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from: 21世紀さん

2011/11/23 17:59:41

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創価学会問題 創価学会の隠された真実史

創価学会の隠された真実史我々が創価学会を論ずるとき、ともすれば現在の姿だけを捉えて論じがちであるが、よくよく問題の本質を弁えるためには、その淵源を知る

創価学会の隠された真実史

我々が創価学会を論ずるとき、ともすれば現在の姿だけを捉えて論じがちであるが、よくよく問題の本質を弁えるためには、その淵源を知ることが大切である。

創価学会の淵源、それは、初代会長・牧口常三郎の思想と信仰である。

『価値論』の本末顛倒と日淳上人への誹謗

牧口常三郎氏は、昭和三年六月、東京・常在寺所属の直達講(じきたつこう)講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、五十七歳で日蓮正宗に入信した(同じ年の秋、後の戸田城聖二代会長も、三谷氏の折伏で入信している)。

牧口氏入信の動機について、柳田国男は、「貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう」(『牧口君入信の動機』)と述べている。

入信後の牧口氏は、昭和五年十一月に「創価教育大系」第一巻を発刊(この日が後に学会創立の日とこじつけられた)、翌六年三月には同『大系』第二巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表したのである。

この価値論について、牧口氏は、後の獄中書簡の中で、
「百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著し、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が粉起するのは当然で経文通りです」
などと、驚くべき評価をしている。

すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘めようとしなかった文底下種仏法のような、哲学の最高峰にあたる"教え"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕したのだから、三障四魔が紛然と競い起こるのは当然、というのである。

これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全く本末転倒という他はない。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度の教であることになるから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師であるということになってしまう(事実、かの五十二年問題の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となった。)

結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪め、それが後の創価学会異流儀化の温床になった、といえるであろう。

さて、こうした異質な思想を持つ牧口氏は、当然のことながら、氏の教化親であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相容れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することになる。

その三谷氏は、昭和七年に亡くなられたが、残された講員達の誰も牧口氏を新講頭に推したりすることなく、そのまま直達講は自主解散してしまった。

これにより、牧口氏はそれまでの同士達と袂を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮を事実上の所属寺院とするようになった。

当時の歓喜寮御住職は堀米泰栄御尊師=後の65世日淳上人であられ、当初のうちこそ、牧口氏は上人の指導に従って信仰に励んでいくかのように見えたが、昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗し始めた。

それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれている(当時の僧侶、信徒の証言)。

実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係悪化を裏付けている。

なおまた、古くからの信徒で直達講講頭を務めていた竹尾清澄氏(故人)も、59世堀日亨上人のお話の中から伺ったこととして、

「牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、『もう貴僧の指導は受けない』と席を蹴って退去」(『畑毛日記』)
した、という出来事を記録に残されているのである。

さて、こうして上人との関係が険悪化して以後、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者、(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱りつけた。

さらに牧口氏は、よほど日淳上人を逆恨みしたのであろう、会員達を使って、上人に対する誹謗・罵倒を行なったのである。その事実は、当時の会員の証言の他、戸田理事長(後の二代会長)の獄中書簡にも、

堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔しておる。と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身に見る』と言っております、と」(昭和19年9月6日、妻あて)

とあって、牧口氏の一番弟子であった戸田理事長自らが、自身の投獄は日淳上人を誹謗した罰である、として懺悔していることからも明らかである。

こうして牧口氏の率いる学会は、所属寺院たる歓喜寮と信仰上の断絶を生じていった。そして、同時にそのことは、"本宗の信徒は総て各寺院住職のもとに所属して信仰に励む"ことが原則である日蓮正宗からも、疎遠になっていくことを意味していた。

前出の、竹尾氏が日亨上人から伺った話の次下には、「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」とまで述べられており、牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われる。

とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨とする宗である。そのような不遜な牧口氏一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう。手配なされたのであった。


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from: 21世紀さん

2011/11/23 18:01:22

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「Re:創価学会問題 創価学会の隠された真実史 」
「反戦と謗法厳戒を貫き」は総て嘘!!

このような状況の中で、創価教育学会に対する国家権力の弾圧が起こった。

今日の学会では、この時の真相を歪め、好き放題に美化して、「牧口会長は、軍国主義に屈せず、徹底して天皇制や戦争に反対したため、弾圧を受けた」だとか、「宗門は国家神道に屈して謗法まみれとなったが、牧口会長は謗法厳戒の教えを守って神札を拒否し、そのために弾圧を受けた」などと宣伝しているが、それは全く事実と反している。

まず、「牧口時代の学会の反戦性」ということについては、昭和17年12月31日発行の『大善生活実証録』(創価教育学会第5回総会報告)を見ると、なんと、総会で軍歌が歌われているばかりか、西川理事の発表の中で、

「いまや、皇国日本が北はアリューシャン群島方面より遙かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、更に南洋諸島を経て、西は印度洋からビルマ支那大陸に将又蒙彊(もうきょう)満州に至るの広大な戦域に亘り、嚇々(かくかく)たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によつて一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつゝあることは、すでに皆様熟知されるところである」

等と述べている。また『人間革命』(妙悟空こと戸田城聖の初版)によれば、このころ牧口氏は、

「国家諫暁(こっかかんぎょう)だね。陛下に広宣流布の事を申し上げなければ日本は勝たないよ。これを御本山に奏請(しんせい)して、東京僧俗一体の上に国家諫暁をしなければ国はつぶれるよ。並大抵でない時に生まれ合わしたね」

等と教えていたのである。さらに牧口氏は、後の獄中書簡の中で、

「洋三戦死ノ御文、(中略)病死ニアラズ、君国ノタメニ戦死ダケ名よトアキラメテ唯ダ冥福ヲ祈ル」

とも述べている。

これらを見れば、一目瞭然であろう。要するに牧口氏等は、当時の国民の大多数と同じく、「反戦・天皇制反対」などという意識は持ち合わせておらず、むしろ「皇国日本」を戦争に勝利させるために国家諫暁(国家を諫め諭すこと)・広宣流布を行おうとしていたのである。

また、「牧口氏の謗法厳戒」ということについても、牧口氏は

「吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よくぞ国家の為に働いて下さった、有り難うございます』というお礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。もし『あゝして下さい、こうして下さい』と靖国神社へ祈願する人があれば、それは、恩を受けた人に金を借りに行くやうなもので、こんな間違った話はない。
天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威(ごりょうい)は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば、吾々は、神聖にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)天照大神のお札をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考へ奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確信するのである。また、これが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である」(前出『大善生活実証録』)

と述べている如く、牧口氏自ら謗法の靖国神社へ参拝していたのであり、また、牧口氏が天照大神の神札を拒否した理由も、「天照大神の諸神は現人神たる天皇の身に一元的に凝集されており、その他に神札を祀れば二元論となって矛盾を生ずる」という、牧口氏独自の神道観に基づくものに過ぎなかった。

つまり牧口氏は、日蓮正宗の「謗法厳戒」の信条を守り通したというよりは、学者でもあった氏自身の神社観・神道観を自ら真理と信じて頑固に貫いた、いうのが実際だったのである。

これらのことからも、今日の学会のデマ宣伝が、いかに異常極まりないものか、よくわかろうというものではないか。

「神札拒否を貫き殉難」の真相

さて、牧口氏は、「皇国日本」を戦争に勝たせるため、強く国家諫暁を主張するようになり、併せて、氏独自の神道観によって神札消却を強調した。これによって創価学会は、治安を乱す恐れありとして、官憲から厳しくマークされるところとなったのである。

昭和18年6月5日、東京・中野の一学会員が、近所の人の子供が死んだのを、頭から「罰だ」と決めつけて折伏したことで、怒った相手から訴えられ、特高警察に逮捕・拘留されるという事件が起きた。

特高では、この事件を機に、かねてマークしてきた創価教育学会員を一気に壊滅せしめる意思決定をし、逮捕した学会員を激しく取り調べて、学会弾圧の「罪状」作成にかかったのである。まさに、学会弾圧は秒読みの段階に入った、と言ってよい。

このような事態に最も困惑されたのは、日蓮正宗宗門であっただろう。なにしろ学会が、いかに信仰的には絶縁一歩手前の状態とはいえ、形の上ではいまだ日蓮正宗信徒の集まりという立場をとっている以上、弾圧は日蓮正宗をも巻き込んで起こる可能性すらあるのだから。

そこで、総本山大石寺では、6月20日、牧口・戸田両氏を呼び、注意を与えることとなった。

当日、その場には、大学匠として名高い御隠尊(ごいんそん)日亨上人と62世日恭上人の両上人が立ち会われ、庶務部長・渡辺慈海師より、牧口・戸田両氏に対し「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」注意がなされ、意外にも、牧口氏もこれに素直に従ったことが、日亨上人の御允可(いんか)された記録(「宗学要集九巻431頁」)に記されている。

この時の宗門の注意は、非常事態下においては、必ずしも神札を消却しなくとも、祀って拝んだりしなければ、一時、許容されるであろう、との判断(むろん、平常時にまで無制限に適用されるものではない)の上から、これ以上、いたずらに当局を刺激して無用な弾圧まで引き起こさぬように、との配慮でなされたものであった。

今日、これを理解しえず、なんとしても日蓮正宗宗門を「謗法容認」と罵ろうとする池田教の狂信者も多いが、要するに仏法においては、「随方毘尼(ずいほうびに)」「四悉檀(ししつだん)等といって、やむなき時代性や地域性に応じて、暫時、法義に違背しないギリギリの範囲内で、その言動を緩和することが許容されているのである。

さらに付け加えておけば、大聖人の御書中には、"比叡山延暦寺で法然の撰択集(せんじゃくしゅう)を消却した"等の御記述はあるものの、"いかなる場合であれ謗法の物は消却処分しなければならない"等の御教示は存在していない。

それでもなお、この時の宗門の判断を指して「謗法容認」だのと罵る輩は、もはや言葉も道理も通じない最悪の狂信者、と断ずる他なかろう。

ともあれ、大石寺より下山した牧口・戸田両氏は、応急の対応策を講じた。それが6月25日付けで学会内に出された「通牒」だったのである。

この通牒についても、今日の学会では「折り畳んで保管されていたにしては、左右の虫食い状態が対称ではないから変だ」とか「通牒の『牒』の字が間違っているから変だ」等と難クセをつけ、結局、「この通牒は昭和52年頃に偽造された贋作であり、その証拠にコピーだけが出回っていて、原本が出てこない」として、その存在を全面否定している。

なるほど、当時の日蓮正宗宗門を「謗法容認」呼ばわりするためには、このような通牒があっては、なんとも不都合なのであろう。

しかし、その詳しい検証は別の機会に譲ることにするが、ここでは、やはり実物確認をしたフリージャーナリストの溝口敦氏が次のように述べている事だけを紹介しておこう。

「今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘(いなば・さかり)氏(学会の初代総務・稲葉猪之助氏の子息)で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気でボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳まれて保存されているが、畳まれた時の破損状況は理にかなって作為はあり得ない」

かくて、通牒は発せられたが、官憲の側では創価教育学会壊滅の方針で罪状を作り上げてしまっていたから、この「会長の応急策もすでに遅し」(「宗学要集」九巻431頁)、7月6日、牧口氏は旅行先の伊豆で逮捕され、続いて戸田理事長ほか21名の幹部が相次ぎ逮捕されたのである。

後に掘日亨上人は、この戦時下の学会弾圧事件を『富士宗学要集』の法難編に「第13章昭和度の法難」として加えられているが、同法難編の冒頭の文に、
「顧みるに法難の起こる時、必ず外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の発端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発するの傾き多し。本編に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし」(「宗学要集」九巻247頁)

と指摘されている。

まさに、学会弾圧は、国家神道中心のファシズムが世を支配している異常な状況下で、「世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の」言動に走った牧口氏以下学会員達の行きすぎた言動(神札焼却の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等)が、いたずらに招き寄せた弾圧であった、という他はない。少々酷な言い方をすれば、自業自得の誹りは免れない、ということである。

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