深山幽谷を形造り、所謂、「地の果て・・」でもある・・。

    昔は、黄泉の国(よみのくに:ヤミ・闇か、ヤマ・山が転じたともいう。死後、魂が行くという所。死者が住むと信じられた国。冥土といわれ、死者が棲むといわれた異界の地)・熊野には「真の闇」があると信じられていた。

    現在、我々が往来していて目視できる熊野の地域は、緑化運動などでスギの植林が奨励され、熊野のいたるところで伐採が行なわれてスギやヒノキの森に変貌してしまった地である。 これら鬱蒼と繁るスギやヒノキの森の直線的な暗さは、真の熊野の闇ではないという。 
    昔の人びとの心を捉えて離さなかった本当の「熊野の闇」は、ナラやカシやトチ、ブナ、クスノキ、梛木(なぎ)などの広葉樹林と照葉樹林の混交の森にあったのである。

    又、熊野には近世にいたるまで海の漁労、山の狩猟・採集の生活など所謂、縄文様式が遺さ(のこさ)れてきた事実がある。 
    南北にかけ離れた蝦夷や琉球ならいざ知らず、畿内(きない:帝都付近の地)といわれる本州の中央に位置し、弥生文化の中枢を担ったはずの近畿地方の一角に、なぜ縄文の息吹が遺されたのか。 それは熊野が京や大阪から、直線的には比較的近い距離でありながら、現実は、「闇」が支配する遠く離れた辺境の風土だったからなのである。

    熊野は、古代の葬送の儀礼である風葬や水葬の習俗も遅くまで遺されたという。 川が死者の骨を洗い、カラスが風葬にされた死者たちの清掃者でもあった。 熊野本宮の象徴として、「八咫鴉」が祀られたのは理解できるのである。
    農耕を中心とする弥生文化は太陽の恵みは欠かせない存在であり、彼らは天照大神(アマテラス)を絶対神として祀った。
    ところが、熊野は弥生文化の浸透は遅く、縄文の象徴である火の神・火之迦具土神(カグツチ)とその母イザナミが熊野に逃れて祭神となった地域である。・・、そして「花の窟」(はなのいわや:三重県熊野市)に祀られているのである。

    こんな自然、風土、信仰が個別に発生したとされる三つの大社は、過去と現在と未来を巡る浄土信仰と、熊野における縄文的自然に宿る神々によって渾然と融合し、広大な精神世界を醸し出してきたのである。


    熊野では神仏同位、神仏習合の精神が最も早く起こったとされ、一般に「本地垂迹」と称して平安中期頃には「三所権現」の本地仏が命名されたという。
    本宮社は、家津美御子大神(ケツミコ:スサノオ)で阿弥陀仏、新宮・速玉宮は熊野速玉大神(ハヤタマ:イザナギ)は薬師如来、那智宮は熊野夫須美大神(クマノフスミ:イザナミ)の千手観音を各々の本地仏としている。 
    本地仏とは、本地垂迹の思想に基づいて御神体に、その各位に相当する仏姿を当てたものである。


    次回、 「熊野参詣」・・Ⅱに続く・・


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