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ファンタジーアの源泉を求めて

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  • from: にょん太さん

    2014年07月13日 16時41分05秒

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    カテリーナ・スフォルツァの血

    ルネサンスの女傑カテリーナ・スフォルツァの血が、現代のヨーロッパ王家に流れている話で~す。

    フォルリのサン・ドメニコ市立美術館にある彼女の肖像画で~す。
    彼女の最初の夫ジロラモ・リアーリオ伯爵に始まって、彼女の男遍歴は大変なもので~す。次々と男が好きになりましたが、単なる男漁りに終わらず、熱愛した男に身も心も捧げたところが違いま~す。
    1496年、女領主カテリーナの元に、フィレンツェの駐フォルリ大使として、ジョヴァンニ・デ・メディチ(イル・ポポラーノ)(1467-1498)が現れま~す。

    ワシントンのナショナルギャラリーにある、ジョヴァンニ・イル・ポポラーノの肖像で~す。描いたのはボッティチェッリ
    メディチ家で最も美男と評判のジョヴァンニは、これまでカテリーナが恋心を燃やした男よりも品があり、優雅でしたが純朴だったので~す。
    大使赴任から間もなく、カテリーナはジョヴァンニにアタックしまし~た。純朴なジョヴァンニは、男漁りに長けたカテリーナの敵ではなく、直ぐにカテリーナの恋の虜となりまし~た。

    ジョヴァンニとカテリーナが逢瀬を楽しんだ、フォルリのオルデラッフィ宮殿(カテリーナの居城、現フォルリ市庁舎)

    ジョヴァンニ(当時29歳)とカテリーナ(当時33歳)は結婚しましたが、フィレンツェ大使と伯爵夫人との結婚は政治的に問題があるので、秘密にされまし~た。
    ところが、この結婚生活は長続きせず、2年後の1498年、ジョヴァンニが死んでしまいま~す。
    ジョヴァンニの死因には2説あって、フィレンツェとピサの戦争して負傷したキズが完治せず、破傷風に罹患していてフォルリで悪化して死去、不治の癌に侵されての死去の2説で~す。
    ジョヴァンニが病の床にあった1498年4月、カテリーナは男の子を生みまし~た。そうして、二人の結婚は公になり、ジョヴァンニの死後の1498年7月、フィレンツェ共和国は、カテリーナと二人の間の子(紛らわしいことに父と同じ名前ジョヴァンニと名付けられまし~た)、それにカテリーナの連れ子にフィレンツェ市民権を与えたので~す。
    カテリーナが生んだ男子が、武勇で名高い、後の黒隊長のジョヴァンニで~す。

    黒隊長のジョヴァンニ

    黒隊長のジョヴァンニと、ロレンツォ・イル・マニーフィコの孫娘マリア・サルヴィアーティの間にできた息子が、後のトスカーナ大公コジモ1世で~す。
    コジモ1世の孫娘マリアがフランス王アンリ4世と結婚したマリー・ド・メディシスで~す。マリー・ド・メディシスの子供たちが、フランス王のルイ13世、イギリス王チャールズ1世の妃となったアンリエット・マリー、スペイン王フェリーぺ4世の妃となったエリザベット、ガストンオルレアン公で~す。彼女が生んだ4人の子供たちの系図を辿れば、現代のヨーロッパ王家にカテリーナの血が流れていることが分かりま~す。
    カテリーナのその後に付いては、またにしま~す。(つづく)

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コメント: 全3件

from: にょん太さん

2014年07月16日 08時38分08秒

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シニョレッリさん

仰っているのは、この作品でしょう。

フォルリの画家マルコ・パルメッツァーノの「女性の肖像」です。
ご指摘のように、フィレンツェのパラティーナ美術館にあります。

ピッティ宮

この作品は、昔から晩年近くのカテリーナ・スフォルツァの肖像との説がありますが、彼女とはどうも確定していないようです。
ただ、メロッツォ・ダ・フォルリの弟子でフォルリで活躍したマルコ・パルメッツァーノの作品であることには疑いがないので、フォルリの旧領主だったカテリーナとはパトロンと画家の関係でしたから、これがカテリーナの肖像の可能性が高いと思われます。



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from: シニョレッリさん

2014年07月14日 14時05分53秒

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にょん太さん、おはようございます!

カステッロのメディチ家別荘に当時あったのが、ボッティチェッリの「春」ですよね。カテリーナと息子ジョヴァンニは、その「春」を見て毎日何を想ったことか、と考えると楽しいです。

「老いたカテリーナの肖像画」が確かパラティーナ美術館にあったと思います。カテリーナの肖像かどうかについては異論、異説がありますが、私はカテリーナの肖像と思います。

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from: にょん太さん

2014年07月14日 10時30分22秒

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カテリーナのその後で~す。

1484年、カテリーナと最初の夫ジロラモ・リアリオ伯爵を支援してきたシクストゥス4世が死んでしまいまし~た。フォルリとイーモラは法王領でしたが、シクストゥス4世の時代には税金を法王庁に納めなくてもお目こぼしされていまし~た。シクストゥス4世の後ろ盾を失うと、法王領の回復を期す法王庁と深刻な対立が起きまし~た。
1491年、アレクサンドル6世は、フランスを利用して法王領の回復に乗り出したので~す。ミラノ公国をフランスに与える代わりに、フランス軍を派遣して貰い、アレクサンドル6世の息子チェーザレ・ボルジアの指揮する法王軍に加わることが決まりまし~た。
イル・モーロが支配していたミラノ公国は、フランス軍とチェーザレによって簡単に制圧されてしまいまし~た。この時、イル・モーロに仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチは失職するのですが、新たな支配者であるチェーザレから招聘されて、軍事技術者となったので~す。
ミラノの次は、法王領の回復で~す。チェーザレの勢いを恐れた法王領の領主は次々と降伏していきまし~たが、例外がカテリーナで、彼女だけは降伏を拒否してフォルリの城塞に立てこもりま~す。カテリーナの苛政に苦しんでいたイーモラは、チェーザレ軍に無血開城を行ったので~す。

カテリーナが立てこもったフォルリの要塞

カテリーナ軍は1000人ほど、チェーザレ軍は15,000人。この兵力差で2週間持ちこたえたので~すが、カテリーナの獅子奮迅の抵抗も空しく遂に降伏。
カテリーナは、法王軍によってローマに護送され、サンタンジェロ城に投獄されてしまいま~す。

カテリーナが投獄されたサンタンジェロ城

サンタンジェロ城に投獄された直後に、アレクサンドル6世は急死(マラリアに罹患した説が有力で~す]したので~すが、不思議なことにカテリーナに法王毒殺の嫌疑がかけられてしまいま~す。
カテリーナは断固、嫌疑を否定。投獄がやがて1年になろうとする頃、ルイ12世の支援によって、市民権があるフィレッツェへの追放が決まり、サンタンジェロ城から釈放されたので~す。
釈放後、メディチ宮殿に暫く滞在してから、フィレンツェの亡命先となったのが、カステッロのメディチ家別荘で~す。

カステッロのメディチ家別荘

この別荘はロレンツォ・イル・マニーフィコによって建設されまし~たが、ポポラーノ兄弟のカネを使いこんだロレンツォが借金のかたとして、ロレンツォ・イル・ピエルフランチェスコ通称ロレンツィーノ(カテリーナの夫ジョヴァンニ・イル・ポポラーノの兄)に譲渡。ところが、ロレンツィーノが弟ジョヴァンニにカネを使いこみ、ジョヴァンニの死後、カテリーナと息子のジョヴァンニ(後の黒隊長のジョヴァンニ)に譲渡されていたので~す。
なお、黒隊長のジョヴァンニの息子コジモ1世も、この別荘で育ったので~す。

かっての法王庁の領主たちは、アレクサンドル6世の死後、税金を法王庁に納入することで許され、元の領土に復帰が叶いまし~たが、カテリーナの前夫との息子には許しが出ませんでし~た。息子をフォルリの領主に復帰させるべく、カテリーナは相当な金を使いまし~たが果たせませんでし~た。
その様な失意にある頃、今度は、ロレンツィーノの息子からカステッロの別荘の立ち退きを要求されたので~す。
ほぼ1年に渡るサンタンジェロ城での投獄、前夫との息子の領主復帰の夢が果て、更には親族からの冷たい仕打ちが重なって、カテリーナは急速に老け込み、1509年、病を得てしまいま~す。
自分の最後を覚悟したカテリーナは、メディチ宮殿(現メディチ・リッカルディ宮殿)で死にたいと言い、メディチ宮殿に移送されまし~た。

カテリーナが死んだメディチ宮殿

死に望んでカテリーナは最後のお願いとして、サン・ロレンツォ教会に埋葬されている夫ロレンツォの隣への埋葬が第一希望、それが無理ならば、サンタ・マリア・デッラ・ムラーテ修道院への埋葬を希望したので~す。
1509年5月28日、カテリーナは46年の生涯を閉じたので~す。死因は肺炎か肋膜炎と言われていま~す。

フィレンツェのサン・ロレンツォ教会

サンタ・マリア・デッラ・ムラーテ修道院跡地

サンタ・マリア・デッラ・ムラーテ修道院は取り壊されて、その跡地にフィレンツェ刑務所が建てられまし~た。その際、カテリーナの墓も取り壊され、遺骨も残されていないそうで~す。

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