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from: 21世紀さん
2009/03/09 15:16:21
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第二次創価学会問題
資料①(宗務院より創価学会宛ての第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね)
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創価学会会長秋谷栄之助殿
去る12月13日の連絡会議の席上において、11月16日第35回本部幹部会における池田名誉会長の発言に関するお尋ねの文書をお渡ししようといたしましたが、出処不明のテープを本とした文書は受け取ることができないとの理由にて受領を拒絶されました。
宗務院として、このテープについて数本のテープと照合しつつ、厳密な調査をいたしましたところ、改竄されたものではないことが判明いたしました。さらに、11月28日のスピーチの全国衛星放送の会場に出席した信徒からも、手紙や電話によって、疑問や不信の声が、総本山・宗務院へ寄せられております。この問題は、極めて重要な内谷を含んでおりますので、話し合いによる解決は不可能と考えます。よって、改めてこの文書を送達いたしますから、到達の日より7日以内に宗務院へ必着するよう、文書をもって責任ある回答を願います。
以上 平成2年12月26日
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第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね
創価学会会長秋谷栄之助殿
この度、平成2年11月16日、第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチのテープを聞きました。それによると、聖教新聞の内容と大幅に違っており、特に宗門に関することが故意に削られ改作されていることがわかりました。しかも衛星中継をもって全国の学会員に放送するため、当日のテレビ放映と新聞の内容の違いに不審を抱いた学会員から、学会について行けない旨の手紙が寄せられております。確かにテープの中には、昭和53年6・30、11・7等で確認されたことが、まったく忘れ去られている感もありますので、改めて拾い挙げてみました。何卒、責任ある回答を示されますよう、お願いいたします。
(1) 御法主上人・宗門に関ずる件
1 「文化運動、ね。文化も一生懸命、今、仏法を基調にしてね、文化・平和。文化は要らないと、詩法だ。もうわけがわからない、ね。なんにも苦労していないから。本当のことを、社会を知らないから、折伏もしていないから。(日達上人の昭和50年のNSAの第12回の総会の平和文化運動に関するメッセージを引いて)それがいけないって言うんですよ。折伏だけで、全部教条的にね、やれおかしいよって言うんだ。おかしいよ」
2 「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。」
3 「全然、また難しい教義、聞いたって解んないんだ。誰も解らないんだ、ドイツ語聞いていろみたいにね。それで『俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者って。そんなのありませんよ、この時代に。時代とともにやればいい、学会は。」
4 「あくまで御書です。御本尊です、法は。これが解かればいいんです。あと、ちゃんと日淳上人、それから堀猊下、全部日達上人、きちーっと学会を守ってますよね。」
以上の1から4は、名誉会長の今回のスピーチの中からその流れに沿って拾い出したものであります。昭和55年4月2日の聖教新聞に、「恩師の二十三回忌に思う」と題する名誉会長の所感が掲載されておりますがそこでは、「学会は、絶対尊崇の本源たる本門下種人法一箇の御本尊、宗祖大聖人に対し奉る信仰を根本とし、永遠に代々の御法主上人狙下を仏法の師と仰ぎ奉リ、強き広宣流布の戦士たる誇りも高く、さらに、日蓮正宗の信徒として、いっそうの外護の任を全うしてまいる決意であります。」
また、会員各位に対しては、
「今一度、学会の存立基盤に立ち戻リ、あくまでも外護と布教という根本の宗教活動を主体とし、そのうえで、社会的存在としての文化活動を推進してまいるようお願いしたい。その意味から、僧俗の和合をあくまでも根本とし、学会の使命遂行には、いささかも揺るぐことなき信心の大確信を堅持し、社会との融合を図りながら、広宣流布を進めていかねばなりません。」
と創価学金の基本姿勢を述べられております。この名誉会長の所感にありますとおリ、日蓮正宗では、古来人法一箇の御本尊即大聖人を信仰の根幹とし、また大聖人の法体を継承遊ばされたすべての歴代御法主上人を正法の正師と拝し奉ってまいりました。すなわち、歴代の御法主上人は、法体を護持継承される上から御本尊を書写され、またそれぞれの時代に応じて種々御指南されたのであります。したがって、現時点においては、日顕上人を仏法における根本の師匠、大導師と仰ぎ奉り、信伏随従する信仰姿勢が僧俗ともに肝要であることは、申すまでもありません。また、創価学会の基本姿勢についても、日蓮正宗の信徒団体として、僧俗和合を根本に、布教活動を行い、それに伴う文化活動を推進していくことは大変大事なことであります。その意味で、名誉会長の「恩師の二十三回忌に思う」との所感は、まさに正論であるといえましょう。
しかし、今回のスピーチは、その正論を述べられた名誉会長の言葉とは思えない内容であります。宗務院といたしましては、こうした発言の中に、名誉会長の本心、また血脈に対する拝し方に、大きな疑いをもつものであります。以下、その問題点を挙げてみたいと思います。
第一番目に、聖教新聞紙上において、頻繁に「悪しき権威・権力と戦う」という語が見られますが、大概の場合、その「悪しき権威・権力」というものが、何を意味するのか明らかではありません。しかし、2の発言によれば、「悪しき権威・権力」とは別して御法主上人を指していることがわかります。しかも、この発言によれば、「現猊下は法主という権威に身を寄せて権力を振りかざすばかりで、信徒の幸福などはまったく考えていない」ということを言っているのであります。このように、名誉会長は御法主上人に対して「権力」と決めつけておりますが、創価学会でいう「悪しき権威・権力と戦う」の「悪しき権威・権力」が、なぜ御法主上人に相当するのか、お示しいただきたいと思います。
また、第二番目に3の発言は、主語はないけれども、これを見聞した人は、明らかに御法主上人に対する言葉と受け止めるものと思います。すなわち、猊下の御説法・御指南というものは、外国語を聞くようにただ難しいだけで、信徒にとって現実的に役に立たないものと決めつけております。御法主上人の御指南にも、御説法、お言葉、その他種々の内容があり、その中で、特に御説法は、本宗の甚深の法義を説くのでありますから、難しいのは当然であります。信徒として、深く拝聴理解すべく心掛けるのが当然であるにもかかわらず、このように批評するのは、御法主上人を蔑視するものであります。また、「俺偉いんだ。お前ども」等の発言は、まさに日顕上人を指していると思われますが、日顕上人は、かつてそのようなことを言われたことは、一度もありません。これらは、明らかに御法主上人に対する誣告であると思いますが、御意見を聞かせていただきたいと思います。
第三番目に、創価学会の推進する仏法を基調とした平和文化活動につきましては、名誉会長自身が「恩師の二十三回忌に思う」の中で、折伏弘教と外護を根幹とした文化活動を推進するという大義を述べております。また、日達上人の賛同された御指南も多くありましたし、同様に現御法主上人も代替奉告法要、あるいは日目上人の第650回遠忌の折に、本当の意味で仏法を基調とする平和文化活動は大聖人の仏法を宣揚していく上で大事なことであると説かれております。ところが、これも主語はありませんが、前後の流れから、御法主上人を指していると思われる、1の発言によれば、「かつて折伏をされたことがまったくなく、布教について何も苦労したことのない世間的無知であるから、平和文化活動を理解出来ずに無条件に否定する」ということであります。まず、御法主上人は、いつ、どこで、仏法を基調とする平和文化活動を否定し、謗法だなどと言われていますか、お伺いいたします。また、多くの会員の前で、このようなことを公言している池田名誉会長の不遜な言動に対して、どう責任を取られるのでしょうか。
第四番目に、2の発言では、「猊下というものは」などと、御法主上人を指導、もしくは批評するごとき言語表現が、公然となされておりますが、日蓮正宗の信仰をする者として、あまりにも謙虚さに欠けた慢心の言であると思いますが、創価学会としてこうした発言に対し、どのように申し開きをされますか。
第五番目に、4の発言でありますが、ここで、59世日亨上人、65世日淳上人、66世日達上人が、学会を守って下さっていると言っておりますが、日達上人の御在職中の、いわゆる52年路線のころ、創価学会の教義の逸脱について、日達上人から、
「日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。」
等と、厳しい御指南があったのも事実であります。にもかかわらず、そのような御指南には一切触れずに、都合のいいところだけを引用し、創価学会は60年の歴史の中において、まったく間違いがなく、間違いはすべて宗門の側にあったように述べておリます。そして、学会のやっていることに対して御先師方が理解を示され、学会を守られたという表現にすり替えているのであります。また、この一連の言葉の裏には、当然現御法主上人が学会に対して理解を示さない、学会を守らないという意味を含んでいるものと解釈されます。しかし、正信会から学会及び名誉会長を守られたのも、また名誉会長を総講頭に再任されたのも現御法主上人であります。したがって、「〈今の)猊下はまったく学会を守ってくれない」と考えるのは、まったく過去に受けた恩義を省みない無慙な心であると思いますが、いかがでしょうか。-
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コメント: 全51件
from: 21世紀さん
2009/03/10 08:38:18
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「Re:第二次創価学会問題」
第三 創価学会においては、昭和五十二年路線の厳しい反省の上から、昭和54年4月24日、三原則遵守の精神を踏まえて、あらためて『創価学会会則』が制定されました。すなわち、この三原則は、創価学会が日蓮正宗の信徒団体として存立する上で、恒久不変の条件なのであります。ところが、昭和五十二年路線の反省から十数年を経た現在、創価学会は、その逸脱是正の誓いを捨て、再び宗教法人設立時の三原則を、事実上において破棄したのであります。
(一)
三原則の最初は、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させること」であります。
創価学会は、昭和五十二年路線で、「正宗の寺院は儀式の場であり、広宣流布の場ではない」といっていましたが、宗門では、この寺院観が、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させる」との原則への違背という認識の上から、他の逸脱事項とともに問い糺したのであります。それに対して、創価学会としても、昭和五十三年の「六・三〇」において、
「正宗寺院においては、正法をもって授戒、葬式、法事、結婚式等の衆生済度のための大切な行事を行っています。寺院もまた、広宣流布のための活動の重要な拠点であることを認識すべきであります。学会のみが広宣流布の場として、寺院がそうでないかのような表現は、明らかに言い過ぎであります。」
と認識を改め、また『特別学習会テキスト』でも、
「五十二年当時を中心とする指導のなかに、宗門、寺院、僧侶に対して、従来の正宗と学会の関係からもはずれた行き過ぎた指導があったことは、まず第一に率直に反省すべき点であります。たとえば、極端に『寺へ行くな』とか『僧侶は折伏もしない。広宣流布しているのは学会だ』とか『寺院は単なる御授戒の場』とか、登山会を軽視する発言などがありました。また、在家仏教的な考え方から僧侶並びに寺院を軽視し(中略)結果として、あたかも日蓮正宗を無視するかのような発言があったことは、ことの経緯はともあれ、信徒として明らかな逸脱であり、今後こうした考え、指導上の誤りのないよう十分注意をしてまいります。」
と述べ、率直に反省したのであります。すなわち、本宗の寺院は、単なる形式的に儀式を執行する場ではありません。令法久住・広宣流布の意義に基づく儀式法要をはじめ、あらゆる信仰活動を遂行する、大法弘通の法城であります。しかるに、現在の創価学会は、昭和五十二年路線よりも、なお卑劣にして、大きく逸脱しております。昭和五十二年路線では、寺院は『単なる儀式の場』と断定するものでしたが、現在では、寺院が儀式の場であることすら破っているのであります。すなわち、本宗の僧侶が導師となって執行すべき儀式法要等の化儀を、完全に改変し、創価学会独自の、僧侶を不要とする冠婚葬祭等の化儀を勝手に執行しております。このことは、まさに本宗寺院から、信徒を隔離する行為ですから、これほどの原則への違背はありません。このように、宗門誹謗の団体と化した現在の創価学会をみれば、脱会した会員が法華講員・直属信徒となることは、本宗信仰のあり方の上から当然であります。ところが、創価学会では、自らに都合のよい日達上人等の指南のみを挙げ、悪辣に宗門を誹謗しております。特に秋谷会長の、
「宗門は天魔と化して、信者ドロボウに狂奔し、まことに嘆かわしい限りの実態であります。」(平成3年9月17日)
「宗門が今、画策している檀徒づくりは、名誉会長と私たち会員との師弟の絆を断ち切ろうとの陰謀である。破和合僧の行為を放置していたら、世界広布の将来はないし大聖人の御精神から大きく外れてしまう。我々は、今こそ学会正義の大確信をもち、勇気ある実践を展開しよう。」(平成3年9月28日)
等の発言や、本宗能化に対する創価学会古参幹部の、「信徒を泥棒のようにかすめとろうというのは、仏法上人道上、許されないことであり、これは宗門の信心の自滅となるものでしょう。」(平成3年8月16日付書面)との発言は、本宗信仰における僧俗師弟の筋道を全く無視し、信徒間に仏法の師弟を持ち込んだ謬見であり、信徒団体としての分域を越えた、本末転倒の邪見であります。あまつさえ、「信徒泥棒」との発言は、創価学会による本宗信徒の私物化であって、本宗の信徒団体たることを、自ら放棄する行為以外の何物でもありません。以上のように、現在の創価学会はあらゆる面で、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させること」との原則遵守を破棄した背信集団であることを、深く認識すべきであります。
(二)
次に、三原則の第二「当山の教義を守ること」について述ぺることにいたします。
イ 池田氏の本尊観・妙法観が、御本仏大聖人の已証から外れた法偏重の外道義であり、まさに本宗の根本義たる仏宝・法宝の意義内容を、我見をもって改変する大謗法の邪義であることは、本宗能化より学会古参幹部に対して出した、平成3年7月31日付書面、及び9月6日付書面で指摘しているところであります。また、宗祖大聖人の究極の重大事たる戒壇の義について、池田氏が浅見をもって聖意を汚す発言をいたしましたが、その誤りに対しても、書面等をもって既に糺しております。本来ならば池田氏並びに創価学会は、これらの指摘に対して、その誤りを率直に認め、公式に懺悔して改め、ただちに会内に徹底すべきであります。しかし創価学会には、現在に至るまで、一向にその兆しがありません。宗門としては、もはや創価学会には、池田氏の大謗法を自浄する能力が、全くないと受け止めるものであります。
ロ 次に、本宗の僧俗の関係は、先に述べたごとく、師匠と弟子という筋目の上から、僧俗の相違が存するのであります。すなわち、本宗信徒は、血脈付法の法主に対しては当然のことながら、所属寺院の住職・主管を血脈への手続の師匠として、師弟相対の信心修行に励むとき、はじめて大聖人以来の血脈が通い、僧侶も信徒もともに御本尊の法体に冥合し、妙法当体蓮華の一仏となるのであります。このように、僧俗は、信心成就の当体当相においては、僧俗が一体平等となりますが、そこに至るまでの信心化儀という現実面では、必ず師弟の筋目の相違が存するのであります。創価学会でも、『特別学習会テキスト』において、
「私達は日蓮正宗の信徒であることの意識を明確にし、僧侶に対しても礼節を重んじ、信徒としての姿勢を正すなかに僧俗和合の道を進めてまいりたいと思います。」
と、僧俗の筋目を正しく述べております。ところが、創価学会から宗務院に宛てられた、平成三3年1月1日付書面以来、創価学会では、本宗本来の意義から外れた僧俗平等論なるものが、盛んに唱えられております。特に、『阿仏房御書』等の信心成就に約して示された御書や、日有上人の『化儀抄』第一条の本意を曲解して、
「僧侶と信徒との関係にあっては、まずなによりも、信心のうえでは僧俗平等であることが第一義であると思います。その上で僧侶と信徒の本分及び役割を生かした相互の尊重・和合があるのではないでしょうか。」(平成3年1月1日付「お尋ねに対する回答」)
「私たちは、これまで『信心の血脈」においては僧も俗も平等であるが、その上で僧俗のそれぞれ主たる役割の相違があるのみであると信じて、広宣流布に邁進してきました。」(平成3年1月9日付青年学術者会議有志「質問書」)
「法の上では、僧も俗もともに同じ人間であり、全く平等なのである。」(平成3年2月14日付『聖教新聞』・佐久間昇氏「化儀抄を拝して」)
「徹底した平等主義こそ仏法の本義」(平成3年10月16日付『創価新報』)」
等と述べ、またこのような已義に基づく僧俗平等観の立場から秋谷氏は、
「宗門は大聖人の仏法を奉じているとはいえ、権威で民衆を見下し、屈服させるような姿であります。」(『大白蓮華』平成3年6月号・巻頭言)」
と、いかにも宗門が権威主義然として、信徒蔑視をしているかのように喧伝しております。さらにいえば、平成3年10月17日における池田氏の、
「信徒の側は、僧侶の権威にひれ伏した時に、本来の信仰心は失われ、僧に仕え、依存するのみの形式的な信仰となり、真の功徳はなくなる。御本仏・日蓮大聖人、すなわち大御本尊に信伏随従し、仕えることは正しいが、その根本からはずれて、僧侶に仕えることは、仏法の本義に背く誤りであることを知らなければならない。」
との発言は、まさに三宝破壊につながる僧侶蔑視発言というべきであります。これらは、明らかに仏法本来の僧俗師弟のあり方を破壊する邪見であり、教義違背行為以外の何ものでもありません。
ハ 倉価学会では、昭和52年路線で反省したはずの本宗法義にない師弟論、すなわち信徒間における師弟不二論を、再び展開しているのであります。すなわち、小説『人間革命』第十巻では、大聖人の仏法が師弟不二の仏法であることは、一切法即仏法のゆえに、人生の師弟間にも昇華され、そこに、「信仰の血脈」が偉大な脈動となって迸るなどと展開しているのであります。そして、人生の師弟間に、師弟の道と師不二の道とを立て分け、池田氏が、唯一戸田城聖二代会長と師弟不二であったと宣伝しているのであります。
また、平成3年10月16日の池田氏のスピーチにおいても、
「私は『先生の行くところ、どこまでも行く。先生とともに生き、先生の目的のために死のう』と決めた。(中略)また打つ手、打つ手が、師のリズムに合致しゆく自身を確信した。私が言っていること、やっていることは、すべて先生の心を受けての言動のつもりである。師弟の心は、どこまでも『不二』でなければ、仏法の生命はない。」
と述べており、さらに平成2年7月3日付、『聖教新聞』の「春夏秋冬」では、
「九界の因と仏界の果との相即は法華の極説。さらに仏法では、弟子を因に、師匠を果に配する。因果一体は、師弟では師弟不二。人生の師弟にも深義が。『出獄と入獄の日に師弟あり』-果たる師匠の出獄した7月3日はまた、因たる弟子の入獄の日。」
と、戸田一代会長を仏に配し、池田氏と師弟因果の一体不二を述べているのであります。これらは、已義をもって、本宗における唯授一人の血脈、及び僧俗師弟における師弟相対の信心化儀を、信徒間の師弟へとすり替えた大変な邪義であり、まさに師敵対の大謗法であって、明らかに「当山の教義を守ること」との原則に違背するものであります。
ニ 本宗の寺院は、『日蓮正宗教師必携』で、
「寺院・教会は仏祖三宝の所有であり、住職・主管または檀信徒のものではない。」
と定めるごとく、下種三宝の所有であり、また三宝の内体義によって、寺院は、当職の法主の所有に帰するのであります。また、『日蓮正宗宗規』第180条に、
「管長の任命した住職または主管及ぴそれらの代務者に対しては、いかなる者もこれを拒否することができない。」
と定めるごとく、時の法主より任命された住職主管に対しては、だれ人たりといえども、それを拒否することはできないのであります。ところが、池田氏は、平成3年8月18日のスピーチで、昭和7年8月の『佛眼寺問題について』という、日淳上人の登座24年以前における、
「若し一度何事かを差し挾んで三者(管長・住職・檀徒)の意志が分裂してその所有権を論ずる場合は寺院の本質により信仰の母体たる檀徒の所有に帰すべきもの」
等の発言を、切り文的に悪用して、
「寺院をどうするかについては、本山や住職の意向よりも、信仰の母体である信徒の意志を基準に決めるべきである。(中略)大多数の信徒こそ寺院の本来の『所有権』(持ち主、主人)であり、住職も本山も、信徒から寺院を預かっている『管理者にすぎない』…。」
と述べているのであります。しかし、日浮上人の発言は、当時、仙台市佛眼寺が、不正な裁判のもとに京都要法寺派へと籍を移され、要法寺派の僧侶が住職として着任し、本宗の佐藤覚仁師が強制退去を余儀なくされたという、特殊な状況の上でのものであります。池田氏は、このような特殊な状況を顧みず、ただちに現在に当て嵌め、本宗の寺院が信徒の所有であると述べたのであります。このことは、佛眼寺問題の特殊性はもとより、本宗の寺院所有のあり方と僧俗師弟の筋目を、明らかに無視した本末転倒の邪義と断ずるものであります。
ホ 現在、創価学会では、『聖教新聞』『創価新報』等の機関紙において、虚偽や捏造、事実の歪曲等により、宗門僧侶に対して悪口中傷し、社会的信用を大きく失墜させております。これら多くの誹謗行為は、まさに『普賢菩薩勧発品』に説かれるところの、
「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」
との御文に該当するものであります。あまつさえ法主に対するさまざまな非難中傷は、本宗の命脈である唯授一人の血脈の尊厳を侵すものであり、本宗信徒にとって、あるべからざる大謗法行為であります。
へ 本宗においては、師弟相対の信心化儀を基本とする化儀即法体の法門が、儀式法要を含む一切の化儀の要諦であります。また、その裁定権は、先に述べたごとく血脈付法の法主一人に具わるところですから、一般の僧俗が勝手に化儀を変更することは、決して許されません。まして本宗信徒であるならば、宗門の定める化儀に従うのが当然であります。この点、昭和五十二年路線の反省として、昭和53年の「一一・七」で、北条理事長が、
「今、このことを総括するに、問題を起こした背景に、宗門の伝統、法義解釈、化儀等に対する配慮の欠如があったことを率直に認めなければなりません。」
「寺院行事を尊重する意味から、(中略)春秋彼岸会、孟蘭盆会の学会としての開催は、学会本部ならびに各県中心会館では行う場合はありますが、地方では、いっさい行わないようにいたします。」
等と率直に反省し、寺院の儀式法要を重視していくことを述べたのであります。ところが現在、創価学会では、本宗の年中行事や冠婚葬祭などの儀式法要等の化儀を、已義を構えて独自に執行したり、不要として等閑にし、本宗伝統の化儀を破壊しているのであります。特に葬儀については、宗務院として、去る10月21日付で通告文を送付いたしましたが、創価学会より11月2日付をもって、本宗の信条に背反する、信徒としてあるまじ罵詈讒謗の通告をしてきました。このことは、創価学会がもはや本宗の血脈仏法に基づく伝統化儀に従えない体質に変質したことを証明するものであります。また、塔婆や戒名などは己義によって不要の化儀としています。これらは、全て本宗の伝統法義を蔑如するものであり「当山の教義を守ること」との原則を、明らかに破棄する行為であります。
ト 平成3年5月15日付『創価新報』の「宗門問題の本質はここだ!」という欄に、創価学会副学生部長の高岡輝信氏による、「冷酷」と題する一文が掲載されました。その内容たや、江戸時代に起きた堅樹派と称する異流義を取り上げて、これを正当化するという、ひどものであります。堅樹派は、完器講とも称しますが、その派祖である堅樹日好は、もと日朗門下の人で、第35世日穏上人の時に本宗に帰伏したものの、妙法の題目に四箇の格言を加えて唱える新義を提唱し、また戒壇の大御本尊と血脈付法の法主を否定するに至った邪師であます。
本宗非教師から、高岡氏の邪説に対する反ぱく文が出されましたが、高岡氏においても、また創価学会においても、未だに反省並びに訂正を表明しておりません。このことは、創価学会全体として、異流義たる堅樹派を容認している証左であり、まさに「当山の教義を守ること」の原則に遠背するものであります。
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from: 21世紀さん
2009/03/10 08:27:39
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「Re:Re:第二次創価学会問題」
資料⑳(創価学会解散勧告書)
創価学会は、本来唯授一人血脈付法の法主の指南、及ぴ教導のもと、日蓮正宗を外護し広宣流布へと挺身すべき本宗信徒の団体であります。ところが、最近創価学会は、自らの本分を忘れ、本宗信仰の命脈たる下種三宝義、並びに血脈相伝義をはじめとする本宗伝統の化法・化儀を、己義をもって改変し、他宗教さながらの様相を呈しております。日蓮正宗としては、これまで慈悲の立場から、種々の指導・善導に努め、教誠等をもつて反省懺悔を求めてきましたが、創価学会は全くこれを無し、かえってあらゆる手段をもって、法主・宗門に対して、誹謗・攻撃を加えつづけてきております。よって、もはやこれ以上、看過することはできず、ここに創価学会に対し、解散を勧告するものであります。
第一 日蓮正宗は、御本仏日蓮大聖人の文底下種仏法の根幹たる、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊と、それに基づく化法・化儀の一切を、大聖人以来唯授一人の血脈相承によって正しく相伝する、唯一の正統教団であります。したがって、本宗の僧俗は、必ず戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を、信仰の根本としなければなりません。
(一)
本宗信仰の根幹たる弘安2年10月12日御建立の本門戒壇の大御本尊は、まさに御本仏日蓮大聖人の已証を御図顕あそばされた人法一箇の御本尊にして、下種三宝の当体であります。本宗の三宝とは、第26世日寛上人が、
「当門流の三宝とは、寿量文底本因妙の仏法僧を以て末法今時の下種の三宝と為し上る也。前代未聞の大宝、末法適時の尊体也。(中略)仏宝とは文底本因妙の教主、久遠元初の自受用身也。法宝とは文底下種の事の一念三千の南無妙法蓮華経也。僧宝とは久遠元初の結要付属の所受の人也。久遠は今日、今日は久遠也」
と仰せのごとく、久遠即末法の本因下種の三宝であります。すなわち、仏宝とは、久遠元初の自受用身たる宗祖日蓮大聖人であり、法宝とは、文底下種の事の一念三千の南無妙法蓮華経たる本門戒壇の大御本尊であります。また、僧宝とは、久遠元初の結要付嘱の所受の人にして、日寛上人が、
「吾が日興上人、嫡々写瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来、日目・日道代々成く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也云云」
と仰せのごとく、日興上人を随一として、唯授一人血脈付法の歴代上人の全てにわたるのであります。さらに、門流の大衆、すなわち法主に信伏随従する本宗の一般僧侶も、みな僧宝め一分に加えられるのであります。しかし、この義は、一般僧侶が法主に摂せられて、はしめて成立する義であります。本宗の三宝の勝劣次第について、日寛上人は、
「此れ須く分別すぺし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三干即自受用身と云い、又十界具足を方に名づけて円仏と云う也。亦復一器の水を一器に写す故に師弟亦体一なり。故に三宝一体也。若し外相に約さば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故也。故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置する也」
と、内体と外相の上から教示されております。すなわち、外相に約せば、法・仏・僧という勝劣次第がありますから、本尊奉安式においても、中央に法宝(大漫茶羅)、右に仏宝(大聖人御影)、左に僧宝(日興上人御影)を奉安するのであります。しかし、もし内体に約するならば、仏宝・法宝は、もとより久遠元初の能証所証の人法にして二而不二の尊体であり、この法体は、一器の水を一器にうつすごとく、歴代の僧宝へと血脈相伝されておりますから、三宝は即一体なのであります。以上の本宗本来の三宝義の上から、第九世日有上人は、
「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし」
と仰せであります。すなわち、唯授一人の血脈相承によって、自身の内証に、大聖人以来の下種三宝の法体がまします上から、自身に信を取るよう、教示されているのであります。このことは、また第三十一世日因上人が、信徒に宛てられた消息の中で。
「日興上人已下の代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝也。外用に依れば則ち僧宝なり、故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対すれば則ち外用を存し以て僧宝と為るのみ」
との仰せからも、明確に拝されるのであります。古来、合掌礼をもって法主に対するのは、まさにその内証に止住している仏宝・法宝の法体に約すからであります。したがって、本宗の僧俗にして、もし大聖人の法体を護持する法主に対して違背するならば、『身延山付嘱書』に、
「背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」
と仰せのごとく、師敵対の大謗法となるのであります。謗法とは、まさに違背の義に約しますから、三宝破壊の大罪によって、必ず無間大坑に堕すのであります。したがって、本宗の僧俗である以上この三宝の次第を超え血脈相伝を無視した、大聖人直結・御本尊直結などという已義は、決して構えてはならないのであります。
(二)
次に、僧俗の次第について、宗祖大聖人は、『諸人御返事』において、
「所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上・上皇の師と為らん、在家は左右の臣下に列ならん」
と広布の相に約して仰せのごとく、僧侶と信徒は、仏法上師匠と弟子という筋目の上からの相違が存するのであります。故に、日興上人は、『遺誠置文』で、
「若輩為りと難も高位の檀那自り末座に居く可からざる事」
と、座配の次第に約して、明確に僧俗の相違を仰せであります。先に述べたごとく、法主に信伏随従する一般僧侶は、法主の血脈に摂せられて、僧宝の一分に加わりますから、本宗の信徒は、所属寺院の住職・主管を、血脈法水への手続の師匠と心得なければなりません。本宗の僧侶は、本宗の規定の化儀に則って修行し、法主より免許を被って、薄墨の素絹衣と白五条の袈裟を着しますが、この法衣は、まさに大聖人の下種仏法を表明するものであります。日寛上人は、法衣の功徳について、
「戯に衣を着る功徳尚爾なり何に汎んや真実に着せんをや」
と仰せですが、僧侶は、この本因下種の法衣を着するゆえに、身心ともに僧宝の一分に加わり、血脈法水への手続を務めるのであります。この意義の上から、日有上人は、
「私の檀那之事、其れも其筋目を違はば即身成仏と云ふ義は有るべからざるなり、其小筋を直すべし。血脈違は大不信謗法也、堕地獄なり」
と、僧俗師弟の筋目を糺すべきことを仰せられ、日因上人は、これを敷衍されて、
「私の檀郡の筋目之を糺すべき事、此れは師檀の因縁を示す。檀那は是れ俗の弟子なり、故に師弟血脈相続なくしては即身成仏に非ず。況や我が師匠に違背せるの檀那は必定堕獄なり。乖背は即不信謗法の故なり」
と、厳に信徒のあるべき心構えについて誠められております。すなわち、本宗の信徒は、もとより唯授一人血脈付法の法主を、現時における仏法の師匠とし、さらに法主より任命を受けた所属寺院の住職・主管を、血脈への手続の師匠とするのであります。その上で、下種三宝の当体たる本門の本尊を帰命の依止処として、師弟相対の信心化儀を修するとき、はじめて境智冥合して大聖人以来の血脈法水が自身に通い、真の即身成仏の大仏果を得ることができるのであります。反対に、この僧俗師弟議を蔑ろにすれば、下種三宝の血脈法水に対する師弟相対の信心が調わないどころか、師敵対の大謗法罪によって、必ず地獄に堕しますから、本宗信徒は、よくよく心しなければならないのであります。
(三)
本宗の化法・化儀は、右に述べるごとく、全て大聖人以来の法体血脈の相伝と、それに基づく山法山規によりますから、化法や化儀に関する一切の正否の裁定権は、『日蓮正宗宗規』に定めるごとく、当然法主一人に具わるところであります。本宗の法義は、日興上人が、『遺誠置文』に、
「当門流に於いては御書を心肝に染め極理を師伝して云々」
と教示のごとく、師伝によらなければ、到底その深旨の信解に至ることはできません。当然そこには、本尊法体に関する法義解釈から広範な御書の解釈、さらには法要化儀の意義付けに至るまでの一切を含むのであります。したがって、本宗の法義を研鑚する者は、必ず血脈付法の法主の説き示す伝統の法義解釈に従って信解すべきであり、社会に展開するからと称して、我見や已義を構えてはなりません。また、勤行式をはじめ、葬儀や法事等の典礼など、あらゆる本宗の法要儀式等の信心化儀においても、その心構えは同様であります。日有上人が、
「此の大石寺は高祖より以来、今に仏法の付嘱切れず、次第して候間、得給へる人抔は仏法・世間の御沙汰、高祖の御時に少しも遠はず候」
と仰せられ、また日寛上人が、
「但吾が富山のみ蓮祖所立の門流なり、故に開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」
と仰せのごとく、本宗伝統の法要化儀の一切は、その大綱において、大聖人以来、いささかも変わるものではありません。本宗の化儀とは、まさに本因下種の仏法の深い意義を現実に表明し、体現するものであります。換言すれば、本因下種の仏法のあらゆる意義は、本宗伝統の法要儀式をはじめとする信心化儀によって、現実世界に顕現するのですから、古来化儀即法体と称するのであります。したがって、およそ本宗の信徒である以上、葬儀・法要をはじめとする一切の化儀は、必ず宗門の定めに従って執行されなければならないのであります。
第二 そもそも宗教法人創価学会は、本宗法規に定めるところの法華講支部ではありません。しかるにその創価学会に対し、宗門が現在まで本宗の信徒団体として認容してきた所以は、昭和二十六年創価学会の宗教法人設立申請時における、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること。
②当山の教義を守ること。
③三宝(仏法僧)を守ること。
という、宗門に確約した三原則の遵守を条件とするものであります。ところが創価学会は、先に昭和五十二年路線でこの三原則を無祝し、本宗の伝統法義から大きく逸脱したのであります。具体的には、御本尊模刻という前代未聞の大謗法をはじめ、戸田会長の悟達を創価仏法の原点とする誤り、大聖人直結という血脈無視の誤り、小説『人間革命』を現代の御書とする誤り、会長への帰命や会長を主師親三徳・大導師・久遠の師とする誤り、寺院・僧侶軽視の誤り、謗法容認の誤り、在家が供養を受けられるとする誤り・学会こそ僧宝とする誤り、池田流師弟観の誤り等、数多くありました。これらは、要するに「北条文書」や、「山崎・八尋文書」などの学会機密文書に明らかなごとく、「学会は主・宗門は従」という視点から、宗門を創価学会の外郭団体とするか、もしくは日蓮正宗から独立しようという意図に基づくものでした。
しかし、この時は、先師日達上人の善導等によって反省懺悔を示し、さらに昭和54年4月、池田氏が、会長・総講頭を引責辞任するに及び、同年五月三目、創価学会が今後、信徒団体としての基本を、忠実に守ることを条件として、ようやく収束したのであります。その間昭和53年の、『六・三〇』では、法義上の逸脱が是正され、また通称『お詫び登山』といわれる昭和53年の『十一・七』では、当時の北条理事長が、
「宗門と学会との30年余りに及ぶ関係を顧みたうえで、創価学会は昭和27年の宗教法人設立時の『三原則』を遵守し、日蓮正宗の信徒団体としての性格を、いっそう明確にしてまいる方針であります。」
と述べ、また辻副会長は、「教学の基本について」と題して、
「この戒壇の大御本尊を厳護するためにこそ、日蓮正宗の厳粛なる化儀・伝統があるのであり、その点われわれ信徒は、よく認識していかねばなりません。」
と述べて、創価学会の昭和五十二年路線における数々の逸脱を深く反省し、法人設立時の三原則に立ち返り遵守することを、三宝の御宝前に誓ったのであります。さらに、池田氏も、翌昭和55年4月2日、「恩師の二十一二回忌に思う」と題する所感の中で、
「私が、恩師の『創価学会の歴史と確信』の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その深き意志も解せず、僧侶・寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し主客転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟ゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申し上げるものであります。」
「御書の拡大解釈や逸脱については、すでに『六・三〇』(教学上の墓本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範であります。」
と、昭和五十二年路線における創価学会の逸脱は、全て池田氏自身の慢心に基づくものとして懺悔し、また「六・三〇」は、創価学会として、万代にわたって、絶対に破るべからざる規範と明記したのであります。
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from: 21世紀さん
2009/03/10 08:20:16
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「Re:第二次創価学会問題」
資料⑲(同志葬・友人葬に関する通告)
通告文
最近、創価学会では、会員のみの同志葬・友人葬と称すみ僧侶不在の葬儀(以下、学会葬という)を執行するなど、組織を挙げて、本宗伝統の化儀を改変しております。これは、まさに大聖人の仏法と富士の立義を破壊する謗法行為であり、日蓮正宗として、絶対に認めることはできません。
一、 日蓮正宗の信仰の根幹は、大聖人・日興上人以来の師弟相対の信心化儀を中心とした、化儀即法体の法門にあります。したがって、本宗の信徒は、下種三宝を帰命の依止処として、師弟相対の信心化儀を修することによって、はじめて所願が成就するのであります。下種三宝とは、仏宝は本仏日蓮大聖人、法宝は本門戒壇の大御本尊、僧宝は第二十六世日寛上人が、「所謂僧宝とは日興上人を首と為す、是れ則ち秘法伝授の御弟子なるが故なり」と仰せのごとく、唯我与我の日興上人をはじめとして、唯授一人血脈付法の御歴代上人の全てにわたるのであります。故に、本宗の僧俗は御法主上人を仏法の大師匠として、師弟相対の信心に励まなければなりません。さらに、御法主上人に信伏随従する一般僧侶も僧宝に含まれますから、信徒各位は、所属寺院の住職・主管を血脈法水への手続の師匠と心得なければなりません。
日寛上人は、『当流行事抄』において、「但吾が富山のみ蓮祖所立の門流なり、故に開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」とお示しですが、根本行である勤行を中心とする本宗伝統の信心化儀の一切は、その大綱において、唯授一人の法体血脈と、それに基づく総本山の山法山規等によって、大聖人御入滅より七百年を経た現在まで、厳然と伝わっているのであります。したがって、およそ本宗の信徒である以上、必ず宗門の定める化儀作法に従って、信行に励まなけれぱなりません。
二、 そもそも本宗における葬儀とは、故人の臨終の一念を扶助し、臨終に正念を遂げた者も遂げられなかった者も、ことごとく、本有の寂光へと尊き、本因妙の即身成仏の本懐を遂げしめる重要な儀式であります。すなわち、臨終の正念が各自の信心の厚薄によるのに対し、葬儀は、故人の即身成仏を願う遺族親族等の志によって執行され、下種三宝の当体たる御本尊の徳用によって、その願いが成就するのであります。この葬儀の式は、他の一切の化儀と同様、正式にせよ略式にせよ、総本山の山法山規に準拠することが宗是ですから、必ず本宗伝統の化儀・化法に則って厳修されなければならないのであります。
葬儀において大切なことは、御本尊と引導師、及び戒名等であります。まず、申すまでもなく、葬儀における御本尊は、古来、御法主上人の特別な御指示による場合以外は、導師御本尊を奉掲するのであります。また、引導師は、僧俗師弟の上から、必ず僧侶がその任に当たるのであります。戒名等については、後に述べることといたします。
三、 日興上人の『曾禰殿御返事』に「なによりは市王殿の御うは(乳母)他界御事申はかり候はす、明日こそ人をもまいらせて御とふらひ申候はめ」と、当時、僧侶が導師を務めて信徒の葬儀を執行したことを示された記述が存しております。
次に、第31世日因上人が、「私の檀那の筋目之を糺すべき事、此は師檀の因縁を示す檀那は是俗の弟子なり、故に師弟血脈相続なくしては即身成仏に非ず、況や我が師匠に違背せるの檀那は必定堕獄なり乖背は即不信謗法の故なり」と仰せのごとく、本宗における僧侶と信徒との関係は、師匠と弟子との関係にありますから、信徒は所属寺院の住職・主管を師匠とする師弟相対の信心に住さなければ、即身成仏の本懐を遂げることはできません。この師弟相対の筋目は、本宗信仰の基本でありますから、信徒が亡くなった場合も、必ず所属寺院の住職・主管の引導によって葬儀を執行しなければならないのであります。もし、これに反すれば、下種三宝の血脈法水に対する師弟相対の信心が調いませんから、即身成仏どころか必定堕地獄となります。
本宗僧侶は、本宗規定の化儀に則って修行し、御法主上人より免許を被って法衣を着しますが、この本宗の法衣には、仏法の無量の功徳が具するのであります。日寛上人は、「出家は身心倶に釈子なり。在家は心の釈子なり」と御教示ですが、僧侶はこの法衣を着するゆえに身心ともに僧宝の一分に加わり、血脈法水への手続を務めるのであります。したがって、短絡的に、僧侶個人の力用によって、故人が即身成仏を遂げるなどと解するべきではありません。もとより僧宝の一分として葬儀を執行するの、でありますから、当然、僧侶はその心構えが大切であります。その心構えについて、日有上人は、「仏事追善の引導の時の廻向の事、私の心中有るべからず」と仰せられ、また日亨上人校訂、富士本日奨師編の『興門宗致則』に、「所詮大強盛の信力を以て欲心余念を絶し偏に下種の三宝を祈るべし。一人の霊魂引導の事は容易にあらず最も貴重なるものなり」とあります。すなわち、僧侶が僧宝の一分としての立場から、余念を絶し私心なく大聖人以来の血脈法水への手続の引導を務めることによって、故人が下種三宝の当体たる本門の本尊の功徳力用に浴し、ここに本因妙の即身成仏を遂げることができるのであります。
これに対し、本宗伝統の化儀を無視し、創価学会独白に僧侶不在の葬儀を執行するならば、それは下種三宝の意義を欠く化儀となり、決して即身成仏の本懐を遂げることはできません。それどころか、本宗の師弟相対の血脈次第の筋目を無視した罪によって、故人や遺族はもとより、導師を務める者も、必ず謗法堕地獄となるのであります。
四、 次に、現在葬儀において必要とされる戒名と位牌について述べておきます。戒名とは、仏法の三帰戒を受けた名でありますから、まさに法名と同意であります。本宗においては、大聖人の御父には妙日、御母には妙蓮、総本山開基檀那の南条時光殿には大行という戒名があるごとく、戒名は、大聖人の御在世当時から付けられております。戒名は、生前に付けられる場合もありますが、現在では、死後、葬儀の折に付けられるのが一般となっております。それは、葬儀には、本宗の化儀の上から、戒名が必要不可欠だからであります。日有上人は、葬儀等における戒名の重要性について、「仏事追善の引導の時の廻向の事(中略)当亡者の戒名を以って無始の罪障を滅して成仏得道疑ひなし」と、導師が御本尊の功徳力用を願うとき、戒名に寄せて故人の無始以来の謗法罪障を消滅して、即身成仏の本懐を遂げる意義を仰せであります。したがって、本宗信徒は、御法主上人ないし所属寺院の住職・主管に、戒名の命名を願うべきであります。
また、位牌については、現在葬儀において、世間一般に広く用いられております。日有上人は、儒家伝来の俗名のみを記した世間通途の位牌は、「理の位牌」であるから用いるべきではないと仰せであります。本宗で用いる位牌は、妙法の題目の下に故人の戒名等を認めることによって、御本尊の示し書に準じて師弟相対の意義を顕した「事の位牌」であります。したがって、日有上人は、通途の位牌を禁じられる一方で、「又仏なんどをも当宗の仏を立つる時」と仰せであります。日亨上人がここでいう「仏」を位牌と釈されるごとく、日有上人の当時、既に現在のような、仮の位牌が立てられていたことが示されております。また、日達上人は、「位牌というものは亡くなった人の姿をそこに顕わすのであります。」と仰せられております。
現在、本宗で位牌を用いるのは、このような意義に基づくのであります。但し、日常の信行から見れば、過去帳記載までの仮の建立でありますから、決して信仰の対象とはなりません。
五、 以上、本宗本来の化儀・化法の上から、葬儀の在り方を述べました。創価学会においても、牧口常三郎初代会長の葬儀は日浮上人(当時、歓喜寮主管)の導師によって、戸田城聖二代会長の葬儀は日淳上人の大導師によって、北条浩四代会長は日顕上人の大導師によって執行されました。その際、それぞれ御法主上人より尊号(戒名)を頂戴しております。また、池田xx名誉会長の母堂いち殿及び次男城久殿が亡くなった際にも、御法主上人より尊号(戒名)をいただき、本宗僧侶の導師によって葬儀を執行されております。このように、従来、学会員の葬儀は、みな本宗伝統の化儀に従って執行されてきたのであります。現に、聖教新聞社文化部編『やさしい冠婚葬祭』や潮出版社の『私たちの冠婚葬祭』では、位牌・戒名等も含め、本宗の化儀に則って日蓮正宗の葬儀を解説しております。
ところが、最近では、僧侶を不要とする学会葬が、全国各地で盛んに執行されております。しかも、そこでは導師御本尊を奉掲せず、当然のことながら本宗の戒名はなく、また位牌があっても本宗の位牌ではありません。本来ならば、このような現状に対し、創価学会は、機関紙や会合等で本宗本来の化儀に立ち返るよう、全会員に指導徹底すべきところであります。
しかし、創価学会では、大聖人の御書中に、信徒の葬儀に関する直接的な記載がないことを奇貨として、むしろ学会葬を奨励しているのであります。御書中にないからといって、僧侶の導師による葬儀が行われなかったとするのは、早計であり、独断であるといわざるをえません。
特に、平成3年8月7日付『創価新報』では、「僧侶ぬきの葬儀では成仏しないとの妄説」「戒名も後の時代に作られた形式」などの見出しを付け、また9月26日付『聖教新聞』では、「“僧侶の引導により成仏”は誤り」などと見出しを付けた上、「僧侶なしでは成仏できないと不安がる必要はないのです。これまで述べてきたように、葬儀は決してその形式に意味があるのではありません。苦楽を分かち合った遺族と信心の同志による真心からの追善をこそ、故人は最も喜ぷことを知っていただきたいものです。」と、本宗の化儀・化法と全く正反対の、信徒としては許されない教義上の謬見を述べ、信心を狂わせているのであります。
このように、導師御本尊を奉掲せず、僧侶を不要とし、戒名・位牌等を愚弄する学会葬は、明らかに本宗の血脈師弟義に背いた大謗法であります。このことは、創価学会の本宗信徒団体としての存立自体に、大きく影響を及ぼす問題であると考えるものであります。
よって、貴殿らには、以上のことを深く反省された上、学会葬の誤りを率直に認め、速かに本宗本来の化儀に改めるべく、その措置を講ぜらるよう、厳に、通告するものであります。
平成3年10月21日
日蓮正宗総監 藤本日潤
創価学会会長 秋谷栄之助殿
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from: 21世紀さん
2009/03/10 02:34:02
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「Re:第二次創価学会問題」
唯授一人の血脈の当処は戒壇の大御本尊と不二の尊体
また、私どもが、「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますらであります」と述べたことに対し、「驚くべき法主本尊不二論を述べています。先生方のこの言によりますと、御法主上人は戒壇の大御本尊と不二の尊体、すなわち同一の存在ということになりますが、何を根拠にこのように断定されるのでしょうか。法主大御本尊論、法主本仏論は一体、御書のどこに説かれているのでしょうか」などと、またもや日顕上人や日達上人のお言葉の都合の好いところだけを引用して、疑難してこられました。
驚いたのは、むしろ私どものほうです。御法主上人が絶対であり、敵対することが謗法であることは、池田xx氏の、
いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。
との指導にも明らかではありませんか。このような池田xx氏の発言を証拠として挙げるならは、それは枚挙にいとまがないほどであります。特に、「恐ろしき謗法であり」との言は、
凡(およ)そ謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり。 (全集142頁)
との『真言見聞」の御金言に基づくものでありますから、かつて池田xx氏が御法主上人を僧宝にましますと認識されていたことは、動かしようがない事実なのであります。貴殿らは、このような発言をどのように思うのか、ぜひ、教えていただきたいものであります。
さて、三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体にましますということであります。外相(げそう)においては、確かに仏法僧は別体でありますから、日顕上人や日達上人の仰せのように、歴代の御法主上人が、ただちに御本仏大聖人ではありません。しかし、御所持あそばす唯授一人金口(こんく)相承の当処は、まさに人法一箇の御尊体なのであります。
したがって、日寛上人は、
若(も)し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂(いわゆる)法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方(まさ)に名づけて円仏と云うなり。亦復(またまた)一器の水を一器に写すが故に師弟亦(また)体一なり一故に三宝一体なり。 (歴代法主全書四-292頁)
と、内証の上から、本宗の三宝は一体不二であることを仰せであります。したがって、『御本尊七箇之相承』の、
日蓮在御判と嫡嫡(ちゃくちゃく)代代と書くべしとの給う事如何(いかん)。師の曰(い)わく、深秘なり、代代の聖人悉(ことごと)く日蓮なりと申す意なり。 (日蓮正宗聖典379頁)
との御相伝は、まさに内証において、三宝が一体であるというところに約されたものと拝すべきであります。貴殿らは、私どもの指摘を「法主本仏論」と断定しておりますが、それは、貴殿らが、このような本宗相伝の深義を、信心をもって拝そうとしないからであります。
否、それだけではありません。貴殿らは、唯授一人血脈付法の御歴代上人に、宗義上の違背があったなどということを無理に仕立て、どうにかして日顕上人を陥れようと、狂言綺語(きご)を弄(ろう)しているのであります。そもそも、貴殿らは、唯授一人血脈付法の御歴代上人に、宗義上の違背があったなどと言うことが、何を意味するものか判っているのでしょうか。それは、まさに金口血脈の否定、あるいは断絶であります。血脈否定の論拠として、日精上人の「造仏問題」と、日恭上人の「神札間題」を取り上げておりますが、貴殿らは、もはや魑魅魍魎(ちみもうりょう)と化してしまったのでしょうか。
日精上人の「造仏問題」については、特に学会青年部を扇動して、盛んにあげつらっているようでありますが、これは五十二年路線の時に、既に学会で用意されていたといわれる血脈否定の論難の一部ではありませんか。当時、秘匿(ひとく)されていたようですが、内部文書の流出に伴って露見し、関係者を驚かせておりました。
久保川法章ら正信会の徒輩は、血脈否定の論拠として、これを悪用したのであります。しかるに、それから十年を経た今日、今度は、それを用意した本家、すなわち貴殿ら学会が、日顕上人陥れのために、いよいよその本性を剥(む)き出しにしてきたのであります。十年前、私どもがこの文書の存在を知った時、まさか学会がこのようなものを用意していたなどとは信じられませんでした。しかし、今回、貴殿らがこうして論難してきたことによって、それがまぎれもない事実であったことを、私どもは確認できました。
十年前、日精上人に対する疑難が久保川法章ら正信会の徒輩からなされたとき、水島公正師によって、明解な反駁書(はんばくしょ)が出されております。その当時、貴殿らは、それを知っていながら、何も異義を唱えなかったではありませんか。それにもかかわらず、十年を経て心を翻し、日精上人を難ずるとは、まさに退転者と言うべきであります。このような貴殿らの定見のなさは、門外漢からの俗難さえかわせないことを指摘いたしておきます。
貴殿らは、「先生方の言われるように、日精上人が『戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします』ならば、何故、釈迦仏の造立(ぞうりゅう)という大謗法を犯した上に、それを正当化する『随宜論』を著したのでしょうか。また、この書も『大聖人の仏智による御指南』であり、たとえ宗義違背の謗法の指南でも『信伏随従』しなければならないとお考えなのでしょうか」と、日精上人を「大謗法」と罵(ののし)り、法主否定の論拠としていますが、まさに不知恩の極みと言わねばなりません。この論旨は、実に卑劣な悪智慧を働かせたもので、直接的には血脈を否定することはしないふりを装いながら、実質的には血脈相承を否定しようとするものであります。貴殿らは、いつから正信会の信徒になったのでしようか。
日精上人は、はじめ京・要法寺日揺の弟子となりましたが、後に大石寺に登り、総本山第16世の日就上人に従って宗義を学ばれ、寛永9年、日就上人より法を付嘱されて、総本山第17世の法灯を承継されました。第26世の日寛上人は、この日精上人の御説法を聞いて入信し、出家を志されたのであります。
日精上人は、一時期、確かに造像されたこともあったようですが、それは御登座以前のことであり、御登座以降における造像はありません。しかも、日精上人御自身、「当家甚深の相承の事。全く余仁は一言半句も申し聞く事之(こ)れ無し、唯(ただ)貫首一人の外は知る能(あた)わざるなり。仍(よっ)て染筆する者なり。・・・又本尊相伝、唯授一人の相承なるが故に代々一人の外は書写すること之れ無し。 (歴代法主全書二-314頁)
と仰せの上は、どうして疑うことができましょう。なお、時局協議会のほうから、貴殿ら学会による日精上人への疑難に対し、その破折の文書が出されるということなので、ここでは申しませんが、日精上人の造像を無理に喧伝(けんでん)した、要法寺寿円日仁の『百六対見記』の記述についても、また『随宣論』の末文の読み方についても、それぞれ問題があることだけ、ここで申し述べておきます。
次に、貴殿らは、「神札問題」により、総本山第62世日恭上人の御教導を大謗法と断じていますが、この問題については、既に時局協議会によって破折されております。それだけでなく、牧口会長が靖国神社に参拝していたことを、反対に指摘され、さらには、創価学会が神札を容認していたという「通諜」の写しまで紹介されたではありませんか。
しかも、それによって慌てた学会男子部が、「通諜」とは、戦後入信した法華講貝によって偽造された謀略文書であり、確実な証拠を入手しているなどと言っているのであります。しかし、それが貴殿らお得意の嘘であることは、いまだに証拠とやらが発表されていないことによって明らかです。学会にとって、証拠の発表ができないならば、ただちに日恭上人に対したてまつり、懺悔謝罪すべきであり、また会員への誤った指導を訂正すべきであります。
ともかく、貴殿らは、御法主上人を陥れ、池田xx氏を正当化するためには手段を選ばず、常にこのような捏造(ねつぞう)をもって、仏法を欺(あざむ)いているのです。このようなことばかりして、貴殿らには、本当に恥じる心が起こらないのでしょうか。いやしくも門葉に隠れて、まさにその根を伐(き)らんとし、かつその流れを汲んで、まさにその源を塞(ふさ)がんとする、師子身中の虫と断ずるものであります。覆水盆に返らずとは、まさにこのことです。大乗波羅夷(はらい)罪の中に、談他過失戒あるいは自賛毀他戒、また毀謗三宝戒等が説かれておりますが、貴殿らは、まさにこれらの戒を破る大罪を犯しているのであります。この波羅夷は無余と訳しますから、貴殿ら50年の功徳は、既にその全てが消し飛んでなくなったことを申し添えておきます。
池田創価学会は波木井入道と同轍の反逆者
第四に、貴殿らは、私どもが、「宗門に対して、多大な功績を挙げるならば、池田名誉会長よりも、七百年前の波木井入道のほうがはるかに上であります」と述べたことに対して、異常なほどの反感を剥(む)き出していることであります。
そもそも、波木井入道が、御本仏大聖人の外護者であったことは、大聖人の晩年の御化導が、身延の地においてなされたということからも否定できますまい。深くは申しませんが、この身延期における御化導において、大聖人は、三秘総在の本門戒壇の大御本尊を御建立あそばされ、また『法華取要抄』をはじめ、三大秘法の深義に関する幾多の重要御書を著わされ、さらに『御義口伝』、御本尊相承等の重要な法門と法体の付嘱をもって、未来永劫にわたる妙法流布の礎(いしずえ)を築かれたのであります。その礎があったればこそ、大聖人御入滅後七百年を経た今日の宗門もあり、私どもも正法に浴することができるのであります。
この三大秘法の整足という一大事と、末法万年の広布の礎の確立という、御本仏大聖人の身延期御化導の根本的意義に対して、直接、外護の任に当たられたということから、波木井入道の功労、功績が甚大であったことを知ることができるのです。創価学会とて、この礎と宗門七百年の正しい伝統の上に、はじめてその存在意義をもつことができるのです。私どもはこの御本仏の御化導に約して、その功績の大なることを申し上げたのであります。
しかし、こうした大功労者であっても、大聖人御入滅の後、名利(みょうり)の欲望と、慢心と、教義の誤りにより、波木井入道は血脈付法の日興上人の御意(みこころ)に反して、四箇の謗法を犯し、謗法の逆徒と化してしまったのであります。ところが、それから七百年を経た今日、やはり宗門興隆の大功労者と言われる人物が、波木井入道と同じ轍(てつ)を踏もうとしているのであります。すなわち、池田xx氏であり、貴殿らであります。私どもは、それを黙視することができないのです。
池田xx氏をはじめ貴殿ら創価学会は、何かといえば、すぐ、寺院をこれだけ建立した、これだけ御供養した、これだけ折伏をしたなどと、自ら大功績者、大功労者を気取っておりますが、これを慢心と言わずして何と言えましょう。同じことが、11・16のスピーチの中にも見られましたが、そこには、絶えず見栄(みえ)と権力の誇示があり、露骨に名誉と見返りを望む池田xx氏の姿があったではありませんか。このような精神をきょう慢(きょうまん)と言うのであります。私どもは、こうした池田xx氏や貴殿らのきょう慢の精神を戒め、富士の清流へ帰るよう叱陀(しった)し弾呵(だんか)しているのです。池田xx氏には、確かに多大な功績があり、功労があります。それは、本宗僧俗の押し並(な)べて認めるところであります。しかし、それによって、きょう慢の心を起こしてしまっては、かえって三途(さんず)の業因(ごういん)を増すだけであります。私ども僧俗は、常に広布のお手伝いをさせていただく、あるいはお手伝いをさせていただいたという精神でなくてはなりません。池田xx氏や貴殿らは、反対に清浄な本宗の信心を失い、きょう慢の心を生じてしまったのであります。これだけ御供養したから、あるいはこれだけ貢献したから、自分には絶大な功徳があるなどと他に向かって誇示するのは、唯物論者のすることであって、決して本宗信徒のすることではありません。
その証拠に、貴殿らは、私どもが「宗門に対して、多大な功績を挙げるならば、池田名誉会長よりも、七百年前の波木井入道のほうがはるかに上であります」と申したことについて、何と、「一体、波木井は正本堂、大客殿をはじめ三百数十か寺の建立寄進をしたのでしょうか。また、全日本、全世界に、大聖人の仏法を布教したのでしょうか」などと、根本の法体あってのことを忘れて、事相の功績の多大なることばかりを誇示し、まるで幼児がダダをこねているかのように、我慢偏執(へんしゅう)の心を剥き出しにしているではありませんか。ここに、貴殿らの傲慢(ごうまん)にして諂曲(てんごく)した精神と、還同外見(げんどうげけん)の信仰姿勢を見るのであります。これでは、もはや仏教者とは言えますまい。
貴殿らは、波木井入道には四箇の謗法があるが、池田xx氏がいつ四箇の謗法を犯したか、などと強言しておりますが、今日、池田xx氏のきょう慢心をもととする三宝破壊、血脈否定につながる大謗法をはじめ、池田創価学会による本宗の化法や化儀の改変は、まさに猪突(ちょとつ)猛進の様相を呈しているではありませんか。十数年前において、既に御本尊模刻をはじめ、様々な謗法を犯してきたことを、貴殿らは、もう忘れてしまったのでしょうか。池田xx氏の犯した数々の謗法は、むしろ火を見るより明らかです。一体、貴殿らは、
懺悔(さんげ)すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし。 (全集443頁、)
との御文を、どのように拝するつもりなのでしょうか。
貴殿らにとって、池田xx氏を波木井入道に擬(なぞら)えられることは、非常に苦痛のようですが、実際に同轍を踏んでいるのですから、仕方がありません。そのことを省みず、かつて正信会や山崎正友氏も、池田xx氏のことを波木井入道と見傲(みな)したことを挙げ、私どもに悪態をついて、果たして、何になるというのでしょう。それ自体、貴殿らの無慚無愧(むざんむき)の非宗教者的な体質を物語っているのです。そんなに池田xx氏のことを波木井と言われるのがいやならば、提婆達多がよろしいのでしょうか。それとも、第三の上慢にでも擬えてほしいのでしょうか。いずれにしろ、池田xx氏の現在の姿を見れば、仏法反逆の徒でしかないのであります。
このような貴殿らの誤った信仰姿勢を省みず、「学会からの御供養を返せ」など、もってのほかであります。それは、まさに、御本尊に御供養申し上げたものを、御本尊に向かって返せと言っているようなものであります。貴殿らの御供養は、御本尊の功徳のあらわれではありませんか。その功徳は、全て本宗所信の法体たる人法一箇の御本尊に帰するのであります。貴殿らは、その広大無辺の功徳聚(くどくじゅ)たる御本尊を、歴代の御法主上人に御書写していただき、各寺院からお貸し下げしていただいたことを、何と心得ているのでしょうか。まさに御本尊を冒涜(ぼうとく)し、仏法そのものを侮蔑(ぷべつ)する不知恩の輩であります。
なお、また御供養された方々の中に、以前より法華講に所属していた方や、諸般の事情によって学会を脱会された法華講員が、少なからずおられることも事実であります。その方々の御供養された分はどうするというのでしょうか。さらに言えば、貴殿ら創価学会では、脱会して法華講員になられた方々を反逆者扱いしておりますが、その方々が今まで納めてきた広布基金や特別財務の納金は、本人に返金しておるのでしょうか。貴殿らの論法では、それがなされていなければおかしいと思いますが、いかがですか。
法華講員・直属信徒として受け入れるのは当然の責務
第五に、貴殿らは、本宗各寺院において、学会の非に気が付いた会員を、積極的に法華講や直属信徒として受け入れていることに対して、「檀徒づくり」と評し、またそれを是(ぜ)としたことについて、「開き直りの一大暴論」などと言っております。はなはだしいのは、「御本尊を持った人をかすめとっている」という言葉に含まれる異常感覚であります。
何が「かすめとる」ですか。かすめとるも何も、本来、貴殿らを含め、学会員は、皆、学会員である前に、本宗の信徒であるはずです。だから、御本尊を持(たも)っているのでしょう。その御本尊をお貸し下げしたのは御法主上人であり、各寺院であります。その人たちを、寺院の直属信徒として受け入れていくことが、なぜ、かすめとることになるのでしょうか。学会の法人設立の三原則にも、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させること」という条項があったではありませんか。貴殿らには、常識というものがあるのでしょうか。このことは、貴殿ら創価学会の存立墓盤にも関わる問題です。よくよく沈思黙考すべきであります。
また、その「かすめとる」という言葉には、貴殿らの、何か非常に深い不浄な心根(こころね)のあることが窺(うかが)われます。それは、池田xx氏や貴殿ら首脳幹部による、本宗の信徒、ことに創価学会員に対する私物化です。会員は、皆、学会の信徒であり、池田教の信徒であるという傲慢(ごうまん)な精神が、この「かすめとる」という一語にあらわれております。そこには、当然、「学会は主、宗門は従」、あるいは「全ての中心は池田xx氏であり、法主といえども池田xx氏に従わなければならない」という、本末転倒の考え方が土台となっているのであります。
ともあれ、本宗本来の信仰を正しく修行しようとする心ある一般会員が、池田xx氏や貴殿ら首脳幹部の傲慢な精神や三宝破壊の大罪に気付き、学会を脱会して寺院の法華講や直属信徒となっていっていることは、まぎれもない事実であります。この現実相に直面しても、貴殿らは、未だに何も反省をせず、ただ開き直って暴言を吐いているのであります。つまり、ただ修羅の感情を盛んに燃え上がらせるばかりで、何ら道理を見ようとしないのであります。しかし、もはやそのようなことをしているときではありません。一刻も早く、貴殿らの傲慢不遜(ふそん)な精神を反省し、懺悔して正信に帰すべきであります。
勇気をもって池田xx氏を諌めよ
以上、貴殿らの書面にあらわれた種々の謗法を、本宗の血脈仏法の上から指摘し、破折するとともに、再度、正信に目覚めるための一助として認(したた)めました。要は、貴殿ら自身が、蒙霧(もうむ)の迷いを晴らして、池田xx氏の説く似非(えせ)仏法
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from: 21世紀さん
2009/03/10 02:12:41
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「Re:Re:第二次創価学会問題」
池田創価学会の傲慢体質は明白
さて、7月21日付の貴殿らの書面に対して、私どもは、貴殿らの基本的な誤りを、五箇に括って指摘し、破折いたしましたが、貴殿らは、今回の書面で、更に我見や妄見をもってそれらをすり替えて、漱石枕流(そうせきちんりゅう)の疑難をしております。あまりにも荒唐無稽(こうとうむけい)な内容に、私どもは呵々(かか)大笑してしまいましたが、今一度、慈悲の上から貴殿らの蒙(もう)を啓(ひら)くことにいたします。
第一に、貴殿らには、本宗の信徒としての心構えが、何らできていないということであります。特に、11・16における池田xx氏の「猊下というものは」云々という発言について、貴殿らは、「冷静に判断して、この発言のどこが間違っており、何ゆえ、大騒ぎしなければならない問題なのでしょうか。全くこの通りではありませんか」居直っておりますが、もはや開いた口が塞(ふさ)がらないとしか言いようがありません。
ただ学会側の本年1月1日付の回答をゴリ押しするだけで、それ以上の発展が何も見られません。その貴殿らの精神を言うならば、宗門側の『お尋ね』に対して・虚偽捏造をもととする九項目の悪辣(あくらつ)な『お伺い』を、その回答に代えてきた池田xx氏の、傲慢無礼な精神そのものであります。
そもそも、池田xx氏の、「猊下というものは」云々発言に対する、学会側の「日達上人のお言葉の趣旨を強調し敷衍(ふえん)したもの」との苦しい会通(えつう)は、明らかに誤りでありま。それは、本年1月12日付の宗務院からの指摘を読めば、すぐに理解できることです。
それよりも、宗務当局が、この発言について、なぜ厳しく糾弾をするのかということを果たして貴殿らは考えたことがあるのでしょうか。発言当時、総講頭の立場にあった池田xx氏に、日蓮正宗の信徒として、常に模範的な信仰姿勢が要求されるのは、むしろ当然のことです。池田xx氏の「猊下というものは」云々の発言が、それに反するから問題になったのではありませんか。池田xx氏に、五十二年路線の反省がなく、当初から基本的な信仰心が欠落していると判っていたならば、最初から、それに対する別の処置もあったはずです。
貴殿らをはじめ学会首脳幹部は、「猊下というものは」云々の発言を正当化するため、いたずらに言葉の解釈に執(とら)われるのです。一般の客観的事物を対象にして言えばそれは間違っていないかもしれません。しかし、主観的信仰的立場で見れば、やはりこの発言は不遜(ふそん)であり無礼であります。このことは、例えば総理大臣や会社社長といった客観的社会的立場の人と、もっとも崇高であるべき信仰の、そのまた命脈(めいみゃく)である血脈付法の御法主上人とを、貴殿らが同一次元で捉(とら)えている証拠であります。結局、貴殿らには、純粋的信仰の次元で、唯授一人血脈付法の御法主上人を拝する心がないのであり、本宗信仰の基本的な拝し方に誤りがあるのです。
池田xx氏の「猊下というものは」云々発言の対象は、唯授一人の血脈を承継あそばされる御法主上人にあらせられますが、その法体は、日蓮正宗の信仰の命脈であります。したがって、日蓮正宗の僧俗が、発言等において御法主上人に及ぷ場合、公私を問わず、そこには必ず深い信仰的尊崇の念と、その念から必然酌に起こる言葉の選択がなけれぱなりません。それが信徒であるならば、なおさらのことです。かりに客観論や一般論として述べる場合であれ、決して「猊下というものは」などと、尊崇すべき御法主上人を評述するようなことがあってはならないのです。まして、信徒間の会合ならば、言わずもがなのことでありましよう。
また、その他の点についても、貴殿らは、「何度読み返してみても意味不明の強弁を展開しています」などと言っておりますが、そのような言葉が出ることは、普通一般の読解力のなさというより、信仰における根本的な立脚点が誤っているからです。つまり、池田xx氏のような、「猊下というものは」などと平気で口にする似非(えせ)宗教家を師匠とするから、宗門側の言う意味や道理が判らないのです。否、むしろ判ろうはずがないと、申し述べておきます。
なお、貴殿らは、「学会の指摘によってテープの悪らつな改ざんが明らかとなり、宗門はやむをえず枢要な質問を撤回せざるをえなくなった」などと、まことに勝手なことを言っておりますが、これは、反訳(はんやく)の相違をもって改竄(かいざん)と言っているのでしょうか。それとも、テープそのものを宗門が改竄したと言うのでしょうか。
もし、前者であるならば、それは、貴殿らの認識不足、または読解力不足というものであります。なぜなら、宗門側に、ごく一部分の反訳の不手際こそあれ、反訳の改竄など決してなかったのであります。今一度、1月12日付の宗務院からの指摘文を読みなおすべきです。
また、後者であるとするならば、それは貴殿らによる事実の改竄であります。なぜなら、宗門には、会場の異なる複数のテープが、全国から届けられており、どれも同様の内答であります。もし、それでもテープが改竄されていると言うのなら、学会に保存されている録音用のマスターテープとビデオテープ、及びその反訳文を公表すればよいではないですか。それをせずに、このようなことを言うのは、真実に対する卑劣なすり替えというほかありません。
池田創価学会の本尊観はまさに外道義
第二、第三については、一括して貴殿らの誤りを指摘しておきましょう。従前より指摘してきた貴殿らの誤りは、全て、ここにその根本があります。それは、文底下種の三宝と唯授一人の血脈法水とに対する貴殿らの拝し方であります。
まず、仏宝と法宝、すなわち御本尊に対する拝し方であります。私どもが、池田xx氏の誤った本尊観を指摘したことについて、貴殿らは「名誉会長がそうした趣旨の指導をしていることは事実」と認められました。ところが、また貴殿らは、池田xx氏が、かつて「御自身の内証の御境界(きょうがい)を一幅の御本尊にしたためられ、末法の一切衆生におのこしくださった」と指導したこともあることを挙げて、御本仏の己証ということを踏み外しているとは言えないと、堅白同異の論を強弁しております。
しかし、一度や二度、このような指導があったからといって、それで池田xx氏の御本尊に対する捉(とら)え方や指導の全てが、「御本仏の已証」を大前提としていたことにはなりますまい。むしろ、池田xx氏は、御本尊に関するほとんどの指導において、御本仏の御内証を踏み外しているではありませんか。それは、言い換えれば、池田xx氏の言う「御自身の内証の御境界」、すなわち「御本仏の已証」の意味するところが、やはり宇宙根源の法、あるいはその運行の法則といった法中心でしかないのです。それは、池田xx氏の「宇宙根源の法をそのまま御図顕あそばされた大御本尊」(昭和56年5月)との発言からも明らかではありませんか。
このように、池田xx氏は、宇宙根源の法、あるいはその運行の法則をもって、寿量文底の妙法と捉え、その具現化したものが御本尊であると拝するのですから、いくら与えて述べてみても、池田xx氏の本尊観は、本宗の人法一箇という根本義を踏み外した邪義であり、奪って述べれば、宇宙に遍満する法理さえ理解しているかどうかも怪(あや)しい外道義でしかないのです。
貴殿らは、『日蓮正宗要義』を引用して、あたかも鬼の首でも取ったかのように得意満面に言い放っておりますが、それこそ笑止千万のことであります。貴殿らが引用した『日蓮正宗要義』の引用箇所は、久遠元初の能証所証の本理を述べられたところであって、もともと何もおかしいところはありません。おかしいのは、池田xx氏の似て非なる偏頗(へんぱ)な本尊義なのです。
御本尊は、所証の境(きょう)すなわち法と、能証の智すなわち人(にん)とが境智冥合された、人法一箇、本有無作(ほんぬむさ)の御当体であります。『日蓮正宗要義』の、
不思議な法を覚知されたのである。それは存在の本質であり、しかも一切に通じ遍満する普遍的な法であり、大霊であった。(同書81頁)。
との文中、「不思議な法」とは所証の境すなわち法であり、「覚知」とは能証の智すなわち人(にん)であります。そして、以下の「それは存在の本質であり、しかも一切に通じ遍満する普遍的な法であり、大霊であった」が、能証所証の境智の説明であることは明白ではありませんか。したがって、『日蓮正宗要義』の「遍満する普遍的な法」との記述は、人法一箇の御本尊の「法」、すなわち久遠元初の所証の「境」について述べられたのであり、「大霊」とは能証の人格を示す語で、要するに御本尊そのものなのであります。
しかし、池田xx氏の「宇宙根源の法」との表現は、先に挙げた「宇宙根源の法をそのまま御図顕あそばされた大御本尊」との指導にも明らかなように、ただちに御本尊を説明したものであります。それは、貴殿らも認められたことです。したがって、「根源」の語が付こうと付くまいと、池田xx氏は、偏頗であいまいな理法信仰であることに変わりはありません。まさに「法」に執着した本尊観なのです。
お判りのことと思いますが、私どもは、池田xx氏の本尊観・妙法観が、仏宝と法宝に迷った、人法一箇ということを真に信解できていない、法中心の「外道の義」であることを指摘したのです。阿諛追従(あゆついしょう)して池田xx氏の正当化を図ってばかりいると、遂には仏法の本義を見失ってしまうことを、貴殿らに忠告いたしておきます。
また、貴殿らは「宇宙」なる語に、大変、固執しているようですが、私どもは、先に出した書面でも、「宇宙」という語を使用することが誤りだなどとは、一言も述べておりません。ただ、貴殿らもお判りのように、池田xx氏の捉え方が、本宗、否、仏教としての捉え方と、大きく異なっていることは否めません。
貴殿らは、指摘されたことに対して、私どもが、あたかも石田次男氏や福島源次郎氏の著書によって指摘したものと、短絡的に解しているようですが、それにしても、貴殿らは、石田氏や福島氏の教学を、何の理由も根拠も挙げず、どうして「歪んだ薄っぺらな仏法観」と評することができるのでしょう。
石田氏や福島氏は、数年前から、池田xx氏の教学の誤りを指摘し、著書等に述べております。その教学の正否は別として、池田xx氏及び学会は、今に至るまで、「退転者」などと一方的に謗(そし)るばかりで、何ら教学的な反論や破折をしていないではありませんか。そのような態度の池田xx氏や貴殿らが、ただ「歪んだ薄っぺらな仏法観」と評することは、大変な矛盾でありましょう。この際、池田xx氏並びに貴殿らは、まず、石田氏や福島氏の著作や諌言書などに対して、明確に反論し、池田xx氏の本尊観を擁護してごらんなさい。その上で、私どもが貴殿らに、正しい本尊義を示してさしあげましょう。
池田創価学会の僧宝観の蒙を啓く
さて、次に僧宝について申し述べましょう。貴殿らの僧宝観は、為にするのか、はたまた全く知らないのか、ともかく歪んだ薄っぺらな僧宝観であることに間違いはありません。貴殿らは、御先師方の都合の好い御指南のみを引いて、「僧宝は、あくまでも日興上人御一人である」としてしまいたいようですが、なぜ、そこまで依怙地(いこじ)になるのでしょうか。そもそも、学会では、いつから歴代の御法主上人が僧宝ではなくなったのでしょうか。それは、また、いかなる理由からでしょうか。
貴殿らは、当面の目的である一般会員の洗脳しか考えないから、このように無節操な法義の改変ができるのです。しかし、気付かないのは盲信状態の会員だけです。貴殿らの悪辣(あくらつ)な手練手管(てれんてくだ)に対して、世間の人々ですら、驚きを通り越し、冷ややかな目で見ております。恥を知りなざい。『大白蓮華』の昭和54年11月号、及び昭和58年10月号では、
正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。
と記述されておりますが、それは間違いだったのでしょうか。あまりにも見苦しい論述と言わざるをえません。また、日寛上人は、『三宝抄』において、
吾が日興上人嫡々(ちゃくちゃく)写瓶(しゃびょう)の御弟子なる事分明(ふんみょう)なり。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来、日目・日道、代々威(ことごと)く是れ僧宝なり、及び門流の大衆亦(また)爾(しか)なり。 (歴代法主全書四-390頁)
と明確に御教示されておりますが、貴殿らは、この御指南をどのように拝するのでしょうか。日達上人も、昭和38年5月、
二祖日興上人より歴代を僧宝と立てておるのでありまして、古来より少しも変っておりません。 (大日蓮208号頁)
と御教示され、御当代日顕上人も、去る7月末の法華講連合会第28回総会において、詳しく御教示されております。貴殿らは、切り文にして、都合の好いことばかりを述べているのであります。もはや、五逆十悪の謗(そし)りを逃れることはできますまい。
そもそも、貴殿らは、僧宝の拝し方において、総別の立て分けがあることを知っているのでしょうか。確かに、別して言えば、大聖人より直授(じきじゅ)相承せられた日興上人を僧宝の随一と仰ぎたてまつるのであります。しかし、貴殿らも引用されているとおり、僧宝の本体は、「唯授一人の血脈相承の当処」でありますから、総じて言えば、唯授一入の血脈相承をもって、人法一箇の法体を継承せられた御歴代上人は、全て僧宝にましますのであります。しからば、時の御法主上人が、その時代における僧宝の中心となるのは、むしろ当然ではありませんか。
なお、上記の日寛上人の「及び門流の大衆亦爾なり」との仰せは、以上の総別の僧宝を合わせて別と立てた上で、御法主上人に随従する一般僧侶が、総じて本宗の僧宝に含まれることを御教示されたものであります。まさに、『大白蓮華』で記述されているのは、正しい僧宝観ではないですか。
さらに言えば、以上の総別の二義を、さらに別と立てたとき、日蓮正宗の信仰をする信徒にも、総の意義において、僧宝の意義は存するのであります。すなわち、『日蓮正宗要義』に、
広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝であるといえる。 (同書307頁)
と示されるところであります。私ども本宗の僧俗は、以上の総別の立て分けをもって、正しく僧宝を拝していかなければなりません。ただし、『曽谷殿御返事』に仰せのように、それぞれの総別の筋目を外してしまえば、必ずや無間地獄に堕することになるのです。特に、貴殿らは、心しなければなりません。
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from: 21世紀さん
2009/03/10 01:50:51
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「Re:第二次創価学会問題」
資料⑱(御能化から古参大幹部への返書(2))
拝復。貴殿らよりの、8月16日付の再度の抗議書面を拝見いたしました。信仰歴50年と自負する貴殿らのことですから、今回の書面が到着したときには、「君子豹変」の故事のごとく、正直に前非を悔い、反省改心して懺悔(さんげ)してきたものと思いました。ところが、その内容たるや、7月21日付の書面よりも、なお多くの捏造(ねつぞう)と事実歪曲を交えた、低俗にして稚拙なものでありました。私どもは、貴殿らのこうした蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)の書面を見て、改めて50年もの長い間、一体、貴殿らは何を信仰してきたのかと呆(あき)れ果てるとともに、これほどまでに学会組織は腐りきってしまったのかと、哀憐(あいれん)の情を禁じえませんでした。
宗祖大聖人は、『立正安国論』に、
広く衆経を披(ひら)きたるに専ら謗法を重んず、悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、愚(おろか)なるかな各(おのおの)悪教の綱に懸(かか)って鎮(とこしなえ)に謗教の綱に纏(まつわ)る、此の蒙霧(もうむ)の迷(まよい)彼の盛焔(じょうえん)の底に沈む豈(あに)愁(うれ)えざらんや豈苦まざらんや。 (全集32頁)
と仰せであります。貴殿らが、もしこのまま執心(しゅうしん)を翻(ひるがえ)さず、また謗意を存して一生を終えるならば、必ず無間大坑(だいきょう)に堕ちることになりましょう。まさに『立正安国論』に仰せのとおりであります。
無漸な抗議書提出の真意は信徒懐柔の愚策
ところで、貴殿らは、果たして何のために、このような書面を書かれたのでしょうか。本当に、私どもへの抗議のために書かれたのでしょうか。私どもに出す書面にしては、多くの見え透(す)いた嘘と下劣な言葉をもって、ただ悪辣(あくらつ)に僧侶を見下し、罵(ののし)っているだけで、これといった内容も見当たりません。本当に貴殿らが書いたものであろうかと、その品性を疑うほど低次元なものであります。
とすると、このような書面を出される意図は、恐らく別にあるのでしょう。言わば、真実を知りつつある一般会員の目を逸(そ)らすための、権謀術数であります。すなわち、一般会員が大きな動揺を抱いているという現実問題に対する、貴殿らのまやかしです。まさに、愚策と言うべきであります。
その中で、貴殿らは、『兄弟抄』の御文を引いて、私どもに教訓しているつもりでしょうが、貴殿らこそ身に当てて、よくよく拝すべきであります。否、それ以上に、次下の、
始(はじめ)は信じてありしかども世間のをそろしさにすつる人人かずをしらず、其の中に返って本(もと)より謗ずる人人よりも強盛(ごうじょう)にそしる人人又あまたあり、在世にも善星比丘(ぜんしょうびく)等は始は信じてありしかども後にすつるのみならず返って仏をはう(謗)じ奉りしゆへに仏も叶(かな)い給ばず無間地獄にをちにき。 (同1088頁)
との御文を割目(かつもく)して見るべきであります。まさに、池田xx氏や貴殿ら創価学会首脳幹部の、現在の姿そのものではありませんか。貴殿らは、この御金言をどのように拝されるつもりなのでしょうか。
虚偽捏造によって宗門僧侶を誹謗すべからず
さて、貴殿らは、「早瀬重役の子息・早瀬義寛庶務部長は『学会もとうとう泣きついてきたな』とうそぷいたり、また宗内で『こっちには金があるから、びくともしない。たいしたことないよ』などと、暴言を吐く」などと称し、「何が泣きついてきたですか」などと、早速、居丈高(いたけだか)に嘘をついております。一体、早瀬庶務部長が、いつ、どこで、誰に向かって、「学会もとうとう泣きついてきたな」などと言ったのですか。しかも、貴殿らの中の、誰が、誰から、それを聞いたのですか。また、宗内の誰が、いつ、どこで、誰に向かって、「こっちには金があるから、びくともしない。たいしたことないよ」と言ったのですか。そして、貴殿らの中の、誰が、誰から、それを聞いたのですか。私どもも、種々聞いてみましたが、全くそのようなことはありません。貴殿らが、今回の書面のはじめに、ここまではっきりと言いきり、そして宗門を非難するのですからまずもって、誰人にも納得のいくように、このことを明らかにすべきであります。それができないのなら、これらは、貴殿らの虚偽捏造による讒言(ざんげん)であり、まさに誣告(ぶこく)であると断じます。
事実無根の御法主批判は為にする讒言
私どもが、「不確かな伝聞どころか全く事実無根による、ありもしない種々の事柄を日顕上人の発言とし、これを元として悪辣に罵り」と申したことについて、貴殿らは「私どもはこれまで、ご宗門のこと、なかんずく猊下のことについて、何の根拠もなく述べたことなど一度もございません」と居直っておりますが、貴殿らの言うことは、まさに不確かな伝聞どころか全く事実無根による、ありもしない種々の事柄ではありませんか。
貴殿らは、本年3月上旬、「『C作戦』はあの野郎の首をカットするという意味だよ」と、日顕上人が複数の僧侶に話された旨、新聞に書いであったとして、その真偽を問い、法的な措置をとるよう述べておりますが、何という破廉恥(はれんち)な行為でありましよう。
「新聞」というのは、恐らく『中外日報』のことでしょうが、私どもの回答としては、既に「不確かな伝聞どころか全く事実無根」という語をもって、貴殿らに表明したのであります。それ以外に、何が必要でしょう。そもそも、貴殿らは、宗門外護を旨とする信徒の立場ではありませんか。私どもの書面を見て、事実無根であることを知ったならば、貴殿らこそ某新聞に対して、しかるべき措置をとるべきでありましょう。それにもかかわらず、かえって根拠不明の謗法新聞の記事を根拠として、かくも御法主上人をあげつらい、卑劣にして姑息(こそく)な手段を弄(ろう)するとは、貴殿らの信仰そのものを疑うものであります。
貴殿らの言い分について、かりに与えて言ってみたところで、法的措置をとれなどということは、本来、宗務院に伺うべきであって、私どもに言うべき筋合いの事柄ではありません。幼児でもありますまいに、貴殿らは、そのようなことも知らないのでしょうか。愚痴蒙昧(ぐちもうまい)にもほどがあります。
また、「謗法のブラック・ジャーナリストと直接会って学会批判を依頼したり、今年初めには猊下の血脈を否定した張本人の犯罪者山崎正友に猊下自らが謝罪されたことは、事実無根なのでしょうか」と言い、「この点も、是非、明確に教えていただきたい」などとも述べておりますが、これも同様であります。
まず、御法主上人の御目通りについて申し上げれば、御法主上人が誰に御目通りを許されようと、何の不思議も疑念もありません。それよりも、このようなことを問題扱いする貴殿らのほうが、信徒として問題であります。貴殿らが、そんなに当日の御目通りの内容を知りたいというのなら、実際に御目通りをした高橋公純師や、某ジャーナリストの手記等を見ればよいのであります。貴殿らが、いたずらに御目通りに口を挾(はさ)むことなどは、御法主上人を冒涜(ぼうとく)することであり、誹謗罪を免れえないものであります。
また、許すべからざることは、「学会批判を依頼したり」と、断定していることです。御法主上人が、貴殿らの言うブラック・ジャーナリストに対して、どうして学会批判を依頼したと断定できるのでしょうか。貴殿らは、当日、某氏とともに御目通りをしたとでも言うのでしょうか。そのような好い加減な言行は、かえって貴殿らの罪障を深めるだけであります。
貴殿らは、そのようなことを言う以前に、もっと池田xx氏の行動に目を向けるべきであります。平和運動・文化運動などと称し、また民主化などと口ずさみながら、麻薬密売の大悪人といわれるパナマの某元将軍や、共産系独裁政治家のルーマニアの某元大統領等と会談し、親友と称して好い気になっていた池田xx氏に対して、貴殿らは、その後、どのように考え、どのように行動されたのでしょうか。反対に伺いたいものです。
「山崎正友」云々についても同様であります。そもそも、血脈を否定した者に対して、御法主上人が本当に謝罪されたとすれば、正信会の徒輩は、全員、とうに許されていなければなりません。しかし、現実は、どうでしょう。貴殿らは、このような簡単な道理も判らないのでしょうか。
そのほか、7月21日付書面で、貴殿らが御法主上人の発言として書き立てた事柄は、全て事実無根の讒言であるから、そのように申したのであります。それでも、執拗(しつよう)に本当であるというのであれば、それらの一々について、御法主上人が、いつ、どこで、誰に向かって発言され、それを誰が聞き、誰から貴殿らが聞いたことなのか、その根拠をはっきりと述べるべきであります。
九項目の「お伺い」の正当化は姑息な謀略行為
なかんずく、平成2年7月21日の池田・秋谷両氏の御目通りにおける「懲罰」云々と「総代」云々は捏造、「きょう慢謗法」云々は事実歪曲であり、まさに為にする讒謗(さんぽう)であります。しかも、「すべて紛れもない事実であります」と、まるで貴殿らが、当日の御目通りの場に居合わせたかのように断言するとは、あたかも「講釈師、見てきたような嘘を言い」とのことわざどおりではありませんか。貴殿らの書面では、常にこのような言い回しがなされているのです。
「きょう慢謗法」云々について申すならば、貴殿らは、池田・秋谷両氏が御法主上人より声を荒げて怒鳴(どな)られたなどと悪態をついておりますが、池田・秋谷両氏ならともかく、貴殿らに何が判るのでしょうか。
そもそも、このようなことは、一般的に考えてみれば、誰にでも判ることです。どこの世界に、何の過(とが)もない人に向かって、「きょう慢謗法だ!」などと言う人がおりましょうか。しかも、その発言者は、唯授一人血脈付法の御法主上人であります。かたや法華講総講頭であり、また大講頭であります。したがって、何らかの経緯(いきさつ)がなくして、軽々に仰せられる道理などあろうはずがありません。
先の宗務院の指摘を見れば明らかですが、その大前提として、昨年7月17日の連絡会議で、秋谷栄之助氏ら学会首脳幹部が、御法主上人の発言を封じ込めようとした経緯があったではありませんか。それから4日後の御目通りの折、そのことについて、御法主上人より、幾度も意を尽くして御注意がなされたのですが、池田・秋谷両氏が一向に理解しなかったので、「きょう慢謗法ですよ」とたしなめられたのではありませんか。そこのところを無視し、ただ「きょう慢だ!きょう慢謗法だ!」と声を荒げて怒鳴ったなどと、事実を歪曲して喧伝(けんでん)するとは、何という奸ねい邪智の姿でしょうか。
また、「懲罰」云々について申すならば、昨年8月20日の宗務院・学会の連絡会議において、秋谷会長が、「7月21日の御目通りの際に、猊下から懲罰にかけると言って怒鳴られた」と、非を鳴らしたことに始まるのです。私どもが聞くところによりますと、ところが、再び秋谷会長より藤本総監に電話があり、御目通りの帰途、池田xx氏は、自動車に同乗した秋谷会長・八尋副会長に、「宗門の懲罰委員会の構成はどうなっているか」と尋ねられたから、御法主上人は確かに「懲罰」云々と仰せになったと、再度言い返してきたというではありませんか。しかし、御法主上人は、絶対の確信の上から「懲罰云々などということは、絶対に言っていない」と仰せになったので、藤本総監より重ねて秋谷会長へ、電話で申し伝えたとのことです。その時、秋谷会長は、「あっ、そうですか。恐れ入ります。申し訳ありません。ありがとうございました」と応えられたので、宗務院としても、学会側がこの件についての誤解が解(と)け、納得したと思うのは当然でありましょう。
しかし、それから数箇月を経た、12月23日付の「お伺い」書で、「7月21日の御目通りの際に、御法主上人が懲罰云々といった」などと、またもや蒸し返してきたのです。このように、もともと具体的事実が存在しない事柄をもって、一度ならず二度までも疑難を呈し、その都度、決着した問題を、さらに蒸し返して御法主上人を陥れんとするところに、貴殿らと創価学会首脳幹部の陰湿にして姑息な体質を見るのであります。否、単に陰湿なだけでなく、私どもには、貴殿らというより創価学会が、御法主上人を陥れるために、わざわざ昨年の7月の時点で、御法主上人の「懲罰」云々との発言があったという既成事実をつくっておかなければならない、何か作為的なものを感じるのです。そうでなければ、いくら創価学会といえども、ここまで陰湿なことはしないでありましょう。
また、「総代」云々についても、池田xx氏または秋谷会長が、「お伺い」書で初めてつくりだした事項であり、事実と相反するものであります。12月29日付の宗務院からの書面を見れば簡単に判ることですが、貴殿らの読解力では、それすら理解できないのでしょうか。そうでなければ、御法主上人への悪印象を、全国の会員に潜在的に植えつけ、陥れようとする、貴殿らの姑息な奸計(かんけい)であると断ずるものであります。池田xx氏の指図であれば別でしょうが、もともと当日の御目通りに同座していない貴殿らのことですから、このようなことを知るはずがなく、また言う資格もありません。しかし、それでも池田xx氏や秋谷栄之助氏が事実と思っているならば、それは、宗務院からの回答で示しているとおり、当日の御目通りで、御法主上人より種々指摘され、混乱した池田xx氏や秋谷会長が、日頃の宗門誹謗の言動と相俟(あいま)って、そのように思い込んでしまったと見るべきでしょう。「総代」云々についても、実のところ・池田xx氏本人の発言があったからこそ、そのように思い込んでいるのではないでしょか。
なお、そのほかの「お伺い」書の事項についても、宗務院は厳しく糾弾しておりますから、今一度、よく読み返されることを申し置きます。貴殿らの書面では、単に「お伺い」書は真実であると言うだけで、何らその具体的根根拠を述ぺてはおりません。しかも、「しかるべき公の場で審判していただいて、一向に差し支えない」などと述べているのです。先にも申しましたが、このようなことは、本来、宗務院に対して述べるぺきであって、私どもに言うべき筋合いの事柄ではありません。どのようなつもりで、このような書面を私どもに出されたのか、基本のところで、貴殿らの認識は誤っているのです。このことは、かえって貴殿らの不見識を世間に曝(さら)すだけであります。
池田創価学会の支離滅裂な「信伏随従論」を暴く
次に、貴殿らが、日顕上人御書写の御本尊に向かって勤行していることを挙げて、「最高の信伏随従」であるなどと述べていることについてですが、まさに堅白同異の弁と言うべきであります。
それならば、本宗以外の各日蓮門下でも、皆、大聖人御図顕の御本尊を拝んでおりますが、貴殿らは、その人たちも大聖人に信伏随従していると思っているのでしょうか。そもそも、日顕上人の認(したた)められた御本尊を拝もうと拝むまいと、貴殿らが日顕上人を蔑如(べっしょ)していることは明らかです。それを、どうして信伏随従と言えましょうか。そのような精神で、日顕上人の認められた御本尊を拝んでいること自体が、狂った信仰姿勢の証明なのです。
かつて、正信会問題が惹起(じゃっき)したころ、日顕上人が、
法主の心に背いて唱える題目は、功徳がありません。これだけは、はっきりと申し上げておきます。ですから『法主にも誤りはあるんだ』などということを信者に言いふらす僧侶も、また、それを信じて平気で法主を誹謗するような信徒も同じく、そういう人の唱えるお題目には功徳はない。 (大日蓮414号16頁)
と仰せになったことを、貴殿らはもう忘れたのでしょうか。その当時、貴殿らは、なぜ異議を申し立てなかったのでしょうか。むしろ、貴殿らは、その当時、この御指南と同じことを述べていたではありませんか。
池田xx氏も、昭和56年3月、
現代においては、いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の『遣使還告』であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒(注・退転した徒輩)と同じであるといわなければならない。批判するものは、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるからである。
と述べているのです。しかし、この正論は、現在、創価学会の中で聞くことはありません。正信会の徒輩も、当初、貴殿らと同じように、日顕上人御書写の御本尊を拝んでいながら、日顕上人を誹謗したのです。つまり、現在、貴殿らの言っていることは、かつての正信会の言動そのものなのであります。今になって、自らの都合にあわないからといって、このように支離滅裂な自語相違の矛盾を述べることは、貴殿らがかつての信心を捨てた証拠であり、まさに退転者と言うべきであります。
唯授一人の血脈を無視し、日顕上人を愚弄(ぐろう)しながら、日顕上人御書写の御本尊を拝むことを挙げて、「最高の信伏随従」などと声高に述べる陳腐な論理は、池田教の中でしか通用しないことを知るべきです。まさに詭弁(きべん)も詭弁、愚の骨頂と断ずるものであります。
宗規の改正への干渉は越権行為
次に、池田xx氏の総講頭失格についてであります。本宗宗規の改正について、なぜ池田xx氏に相談をする必要がありましょうか。学会では、宗門を、権威だ、権力だと言いますが、むしろ池田xx氏に権威付けをしようと目論(もくろ)んでいるのは、学会ではありませんか。口を開けば、「宗門興隆の最大の功労者」などと言うのは、まさにその証左であります。
本宗法規の改正は、宗会という議決機関でなされるものであって、創価学会をはじめ、他の宗教法人から干渉されるべき筋合いのものではないことくらい、貴殿らとて判るはずであります。「法的措置」だの「公の場で審判」などと口ずさみ、自由・民主と唱えるわりに、貴殿ら学会は、分を超えて他の法人を威圧的に干渉し、我(が)を張っているのです。むしろ、貴殿らのことは、法人法規や民主等に愚昧(ぐまい)な斉東野人(さいとうやじん)と言うべきです。
なお、「宗門興隆の最大の功労者」ということについては、後にまた触れることにいたします。
学会の正本堂意義付けは無知蒙昧な執情
次に、正本堂の意義付けについて、「未だに回答すらできないことに、すべて日顕猊下のご説法の誤りが明らかになっております」と述ぺていることについて一言、申しておきます。
日顕上人は、本年2月27日付の「お伺い」書を見て、貴殿らの愚痴蒙昧な心根を哀憐せられ、正本堂の真の意義付けについて、その本義の上から、親しく貴殿らに御教示せられたのであります。本来ならば、この時点で、貴殿らは席を避け襟
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from: 21世紀さん
2009/03/10 01:22:15
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「Re:第二次創価学会問題」
もう一つの例を挙げさせていただきます。
昭和20年6月17日、総本山大石寺において大火がありました。「日蓮正宗富士年表」には「大石寺大坊(対面所・大奥・書院・六壷)・客殿等500余坪焼失」と記されています。この大火によって、時の猊下であられた第62世日恭上人が痛ましくも客殿管長室で焼死なされています。
この日恭上人は昭和18年6月、牧口会長ら学会幹部に対して、ご宗門の渡辺慈海部長が「学会も一応、神札を受けるようにしてはどうか」と申し渡された際、その場に立ち会われていた時の猊下であられます。牧口会長はその際、「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」と厳然と拒否されたことは、先生方もご承知の通りであります。信徒が謗法厳誠を貫いている時に、一方で、先生方が「戒壇の大御本尊と不二の尊体」と主張されるお方が、何ゆえ、神札を容認するという大謗法を犯されたのでしょうか。是非、私どもにも納得のいくご説明をお願いする次第であります。
また「戒壇の大御本尊と不二の導体」と言われるのならば、猊下は現人神のようになってしまうではありませんか。さらに正宗の僧侶が、日顕猊下のことを陰で“ヒトラー”とか“瞬間湯沸かし器”とか悪口を言ったり、批判しているのをよく耳にしますが、こうした行為は仏法上、どうなるのでしょうか。
先生方の主張に対して、様々な疑問の一端を述ぺさせていただきました。それはひとえに、先生方が唯授一人の血脈を盾にとって、法主大御本尊論、法主本仏論という大暴論を展開されたからであります。それは唯授一人の血脈を尊崇するようでいて、実際はその意義を曲げ、危険な方向に変質させてしまうことになります。つまり、信仰抑圧の道具と化してしまう危険であります。それこそ唯授一人の血脈の尊厳を失わせる仏法破壊の所業となってしまうことは明らかであります。
第三に、下種三法をめぐる幾つかの論難について糺しておきたいと思います。
まず、先生方は、池田名誉会長の指導の要約として「御本尊は宇宙に遍満する妙法をご図顕したものであるから、御本尊を拝めば大宇宙のリズムと自身のリズムが合致する」との言葉を挙げ、これを「外道の義」であり、また「(御本尊が)御本仏の已証であることを踏み外している」と非難し、それゆえに「仏宝と法宝とに迷っている」と決め付けております。
まず先生方が池田名誉会長の考え方として引用されている言葉が、何からの引用かはっきりとは分かりませんが、名誉会長がそうした趣旨の指導をしていることは事実であります。しかしそれは、あくまでも御本尊が「御本仏の已証」であることを大前提としての指導であり、「御本仏の已証であることを踏み外している」との批判は全く見当外れであります。例えば名誉会長は次のようにも述べております。
「大聖人は『日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ』と仰せになって、御自身の内証の御境界を一幅の御本尊にしたためられ、末法の一切衆生におのこしくださった。全宇宙を永遠に照らしゆく『大法』である人法一箇の『久遠の妙法』を、だれもが目の当たりに拝し、その無量の功徳に浴していけるようにしてくださったわけである」
こうした趣旨の上から、名誉会長は場合に応じて“御本尊は宇宙と生命を貫く根源の妙法を御図顕されたもの”との説明をされているのであります。なお、多くの場合、“宇宙に遍満する妙法”というよりも“宇宙と生命を貫く根源の妙法”との表現であることを申し添えておきたいと思います。「根源」という言葉に、御本仏の究極の悟りという意が込められていることは言うまでもありません。
先生方は、何を根拠にして、このような説明を「外道の義」と決め付けられるのでしょうか。もし先生方の批判が正しいとすれば「御本仏の已証」を次のように説明している「日蓮正宗要義」の記述を、どのように考えていけばよいのでしょうか。
「一念三千とは本仏の悟りと活動に名づけるのである。久遠元初、未だ仏法や一切万物の名目も存在しない古の時点において、一人の聖人が顕われた。宇宙間の一切の現象と実在を直観によって通暁され、混沌より万象に至る事理を了解し、一切の分立と統合の原点となる不思議な法を覚知されたのである。それは存在の本質であり、しかも一切に通じ遍満する普遍的な法であり、大霊であった。つまり宇宙が混沌の時代においても、また天地開闢以来森羅の差別相にあっても一貫して存在する法理、即ちまたその間のあらゆる事象、あるいは星雲の凝縮と発熱の相より、十界十如三世間の歴々たるまでの、すべてを具える不思議の大生命体である。これを聖人は妙法蓮華経と名づけられた。この妙法はまた聖人の生命の当体であり一念であって、これが宇宙法界に遍満するところを一念三千と表現するのである。したがって一念は即三千であり、三千は即一念である。この如実の法に即する人格を本仏と呼び、人格に即する法を本法という。即ち一念三千とは本仏の悟られた宇宙法界の事理、即ち現象と実在のすべてを含む法理、及びそれによって行われる衆生救済の活動であるといえる」(日蓮正宗要義)
久遠元初の仏が悟った妙法を“宇宙に遍満する普遍的な法”として説明しているこの記述は、「外道の義」を説いているのでしょうか。また、仏宝と法宝に迷った記述なのでしょうか。是非とも会通していただきたいものであります。
また、「宇宙のリズム」云云の説明は、御本尊の妙用に関する戸田第二代会長以来の伝統的な説明法であります。例えば戸田会長は次のように述べております。
「大御本尊様にむかって、この御本尊様と大聖人様と自分とが区別がないと信じて、そのありがたさを心にしみて感謝申しあげ、熱心に題目を唱えるとき、宇宙のリズムとわがリズムと調和して、宇宙の大生命が即わが生命とつらなり、偉大な生命力が涌現してくるのである」(戸田城聖全集第3巻)
もとより「宇宙」という語を使った、以上のような説明は、御本仏の已証や御本尊の妙用に関する絶対的な説明ではありません。なぜなら御本仏の已証は言語道断・心行所滅だからであります。しかし、現代人を御本尊への信に導くための、あるいは一般の人々に対する啓蒙のための、一つの有効な説明として成り立つものであります。だからこそ「日蓮正宗要義」でも、こうした記述を採用されたのでありましょう。
右記のような説明法について、鬼の首でも取ったように「外道義」などと騒いでいるのは、退転者の石田某や福島某の、歪んだ薄っぺらな仏法規であります。能化の先生方もあるいは彼らの信心なき言説に惑わされているのでしょうか。どうか、信心なき者の言に紛動されぬよう、心からお願いする次第であります。
次に先生方は、学会が僧宝にも迷っていると述ぺていますが、これについても何の根拠もありません。
先生方は、日寛上人のご教示として、僧宝とは「唯授一人の血脈相承の当処」であると述べられておりますが、これは日寛上人の三宝抄における「僧宝とは久遠元初結要付嘱の所受の人なり」との仰せを指すのでしょうか。あるいはまた同抄の「金言とは金口相承即ち是れ僧宝なり」との仰せを指すのでしょうか。
しかし、これらはいずれも日興上人を指されての仰せであることは明らかであります。なぜならば、前者の「久遠元初結要付嘱」とは久遠元初自受用報身であられる日蓮大聖人からの付嘱であり、後者の「金口相承」もまた本因妙の教主であられる日蓮大聖人からの相承を意味するからであります。久遠元初の僧宝は、あくまでも日興上人お一人に限られるのではないでしょうか。この点について安易な一般化は決して許されるものではありません。なぜならば久遠元初の三宝は信の対境となるからであります。ゆえに信行論である当流行事抄の唱題篇では、仏宝・日蓮大聖人、法宝・戒壇の大御本尊、僧宝・日興上人を、信の対象としての久遠元初の三宝とされております。
「問う、末法は応に何なる法、何なる仏を信ずべきや。答う、文上脱益の三宝を執せず、須く文底下種の三宝を信ずべし…久遠元初の仏法僧、則ち末法に出現して吾等を利益したもう…久遠元初の仏宝、豈異人ならんや、即ち是れ蓮祖大聖人なり…久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり…久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」
この点については、先にも触れましたが、日達上人が昭和52年5月26日の寺族同心会において次のようにご指南されています。
「我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である。今言ったとおり、管領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受取って治めていく、すなわち管領という意味を持っていくのである。統べ治める、そして統治をしていく。その日目上人の後は、みな筒の流れのように、それを受継いでいくにすぎない。だから本宗の考えは、広宣流布の時は日目上人の再現、出現だという意味をとっております。すなわち日目上人が広宣流布の時の座主として再誕なされるとの指南であります。だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい。ただ三宝をお守りする座主、日目上人は永代の座主、広宣流布の時の座主、それを忘れてはいけないですね。だから客殿のあの座席、法主のあの座席は目師の座席なのです。真中に御本尊、向って左は大聖人、右は日興上人、目師がそれをお守りしていくと、その座が目師の座、今の管長の座は目師の座です…三宝はどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です」
日蓮大聖人・戒壇の大御本尊・日興上人が三宝であるのに対して、日目上人はその三宝をお守りする永代の座主、さらに、それ以後の代々の上人はその日目上人の座を受け継いでいる立場と明確に立て分けられているのであります。
第四に、尊能師の先生方は、池田名誉会長が宗門興隆に大功労のあったことをなんとか帳消しにしようとして、七百年前身延の地を領していた波木井六郎実長を持ち出しております。そして「宗門に対して、多大な功績を挙げるならば、池田名誉会長よりも、七百年前の波木井入道のほうがはるかに上であります」などと、笑止千万、滑稽極まりない珍説を展開しています。
一体、波木井は正本堂、大客殿をはじめ三百数十か寺の建立寄進をしたのでしょうか。また、全日本、全世界に、大聖人の仏法を布教したのでしょうか。これこそ、頭が錯乱しているとしか言いようがありません。
まともに相手にする気にもならない話ですが、池田名誉会長のことを“波木井と同じだ”と言うのならば、波木井は四箇の謗法を犯しましたが、名誉会長はいつ四箇の謗法を犯したというのですか。また、総本山をはじめ宗門僧侶は、その謗法の供養を受けた大謗法の僧ということになるではありませんか。もし、本当に波木井と言うのならば“謗法の山に住まず。として身延の山を下りられた日興上人のように、宗門・総本山は、この際、潔く学会、名誉会長から寄進されたご供養を、まず全て返すのが筋ではありませんか。
“学会は謗法だ”などと言いながら、これまで受けたご供養を返そうとしないのでは、謗法厳誠を貫いて波木井の身延を離れた日興上人のご精神に真っ向から反するのは言うまでもありません。この点につき、名誉会長を波木井とし、謗法と断じながら、正本堂をはじめ大客殿、その他、全国338か寺の寺院、さらに膨大な今日までの学会からのご供養を返さない理由を明確に示していただきたい、と問うものであります。
日顕猊下は、今年の「新年の辞」で次のように名誉会長のことを賛嘆されました。
「戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しいところであります。特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、選時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います。また、戸田先生のころより始まった総本山への諸供養や末寺寄進は、池田先生によって本格的に行われ、先師日達上人の数々の賞辞が残っております」
このように最大に称賛しておきながら、その舌の根も乾かないうちに名誉会長のことを「波木井」呼ばわりするとは、何という矛盾でしょうか。言語道断も甚だしいと言わざるをえません。猊下が二枚舌なのか、それとも能化の先生方が天魔なのか、また猊下に師敵対しているのでしょうか。
かつての正信会も「波木井」を使ったではありませんか。しかし、そういった連中は今、全部、破門ではないですか。「波木井」云々こそ、山崎正友の持論です。宗門は、いつから山崎の“弟子”になったのでしょうか。
ともあれ、私どもは、いずれ宗門は、都合が悪くなり、言うことがなくなってくると、「波木井」云々と言ってくるだろう、と見破っておりました。このような錯乱の姿自体、天魔の所為と言わざるをえません。
宗門は、自ら歯切れが悪くなると、必ず「波木井」を持ち出す、とある僧侶が以前から言っておりました。また、檀徒もそう言っておりましたが、まさにその通りになりました。
今回のことは、創価学会によって未曾有の発展をし、十分な財産を得たので、あとは学会を圧迫し、いじめ、切った方が得策だという陰湿極まりない策略だ、と言っている人もおりますが、現存の宗門を見ると、私どももそのように思わざるをえないのであります。なんとかうまく言い訳をしようとしていますが、聖職者として、まったく情けないことではありませんか。これでは日顕猊下をはじめ尊能師の先生方が“二枚舌の黒い心の僧侶”として、後世の人々から、いついつまでも弾劾されることは間違いありません。
第五に、今回の書面では「檀徒づくり」について「本宗の信心の上からいって当然」と、開き直りの一大暴論を述べておりますが、自分達で本尊流布も、布教もしないで、御本尊を持った人をかすめとれ、という御聖訓がどこにあるでしょうか。また代々のご法主のご指南があったでしょうか。これこそ、暴言、邪言、妄言であり、何たるあさましきことではありませんか。
この檀徒づくりは、先月21日、総本山大石寺での全国教師指導会でも、総監から奨励の発表があり、今や宗内あげて狂奔しているものですが、あらゆる苦難を乗り越え、立派な信心をしてきた信徒を泥棒のようにかすめとろうというのは、仏法上、人道上、許されないことであり、これは宗門の信心の自滅となるものでしょう。
この点については、日顕猊下ご自身が、昭和55年8月に行われた教師講習会開講式で明快に破折されていることであります。
「お互いに日蓮正宗の信徒でありながら、ある団体に所属する者に対して、“そっちの団体での信心では功徳がない”とか“間違っているから罰が当たる”等と言って、信徒の取り合いをする-はっきり言えば“檀徒作り”という形ですが-これは、布教の邪道であると私は思います。日蓮正宗の御本尊を持っている人が、同じ御本尊を持っている人の悪口を言い、罵ることは、とんでもない誤りであります」
-ここでは、檀徒づくりを「布教の邪道である」と明確に断じられ、厳しく禁じられているではありませんか。
日達上人も「破和合僧とは正しい宗教を、即ち創価学会、正宗の信者の団体、こういう立派な修行の団体を破壊するもの、これは破和合僧といいます」と、明快にご指南をされています。それにもかかわらず、この五逆罪に相当する檀徒づくりに狂奔するならば、宗門はもはや、最も規範となるべき猊下が、ご白身の発言を否定して、布教の邪道に身を染めてしまったと言わざるをえません。その邪道に狂奔する宗門の行き着く先がどこにあるか、賢明なる諸先生方には、おのずと判断がつくことでしょう。
以上、尊能師の先生方の書面を一読して感ずるままを認めましたが、先生方が一日も早く、否、一刻も早く、謗法の酔いから目を覚まし、広宣流布の大願に立つ学会とともに、僧俗和合の大道を勇気をもって歩まれんことを心より念願する次第であります。 敬具
平成3年8月16日
最高指導会議議長 和泉覚
参議会議長 辻武寿
参議会副議長 柏原ヤス
参議会副議長 白木義一郎
法道院 早瀬日慈重役
妙本寺 鎌倉日櫻尊能師
平安寺 椎名日澄尊能師
妙蓮寺 吉田日勇尊能師
寂日坊 瀬戸日謙尊能師
本行寺 高野日海尊能師
法霑寺 秋山日浄尊能師
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from: 21世紀さん
2009/03/10 01:15:57
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「Re:第二次創価学会問題」
資料⑰(創価学会古参大幹部からの書面(2))
拝啓
早瀬日慈重役をはじめ尊能師の先生方からの回答を謹んで拝見致しました。ご宗門の高僧方のことですから・僧俗和合を願う私どもの心の一端を少しはご理解いただけるものと信じておりました。ところが、長年、仏飯をはんでこられた方とはおよそ信じられないような高圧的、権威的なご返事に、私どもはただただ驚き、呆れ、哀れむばかりであります。
あまつさえ、聞くところによれば、私どもの出した書面について、何を間違えたか、早瀬重役の子息・早瀬義寛庶務部長は「学会もとうとう泣きついてきたな」とうそぶいたり、また宗内で「こっちには金があるから、びくともしない。たいしたことないよ」などと、暴言を吐くに及んでは、まったく何をかいわんやであります。
何が泣きついてきたですか。笑止千万とはこのことです。書面を読んでいただければ、宗門は七百年来かつてなかった最大の謗法の濁流から今こそ目覚めてほしい、と諌言申し上げていることは、だれでも分かることではありませんか。さらに本山には金があるから云々などは、宗門僧侶の醜い本音が出たとしかいいようがありません。そこには、信徒の心を正当に理解せず、ただ金儲けの手段としてしか考えない、現宗門の憂うべき中枢僧侶の荒廃ぶりが表れています。
それはさておき、もとより私どもは凡夫で、欠点多き未熟な者ですが、曲がりなりにも日蓮正宗の信徒として、何百回となく総本山に参詣し、戒壇の大御本尊にお目通り申し上げ、御書を学び、折伏に励んできた者でございます。また猊下より長年、大講頭の任を受けてきた者もおりますが、これに対し「五十年もの長い間、一体、何を信仰してきたのか」との言われ方は、能化ともあられる方として、いかがなものでしょうか。
御聖訓に「日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし、設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず」と。この御金言を尊能師の先生方は、どのように拝されるのでしょうか。
また、書面に、私どもが「御法主上人に信伏随従することができず」と決めつけておられますが、私どもは日顕猊下がおしたためになった御本尊に向かって朝夕勤行しております。これこそ最高の信伏随従の姿ではないでしょうか。
口を開けば「信伏随従」と言われますが、「信伏随従」の根本は、あくまでも大御本尊にあるのではないでしょうか。御義口伝に「信きは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり」と。信伏随従する根本は大御本尊ではなく、ご法主であるとの、大聖人の御書がどこにあるのでしょうか。
さらに、私どもの書面について「不確かな伝聞どころか全く事実無根による、ありもしない種々の事柄を日顕上人の発言とし、これを元として悪辣に罵り」と述べておられますが、私どもが日顕上人のことで述べた種々の事柄のなかで、一体、何が「事実無根」であり、何が「ありもしない種々の事柄」なのでしょうか。これについて先生方は、ただ一方的に述べているだけで、何一つ明確に答えていないではありませんか。もし、かく言われるのであれば、具体的に挙げていただかなければ、ごまかしに過ぎません。私どもはこれまで、ご宗門のこと、なかんずく猊下のことについて、何の根拠もなく述べたことなど一度もございません。先生方の書面では、昨年12月の学会からの九項目の「お伺い」文書が虚偽・捏造だと言っていますが、これはすべて紛れもない事実であります。とくに、猊下が昨年7月21日のお目通りの折り、名誉会長を“懲罰にかける”と言ったこと、及び“総代にお講にいくな、と名誉会長が指示した”と言われたこと等々、すべて事実であります。
しかも猊下は、その際、連絡会議での会長の発言をとりあげ、名誉会長、会長に対して“きょう慢だ!きょう慢謗法だ!”と声を荒げて怒鳴られたのであります。これらについては私どもとしては、しかるべき公の場で審判していただいていっこうに差支えないことを申し添えておきます。
自分たちに都合の悪いことは、何の釈明もせず、十把ひとからげに「事実無根」「ありもしない種々の事柄」で、ゴリ押しされる宗門の体質は、何事も問答無用で従属させた封建時代ならともかく、この現代において、とうてい通用するものではありません。私どもが、前の書面で先生方に申し上げた事柄は、すべて真実であります、しかるが故に、もう一度、私どもはお尋ね致します。
宗門興隆の最大の功労者である池田名誉会長に対して、事前に何の相談もなく、宗規変更と称して、いきなり一片の通知書で総講頭の資格を喪失させたのは、何故でしょうか、その正当な理由が何一つないではありませんか。
また、正本堂の意義について、先生方の回答には「問題の本質をみようともせず、ただ池田名誉会長や学会の都合にあわせて、日顕上人を誹毀讒謗している」としか答えておられませんが、この問題の本質はだれが見ても明らかです。日顕猊下は、いわゆる“正本堂ご説法”で、一信徒たる池田名誉会長が宗義の根幹にかかわる正本堂の意義について、宗内で初めて発言したのは慢心であると決め付けられました。ところが、これが日顕猊下の完全な記憶違いによる事実誤認であったことは、猊下ご自身、後に「大日蓮」に訂正を申し出されて明らかになっており、このことは私どもの先の書面で申し述べた通りであります。
また、日顕猊下の“正本堂ご説法”の致命的な誤りは、日達上人の昭和47年4月の訓諭の「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」の解釈の誤りです。これについては、学会側が3月30日、十箇の問題点、四十八項目のお伺いを提出しておりますが、未だに回答すらできないことに、すべて日顕猊下のご説法の誤りが明らかになっております。
そうした明白な事実にさえ目を覆う尊能師の先生方こそ「問題の本質をみようともせず、ただ猊下や宗門の都合にあわせて、名誉会長を誹毀讒謗している」と言わざるをえないのであります。
さらに、本年3月上旬、複数の正宗僧侶から「昨年の夏の時点で、『C作戦』を御存知だったのでしょうか」と尋ねられたところ、日顕猊下は「知っていたよ。『C作戦』はあの野郎の首をカットするという意味だよ」と話されたということが、新聞などに書かれておりました。事実でないとするならば、是非、某新聞に対して事実無根による名誉毀損等の法的な措置をとっていただき、真偽のほどを明らかにしていただきたい、とお願い致しました。しかし、この点についても、今回、何の回答もありませんでしたので、重ねて明確な態度をとられることをお願い致します。
さらに昨年末、猊下ご白身が、謗法のブラック・ジャーナリストと直接会って学会批判を依頼したり、今年初めには猊下の血脈を否定した張本人の犯罪者山崎正友に猊下自らが謝罪されたことは、事実無根なのでしょうか。もし事実とすれば、先生方はどのように考え、そしてどのように行動されたのでしょうか。謗法のブラック・ジャーナリストと直接合ったことは、猊下ご自身、公式の場で認めておられるわけですから、尊能師の先生方が「知らなかった」では済まされないと思いますが、いかが対処なされたのでしょうか。この点も、是非、明確にお教えいただきたいと希望いたします。
さて、このように具体的な事実関係には、まともに答えようともせず、ただ「ありもしない種々の事柄」と言葉を濁して言い逃れに終始しているのが、今回の書面の特徴ですが、そこでは、一応、五点にわたって反論とも弁明とも察しかねる回答がつけられていますので、次に、その誤りを指摘しておくことに致します。
第一に、尊能師の先生方は、昨年11月16日に行われた第三十五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチをなんとか大問題にしようと、はかない努力をされています。そして名誉会長の「『猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません』との発言は、血脈付法の御法主上人を蔑如したもの」と決めつけておられます。
しかし、冷静に判断して、この発言のどこが間違っており、何ゆえ、大騒ぎしなければならない問題なのでしょうか。全くこの通りではありませんか。猊下が信徒の幸福を考えるのは当然のことでしょう。それとも、猊下は信徒の幸福を考えなくてもよい、ただひれ伏せさせておけばよいとする、権威・権力そのものとでも言われるのでしょうか。
私どもからするならば、宗門の僧侶方が、名誉会長のこの部分の当然の発言を、ことさら感情的に受け止める感覚自体、すでに信徒の幸福や成仏を願われる、仏の慈悲の姿とはほど遠い権威体質になっていることを天下に示したものと言わざるをえません。誠に哀れな修羅の生命を悲しむのであります。
また、池田名誉会長のスピーチのテープをもとにした、宗門の「お尋ね」文書の中の質問を、学会からの指摘によって撤回した点について「本来ならば、反訳の相違によって質問を撤回する必要はなかったのですが、宗門側は、反訳の相遠の指摘を受けた上から、あえて撤回したのであります」と、何度読み返してみても意味不明の強弁を展開しています。学会の指摘によってテープの悪らつな改ざんが明らかとなり、宗門はやむをえず枢要な質問を撤回せざるをえなくなったことを、このように分かりづらい表現をまぷしてごまかそうと苦心されているのは、気の毒としか言いようがありません。もし撤回する必要のないものを撤回したと言われるならば、それこそ宗門首脳の無能ぶりを自ら認めたことになるのではないでしょうか。
宗門が質問を撤回したなかには、名誉会長が「四箇の格言」を否定しているとして「摂受を本とした言い方であり、大聖人の教判並びに権実相対等の法義に違背したもの」などと決めつけていた質問や、「親鸞云々」の質問で「大聖人の人格と教法を否定する重大な仏法違背」とか「池田教による大聖人観」「私的な法門」などと、名誉会長がさも勝手な法門をつくり、重大な教義違背をしたかのように論述していた箇所が含まれています。
その意味で、宗門の「お尋ね」文書は、名誉会長にいわれなき罪と汚名をかぶせようとした意図的な文書であったことは、この撤回を通し、より明らかになったのであります。
第二に、先生方は「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体」であるから、「戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人」の「根本の二つ」に対する信心は「絶対」でなければならないと、驚ぐべき法主本尊不二論を述ぺています。
先生方のこの言によりますと、御法主上人は戒壇の大御本尊と不二の尊体、すなわち同一の存在ということになりますが、何を根拠にこのように断定されるのでしょうか。法主大御本尊論、法主本仏論は一体、御書のどこに説かれているのでしょうか。宗旨の根幹にかかわる問題だけに、確たるお答えをお願いする次第であります。
私どもはこれまで、法即人の本尊は末法の御本仏・日蓮大聖人、人即法の本尊は本門戒壇の大御本尊であり、根本として尊崇すべき本尊はこの人法一箇の本尊以外にないと信解してまいりました。しかるに先生方は、絶対の信心を立てるべきもう一つの「根本」を立てておられます。私どもは、このように「二つ」の「根本」を立てるような教えを、これまでの日蓮正宗の歴史に見たことはありません。これまさに、宗旨の重大なる改変であり、新宗派の設立かと我が眼を疑うばかりであります。
日顕猊下は、法主本仏論の誤りについて次のように明確にご指南されています。
「歴代法主は僧宝以下の立場であって、それを軽々しく仏様だ、仏様だというような表現は、少し言い過ぎであると私は思っております。」(昭和58年3月31日、第4回非教師指導会)
「僧宝以下の立場」にある歴代ご法主が、なぜ「戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」のか、凡愚な私どもにもよく理解できるようにご教示いただきたいものです。
日達上人もこの点について誠に明快にご指南されています。
「我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である…日目上人の後は、みな筒の流れのように、それを受継いでいくにすぎない…だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい」(昭和52年5月26日、寺族同心会)
要するに、代々の上人を日蓮大聖人と同一視することを厳に戒められているのであります。
しかるに、尊能師の先生方の文面からすると、猊下は仏宝ということになってしまいます。それでは本宗の三宝の立て方と明らかに違っており、それこそ三宝破壊になるではありませか。
先生方はさらに、この誤った法主本仏論を盾にとって「大聖人の仏智による御指南は、血脈付法の御法主上人によってなされるのであって、私どもは、そこに信伏随従するのみであります」とも述べられています。しかし、この主張は、歴史の事実に照らして明らかに誤っております。なぜならば、過去の何人かの法主が宗義に違背する指南をされているからであります。
例えば、尊能師の先生方ならば当然ご存じでしょうが、総本山第17世日精上人は、日興上人が厳に戒めた釈迦仏の造立という大謗法を犯しています。堀日亨上人は「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗して遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」(富士宗学票集第9巻)と記されています。要するに京都・要法寺出身の日精上人が、要法寺流の邪義、謗法を日蓮正宗に持ち込んだのであります。そればかりか日精上人は、血脈付法を受けた翌年に、釈迦仏の造立を正当化する「随宜論」を著しました。この書は、その巻末に「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因って門徒の真俗疑難を致す故に蒙霧を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」と述ぺられているように、釈迦仏造立を批判する門徒を説得するために書かれたものであります。
後に第31世日因上人は、この「随宜論」の巻末に「日因云、精師御所存ハ当家実義と大相違也」と筆を加えられ、日精上人の考えが大石寺の真実の教義と大きく違っており、邪義であることを明かされています。先生方の言われるように、日精上人が「戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」ならば、何故、釈迦仏の造立という大謗法を犯した上に、それを正当化する「随宜論」を著したのでしょうか。また、この書も「大聖人の仏智による御指南」であり、たとえ宗義違背の謗法の指南でも「信伏随従」しなければならないとお考えなのでしょうか。
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from: 21世紀さん
2009/03/10 00:23:44
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「Re:第二次創価学会問題」
資料⑬( 御能化から古参大幹部への返書(1) )
拝復。貴殿らよりの、抗議とも陳情とも察しかねる書面を拝見いたしました。一読して、古参の大幹部である貴殿らは、50年もの長い間、一体、何を信仰してきたのかと呆(あき)れ果ててしまいました。
貴殿らの書面は、結局、従来の学会文書と同じく、学会の根本的な誤りを省みようとしない無慚(むざん)極まりないものであります。そして、現在、学会内で盛んに流されているロコミと同様、現御法主日顕上人に対する誹謗・悪口に終始しております。総本山第15世の日昌上人は、
「右衆中の口は過、意は及ばざる故也。口の過とは惣(そう)じて万事の油断退転を貫首一人にかけて悪口するが故也。意の及ばずとは万事欠如の事共たすけすヽめて精を入るヽ人一人もなきが故也。」(与総檀方衆中書・歴代法主全書1-473頁)
と仰せであります。多言を要する講釈はさておき、貴殿らの述べることは、ことごとくがこの厳しい御指南に当たることを知るべきであります。貴殿らは、50年という信心歴のあることを自負しているようですが、それならば、なぜ唯授一人血脈付法の御法主上人に信伏随従することができず、池田名誉会長に信伏随従するのでしょうか。人生の師匠は、仏法の師匠に勝れるとでも言いたいのでしょうか。それこそ、本末転倒であります。
第一に、貴殿らは、今回の一連の問題の発端となった11・16のスピーチをはじめ、最近の池田名誉会長のスピーチを聞いていて、仏法上、何もおかしいと思わないのでしょうか。もし、おかしいと思わないとすれば、それ自体、貴殿らの50年の信心の誤りを証明するものであります。これでは、問題の本質を見極めることができないのも、むしろ当然かと思います。貴殿らは、池田名誉会長に慢心はないと述べておりますが、11・16における池田名誉会長の、「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。」との発言は、血脈付法の御法主上人を蔑如(べつじょ)したものであり、まさに池田名誉会長の慢心を吐露(とろ)したものであります。
「お尋ね」に関する宗門と学会との往復文書のやり取りにしても、学会側の手による卑劣な問題の本質のすり替えは、目に余るものがあります。例えば、「お尋ね」に対して、虚偽・捏造(ねつぞう)を元とする九項目の「お伺い」書をもって、御法主上人や宗門・僧侶に対する誹謗・中傷を加えてきたことなどは、そのよい例でありましょう。また、本年1月1日付の「回答」にしても、その反訳のミスのみに視点を当てて、宗門を誹謗し、中傷の限りを尽くすのみで、質問の肝心な部分については、問題の本質をすり替えるか、わざと触れようとはせず、何ら誠意ある回答を示していないではありませんか。この無慚無愧(むざんむき)な姿勢については、貴殿らよりの書面も同様であります。
反訳の相違箇所にしても、貴殿らは、宗門側が意図的に改竄(かいざん)したかのように述べておりますが、それは為(ため)にする侮蔑(ぷべつ)であります。反訳の際に改竄するなど、そのような稚拙(ちせつ)ですぐ判るような行為は、常識的に考えてもできる訳がないのであります。しかも、それら反訳の相違箇所をよく見れば、反訳の相違箇所は何ら質問と関わっていないか、あるいは反訳の相違によって発言内容が変わるというものはありません。つまり、本来ならば、反訳の相違によって質問を撤回する必要はなかったのですが、宗門側は、反訳の相違の指摘を受けた上から、あえて撤回したのであります。このことは、時局協議会の「学会からの事実歪曲の『宗門[お尋ね]文書事件についての見解』を破す」(『大日蓮』542号に掲載)に詳しいので、貴殿らは、冷静になってこの文書を読み、それぞれを対比されることをお勧めいたします。そうすれば、宗門側の正直さ、潔(いさぎよ)さが、はっきりと理解されると同時に、学会側の姑息(こそく)なすり替えと卑劣な責任転嫁の実態に、ただ呆れ果てることでしょう。
第二に、はじめにも触れましたが、貴殿らには、唯授一人の血脈に対する尊崇の念が、基本的に欠如していることです。
正信会間題のときにも強く叫(さけ)ばれたことですが、本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません。ところが、貴殿らの書面では、正本堂の意義付けをはじめとして、問題の本質を見ようともせず、ただ池田名誉会長や学会の都合にあわせて、日顕上人を誹毀讒謗(ひきざんぽう)しているのであります。しかも、貴殿らの書面では、不確かな伝聞どころか全く事実無根による、ありもしない種々の事柄を日顕上人の発言とし、これを元として悪辣(あくらつ)に罵(ののし)り、あたかも日顕上人が御法主として不適当であるかのように述べているのであります。この捏造と誹謗は、まさに血脈の尊厳を侵(おか)す大謗法行為であり、本宗信徒のなすべきことではありません。
このように言うと、貴殿らは、「血脈を否定しているのではない、阿部日顕という個人かおかしいと言っているのだ」と言い返すのでしょう。しかし、それは、大きな間違いであります。大聖人の仏智による御指南は、血脈付法の御法主上人によってなされるのであって、私どもは、そこに信伏随従するのみであります。それとも、日顕上人のどこからどこまでが唯授一人の血脈の分域で、どこからどこまでが個人の領域だと言うのでしょうか。もし、それを言ったとしても、それは貴殿らの凡智の勝手な墓準によるのであって、決して仏智ではありません。
このことは、歴史に照らし合わせても明らかであります。貴殿らの言い分は、正信会の輩の言い分と、何ら変わるものではありません。正信会の輩は、当初、「血脈を否定しているのではない、管長職にある阿部日顕という個人がおかしいと言っているのだ」と述べていたではありませんか。正信会の輩は、その後、日顕上人への血脈相承自体を否定するに至ったのであります。
このように見ると、今後、貴殿らも、日蓮正宗の唯授一人の血脈そのものを否定することになってしまいます。いや、このように日顕上人に対する悪口・雑言(ぞうごん)を述べるところを見れば、貴殿らは、その精神において、もはや本宗の信徒ではないと断言できるのであります。先の日昌上人の御指南を、よくよく肝に銘ずるべきであります。
第三に、貴殿らは、唯授一人血脈付法の御法主上人の尊厳を侵しながら、三宝を破壊していないと言っていることであります。そもそも、貴殿らは、下種三宝がいかなるものであるか、本当に信解しているのでありましょうか。貴殿らも、池田名誉会長のように、「御本尊は宇宙に遍満する妙法を御図顕したものであるから、御本尊を拝めば大宇宙のリズムと自身のリズムが合致する」などと拝しているのでしょう。とすれば、まず仏宝と法宝とに迷っていると言わざるをえません。口では人法一箇と言いながら、実際には、御本尊は宇宙に遍満する法の現れなどと外道の義を立て、御本仏の已証であることを踏み外しているのであります。つまり、人法一箇ということが信解できていないのです。
法仏に迷うのですから、当然、僧宝にも迷ってしまうのであります。貴殿らの中の一人、柏原女吏は、実際に新潟で、「僧宝は日興上人ただ一人、あとの歴代上人は、皆我々と一緒」という旨(むね)の指導をしたではありませんか。日寛上人は、僧宝とは、唯授一人の血脈相承の当処であって、日興上人、日目上人以来の御歴代上人の全てを含むと、明確に御教示あそばされております。しかし、貴殿らは、池田名誉会長や学会首脳の都合に合わせて、このような破ってはならない義を、故意に改変しているのであります。貴殿らは、僧侶に対する悪口・雑言を「悪侶の誤りを申すだけ」などと言って正当化しておりますが、全くもって無慚であると言わざるをえません。貴殿らが、各種会合や機関紙等で行っている僧侶への悪口・雑言は、そのほとんどが感情に任せた捏造ではありませんか。しかも、その多くが、今回の問題が起こる以前のものであり、連絡会議などで解決していたものであります。それにもかかわらず、なお悪口・雑言を繰り返すのは、まさに為にする誹謗罪であります。
また、貴殿らは、三宝一体の義を一仏の上のみに見ておりますが、それでは日興上人御一身の上に、三宝をどのように拝するというのでしょうか。大聖人御在世の化導を拝しますと、当然、御本仏が面(おもて)、僧宝が裏の御化導であります。しかし、大聖人の滅後の御化導は、唯授一人血脈相承のもとに、日興上人以来の御歴代の僧宝が面になります。先にも申したとおり、唯授一人の血脈法水は、まさに人法一箇の御法体ですから、三宝はそれぞれの上において一体なのであります。したがって、人法一箇の御本尊に対する信心が根本であることは当然ですが、貴殿らのように血脈の御法主上人に背いていたならば、悪業の因縁こそ増せ、決して妙法の功徳はありません。
戸田二代会長は、常々、「信心は日蓮大聖人の時代に、教学は日寛上人の時代に帰れ」と指導されたと聞いております。果たして貴殿らは、この戸田二代会長の指導を守っていると言えるでしょうか。もし、守っていると言うのであれば、貴殿らの書面にあるような三宝破壊という大謗法罪は、決して犯すことはないでしょう。貴殿らは、信心歴50年ということを鼻にかけ、かえって本宗の信心の墓本を習い損(そこ)なっていることを知るべきであります。
第四に、貴殿らは、池田名誉会長が宗門興隆の大功労者であるということをもって、いかなる謗法行為も許されると思っているのでしょうか。仏法というものは、そんなに甘いものではありません。仏法は因果であり、そこに妥協はありません。過去において、いくら功績があろうとも、その後において慢心を起こし、大きな謗法罪を重ねて犯したならば、その善因はなきものとなってしまいます。いや、その悪業因によって、必ずや悪道に堕ちることとなるのであります。それは、七百年前、身延の地を領していた波木井入道の顛末(てんまつ)をみれば、やすやすと理解されることであります。貴殿らのように、いつまでも過去の功労に執(とら)われて、現在の謗法体質を覆(おお)い隠そうとすることは、まさに無慚極まる行為であり、仏法の因果を撥無(はつむ)せんとする外道の見(けん)であります。
宗門に対して、多大な功績を挙げるならば、池田名誉会長よりも、七百年前の波木井入道のほうがはるかに上であります。波木井人道は、御本仏大聖人に対し奉り、あらゆる面で直接的に外護申し上げた方ですから、池田名誉会長といえども、その功績については比になりますまい。しかし、波木井入道は、大聖人滅後、民部日向の誑惑(おうわく)にもよって、数々の謗法罪を積み重ねていったではありませんか。そして、大聖人がお住まいあそばされた身延の地を、ついに謗法の地と化してしまったのであります。貴殿らは、身延離山の歴史まで改竄して、そのような波木井入道の姿を見られた日興上人が、果たして大功労者であるから許されたとでも言うつもりなのでしょうか。このことは、貴殿らほどの信心歴はなくとも、本宗の正しい信心の歴史を学んだ者であれば、だれでも知っていることでありましよう。
ところが、貴殿らの書面では、池田名誉会長の功績のみを挙げて、現在の謗法罪を見過ごすように述べているのであります。天台大師は、
「疵(きず)を蔵(か)くし徳を揚げて自ら省みること能(あた)わざるは是れ無慙(むざん)の人なり」
と指南しております。宗門では、池田名誉会長の過去の功績が大きいからこそ、また影響力が大きいからこそ、現在の傲慢(ごうまん)な信仰姿勢を糾(ただ)し、過去の多大な功績を活(い)かそうとしているのであります。
しかし、貴殿らは、このような御法主上人の大慈大悲を拝そうとせず、いたずらに誹謗し、悪口の限りを尽くしているのであります。そして、御法主上人は諸事にわたって池田名誉会長に相談せよとか、大局観に立てとか、宗内には自由闊達(かったつ)に論議する風はないなどと、自らの組織を省みずに述べているのであります。これこそ無慚無愧な体質でなくて何でありましょう。
御法主上人が、どうして誤った指導者に相談する必要がありましょう。御法主上人に信伏随従し、大局観に立つべきは、むしろ貴殿ら創価学会の首脳幹部の側であります。また、脱会者のほとんどの方が述べることの中に、「本当に権威主義なのは、学会の組織である」ということがあります。池田名誉会長はもとより絶対者で、中間幹部はおろか、末端幹部にさえ口答えできない体質であるというではありませんか。御法主上人に対して、言われなき讒言(ざんげん)を加える前に、このような体質にある貴殿らの組織のほうを、少しは省みることのほうが先決でありましょう。
第五に、僧侶や法華講は外に向かって折伏すべきであって、檀徒作りはやめるべきだなどと述べていることでありますが、恐らく相当の組織的な痛手を被(こうむ)っているのでありましょう。それもそのはずです。池田名誉会長や貴殿らをはじめ、学会首脳の言行を見るところ、明らかに仏法違背であり、三宝破壊の大罪を犯しているのであります。このような貴殿らの姿を見て、多くの学会員は、幹部や組織の在り方に疑問を抱き、学会にはついていけないという結論を出しているのであります。
そもそも、「法華折伏破権門理」とあるように、本宗の化他行は折伏であります。その折伏というものの性質は、破邪顕正であります。現在の貴殿らのような姿を見て、破邪顕正の意識を持つことは、本宗の信心の上からいって当然ではありませんか。むしろ牧口初代会長の時代から、創価学会の組織に在って信心を統けてきた貴殿らこそ、現在の池田創価学会の体制を見て、破邪顕正の念を抱き、池田名誉会長や学会首脳幹部に対して、諌言しなければならないのではありませんか。
また、法華講は外に向かって折伏をすべきである、と述ぺておりますが、師子身中の蟲(むし)のようになった貴殿らのような学会の人達が禍(わざわい)となっていることも、よく勘案すべきでありましょう。
以上、貴殿らの書面における基本的な信心の誤りを、五点に括(くく)って指摘し破折して、もって正信に目覚めるための一助として認(したた)めました。貴殿らは、今回の学会問題の本質をよくよく見極められ、一刻も早く反省・懺悔すべきであります。そして、御法主上人のもとに一結し、私どもとともに池田学会の誤りを糾すべく立ち上がられることを申し上げて、貴殿らの書面に対する回答といたします。
平成3年7月31日
法道院主管 早瀬日慈
妙本寺住職 鎌倉日櫻
平安寺住職 椎名日澄
妙蓮寺住職 吉田日勇
寂日坊住職 瀬戸日謙
本行寺住職 高野日海
法霑寺住職 秋山曰浄
最高指導会議議長 和泉覚殿
参議会議長 辻武寿殿
参議会副議長 柏原ヤス殿
参議会副議長 白木義一郎殿
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from: 21世紀さん
2009/03/10 00:19:30
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「Re:第二次創価学会問題」
私どもは戦前からご宗門にお仕えして、愚鈍の身ながらも、真の外護がどういうものか、少しは理解しているつもりでございます。信伏随従の名のもとに、ご宗門から言われることに何でもただ盲従し、無批判に受け入れることが、少しも外護にならないことを体験的に知っております。
もし学会が、ご宗門の言うことにただ盲従していただけの存在であれば、戦前の神札問題でも、ご宗門と共に謗法まみれになっていたでありましょう。しかしそれでは、あの時点で、日蓮正宗僧俗ともに大聖人の仏法と信心は断絶し、戦後の学会の大発展、ご宗門の大興隆もなかったのであります。学会は、ご宗門からの申し入れを拒み、神札を拒否し、自ら殉難の道を歩むことを通し、大聖人以来の正しい信心を死守し、もってご宗門を外護申し上げたことは、諸先生方が一番よくご存じのはずであります。
それはともあれ、ご宗門とは牧口先生以来、長いお付き合いになりますが、以前はもっともっと率直に意見を交わしあったではありませんか。私どもが存じ上げているご宗門には、自由にものを言える雰囲気がありました。厳粛ななかにも自由闊達な宗風があったことを懐かしく思い出します。
その良き宗風が、最近は、全くなくなってしまい、宗門は、頑なに私どもとの対話を拒否し続けております。否、それどころか、昨年末の宗規変更で、信徒が「言論、文書等をもって、管長を批判」すれば処分するとの条項を加えられました。これでは、信徒は怖くて何もものも言えず、まるで中世暗黒時代の隷属を強いるものではありませんか。時代逆行も甚だしい非民主的な宗門の体質に、多くの識者も改めて驚いたことは、周知の通りであります。
更に最近では、あろうことか、登山会のことで秋谷会長が、猊下との話し合いを求めたところ、それに対し「猊下への『お目通り』の儀は適わない身」と断じてくる有様であります。
それにしても“お目通り適わない身”云々とは、いかなる時代感覚なのでしょうか。この言葉ほど端的に、現宗門中枢の信徒蔑視、権威主義体質を表しているものもありません。
宗門が、私どもとの対話を恐れ避けるために、「お目通り」を一方的に拒否しておきながら、学会首脳を「『お目通り』の儀は適わない」罪人扱いにしようという、この前時代的感覚、これはもう呆れると言うほかありません。そこには“僧が上で信徒が下”という抜き難い封建時代の身分感覚による差別意識が余りにも露骨であり、信徒を心から大切にされた大聖人の御精神とは、似ても似つかぬ専制君主的体質が如実に表れています。このような時代錯誤も甚だしい意識で信徒を見下している限り、宗門は、永遠に時代から取り残されることは言うまでもありません。
かつての宗門には、このような狭量さはなかったではありませんか。戦時中の難局の時も、日淳上人は、牧口先生らと何度も対話を重ねられましたし、戦後も、日亨上人はじめご先師上人方と忌憚ない話し合いをして今日まで進んできたのが、宗門と学会の関係でありました。それがあったからこそ、ここまで民衆に仏法が弘まり、広布の道は開かれたと信ずるのであります。
牧口先生も一身をかけて外護の赤誠を尽くされましたが、申し上げるべきことは歯に衣を着せずにおっしゃいました。
戸田先生は、もっと厳しく言われました。「折伏もしないで折伏する信者にケチをつける坊主は糞坊主だ」「御僧侶を坊主と言った覚えなく、坊主を僧侶と呼んだおぼえは無い」「御僧侶を尊び、悪侶はいましめ、悪坊主を破り」と、広宣流布を忘れた僧侶には本当に厳しく申されました。それは愛宗護法の発露からでした。
池田名誉会長は、こうした牧口・戸田の両先生に比べれば、ご宗門への意見はむしろ抑えに抑えてこられました。名誉会長が、最も純粋にご宗門を外護し、猊下をお護りしてきたことは、三代の会長に仕えてきた私ども牧口門下が、一番よく知っているところであります。その池田名誉会長の純粋にして強靱な信心があったが故に、あの壮大な正本堂の建立も、壮麗なる大客殿の落慶も、また。338力寺の正宗寺院の寄進もなしとげることができたのであります。特にこの10年間は、正信会の徒輩が日顕猊下の血脈相承を否定するなか、日顕猊下をお護りすることに徹し、少欲知足を旨とする正宗僧侶にあるまじき行状を見聞きしても、胸に秘めて何も言わずにきたのであります。恐らく僧侶自身が広布の使命に目覚めることを期待されたのでしょう。もちろん、私どももそれを期待致しました。しかし、その望みは叶えられるどころか、無残にも打ち砕かれ、宗内には金儲け主義、華美軟風の風潮が強まり、それに増長する僧侶が増え、信徒蔑視の姿勢は日ごとにより露になってきたのであります。
ことここに至って、昨年7月の宗務院・学会連絡会議の席上、学会首脳から、大聖人の仏法の御精神の上からも、広宣流布を推進する責任感の上からも、目に余る宗門の権威体質と僧侶の堕落の姿に対して何点かの要望を申し上げたのであります。今にして思えば、奇しくも、宗内の奥深くで恐るべき「C作戦」が企図されようとしていた時でありました。
それに対し、昨年7月21日、総本山大石寺大坊で行われた日顕猊下と池田名誉会長、秋谷会長とのお目通りの際、先の連絡会議での会長らの発言に対して、猊下は大声をあげて「法主の発言を封じた。きょう慢だ!きょう慢謗法だ!」と怒鳴られ、叱責されました。
しかし、秋谷会長らの発言は、もったいなくも猊下の発言を封ずるようなものでは毛頭ありません。ご宗門外護の赤誠から、宗内僧侶に申し上げるぺきことを申し上げたまでであります。本来ならば、信心の上から褒められるべきことでこそあれ、それを大声でご法主が叱責されるとは、遺憾というほかありません。もとより私どもの要望が正当なものであったことは、ご宗門自身、それを受けて、その後、宗内に21項目にわたる「末寺僧侶・寺族の綱紀・自粛に関する規準」の通達を出されたことにあらわれていたではありませんか。
ともあれ池田名誉会長は、宗門興隆の大功労者です。これは誰もが認める事実でありましょう。名誉会長がもしご宗門が言われるように慢心で傲慢不遜の人格であれば、世界に大聖人の仏法をここまで弘めることは到底できるものではありません。
百六箇抄に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」とございます。もとより、どんなに法が偉大でも、それを説く「人」の人格に共鳴しなければ、法は弘まりません。今日、世界115カ国に大聖人の仏法が弘まったということは、世界の人々が名誉会長の深い信心と人間性に心から共鳴した結果にほかなりません。
日蓮正宗は、この七百年の宗史に輝く偉大な信徒、まさに正宗が誇りとすぺき信心の人を切ろうとしたのであります。この狂乱、顛倒の事実は、永遠に正宗の汚点となって残ることでありましょう。
信徒から御供養を取るだけ取った上で、今度は掌を返したように、その信徒に誹謗の限りを尽くし悪口罵詈する聖職者など、世界中どこを探してもありません。否、それぱかりか、このようなことを繰り返していては、宗門は他宗教からも物笑いのタネになり、法を下げるも甚だしい大謗法になってしまいます。
本来、仏子である信徒が、たとえ何を言おうとも、かわいい信徒の我がままとして大慈悲をもって包み込んでくださるのが、聖職者ではないのでしょうか、それを反対に悪の讒言を信じて、根拠のない誹謗中傷によって、真面目な信徒を苦しめるのでは、あまりのことと言わざるをえません。
それでいて、僧侶自身は折伏に汗を流すのでもなく、賛沢な暮らしをしたり、宗内で禁じられているゴルフにうつつを抜かし、カラオケに興じているのでは、何をか言わんやです。最近では信者宅の盗聴事件に深く関与していた宗務支院長がいるとも聞き及び、この宗風の荒廃・退廃ぶりに、宗開両祖のお嘆き、お怒りはいかばかりかと、ただただ恐れるものであります。
御聖訓に「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もむし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし」と。
現在、ご宗門によって進められている信徒いじめは、仏法の上からも、また人道の上からも、決して許されるものではありません。長年、仏飯をはんでこられた高僧の方々のことですから、この道理はよくお分かりいただけるものと確信しております。
ましてご宗門が、信心の退転者、学会に反逆した者と組んで、学会の組織崩しに利用し合うなどは論外であります。特に猊下ご自身が、謗法のブラック・ジャーナリストと直接会って、学会批判を依頼したり、また、あろうことか、猊下の血脈を否定した張本人の犯罪者・山崎正友に、猊下自らが謝罪したなどと聞くに及んでは、耳を覆いたくなるもので、最早、「末法極まれり」と言わざるをえない暗濾たる気持ちになってしまいます。
日蓮正宗は、今こそ眼を覚ましていただきたい。僧侶は檀徒づくりを止めるべきであります。また法華講も、折伏というなら、外に向かってすべきであります。学会員を狙い撃ちにして脱会勧誘を進めていくなどということは、余りにも情けないと思われませんか。それは日達上人仰せの破和合僧以外の何ものでもなく、大聖人の御遺命である広宣流布の流れを止める魔の所為であります。これほどの悪逆はありませんし、堕地獄間違いないものであります。広宣流布の流れを止める罪がいかに重いかは、諸先生方には、言うまでもないことでしょう。ともかく現在の宗門は、七百年の歴史のなかでも、ひときわ異常そのものです。なぜ、このような事態になったのか、最後に、つらつらその真因と思われるところを率直に申し述ぺ、ご宗門の覚醒の一助とさせていただきます。
まず一つは、日顕猊下が、本来会うべき人に会わず、相談すべき人に相談せず、会うべきでない者に会い、相談すべきでない者に相談している、ということであります。
猊下が信徒の教化育成をはかり、広宣流布を考える場合、まず直接会って相談しなければならない人は、池田名誉会長以外におりません。何度も繰り返しますが、池田名誉会長は宗門興隆の大功労者、大檀那であり、大聖人の御遺命達成、宗門の発展を最も願っている正宗の誇る大信者であります。
日顕猊下は、まず池田名誉会長と親しく懇談し、宗内のこと、世間のこと等々あらゆることについて意見を聞き、そして、誤りなきをはかって一宗を教導すべきてあります。しかるに日顕猊下は、池田名誉会長と会おうとしないばかりか、逆に切ろうと策し、本来、ご法主が会ってはならない人物らと会い、相談すべきでない人物らと相談されております。宗内にあって、現在、猊下の側近であるとして、本山を牛耳っているのは、猊下に聞こえのよいことのみを報告する阿課追従の輩であると、宗内僧侶の間で公然とささやかれておることはご存じでありましょう。それらの者は、宗門の過去の労苦はまったく知らず、本当の意味での宗門人ではなく、信心の何たるかも知らない僧であります。
また、ブラック・ジャーナリストをはじめ、山崎正友、福島源次郎、龍年光、藤原一派らの反学会・退転者グループであります。私どもは長年、信心をしてきて、彼らの信心も人格もよく分かっております。彼らは信心のひとかけらもなく、宗門と学会の離間をはかり、宗内を混乱に陥れることによってのみしか、自らの生活の糧を得る方法のない者達ばかりであります。
現在の猊下は、このような悪知識の者達に十重、二十重に囲まれております。そのような状態では、結局、大局観を見失い、誤りに誤りを重ねるのが当然でありましょう。
二つには、日顕猊下および宗門首脳が信心、大局観に立たず、感情的、場当り的処置に終始しているということであります。
一般論として言えば、ご法主は、一宗を教導する方で、宗内僧俗の尊崇の対象であり、私どもは、信伏随従しております。
しかし、そのご法主が、宗内大衆の納得と同意を得られない行動をとり続けられた場合、一時的にはご法主の指南として従う形となったとしても、必ずや無理が生じ、宗内が混乱することは必然であります。従って、ご法主は、常に人一倍、宗内各層の意見も徴しながら、誤りなきを期し、そして道理にかない、宗内大衆が心から納得できるご指南をなされなければならないものであると、伺っております。
しかるに、現今の日顕猊下や宗門首脳は、前にも述べましたように、総講頭解任といい、正本堂ご説法といい、また、強引な登山会変更の問題等々、その為すことすぺては余りにも性急、迂闊であり、まさに枝葉末節にこだわって大局を見失った行動に及んでいるとしか言えないのであります。
三つには、宗内の良識ある僧侶方が、今回まったく沈黙していることであります。その理由は申すまでもないことでありましょう。ともあれ、宗門内に自由闊達に論議する風はなく、恐怖政治がまかり通っている状態にあることは、極めて遺憾と言わざるをえません。先に申し上げた名誉会長への「謝罪要求書」も、納得しない僧侶を上からの力で署名させようとしたもので、かつての暗い“踏み絵"以外の何ものでもありません。
早瀬重役をはじめ能化の諸先生方、この事態をこのまま放置しておいてよいのでしょうか。今のままの状態が続けば、一体どのようなことになるのか。宗門は、やがては、顕正会、正信会等の根本的な信心が分からず我見を押し通そうとする徒輩や、また反創価学会を標傍する種々雑多なグループ、更にはブラック・ジャーナリストらの魑魅魍魎が、我が物顔で跳梁跋扈するところとなり、本山は彼らの食い物にされてしまうことでありましょう。
更に、本山を観光地化しようとする動きも当然想定されます。これでは、私どもが破折してきた邪宗寺院と同じ魔の住処となってしまいます。もしそういうことになれば、本山は自ら七百年来の清流を断ち、謗法の濁流に飲み尽くされるばかりでありましょう。
能化の諸先生方におかれましては、現在と将来のご宗門を憂える思いは、私ども以上であると拝察致します。現状の暗黒を打開できるのは、諸先生方をおいて外にはないと考えております。どうか今こそ、先生方が勇気を奮い起こして立ち上がり、猊下に進言なされ、まずすべてを昨年12月27日以前の状態に戻し、そこから混迷せる今回の問題に終止符を打ち、宗門の未来に希望の光を点じゆく一石を投ぜられんことを、切に祈るものであります。
日顕猊下をはじめ尊能師の皆様の、いよいよのご健勝を心からお祈り申し上げます。
平成3年7月21日
最高指導会議議長 和泉覚
参議会議長 辻武寿
参議会副議長 柏原ヤス
参議会副議長 白木義一郎
重役早瀬日慈殿
(注 同じ書面が、能化各位に送付された。)
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from: 21世紀さん
2009/03/10 00:11:23
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「Re:第二次創価学会問題」
資料⑮(創価学会古参大幹部からの書面(1))
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盛夏の候、早瀬重役をはじめ尊能師の諸先生方におかれましては、益々ご壮健のこととお慶び申し上げます。
私ども牧口門下は、戦前の牧口常三郎初代会長の時代から、微力ながら、歴代会長のもと、その指導どおり、宗門、総本山を外護し、宗祖日蓮大聖人の御遺命たる広宣流布を目指し、尽力してきたものでございます。御書に「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」と-。
私ども一人一人にとって、歴代会長のもと広宣流布一筋に生きてこられた、この50年の人生は、まさに無上の誉れであり、かつ喜びでございます。
その間、ご宗門においては、いたらぬ私どもを温かく慈悲で包んでくださいました。特に戦後においては、堀日亨御隠尊猊下をはじめ、日昇、日淳、日達上人と歴代ご先師上人が、学会をことのほかご理解、ご包容くださり、700年来、未曾有の大聖人の仏法の大興隆を見ることができ、長年、信心してきた者として、これ以上の喜びはなく、私どもは、その御恩を決して忘れることはありません。ところが、作年末から、突風のごとく、宗門と学会の問に起きた嵐は、学会草創期以来、この半世紀にわたり、僧俗和合して広宣流布に邁進し、日蓮正宗を愛してきた私どもにとりまして、まったく信じられない出来事の連続で、毎日、悪夢を見る思いであります。
こんなことは、戦前、戦後、多事多難な局面を幾つも経てきた宗門、学会の歴史の中でも、一度もない異常な暗黒の事態と言わざるをえません。
申すまでもなく、今日まで、総本山に一番ご奉公し、一番猊下をお護りしてきたのは、他ならぬ池田名誉会長であります。そのことは、能化の先生方が一番よく知っておられることと思います。それを事前に何の相談もなく、宗規変更と称し、いきなり一片の通知書で総講頭を解任されたのです。
しかも、名誉会長が慶讃委員長を務めた大石寺開創七百年慶祝行事の直後の、昨年末のことであり、その性急ななされ方は、どのように考えてみても不可解極まりない処置であります。
そもそも、名誉総講頭であった池田名誉会長を、再び総講頭に任命されたのは、日顕猊下ご自身でありました。名誉会長は、総講頭就任について、一度は固辞致しましたが、猊下からの重ねてのご要請を受け、昭和59年1月に、これをお受けしたものであります。この間の経緯は、先生方も十分ご承知のことと存じます。
従って、その総講頭に関して、何か変更するということであれば、事前に名誉会長とよく話し合いをしてからというのが、当然の道理ではないでしょうか。それをまったく無視し、一片の通知で総講頭を解任するなどということは、とても常識人のすることではなく、もし、これを当然のことと考えるのであれば、それは最早、悪しき権力者の所業と言わざるをえません。今日の異常な宗門の闇をつくった原因は、歴代ご先師が最も嫌われた聖職者の権力体質、権威主義にあると言わねばなりません。
しかもその理由も、根拠らしきものが何一つないではありませんか。当初、宗門があげていた昨年11月16日に行われた第三十五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチも、後で宗門自身が「お尋ね」文書のもとになったテープ反訳の誤りを認め、「お尋ね」文書の枢要な質問自体を撤回せざるをえなくなったことに明らかなように、その根拠がまったくなく、単なる言いがかりに過ぎなかったことは周知の通りであります。
先生方には、いま一度「お尋ね」文書を、宗門で撤回した部分と対比させながら読み返していただきたいと思います。そうすれば、質問のいい加減さと杜撰さ、甚だしい誤解と曲解、更には明らかなテープの改ざん事実に、今更ながら呆れられることでしょう。
更に、この「お尋ね」文書は、宗門の最大の功労者である名誉会長や創価学会を、まるで三流週刊誌のような、悪意に満ちた下品な表現によって誹謗中傷しているものであり、宗門の公式文書とは到底思えないものであります。
この文書自体、私どもにすれば、許すべからざるものでありますが、加えて、その後の経過は、学会側の指摘どおり、その誹謗中傷の根拠が次々と崩れ、撤回せざるをえなかったのであります。従って、普通であれぱ、まず、宗務当局が、池田名誉会長らを誹謗中傷したことについて、経過説明も含め心より謝罪して、初めて双方の信頼関係の回復がなされるものであり、それは宗教人以前の人間社会での常識であります。
しかるに、宗門からは誠意ある何らの陳謝もなされないどころか、更に日顕猊下は、正本堂に関し、名誉会長のことを慢心とされ、それが今回の問題の根本の因であると言われたのであります。
一信徒たる池田名誉会長が宗義の根幹にかかわる正本堂の意義について、宗内で初めて発言したのは慢心であると決めつけられた、この“岬正本堂ご説法”も、日顕猊下の完全な記憶違いによる事実誤認であったことは、猊下ご自身、後に「大日蓮」に訂正を申し出されて明らかになっております。
“正本堂の意義を名誉会長が歪曲した”と猊下は申されようとしたのでしょうか、このような宗義のことは本来、当時のご法主のご指南、権限のもとでのことではないでしょうか。
時のご法主日達上人が、池田名誉会長に対して「慢心だ」とする発言は一切ございませんし、まして正本堂建立寄進のことについては、その信心を最大に称賛されることはあっても、慢心などと言われたことなど一度もありません。それを20年以上も経って、今のご法主が「慢心」と言うのは、日達上人の発言を否定し、かえって侮辱することにも通じましよう。
先師・日達上人は、宗門興隆の大功労者である名誉会長に対し、「あなたのその死身弘法の決意、学会の猛折伏の精神は崇高であり、感激です。ありがとうございます」と、もったいなくもあらゆる機会で仰せくださり、名誉会長の信心を最大に称資されていたことは、宗内ご僧侶各位、すべてご承知のことでございます。
日顕猊下は、その先師も言われてないことを今頃になって言い出され、最大に称賛してしかるべきはずの名誉会長を「慢心だ」と決めつけられるとは、どう考えても、おかしなことで納得のいくものではございません。
先師のおっしゃったことを継ぐのが猊下のお立ち場であり、日蓮正宗の伝統ではないでしょうか。まして先師が最高に権威ある訓諭で「後代の誠証となす」といってご教示されたことまで否定するのでは、先師に対する冒涜と言わざるをえません。また、このように自分一人の判断だけでものを言うのでは、“已義を構えている”と言われてもやむをえないのではないでしょうか。
更に日顕猊下は、正本堂の意義に関して名誉会長の慢心云々が通用しなくなると、今度は昭和39年ごろから学会が広宣流布を達成しようと意気込んでいたことをとらえ、そこに慢心がある、と誠に信じられないようなことを言われ始めたのであります。これは広宣流布達成への決意を門下が起こすこと自体を否定するものであり、これでは猊下ご自身が、宗祖日蓮大聖人の仏法を否定されたとしか言いようがありません。
それこそ、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随カ弘通を致す可き事」との日興上人の御遺誠に、時のご法主が公然と背かれたものとして、私どもは現宗門の思念から憂えるものであります。
このように何の根拠もないのに、口を開けば、慢心だ、三宝破壊だ、五逆罪だと、学会や名誉会長を悪人に仕立て、懺悔、謝罪を云々するのは、異常としか書いようがありません。
その極みは、名誉会長に対し、各布教区が「謝罪要求書」なるものを送りつけたことであります。しかも各寺院が、それを大書して張り出し、名誉会長の名誉と人権をあからさまに侵害する暴挙に走ったことは、許し難い悪行であります。一体、昨年来の問題の経過から、名誉会長、学会にいかなる非があったというのでしょうか。何一つないではありませんか。謝罪すぺきはすべて宗門側にあったことは、誰が見ても明らかであります。
三宝破壊云々と言われますが、学会のどの点が三宝破壌に当たるのか、これも具体的には何もないのであります。もし、あると言われるのならば、一体、学会が、いつ、どこで、末法下種三宝を破壊したというのでありましょうか。明確に示していただきたい。
学会における未法下種三宝への信心は不動であります。そうでなければ折伏をはじめとする正法流布の活動を、これほど強く、かつ不断に推進できるものではありません。
加えて、私どもの愚眼から見ても、宗門の三宝破壊云々の非難には、明らかな誤りがあります。最近の宗門の論法を要約すれば、。“僧宝である僧侶を謗ずることは、三宝一体であるがゆえに、三宝破壊に通ずる”というものでしかありません。
しかし、ここには二つの誤りがあります。一つは、私どもは正法伝持のために立派な働きをされているご僧侶を決して誹謗した覚えはなく、ただそうでない仏道から外れ、堕落し、傲慢になっている悪侶の誤りを、誤りと申し上げているだけであります。
もう一点は、「三宝一体」という言葉の使い方の問題であります。三宝一体とは、本来、一仏に三宝の徳が具されていることを意味します。したがって、大聖人の御一身、もしくは御本尊に三宝の徳を具足あそばされていると拝するのが、正宗における三宝一体の正しい意義であると信ずるものであります。
この意義から、日達上人の次のご指南は、私どもが心から納得して拝するところであります。
「人法一箇の御本尊を中心とするのが本来の本宗の行き方でございます。御本尊において三宝相即であります。各自みなさま方の仏壇に御本尊を安置して朝夕に信心を励む。それで三宝を敬っておる充分の姿でございます」
このご指南に示されているが如き、末法下種三宝を尊崇する姿は、今や世界中に広がっております。それは、会長就任後、ただちに世界広布に立ち上がり、今なお世界中の人々が安心して信行を貫けるように奮闘している池田名誉会長の卓抜したりーダーシップによるところが大きいのであります。それに対し、現猊下ご自身も厳しく弾呵されていた檀徒づくり等に見られる宗門の動きこそ、こうした世界広布の進展を、真っ向から阻み、破壊するものであり、それこそ五逆罪の破和合僧に当たると、大聖人のお叱りを恐れるものであります。
このように、ことの経過をみると、そもそも今回のことは、宗門側に、当初から学会を切ろうという黒い意図があり、理由をあとから強引にこじつけたものであることは明らかであります。
昨年夏ごろ、宗門内において企図された「C作戦」なるものは、それを何よりも物語っております。ところで、この「C作戦」について、猊下ご自身が本年三月上句に、複数の正宗僧侶から「昨年の夏の時点で、『C作戦』を御存知だったのでしょうか」と尋ねられたところ、「知っていたよ。『C作戦』はあの野郎の首をカットするという意味だよ」と話されたということが、新聞等に書かれておりました。
もし、これが事実とするならば、これがご法主の口にする言葉でしょうか。私ども信徒にとって余りにも恥ずかしく、情けない話ではありませんか。ご宗門に一番ご奉公し、今日の総本山の大興隆を築いてきた名誉会長のことを「あの野郎」と蔑み、その首を「CUT(カット一」することが「C作戦」の「C」の意味だということを、ご法主自ら述べていたということであれば、このような恐ろしい冷酷無比な法主がいること自体、日蓮正宗にとって遺憾の極みではないでしょうか。
ご宗門にとって大切にすべき信徒の代表に、そのような暴言を用い、策略を弄して、陥れようとすること自体、最早その人格を疑わざるをえず、私どもはいかなることがあっても、この言を許すことはできません。その意味で、もし新聞に出ていた言が事実でないとするならば、この点に関しては、是非、某新聞に事実無根による名誉毀損等の法的な措置をとっていただき、真偽を明らかにしていただきたい。また、よもやそのようなことはないと思いますが、もしこれが事実であるとすれば、日顕猊下ご自身が、このことをまず謝罪されるのが道理ではないかと申し上げるものであります。
更に猊下は、今回のことを“5年前から、準備していた”と話しておられたことも耳にしております。また、別の機会には、10年前から、いつでも学会は切れると考えていたとも漏れ聞いております。そうであれば、今回のことは、猊下により周到に計画が進められたものと考えざるをえません。
すると、これまで猊下が学会や名誉会長の功績を称えてこられたのは、すべて人を欺く虚言だったということになるのでしょうか。それでは、信徒を言葉巧みに安心させ御供養を取るだけとってあとは切り捨てようとする、詐欺にも等しい卑しい行為と言わざるをえません。
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from: 21世紀さん
2009/03/10 00:02:16
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「Re:第二次創価学会問題」
資料⑭(登山方式変更のお知らせ)
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登山についてのお知らせ
来る7月2日から、創価学会員の皆さんの登山、御開扉願の手続き方法がかわります。
御開扉を希望する方は、ご自分の所属する寺院から添書をいただいて個人個人で登山することになります。その手続きの際、必要なのは、①印鑑(認め印でもよい)と②自分を証明できるもの(運転免許証・健康保険証等)の2点です。
なお、「創価学会を退会して寺院に直属する信徒にならなければ添書を受けることができない」などということはありません。学会員のままで添書を受けることができます。
◎受付開始 6月5日
◎申込場所 各自の所属寺院
◎申込締切り 登山希望日の前月の20日
総本山
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from: 21世紀さん
2009/03/09 23:55:11
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「Re:第二次創価学会問題」
つぎに、訓諭中の正本堂の定義に関する非難について回答します。
先にその文を挙げます。
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時におる事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。
この文中の前文は、正本堂が『一期弘法付嘱書』『三大秘法抄』の意義を含む現時における事の戒壇ということであり、この「意義を含む」とは全面的に意義が顕われたということでなく、まだ広布の進展が部分的であることを示すものです。したがって、正本堂に戒壇の御本尊を安置するという意味はあっても、ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇としての達成ではなく、現在の時において本門戒壇の大御本尊まします堂であるから、事の戒壇と称するとの意です。
後の文は、正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂ということで、そこに正本堂が広布の暁において本門寺の戒壇となると確定する意味をもつか否かについて申します。
この「たるべ」の「たる」とは、体言につく場合に、確かに断定の助動詞の連体形でありました。しかし、「たり(たる)」で終っているのなら、確かに断定の意味に限定されますが、下に「べし(べき)」の助動詞がつくことにより、「べし」のもつ様々な広い意味に解釈されることになります。「べき」の語は、推量の助動詞としての広い用法があります。『日本国語大辞典』によれば、その第一はよろしい状態として是認する意を表わすもの。その中で(イ)ふさわしいとして適当であるという判断、(ロ)当然のこととしての義務の判断、(ハ)他人の行為に関して勧誘又は命令を表わす。その第二は確信をもってある事態の存在や実現を推量し、また予定することを表わす。その中で(イ)近く事態の起こることを予想する意、(ロ)遠く見えないところで進んでいる事態の断定を表わす、(ハ)将来事態の実現を予定する意、(ニ)自己の行動に関し、強い意志を表わす。その第三はすることができる、できそうだとの可能の判断を表わす等があります。そのほか、角川『新版古語辞典』では、①確信ある推測を表わす、②予想の意を表わす、③予定の意を表わす、④当然の意を表わす、⑤必要、義務の意を表わす、⑥適当の意を表わす、⑦強い勧誘、押し付けの意を現わす、⑧決意を表わす、⑨可能性をがあると推定する意を表わす等があります。したがって、その微細な表現や意味は、諸説紛々としています。このような場合、その意義の決定は、一文一文の状況、すなわちその前後の文の意味合いによって、「たるべき」の意が種々に異なるのです。
しかるに、学会では、自ら「当然、推量、可能、命令、意志・決意」の五意があるというにもかかわらず、訓諭の「たるべき」と二箇相承書の「たるべき」について、何の根拠も示さずに同意義であるかのように論じています。すなわち、「猊下のように、あやふやな未定の意も含んだ『べき』と拝したならば、たとえば、次の身延相承書、池上相承書の二箇相承に記されている『たるべき』は、いかに拝さなければならないのでしょうか。…この両書は…未定・変更の可能性を含んだ推量であるはすがありません。…猊下のご説法のように解することは、到底、不可能であると思いますが…」と述べることは、全く事物の分別がついていない論難です。
両相承は師資相承の書であり、大聖人より日興上人への命令、すなわち前述の日本国語大辞典の用例中、第一の(ハ)に当たるので、大聖人、日興上人の伝法の深義に約して、絶対的命令の意味があるのです。しかし、訓諭の「べき」の用例は、正本堂の意義についての、教えさとす文であり、種々の用例の中で、そのいずれに当たるかは、あくまで前後の文意によることです。とくにこの場合は「広宣流布の暁」及び『一期弘法抄』の文義による「本門寺戒壇」という重大性に墓づく未来の広布の様相に引き当てて深く考えなけれはならないと思います。
所詮、御仏意による広布は未来のことであるから、広布達成の時、本門寺の戒壇となるか否かは、予定であるから、また未定の意もあると達観すべきであると信じます。このことは、さらに後に結論的に述べます。
つぎに、
(2)従前の御発言との矛盾、自語相違
及び、
(3)日達上人の御指南との矛盾
という題、及び論旨に対し、申し述べます。
右の中で、まず私が教学部長の時、昭和47年3月26日の総本山における指導会で、訓諭の基となる宗門公式見解を発表した内容を挙げて、それを今回の発言と比べて矛盾するものであり、自語相違と述べられております。
私としては、そのことは全て承知の上で教師指導会における発言をしたのです。なぜならば、宗祖大聖人の御遺命の戒壇の重要性を考えるとき、本当の戒壇の正義に立ち還ることが、仏子としてもっとも大切であると思うからです。
顧みれば、その当時、正本堂を何とか御遺命の戒壇として意義づけようとする池田会長と学会大幹部の強力な働きかけや、妙信講の捨て身の抗議があり、その間にあって宗門においても、正本堂の意義がいろいろ考えられました。そうした中で、3月26日の宗門公式見解を教学部長より発表する仕儀となりました。教学部長としての私は、その時その時を忠実にと思い、御奉公をしたつもりでありました。しかし、今顧みれば、あの時の「正本堂は広宣流布の時に『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となる」という趣旨の教学部見解は、宗祖大聖人の御遺命たる本門戒壇の正義よりみれば、適当でなかったと思います。それが、日達上人の、
昭和40年2月16日の私が申しました言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判り易く要約すれは、こうなるのでございます。
という御指南と一体のものとはいえ、その背景には、正本堂建立発願主を含む創価学会の強力な意義づけに関する主張があったことを、今にして思うものです。したがって、私は、日達上人の御本意は、むしろそこにあらせられず、異なった趣意があることを、昭和四45年時の御説法に拝するものです。すなわち、
有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉るのであります。(昭和45年4月6日・御霊宝虫払会御書講)
いつ本門寺という名前に変えるのが至当か、広宣流布の時即ち三大秘法抄に依る戒壇建立した暁に変るべきと解釈していいか、と云う、こういう御質問でございます。誠にその通りと返事する他はありません。(乃至)理想としての三大秘法が完成して戒壇が出来た時に本門寺と名前を変える。最もそれで宜しいと私は思います。(昭和45年5月30日・寺族同心会質問会の砌)
戒壇の御本尊在(まし)ます所は、即ち事の戒壇である。究極を言えば三大秘法抄或は一期弘法抄の戒壇で勿論事の戒壇であるけれども、そこにまつる処の御本尊在す所が今此処にある此の御本尊様は戒壇の御本尊である。故に此の御本尊在ます所がこれ事の戒壇である。それが御宝蔵であっても、奉安殿であっても、或はもっと立派なものが出来るかも知れない。出来たとしても、此の御本尊まします所は事の戒壇である。(同前)
三大秘法抄並びに一期弘法抄に申される処の戒壇の御本尊は未来のことである。現在我々はそれは大理想として置いて、現実に於いて我々の今戒壇の大御本尊在ます処が事の戒壇である。(乃至)天母ヶ原に建とうがどこに建とうが、その時に天皇陛下が建てるかどうか知らないけども、広宣流布が完結した時建つと云う事は大理想として留め、現実の戒壇の御本尊を御宝蔵からお出ましになって奉安殿がある。更にお出ましになって正本堂にあれば実に有難いのである。だから戒壇の御本尊在す処は真実にお題目を唱えて行かなければならないと云うことを申すのでございます。(同前)
以上日達上人の御指南は、正本堂をそのまま広宣流布の時即ち『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇と決定されてはいないし、その時はむしろ別に建つこともありうるという趣意すら窺えます。そして、私はここに日達上人の御真意があらせられたことを、常日頃の謦咳に接したこととも併せて、かく信ずるものです。信の一字をもって『三大秘法抄』『一期弘法抄』を拝し奉る以上、先に掲げた日達上人の昭和45年4月6日の虫払会御書講の御指南こそ、宗門僧俗の根本的信念であります。すなわち、未来の広布の暁がいつになるかは未定ですから、正本堂の建物がそうであるかないかを現在において断定することも、またできない道理です。
故に、日達上人は、昭和49年11月17日の、創価学会第37回本部総会の講演で、
今、深くこれを思うに、日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目、南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてまつることができたとき、そのときこそ日本国一国は広宣流布したと申し上げるべきことであると、思うのであります。この時には我が大石寺は、僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ、大聖人ご遺命の富士山本門寺と改称することもありうると、信ずるのであります。
と述べられました。この文を広宣流布の目安として拝察するとき、まことに容易でない内容を含んでいます。今日の日本人口1億2000万以上の3分の1とは4000万以上であり、このように大勢の純真確実な信心をもった人々が戒壇の大御本尊へ参詣することを考えたとき、また今日の広布の現状より考えて、純真にして確実な4000万人信徒の折伏達成の時期に思いをいたすとき、それらの推測に付随する様々な事情よりして、正本堂を、その時の戒壇として今から断定することは難しいであろうと思います。したがって、一部建立発願者及びその他の関係書が、御遺命の戒壇であるように願うという願望は自由であるが、尊厳なる大聖人の御遺命に対すれば、その戒壇たる決定は未来における未定のこととして、御仏意に任せ奉ることが僧俗信仰の基本であると信じます。
要するに、本仏大聖人の最後究竟の御指南たる『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇は、凡智凡眼をもって断定し、執着すべきではなく、ひたすら御仏智に任せ、その御遺命の尊高にして絶大になる仏力法力を仰いで信じ奉り、その実現に邁進することこそ、本因妙仏法を信ずる真の仏子であります。その上から、日達上人の訓諭中の正本堂の定義の文については、左のように補足して拝すべきと思います。
正本堂は、広布の進展の相よりして、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含むものであり、本門戒壇の大御本尊が安置される故に、現時における事の戒壇である。そして、広宣流布の暁には本門寺と改称され、御遺命の戒壇となることの願望を込めつつも、一切は純真なる信心をもって御仏意にその未来を委ね奉り、事の広布並びに懺悔滅罪を祈念するところの大殿堂である。
という見解が適切と信ずるものです。宗祖大聖人は、その御一期の大事、御化導の究極として、『三大秘法抄』『一期弘法抄』に、御遺命の完結、広宣流布の大目標をお示しあそばされたのです。我々は、その大慈大悲を拝し、真の仏子として、自行化他、随力弘通、もってひたすら御遺命達成の大目標へ向かって進むべきであります。
更に、正本堂の意義に関し、述べておくことがあります。それは、日達上人より池田xxに授与された賞与御本尊のことです、その脇書には、
賞本門事戒壇正本堂建立四十九年一月二日
と認められ、更に池田氏の強い要望があって認められたと記憶する裏書に、
此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日 総本山六十六世日達 在判
とあります。脇書の中の『事の戒壇』とは、前来述べる日達上人御指南のごとく、現事における事の戒壇であり、したがってその意味は本門戒壇の大御本尊を正本堂へ奉安する故です。また、裏書では、一往『三大秘法抄』の事の戒壇のようにも取れますが、「準じて」の字よりすれば、やはりただちにそのものを表わす意ではないと拝します。この「準じて」とは、特に日達上人の御意志として書かれたのです。辞書によれば、この「準」の字の意には、たいらか、のり、ならう、なぞらう、のっとる、ひとしい、おしはかる等があり、更に准と擬の字に通じるとあります。したがって、この文字の最も通常的な用法では、なぞう、なぞらう、であり、すなわち本物に準ずる、あるいは似つかわしい、似ているとの解釈が一般的であります。故に、この文は、「正しく三大秘法抄の戒壇になぞらえて建立する」との意味です。つまり、「準」の字は、やはりそのものが将来、ただちに『三大秘法抄』の戒壇となるとは断定できないことを示されたものと拝します。その理由として、もし正本堂が広宣流布の暁に、ただちに『三大秘法抄』の戒壇となると思われたならば、特に「なぞらう」「似つかわしい」等の意味をもつ「準」の字をわざわざお書き入れになるはずがなく、
此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の将来における事の戒壇として建立されたことを証明する本尊也
と認められたと思います。
以上、正本堂の意義に関し、一宗を教導する法主として申し述べ、教示とします。
なお、最後に(4)において、池田名誉会長が、昭和43年10月、「本門の戒壇たる正本堂」と明言したことに対して、未だに訂正も反省もないと要求するの筋が通らないと主張していますが、このことは、すでに本書5頁において指摘済みです。47年4月の訓諭によって、正本堂法要の直前、和泉理事長が『聖教新聞』紙上に訂正発表をした理由を、よく考えるべきであります。
全ては、時日の経過によって風化させてしまえばよいと考え、他人の真摯な反省も茶番劇と嗤う無慚さを憐れむものであります。
以上
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from: 21世紀さん
2009/03/09 23:46:11
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「Re:Re::第二次創価学会問題」
資料⑬( 御法主上人猊下御指南 )
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今般、私の1月6日、同10日の全国教師指導会における発言を訂正したことなどについて、創価学会の秋谷会長他12名の連名による質問がありました。これは、本書が当方に到着した3月1日の1日前、2月28日付の聖教新聞に、すでに掲載されるという、早急な形で一般に発表されました。よって、ここに一文を草し、この件の質問に対する回答、並びに宗内僧俗に対する教示とします。
去る1月6日の全国教師指導会での発言中、日達上人のお言葉に関する訂正は、
日達上人のお言葉はもっと広い意味での『広宣流布』ということをおっしゃったと、私は思います。ですからその後の御指南等においても、明らかに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇が正本堂であるということは、そのものズバリの形でおっしゃってはいないと思うのであります。
と述べたことについて、
昭和43年10月以前に、正本堂につき『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文意を挙げての日達上人のお言葉があったので訂正する。(昭和43年10月とは、池田名誉会長が着工大法要で『三大秘法抄』の戒壇の文を引いて正本堂を指定した時期)
と、『大日蓮』(本宗機関紙)の本年2月号に掲載したものです。
訂正における日達上人のお言葉とは、次の三文に該当します。第一は、昭和40年2月16日、第1回正本堂建設委員会の砌のお言葉で。
大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のためへの偉大なる御遺訓であります。
と、『一期弘法付嘱書』の文を挙げられ、この御文が、ただちに正本堂であるとは仰せでないが、戒壇の大御本尊安置のことと正本堂の関係が述べられています。第二は、昭和40年10月17日、創価学会本部幹部会の砌、
ただいまお聞きのとおり、だれも想像しなかったほどの多額の御供養をお受けいたしました。広宣流布達成のための、大折伏の大将である池田会長が、宗祖日蓮大聖人の『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべさなり』のご遺言にまかせ、戒壇の大御本尊様安置の正本堂建立を発願せられ、学会の皆さんに建立御供養を発願せられて、このりっぱなる成果となったのでございます。
と仰せられています。第三は、昭和43年1月号の『大白蓮華』に、
此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります。
と言われ、正本堂について、『一期弘法抄』『三大秘法抄』の一部分の文の上に、その意義を顕わされています。
したがって、私は謹んで前述のごとく訂正したのです。また、その後、日達上人が昭和47年4月28日に示された訓諭中の定義は、正本堂がその時、ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むものと改認あそばされたことが明らかです。
つぎに、1月10日の教師指導会での発言中の私の訂正とは、
その時はそのような空気が宗門を巻き込んでいった。そのような経過の中で大事なことは池田xx名誉会長が、大聖人の御遺命の達成であるという意味で、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇であると指名したことであります。(下線部分は、お言葉では『一番の元』となっていたが、猊下より訂正する旨、仰せ出されました。)
との『大日蓮』掲載の部分です。「一番の元」の語は、つぎに続く言葉に対して不適切であったので、右のように訂正したのです。
これらの訂正の意味は、日達上人の前掲の三文が、池田名誉会長の昭和47年着工大法要の時の発言以前に、やはり『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を示されているということにあります。しかし、池田xx氏と同様の決定的お言葉ではないと信ずるものです。まず、前述第一の文は、そのあとの流れからも正本堂が『一期弘法抄』の意義をもつというお示しであります。
第二の文は、『一期弘法抄』の戒壇建立の文を引かれ、その「ご遺言にまかせ」との仰せです。これも「まかせ」の意は「その尊高かつ広大な意に従い」と拝されるので、その意義を示される一環のお言葉です。
つぎに、第三の文の中の「大聖人の何本意も、教化の儀式も定まり」の「大聖人の御本意が定まる」とは、大聖人の大慈大悲の御心は、一切衆生が正法を受持することにあり、しかるに多くの信徒が輩出して相当の広布の相がみなぎるとき、大聖人が定めし御満足あそばすであろう意義をこのように述べられ、信徒を激励されたお言葉です。また、「教化の儀式も定まり」とは、大聖人の御本意の語に準じて、その御化導の意義を述べられたと拝されます。つぎの、「王仏冥合して南無妙法蓮華経広宣流布であります」の[王仏冥合]とは、発願主池田会長一人の財力で建てるのではなく、八百万の信徒の和合の浄財であることを、「王」が「民衆」に当たるの解釈の上から、かく示されたものであります。故に、これもただちに『三大秘法抄』の戒壇を必ずしも示されたのではなく、その意義を述べられたのです。
以上のように拝すると日達上人の御本意は、『一期弘法抄』『三大秘法抄』一部を挙げられつつも、ただちにその戒壇を仰せられたというよりも、その正本堂に関する意義を述べられているのです。
しかるに、池田xx氏の昭和43年の着工大法要の言は、後に挙げた、『三大秘法抄』の「霊山浄土に似たらん」以下の全文を挙げ、続いて「この法華本門の戒壇たる正本堂」云々として、その事の戒法の戒壇が、まさに正本堂そのものであると、明々白々に示されています。
故に、私の「日達上人に前掲の文があった」として訂正したその趣意は、池田氏の言と同等の意、あるいはそれ以上の表現がなされているというのではなく、『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を述べられている文があったという意味の訂正なのです。
したがって、時期的な点(『三大秘法抄』を使って正本堂を意義づけした最初である)ということに対する訂正以外に、その内容についても訂正されたとの前提に立つ質問、
(イ)「名誉会長の挨拶が独断であるとの断定は間違いではないか」
(二)「一番の元の人はだれか」
(ハ)「名誉会長の慢心の表れであるとの論拠が崩れるのではないか」
(二)「今日の宗門・学会問題の根本原因もなくなってしまうのではないか」
(ホ)「1月6日、10日のご説法の部分的撤回が妥当ではないか」
等の論難は、全く当たらないのであります。ただ、「一番の元」との語について、「(その)ような経過の中で大事なこと(は)」と訂正しましたが、私の感じている当時の事態をやや明確にする上から、あえて言うならば、確かに正本堂の意義を『三大秘法抄』『一期弘法抄』に御遺命の戒壇とただちに関運づけての発言は、池田会長が最初ではないかも知れませんが、当時の創価学会大幹部が、二代会長戸田城聖先生の逝去後も広布の情熱をたぎらせ、「広宣流布は学会の手で」の合言葉、及び「日達上人の達は達成の意だから、日達上人の代に広布の達成を」という言葉や意識で、広布の実証を示そうと意気込んでいたことは事実です。それは、昭和39年4月の大客殿落慶法要における池田会長の、
『三大秘法抄』に「時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」との大聖人の御聖訓がございます。その時がついにやってきたとの感を深める者は、私ひとりではないと信じます。
との挨拶や、昭和40年元旦の、
(正本堂の御供養は)けっして無理はせず、真心の御供養を日蓮大聖人様即日達上人猊下に差し上げましょう。(乃至)日蓮大聖人様のご予言、そして日興上人様のご構想が、日達猊下の時代にぜんぶ達成なされると思われます。じつに、名前におふさわしわしき日達上人であられます。
との発言、また昭和40年7月の
日達猊下のいらっしゃるあいだになんとか達成したい。これが私の精神であります。
等の発言をみれば、当時明らかに池田氏をはじめとする学会側に「大聖人の御遺命の達成」という意識があったことは否めないと思います。
しかして、そのような意識の中から、池田名誉会長の慢心が強まり、それが正本堂問題、昭和52年路線の逸脱、そして今回の問題を生んだ根源となっていると思います。それはつぎに挙げるような事柄からも明らかであります。
まず昭和39年6月30日、東京台東体育館における学生部第7回総会の講演で、池田会長は、
戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民策が全大衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の徒の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます。
と述べられています。いやしくも正宗信徒の身として、もっとも大事大切な御遺命である戒壇のことをこのように下すことは、まさに大聖人軽視、三大秘法軽視の最たるものです。この発言は、まさに大聖人一期の御化導の究極たる『三期弘法抄』『一期弘法抄』の戒壇の御文に対する冒涜であり、三大秘法破壊につながる重大なる教義逸脱というべきです。
このような慢心が、つぎの正本堂の事柄に影響を及ぼしたと思います。そして、昭和43年の着工大法要の時の挨拶として、池田氏は、
日蓮大聖人の三大秘法抄のご遺命にいわく「霊山浄土に以たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり」云々。この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要・・
と述べ、まことにはっきりと『三大秘法抄』の戒壇そのものが、ただちに正本堂であることを宣言されました。この表明は、前掲の日達上人が大聖人の御遺命に関する意義を述べたと拝される御指南の三文より、その表明相において一段と明確になっております。そして日達上人は前三文に関しても、昭和47年4月28日の訓諭において、明らかに正本堂がただちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むのであることを示されました。すなわち、前のお言葉を改訂あそばされたのです。これを基準とするとき、最初の発言が誰方であるかということとは関係なく、着工大法要の際の池田氏の言葉は誤りですから、正本堂建立発願者という責任ある立場からも、その後において自ら進ん大聖人様に対し奉り、誤りの言そのものをただちにお詫び申し上げ、それを宗内一般に公表すべきだと思います。これそ大聖人の御遺命の重大さを正しく拝する信仰ある者の行為と信じます。もっも先に挙げた戒壇に対する、池田氏の東京体育館におけるあの軽侮に満ちた発言より推測すれば、そんなことはどうでよいと考えているのかも知れませんが、厳正な大聖人の仏法よりすれば、そのような無慚な考え並びに訂正されないこと自体、正直捨方便の姿ではないのです。故に、私は教師指導会においてそれ指摘したのです。もちろん私はそれが道理と思いますので、当然のこととして何ら池田氏に陳謝する必要は認めません。
それのみならず、池田氏が、その期に及んでもと思われるようなときに、まだ正本堂が御遺命の戒壇であると執われ、大聖人の御本意に背く意識をお持ちであったことを証する事例があります。昭和47年の4月、既に日達上人の訓諭による正本堂の定義が決定したあとの、同年10月の落慶法要の時、池田氏は法要が終って下山する信徒に、幹部を通じて、七百年前の大聖人の御遺命が、ここに達成された旨の言葉を伝えさせたのです。このように、池田氏は日達上人の御指南に、あえて背くことを物ともせず、正本堂は御遺命の戒壇という意識に捕らわれ、その落慶が御遺命の達成であると深く執着していたと思われます。
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from: 21世紀さん
2009/03/09 23:33:58
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「Re::第二次創価学会問題」
資料⑪(海外信徒指導委任廃止の通知)
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平成3年3月5日
SGI会長 池田xx殿
日蓮正宗総監 藤本日潤(印)
御 通 知
宗務院に於いては従来、海外信徒の指導をすべて池田SGI会長に一任し、海外においてはSGI以外の信徒組織は認めない方針をとってまいりました。しかし今後は諸般の事情により、この方針を廃止する事に致しましたので、お知らせいたします。
以上
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from: 21世紀さん
2009/03/09 23:28:05
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「Re第二次創価学会問題」
資料⑪(宗門から創価学会に宛てた2月9日の文書 )
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創価学会会長 秋谷栄之助殿
1月30日付の「宗門『お尋ね』文書事件についての見解」と題する創価学会からの書面を読み、今さらながらに学会首脳の傲慢にして無慚極まりない姿勢に深い悲しみを覚えるものであります。
そもそも今回の問題は、池田名誉会長の、御法上人および正宗僧侶に対する蔑視と52年路線に対する無反省に起因するものであります。特に第35回本部幹部会における問題発言について、昨年12月16日、宗務院より「お尋ね」を送付したところ、これに対し学会は一切回答しなかったばかりか、逆に捏造した内容を含む9項目の「お伺い」をもって返答に代えたのであります。この時点で、名誉会長と学会首脳の驕慢不遜な態度が露呈されたのでありますが、宗務院はこれに対して反省懺悔の機会を与えたのであります。
しかし、1月1日付の回答書においても反省する姿勢は全く見られず、かえって問題の本質を故意にすり替え、ごまかしの弁解に終始していたのであります。
そこで宗務院は、さらに反省懺悔の機会を与えるため、1月12日付で問題点を指摘した文書を学会に送付しました。これは、当方の反訳ミスの部分を訂正した上で、御法主上人およぴ正宗僧侶に対する軽視、52年路線に対する無反省、といった本質的問題に対するすり替えやごまかしを指摘して、学会に猛省を求めたものであります。
ところが、聖教新聞1月25日号の記事や1月16日および17日付の抗議書は、反省はおろか、指摘された本質的問題には全く触れないばかりか、宗門が反訳ミスを認め撤回した部分を誇大に取り上げて、あたかも宗門が「お尋ね」文書を全面的に撤回したかの如く宣伝しておりますが、これまた卑劣極まるすり替えであります。しかのみならず、宗務当局に今回の問題の責任を転嫁するという、完全に居直った態度に転じたのであります。
このような書面に対して答える必要は毛頭ありませんので、宗門がこれを黙殺していたところ、学会はこれを奇貨として、今回の1月30日付書面において「今回、宗務院からの回答がなかったことは、学会側の右両書面の指摘がすべて真実であり、宗門がこれに対し全く反論し得ないことを公に認めたものと断ぜざるを得ません」とし、これをもって「学会の主張の正当性とその正義が厳然と証明された」などと詭弁を弄して、欺瞞に満ちた悪辣な宣伝をしております。しかしながら、池田名誉会長並びに学会書の首脳が己の姿勢を真摯に見つめ直して反省懺悔しない限り、今回の問題は解決しないと認識すべきであります。
そこで宗務院としては、今一度、反省懺悔の機会を与えるべく、この一文を送るものであります。宿世の福徳によって人間と生まれ、大白法にめぐり逢いながら、無残な驕慢心を起こし、多くの会員を巻き添えにして一生を終えたならば、阿鼻大坑に堕ちることは疑いありません。文底下種の仏法の一切の義を正しく御所持あそばされている御法主上人に随順し奉ることが、成仏への直道であります。全学会員を正信に導くためにも、池田名誉会長並びに学会首脳は、虚心坦懐にその誤りを認め、深く反省懺悔すべきであります。
以上
平成3年2月9日
日蓮正宗総監 藤本日潤
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from: 21世紀さん
2009/03/09 16:57:34
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「Re:Re:第二次創価学会問題」
資料⑩(宗務院より宗内僧侶宛に発せられた『急報』)
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平成3年1月15日
日蓮正宗宗務院
宗内僧侶各位
急 報
創価学会は1月15日付聖教新聞において大見出しで「宗務当局『テープ』の誤り認め質問撤回」とか「今回の措置が根底から崩れる」などの言辞をもって、宗務院からの「お尋ね」文書がいかにも全面的に誤りであったかのような印象を与える卑劣な記事を掲載しております。
しかし実際には、1月6日・10日教師指導会で大村教学部長が説明したとおり、テープの一部聞き違いによる相違があったのみで、今回の問題の肝心な部分においては、何らの誤りもなく、名誉会長の猊下蔑視発言は明確にして、厳然たる事実であります。
このことは、1月12日付で宗務院より創価学会へ宛てて送付した書面に明らかであり、全国寺院へも送付したので熟読願います。この1月12日付書面を受け取った学会は、宗門の指摘した肝心な部分については全く触れずこのような卑劣極まる宣伝をしたのであり、問題の本質をすりかえる学会の無慙な体質を表すものであります。
故に宗門の方針は些かも変わらないので、宗内僧侶各位には、このような謀略的な記事に惑わされることなく、いよいよ御法主上人猊下のもと、一結して既定の方針に従ってご精進願います。
以上
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from: 21世紀さん
2009/03/09 16:54:04
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「Re:第二次創価学会問題」
資料⑨(創価学会からの「『お尋ね』に対する回答」についての宗務院よりの指摘)
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創価学会会長 秋谷栄之助殿
宗務院より平成2年12月16日付をもって送付いたしました「第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」について、7日以内に文書による回答を求めましたところ、学会から12月23日付で送付された回答は、質問内容に一切答えないものであったばかりか、逆に捏造された事実無根の事項を含む九項目の「お伺い」なる文書をもって、御法主上人や宗門を非難攻撃するものでありました。
これは、宗務院に対して誠意が示されないばかりか、日蓮正宗の信徒として考えられない不遜な言論行為であります。まして法華講本部役員としてふさわしい姿であろうはずがありません。よって、12月26日付をもって、もはや回答を示す意志がないものと受けとめた旨、通知したのであります。今回の宗規改正の措置には、このような背景があったことは事実であります。
また、宗務院より提示した質問に誠意ある回答を示されなかった学会に対して、当方としては、このように非難攻撃を旨とした9項目の「お伺い」には、本来、答える必要はありませんが、その内容があまりにも信心を失ったものでありましたので、正信に目覚める一助として、12月29日付で回答を送付したのであります。
しかし、学会では、宗務院からの回答を待たずに、捏造を含む9項目の「お伺い」なる文書を、一方的に多くの会員に配布したのであります。また、機関紙等を通じて、あまりにも偏った報道をくり返しております。これは、明らかに御法主上人や宗門に対する悪意によってなされているものとしか捉えられないのであります。一方、学会より宗門の12月26日付の書面に対する12月28日付返書が到着いたしました。宗務院としては、12月30日付書面で、テープ引用に相違があれば、それを指摘せられたい旨、申し入れました。それに対して、学会より平成3年1月1日付をもって、ようやく当初の「『お尋ね』に対する回答」が送付されてきましたが、12月23日付文書に示された不誠実と同様、核心をぼかし、内容をすり替え、弁解にならない弁解に終始しています。また、当方のテープの反訳の相違を挙げておりますが、肝心の部分においては、相違のないことが確認されました。
そのうえで、宗務院としては、「お尋ね」に対する回答に、まったく反省や誠意のかけらもみられないことを強く指嫡するとともに、再度これに対して反省を促すべく、一又を纏めました。
この書面、及び12月29日付回答で指摘したことが、明確に認識できれば、おのずから学会の非が明らかになるものと思います。池田名誉会長、並びに学会首脳の誤った信仰の姿勢が、そのまま純真な信心に励む一般の会員にまで影響することを強く恐れるものであります。池田名誉会長、並びに学会首脳各位には、大聖人の仏法の基本、根幹がいずこにあるかをよく考えられ、自らの大慢の旗を倒して、本宗本来の正信に帰すべきであります。そして、ここで指摘したこと、及び12月23日付をもって詰問してきた捏造を含む無礼極まりない9項目の内容に対して、正直に反省し、御法主上人をはじめ奉り、宗門並びに一切の信徒に対して、懺悔の姿の徹底を強くもとめるものであります。
以上
平成3年1月12日 日蓮正宗総監藤本日潤
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from: 21世紀さん
2009/03/09 16:47:28
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「:Re:第二次創価学会問題」
(二)
一 前文の部分について
池田名誉会長のスピーチのテープによると、聖教新聞の内容と大幅に違っており、特に宗門に関することが故意に削られ改作されている、とのことでありますが、これは、全くの言いがかりであります。
そもそもスピーチというものは話し言葉でありますから、重複したり、ユーモアを交えて多少本論から外れ、話の本筋と関係のないことに言及したり、そのままでは文章にならない言い回しがあったりするのは当然のことであります。また、会合の独特の雰囲気のなかでの発言や動作を交えての発言など、その場にいる者にしかわからないこともあります。これを記事にする段階で、スピーチの趣旨にてらして整理し、無関係の部分を削除したりなどするのは、これまた当然であり、編集の基本であります。
したがって、そのテープ再生のものと、新聞記事と異なる部分があるのは当たり前で、その場合でもスピーチの趣旨自体にはなんら変わりはなく、これを改作などというのはあたらないのであります。
二「御法主上人・宗門に関する件」について
1 「名誉会長は御法主上人に対して『権力』と決めつけておりますが、創価学会でいう『悪しき権威・権力と戦う』の『悪しき権威・権力」が、なぜ御法主上人に棚当するのか、お示しいただきたいと思います。との点について-
これは、名誉会長のスピーチを誤解されたことにもとづくお尋ねであると思われますので、その点について申し上げます。
まず、11・16のスピーチにおいて、名誉会長は、「悪しき権威・権力」とか、「悪しき権威・権力と戦う」などとは、一言も述べておりません。該当部分の11・16のスピーチを正確に引用致しますと、「私(日達上人)も人類の恒久平和のために、そして世界の信徒の幸福のために、猊下というものは信徒の、幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。毎日毎夜、大御本尊に御祈念申し上げております」という内容であります。
これは、日達上人のメッセージを紹介したもので、傍線の部分はその日達上人のお言葉の趣旨を強調し、敷衍したにすぎないものであります。これが、日達上人の信徒を思われる大慈悲のご境涯を賛嘆する意味で述べたものであることは明らかであり、それ以外の何ものでもございません。
また、11・16以外のスピーチの際に、名誉会長が「悪しき権威・権力」について述べたことはありますが、それは、民衆を庄迫してきた国家権力、社会的ないし宗教的権力や権威等を指しているのであり、具体的には、本来、民衆の幸福のために奉仕しなければならない政治家、聖職者、マスコミ、組織・団体のリーダー等のあるべき姿勢を、一貫して厳しく指摘しているのであります。そして、私たち学会幹部に対しても、大切な仏子である会員に奉仕すべきことを、厳しく指導しているのであります。
2 「これらは、明らかに御法主上人に対する誣告であると思いますが、御意見を聞かせていただきたいと思います」との点について-
ご指摘の名誉会長の発言に主語がないことは自ら認めておられるとおりであり、これは猊下がそのようなことを言われたとか、猊下のことを指しているとかというものではなく、正信会等の、信徒を見下した僧侶の本質的傾向性を指摘したものであります。そして、この発言の真意は、あくまで布教にあたって、法を説く場合の時や機根等を勘案して賢明に行わなければ布教は進まないということを述べただけにすぎません。
それを、「明らかに御法主上人に対する言葉と受け止めるものと思います」とか、「日顕上人を指していると思われます」などという憶測にもとづいて、猊下に対する誣告と決めつけられることは、まことに心外なことでございます。
3 「御法主上人は、いつ、どこで、仏法を基調とする平和文化活動を否定し、謗法だなどと言われていますか」及び「多くの会員の前で、このようなことを公言している池田名誉会長の不遜な言動動に対して、どう責任を取られるのでしょうか」との点について-
ご指摘の名誉会長の発言については、スピーチの中で、日顕猊下が学会の平和文化運動に対して深いご理解をいただいているお言葉を引用させていただいていることからも明らかをとおり、決して猊下のことを指しているものではありません。
ただ、「お尋ね」文書に、べートーベンの「歓喜の歌」の合唱についての誤った認識にもとづく指摘がなされていることに如実に示されているように、ご僧侶方のなかには、文化平和運動について誤解をされている方もおられるのではないかと感じられてならないのでございます。
一例をあげれば、宗内の教学の貢任者として要職にあられる大村教学部長は、平成元年10月号の大白蓮華の裏表紙にガーター勲章の写真が掲載されたことに関して、それに十字章があることをとらえて、「これは十字架であり、キリスト教の本尊というべきものである」として、掲載にクレームをつけられました。そして、その後の連絡会議の席上でも、「イギリスという国はキリスト教の国でしょう」と言われ、ガーター勲章の十字章がキリスト教の十字架であるという自らの考え方に固執しておられました。しかしながら、十字の形をしているからといって、それを直ちにキリスト教と同一視するのは全くの無認識であります。紋章学の世界的権威である、卜ーマス・ウッドゴック氏は、「宗教的意味は全くない」と明言しております。同勲章は、英国王室の伝統と格式を象徴するものであり、信仰の対象となるものでないことはいうまでもありません。こうした事実を認識せず、先のように言うのは、文化運動に対するあまりの無理解をさらけ出すものであり、日顕上人のご指南にも反するのではないかと恐れる次第でございます。
4 「『猊下というものは』などと、御法主上人を指導、もしくは批評するごとき言語表現が、公然となされておりますが、日蓮正宗の信仰をする者として、あまりにも謙虚さに欠けた慢心の言であると思いますが、創価学会としてこうした発言に対し、どのように申し開きをされますかとの点について-
第一番目のお尋ねに関して申し上げましたとおりでございます。ご指摘の発言にある「猊下」が日顕猊下のことを指しているとか、まして、猊下を指導もしくは批評しようとするものであるなどということは、けっしてございません。また、「というものは」という表現につきましても、前後の文脈からお分かりいただけますように、日達上人のメッセージの趣旨を、話し言葉で強調し、敷桁したものに他ならないのであり、これをとらえて、「あまりにも謙虚さに欠けた慢心の言」とまで仰せになるのは、いかがなものかと思われます。
5 「『(今の)猊下はまったく学会を守ってくれない』と考えるのは、まったく過去に受けた恩義を省みない無慙な心であると思いますが、いかがでしょうか」との点について-
これもまた、名誉会長のスピーチを誤解されたことにもとづくお尋ねであると思われますので、その点について申し上げます。まず、該当部分の11・16のスピーチを正確に引用致しますと、「あくまで御書です。御本尊です。根本は。これだけわかればいい。あと、ちゃんと日淳上人、堀猊下、全部日達上人、きちっと学会を守って下さる、ね、方軌はできあがってるんです。不思議なことです、御仏智というものは」という内容であります。「方軌はできあがってるんです」という言葉があることから明らかなように、名誉会長は、代々の猊下により、学会を守って下さる方軌ができあがっているということを言っているのであって、けっして現猊下が学会を守って下さらないということを言っているわけではないのです。
それにもかかわらず、実際のスピーチの断片をとらえ、意味を取り違えて、「無慙な心である」と決めつけるのは、余りに一方的であると言わざるをえません。
三「創価学会創立50周年当時の回顧の件」について
1 「『会長を辞めさせられ』『宗門から散々にやられ』と公言するのは、まったく自語相違であります」との点について-
ご指摘の昭和53年11月7日の全国教師総会並創価学会代表幹部会における挨拶及び昭和55年4月2日の「恩師の二十三回忌に思う」の所感は、現存もいささかも変わるものではございません。
ただ、10年前の一連の問題の経過の中では、山崎正友、原島嵩、宗内一部僧侶(後の正信会僧侶)等による学会攻撃と名誉会長追い落としの策謀があったことはまぎれもない事実でございます。池田名誉会長は、その点から会長を辞めさせられたということを述べているのであり、また、後世への戒めとして、そのような反逆者・退転者の本質を厳しく弾呵しているのであります。
2 「正信会の名を借りて宗門を批判し、会貝に宗門不信を懐かせることを目的としているように思います、また、正信会に関することを述べる場合、学会の逸脱の問題から述べなければ、信徒に事実と反する誤認を懐かせ、宗門や寺院、僧侶等に対する不信を招く結果となる」との点について-
正信会が、猊下の血脈を否定したことはまぎれもない事実でございます。血脈の否定こそは、日蓮正宗の根本教義の否定であり、究極の悪業ではないでしょうか。故にこれをいかに糾弾してもしすぎることはないものと考えます。その意味では、正信会の輩が血脈の否定にいかなる口実をかまえようとも、ことの本質は彼らの信心の根本の狂いにあるのであり、学会とは関係のないことであると思います。むしろ、ご宗門が正信会を破折し続けないとしたら、法主の血脈を根本とする日蓮正宗にとって、そのことこそ理に反することではないでしょうか。
いずれにせよ、「正信会の名を借りて宗門を批判し」などというのは、あまりにもうがった見方であり、池田名誉会長がそのような趣旨で話した事実は全くございません。
四「僧侶軽視の発言に関する件」について
1 「『正信会の僧侶』と言いつつも、明らかに現宗門の僧侶に宛てて非難しております」との点について
ご指摘の名誉会長の発言は、すでに擯斥されている正信会等の、信徒を見下し蔑視している僧侶の言動について述べたものであり、現宗門のご僧侶に宛て述べたものではございません。「信者、信者」についても、言葉そのものに問題があるというのではなく、そこにこめられた正信会僧侶等の信徒蔑視の心根を指しているのであります。
なお、「奥さんをもらって云々」については、そのこと自体の善悪を論じているのではなく、在家と変わらない生活をしながら、我偉しとして信徒を見下すようなことがあってはならないのではないか、ということを述ぺたものにすぎません。
2 「あたかも僧俗がまったく対等の立場にあるように言うのは、信徒としての節度・礼節をわきまえず、僧俗の秩序を失うものである」との点について-
私どもと致しましては、宗門外護という精神のうえから、ときに率直に言上させていただいたことはあっても、いままで信徒としての節度・礼節をわきまえず僧俗の秩序を失わしめたことは一度もしてないと確信しております。
ただ、このようなご指摘、また僧と俗とは「一応平等」というような表現からは、本質的には、僧侶が上であり信徒が下であるという権威主義的な考え方が感しられてなりません。大聖人の仏法においては、信心の上では僧侶も信徒も全く平等なのではないでしょうか。
御書には、「今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、(中略)若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」(阿仏房御書)とあります。また、大聖人は諸御書の中で、しばしば、日蓮が弟子檀那」と、出家・在家を並び称され同等に呼びかけられています。
このように、僧侶と信徒の関係にあっては、まずなによりも、信心の、うえでは僧俗平等であることが第一義であると思います。その上で僧侶と信徒の本分及び役割を生かした相互の尊重・和合があるのではないでしょうか。大聖人は、「よき師とよき檀那とよき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふぺき者なり」(法華初心成仏抄)と、僧俗和合の精神を示されております。
それにもかかわらず、「お尋ね」文書は、日有上人の『化儀抄』に基づき、「僧俗の立て分け」「僧俗の区別」「礼儀をわきまえなければなりません」等と、さかんに僧俗の差別を強調されておりますが、「お尋ね」文書に引用されている「貴賎道俗の差別なく信心の人は妙法蓮花経なる故に何レも同等なり、然レども竹に上下の節の有るがごとく、其ノ位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」の文の次下には、「信心の所は無作一仏、即身成仏なるが故に道俗何にも全く不同有るべからず、縦ひ人愚凝にして等閑有リとも我レは其ノ心中を不便に思ふべきか、之レに於イて在家出家の不同有るべし、等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり、是レ則チ世間仏法のニツなり」(富士宗学要集第一巻)とございます。これによれば、僧俗は本質的に平等であって、僧俗の差別のよってきたるところは、「等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり」というところにあると拝され、けっして身分関係の上下ということではないのではないでしようか。
五「宗門の布教と平和文化活動に関する件」について
1 「日蓮正宗では、700年間まったく折伏・布教ということをやってこなかった、あるいはまったく出来なかったと言われております」との点について-
これについては、前記(一)に述べたとおりでございます。
2 「学会の大折伏に対して、宗門、あるいは僧侶が、それを軽んじたり、見下したり、また当たり前だなどと思っているように一言っております」との点について-
「お尋ね」文書では、「学会員の折伏弘教の姿を尊しとこそすれ、当たり前と思って威張っている者などは、一人もおりません」とお述べになっておりますが、私どもには残念ながらそのようには感じられないご僧侶がおられることは事実であります。
この点について、学会員の折伏実践に対する宗門側のご理解を是非とも賜りたいことは、先に送付申し上げた12月23日付書面において、お伺いとして述べさせていただいたところでございます。
3 「誰が、どこで、平和文化運動をいけないと言っておりますか」との点について-
これについては、前記「二、3」で述べたとおりでございます。
六 「『真言亡国・禅天魔』の発言に関する件」について-
1 「『真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう。』との発言は、摂折二門の上から明らかに摂受を本とした言い方であり、大聖人の教判並びに権実相対等の法義に違背したものである」との点について-
この点については、(一)で詳しく触れ、その撤回をお願いしたとおりであり、名誉会長は、四箇の格言を少しも否定しておらず、ゆえに、それをもって、「大聖人の教判並びに権実相対等の法義に違背した」という断定は、全くの的外れなものと言わざるをえません。
なお、学会においては、教学の基本として、四箇の格言等の教判について、日常的に学習徹底しております、また、教学の基礎的理解を試す教学部の初級試験においてはしばしば四箇の格言を出題しており、最近では、平成2年12月2日に実施した初級試験でもやはり出題して、その理解の徹底に努めているのでございます。
2 「11・16以後の名誉会長の発言として、大聖人と親鸞のイメージを比較し、『親鸞は親しみやすく、大聖人は強いイメージがあり、これではこれからの折伏ができない』として、『親鸞のイメージのごとき親しみが、これからの折伏の条件』のように言われ、『大聖人の慈悲深い面をもっと表面に出したり、法門の中にもよいことがあるので、それを判りやすく説く私のスピーチを元にするよう』に、と言われたそうです」との点について-
名誉会長は、最近確かに大聖人と親鸞について語ったことはありますが、その趣旨は「お尋ね」文書とは全く異なるものであり、そのことをきちんと確認されておれば、このような質問は絶対になかったであろうと思われます。前記(一)で述べたとおり、伝聞にもとづく推測の怖さがここにございます。まして、「私のスピーチを元にするよう」になどと述ぺたというのに至っては、全くの事実無根であります。
このような、未確認の伝聞を前提としたうえで推測を重ね、「大聖人の人格と教法を否定する重大な仏法違背である」とか、さらには、「池田教による大聖人観」「勝手に大聖人の法門を分断するのは、私的な法門」などと決めつけられるのは、池田名誉会長に対する悪意にみちた陥れといわざるをえません。この点については、強く抗議するとともに、その撤回を求めるものでございます。
七「『歓喜の歌』の合唱について」について
べ-トーベンの「歓喜の歌」のシラー作の原詩には「神々」とあり、「キリスト教の神を讃歎した内容」であるから、これをドイツ語で歌うことは、「外道礼讃」となり、「キリスト教を容認・礼讃することになる」と批判されております。
しかしながら、「歓喜の歌」をドイツ語で歌ったからといって、それが直ちにキリスト教の「容認・礼讃」になるわけではありません。芸術は、その表現形式や言葉において、いずれもその時代の文化の制約を受けるものであります。シラーの原詩にしても、「神々の」という言葉を使っていますが、詩全体の調べとしては、唯一神教としてのキリスト教の神を礼賛しているものではなく、また、神々一般を礼賛するための歌でもないのであります。
むしろ、このような表現をとおして、自已のうちにある神々しい力を賛美しているのであり、それはすなわち、理性であり、内からの喜びであり、人間の自由であるということは、広く理解されているところであります。フランス革命の根源にある人間の自由の精神が、「歓喜の歌」によって発揚され、飛躍を遂げたものであるというロマン・ロランの評論に、そのような理解が集約されております。
このような普遍的なテーマを歌い上げているからこそ、この曲が、芸術作品として時代や国を超えて、広く、また永く人々に親しまれているのであります。それが、信仰の次元とは自ずと異なるものであることはいうまでもありません。
「お尋ね」文書の指摘は、「歓喜の歌」の原詩のもつ意味を短絡してとらえ、この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して「外道礼讃」と決めつけておられますが、まことに頑な、かつ狭量な解釈ではないかと思われます。
以上
平成3年1月1日 創価学会会長 秋谷栄之助
日蓮正宗総監 藤本日潤殿
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from: 21世紀さん
2009/03/10 08:43:44
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「Re:第二次創価学会問題」
(三)
三原則の第三は、「三宝(仏法僧)を守ること」であります。
本宗の三宝は、先に述べたごとく、仏宝は宗祖日蓮大聖人、法宝は本門戒壇の大御本尊、僧宝は日興上人を随一とし歴代上人の全てにわたりますが、また内体・外相の上から、正しく拝さなければなりません。創価学会では、現在でも、仏宝・法宝の名目は、一往正しく拝しております。また僧も、かつては正しく拝しておりました。すなわち、池田氏は、昭和53年2月25日、
「ここで『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御主上人猊下であられる。また、御僧侶は全部猊下の弟子である。法類である。ゆえに、いかなる理由があるにせよ、我々は御僧侶を大切にしなければならない。」
と述べ、また昭和53年の「六・三〇」では、この発言を受けて、
「『僧宝』とは正宗においては第二祖日興上人のことであり、また第三代会長も発言しているごとく、唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられます。」
と回答し、さらに『大白蓮華』の昭和54年11月号、及び昭和58年10月号では、
「正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。」
と述べているのであります。これらは、全て本宗伝統の僧宝義を述べたものであります。また、池田氏は、唯授一人の血脈付法の法主についても、
「本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。」(昭和54年5月3日)
「御法主上人猊下に随順しない人は、どのような理由があるにしても、もはや正宗の僧俗ではない。これほど根本的な誤りはないからである。」(昭和56年11月24日)
「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。」(昭和57年1月24日)
「日蓮大聖人の仏法の教義は、あくまでも御法主上人猊下の御指南こそ根本なのである。」(昭和57年4月17日)
「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。」(昭和57年7月24日)
と、下種三宝の内体の上から、唯授一人の血脈を本宗信仰の根本とし、法主の指南に信伏随従すべきことを述べております。これらは、本宗伝統の血脈観であります。このことは、また秋谷会長も、平成2年12月23日付書面で、
「もとより日蓮正宗にあって、金口嫡々唯授一人の血脈相承が宗旨の根本であることは論を待ちません。(中略)私どもは、日蓮正宗にとって根本たる法主の血脈を、状況次第でいとも簡単に否定し、あまつさえ恐れ多くも猊下を裁判で訴えた正信会の行動は、信心の狂いの極みであり、悪鬼入其身の所業以外の何ものでもなく、人間としても最も糾弾されてしかるべきであると思っております。」
と述べているのであります。ところが、現在その池田氏が、本宗の僧宝について、
「私どもは、どこまでも大聖人とご一緒である。『僧宝』である日興上人の仰せ通り、御本尊と御書を根本に、大聖人直結の信心を貫いているのである。」(平成3年10月10日)
と述べ、秋谷会長も同様に、
「仏法の基本である『三宝』は、歴代上人が御指南されているように、『法宝』は御本尊、『仏宝』は日蓮大聖人、『僧宝』は日興上人であり、三宝が相即する御本尊を拝し奉るのが、私たちの信心である。」(平成3年9月29日)
「『僧宝』とは大聖人の正法を正しく継承された日興上人であられる。」(平成3年10月27日)
「これでは、法主が『僧宝』の日興上人を越えるばかりか、大聖人をも越えた存在になるではないか。こんな『僧宝』と『仏宝』の破壊はない。」(平成3年10月27日)
等と述べ、僧宝として日興上人一人を挙げ、日目上人以下の歴代上人は除外しているのであります。これらは、明らかに唯授一人の血脈を蔑ろにする師敵対の大謗法であるとともに、本宗伝統の三宝義を改変する邪義であり、従来創価学会で述べてきた僧宝観とも異なる、自語相違の謬見であります。まして池田氏の「大聖人直結」との発言は、本宗三宝の次第を超えた己義であり、まさに三宝破壊の大謗法であります。しかも秋谷会長は、以前述べていたことに反し、
「元来、日蓮正宗には大御本尊と並べた“法主根本主義”等は全くなかった。(中略)つまり人法一箇の御本尊を信仰し、大聖人に帰伏していくのが私どもの信心である。それを、法主への信伏随従にすりかえるのは、大聖人の御指南に反するものであり、三宝破壊の邪義であることは、だれがみても明らかである。」(平成3年9月29日)
「法主への“盲信”の強要は、時代錯誤もはなはだしく、世界が渇望する“民主の時代”には全く通用しない。宗門の体質は、もはや全世界に開かれた大聖人の仏法の精神から大きくかけ離れている。」(平成3年10月1日)
「大聖人以外の『人』を信心の根本とする行き方は、大聖人の仏法にはない。あくまでも人法一箇の本門戒壇の大御本尊が根本なのである。三大秘法の大御本尊に三宝もすぺて具足しているというのが根本の法理である。したがって、朝夕御本尊を拝する私どもは、常に深く三宝を敬っているのである。」(平成3年10月10日)
等と、法主への信伏随従が盲信であると決め付け、また本宗の唯授一人の血脈が民主主義の現代に通用しないと述べております。さらに、平成3年10月2日付『創価新報』では、「神話だった法主への信伏随従」との見出しを付けて、
「法主への信伏随従なるものが、所詮は、信徒に隷属を強いるために後世につくり上げられた『神話』にすぎないものであることがうかがい知れよう。」
というなどは、およそ本宗の信徒団体として考えられない言行であり、不変であるべき法義を、その時その時の、自分たちの都合に合わせて、くるくると変える己義であります。あまつさえ、宗門を「法主根本主義」「法主絶対主義」「法主本仏論」「御書よりも法主の指南が全て」などと決め付けて誹謗するなどは、下種三宝の内体・外相の意義、並びに唯授一人の法体血脈の深義をもって善導する宗門の言辞の真意が、創価学会に全く理解できていない証拠であると同時に、本宗信仰の根幹である下種三宝義を破壊し、唯授一人の法体血脈に背信する大謗法罪なのであります。したがって、これは三原則中の「仏法僧の三宝を守ること」、及び「当山の教義を守ること」との二原則を、完全に破棄するものであります。
第四 創価学会では、かつて言論出版妨害間題や選挙時の替え玉投票事件、また共産党宮本委員長宅電話盗聴事件や『月刊ペン』事件等、反社会的な行動やスキャンダルなどで、社会から幾多の厳しい指弾を浴びましたが、近年に至っても、なお会員による身代金六億円を要求した本宗住職誘拐事件、会員である公明党議員たちによるリクルート事件や砂利運搬船汚職等の数々の贈収賄事件、一億七千万円入り金庫投棄事件、ルノワールの絵画取引にかかる疑惑、墓地造成にかかる脱税事件や株売買にかかる損失補てん疑惑等、巨額の不正疑惑事件が頻発しております。
創価学会では、これらの疑惑事件等の発覚によって、本宗の信徒団体のあり方から著しくかけ離れた醜い姿を現わすとともに、このような金銭問題にまつわる創価学会の実態が、社会からその公益法人としての資質や責任を、厳しく問われる結果を招いております。同時にこれら創価学会が関与した諸事件は、そのたびごとに、本宗七百年の清浄な宗風に泥を塗り、また本宗の社会的信用に大きく傷を付け、正法の広布進展に著しい妨げとなっているのであります。
第五 以上、創価学会は現在、日蓮正宗の仏法の本義と、宗教法人設立時の三原則と、昭和五十二年路線への反省・誓約に、ことごとく違背しているのであります。あまつさえ、昨年11月16日の第三十五回本部幹部会における池田氏の、
「五十周年、敗北の最中だ。裏切られたたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ、正信会から罵鹿にされ、そいでその上北条さんが『もう、お先まっ暗ですね。』『何を言うか、六十周年を見ろ。もう絢欄たる最高の実が、六十周年が来るから元気だせ。』会長だから、これがよ。私は名誉会長だ。『そうでしょうか。」馬鹿か-。」
との発言は、「恩師の二十三回忌に思う」等で見せた昭和五十二年路線への真摯な反省と、再び宗教法人設立時の三原則を遵守するとの堅い誓いが、まさに宗門を欺く偽りの言辞であったことを露呈しているのであります。
創価学会二代会長戸田城聖氏は、昭和31年8月10日の岡山市妙霑寺の落慶入仏式の折に、第六十五世日淳上人に対したてまつり、
「将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけたり、あるいは内政千渉をするようなことがあったら、いつでも解散をお命じください。」
と申し上げた旨を聞き及んでいますが、現在の創価学会は、もはや日蓮正宗を外護する信徒団体とはいえません。信仰の根幹である日蓮正宗の三宝を破壊し、宗開両祖以来の伝統法義を改変するとともに、宗門に圧力をかけ内政に干渉し敵対攻撃するという、大誇法団体となり下がってしまったのであります。よって宗門としては、このように大謗法団体と化した創価学会に対し、日蓮正宗の信徒団体としての創価学会を自主的に解散するよう、ここに勧告するものであります。さらに、このような創価学会の指導を受け入れ、同調しているSGI組織の全てに対しても、併せて解散するよう勧告いたします。
平成3年11月7日
日蓮正宗管長 阿部日顕(印)
日蓮正宗総監 藤本日潤(印)
創価学会名誉会長・SGI会長 池田xx殿
創価学会会長・SGI理事長 秋谷栄之助殿
創価学会代表役員・創価学会理事長 森田一哉殿
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