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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月25日 10時50分07秒

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    世界遺産と熊野地方(26) 湯の峰温泉・Ⅳ「昭和の大僧正・山本玄峰」

    世界遺産と熊野地方(26) 湯の峰温泉・Ⅳ「昭和の大僧正・山本玄峰」

    ところで、大正から昭和初期の日本は、次第に暗い戦争時代へと向かいつつあった。 
    そうした中、山本玄峰老師は常に変わらない不動の人物とされ、公平でかつ平和を願う姿勢を曲げなかったといわれる。 
    昭和の名僧、昭和期最大の禅僧と言われたる由、この時期多くの著名人が参禅に訪れたといい、又、戦後多くの政治家が日本の復興のため老師の真実の意見を求めて龍澤寺に馳(は)せ参じていたという。

    その中には、終戦時の鈴木貫太郎首相やその後の吉田茂、池田勇人両首相もいたが、中でも老師は、当時の首相・鈴木貫太郎の相談役でもあった。 
    首相が三島の龍沢寺を訪ねた時に、昭和天皇が終戦の詔勅・玉音放送の中の文言について相談した際、進言したのは「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」という言葉であった。 
    昭和天皇の戦争終結詔書(※)の一部は、首相によって聞き入れられ挿入されて、御前会議に諮った上で作成されたものとも言われる。

    老師は多くの文字は知らなかったとされるが豪傑として知られ、その姿を見た剣の達人は「あの人は斬れない。衣と体がひとつになっている。ああいう人は斬れない」と周囲に洩らしたという逸話もある。
    終戦後は、アメリカ、イギリス、ドイツ、インドなど諸外国を歴訪、又、憲法調査員会において「天皇は空に輝く国民の象徴である」と答えたというエピソードは象徴天皇を鋭く示唆するものであった。
    圧巻なのは入寂(僧の死去・96歳)の2週間前に書かれた「玄峰塔 九十六才自筆」と記した自筆で、これが絶筆といわれている。 

    「東光寺の玄峰塔」については・・、
    老師は「わしが死んでも、墓や塔を建てるな。・・」と常々言ってたが、これは生誕地の湯の峰温泉地に塔を建てたいという信徒達の熱望に折れて書かれたものであるという。 
    揮毫(きごう:筆をふるう意・書画をかくこと、揮筆)の際には筆が畳に食い込んだといわれており近くで様子を見ていた人は、その気力に身動きが出来なかったそうである。

    老師はご近所さんにも頼まれて気安く書かれたものを含め、幾つかの名書を残しているが、精神一到して書かれた、この一書は国中に居られる名書家と言われる書の中でも絶品の部類に入るだろうと・・。
    これを機に、貴品の展示されるのに合わせて再度龍澤寺を訪ね、この大書に見入って精神の一塵でも授かればと思うのだが・・。

    昭和36年6月、三島の庵で遷化(せんか:仏になること)し、96歳の大往生を遂げている・・。 
    葬儀には外遊中の池田勇人首相の名代として大平正芳官房長官などが列席したという。
    熊野の山奥、辺境の地「湯の峰」に、近年これだけ偉大な人物が輩出したことに、驚嘆と敬意を表したい・・。 
    東光寺の石碑も風雪の歳月に打たれながら、毅然としていた・・!!。


    (※)昭和20(1945)年8月15日正午、「大東亜戦争」の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送・・、所謂「玉音放送」で知られる昭和天皇の詔勅である。 
    終戦前日の8月14日、御前会議に於いて、昭和天皇の「御聖断」(最後決定)により実施となったもので、終戦は、昭和天皇の「鶴の一声」で降伏を甘受、整然と矛を収め、粛々と武装解除に応じる事となったという・・。

    昭和天皇の戦争終結詔勅 【 原文 】
    朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
    朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
    抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
    朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所<font size="3" color="#FF0000"><b>耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
     朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ
    (御名御璽)
    昭和二十年八月十四日

    昭和天皇の戦争終結詔勅 【 現代文 】
    余は、深く世界の大勢と、帝国の現状を顧みて、非常措置をもって事態を収拾しようと欲し、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。
    余は帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。
    そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにする事は、天照大御神から始まる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、余はそれを常々心掛けてきた。先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するが如きは、もとより余の志す所ではない。しかるに、交戦状態はすでに四年を過ぎ、余の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、余の全ての官僚役人の精勤と励行、余の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善を尽くしたのにも関わらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の大勢も又、我が国にとって有利とは言えない。
    そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、幾度も罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、誠に計り知れない。この上、なお交戦を続けるであろうか。遂には、我が日本民族の滅亡をも招きかねず、更には人類文明そのものを破滅させるに違いない。その様になったならば、余は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊に謝ればよいか。以上が、余が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。
    余は、帝国と共に終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるを得ない。帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、及びその遺族に思いを致す時、余の五臓六腑は、それが為に引き裂かれんばかりである。且つ、戦傷を負い、戦争の災禍を蒙り、家も土地も職場も失った者達の健康と生活の保証に至っては、余の心より深く憂うる所である。思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。汝ら臣民の真情も、余はそれをよく知っている。しかし、ここは時勢の赴く所に従い、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々の為に、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。
    余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実と真心を信頼し、常に汝ら臣民と共にある。もし、事態に逆らって激情の赴くまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、その為に天下の大道を踏み誤り、世界の信義を失うが如き事態は、余の最も戒める所である。
    その事を、国を挙げて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いと言う事を思い、持てる力の全てを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道に遅れを取らぬ様、心掛けよ。汝ら臣民、以上の事を余が意志として体せよ。
    (御名御璽)
    昭和二十年八月十四日
    [以下、内閣総理大臣・鈴木貫太郎はじめ、十六名の閣僚、連署] </b>



    <font size="2" color="#0000FF">朝の冷気を吸いながら、ユックリ散策した後、宿へもどった。
    ところで、今日は南紀旅行の最後の日となった、予定コースとしては、中辺路から田辺に抜けて御坊、和歌山から関西空港を経て、帰路を辿ることになる。


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