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  • from: orimasa2007さん

    2010年12月21日 11時03分01秒

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    日本周遊紀行(57)洲本 「稲田騒動」

    .


     日本周遊紀行(57)洲本 「稲田騒動」  、




    淡路文化資料館前に立つ「お登勢」の像



    幕末の動乱・稲田騒動(庚午事件)について 、

    国道28は、淡路東浦海道、四国海道ともいう。 
    淡路島から大阪湾の航路要地でもある「津名」の港を通り、淡路の本拠である「洲本」を目指す。 
    やはり淡路島の中心だけあって、街の様子も一味異なるようである。
    洲本川の洲本橋を渡り、海岸へ向かうと大浜海岸の多数の老松に囲まれた風光明媚な場所に出る、大浜公園と隣接する大浜海水浴場が広がる。

    一角に淡路文化資料館があった、ここはかって江戸期に洲本城の平城が在ったところで、往時の小さな石垣も見られる・・?、この正面入口に「お登勢」の像があり、下駄履き姿で水桶と柄杓(ひしゃく)を持ってニッコリ笑っている。その横に「庚午事件とお登勢」と題して、解説入りの石版が建ててあった。  

    「お登勢」は、実在の人物かどうかは不明だが、(幕末期の寺田屋の女将のお登勢は、坂本龍馬をはじめとする幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを保護した女性として知られるが、同名だが当然異なる・・?)作家・船山 馨の近時代小説『お登勢』は・・ 、

    淡路の貧しい農家に生まれたお登勢の、けなげでひたむきな生涯を、幕末から維新へと時代が大きく変わる歴史のうねり(明治維新と庚午事件)とからみ合わせた、ダイナミックな歴史ロマンとして描いている。 この時代の女性は、その時代的制約からどうしても受け身であり、耐えることを強いられることが多いが、この船山作品の主人公であるお登勢は、恋する人との身分の差をどうしようもなく感じながらも、自分の心に忠実にひたむきに行動してゆく。 
    資料館に立つ「お登勢の像」は、幕末の淡路・稲田騒動のヒロインとして建立されている。


    明治維新と庚午事件(こうごじけん)について 、

    時代は遡るが戦国期、豊臣秀吉によって天下は、ほぼ治まった。 
    秀吉の重臣であった蜂須賀氏は四国攻めに功が有ったとして、阿波の国(徳島)一国(石高・17万5千石)を与えられる。秀吉と蜂須賀の関係は、彼が幼名「日吉」の頃、矢作川で出会って以来、終生子分になることを誓っていた。(蜂須賀小六、太閤記) その蜂須賀小六の重臣に稲田氏がいた、重臣とはいっても小六とは義兄弟の間柄だったという。二人はともに豊臣秀吉のために戦い、大いなる功績を残す。秀吉は、やがて蜂須賀家を主とするようになり、稲田家はその客分として従属させた。しかし、稲田にしてみれば「わしらは蜂須賀とは同僚であっても家来ではないぞ」、という気概と気分が最初からあった。 その後、江戸期になってからは両家は相反目しあうようになり、それからの長い歳月が経って、やがて明治初期の稲田騒動につながってゆく。

    この時期、蜂須賀家は阿波16万石になっていて、その城代家老としての稲田氏は1万4千を有し、所領として淡路・洲本城代に任じている。稲田家は瀬戸内を中心に豊かな経済力をもち、また貴族や公卿とも縁組をするなど、その地位を高めていた。 
    又、蜂須賀家は徳川家と縁組を持ち、松平家を名のるほど近親の間になっていた。(2代目松平阿波守至鎮・よししげ以降は松平を名乗る)
    江戸末期、尊皇攘夷の風が吹く中、稲田家とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。 蜂須賀家は、徳川家を中心とした公武合体論に終始する。 稲田家は、維新戦争の際にも多数の人員を派遣し、明治維新には大きな功績を残したはずであった。 このような因果で、両家は更に確執を生ずるようになる。

    明治政府は明治2年、版籍奉還、廃藩置県を実施した。 
    特に武士の身分を士族と卒族(平民)に分け、俸禄も減じられた。 
    稲田家は元々蜂須賀家の家臣だった為、その減額は甚だしく、稲田家臣は死活問題であったため、士族への編入を嘆願するとともに稲田家の分藩独立運動を起こした。 
    これに堪りかねた蜂須賀家の一部の過激派が決起し鉄砲、大砲を持ち込み洲本城の攻撃を始めるなど、一大紛争を巻き起こした。 

    明治政府は仲裁に乗り出し解決に至ったが、その決断・判決は両者に厳しいものであった。 蜂須賀・徳島藩側主謀者には10人に切腹、八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に及んだ。(武士社会に於ける、最後の切腹事件といわれる) 
    又、稲田家側は、朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の静内郡と色丹島(後に返上、現北方領土)への移住開拓が申し渡された。 
    勤皇派で、明治維新に大いに貢献した稲田家にとっても過酷な内容であった、だが見方によっては両家の怨恨を無くする為に遠ざけた結果とも云える。この事件を庚午事変(こうごじへん・稲田騒動)と称してる。 


    「版籍奉還」、「廃藩置県」とは 、

    戊辰戦争終結後、勝者の官軍であった薩摩、長州を中心とした新政府が曲がりなりにも誕生し、天皇を中心とした親政政治がスタートする。
    なにしろ、朝廷政治が行われていたのは平安時代であり、それ以来で実に700年ぶりの朝廷政治である。 その間は源頼朝の鎌倉幕府から徳川幕府の、所謂、武家を中心とする政治が行はれていた。 

    平安期と明治の最大の違いは、外国事情を知った明治人が、外国と互して強固な国土を造ることだった、つまり富国強兵であった。 その為には中央の政権が強力でなくてはならず、封建政治(封建制度・天皇の下に、多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自領内の政治の全権を握る組織)から天皇を中心とする中央集権国家の造営であった。 

    先ず、明治2年(1869年)、中央集権を促すために全国の各藩主が旧来領有していた土地と人民とを朝廷に返還する、即ち「版籍奉還」のことで、わが国、封建政治を終結させる大変革を行った。 これは、次に行うべき「廃藩置県」の前提でもあった。

    薩摩、長州、土佐、肥後の四藩が実施し、次に徳川家も同じように行っている。
    しかし、版籍奉還後も旧藩主が知藩事となり、世襲制などの封建制度が存続していた。 そのため此れを更に打破すべく薩摩の西郷、大久保、大山、長州の木戸、山県、井上ら7人が中心となって合議し廃藩置県を押し進めよとしていた。
    新政府出仕の主要な人物たちは皆往々にして下級武士の出であった。西郷や大久保の上に立つ、薩摩の島津久光は強固な封建主義者であり、これらを実施することは不忠者の汚名を着せられ、後々まで久光に頭の上がらないのは必定であった。

    当時の武士たちにとって不忠の汚名ほど心理的に苦しいものはなかったのである。
    ここで西郷は「私情においては忍びがたいが、廃藩は天下の趨勢である。地元については、わしが全責任を持つ、おはん等は粛々と進めよ」、この一言で策は決した。
    これによって7人は廃藩置県を奏上し、天皇詔書(みことのり)により勅令は発せられ、1871年(明治4年)、廃藩置県は施行された。
    明治維新の一大画期であり、一種のクーデターとも言われる。 
    各藩においては、意外と騒動らしいものは無かったらしいが、薩摩藩だけは久光公が花火を打ち上げ、最後の抵抗と意義申し立てを行ったともいう。 
    諸外国も日本の変革を知り、大いに驚きながら歓迎したという。

    中央集権国家は固まり、明治5年「全国徴兵令」の発動、6年には「地租改正」という税制改革、学校制度の発令等々、改革的事案が速やかに実行された。
    この間、初めて新橋〜横浜で鉄道が走り、これを期に阿波・蜂須賀氏や元藩主による「鉄道公団」が発足し、鉄道敷設等の産業改革も着実に進む。 
    始め藩主(知藩事)達は廃藩に反対していたが、先の戦争で藩財政は何処も困窮していたため、結局は承服せざるを得なかったという。 
    藩は、全国におよそ300存在し、それらの藩主を云わば一様に「クビ」にし、中央が派遣した「県令・権令(権令の方が格が低い)」をその知事に任命した。
    3府75県(後に少しずつ変化して行く)に振り分けられ、これによってクビになった藩主と家臣団である士族らは一斉に失職したのである。

    そのころ士族とその家族らは全国におよそ190万人いて、当時の日本の人口を3千万人とすると、6.3%の人間が職を失った事になる。 これらの元藩士・家臣達は農耕、殖産、兵役や移民団の開拓へと道を開いていったのである。 
    中には不平士族が反乱を起こす「佐賀の乱」(1874年、江藤新平を首領に起きた)や「西南戦争」(1877年、西郷隆盛を首領に掲げた薩摩軍と政府軍の間で戦われた日本史上最後の内乱)に到った事例もあるが。


    明治3年、版籍奉還がもとで起こった庚午事変の結果、北海道静内郡と色丹島の開拓を命ぜられた藩主・稲田邦植以下137戸、546人の旧家臣たちは、三隻の汽船に分乗し洲本港を出発する。 
    春まだ浅い北海道の海岸に到着し、ここに淡路・稲田藩士による北海道・静内町の開拓の歴史の第一歩が刻まれたのである。

    船田 馨作品のヒロイン・「お登勢」は、この時期、稲田藩士・津田貢と所帯を持ち、北海道移住を二人で決意する。
    移住には困難が伴い、先行きに暗い影もある中で希望を捨てないお登勢の強い心に貢は励まされる。物語は、稲田藩士とその家族が新天地を目指すところで終わる。

    又、北海道・静内町の開拓の歴史、稲田家家臣の壮絶な開拓者魂を主題にした映画「北の零年」が昨年製作された。これは製作費15億円を投じて、長期ロケを敢行、豪華キャストに加えて延べ7000人のエキストラなど、すべてが近年の日本映画の常識を打ち破る文字通りの『大作』と言われる。 
    キャストに、吉永小百合、渡辺兼、豊川悦司、柳葉敏郎、石原さとみ、香川照之、石田ゆり子、他名優多数、本年、2005年1月大公開された。

    又、船山馨の時代小説「お登勢」はこの時代、ここ淡路・洲本を背景に描いているが、この「お登勢」がNHK金曜時代劇で、沢口靖子主演で昨年秋TV放映されている。
    お登勢」と「北の零年」は登場人物こそ異なるが、まるで「お登勢」の続編を描いているようでもある。 
    小生は、残念ながらNHKの「お登勢」は拝見してないが、ヒロイン・沢口靖子が吉永小百合に成り代った様である。 
    尚、この記述に関しては、前編の「日本一周・東日本編」の北海道・静内の項でも記載してある。

    「日本一周</a>」 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/
    「北海道・静内」 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/d-11-4.htm


    次回は、福良と「大鳴門橋



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