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from: 21世紀さん

2009/03/09 15:16:21

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第二次創価学会問題

資料①(宗務院より創価学会宛ての第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね)--------------------------

資料①(宗務院より創価学会宛ての第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね)

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創価学会会長秋谷栄之助殿

去る12月13日の連絡会議の席上において、11月16日第35回本部幹部会における池田名誉会長の発言に関するお尋ねの文書をお渡ししようといたしましたが、出処不明のテープを本とした文書は受け取ることができないとの理由にて受領を拒絶されました。

宗務院として、このテープについて数本のテープと照合しつつ、厳密な調査をいたしましたところ、改竄されたものではないことが判明いたしました。さらに、11月28日のスピーチの全国衛星放送の会場に出席した信徒からも、手紙や電話によって、疑問や不信の声が、総本山・宗務院へ寄せられております。この問題は、極めて重要な内谷を含んでおりますので、話し合いによる解決は不可能と考えます。よって、改めてこの文書を送達いたしますから、到達の日より7日以内に宗務院へ必着するよう、文書をもって責任ある回答を願います。

以上 平成2年12月26日



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第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね

創価学会会長秋谷栄之助殿

この度、平成2年11月16日、第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチのテープを聞きました。それによると、聖教新聞の内容と大幅に違っており、特に宗門に関することが故意に削られ改作されていることがわかりました。しかも衛星中継をもって全国の学会員に放送するため、当日のテレビ放映と新聞の内容の違いに不審を抱いた学会員から、学会について行けない旨の手紙が寄せられております。確かにテープの中には、昭和53年6・30、11・7等で確認されたことが、まったく忘れ去られている感もありますので、改めて拾い挙げてみました。何卒、責任ある回答を示されますよう、お願いいたします。


(1) 御法主上人・宗門に関ずる件


1 「文化運動、ね。文化も一生懸命、今、仏法を基調にしてね、文化・平和。文化は要らないと、詩法だ。もうわけがわからない、ね。なんにも苦労していないから。本当のことを、社会を知らないから、折伏もしていないから。(日達上人の昭和50年のNSAの第12回の総会の平和文化運動に関するメッセージを引いて)それがいけないって言うんですよ。折伏だけで、全部教条的にね、やれおかしいよって言うんだ。おかしいよ」
2 「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。」

3 「全然、また難しい教義、聞いたって解んないんだ。誰も解らないんだ、ドイツ語聞いていろみたいにね。それで『俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者って。そんなのありませんよ、この時代に。時代とともにやればいい、学会は。」

4 「あくまで御書です。御本尊です、法は。これが解かればいいんです。あと、ちゃんと日淳上人、それから堀猊下、全部日達上人、きちーっと学会を守ってますよね。」


以上の1から4は、名誉会長の今回のスピーチの中からその流れに沿って拾い出したものであります。昭和55年4月2日の聖教新聞に、「恩師の二十三回忌に思う」と題する名誉会長の所感が掲載されておりますがそこでは、「学会は、絶対尊崇の本源たる本門下種人法一箇の御本尊、宗祖大聖人に対し奉る信仰を根本とし、永遠に代々の御法主上人狙下を仏法の師と仰ぎ奉リ、強き広宣流布の戦士たる誇りも高く、さらに、日蓮正宗の信徒として、いっそうの外護の任を全うしてまいる決意であります。」
また、会員各位に対しては、


「今一度、学会の存立基盤に立ち戻リ、あくまでも外護と布教という根本の宗教活動を主体とし、そのうえで、社会的存在としての文化活動を推進してまいるようお願いしたい。その意味から、僧俗の和合をあくまでも根本とし、学会の使命遂行には、いささかも揺るぐことなき信心の大確信を堅持し、社会との融合を図りながら、広宣流布を進めていかねばなりません。」

と創価学金の基本姿勢を述べられております。この名誉会長の所感にありますとおリ、日蓮正宗では、古来人法一箇の御本尊即大聖人を信仰の根幹とし、また大聖人の法体を継承遊ばされたすべての歴代御法主上人を正法の正師と拝し奉ってまいりました。すなわち、歴代の御法主上人は、法体を護持継承される上から御本尊を書写され、またそれぞれの時代に応じて種々御指南されたのであります。したがって、現時点においては、日顕上人を仏法における根本の師匠、大導師と仰ぎ奉り、信伏随従する信仰姿勢が僧俗ともに肝要であることは、申すまでもありません。また、創価学会の基本姿勢についても、日蓮正宗の信徒団体として、僧俗和合を根本に、布教活動を行い、それに伴う文化活動を推進していくことは大変大事なことであります。その意味で、名誉会長の「恩師の二十三回忌に思う」との所感は、まさに正論であるといえましょう。
しかし、今回のスピーチは、その正論を述べられた名誉会長の言葉とは思えない内容であります。宗務院といたしましては、こうした発言の中に、名誉会長の本心、また血脈に対する拝し方に、大きな疑いをもつものであります。以下、その問題点を挙げてみたいと思います。

第一番目に、聖教新聞紙上において、頻繁に「悪しき権威・権力と戦う」という語が見られますが、大概の場合、その「悪しき権威・権力」というものが、何を意味するのか明らかではありません。しかし、2の発言によれば、「悪しき権威・権力」とは別して御法主上人を指していることがわかります。しかも、この発言によれば、「現猊下は法主という権威に身を寄せて権力を振りかざすばかりで、信徒の幸福などはまったく考えていない」ということを言っているのであります。このように、名誉会長は御法主上人に対して「権力」と決めつけておりますが、創価学会でいう「悪しき権威・権力と戦う」の「悪しき権威・権力」が、なぜ御法主上人に相当するのか、お示しいただきたいと思います。

また、第二番目に3の発言は、主語はないけれども、これを見聞した人は、明らかに御法主上人に対する言葉と受け止めるものと思います。すなわち、猊下の御説法・御指南というものは、外国語を聞くようにただ難しいだけで、信徒にとって現実的に役に立たないものと決めつけております。御法主上人の御指南にも、御説法、お言葉、その他種々の内容があり、その中で、特に御説法は、本宗の甚深の法義を説くのでありますから、難しいのは当然であります。信徒として、深く拝聴理解すべく心掛けるのが当然であるにもかかわらず、このように批評するのは、御法主上人を蔑視するものであります。また、「俺偉いんだ。お前ども」等の発言は、まさに日顕上人を指していると思われますが、日顕上人は、かつてそのようなことを言われたことは、一度もありません。これらは、明らかに御法主上人に対する誣告であると思いますが、御意見を聞かせていただきたいと思います。

第三番目に、創価学会の推進する仏法を基調とした平和文化活動につきましては、名誉会長自身が「恩師の二十三回忌に思う」の中で、折伏弘教と外護を根幹とした文化活動を推進するという大義を述べております。また、日達上人の賛同された御指南も多くありましたし、同様に現御法主上人も代替奉告法要、あるいは日目上人の第650回遠忌の折に、本当の意味で仏法を基調とする平和文化活動は大聖人の仏法を宣揚していく上で大事なことであると説かれております。ところが、これも主語はありませんが、前後の流れから、御法主上人を指していると思われる、1の発言によれば、「かつて折伏をされたことがまったくなく、布教について何も苦労したことのない世間的無知であるから、平和文化活動を理解出来ずに無条件に否定する」ということであります。まず、御法主上人は、いつ、どこで、仏法を基調とする平和文化活動を否定し、謗法だなどと言われていますか、お伺いいたします。また、多くの会員の前で、このようなことを公言している池田名誉会長の不遜な言動に対して、どう責任を取られるのでしょうか。

第四番目に、2の発言では、「猊下というものは」などと、御法主上人を指導、もしくは批評するごとき言語表現が、公然となされておりますが、日蓮正宗の信仰をする者として、あまりにも謙虚さに欠けた慢心の言であると思いますが、創価学会としてこうした発言に対し、どのように申し開きをされますか。

第五番目に、4の発言でありますが、ここで、59世日亨上人、65世日淳上人、66世日達上人が、学会を守って下さっていると言っておりますが、日達上人の御在職中の、いわゆる52年路線のころ、創価学会の教義の逸脱について、日達上人から、


「日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。」

等と、厳しい御指南があったのも事実であります。にもかかわらず、そのような御指南には一切触れずに、都合のいいところだけを引用し、創価学会は60年の歴史の中において、まったく間違いがなく、間違いはすべて宗門の側にあったように述べておリます。そして、学会のやっていることに対して御先師方が理解を示され、学会を守られたという表現にすり替えているのであります。また、この一連の言葉の裏には、当然現御法主上人が学会に対して理解を示さない、学会を守らないという意味を含んでいるものと解釈されます。しかし、正信会から学会及び名誉会長を守られたのも、また名誉会長を総講頭に再任されたのも現御法主上人であります。したがって、「〈今の)猊下はまったく学会を守ってくれない」と考えるのは、まったく過去に受けた恩義を省みない無慙な心であると思いますが、いかがでしょうか。

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from: 21世紀さん

2009/03/10 08:38:18

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「Re:第二次創価学会問題」
第三 創価学会においては、昭和五十二年路線の厳しい反省の上から、昭和54年4月24日、三原則遵守の精神を踏まえて、あらためて『創価学会会則』が制定されました。すなわち、この三原則は、創価学会が日蓮正宗の信徒団体として存立する上で、恒久不変の条件なのであります。ところが、昭和五十二年路線の反省から十数年を経た現在、創価学会は、その逸脱是正の誓いを捨て、再び宗教法人設立時の三原則を、事実上において破棄したのであります。


(一)

三原則の最初は、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させること」であります。
創価学会は、昭和五十二年路線で、「正宗の寺院は儀式の場であり、広宣流布の場ではない」といっていましたが、宗門では、この寺院観が、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させる」との原則への違背という認識の上から、他の逸脱事項とともに問い糺したのであります。それに対して、創価学会としても、昭和五十三年の「六・三〇」において、


「正宗寺院においては、正法をもって授戒、葬式、法事、結婚式等の衆生済度のための大切な行事を行っています。寺院もまた、広宣流布のための活動の重要な拠点であることを認識すべきであります。学会のみが広宣流布の場として、寺院がそうでないかのような表現は、明らかに言い過ぎであります。」

と認識を改め、また『特別学習会テキスト』でも、


「五十二年当時を中心とする指導のなかに、宗門、寺院、僧侶に対して、従来の正宗と学会の関係からもはずれた行き過ぎた指導があったことは、まず第一に率直に反省すべき点であります。たとえば、極端に『寺へ行くな』とか『僧侶は折伏もしない。広宣流布しているのは学会だ』とか『寺院は単なる御授戒の場』とか、登山会を軽視する発言などがありました。また、在家仏教的な考え方から僧侶並びに寺院を軽視し(中略)結果として、あたかも日蓮正宗を無視するかのような発言があったことは、ことの経緯はともあれ、信徒として明らかな逸脱であり、今後こうした考え、指導上の誤りのないよう十分注意をしてまいります。」

と述べ、率直に反省したのであります。すなわち、本宗の寺院は、単なる形式的に儀式を執行する場ではありません。令法久住・広宣流布の意義に基づく儀式法要をはじめ、あらゆる信仰活動を遂行する、大法弘通の法城であります。しかるに、現在の創価学会は、昭和五十二年路線よりも、なお卑劣にして、大きく逸脱しております。昭和五十二年路線では、寺院は『単なる儀式の場』と断定するものでしたが、現在では、寺院が儀式の場であることすら破っているのであります。すなわち、本宗の僧侶が導師となって執行すべき儀式法要等の化儀を、完全に改変し、創価学会独自の、僧侶を不要とする冠婚葬祭等の化儀を勝手に執行しております。このことは、まさに本宗寺院から、信徒を隔離する行為ですから、これほどの原則への違背はありません。このように、宗門誹謗の団体と化した現在の創価学会をみれば、脱会した会員が法華講員・直属信徒となることは、本宗信仰のあり方の上から当然であります。ところが、創価学会では、自らに都合のよい日達上人等の指南のみを挙げ、悪辣に宗門を誹謗しております。特に秋谷会長の、


「宗門は天魔と化して、信者ドロボウに狂奔し、まことに嘆かわしい限りの実態であります。」(平成3年9月17日)
「宗門が今、画策している檀徒づくりは、名誉会長と私たち会員との師弟の絆を断ち切ろうとの陰謀である。破和合僧の行為を放置していたら、世界広布の将来はないし大聖人の御精神から大きく外れてしまう。我々は、今こそ学会正義の大確信をもち、勇気ある実践を展開しよう。」(平成3年9月28日)


等の発言や、本宗能化に対する創価学会古参幹部の、「信徒を泥棒のようにかすめとろうというのは、仏法上人道上、許されないことであり、これは宗門の信心の自滅となるものでしょう。」(平成3年8月16日付書面)との発言は、本宗信仰における僧俗師弟の筋道を全く無視し、信徒間に仏法の師弟を持ち込んだ謬見であり、信徒団体としての分域を越えた、本末転倒の邪見であります。あまつさえ、「信徒泥棒」との発言は、創価学会による本宗信徒の私物化であって、本宗の信徒団体たることを、自ら放棄する行為以外の何物でもありません。以上のように、現在の創価学会はあらゆる面で、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させること」との原則遵守を破棄した背信集団であることを、深く認識すべきであります。




(二) 
次に、三原則の第二「当山の教義を守ること」について述ぺることにいたします。

イ 池田氏の本尊観・妙法観が、御本仏大聖人の已証から外れた法偏重の外道義であり、まさに本宗の根本義たる仏宝・法宝の意義内容を、我見をもって改変する大謗法の邪義であることは、本宗能化より学会古参幹部に対して出した、平成3年7月31日付書面、及び9月6日付書面で指摘しているところであります。また、宗祖大聖人の究極の重大事たる戒壇の義について、池田氏が浅見をもって聖意を汚す発言をいたしましたが、その誤りに対しても、書面等をもって既に糺しております。本来ならば池田氏並びに創価学会は、これらの指摘に対して、その誤りを率直に認め、公式に懺悔して改め、ただちに会内に徹底すべきであります。しかし創価学会には、現在に至るまで、一向にその兆しがありません。宗門としては、もはや創価学会には、池田氏の大謗法を自浄する能力が、全くないと受け止めるものであります。


ロ 次に、本宗の僧俗の関係は、先に述べたごとく、師匠と弟子という筋目の上から、僧俗の相違が存するのであります。すなわち、本宗信徒は、血脈付法の法主に対しては当然のことながら、所属寺院の住職・主管を血脈への手続の師匠として、師弟相対の信心修行に励むとき、はじめて大聖人以来の血脈が通い、僧侶も信徒もともに御本尊の法体に冥合し、妙法当体蓮華の一仏となるのであります。このように、僧俗は、信心成就の当体当相においては、僧俗が一体平等となりますが、そこに至るまでの信心化儀という現実面では、必ず師弟の筋目の相違が存するのであります。創価学会でも、『特別学習会テキスト』において、


「私達は日蓮正宗の信徒であることの意識を明確にし、僧侶に対しても礼節を重んじ、信徒としての姿勢を正すなかに僧俗和合の道を進めてまいりたいと思います。」

と、僧俗の筋目を正しく述べております。ところが、創価学会から宗務院に宛てられた、平成三3年1月1日付書面以来、創価学会では、本宗本来の意義から外れた僧俗平等論なるものが、盛んに唱えられております。特に、『阿仏房御書』等の信心成就に約して示された御書や、日有上人の『化儀抄』第一条の本意を曲解して、


「僧侶と信徒との関係にあっては、まずなによりも、信心のうえでは僧俗平等であることが第一義であると思います。その上で僧侶と信徒の本分及び役割を生かした相互の尊重・和合があるのではないでしょうか。」(平成3年1月1日付「お尋ねに対する回答」)
「私たちは、これまで『信心の血脈」においては僧も俗も平等であるが、その上で僧俗のそれぞれ主たる役割の相違があるのみであると信じて、広宣流布に邁進してきました。」(平成3年1月9日付青年学術者会議有志「質問書」)

「法の上では、僧も俗もともに同じ人間であり、全く平等なのである。」(平成3年2月14日付『聖教新聞』・佐久間昇氏「化儀抄を拝して」)

「徹底した平等主義こそ仏法の本義」(平成3年10月16日付『創価新報』)」


等と述べ、またこのような已義に基づく僧俗平等観の立場から秋谷氏は、


「宗門は大聖人の仏法を奉じているとはいえ、権威で民衆を見下し、屈服させるような姿であります。」(『大白蓮華』平成3年6月号・巻頭言)」

と、いかにも宗門が権威主義然として、信徒蔑視をしているかのように喧伝しております。さらにいえば、平成3年10月17日における池田氏の、


「信徒の側は、僧侶の権威にひれ伏した時に、本来の信仰心は失われ、僧に仕え、依存するのみの形式的な信仰となり、真の功徳はなくなる。御本仏・日蓮大聖人、すなわち大御本尊に信伏随従し、仕えることは正しいが、その根本からはずれて、僧侶に仕えることは、仏法の本義に背く誤りであることを知らなければならない。」

との発言は、まさに三宝破壊につながる僧侶蔑視発言というべきであります。これらは、明らかに仏法本来の僧俗師弟のあり方を破壊する邪見であり、教義違背行為以外の何ものでもありません。


ハ 倉価学会では、昭和52年路線で反省したはずの本宗法義にない師弟論、すなわち信徒間における師弟不二論を、再び展開しているのであります。すなわち、小説『人間革命』第十巻では、大聖人の仏法が師弟不二の仏法であることは、一切法即仏法のゆえに、人生の師弟間にも昇華され、そこに、「信仰の血脈」が偉大な脈動となって迸るなどと展開しているのであります。そして、人生の師弟間に、師弟の道と師不二の道とを立て分け、池田氏が、唯一戸田城聖二代会長と師弟不二であったと宣伝しているのであります。

また、平成3年10月16日の池田氏のスピーチにおいても、

「私は『先生の行くところ、どこまでも行く。先生とともに生き、先生の目的のために死のう』と決めた。(中略)また打つ手、打つ手が、師のリズムに合致しゆく自身を確信した。私が言っていること、やっていることは、すべて先生の心を受けての言動のつもりである。師弟の心は、どこまでも『不二』でなければ、仏法の生命はない。」

と述べており、さらに平成2年7月3日付、『聖教新聞』の「春夏秋冬」では、


「九界の因と仏界の果との相即は法華の極説。さらに仏法では、弟子を因に、師匠を果に配する。因果一体は、師弟では師弟不二。人生の師弟にも深義が。『出獄と入獄の日に師弟あり』-果たる師匠の出獄した7月3日はまた、因たる弟子の入獄の日。」

と、戸田一代会長を仏に配し、池田氏と師弟因果の一体不二を述べているのであります。これらは、已義をもって、本宗における唯授一人の血脈、及び僧俗師弟における師弟相対の信心化儀を、信徒間の師弟へとすり替えた大変な邪義であり、まさに師敵対の大謗法であって、明らかに「当山の教義を守ること」との原則に違背するものであります。


ニ 本宗の寺院は、『日蓮正宗教師必携』で、


「寺院・教会は仏祖三宝の所有であり、住職・主管または檀信徒のものではない。」

と定めるごとく、下種三宝の所有であり、また三宝の内体義によって、寺院は、当職の法主の所有に帰するのであります。また、『日蓮正宗宗規』第180条に、


「管長の任命した住職または主管及ぴそれらの代務者に対しては、いかなる者もこれを拒否することができない。」

と定めるごとく、時の法主より任命された住職主管に対しては、だれ人たりといえども、それを拒否することはできないのであります。ところが、池田氏は、平成3年8月18日のスピーチで、昭和7年8月の『佛眼寺問題について』という、日淳上人の登座24年以前における、


「若し一度何事かを差し挾んで三者(管長・住職・檀徒)の意志が分裂してその所有権を論ずる場合は寺院の本質により信仰の母体たる檀徒の所有に帰すべきもの」

等の発言を、切り文的に悪用して、


「寺院をどうするかについては、本山や住職の意向よりも、信仰の母体である信徒の意志を基準に決めるべきである。(中略)大多数の信徒こそ寺院の本来の『所有権』(持ち主、主人)であり、住職も本山も、信徒から寺院を預かっている『管理者にすぎない』…。」

と述べているのであります。しかし、日浮上人の発言は、当時、仙台市佛眼寺が、不正な裁判のもとに京都要法寺派へと籍を移され、要法寺派の僧侶が住職として着任し、本宗の佐藤覚仁師が強制退去を余儀なくされたという、特殊な状況の上でのものであります。池田氏は、このような特殊な状況を顧みず、ただちに現在に当て嵌め、本宗の寺院が信徒の所有であると述べたのであります。このことは、佛眼寺問題の特殊性はもとより、本宗の寺院所有のあり方と僧俗師弟の筋目を、明らかに無視した本末転倒の邪義と断ずるものであります。


ホ 現在、創価学会では、『聖教新聞』『創価新報』等の機関紙において、虚偽や捏造、事実の歪曲等により、宗門僧侶に対して悪口中傷し、社会的信用を大きく失墜させております。これら多くの誹謗行為は、まさに『普賢菩薩勧発品』に説かれるところの、


「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」

との御文に該当するものであります。あまつさえ法主に対するさまざまな非難中傷は、本宗の命脈である唯授一人の血脈の尊厳を侵すものであり、本宗信徒にとって、あるべからざる大謗法行為であります。


へ 本宗においては、師弟相対の信心化儀を基本とする化儀即法体の法門が、儀式法要を含む一切の化儀の要諦であります。また、その裁定権は、先に述べたごとく血脈付法の法主一人に具わるところですから、一般の僧俗が勝手に化儀を変更することは、決して許されません。まして本宗信徒であるならば、宗門の定める化儀に従うのが当然であります。この点、昭和五十二年路線の反省として、昭和53年の「一一・七」で、北条理事長が、


「今、このことを総括するに、問題を起こした背景に、宗門の伝統、法義解釈、化儀等に対する配慮の欠如があったことを率直に認めなければなりません。」
「寺院行事を尊重する意味から、(中略)春秋彼岸会、孟蘭盆会の学会としての開催は、学会本部ならびに各県中心会館では行う場合はありますが、地方では、いっさい行わないようにいたします。」


等と率直に反省し、寺院の儀式法要を重視していくことを述べたのであります。ところが現在、創価学会では、本宗の年中行事や冠婚葬祭などの儀式法要等の化儀を、已義を構えて独自に執行したり、不要として等閑にし、本宗伝統の化儀を破壊しているのであります。特に葬儀については、宗務院として、去る10月21日付で通告文を送付いたしましたが、創価学会より11月2日付をもって、本宗の信条に背反する、信徒としてあるまじ罵詈讒謗の通告をしてきました。このことは、創価学会がもはや本宗の血脈仏法に基づく伝統化儀に従えない体質に変質したことを証明するものであります。また、塔婆や戒名などは己義によって不要の化儀としています。これらは、全て本宗の伝統法義を蔑如するものであり「当山の教義を守ること」との原則を、明らかに破棄する行為であります。


ト 平成3年5月15日付『創価新報』の「宗門問題の本質はここだ!」という欄に、創価学会副学生部長の高岡輝信氏による、「冷酷」と題する一文が掲載されました。その内容たや、江戸時代に起きた堅樹派と称する異流義を取り上げて、これを正当化するという、ひどものであります。堅樹派は、完器講とも称しますが、その派祖である堅樹日好は、もと日朗門下の人で、第35世日穏上人の時に本宗に帰伏したものの、妙法の題目に四箇の格言を加えて唱える新義を提唱し、また戒壇の大御本尊と血脈付法の法主を否定するに至った邪師であます。

本宗非教師から、高岡氏の邪説に対する反ぱく文が出されましたが、高岡氏においても、また創価学会においても、未だに反省並びに訂正を表明しておりません。このことは、創価学会全体として、異流義たる堅樹派を容認している証左であり、まさに「当山の教義を守ること」の原則に遠背するものであります。






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