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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月05日 10時28分11秒

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    世界遺産と熊野地方(11) 新宮・「徐福伝説」


    新宮市「徐福公園・中華楼門」
    世界遺産と熊野地方(11) 新宮・「徐福伝説」

    国道42号線を北上する、宇久井の浜を右に見ながら新宮へ向う。市街地から県境であり、熊野川を渡る直前の左手奥に「新宮速玉大社」が鎮座しているが、その前に・・、

    お隣の県(とは言っても、目の前の熊野川の向側であるが・・)・三重県出身の『兄弟舟』で知られる演歌歌・手鳥羽一朗が、演歌『徐福夢男・虹の架け橋』を歌っている。余りヒットしなかったらしく、正直小生も知らない歌だが・・!。
    実は、この熊野灘に関わりの有る「新宮」のことを唄った歌であるが・・。

    <font size="2" color="#0000FF">「徐福夢男・虹の架け橋」 鳥場一朗  星野哲郎(詞) 中村典生(曲)

    ♪♪・まぼろしの まぼろしの    徐福は秦の 夢男
    不老長寿の 薬を求め        夢こそは 夢こそは
    蓬莱めざして 船出した       若さ支える 天台烏薬
    三千人の 大ロマン         三国無双は 那智の滝
    一つに束ね 舵おとる         大空駈ける 竜に似た
    徐福 徐福              姿をいつも 仰ぐたび
                         徐福 徐福・♪♪


    新宮駅から東口すぐ、中国風の楼門が一際鮮やかに「徐福公園」がある。 
    新宮市内の観光名所の一つで、境内は楠木の巨木と天台烏薬(※ てんだいうやく)に囲まれ、徐福の墓や徐福像、不老の池、徐福が亡くなった時殉死したと伝えられている七人の重臣の墓が建立されている。

    徐福は、秦の始皇帝の命を受け不老不死の霊薬を求めて倭の国・熊野に渡来したと「徐福伝説」は伝えてる。 2千年以上も前のことで日本はまだ神代の時代(実質は弥生時代)の事である・・が、既に、中国や台湾をはじめとした多種多様な異文化との交流などが既に行われていたことは知られている。
    徐福は、秦に国を滅ぼされた斉国(※中国の戦国時代の七雄とよばれた国の一つ)の人だった。 
    彼は蓬莱島(山東半島の東方海上にあり、不老不死の薬を持つ仙人が住む山と考えられていた)に行って長生不老の仙薬を求めて差し上げますと秦の始皇帝を騙し、3000人の人民と五穀百工(各種工業技術者)を率いて、東方の日本に向かって出航したといわれている。 これは、今で言う一種の集団亡命である・・?。

    中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫達は「秦」(はた)と称した・・、とする「徐福伝説」が日本各地に存在する。
    もともと徐福は、不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなく、万里の長城の建設で多くの人民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、東方の島へ新たな地への脱出を考えていたという。 徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれない。

    中国においては徐福=神武天皇とする説もあって興味深い。
    徐福は中国を出るとき稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われる。 
    一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされ、殆ど同時期に銅・鉄器製品や製法が伝わったとされる・・。  
    これらは、実は徐福が伝えたのではないかと想像も出来るのであり、徐福が日本の国造りに深く関わる人物にも見えてくるのである。
    日本と中国は、文化の交流だけではなく血でつながり骨肉を分かちあった民族の交流もあったことになる。 さらに日本の文化の根底を成すものが、徐福の渡来のよってもたらされ、徐福その人とその同伴の童男童女の血がわれわれの体の中にながれていることにもなる。

    数多い伝説地の中で佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県熊野市,和歌山県新宮市,山梨県富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県などに痕跡が残されている云われる。
    現実的に想像しても、数千人の人々が一気に一点に上陸することは不可能であり、各々の責任者の下に各地に分散して上陸したのではないかとも思われる。それが上記の地域だったのではないか・・?。

    徐福=神武天皇説は歴史のロマンか・・?、 
    天皇が東征の折、この熊野地区に上陸して大和に都を開いたとされている。尤も、こちらも伝説の域を出ないようだが・・。
    徐福の国(斉の国」から伝わった日本で御馴染みの諺がある・・最近は余り使われなくなったようが、「恙無き・・」(つつがなき)という言葉である・・。 
    唱歌『故郷』の一節、二番に・・
    ♪♪・如何に在(い)ます父母  
    恙なしや友がき  
    雨に風につけても  
    思い出ずる故郷・♪♪ 

    ・・・である。

    斉の国の王が、北方の「趙の国」に人質にとられている皇后が無事かどうか使者を遣わしてその安否を確かめさせた。 
    到着後、皇后は直に使者に尋ねた「歳亦た恙無きや、民亦た恙無きや、王亦た恙無きや」(斉国の穀物は無事に収穫できたか? 国民は無事に過ごしているか? また王はお変わりないか?)・・と。 すると使者は皇后に「その質問はけしからんのでは・・?」と問う。 何故ならば斉王の無事をこそ真っ先に確認すべきで、それを最後に尋ねるとはおかしいのではと・・?。 
    しかし、皇后が使者を嗜めて(たしなめて)言うには「穀物の収穫(歳:一般に年齢や時間のことであるが、収穫をも意味している)あっての民、民あっての王である。 本(もと)を差し置いて末(すえ)を問うことこそこそ間違った質問ではなかろうか」と・・、つまり「本末転倒」をいさめたという。

    「恙」は「憂」(うれい)という意味であり、「恙」が「ツツガ虫」と関連付けられた俗説で「恙は人を嚼(か)む虫なり。善き人の心を嚼み、人、毎(つね)に之に患苦す」という文意に由来するそうである。

    ※ 天台烏薬(てんだいうやく):クスノキ科の常緑低木、幹・枝は細い、雌雄異株、4月ごろ、淡黄色の小花を多数つけ、実は楕円形。根は連球状で香気があり、漢方で胃健薬、鎮痛薬に用い・・。


    次回は、 「神倉神社と熊野速玉大社」

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