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  • from: orimasa2007さん

    2008年03月12日 11時03分07秒

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    世界遺産・石見銀山(8)・・「間歩と銀山街道」


    世界遺産・石見銀山(8)・・「間歩と銀山街道」

    落ち着いた雰囲気の「安養寺」からは道路は山峡の地へ入り、車がやっと一台通れるくらいの道幅である「新切間歩」や「福神山間歩」などがあり、間歩までは約1.5kmの坂道を緩やかに登って行くと最奥に「龍源寺間歩」があった。 

    小さな受付小屋があって、「変な・・おじさん・?」が居座っている。 
    山蔦に覆われた坑道の入り口に「史跡石見銀山遺跡龍源寺間歩」とあり、現在唯一内部を見学できるのが、この龍源寺間歩のみであるという。 

    龍源寺間歩案内板より・・、
    『 <font size="2" color="#000000">江戸中期以後に開発された間歩(坑道)で、「御直山」と呼ばれた代官所直営の創業地にあった坑道で、中でも銀山を代表する「五か山」の一つです。 坑口の横には番所(管理小屋)を設け、四ツ留と呼ぶ坑木を組み合わせて坑口としています。坑道は、ほぼ水平に約600m掘り進んでおり、高さ1.6〜2m、幅0.9〜1.5m、採掘と同時に鉱石運搬の幹線坑道としても使ったようです。内部の岩質は角礫凝灰岩、坑道の壁面や天井にはのみ跡が残り、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道(ひ押し坑)や上下方向に延びる斜坑を見ることができます。排水用の坑道でもあった下の「永久坑」へ降りる垂直の竪坑も残っています。  坑道は入り口から水平に約630m続いており、そのうち現在公開している坑道は、156mまでで、そこから新しく掘った116mの連絡通路で栃畑谷へ通り抜けるようになっています。床面の高さは入坑しやすいように一部で掘り下げたところもあります。
     』

    銀を掘るために掘った坑道を間歩(まぶ)というが、石見銀山に500余り存在する間歩の中で、現在一般公開されているのは「龍源寺間歩」のみとか・・。
    しかしその龍源寺間歩にしても、見学できるのはほんの一部分であり、その奥にアリの巣のように掘られている坑道は見ることができない。

    龍源寺間歩よりもっと大きな坑道もあったようで、 近年では電動のトロッコ列車なども使用されたようである。

    間歩入り口は小さな洞窟で、古い坑道の壁面 には当時のノミの跡がそのまま残っていてる。当時の技術では、熟練の堀子(ほりこ・鉱山労働者)でも1日に掘り進める距離は凡そ30センチがやっとであったと言われており、壁面に残る当時のままのノミ跡が堀子たちの過酷な労働を想像させる。 
    龍源寺間歩は、石見銀山に掘られた500ほどの坑道のうち、江戸時代の中頃に開発された坑道で、代官直営坑道「五山」の一つである。

    【御直山五ヶ山】
    「龍源寺間歩」、「永久間歩」、「大久保間歩」、「新切間歩」、「新切間歩」を五ヶ山と呼んでいる。


    『銀山街道』について・・、
    龍源寺間歩より先は、車では行けず山道となる。 
    先にも記したが・・、この山道こそ石見銀山と温泉津を結ぶ、所謂「銀山街道・温泉津沖泊道」であり、街道の中でも最重要の銀山ルーとで、しかも一番の難所と言われている。 
    「降路坂」と呼ばれる頂上部には「妙法蓮華経」という名号が彫られた石塔や石碑などが各所にあり、約1時間で麓の西山部落へ達する。
    現在は「中国自然歩道」となって整備されている。
    沖泊道は、主に16世紀後半の毛利氏の時代、約40年間にわたり銀の輸送や石見銀山への物資補給、軍事基地としても機能した港である。

    沖泊道よりの北側、大森町の西側に「鞆ヶ浦道」が山間を貫いている。
    沖泊道より更に古く、16世紀前半から中頃の大内氏の時代、銀鉱石を鞆ヶ浦から博多に積み出した港である。

    二つの街道には、通行を容易にするための道普請の跡がよく残るとともに、道中には運搬に関係した伝承地、通行者や周辺住民が通行安全や病気平癒を祈った信仰関連の石碑・石仏などが多数点在して残っているという。


    当初、銀の搬出は日本海側の温泉津港を使用し、海路により輸送されていたが,海上輸送は危険を伴うため、江戸時代には陸路を通じ、今の広島県尾道へ運ぶルートが整備された。

    慶長5年(1600年)9月、関ケ原の戦いが終わると石見銀山は徳川幕府の支配下に入り、初代の銀山奉行として大久保十兵衛長安(石見守長安)を重用し、積極的に開発をすすめた。
    石見守長安は、慶長中期(1608年ごろ)以後、銀の輸送は海上輸送から陸路輸送に切り替え、新たに広島県尾道までを結ぶ銀山街道を整備した。
    近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道は、天領である大森銀山で産出された銀を山陽の港町・尾道まで運ぶために設けられた街道で、難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。
    大森を出発した銀は、荻原から険しい「やなしお道」を抜けて粕淵、九日市、酒谷を経て赤名峠を越え、広島・安芸に入って三次、甲山から尾道まで運ばれた後、瀬戸内海路で大坂や京の「銀座」に集められた。

    この道中、「銀」の集積中継地として安芸(広島)・上下町(府中市上下町)に代官所が置かれ、幕府直轄の天領として政治的にも経済的にもこの地域の中心となっていた。

    豊かな商人が多かったこの宿場町は、現在でも商店街を中心に賑わいを見せており、奥行きの深い白壁の町屋など、文化財的建物が数多く残っているという・・。


    次回は、 「銀山の歴史」

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