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from: 改革フォーラムさん

2009/09/22 10:17:30

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矢野手記、月刊文芸春秋8月号

元公明党委員長の告発手記創価学会が脅えた私の「極秘メモ」数々の事件の裏事情が記された手帳を彼らは持ち去った矢野絢也(元公明党委員長)私は今年の五月十二

元公明党委員長の告発手記

創価学会が脅えた私の「極秘メモ」

数々の事件の裏事情が記された手帳を彼らは持ち去った

矢野絢也(元公明党委員長)

 私は今年の五月十二日、五十年以上にわたり所属してきた創価学会、および同会の幹部七名を、東京地方裁判所に民事提訴した。
 政治評論家活動の中止の強要、『聖教新聞』など学会の機関紙での誹謗中傷、さらには威迫を伴った巨額の寄付金の強要等の一連の人権侵害行為について、損害賠償を求めて提訴したのである。
 また、公明党の議員時代から三十数年にわたって使用していた百冊近い手帳、資料を、創価学会に所属する元公明党議員三人が私の家から私の意に反して持ち去った事件についても、現在、東京高等裁判所で返還を求めて争っている。
 今回の提訴に先立ち、本年五月一日に私と家内、息子夫妻とその娘三人の家族七人は揃って創価学会を退会した。
 創価学会は、いまや政権与党の一角を担う公明党の支持団体である。公明党所属の国会議員(衆議院三十一人、参議院二十一人)、地方議員はほぼ百パーセント創価学会員で、同党は学会と公式・非公式な意見交換を密接に重ねており、学会の意向が時の政策や政局への対応に反映されることもしばしばある。公明党は創価学会の組織防衛に尽力し、利害を代弁している政党ではないか、との印象を持たれている。
 また、公明党と創価学会は、政界のキャスティングボートを事実上、二重に握っていると言える。与野党の議席数が拮抗する国会状況では、公明党の動向で政権が決まる。さらに小選挙区制の下、公明党候補者の出馬しない三百近い選挙区においては、創価学会は他党、特に自民党への選挙支援を推進し、学会票は候補者にとって当落に関わるほどの重みを持っている。学会は選挙支援を通して公明党の頭越しに直接、他党政治家ひいては政党、行政への影響力を強めてきたのである。
 かように巨大な存在である創価学会とその首脳たちが、私に人権侵害など様々な違法行為をこの三年間続けてきた。私のみならず、例えば私の前任の公明党委員長である竹入義勝氏も十年近く前から『聖教新聞』などにおいて、聞くに堪えない悪口雑言による個人攻撃を受けている。さらに脱会した元学会員への嫌がらせなども続いているという。
 同じような仕打ちを受けている人々が多いことにも鑑み、私は私怨よりもむしろ公憤を強く感じるようになった。私は長年、衆議院議員として、日本の平和と人権を擁護するために微力ながら尽くしてきた。日本の政治に多大な影響力を持つ創価学会の、このような 人権蹂躙、反社会的な行為を見逃すことは、私の責任放棄ではなかろうかと思った。
 もちろん、煩悶もあった。それをおして提訴するにいたった経緯は後に詳述するが、まずは私の信仰歴を少々、説明したい。

池田先生を守った日々

 私が創価学会に入信したのは昭和二十八年、京都大学の学生の頃だった。実家はもともと、大阪市内の大地主だったが、戦中、戦後の混乱期に戦災で焼かれるなどして家運は傾き、父親も信頼していた人に騙されて精神的に不安定になっていた。そんな折、私と母は大阪市内にお見えになっていた二代会長の戸田城聖先生にお目にかかる機会があった。
 戸田先生は、「学問は学問でしっかりやりなさい。その上で信仰もやりなさい。無理に二つをくっつける必要はない。学問も深め、信仰も深めていけば、おのずから自分の胸の中で融合するときが来るかもしれない」とおっしゃった。私はもっと迷信っぽい話を聞かされるかと思っていたのだが、この方は立派な指導者であると非常に感銘を受けた。
 その少し前、創価学会の大阪における総責任者だった白木義一郎氏の家にも行った。白木氏は東急フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)のピッチャーで、後に公明党の参議院議員になられた方である。白木氏も立派な方だったし、白木氏の家に出入りしていた若い人たちが、「おう、一緒にやろうよ」と気さくに声をかけてくれ、入会することにしたのである。
 その後、昭和三十一年に参議院選挙が行なわれ、白木氏も大阪選挙区から創価学会系無所属として立候補し、当選した。大阪は池田大作参謀室長の指導の下に戦い、私も一所懸命下働きに精を出した。昭和三十二年の参議院補欠選挙の際には大学を卒業して大林組に入社していたが、会社を何日も休んで、しかも会社の前で演説などをしたため、クビを言い渡された。むしろ「法難だ」ぐらいに、意気がって池田参謀室長に報告に行くと、「会社をクビになるような人間は学会もクビだ。社会と両立しないでどうする」と厳しく怒られ、会社に頭を下げてクビを取り消してもらったりもした。この頃から池田先生には特別に目をかけられてきた。
 学会内では青年部の幹部となり、池田先生の旅行のお供役もさせていただいた。そして昭和三十八年、当時は会長となっていた池田先生から大阪府議会議員選挙に出るよう勧められ、三十歳で府議に当選する。府議時代には関西男子部長、本部副青年部長、学会理事などを歴任した。
 そして、昭和四十二年、池田先生に衆院選に出るように命じられた。当選後には竹入氏が委員長で私は書記長に就任することが既に決められていた。
 三十四歳で初当選して以来、結局連続九期衆院議員を務めたことになる。書記長を約二十年務めた後、昭和六十一年十二月から平成元年五月までは、委員長に就いた。その後は、公明党常任顧問となり、平成五年に政界を引退した。思えば「無名の一青年」をここまで 引き立てて下さったのは池田名誉会長である。このご恩は深い。
 創価学会と公明党にとって最大の危機となった昭和四十五年の言論出版妨害事件では、国会で政教一致問題が追及され、池田先生の証人喚問要請もされたが、心血をそそいで防戦に尽力した。他にも国税庁による学会への二度の税務調査等、学会の意を受け、様々な間題を処理してきた。その間、あからさまに口外できないようなこともたくさん処理してきた。創価学会、池田先生を守らねばという使命感をもって活動してきたのだ。
 しかし、昨今の創価学会は私の知っていた学会とはかなり違ってきているように思う。昔は「ただで動くのは創価学会と地震だけだ」と言われたが、今は寄付集めが暴走しているようだ。また脱会者への嫌がらせ、機関紙などでの悪口雑言……、一口で言えば「やり過ぎ、行き過ぎ……、それも非常識で反社会的なこと」が目立つ。行き過ぎた創価学会を糾すことが、学会、特に学会員の皆さんに対する私の恩返しだという気持ちもある。このような形で訴訟を起こすことや、公の場で発言していくことが、日本の民主主義を守るために必要なことだと、今は確信している。

http://dakkai.org/yanoenglish.html

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from: 改革フォーラムさん

2009/09/22 10:19:41

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「Re:矢野手記、月刊文芸春秋8月号」
問題視された文春手記

 私がなぜ現在のような心境に至り、提訴に踏み切ったのか、その経緯を以下詳述していく。
 始まりは三年前の春だった。創価学会は平成十七年四月から突然、私に対して激しい攻撃を開始した。その契機はほかでもない、十五年前に『文藝春秋』に書いた手記が掲載から十二年も経って、唐突に問題視されたのだった。実は裏では、十年以上も前からトップの指示を受け、学会、公明党が連携して、矢野をターゲットにした攻撃計画が密かに用意されていたという話も最近聞いた。迂闊かもしれないが、ともあれ三年前に起こった私への難詰は「寝耳に水」だった。
 その手記は私が政界を引退した直後の平成五年から六年にかけて、『文藝春秋』誌上に七回にわたり、公明党議員時代の回想録を連載したものだった。連載初回のタイトルは「政界仕掛人極秘メモ全公開」というものだった。
 昭和五十九年の二階堂擁立劇、創政会発足から始まる連載は、議員時代に手帳に克明に記録していたメモを元に、竹下・金丸対田中・二階堂の権力闘争や衆参ダブル選挙による自民の大勝利、中曽根政権の終焉から「経世会」を母体にした竹下政権の誕生など、昭和の終わりまでの政界の様子を詳細に記した。
 この連載は文藝春秋読者賞をいただいた。連載終了後は『二重権力・闇の流れ――平成動乱を読む、政界仕掛人・矢野絢也回想録』として文藝春秋より単行本化された。
 この単行本の前書きに、同連載の執筆意図をこう記している。
 〈私がこの回想録で言いたかったことは、公明党から見たこの十年の日本の政治のメカニズムだ。特に権力抗争の裏面史であり、それと今の政治状況との関わり合いだ。今もこ の源流は生きている。
 それに、創価学会がさまざまの葛藤のなかで信仰と組織を守り、党を支えるため創価学会がどのような苦労をしてきたかを述べたかった。そして組織にとっても個人にとっても信仰の自由や、政治や政党の民主化、活性化は与えられるものではない。闘ってこそありうるのだということを言いたかった〉
 こうした思いがあったので、公明党と創価学会間の緊密な交渉の様子も記述した。宮本顕治元共産党議長に対する盗聴事件に有罪判決が下った際の学会の混乱も描いた。また公明党では大阪砂利運搬船汚職疑惑や、藤原行正都議、大橋敏雄衆院議員による池田名誉会長批判事件などトラブルが続出していた。ただ、それらの処理の記述は差し支えない範囲にとどめ、国税調査や、その他の学会の暗部については詳しくは書かなかった。これからは必要があれば、自制しないで発表しようかと思っている。
 なお、私は連載の初回に、以下のような文章を書いていた。
 〈やはり私たちはとかく政教一致というご批判をいただいているが、確かに状況をみてみると、そう言われても致し方ない面はある〉
 この部分に対しては、創価学会や公明党の先輩から「まずいんじゃないか」という趣旨の指摘をいただいた。政教一致という問題は、創価学会、公明党にとっては非常にデリケートな案件なのだ。
 その後の十二年間、私は政治評論家として活動していたが、学会との関係は表面的には平穏に推移していた。学会幹部の人々も、私が評論活動をしていることについてはある種黙認していた。「公平な立場で評論をしていればいい。信頼関係もあるのでいざという時は学会、公明党について国民に分かる形で解説してくれるだろう」と期待してくれる幹部もたくさんいた。池田先生も私の評論活動には理解を示してくださっていたと間接的ながらお聞きしていた。その間、私なりに気をつけて、創価学会に対する批判などはあえて口にしなかった。さらに学会員として、また公明党OBとして、選挙支援などの活動も行なっていた。盆暮れには毎年欠かさず、池田先生へのご挨拶を携えて学会本部に伺い、側近の方にお会いした。

青年部による〝査問会〟

 ところが、平成十七年の四月二十日に突然、創価学会の西口良三副会長(肩書は当時・以下同)と藤原武副会長に、学会施設である新宿区の戸田記念国際会館に呼び出されたのだ。彼らは『文藝春秋』の手記について、「学会青年部がカンカンになって怒っている」とか、「矢野を除名せよとの要求がでている」などと威嚇し、あげくあらかじめ用意した文案を示して謝罪文を書くように強く求めてきた。さらにその謝罪を『聖教新聞』で公表しなければ「青年部の怒りはおさまらない」と強調した。それらの発言は私を畏怖させるものであった。私はなぜ、十二年も経ってからあの手記が問題になるのか納得いかなかったが、 あまりにも執拗な要求であり、その時は学会と争うつもりもなかったので、彼らの言い分を呑んだ。
 するとこれを皮切りに、私に対する学会からの激しい攻撃が始まった。まず、四月二十八日付の『聖教新聞』に大きな活字でこう報じられた。
 〈公明党元委員長の矢野氏が謝罪「文藝春秋」(93、94年)掲載の手記をめぐって〝私の間違いでした〟〝当時は心理的におかしかった〟〉
 記事中では、私の記述によって、学会側がいかに大きな被害を受けたかが強調されていた。
 その頃、私は業務で妻とともに海外への旅行を計画していたが、四月二十五日に創価学会の秋谷栄之助会長から電話が入り、「この連休中にカサブランカへ行くということだが、都議選前だからやめて欲しい」と言われた。私はどうして旅行の情報を学会側が知っていたのか不思議に思いつつ、「海外知人とのアポイントがあるから」と、秋谷会長の申し出を断ると、「それなら旅行の日程表を提出するように」と言われ、日程表を学会側に提出した。
 四月二十八日から予定通り旅行に出かけたが、学会の長谷川重夫副会長から三十日に、当時オーストラリアのブリスベーンに住んでいた長男のところに電話が入り、その後も数回、執拗に私から連絡するように求めてきた。出張先から長谷川副会長に連絡を入れたところ、矢野への批判が激しくなっているので、早期に帰国するよう求められた。また、学会青年部が怒っているので青年部の首脳と面談することも求めてきた。
 実際、五月九日付の『聖教新聞』では、私が海外旅行に出かけたことを激しく非難し、森井昌義関西青年部長の発言として「我々は『口先だけ』なら絶対に許さない。本当に詫びる気持ちがあるなら、行動と結果で示してもらいたい、と重ねて言っておく」とあった。その頃から学会の会合では、私への個人攻撃が始まっていた。
 五月十四日の夜六時過ぎ、妻とともに成田空港に到着したところ、そこには十人くらいの若い男性が待ち受けており、さらに電車の乗り場までついてきた。
 私は自宅に戻らず、戸田記念国際会館に直行して、学会青年部との「面談」に応じた。この面談の直前に、長谷川副会長から「矢野さん、いま青年部は誰も抑えることができないんだ。激しいことを言われても怒らないでくれ」と警告されていた。
 面談はさながら査問会同然の吊るし上げだったといえる。私が現役時代はほとんど顔も見たことのない、私の息子ぐらいの年格好の青年部の首脳五名に取り囲まれ、机の上には赤い付箋がつけられた『文藝春秋』の連載記事のコピーが分厚く積まれていた。その記事の内容を一つずつ「ここはおかしいじゃないか」と逐条的に指摘して詰問し、さらに国会でそれを資料として自民党議員による学会攻撃が行なわれたことを強調してきた。つまり、私の仕掛けで学会批判が始まったのだと。
 今回の私の訴状では、森井関西青年部長は二回にわたって「土下座しろ」と迫り、谷川佳樹総東京長は「人命に関わるかもしれない」「息子さんは外国で立派な活動をしている。あなたは息子がどうなってもいいのか」という趣旨のことを言った、と記載している。

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