新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

新規登録(無料)

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

国内旅行記

国内旅行記>掲示板

公開 メンバー数:2人

チャットに入る

サークルに参加する

サークル内の発言を検索する

新しいトピックを立てる

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: orimasa2007さん

    2008年02月14日 10時02分35秒

    icon

    世界遺産と熊野地方(19) 世界遺産・「熊野参詣について・・」

    熊野参詣道(提供者に感謝)

    世界遺産と熊野地方(19) 世界遺産・「熊野参詣について・・」

    <font size="2" color="#0000FF"> 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を総称して「熊野三山」と呼ぶ。「三山」の山というのは仏教用語であり、本地垂迹(ほんちすいじゃく)の精神は今も尚生きている表れである。

    このことはさておいて、熊野三山は水に関わる神々であるということは前回の本宮大社を含め何度も述べてきたが・・、
    熊野本宮大社は今でも熊野川を自然神としているし、そこに鎮座する「大斎原」が聖地であることに変わりはない。 
    又、熊野速玉大社は河口部、港にあり、神事には「御船祭」という船にまつわる祭事が1800年以上も続いているという。 
    そして熊野那智大社は高さ133m、幅13mの「那智の滝」が信仰の根本であることは言うまでもない。 

    川、滝、港という水に関わる三つの立地を総称した熊野三山は、水の在り方、水の形態の三つの側面を表しているといわれる。
    このように熊野三山は三方に分布しているが、これは何故だろう・・?、何か根拠が有るのではない・・?。
    或る史家が推察するに・・、
    三方は、きれいな二等辺三角形を構成しているのが判るという。 
    これは仏教に於ける循環の構図を現していると仮定している。それを三角形の中心点からの方位で見ると熊野速玉のある方向は卯、熊野本宮のある方向は亥、それに熊野那智のある方向が未の方角に当るといわれる・・。
    これは常世の輪廻にあたるとされて卯(兎)の如くで生まれ、亥(猪)の様に盛んとなり、未(蛇)のようにソロソロとで死んでいくとも譬えられるという。

    那智には、補陀落渡海で有名な補陀落山寺があり、最後は仏になって海で入滅するという思想、行動があったことは既に述べた・・。 
    山は水の流れの源とし、罪の穢れを川の如く浄化するとともに、海の冥界へ旅たつ・・、この輪廻転生を現しているのではないかと・・。
    この世における自然界の輪廻、水に関わる生物の循環、人間本来の姿の生死観をこの三角形は示していると考えられると・・、いう思想である・・?。


    水に関わる熊野の地、紀伊半島は大台ケ原、大峰山系、高野山系を有し、日本一の多雨地帯であることは周知である。
    これらの水系は主に山系を流れ落ち、各種渓流、支流を合わして、熊野川や紀ノ川となり、大海の熊野灘、太平洋に注ぐ・・。
    水多きことは故に、紀伊地方は深山幽谷を形造り、所謂、「地の果て・・」でもある・・。

    昔は、黄泉の国(よみのくに:ヤミ・闇か、ヤマ・山が転じたともいう。死後、魂が行くという所。死者が住むと信じられた国。冥土といわれ、死者が棲むといわれた異界の地)・熊野には「真の闇」があると信じられていた。

    現在、我々が往来していて目視できる熊野の地域は、緑化運動などでスギの植林が奨励され、熊野のいたるところで伐採が行なわれてスギやヒノキの森に変貌してしまった地である。 これら鬱蒼と繁るスギやヒノキの森の直線的な暗さは、真の熊野の闇ではないという。 
    昔の人びとの心を捉えて離さなかった本当の「熊野の闇」は、ナラやカシやトチ、ブナ、クスノキ、梛木(なぎ)などの広葉樹林と照葉樹林の混交の森にあったのである。

    又、熊野には近世にいたるまで海の漁労、山の狩猟・採集の生活など所謂、縄文様式が遺さ(のこさ)れてきた事実がある。 
    南北にかけ離れた蝦夷や琉球ならいざ知らず、畿内(きない:帝都付近の地)といわれる本州の中央に位置し、弥生文化の中枢を担ったはずの近畿地方の一角に、なぜ縄文の息吹が遺されたのか。 それは熊野が京や大阪から、直線的には比較的近い距離でありながら、現実は、「闇」が支配する遠く離れた辺境の風土だったからなのである。

    熊野は、古代の葬送の儀礼である風葬や水葬の習俗も遅くまで遺されたという。 川が死者の骨を洗い、カラスが風葬にされた死者たちの清掃者でもあった。 熊野本宮の象徴として、「八咫鴉」が祀られたのは理解できるのである。
    農耕を中心とする弥生文化は太陽の恵みは欠かせない存在であり、彼らは天照大神(アマテラス)を絶対神として祀った。
    ところが、熊野は弥生文化の浸透は遅く、縄文の象徴である火の神・火之迦具土神(カグツチ)とその母イザナミが熊野に逃れて祭神となった地域である。・・、そして「花の窟」(はなのいわや:三重県熊野市)に祀られているのである。

    こんな自然、風土、信仰が個別に発生したとされる三つの大社は、過去と現在と未来を巡る浄土信仰と、熊野における縄文的自然に宿る神々によって渾然と融合し、広大な精神世界を醸し出してきたのである。


    熊野では神仏同位、神仏習合の精神が最も早く起こったとされ、一般に「本地垂迹」と称して平安中期頃には「三所権現」の本地仏が命名されたという。
    本宮社は、家津美御子大神(ケツミコ:スサノオ)で阿弥陀仏、新宮・速玉宮は熊野速玉大神(ハヤタマ:イザナギ)は薬師如来、那智宮は熊野夫須美大神(クマノフスミ:イザナミ)の千手観音を各々の本地仏としている。 
    本地仏とは、本地垂迹の思想に基づいて御神体に、その各位に相当する仏姿を当てたものである。


    次回、 「熊野参詣」・・Ⅱに続く・・


    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

コメント: 全0件