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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月07日 10時51分58秒

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    世界遺産・石見銀山(5)・・「沖泊・鞆ヶ浦」

    代官所跡の建物は、現在は「石見銀山資料館」

    世界遺産・石見銀山(5)・・「沖泊・鞆ヶ浦」

    <font size="2" color="#0000FF">温泉津の北方先端、湯里から馬路の間のリアス形海岸入江に石見銀山の銀の積出港であった「沖泊(なかどまり)・鞆ヶ浦(ともがうら)」がある。
    この二集落は、平成17年に国指定史跡になったというが、何れも今では地図にも表示されない戸数10数件の小集落で、深い入り江の鄙びた小さな港である。


    温泉津からトンネルをくぐり北に一山越えると「沖泊」の港がある。
    ここは、16世紀後半、約40年間にわたり石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 
    海辺に浜の井戸、集落奥に上の井戸と二つの共同井戸がつくられ、この辺り、山間の港ということで、水が不足していたことも伺える・・。
    沖泊港を取り巻く断崖には、自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」と呼ぶ船を係留する岩が多数残されている。
    又、北に櫛山城跡、南に鵜丸城跡とという二つの砦跡があり、大内氏や毛利氏の戦国時代の拠点、銀を防衛するための懸命さが伺える・・。

    琴が浜に近い「鞆ヶ浦」はもっと古く、沖泊が銀の積出港として使われる以前の16世紀前半、銀鉱石を博多に積み出した港町として発達したところである。
    戦国時代の大内氏が石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港であり、大内氏の次に銀山を支配した毛利氏の時代になると、銀の積み出し港は温泉津に移ることになる、その最大の理由は、鞆ヶ浦が非常に水の乏しい地区であったという、このことは沖泊と共通している。 
    港は、やはり、深い入り江となっていて、ここ鞆ヶ浦にも自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」が多数残されている。


    両港とも、東に延びる一筋の峻険な道が石見銀山へ通じている。
    昔の「銀山街道」で、山地を介して銀鉱山へ達する全長約7kmの街道(山道)であり、沖泊道、鞆ヶ浦道と称している。
    その名残の名残かどうか不明であるが近くの地域に「馬路」という地名があり、山陰線駅に「馬路」駅もある。


    仁摩の町へ入って間もなく大きな石見銀山への案内が目に付く、その案内に従って内陸山地へと向かった。 
    暫く、潮川に沿って進むが、やがて、大森トンネルを抜けると間もなく「石見銀山史跡」のセンターとも思しき施設へ到着した。 
    大きめな駐車場の正面には重々しい門構えの御屋敷(長屋門)がドーンと控えていて、門脇の石碑に「史跡石見銀山遺跡代官所跡」」とある、現在は銀山資料館である。  

    元々、石見銀山の行政を取り仕切る代官所(大森代官所)の在ったところで、江戸幕府の初代長官は、あの「大久保石見守長安」であった。
    あれから数えて59代目となる幕末、代官は鍋田氏の時代であったが、慶応2年(1865)の幕長戦争で浜田藩が落ちると同時に早々と逃げ出し、長州藩は労せずして石見国を掌中に治めることになる。

    その後、短期間ではあるが、長州藩による石見支配が明治4年の廃藩置県まで続く。
    現在の代官所跡の建物は、石見銀山資料館として、鉱山で使った道具や生活道具のほか、鉱石の資料や石見銀山地方支配に関する歴史資料などを展示している。


    次回は、 銀山の町・「大森町」


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