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from: 改革フォーラムさん
2010/06/12 13:46:55
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憚りながら
後藤忠政/著宝島社2010年5月第4章創価学会との攻防富士宮の小佐野賢治創価学会は、もともと日蓮正宗の信徒の集まりで、かつては富士宮の大石寺が本山だっ
後藤忠政/著
宝島社
2010年5月
第4章 創価学会との攻防
富士宮の小佐野賢治
創価学会は、もともと日蓮正宗の信徒の集まりで、かつては富士宮の大石寺が本山だったから、地元で揉め事を扱っていた俺とは、自然と関わり合いも出てくるわな。
初めて接点を持ったのは俺が三十二、三(歳)ぐらいの時(1975〜76年)で、まだ川内組の枝だった頃だ。その5、6年ほど前(69〜70年)から、学会は大石寺周辺の土地という土地を買い漁って、境内を拡張して大本堂(正本堂)を建てたり(72年建立〉、その近くにバカでかい墓地(現在の「創価学会富士桜自然墓地公園」、80年完成)を作ったりしていた。何しろあの当時、大石寺絡みの土地売買や建設工事で、富士宮に流れ込んだ金は莫大だったんだ。
大本堂で300億円、富士桜(自然墓地公園)で200億円、その周りの土地を買うのに数百億円といった具合に、全部で1000億近くになったんじゃないか。もちろん、この学会の建設ラッシュで地元は潤ったが、俺たちにとっても昭和40年代、50年代の富士宮での最大の利権だった。それこそ、ヤクザ、堅気問わず、富士宮中の悪という悪が、その利権に群がって丁々発止を繰り広げたんだ。
そんななか、富士桜の造成を一手に引き受けていたのが、地元じゃ有名な「日原」という男だった。
日原博は富士宮市で建設・造園業「日原造園」を営む傍ら、1967(昭和42)年から富士宮市議、79(昭和54)年から静岡県議を務め、自民党富士宮支部支部長を兼ねる実力者だった。
日原は地元じゃ、「影の市長」とか、「富士宮の小佐野賢治」とか呼ばれてさ。ちょっとした有名人だったんだよ。後で、この富士桜で儲けた金を隠してて、脱税で挙げられるんだけどな。その後も東名(高速道路)なんかに食い込んで、ボロ儲けしていた。バブルの時に手を広げ過ぎてパンクしちまったが、今でも再起を目指して頑張ってるそうだ。バイタリティーのある男だよ。
俺は初め、その日原から頼まれて、用心棒みたいなことをやっていた。何しろ当時は〝学会利権〟にありつこうと、色んな悪い奴が次から次へと集まってきたから。ただ当時はまだ、俺もチンピラみたいなもんだったから、今から考えたら鼻くそみたいな小遣いで、日原のために動いてやったんだ。
ところが、日原が、富士桜の儲けを独り占めするもんだから、他の業者から散々、反発を買ったんだよ。やり過ぎたんだ。墓石でもさ、台湾か中国で買ってくれば1000円か2000円程度のものを5000円で売って、据え付けたら1万円ぐらいになって、それが何万基もあるんだから。そんなこんなで日原は怪文書を撒かれたり、告発されたりしてたんだが、日原の悪口と一緒に、ウチの組の悪口を書いたビラを、ご丁寧にも新聞に折り込んで撒いたMという男がいた。それに怒ったウチの若い衆が、相手ん家にブルドーザーで突っ込んだんだ。
1977(昭和52)年11月21日、後藤組幹部が富士宮市内のM宅に12トン用の大型ブルドーザーで突入し、ブロック塀を10メートルにわたって破壊。その後、Mに日本刀で斬りつけ、左腕や背中などに2カ月の怪我を負わせ、翌日、殺人未遂の容疑で逮捕された。
後から聞いた話だと、相手もなかなか腹の据わった奴だったらしいよ。「いつでも来い」とか言って、自分も日本刀持って寝てたらしいから。この事件でウチの若い衆は(懲役)6年食らったんだけど、実は日原の後ろにはあの「山崎正友」がいたんだ。日原と山崎は、それこそ二人三脚で富士桜を進めていたわけだ。
山崎正友は当時、創価学会の顧問弁護士で、池田大作・創価学会会長(当時。現在は名誉会長)の。〝お庭番〟であると同時に、「宮本顕治・共産党委員長宅盗聴事件」など、過去に創価学会が行なった数々のダーティーワークの指揮官でもあった。
学会は、大本堂を造る時からデタラメなことをしてたんだ。大本堂を造る際に、市道を勝手に(市の許可なく)潰したり、農地を不正に取得したりしてな。それが(富士宮市)議会で問題になったり、道路法違反で池田大作が告発されたりしたんだよ。けど、この告発の黒幕が実は日原で、山崎は日原を懐柔するために日原と組んだんだ。それからは、何をするにも山崎と日原は二人三脚だった。
ところがだんだん、学会と日原のこれまでやってきた悪事がバレてきて、富士宮の中でも左翼の連中を中心に「日原造園、創価学会と市政の疑惑を正す市民会議」とかいうのができたりして、(創価学会に対する)反対運動が起こった。デモが起こるぐらいに盛り上がったんだが、その時に山崎から(反対運動が)「何とかならんか」という相談があった。そういう裏の話は当時、あの男(山崎)がすべて仕切っていて、池田ともサシで話し合えるぐらいの実力は持ってたんだ。実際、俺にも「親分のことは池田会長に伝えてあります。池田会長も『くれぐれもよろしく』と言ってました」と言ってたんだから。
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from: 改革フォーラムさん
2010/06/12 13:49:23
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「Re:憚りながら 」
元公明党都議との密会ビデオ
ところが、最初の内容証明を出して(83年3月)から3カ月後ぐらいに、富士宮署に突然、「後藤組壊滅対策本部子できたんだ(同年6月設置)。当時はまだ、山一戦争も始まってなかったし、地元では、それまで散々大暴れしてたのに、そんなもんができたことは一度もなかったんだ。
この対策本部ができてからというもの、ウチの若い衆が片っ端からパクられていった。それこそションベンしても屁をひってもしょっ引かれて、1年足らずの間に60人以上がブチ込まれたんだ。ガサ(家宅捜査)の時は決まって、(静岡県警)本部から、わざわざ本部長がヘリに乗って飛んできて、(後藤組の)事務所の上グルグル回って伊、本部長自ら、(家宅捜索を)指揮してたんだよ。
その時、思ったね。ああ、そうか、お前ら(学会)はいざとなるとこんな汚い手使ってきやがるんだな、と。そりゃ、国会だったら公明党使って、警察庁に圧力かけりゃあいい話だし、池田のお膝元の(東京)都議会でも、公明党は昔から与党だったしな。予算握ってるもんで、警視庁に圧力かけるのも造作はないわ。
けど、これには本当に頭にきた。「じゃあ、池田先生に直接、ものを言いに行くしかないわな」と思ったよ。
そうこうしているうちに、若い衆が、池田が東京女子医大に入院したという話を聞きつけて、俺より先に「池田先生」に会いに行ったらしいわ(笑)。ところが、それを知った池田が急に退院しちゃったもんで、若い衆は(東京都新宿区)信濃町の学会本部(創価学会文化会館)まで出かけて行ったんだ。
1985(昭和60)年11月12日、新宿区信濃町の創価学会文化会館で、後藤組系幹部ら3人が発砲。銃刀法違反で現行犯逮捕された。
これには池田もビビッただろうな。そりゃそうだわ、行く先々で〝パン〟って音が、するんだから(笑)。それで慌てて、俺んところに池田の使いのもんが飛んできて、詫びを入れてきたんだ。この人間は山崎と違ってまだ生きてるし、俺はべつにこの使いのもんが心底憎いとか、嫌いというわけじゃないから、本人の名誉のためにも「X」とでもしておこうか(笑)。
このXが、山崎の後の、俺と学会との〝窓口〟になったわけだ。「陸軍中野学校の出身」とか言って、山崎がいなくなった後はこのXが〝裏〟の仕事を担当してたんだ。このXを通じて池田が詫びを入れてきたことで、その後はまた学会に協力してやることになったんだ。
1991(平成3)年11月、日蓮正宗は池田大作・創価学会名誉会長を破門し、これ以降、宗門と学会は激しく対立。翌92年4月には学会と対立する大石寺「妙遠坊」で発砲事件が発生。同年5月には大石寺「奉天寮」に火炎瓶が投げつけられるという事件が発生した。
俺は山崎より、このXのほうと波長が合った。山崎というのは、組織(学会)に対して誠実じゃなかった。自分の懐に金を入れることばかり考えてさ。海産物業とか変な商売を従兄弟にやらせて、20億か、30億の損を出して倒産しちゃったんだよ。それを帳消しにするため、今度は学会を脅かして、金を出させようとして恐喝でパクられて……。
それに比べたら、後から窓口役になったXは実に組織に忠実だったよ。私利私欲じゃなしに、俺とのトラブルを含め、学会の抱えているさまざまな問題を何とか収めようという姿勢だった。だからこそ、俺もまた学会に協力してやろうという気になったんだ。あんたたちが、この「X」のことを誰と想像しようが勝手だが、俺自身はXを悪い人間とは思っていない。一番の悪はやっぱり裏で、山崎だの、Xだのに〝汚れ仕事〟させといて、表では善意に満ち溢れた教祖サマ面してる、池田大作だろうな。
この「X」という人物の名前はもちろんのこと、素性についても、後藤は一切語ろうとしないが、過去の創価学会関係者の証言、さらにはこれまでのメディアの報道から判断すると、この「X」が、藤井富雄=元公明党東京都議会議員であることは、もはや疑いようのない事実だ。
藤井は、定年制(66歳以上は原則として再度立候補できない制度)を導入した公明党の中で、例外的に都議を11期まで務めた重鎮で、初代「公明」代表にも就いた。2005年に引退した後は、公明党最高顧問を務め、現在も公明党が設立した財団法人「公明文化協会」の理事を務めている。
この藤井と後藤との関係をめぐっては、東京都港区内で2人が〝密会〟した様子を収めたビデオの存在が、メディアなどでたびたび取り沙汰された。『月刊現代』04年2月号に掲載されたジャーナリスト魚住昭のレポート「野中広務『権力二十年戦争』――創価学会を『折伏』させた胆力の光と影」によると、ビデオの内容は次のようなものだったという。
〈「野中(編注:広務・元自民党衆議院議員)さんが会いたいというので久しぶりに会ったんだが、とんでもない話だった。『公明』代表の藤井富雄さんが暴力団の後藤組の組長と会ったところをビデオに撮られたらしい。そのテープを自民党側に届けた者がいるということなんだが……」
藤井は創価学会名誉会長・池田大作の側近といわれる東京都議で、後に野中とともに自公連立の牽引車となる人物である。当時は新進党に合流していない旧公明党参院議員と地方議員を束ねる「公明」代表をつとめていた。
その藤井が山口組きっての武闘派として知られる後藤組(本拠・静岡県富士宮市)の組長・後藤忠政と密会している場面を隠し撮りしたビデオテープがあるというのである。(中略)
住専国会で新進党切り崩しの材料になった「密会ビデオ」。その存在が永田町の一部で密かに取りざたされるようになったのは、これより三ヵ月前の九五年一二月ごろのことである。
当時、自民党の組織広報本部長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井が「命を狙われている」という噂が流れた。まもなくその噂を裏付けるように亀井付きのSPが増員され、亀井の車はつねに警視庁の警備車両二台にはさまれて移動する騒ぎになった。村上正邦の元側近が語る。
「騒ぎの発端は、藤井さんと後藤組長の密会ビデオでした。亀井さんが入手したそのビデオのなかで、藤井さんは反学会活動をしている亀井さんら四人の名前を挙げ『この人たちはためにならない』という意味のことを言ったというんです。受け取りようでは後藤組長に四人への襲撃を依頼したという意味にもとれる。それで亀井さんと村上、警察関係者、弁護士、私も加わって対策会議が開かれたんです」
会議にはビデオの実物は出されなかったが、登場人物二人のやりとりを筆記した書面があった。その場の話ではビデオの映像はかなり画質が悪いうえに雑音が混じっていて声が聞き取りにくかったが、専門家に鑑定してもらった結果、登場人物は藤井と後藤にほぼ間違いないと分かったという〉
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