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from: 21世紀さん

2010/12/28 15:32:48

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メディア戦略(言論封殺)

中央公論「池田大作・茂木健一郎往復書簡」を嗤う----------------------------------------------------

中央公論「池田大作・茂木健一郎往復書簡」を嗤う

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―「タレント学者」が取るべき「池田大作」に対するスタンスとは―

(ジャーナリスト・古川利明<Forum21>H22.4.29)

【あの高級誌が「なんじゃい、これは」の企画】
 「毎月10日」というのは、『文藝春秋』に『中央公論』と、メジャーな総合月刊誌の発売日であるため、書店で平積みにされる「それ」を楽しみにしている人も多いだろう。
 ところが、である。『中央公論』4月号(3月10日発売)を手に取ると、表紙には大きな文字で、「池田大作×茂木健一郎 科学と宗教の対話」とあり、当該の箇所を覗くと、創価学会名誉会長である池田大作と、脳科学者の茂木健一郎との「往復書簡」という形で、双方が意見を述べ合うという企画が掲載されている。トータルで、じつに22頁にも達するもので、書簡は、この2年間にやりとりされたといい、最初の見開きの頁で、池田と茂木のそれぞれの顔写真が、いわば、「2ショット」で収められている。だから、この顔写真だけを見た読者の中には、この2人が、直接会って対談したものだと思いこんだ人もいるかもしれない。
 しかし、この手の企画、つまり、池田大作と各界著名人とのいわゆる「対談モノ」は、これまでは、「自分のところ」、つまり、『潮』であり、『第三文明』というのが専らであった。『中央公論』といえば、確かに、経営危機によって、99年に版元が、いわば、読売新聞社に“身売り”され、同グループの傘下に組み込まれてからは、その論調の保守化が指摘されてはいるものの、その看板ブランドは、岩波書店の『世界』と並ぶものが、かつてはあり、「中公への文壇デビュー」が、「言論人としての、一人前の証」と見做される時代があったのである。特に、アカデミズムに足場を置く「学者先生」にとっては、この『中央公論』に論文が何度も載ることで、「広く世に認められた」と評価されたものだったのである。
 そうした「高級総合雑誌」に、いきなり、池田大作が、何の前触れもなく、どアップの顔写真付きで登場したわけだから、「なんじゃい、これは?」と訝ったのも、恐らく、筆者だけではなかったのではないだろうか。


【疑われる編集部のセンス】
 今度の「池田・茂木対話企画」には、大きく言って、2つの問題点がある。
 まず、1つは、こうした企画を実行した編集部のセンスである。『中央公論』は、明治期に創刊され、特に、大正時代は、吉野作造の政治評論を精力的に掲載し、「大正デモクラシー」を下支えする役割を果たした。そうしたリベラルな歴史を持つ媒体が、「宗教者」の仮面を被りながらも、「創価学会・公明党」を完全にコントロールし、とりわけ、この「自公の10年」においては、個人情報保護法の制定に名誉毀損訴訟の賠償金高額化といった、数々の「言論封殺」を企んできた「張本人」である「池田大作」を、こうした「ヨイショ」の形で、取り上げてしまったことへの「恥ずかしさ」を、本来、心ある編集者であれば、感じなければならない。「非学会系の」、それも、由緒正しい歴史ある総合月刊誌が行ったことの意味と責任は、決して小さくはない。
 ただ、推測するに、この企画は、おそらく、現場レベルから出てきたものではないと思う。「池田大作」という、政治的には超重要人物を誌面に登場させるにあたっては、相当、高度な社内における意思決定があったとみるべきである。とりわけ、『中央公論』は、新社移行にあたって、読売新聞グループの傘下に入り、その影響を大きく受ける立場にある。
 そもそも同グループ本社の代表取締役会長の、「ナベツネ」こと渡辺恒雄が、一線の政治部長の頃から、学会サイドは既に目をつけ、取り込むべく、広報室の「ナベツネ担当」を自宅マンションに夜回りさせていた。その際には、果物などのプレゼントを贈る一方で、彼の言動も詳細に報告書をまとめ、ちゃんと、池田の元には提出されていた。そうした息の長い人脈形成からくる、「池田&ナベツネ」の、いわば、「ズブズブ関係」から、94年の時点で、当時の週刊読売で、「ビッグトーク 池田大作の『世界と対話』」の連載を行い、その後、読売新聞社から『私の世界交遊録』のタイトルで単行本化された過去もある。それゆえ、今度の『中央公論』の対話企画をテコに、例えばデフレ不況が続く昨今、「読売新聞本体」における、信濃町サイドからの「広告出稿を、何卒、よろしく」とのメッセージが込められていたのではないか、とみるのは、筆者の勘ぐり過ぎだろうか。


【「タレント学者」の立ち位置に節度と責任を】
 もう1つの問題点は、対話相手でもあった脳科学者・茂木の「立ち位置」である。彼は、いわば、「気鋭のアカデミシャン」として、実にわかりやすい形で「脳」をテーマとした書物を多数、刊行する傍ら、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」のキャスターをはじめ、他のテレビ番組でもコメンテーターを務めるなど、「言論人」としても広くその名を世間に知られている。こういう立場にある人物とは、その発するメッセージが社会的に大きな影響を与えるため、自ずと、その立ち振る舞いにも、「節度と責任」が求められるのは、言うまでもない。
 ところが、その茂木には、昨年11月、06年から3年間、著書の印税や講演料、テレビの出演料など約4億円の所得を申告していなかったことが、明るみになっている。この事実を、特ダネの形で報じた11月10日付読売朝刊で、「多忙で、申告する暇がなかった」との茂木本人の弁明に、記者が「税理士を頼もうと思わなかったのか」と畳み掛けると、こう答えていた。「知り合いの税理士がいなかったし、(税理士に頼む)暇もなかった。そろそろやらないとまずいな、と思っていたら、(地元の税務署ではなく)国税局が来た。今後は雇うつもり」。
 もともと、茂木はソニーコンピュータサイエンス研究所の上席研究員として、年間約1千万円の給与所得があり、この時点で銀行には数億円の預金があったという。この記事だけで、彼のキャラクターを一方的に決め付けるわけにはいかないとは思うが、少なくとも、「カネにはルーズである」との傾向は窺える。
 この報道は、茂木にとっては、大きなダメージになったようにも見えるが、それが池田大作との書簡交流を深める契機になったかどうかは知る由もない。しかし、時間軸としては、『中央公論』に、茂木が池田と2ショットで登場するのは、このちょうど4ヶ月後である。で、その往復書簡の内容自体は、はっきり言って、中身には極めて乏しい。「科学と宗教、その間の壁は破れるのか」との、勇ましいタイトルとは裏腹に、一言でいえば、茂木の「宗教の役割とは、何でしょうか?」との問いかけに、池田が、また、いつものように、法華経やトインビーを引っ張り出してきて、「それは、対話の精神であって、脳科学とも共鳴します」と、今回は導き出しているにすぎない。文面を注意深く読み込んでいくと、悩み惑っている茂木が、池田に教えを請うているようにも受け取れるのだ。
 筆者は、こうした茂木のような「タレント学者」の存在を否定するものではない。むしろ、その「知名度」すら利用して、アカデミズムの最終目的である、「真実の追求」を究めてもらいたいのである。ちなみに、こうした「タレント学者」の登場は、「テレビの出現」と軌を一にしている。じつを言うと、その第1号ともいえるのは、明治大学教授の藤原弘達だった。彼は、本業である政治評論活動を行う傍らで、朝、昼のワイドショーに出演したり、クイズ番組のレギュラー解答者にもなった。しかし、藤原は、その「タレント教授」というポジションに飽き足らずに、そのマスコミ露出で勝ち取った「知名度」を武器に、「こうした勢力をのさばらせておくことは、やがて言論の自由の崩壊、ファシズムの許容を意味する」と、腹を括る形で、1969年に、日新報道から『創価学会を斬る』を刊行したのである。
 その意味では、茂木も、ぜひ、藤原のような先達を見習って、ジャンルは違っても、学問の最終目標である「真実の探究」に向け、さらに骨を折って欲しいと、祈ってやまない。(文中・敬称略)

古川利明(ふるかわ・としあき)1965年生まれ。毎日新聞、東京新聞(中日新聞東京本社)記者を経て、フリージャーナリスト。著書に『システムとしての創価学会=公明党』『シンジケートとしての創価学会=公明党』『カルトとしての創価学会=池田大作』『デジタル・ヘル サイバー化監視社会の闇』『日本の裏金(上、下)』(いずれも第三書館刊)など。

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from: 21世紀さん

2011/02/07 13:36:59

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「Re:メディア戦略(言論封殺)」
「言論出版妨害事件」の概要(『フォーラム21』ほか)

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<S44.8末>
・藤原弘達氏(※明治大学法学部教授)が「この日本をどうする」という警世キャンペーンシリーズの第1巻として、『日本教育改造法案』を出版。その車内吊り広告の脇に、次回作『創価学会を斬(き)る』の出版を予告。(『慧妙』H15.7.16)
・これに対して創価学会・公明党は、池田大作会長(当時)の指示のもと、『創価学会を斬る』の出版妨害に着手。


<出版妨害>
●(※昭和)44年8月末、朝早く北条さんから自宅へ電話をもらい、私は学会本部で池田から1つの仕事を命じられた。(中略)(北条・秋谷同席で、池田大作は)「政治評論家の藤原弘達が学会批判の本を出そうとしている。選挙前にこんな本が出るのは邪魔だ」「藤原君は、彼と面識があっただろう。すぐに相手と話をつけて、余計な雑音を押さえろ」池田はいつもこの調子だった(藤原行正=元創価学会渉外局長『池田大作の素顔』H1.4発行112頁/『フォーラム21』H15.7.1)

・S44.8.31 池田の命を受けた藤原行正氏は、、著者の藤原弘達氏宅を訪ねるも、交渉は不調に終わる。(『慧妙』H15.7.16)
・9.4 藤原行正氏は、出版社である日新報道に出版中止を掛け合うが、これも不調。(同上)
・9.14 今度は秋谷栄之助と藤原行正氏が藤原弘達氏と面談。1時間45分に及び交渉するが、やはり不調に終わる(この時の会談の内容は藤原弘達氏によって録音され、後に公表されることとなる)。(同上)

●創価学会批判の本が出るというので、私が田中さんに頼んで仲介に動いてもらった(竹入義勝=元公明党委員長『朝日新聞』H10.8.26/『慧妙』H15.7.16)
・10.6 田中角栄はまず、藤原弘達氏に架電。(同上)
・10.15 田中角栄、赤坂の料亭に藤原弘達氏を呼び出し交渉。この時、隣の部屋で、交渉の行方に聞き耳を立てている池田大作と竹入氏の姿を、料亭の仲居が目撃。後に『サンケイ新聞』がその事実をスッパ抜く。(同上)
・10.23 田中角栄が再度、藤原弘達氏と面談するが、結局すべて不調に終わる。(同上)

●昭和44年から46年にかけて藤原弘達氏が創価学会批判を繰り返した時には、私と竹入とで田中氏に調停を頼みにいった。田中氏は「よっしゃ」と快く引き受け、赤坂の料亭に藤原氏を呼び、仲介の労をとった。結果は破談だった。我々は隣室に控えて待っていたのである。(矢野絢也=公明党元委員長『矢野回想録』29頁/『前衛』H15.7)
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田中は赤坂の「愛用の料亭」・「千代新」に『創価学会を斬る』の著者・藤原弘達明治大学教授を呼びだし、「初版分は全部買い取ろう」と持ちかけた。しかし、藤原は出版の意思を変えなかった。このとき隣の部屋で、公明党の竹入委員長と矢野書記長が息を殺して事態の推移を見守っていたことを、藤原教授は気づいていたのだろうか。なお、田中が藤原に会ったのは「池田の依頼」であり、このときの「2人のやりとりを池田は仕切り越しにじっと聞いていた」(野田峯雄『池田大作金脈の研究』)という説もある。もし、それが本当なら、池田は竹入や矢野とは別に、田中・藤原会談の様子をうかがっていたということになる。(『前衛』H15.7)

●田中氏の仲介も不調に終わると、池田大作は潮出版社や聖教新聞社の社員を動員して書店を回らせ、『創価学会を斬る』を店頭に並べないよう、圧力をかけて回りました。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.4.1)
●私は、業務命令で書店に行かされました。
 たしか全員で19名だったと思います。本が店頭に並ぶ少し前に、各部門から選抜されたメンバーが急遽、集められました。聖教新聞社の広告局、業務局(新聞販売部門)、出版局(書籍販売部門)、潮出版社からも来ていました。場所は聖教旧館の隣にあった業務局が入っていた建物の2階仏間で、私は出版局からの選抜です。責任者は出版総局長だった横松昭、出版局次長だった青柳清が現場の指揮をとっていました。
 そこで聞かされたのは、こんな話です。「藤原弘達が『創価学会を斬る』という本を出す。創価学会を批判するとんでもない本だ。書店を回ってそれを押さえろ」。書店での口上も指示されました。「この本を、ここにある棚から中にしまってください。そうしてもらえなければ、『人間革命』などの扱いをしません」。『人間革命』は書店にとって売れ筋の本でしたから、十分圧力になると考えたのでしょう。そして最終的には、「創価学会を敵に回すのか」と。そこまで圧力をかけろといわれたんです。
 青柳のもとで書店を地域別に分けて担当する区を決め、行動開始です。青柳が北條さん(浩・後に第4代会長、故人)から「お前が中心でやれ」と命令されたと聞きました。期間は1ヵ月前後だったと記憶しています。(岩崎文彦・昭和43年聖教新聞入社。聖教新聞社出版局、広告局、業務局等を経て、同55年退職。男子部総合ブロック長、壮年部では支部幹部等を務める。/『フォーラム21』H15.7.1)

・同時期、池田大作は、後にリクルート事件で有名になる池田克也(当時は潮出版社勤務)に命じ、大手書籍取次店や大手書店に圧力をかけさせる。(『慧妙』H15.7.16)

・創価学会に批判的な報道に抗議することを主たる任務とする全国各地の言論部員に、藤原弘達氏と日新報道に対して激しい抗議を行わせたため、藤原弘達氏の自宅や日新報道には、「ぶっ殺すぞ」とか「地獄に堕ちる」といった脅迫まがいの電話や手紙が、連日、殺到。抗議の葉書や手紙の量は段ボール箱数箱分にのぼるまでになった。
●それはひどいものでした。(※抗議の葉書、手紙が)やはり段ボール箱で何箱にものぼったんじゃないでしょうか。電話での脅迫もひどいものでしたので、警察がそれとなく藤原弘達氏のお子さんなど家族の警備をしたほどでした。ですから藤原弘達氏は身の安全を図るため、都内のホテルを転々として『創価学会を斬る』の執筆を続け、私たちも移動しながら編集作業を続ける有り様でした。なお、この抗議電話や葉書は出版後もますますエスカレートし、内容もひどいものでした。(遠藤留治=日新報道代表取締役『フォーラム21』H15.7.1)


<S44.11上旬>
・『この日本をどうする2 創価学会を斬る』(日新報道出版部刊)出版
第1部、実態―これが創価学会の正体だ
第2部、分析―その病理を衝く
第3部、展望―その危険なる未来
●日本の政党政治、民主主義の前途を考えた場合、なんらかの意味においてこの創価学会・公明党という存在に対する対決を回避しては、日本の議会政治、民主政治はとうてい健全に育たないという強い確信をもったからにほかならない(同書「まえがき」から)
・この本の「まえがき」で藤原氏は、出版にあたって創価学会・公明党から妨害を受けていたことを明らかにした。一部週刊誌も、この「まえがき」を取り上げた。(『前衛』H15.11)

<S44.12.13>
・NHKで放映した総選挙特集番組「2党間討論(公明党-共産党)」で、共産党の松本善明氏が、「創価学会を斬る等の出版物に、創価学会・公明党が出版に圧力、妨害をくわえている」と、発言。受けて、公明党の正木良明氏が、「そんなことはしていない。すべてウソである」と、反論。

<S44.12.17>
・これに怒った藤原氏は、『赤旗』で、田中角栄自民党幹事長が公明党の竹入委員長の依頼で、この本を世に出さないためにさまざまな働きかけをしていたことを暴露。創価学会が組織的に印刷、広告、取次店から小売店まで、圧力をかけたことも明らかになった。


<明らかにされた過去の「言論弾圧」>
・ロシア文学者の草鹿外吉氏ら5氏のよびかけで、12月23日に「言論・出版の自由にかんする懇談会」がひらかれた。この「懇談会」によって、いくつかの具体的事例が明らかになった。

―内藤国夫著『公明党の素顔』(エール出版社)の場合―
67年1月ごろから、三一書房からの執筆依頼で、都庁担当新聞記者として取材してきた都議会公明党の素顔を書きはじめたという。これが創価学会・公明党の知るところとなり、出版社に圧力がかかり、出版計画は中止となる。内藤氏は出版社を変更し、極秘裏に出版準備をつづけたが、印刷工程でゲラが創価学会にわたった(業務上横領の疑い)ようで、公明党の竹入委員長が30数箇所の書き換えや削除を要求してきた。さらに、国際勝共連合の背後にいた右翼の頭目の笹川良一が内藤氏に「わしは公明党に前に1度恩を受けている。本はおれが全部買いたい」といってきたことも明らかにされた。この本は69年5月に出版されたが、大手取次店は配本を拒否し、小売店に宣伝して注文をとるという方法で、わずかに世に出された。(『前衛』H15.11)

―元創価学会員・植村左内著『これが創価学会だ』の場合―
まだ本が出ないうちに、池田会長と竹入委員長が出版社を相手どり、図書発行等禁止仮処分申請をおこなった。東京地裁が、まだ本ができていないことを理由に申請を却下すると、今度は名誉毀損として告訴。この本も取次店が扱いを拒否した。68年12月には、出版社と創価学会・公明党の間に示談が成立し、出版社は著者に無断で印刷過程のすべてを創価学会・公明党にわたしてしまった。出版社への圧力には、福田赳夫、賀屋興宣という自民党中枢が関与し、宗教センター理事長で日本大学会頭の古田重二良氏が示談をまとめたという。庭野日敬立正佼成会会長(当時)によれば、古田氏は、立正佼成会に買い取られて配られた本を信者から取りもどし、日大校庭で焼いてしまったそうである。植村氏は、現代の"焚書"や創価学会からのいやがらせにあいながらも、別の出版社から出版にこぎつけた。(『前衛』H15.11)

―福島泰照著『創価学会・公明党の解明』の場合―
創価学会からの妨害を予想して、秘密裏に出版作業をおこなった。しかし、本ができあがるころから、大手取次店や広告代理店の扱い拒否という事態に直面し、出版が大幅に遅れた。(『前衛』H15.11)

―隈田洋著『創価学会・公明党の破滅』の場合―
・秘密裏に出版作業がすすめられたが、印刷段階で、印刷業界の幹部から印刷中止を迫られた。印刷所にはいやがらせがつづき、当時の劔木亨弘文相からも中止の圧力がかかったと、著者に伝えられる。この本の場合も古田日大会頭(※日本大学の古田重治郎会頭)からゲラの検閲を迫られた。出版社社長には暴力団員がつきまとい、ついに出版中止となった。(『前衛』H15.11)
・隈部大蔵氏は、西日本新聞社の論説委員をしていたころ、「隅田洋」と名乗り『創価学会・公明党の破滅』という学会批判本を執筆した。すると、昭和43年9月11日、隈部氏は、当時公明党の副委員長であった北條浩に呼び出され、以下のように恫喝(どうかつ)された。(『慧妙』H15.7.16)
●隅田洋著『創価学会・公明党の破滅』という学会批判書の著者である隅田洋を、今日まで半年がかりで探した結果、やっと探し出した。この隅田洋なる者が、ここにいる隈部大蔵その者だ。人違いであるとは、絶対に言わせない。まさか、大きな新聞社の経済社説を担当している論説委員が、学会教義の批判書を書くなどとは想像もしなかった。そんな関係で、隅田洋=隈部大蔵を捜し出すのに予想外に時間がかかってしまったが。
 しかしだ。いくらペンネームを用いて学会を批判しようとしても、全国的に張りめぐらされている学会の情報網にひっかからない「虫ケラ」はいないのだ。わかったか。
 よく聞いたがよい。たとえていえば、創価学会は「象」それも巨象だ。これにくらべてお前は1匹の「蟻」だ。創価学会を批判する輩に対しては、たとえ1匹の蟻といえども象は全力をもって踏みつぶすのだ(北條浩=総務『もうダメだ!池田大作・創価学会』/『フォーラム21』H16.4.15)
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この後、北條総務・副委員長に恫喝された『創価学会・公明党の破滅』は、結局1冊も書店に置かれず「初版即絶版」となった(『フォーラム21』H16.4.15)
●これではまるで、ソビエトで地下出版を出すようなものであろう。私自身、この記事には少々驚き「まてよ、作影(注=池田大作氏の影響の意)はやはり噂だけではなく事実かな」と思わざるを得なかった。というのは、西日本新聞といえばブロック紙の名門、論説委員といえばその最高の地位ぐらいのことはだれでも知っている。しかしその人ですら「極秘」のうちに出版を進める必要があり、見つかればつぶされてしまう。しかもそれに文部大臣が一役買っているのである。文部大臣が自ら言論弾圧に乗り出すとは少々恐れ入った話だが、「作影」が「○影」に波動して文部大臣を動かして論説委員の著書までつぶす、となるとただごとではない(評論家・山本七平著「池田大作氏への公開質問状」『諸君』昭和56年6月号/『フォーラム21』H16.4.15)

―竹中信常著『創価学会』の場合―
著者に創価学会の山崎尚見現副理事長からの電話があった後、ゲラ刷り検閲がおこなわれ、名誉毀損で告訴することもあるとおどされた。

―梶山季之著『小説・創価学会』(女性雑誌に連載)の場合―
梶山氏に抗議の投書が殺到し、雑誌編集長はいやがらせをうけて蒸発するという事態になり、連載を途中でうちきったという。(『前衛』H15.11)

・この他にも、『日蓮正宗創価学会・公明党の破滅』『公明党を折伏しよう』等創価学会に気に入らないとみなされた印刷物の著者や出版関係者がいやがらせをうけ、出版が妨害された事例が次つぎと明らかになった。


<S45>
1.5
・公明党の竹入委員長が記者会見で「事実無根の中傷」と開き直った。
●このことについて竹入氏は「放っておいたほうが良いと進言したが、学会側が工作に動き出し、やむを得ず田中氏に頼んだ。あの記者会見も学会幹部からの強い要請でせざるを得なかった」と周辺に語っている。(『朝日新聞』H10.9.18/『前衛』H15.7)

1.8
・社会党の江田三郎書記長が国会でとりあげることを表明

1.10
・民社党の佐々木良作書記長が国会でとりあげることを表明

1.11
・TBSテレビで放映されていた対談番組「時事放談」で、政治評論家の細川隆元氏が「公明党はナチスに通ずる、今度はこの席に関係者を呼んで問いただす」と発言し、細川氏と小汀利得氏の対談の席に池田大作を迎える特別企画が組まれた。しかし、池田側は、体調不良で多忙という奇妙な理由で出席を拒否した。

1.25
・『朝日新聞』投書欄が、「言論・出版の自由をめぐって」の特集を組む。特集は「『赤旗』が連日キャンペーン記事をのせたため、一般の新聞報道が立ちおくれたため」とことわって、「市民に強い危機意識"出版妨害"の真相求める声」として5投書が紹介され、公明党の「反論は遠慮する」とのコメントまで掲載。

2.2
・マスコミ関連産業労働組合共闘会議(9万7千人)が総評はじめ各労組に呼びかけ、「出版妨害の真相を聞く会」を開催し、21労組が結集
・言論・出版の自由に関する仏教徒懇談会が結成され、各宗各派120人の仏教徒を前に全日本仏教会や東京仏教連合会の代表があいさつ

2.3
・「公明党・創価学会の妨害に反対する、言論・出版の自由にかんする大集会」には3千人が集まった。全国各地でも、言論・出版の自由を守る懇談会が結成された。

2.18〜
・特別国会では、社会・民社・共産の各党が、竹入委員長、田中幹事長、池田大作の国会喚問を要求したのをはじめ、基本的人権の1つである言論の自由を侵した創価学会・公明党の危険な体質や、当時、国立戒壇の建立を掲げていた創価学会・公明党の政教一致問題等について厳しい追及を加えたのだった。


<自民党にすがって弾圧回避>
●池田会長は自らの国会喚問を阻止するために衆参両院の公明党国会議員を総動員し、赤坂2丁目のクラブ「石丸」などを拠点に、各党の理事を接待責めにして懐柔する工作をおこなった。さらに、池田会長は佐藤(※栄作首相)にも連絡を取っていた。70年1月30日の『佐藤日記』には、岩佐富士銀行頭取を通じて「藤原弘達問題には干与しな[い]様に」という池田からの伝言が記され、佐藤は「同感」と岩佐に伝えている(『佐藤日記(4)』31頁)。野党などから出された池田喚問要求について佐藤はのらりくらりと対応し、結局これをうやむやにしてしまう。池田の伝言どおり、「干与しない」ように行動したのである。(『前衛』H15.7)

●69年末に表面化した言論出版妨害問題のときは、佐藤栄作首相と自民党幹事長をしていた田中さんには、助けられ、感謝している。終生忘れない。国会では罵詈雑言を浴びせられ、ほかにだれも助けてくれる人はいなかった。
 創価学会批判の本が出るというので、私が田中さんに頼んで仲介に動いてもらったのだが、田中さんは追及されると、「竹入に頼まれたのではない。幹事長だから勝手におせっかいをやいているだけだ」と釈明していた。これには感激した。家の周りは、新聞記者に囲まれて出られない。電話で連絡を取った。
 「ここも新聞記者でいっぱいで出られないぞ」
 「すまんなあ」
 「いいよ、幹事長やめりゃあいいんだから」
 「それじゃあ、こっちも委員長やめなくっちゃあ」
 「いやあ、まあまあ、成り行きだ。こんな泥沼、いつでもあるんだから」
 こんなやりとりをしたのを思い出す。
 佐藤さんは、関係者の証人喚問要求に、のらりくらりと時間かせぎをしてくれた。国会の委員会採決も先送りしてくれるなどいろいろ配慮してくれた。(竹入義勝=公明党元委員長「竹入秘話」『朝日新聞』H10.8.26/『前衛』H15.7)

●当時、池田大作氏は「田中さんのためなら公明党をつぶしてもいい」とまで言ったそうだ。田中は年1回の公明党の青年研修会で講演して帰ってくると、私に池田氏がああ言ったとかこう言ったとか、全て話してくれた(佐藤昭子=田中秘書『私の田中角栄日記』75頁/『前衛』H15.7)
-----------------------
この言論出版妨害事件を契機に、田中と竹入の間は一段と深まった。(『前衛』H15.7)


<S45.5.3>
◆……今回の問題は、あまりにも配慮が足りなかったと思う。また、名誉を守るためとはいえ、これまで批判に対してあまりにも神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さをかき、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。……今後は2度と、同じ徹を踏んではならぬと、猛省したいのであります。……言論の自由が、

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