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  • from: アヒル村長さん

    2013年01月25日 01時09分42秒

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    なんだか…

    あっちこっちで不祥事だらけ。
    なにやらどうも書き込みにくい(苦笑
    どっかの市長が自分の思想を棚に上げて中途半端な暴走をしているのが気にくわないけれど、ともあれ

    「スポ根」

    これはもう完全に「考古学」の領域に入ったらしい。
    某全国的に有名な体育大学には

    「蹴り倒すことが愛情表現」

    という笑い話があるようで。

    「新入生の間は、普通なら耐えられないくらい長い時間また割とかをやらされる。
    で、がんばってると『もっと気合を入れろ!』とか言って突然後ろから蹴り倒される。
    そうすると、実はそんなに強く蹴られるわけではないんだけど、みんな大げさに倒れこむ。
    なぜなら、倒れている間はまた割をせずに休憩できるから」

    …体育科でない人間にとってはまさに異文化(苦笑
    でも、これがどうやら有名な話らしい。
    そんな世界にいれば…ねぇ?
    そうでなくとも「スポ根」という名の下、無意味にきつい修行のような行為がもてはやされていたらしい一昔前。
    現に自分らが小学生の頃(=13,4年前)の少年野球は、今ならありえないほど給水タイムが少なかった。
    夏場の1時に練習が始まり、完全に日が暮れるまでの間練習をして、休憩回数はせいぜい4,5回。
    多く見積もって1時間に一回ペース。
    水を飲むときつくなるという、医学的根拠に真っ向から反する理論がまかり通っていた時代。
    それもそのはず。
    だって、「巨人の星」のような虐待スレスレのアニメ(どう捉えられようと名作アニメであることに変わりはない)が大人気だったころを生きてきた人たちが指導者なのだから。
    長らく「当たり前」としてきた価値観はそうも簡単に変わるものではない。
    その価値観である程度の成功を経験してきたのであればなおさら。
    だから、あの市長さんもきっと現在進行形で体罰万歳派に違いない(笑

    それはさておき。
    そして、わけが分からない不祥事もひとまず置いといて…
    なにも教育現場に限った問題ではないと思う「体罰」なる存在。

    「うちではビシバシやってますから、学校でも厳しくやってください」
    なんて保護者は(教える側になってからは)目にしたことがないし、むしろ甘やかし過ぎで「…」な子の方が目につくけれど。
    あからさまに
    「学校では殴られないことを知っているから…」という子が少なからずいることも事実。
    これはつまり
    「学校ではダメでも家ならオッケー」
    状態なのが「体罰」だということ。
    家庭の場合、それは愛の鞭と呼ばれ、行き過ぎれば「虐待」と呼ばれる似て異なる存在に変身するらしい。

    とある新聞を読んでいたら
    「親は親の愛情で子どもを殴ることもあるだろうけれど、教員は教育者としての自覚をもち、手をあげるべきではない」
    なんて趣旨の持論を掲げている学者か何かが載っていた。
    おそらくは世に言う「愛の鞭」理論。

    なぜにこんな持論が載ってしまうのか。
    あまりにも不自然な話なのに、それが「親の愛」といえば顔パスで素通りできる恐ろしさ。
    教員が教育者であることは間違えないし、そういう自覚をもっていないなら教員と名乗る資格もないのだろうとは思う。
    で、この場合の教育者というのは、教員の立場上「子どもに教える人」であるはず。
    社員教育にあたる人とか、スーパーバイザーとして同業者に専門的な知識を助言する人とか、いろいろいる教育者の中でもそういう立場の人。

    だとすれば…
    「子どもにとって最も身近でなおかつ初めに出会う教育者は親」
    なのだから。
    親だって「教育者」としての自覚は必要だし、教育者の自覚をもつ者が手をあげてはいけないのなら、親の「愛の鞭」だって体罰となんら変わらない。
    教員に「教育者の自覚」を求めて、子どもにとって最も身近でなおかつ最も大きい影響力をもつ親には「教育者の自覚」を求めないのであれば。
    そこには大きな見落としがあるに違いない。
    もしくは子どもにとっての「親」という存在の重要性を理解していないのかもしれない。
    そうでないと新聞に載っていたような謎の理論は展開できないはず。

    全員を平等に愛さないといけない教員にとっては、自分の子どもにさえ愛情を注いでいれば良い「親」にはどうやったって敵わないけれど。
    その「親の愛情」をもって「愛の鞭」を正当化するのなら。
    すき好んで他所の子の成長に携わって、わざわざ「親の愛」という厄介な重荷を背負っていくことを仕事にしている人間ってどんなやつらなのか。
    おまけに、ご時世的に世間の冷たい視線がもれなく標準装備。
    分野違いの同じような立場の人を見ると、「法律的に許容範囲とされている賭け事をしただけでも書類送検されてしまう」ことがあるようで、なかなかの上級装備。
    …愛さずにはいられない存在がたくさんいて、なおかつ数年単位でその対象が入れ替わっていく立場としては、「親子愛」をもちだされればなにも太刀打ちできないことは事実。
    同時に、そういう神聖不可侵な愛に好んで触れに行く以上、そんなモノ好きなことをする人々がもっているのはかなり「オタク」的な何か。
    ある場合にはアニメか何かのオタクさんのように、作者と同レベルかそれ以上の愛情をもって対象に触れている人だっているに違いない。

    「愛の鞭」で対人恐怖になっちゃった人間としては、体罰は絶対に反対。
    言ってダメなら身体に覚えさせるって、それじゃぁまるで競走馬。
    対象が自分で制御できなくなった時には何かしらの逆襲が待っている可能性だってある。
    本当に愛があるなら、その愛で「分かりあうための方法」「伝えるための方法」を考えることだってできるはずだし…
    できないのなら、この世から戦争はなくならない。
    最も身近な関係ですら分かりあうことができないのだから。
    戦争やらテロやら云々を叫ぶより、まずは足元。
    戦争や紛争が起きているのは遠く離れた異国の地だけではなくて、実はご近所さんでも同じだったりするのではないか。
    もしかしたら平和を叫んでいる人自身の家がそうだったりして。

    色々批判のネタには困らない今日この頃。
    主として批判されるのは、大まかな括り上自分と同じ括りになる人たちなのだけれど(苦笑
    こと「体罰」に限っては同じ「教育の場であり生活の場」である以上、家庭も学校も変わらない。
    もしも別物だと思われているなら、それもまた大きな問題。
    市長やら教育委員会の対応だけじゃなくて、

    「実際家庭ではどーなのさ?」

    そんなことも議論されるべきではないのか。
    「学校神話」の崩壊だけを叩いていたって何も変わらない。
    社会が要求する教育を実現するのが学校なのだから、その学校が崩壊しているとすれば、それは「社会が崩壊している」のと同じこと。
    社会が崩壊して学校も崩壊して、ついでに家庭も「愛の鞭」だらけなら。
    子どもは私アヒルのような厄介物になっちゃう。

    今日の天気:曇り
    …朝は久しぶりの霧が発生。視界100メートル以下?
    家から出てビックリな一日。

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