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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月15日 11時08分19秒

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    世界遺産と熊野地方(20) 世界遺産・「熊野参詣・・Ⅱ」

    世界遺産と熊野地方(20) 世界遺産・「熊野参詣・・Ⅱ」

    <font size="2" color="#0000FF">引き続き「熊野参詣」についてであるが・・、
    神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは以前にも数度に亘り記してきたが、日本固来の神祇信仰(神々を祀る・・、※天津神と国津神などで、)と仏教が混ざり合い、独特の行法・儀礼・教義を生み出した宗教現象をいう。 
    日本では千年以上のもの間、複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教と日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出したとされる。
    ただ、神を仏の鎮守として祀ったのは朝廷や権力者の、所謂、政治支配側の政策的なものでもあった。
    仏に対して神を低く位置づけるのは・・?、一般民衆を含めた地域社会に僧侶が仏教を弘める方便として考えだしたものであり、仏教政策の作為的面が見られるのである。
    これらの永年に亘る政策を打破し、日本固有の神を主神として復活させるのは、遥か後年の明治時代に到ってからであるが・・。

    熊野大社に今も見られる「権現」とは権(か)りに仏が化して神と現われるの意で、習合の理論となる本地垂迹説の先駆を示すものである。 
    中世(平安、鎌倉期)には祭神に本地の仏尊を設定することが一般化し、本地垂迹思想が徹底するところとなった。


    その前に・・、※天津神と国津神の神々について・・、  
    奈良・律令期における神別けとして、「天神地祇(テンシンチギ)」というのがあった。 天神つまり天津神は天上はるかの雲の上におり・・、地祇つまり国津神は山の重なる地上の山中にあって、すなわち雲や霧のなかに鎮まるとしている。 
    天津神は天孫降臨で高天原に縁のある神々で「アマテラス」や「ニニギ」(大和系)などであり、その中でも有力な神でありながら、その秩序を乱して高天原から地上に追放されてしまう「スサノオ」や「オオクニヌシ」などの系譜に連なる神々が「国津神」(出雲系)ともされている・・。

    さて、「本地垂迹説」は仏・菩薩が人々を救うために様々な神の姿を借りて現われるという教えであり、日本における本地垂迹説は奈良期・聖武天皇(東大寺の創健者)の時代にまで遡るという。 
    当時の朝廷は、高度な外来文化としての「仏教」(6世紀中国より伝来)を重んじたので、神仏同体の思想を打ち出して土着の信仰を宥和(ゆうわ:ゆるして仲よくすること)しようとした。 実際、神仏習合の思想としての本地垂迹説が一般に広まるのは、平安時代も中期以降のことと考えられている。
    神仏習合はさまざまな面で進んだが、平安時代の中期になると多くの神社で祭神の本地仏を特定するようになった。
    そんな中、最も影響を受けたのが熊野三神であり、今に至っても「熊野三山」といい、「山」は仏教用語における「本山」を意味しているのである。
    そして、熊野三山となった頃の平安中期には、強力な信仰の対象となり官、朝廷、天皇の厚き庇護を受け、参詣の対象になっていった。

    「熊野信仰」は中世の朝廷、貴族の時代を経て武士、庶民へと広がりを見せ、熊野大神の前に額ずけば、その慈悲により俗世に傷ついた我が身も往生決定して生まれ変わり、幸せ多い人生が約束されると信じた。 
    仏教が習合し、更に熊野修検道が加わり、当時の末法思想とも合わさって、一つの浄土思想を形作っていった。 
    この信仰は『道の辺に飢え死ぬるもの数知れず・・』といった、中世の地獄を見た人々の心を激しく揺り動かし、熊野へと聖域めざし参詣心をかき立てたのであった。

    人々は京より往復およそ1ヶ月、雲を分け昇り、露を凌いて熊野三千六百峰の山々をよじ登り、谷を下り、僻遠の地・熊野本宮を目指して参詣した。 
    この道は難行苦行の旅であるからこそ、一切の罪行が消滅するという信仰になり得たのであろう。 
    藤原定家は『山川千里をすぎて遂に宝前に額ずく、感涙禁じがたし・・・』と記している。


    熊野道は「蟻の熊野詣」とも称され、聖地を目指す人々の行列を「熊野三山詣」と喩えた。
    熊野三山は万民を受け入れ、伊勢のように僧職を避けることもなく、高野のように女人を拒むこともしなかった。 所謂、天皇直々の参詣から、広く下位層の一般庶民まで信仰の自由が保障されていたのである。 
    こんな多層の人々によって歩かれた熊野道は次第に拓かれていった。 今でこそ「熊野古道」といわれるが、平安期の頃には既に紀伊路と伊勢路の二つの大きなルートがあった。

    その紀伊路は、京より淀川を下り和泉国をへて紀伊国に入り、大辺路、中辺路、小辺路の三つのルートに分かれる。これら三ルートのうち、中世にもっぱら利用されたのは中辺路であった。 
    伊勢路は京より南下して大和国、さらに東に向かって伊勢国に入り、南下して東から入るルートである。
    又、いま一つに大峰道がある。大峰道は本宮と吉野を結ぶ険しい山岳ルートで、山伏の修行地とされた。 現在も大峰奥駆修行と呼ばれ、天台宗山伏(本宮より吉野へ=順峰)、真言宗山伏(吉野から本宮へ=逆峰)の修行の地となっている。
    これらの辺路道、修行道は熊野の最奥部と言われる「熊野本宮大社」をほぼ中心に開けているのが判る。 
    最も歩かれた道としては紀伊路が海沿いを南下し、途中、田辺あたりで山道を本宮大社に向う「中辺路」といわれ、険しい山々を縫うように辿っていて、古くより参詣の道として定着していたという。

    「紀伊山地と熊野参詣道」・・、熊野で語り伝えられてきた神話や伝説は、現在も暮らしの中に息づいている。つまり過去と現在、生と死が連続している風土が広がっているのである。 
    中世の昔より巡礼者が、この世界を歩くことによって浄化され救われると信じたものが、今なお存在し、実感できるのである。
    これらの情景が色濃く残っているのが「中辺路」でもある。

    次には、本宮大社を後にして、その「中辺路」を歩くことにする。


    次回は、 熊野古道・「中辺路」

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