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反創価学会

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from: 21世紀さん

2011/05/09 00:29:39

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変節する言動

歴史の改竄(かいざん)----------------------------------------------------------------

歴史の改竄(かいざん)

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 歴史を都合よく改竄(かいざん)する。これはいつの時代にあっても、独裁者が使う手口であり、近くは、お隣りの国の将軍様が、そのよい見本とも言えるが、やはり改竄といえば、あの男と比肩できる者は、まずいないだろう。
 宗教指導者を気取りながら、宗教の生命線でもある教義の改変から自分史の美化に至るまで、あらゆる嘘(うそ)と法螺(ほら)で塗り固めて、全く恥じることがない。そればかりか、自ら述べた言葉を180度変えるのも平気の平左。そう、似非(えせ)宗教家・池田大作である。(『慧妙』H17.3.16)


【言論問題】
◆……今回の問題は、あまりにも配慮が足りなかったと思う。また、名誉を守るためとはいえ、これまで批判に対してあまりにも神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さをかき、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。……今後は2度と、同じ徹を踏んではならぬと、猛省したいのであります。……言論の自由が、幾多、先人の流血の戦いによって勝ち取られたものであり、……これを侵すことは民衆の権利への侵害であることを明確に再確認し、言論の自由を守り抜くことを私どもの総意として確認したいと思いますがいかがでしょうか(大拍手)(池田大作S45.5.3第33回本部総会/『フォーラム21』H14.12.15)


変↓節

◆(言論問題について)許せなかったのは、学会婦人部に対し、口を極めて侮辱したことだ。この点に怒ったのだ。政治評論家として名を売っている人が、真剣に宗教を持っている人にそこまで誹謗するのは許せなかった。……侮辱の作り話などに反発し、怒るのは当然だろう(池田大作『産経新聞』H13.9.19/『フォーラム21』H14.12.15)
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「婦人部に対し、口を極めて侮辱」などと言っているが、事実とは異なる。

◆悪質な人権侵害を繰り返す『週刊新潮』等のデマ雑誌には、声を大にして「買うな」と叫ぶことが正しい非暴力闘争だ。まさにデマ雑誌こそ、社会の根本を狂わせる一凶だ。ゆえに皆で「買うな!」「読むな!」「店に置くな!」「広告を出させるな!」と、猛然たる世論を興隆させるべきだ。(「破邪顕正」『聖教新聞』H15.5.31/『フォーラム21』H15.6.15)
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ここには、言論の自由に対する配慮は微塵もない。たとえ自らにとって耳の痛い批判的言論であってもこれを認めるのが言論の自由である。自らに批判的な言論の存在を許さないというファッショ的体質が滲み出ている。



【小樽問答】
◆日達上人が、この小樽問答に臨(のぞ)まれておられたのである。しかも質問者のひとりとして学会と一体となり闘魂あふれるお姿で身延側講師を徹底的に追及されたのであった。私は学会側司会者として、その時、指名させていただいたのであるが、まことに勇気百倍の思いであり、永遠に忘れえぬ感激の一瞬であったことを申さずにはいられない(池田大作/『慧妙』H17.3.16)


変↓節

◆学会は戸田会長以下、法論に全魂、宗門は法論から逃げ回る(「歴史的な『小樽問答』の『その日その時』」『聖教新聞』H17.2.23取意/『慧妙』H17.3.16)
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「闘魂あふれるお姿で身延側講師を徹底的に追及された」日達上人のお姿に、「勇気百倍の思い」となり無事に司会を務めることのできた池田大作。そのありがたさは、「永遠に忘れえぬ感激の一瞬」であったハズだが、そうした真実も、全く別ものに変えられてしまう。これを世の中では、「改竄」と言うのである。また「感激の一瞬」を平気で誹謗の材料に変えてしまう―このような者を"恩知らず"というのだ。

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from: 21世紀さん

2011/05/13 20:25:23

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「Re:変節する言動」
【勤行】
◆もしも、東大病院で、朝の6時から7時までのあいだにきて、1時間、注射をすれば、かならず金持ちになるという薬が発明されたとしたならば、みんな朝早く起きて行くだろう。そしてもう、1時間でも2時間でも待って、注射してもらうだろう。そして、1年間やったら何十万でき、2年間やったら何百万、3年間やったら何百万、それがほんとうだという医者がいたら門前市をなすだろうと、私は思うのです。どうだい、君らも行くだろう。
 それを、東大病院に行かないで、自分の家ですわっていて、朝たった30分間のお勤めですむのです。汽車賃も、電車賃もいらないのです。いるのは、ロウソクと線香だけです。ずいぶん安い原料ではないか。資本としてはいちばん安いほうです。それを、モゴモゴいってやらない人は、バカだというのです。私がいうように、朝五座、晩三座の信心をきちんとして、断じて御本尊様を疑わないで、信心して。ごらんなさい。疑ったらだめです。(S30.8.13 新潟市公会堂『戸田城聖全集』第4巻330頁)

◆剣道の道場に弟子入りしたとします。朝100回夜50回、毎日かかさず棒を振れば上達すると教えられますが、朝は掃除、ぞうきんがけ、その他の雑用があって、朝は30、夜はまた用事があるので10ぺんぐらいしか振れない、それで上達するでしょうか、といっているのと同じようなものであります。たとえ15分でも、真剣勝負の気でやれば功徳はでます。あなたのようにほんとうに仕事が忙しかったら、仕事の合間をみて、また電車の中にいても勤行し、お題目を唱えなさい。これは読誦のうちの誦にあたり、同じであります。そのようにして真剣にやっていれば、朝の30分早く起きて勤行を完全にやろうとすれば、じきにそうなると思いますがどうですか。それをよいことに、怠(なまけ)けているようでは功徳はありません。(『戸田城聖全集』第2巻86頁)
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学会が「五座三座」を廃止した理由は"御書には記述がない"からだそうである。しかし、御書には"1回読めばよい"という記述もない。戸田会長は常々"教学は日寛上人の時代に帰れ"と指導していたが、「五座三座」は日寛上人の御指南でもある。

◆日蓮正宗においては、また学会の指導は、五座三座というが、自分は三座二座でいいではないか、などというのは懈怠(けたい)です(池田大作『会長講演集』第6巻219頁/『慧妙』H20.9.16)


変↓節

◆この本格的な世界広宣流布の時代の到来という「時」のうえから、方便品・自我偈による勤行について、正式な制定を要望する声が強く寄せられてきました。
 そこで、このほど、師範会議、総務会で慎重(しんちょう)に審議したうえ、「方便品・自我偈の読誦と唱題」による勤行を創価学会の正式な勤行として制定することになりました。(秋谷栄之助会長『聖教新聞』H16.9.10)

◆もともと日蓮大聖人の御書には「五座三座」という仰せは、ありません。御書には「自我偈少々」等とあります。五座三座というのは、大聖人の時代には、なかった。後世に僧侶の修行として行なわれるようになったものです(青木理事長『聖教新聞』H16.9.24)





【折伏】
◆さて、現在の日本の宗教をみるに、幾多の宗教がある。あるものは営業的であり、あるものは伝統の惰性に生き、あるものはこけおどしの祈祷(きとう)をおこなう等、どれひとつとして個人を幸福にし、安定させ、強き生命力を与えるものはない。
 しかして、かれらの布教にあたっては、自己の宗教に確信なきがゆえに、たがいに他の宗教を是認しあい、妥協している。
 もし念仏宗が、真言宗を認めるならば、念仏を広める必要はない、真言宗にまかせておけばよい。正しい宗教、最高の哲学というものは、1つしかないはずです。他宗で民衆が幸福になると考えるならば、自己の宗教を否定することもおこるではないか。どれもこれもが民衆を幸福にするとするならば、宗教に差別がいらないはずである。差別の世界におりながら、その差別をつきつめてみようとしないのは、卑怯(ひきょう)ものの宗教、あるいは怠惰な宗教といわなければならない。ゆえに、「かれらは妥協のうえに自己の宗教の繁栄をはからんとするものである」と断ずるのである。
 しかるに、わが日蓮正宗はそうあってはならぬと、日蓮大聖人様の命を奉ずるものである。
そのなかでも、われら学会員は、絶対に、忠実に、日蓮大聖人様の命令を遵守するものである。
 ゆえに、702年前、日蓮大聖人様が、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」とおおせられて、当時の宗教を否定し、邪宗邪義をうったごとく、われわれもいっさいの邪宗邪義をうって、妙法一途の日本となし、天下泰平(たいへい)の御代を建設せんとするものである。それはなにゆえか。妙法蓮華経でなければ、末法の衆生は救えないからである。
 そこでいま、われわれは広宣流布するにあたって、1人として味方はない。あらゆる宗教を敵として、邪宗邪義を撲滅しなければならぬことはいうまでもない。
 諸君!われらの前途が多難であることは、火を見るよりも明らかである。されば諸君は、御本尊様を信仰し、学会精神を愛し、しかして若き青年の力を養えよ。
 吾人は、前途多難に対して奮起を望むものである。(S29.10.31総本山大石寺『戸田城聖全集』第4巻218頁〜)

◆いま、現に民衆を不幸にしているあらゆる邪宗邪義、すなわち立正交成会(ママ)や仏立宗、念仏、真言、禅等の邪宗は、断じて許すことはできない。「あれもよいでしよう。これもよいでしょう」などとは、学会はいってはいない。断固として、世界の宗教界を相手にまわして戦っていく孤立無援の教団が学会であります。(S29.10.29東京・豊島公会堂『戸田城聖全集』第4巻216頁)


変↓節

◆SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して(中略)対話し、その解決のために協力していく(SGI第20回総会・H7.10.17※<SOKAnet>WSによれば「H7.11.13」/『大白法』H15.10.16)

◆創価学会の機関誌『大白蓮華』は3月号で、池田大作名誉会長と斎藤克司教学部長の対談を掲載し、「四箇格言」の読み直しを提唱している。 今回の対談では、各宗の態度が日蓮の時代と違うことを強調する。 池田氏は「当時の念仏宗は権力と結託し、独善的で排他的だった」としながらも、浄土教を「どんな疲れ病む衆生をも仏界の生命力で包み、絶対の安心感を与える」とする。「自力のみによる悟りの獲得と安住を説く」という「天魔」の禅は「自分の中に自分を変革する力のあることを信じ、それを実感していける」とされた。「呪術による現世利益を説く護国宗教」の「亡国真言」も「現実の変革に勇気をもって邁進していける」存在となった。(『朝日新聞』夕刊H14.8.1・2版)

◆日蓮か激しく他宗派を非難した背景には、新興教団を当時の有力教団が迫害した歴史的背景もある。斎藤氏は経緯をこう説明した。「創価学会にも、似たような事情から他宗派を反撃した過去がある。しかし、今後は攻撃されないかぎりは協調していきたい。そのために組織内の意識改革を狙った試論です。時代の変化を無視して今の世に「四箇格言」をそのままにしておくことは、かえってこちらが独善的と批判されかねませんから(『朝日新聞』夕刊H14.8.1・2版)
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大聖人の時代にも「独善的」という批判はあった。それでも大聖人は敢えて「四箇の格言」をもって折伏をされたのである。「攻撃されないかぎりは協調」これこそ、池田学会の対外的行動規範である。学会(就中、池田大作)を攻撃するかどうかが正邪の分岐点であり、邪悪=学会(池田)を批判する者は徹底的に瞋恚の命をもって攻撃するのである!

◆『聖教』(H15.6.19)が、今度はイスラム教とも「仲良し」になったことを大々的に報じている。1面には「仏教とイスラムの対話」の大見出しが踊り、「寛容」「多様性の尊重」などが「両宗教」の「共通点」であるから、両宗教が「協調すべき」なのだという。(『慧妙』H15.7.1編集)
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海外は摂受、という側面もあるが、基本は末法=折伏である。末法の衆生は例外なく"本未有善"であり過去に善根がない、だから三大秘法の下種仏法でなければ成仏できないのである。この点は、日本も海外もない。そうであれば、仏法上の正邪の峻別なくして布教はありえないし、真の平和も実現できないのである。





【謗法払い】
◆仏壇を焼くことはないでしょうが、ことは神棚だが、なにも神棚をこわさなくてもよいのです。あの上にあげてある社の中の神札さえ取ればよい。それを取るのも、こっちが手助けをして取らないほうがよい。「あなたが取りなさい」といって、「どうしても取らなければだめですか」「どうしてもだめです」といって、「どうしてもこれだけはこわせません」といったら、「それでは、半年なり、3ヵ月なりして、よく考えて、あなたが取れるようになったら信仰しなさい。それまでは御本尊様をさしあげられません」といって別れたほうがいい。
 それをしつこく「あなたが取らなければ、おれが取ってやる」、しかも勇ましいのになると「どうだ、このとおりだぞ」などとやる。そういう指導はしないでください。ひどいのは、ご主人の承諾なくして奥さんにやらせたり、それが夫婦げんかになり、御本尊様を焼いてしまう。そんなにまでして折伏して、御本尊様をそまつにしてはもったいないと思います。そのところを注意してほしい。また、身延などのニセのものを持って「これだけは先祖から伝わっているので焼けない」といったら、「それなら御本尊様をあげられない、それでよいなら大事にとっておきなさい」と、ポンとけって帰ったほうがよい。そうすれば、かえって自分で不幸になっていくものだから、そんなものはなにもならないから、自分で焼いて御本尊様を受けようと決心する。それが順当な謗法払いである。(S30.11.30 東京・豊島公会堂『戸田城聖全集』第4巻390頁〜)


変↓節

◆「謗法払い」については、あくまで原則どおり、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません。(中略)したがって、神棚や仏具等を取り除く必要はありません。(秋谷栄之助『聖教新聞』H9.2.11)
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 これは御本尊を神札や阿弥陀仏などと一緒に祀ってもよいということで、この信仰のありかたは、天台大師や伝教大師が説かれた迹門熟脱の法華経の修行すなわち摂受です。
 末法の木門下種の仏法は折伏であることは、御書のどこを拝読しても明々白々のことであり、かつては創価学会が実践してきたことでもあります。
 創価学会が日蓮大聖人様の教えに真っ向から違背し、成仏できないことは明らかです。それでも「学会は日蓮大聖人の仏法を実践している」とうそぶいて、「日顕宗を折伏する」といっているのです。精神分裂症か、頭破作七分(ずはさしちぶ)か、一闡提(いっせんだい)か。あなたはどう思われますか。
 「謗法払いは必要ない」ということは、折伏を放棄して摂受になることであり、折伏を放棄した創価学会は折伏をする論拠も資格もないのです。(宗門作成パンフH13.5.3)
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「古い対象物」とは、邪宗の本尊などです。これを所持したまま曼陀羅を拝んでもよいというのです!こんな指導をする者に、信教の自由のない封建体制下の特殊の状況下における一時的な仏像安置黙認(第17世日精上人時代に、一部末寺に限って行われたとされる一時的化儀。安置されたのは邪宗の仏像ではなく、新しく作られたものであり、御法主上人によって開眼されたものであろう。また、当然、境智冥合の対境としてではなく曼荼羅本尊の両脇に安置されたものである。)を、謗法呼ばわりする資格はありません。





【塔婆】
◆塔婆供養の原理についていえば、人が死ぬと宇宙の生命に溶けこみます。色心の二法であるゆえに、この生命を塔婆という体を作って供養すれば、聞いた題目が生命に感じて業が薄くなり、苦悩を少なくしうるのです(『戸田城聖全集』第2巻・176頁)


変↓節

◆(※塔婆の功徳を述べた『中興入道御消息』について)当時は、念仏が書かれた塔婆が横行していた。そのなかで中興入道は、法華経の題目を塔婆に認(したた)めた。大聖人が称賛されたのは「題目を根本にした信心」なのである(『創価新報』H16.3.17)

◆供養収奪のための塔婆商法(『創価新報』H16.3.17)





【広宣流布】
◆今日、日蓮正宗創価学会がこのように発展し、短期間に正法流布の根を深く広くはることができたのも、日蓮正宗の伝統の根が深いということにほかならない(池田大作『広布と人生を語る』第1巻62頁/『大白法』H20.9.1)


変↓節

◆カトリックでも広めたら立派(学会本部職員で聖教新聞企画部副部長のH氏/『慧妙』H18.7.16)
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これは、学会幹部Hが法華講員との対論中、学会員ギャラリーの前で言い切ったことである(そうでないと言うならば、H自身が企画している機関紙を使って反論すべき)。思えば、創価学会の自慢は、その構成員を短期間に増やした(あくまでも過去形)という1点に尽きる。過去の布教の成果にしがみ付き、それだけを根拠にして現在乃至未来の正統性を頑(かたく)なに信じ込もうとする学会員は、哀れとしか言いようがない。




◆仏さまは、ウソをつかないと私は信じます。また、会長先生もウソはつきません。仏さまです(池田大作S33.9.14/『慧妙』H13.11.1)
●仏と申すは正直を本とす(『法華経題目抄』全集948頁)
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過去の言動を平然と反故にする池田大作は、稀代の大ウソつきである。彼のことだから「仏さまは、ウソをつかない」という言葉も、もう忘れてしまっているかも知れない。しかし「仏と申すは正直を本とす」という御金言までは否定しようもない。ということは、彼が「仏」でないことだけは、確かなようである。

●懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし(『顕謗法抄』全集443頁)
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昭和54年に御本尊の前で懺悔したことまで、平然と反故にする池田学会。その罪は、未来永劫に消えない。

★ともあれ、かつての信仰の在り方や御相承の拝信姿勢と、現在の創価学会の路線が、180度転換していることは、誰の目にも明らかである。当の創価学会も、このような大きな矛盾に、気が付いていないわけがない。分かっていながら、厚顔にも、このような矛盾極まる主張を繰り返しているのである。
 裏返せば、このような愚論を言い続けなければ、屋台骨を保てない実状を顕わにしている、としか考えられない。
 いずれにせよ、創価学会は狂いに狂っている。(『慧妙』H15.12.16)

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