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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月02日 10時56分34秒

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    世界遺産と熊野地方(9) 那智山・「青岸渡寺・那智大滝」

    世界遺産と熊野地方(9) 那智山・「青岸渡寺・那智大滝」

    <font size="2" color="#0000FF">前記したが、この先参拝する速玉大社(新宮大社)と本宮大社は明治初期の「神仏分離」により仏教色が除かれ、仏堂は全て棄廃されて完全な神社神道様式になったのであるが、ここ那智大社は隣の「青岸渡寺」(せいがんとじ)に観るように神仏一体の伝統が今現在も守られている。
     
    『 補陀洛(ふだらく)や 岸打つ波は 三熊野(みくまの)の 那智のお山に ひびく滝つ瀬 』

    と御詠歌(巡礼または仏教信者などがうたう和歌)で親しまれている「青岸渡寺」は西国第一番の札所である。
    当山の縁起に、開基は仁徳帝の頃(4世紀)、印度天竺の僧・裸行(らぎょう)上人が那智大滝において修行を積み、その暁に滝壷で24cmの観音菩薩を感得して、ここに草庵を営んで安置したのが最初といわれる。
     
    那智大社の東側奥に「那智山青岸渡寺」の本堂が隣接して建っている。
    神仏分離による廃仏棄却の際、那智大社では観音堂が破却を免れて後に信者の手で「青岸渡寺」として復興したといわれる。 
    本堂は寺院様式・入母屋造りで東南向を正面に趣のある堂々とした建物で歴史を感ずる。 外部だけでなく内部もなかなかのもの、本堂に祀られている本尊「如意輪観世音菩薩像」は約1400年も前に造られた由緒のある仏像とか・・。 本尊は秘仏であり、通常、本尊は直接拝観できないが2月の一日だけ開扉されているようである。 
    珍しく本堂内撮影禁止などというミミッチイことを云わないのもいい。

    本堂は現在までに数回改築されているらしいが、現存する本堂は織田信長の軍勢によって焼き討ちされた後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が弟である大納言・秀長によって再建させたものである。 
    因みに、「豊臣秀長」は秀吉の異父弟、秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せ天下統一に貢献した。紀伊・和泉などの64万石初代当主、 和歌山城の築城を果たす。

    その後、本堂、御堂を中心とした伽藍造営が本格的に行われ、熊野三山の一つである熊野那智大社とともに大隆興している。 観音霊場巡りの「中興の祖」と呼ばれる花山法王は、この山に千日篭り後に西国33ヵ所第一札所とした。それ以来、那智巡拝は盛んになり現在に至るまで絶え間なく続いているという。

    本堂のすぐ下に「山門」が建っている。
    昭和8年(1933年)の建設といわれており、朱塗りも鮮やかで見た目にも新しい建物である。山門に安置されている金剛力士像は湛慶の作と伝えられている。その下の石段基部に「根本札所 西国第一番 なちさん霊場」と風雨に晒された石柱が立つ。「なちさん」と平仮名で彫ってあるのがいい、もしかしたら相当年代物かも知れない・・?。

    境内広場のすぐ上に真紅の「三重の塔」が艶やかで鮮やかである。 そして、右手山腹に、かの名瀑布、日本一の那智の滝が望観できる。 
    「三重塔と那智の滝」の配置・フレームは一服の絵であり、多くの観光用パンフレットでお馴染みである。 
    この「三重塔」は昭和47年(1972年)に再建されたといわれている通り、見た目にも新しい建物である。 その内部には「飛滝神・大滝」の本地仏である千手観音が安置されており内部の壁面には彩色の金剛諸界仏、観音、不動明王などの壁画が描かれている。 
    ただ建物が新しいだけに相等に壁画も新しいという・・、500年後、1000年後にはどうなっているか・・?、塔の歴史は刻み始めたばかりである・・。

    展望の良い境内からは「那智の滝」の後背部が那智山系に連なっているのが鮮明である。 構成する山々は大雲取山(966m)、烏帽子山(871m)、などがあり、この雲峰の地は熊野古道が延びているのである。又、那智滝や急渓流などの水源林である那智原始林(天然記念物)の深い山様、森林が残されている。

    那智山・青岸渡寺から徒歩で20分ほど古道を登ると那智高原公園で、現在も果たしてそうであろうか・・?この地は「富士山が見える最遠の地」と云われている。


    熊野の人々は険しい山と美しい川や海と共に暮らし、古くから山や滝、巨岩、巨石、巨木などに神々が宿ると信じて崇めてきた。 
    この熊野の地は神武天皇が東征の際に上陸し、那智の滝に大巳貴神(大国主)を祀り八咫烏(やたがらす:後述)の案内で熊野の深い山々を越え大和に入ったとされている。 
    その後、仁徳天皇の時代に那智の滝より社殿を現在の那智大社に移し、仏教の伝来とともに神仏習合の信仰が広まり、「蟻の熊野詣」(ありのくまのもうで:後述)と言われるほど多くの人々に信仰されたという。
    熊野那智大社、青岸渡寺、那智の滝等を総称して「那智山」と呼んでいる由縁である。

    次に「那智の滝」へ向う。 
    一旦降りて商店街が並ぶ車道を下り、道が大きくヘアーピンカーブを描いているその先端に大滝の入り口である林の中に雰囲気ある鳥居があった。鳥居には飛滝神社の名額が掲げてある。
    何故か鳥居正面の参道の真ん中に老杉が立つ、これも自然神域の一画であろう・・、その横に自然石で那智大滝と記してあった。 
    鳥居を潜った参道は、やや急な石段が森の奥まで延びている。 次第に滝壺の音が大きくなってきて、やがて眼前に現れた、正面に第二の鳥居が見張り番のように立っている。 
    こうして日本一の滝を眼前に見られ、その豪快さにただ黙念とするばかりである・・。

    「那智大滝」はその落差133mといわれており、最上部の滝口は三筋になっていて、これが那智の滝の特徴とされ「三筋の滝」とも言われる。 
    滝口の上に注連縄(しめなわ)が張られているが、この滝は滝壺の近くにある「飛滝神社」のご神体とされている。 飛滝神社の前からは那智の滝を更に目前に見上げることができる。

    那智大滝の奥、那智山系の那智原始林には60余に達する多くの滝があるというが、このうち48の滝は「瀧篭の行場」(滝にこもって修行する場)とされ、これらの滝には其々番号と諸宗教(神道を中心に、儒教、仏教、道教、陰陽五行説など)にもとづく名が与えられているという。 
    それらの滝を総称して「那智四十八滝」と呼び、この那智滝第一である「那智の大滝」を「那智一の滝」と称している。

    因みに、これら四十八の滝は那智山内にあり、主に本谷、東の谷、西の谷、新客(しんきゃく)谷の4つの谷に点在し、那智一の滝の他に曽以の滝(文覚の滝)、那智二の滝(如意輪の滝)、那智三の滝(馬頭観音滝)、大日霊女滝(大陽の滝)、登磨免の滝(念仏の滝)、倍牟の滝(弁財天の滝)等と称して、これらは修行者各自身が命名したととされている。

    これらの滝では、青岸渡寺開祖と伝えられる「裸形上人」をはじめとする宗教者達のほか、巡礼中興の祖・花山法皇も二の滝の断崖上に庵を設けて「千日瀧篭行」をしたと伝えられている。

    ところが、明治初期以降は神仏分離令・修験道廃止令によって、これらの「行」を支えた神仏習合的な信仰が失われたという、加えて、那智での瀧篭行は特に厳格さや秘密性が強く、行法や作法の伝授も全て口伝であったため、所在や名称の文覧も不明となっていたという。 
    だが1991年、わずかに残された古地図・古文書などを手がかりに地元の有志・新聞社・僧職・神職などが「四十八滝探査プロジェクト」を行い再確定に成功したともいう。
    そして更に1992年からは青岸渡寺の主唱によって、那智四十八滝・回峰行も再興されているという。

    尚、那智大滝は日光華厳の滝、常陸・袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。

    次回は、 補陀洛山寺

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