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from: 21世紀さん
2009/04/03 14:02:24
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大石寺の信徒たち
天璋院篤姫
〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち 1 〜
今月からしばらくは日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んでいた歴史上の方々のことを学びます。私たちの先輩には歴史上の著名人も少なくありません。ことに今年は、テレビのドラマで天璋院篤姫のことが取り上げられております。しかし、ドラマですから脚色された部分もあることと思います。脚色された部分が真実であると思われるのも困りものです。そこで今回は、総本山五十一世日英上人が書きとどめてくださった「時時興記留」を拝して、天璋院の信心の姿を学びます。そして、脚色された部分に執われることなく、信心の眼で見るならば、有益なものとなるでしょう。
ただし、日蓮大聖人様の教えからすれば、将軍の夫人であっても一般庶民であっても成仏の功徳を受けることにおいて違いはありません。無名の人々がいて富士大石寺の七五〇年を守ってきた事実は変わるものではないのです。ですから、ここで取り上げる意味は、日蓮大聖人様の仏法を広く社会に弘める上で、このような人も日蓮正宗の信仰をして功徳を頂いている現証があります、と伝えてゆくことが大切だと考えるからです。
ことに池田x作を破門以後、真の法華講衆が日蓮正宗富士大石寺の話をすると、必ず「なんだ池田x作のお寺か」といわれます。残念なことに、世間的には新興宗教である池田教の総本山としか思われていない面があります。そのような人々に、「日蓮正宗の総本山である富士大石寺は、新興宗教ではありません。七五〇年前か富士の麓にそびえ立ち、日蓮大聖人様の教えを正しく伝えているお寺です」と胸をはっていうときに、「過去にはこのような人たちも御信徒でお題目を唱えて功徳を頂いております」と実例を挙げれば、なお一層安心感を相手に与えることが出来るからです。
ですから、歴史を学ぶことは折伏の上からも大いに意味があることなのです。また、これらの方々も、平成の法華講衆である私たちが、信心の手本としてその名を語り継いでくれることを喜びとされていると思います。折伏の修行を重ねてゆく私たちもやがて歴史の中の一人となります。封建社会の人々とは違い、個人名で語られることはないでしょうが、折伏の功徳を受けることにより、未来に「平成の法華講衆」として記憶され、天璋院たちと同じように、「平成の法華講衆は第六天の魔王である池田x作と正々堂々と闘い魔王に魅入られた心を打ち破り富士大石寺の清流を守った」として語られることは間違いありません。
そのためにも今日の精進が大切です。ともに御本尊様の御照覧を信じ、寒さに震える中にあっても、背筋を伸ばし顔を上げて、真っ直ぐに進みましょう。功徳は真っ直ぐな信心に具わります。春はすぐそこに来ております。
〔総本山五十一世日英上人御説法 「時時興記留」〕
(万延元年一八六〇年十月 於 常泉寺)
さて、今日法会を幸い、各へ披露いたす事は、恐れ多くも前の大将軍、温恭院様の御台所様、当天璋院様御事。各の兼ねて伺い及ばる通り、その実は薩州齊彬公の姫君にして、御幼名厚姫君様と称し奉り、この御方不思議の御因縁にて、当門流御帰依遊ばされ、八箇年以來、江戸御下関の節、京都に於て近衛様の御養女と成らせられて、薩州芝の御館に御着之有。而して前の将軍様へ御婚姻相調はせられ、去る辰の年十一月渋谷の御館より直ちに御台様にて御本丸へ御輿入れ相済み為され、四海波静にて比翼連理の御契り浅からず。御威勢に在す処、如何の御因縁にや一昨年将軍様には御急病にて御他界遊ばされ、誠に御台様の御愁歎言語に尽くし奉り難く、若君様には御幼年に入り為され、彼れ是れ以て御尊労の中に、去年御炎上上の後も何角と御心掛りの御こと共も在らせられ、之に依り当春三月厳しく御祈祷申し上げる可く御旨仰せを蒙り、三月十四日より閏三月及び四月五日に至り都合五十一日、朝は暁七つより五つ時迄、(午前四時から午前八時)昼は九つ時より夕七つ頃(午後十二時より午後四時)迄。夜は六つ時より四つ時(午後六時より午後十時)迄。弥よ丹誠を抽し必至の御祈念申し上げる処に不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り御互いに有難きことにあらずや。
〔解 説〕
この文は総本山第五十一世日英上人がお書きになったものです。当時、日英上人は向島の常泉寺に滞在されており、その年のお会式にされたお説法の一部です。平成十七年の夏期講習会のテキストに掲載されておりましたからご記憶の方も多いと思います。「時々興記留」と名前が付けられており、品川の妙光寺に伝えられております。この御文が書かれたのは、万延元年(一八六〇)十月とされております。
引用いたしましたところは、徳川十三代将軍家定の正室であった天璋院について触れられたところです。天璋院は薩摩二十八代藩主島津斉彬の養女となり、さらに近衛忠煕の養女となってその後に将軍の正室として輿入れをしております。養女からさらに養女となる複雑な経緯を経て、初めて将軍家に相応しい身分を整えることが出来たのです。このことからも、江戸時代の身分制度の厳しさが伝わってきます。
さて、その天璋院が、「不思議の御因縁」で日蓮正宗富士大石寺の信仰をするようになったことも記されております。入信の動機はどの様なものであったかは想像をする以外にありませんが、おおよそのことは推察することが出来ると思います。
それは、天璋院の曾祖父が薩摩藩二十五代藩主島津斉宣(なりのぶ)です。その斉宣の弟に八戸南部藩へ養子に入り九代藩主となった南部信順(のぶより)が既に入信をしていたという事実があるからです。天璋院からすれば、大叔父にあたるのでしょうか。そのような縁があっての入信だったことは間違いのないことと思われますです。薩摩からはるばる江戸に出てきた篤姫を見て、江戸城の大奥という特殊な社会に身を投じようとする健気な篤姫に接し、正しい信仰を持たせてやりたい、そして役目を立派にはたすことができるようにという心から、信順は折伏をしたに違いありません。
天璋院にしてみれば、将軍への輿入れという未知の世界に足を踏み入れる不安は想像を絶するものがあったことでしょう。まして外様大名の島津家の出であれは尚更だったと思われます。近衛家の養女という身分になったとしても。またこの年に、実父の島津忠剛が四十九歳で死去していることも強い縁となったものと思います。この信順の入信については、「八戸法難」の時にお話を致したいと思いますので今日は詳細を申し上げません。
大叔父の折伏を素直に聞き入れ、晴れて日蓮正宗富士大石寺の信徒として、日蓮大聖人様に見まもられての輿入れが、安政三年十一月十一日でした。翌十二月十八日に家定と婚儀を整えております。ところが、結婚後わずか一年半後の安政五年七月六日に家定は病気のために死去いたしました。この時には養子として迎えていた十四代将軍家茂は十三歳でしたから、天璋院の悲しみ、苦しみは深く、一般庶民とは別の次元での思いがあったことでしょう。
さらに、翌安政六年には江戸城本丸御殿の焼失があり、さらにまたその翌年、万延元年には三月に桜田門外の変が起こり、騒然とした世上がますます混迷を深める様相でした。
このような状況の中で、日英上人に御祈念を願い出られたのです。嫁いでからの年数も浅く、年若い子を抱え、さらに外様大名の娘という身分、不安な社会情勢等々。このような状況にあった天璋院にとっては、頼りとするところは御本尊様しかありませんでした。このときの天璋院の心の中を、日英上人は、「厳しく御祈祷申し上げる可く御旨仰せを蒙り」というお言葉でお示し下さっていると拝します。つまり、将軍家の夫人が下々の者と同じような悩みを抱え、日英上人に御指南を仰いだ、とはお書きになれないので、厳しく御祈念を申しつけた、と表現されるのです。実のところは、深い悩みや辛い苦しみの心中を吐露されたということです。そして、日英上人はその願を聞き届けられ、三月十四日から閏三月を経て四月五日までの五十一日間、朝四時間、昼四時間、夜四時間の一日十二時間唱題をされたことがここに記されております。つごう六百十二時間の唱題行になります。日英上人は「必至の御祈念」と仰せです。天璋院の願を受け、日英上人が懸命に祈って下さったのです。『祈祷抄』には、
「祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(御書一三一四)
とあります。よき師とは、日蓮大聖人様のことです。今日では、大聖人様より唯授一人の御相承を御所時遊ばされる代々の御法主上人がよき師のお立場です。ですからこの当時のよき師は日英上人、よき檀那は天璋院になります。そしてよき法である本門戒壇の大御本尊様に御祈念を申し上げたのですから願が叶わないはずはありません。まさに「願として叶わざるなく」(本尊抄文段・日寛上人)の現証として、「不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り御互いに有難きことにあらずや」と、天璋院も不思議な功徳を受け、また世の中も平穏になる御利益があったのです。この大きな功徳の現証は、私たちの信心の第一の手本とすべきものです。「不思議な御利益」については次の語句の意味に書いておきました。目を通してください。
〔語句の意味〕
○温恭院-徳川幕府第十三代将軍徳川家定
○薩州斉彬-薩摩藩十一代藩主島津斉彬
○近衛-近衛忠煕をさす。幕末の公家。近衛忠煕(このえただひろ)は第二次大戦中に首相になった近衛文麿(ふみまろ)の祖父。
○比翼連理-「比翼の鳥」と「連理の枝」を略して熟語にしたもので、共に男女の仲の良いことを表す言葉。「比翼の鳥」とは雌雄同体になった中国の想像上の鳥。「連理の枝」は、別々の枝が合わさって一本の枝になること。
○若君様-家定の養子となった第十四代将軍徳川家茂のことと思われる。家茂はこの時十三歳。
○去年御炎上-一八五九年(安政六)焼失した江戸城本丸御殿のこと。
○抽- ちゅうし 選びだす 抜き出す ここでは、心より、との意。
○不思議の御利益-この年の三月三日に桜田門外の変が起こった。幕府権力の象徴である江戸城の門前で、時の大老が暗殺されるという前代未聞の大事件であり、徳川幕府の威信失墜が露わになったものといえる。そして、一挙に倒幕の動きが顕在化する恐れもあった。また、国内情勢の混乱は、ヨーロッパ諸国やアメリカなどの列強による、日本植民地支配の引き金にもなりかねないものでもあった。このような緊迫した社会情勢を和らげるために、さらには、弱体化した幕府を立て直すためにも「公武合体」という考え方が出てきても不思議ではない。天璋院は、前の御台所として「公武合体」を積極的に支持し、天皇家や近衛家に働きかけたものと思われる。年表によれば、延元元年四月に、幕府は孝明天皇の妹である和宮の降嫁を願い出ている。そして、六月頃には内々の同意を得、十月に天皇の許可が下りている。このようなことを考えあわすと、不思議の御利益とは、公武合体が実り、国内の和平の瑞が見えたことをさしているのではないかと思われる。次下の「追々世上穏やかに相成り御互いに有難きことにあらずや」との御文は、政治が安定することにより、国民も平穏な心をもつことが出来る上から、お互いに有難いことではないか、と仰せられたのであると拝する。
〔天璋院略年表〕
天保六年(一八三五) 一歳。 十二月、薩摩藩島津家分家、今和泉藩主・島津忠剛の長女として生まれる。一子(かつこ)命名。
弘化三年(一八四六) 十二歳。孝明天皇皇位継承。閏五月、和宮誕生。
嘉永四年(一八五一) 十七歳。島津斉彬薩摩藩主となる。
嘉永六年(一八五三) 十九歳。三月、島津斉彬の養女となる。篤姫と改名。八月、鹿児島を出発し、江戸の芝藩邸に入る。
徳川家定、十三代将軍になる。
安政元年(一八五四) 二十歳 八戸藩主南部信順(天璋院祖父・薩摩藩二十六代藩主島津斉宣〔なりのぶ〕弟)が江戸において入信。天璋院の入信もこの頃と思われる。
実父島津忠剛死去(四十九歳)。
安政三年(一八五六) 二十二歳。近衛忠煕(ただひろ)の養女となる。篤子と改名。一二月一八日婚礼。
安政五年(一八五八) 二十四歳。徳川家定死去(三十五歳)。井伊直弼大老就任。安政の大獄。島津斉彬死去(五十歳)。
天璋院と号し、従三位に叙任される。
徳川家茂第十四代将軍となる。
安政六年(一八五九) 二十五歳。江戸城本丸御殿焼失、天璋院西丸に移る。
万延元年(一八六〇) 二十六歳。三月、桜田門外の変。
三月、御祈念を総本山五十一世日英上人に願い出る。日英上人願い出を受け、三月十四日より五十一日間、一日十二時間の唱題をされる。
四月、幕府、和宮降嫁を朝廷に願い出る。
十月、孝明天皇和宮の降嫁を正式に認める。
文久二年(一八六二) 二十八歳。二月、徳川家茂と和宮の婚儀。生麦事件。
慶応二年(一八六六) 三十二歳。薩長同盟成立。十四代将軍徳川家茂死去(二十一歳)。
十五代将軍に徳川慶喜。
慶応三年(一八六七) 三十三歳。大政奉還。王政復古の大号令。
明治元年(一八六八) 三十四歳。江戸城開城。徳川家達が徳川宗家を相続。江戸が東京と改称。
天璋院、一橋邸に移る。
明治十六年(一八八三) 四十九歳。 東京一橋邸にて死去。
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from: 21世紀さん
2009/04/03 14:06:53
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「Re:大石寺の信徒たち」
敬台院
〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち 3 〜
敬台院(阿波蜂須賀家二代藩主至鎮正室)
今回は総本山の御影堂を建立御供養された敬台院です。天璋院は薩摩の島津家、天英院は京都の近衛家でした。敬台院は徳川家の人です。
御影堂には、御本尊様と共に第六世日時上人の代から伝わる日蓮大聖人様等身の御影様が安置されています。現在の建物は寛永九年(一六三二年)、第十七世日精上人の代に、敬台院の御供養で再建造営され、昭和四十一年(一九六六年)には静岡県の有形文化財に指定されています。
御影堂では、宗祖日蓮大聖人様の御命日にあたる十三日には、鎌倉御出現の日蓮大聖人様の御魂が常住遊ばされているとの意義を込め、御在世のときと同じような心持ちで、御法主上人御自ら御給仕申し上げ御報恩を尽くします。七日の日興上人の御命日、十五日の日目上人の御命日にも、御法主上人が御出仕されて御報恩御講が奉修されます。
また、本宗の二大行事である虫払法要や御大会(ごたいえ)をはじめ、総本山での各種の年中行事もこの御影堂を中心として奉修されます。
この御影堂を建立御供養された敬台院は、文禄元年(一五九二年)下総古河藩主小笠原秀政と登久の長女として生まれました。父の秀政は信濃の守護職大名であった小笠原氏の末裔で、母登久(とく)は徳川家康の長男・信康と織田信長の長女・徳姫の間に生まれました。つまり、敬台院は信長と家康の直系の曾孫にあたります。その後、慶長五年(一六〇〇年)に曾祖父であった家康の養女となり、阿波徳島藩主であった蜂須賀至鎮(よししげ)に嫁ぎました。
日蓮正宗の信仰をするようになったのは、総本山十七世日精上人から直接の折伏を受けたからである、と伝えられております。『敬台寺三百三十年史』によれば、能筆で知られていた日精上人に、法華経の書写を敬台院が願い出た折に、日精上人から直々に折伏されたことが記されています。
嫁ぎ先の蜂須賀家は元来が富士門流の京都要法寺の信徒でした。そのような縁から、日蓮大聖人様の仏法を蜂須賀家に嫁いでから学なび、法華経の写経を日精上人に願い出ることになったと思われます。そして、日精上人から、本門戒壇の大御本尊様と、大聖人様以来の唯授一人の血脈を御所持遊ばされる代々の御法主上人のもとで信心をすることが成仏の唯一の道であると破折され、日蓮正宗富士大石寺の正しい信仰を持つようになったのです。
入信されてよりは、純粋に大聖人様の教えを守り、日蓮正宗の外護に勤めました。そのなかでも特筆されることは、御影堂を建立御供養したことです。
また、御法主上人が江戸城に登城するにあたっては、駕籠に乗ったままでの登城を許可するように幕府に申し出てそれを認めさせています。このことは、自らが信ずる日蓮正宗の代々の御法主上人は特別なお方である、と思う強い信心のあらわれです。先月の天英院が『独礼席』のことを申し出たのと同じです。二方ともに、大聖人様以来の唯授一人の血脈を御所持遊ばされる御当代上人を、大聖人様の如く敬っていた証拠であり、私たちもこのような信仰を受け継ぎ、後世に伝えることが大切です。
歴史を学ぶことは、歴史上の人たちの信心の行動を通して、私たちの信仰のあり方を学ぶことだと思います。天璋院も天英院も本日の敬台院も高い地位にありながら、深く日蓮大聖人様の信仰に帰依し、強い信心で生涯変わることなく富士の立義を貫き、行動で私たちに外護の姿を示してくださいました。将軍の正室といえば、現代風にいえばファーストレディーです。多くの侍女たちにかしずかれ、何不自由なく過ごすことが出来る恵まれた身分でした。しかし、そのような地位にあっても、おごることなく、純粋に日蓮正宗の信仰に励んだのは、凡夫の心を満たすのは、真実の幸福は、お金や地位ではなく御本尊様の仏力であり法力であることを、この方々が身をもって示してくれているのだと思います。そして、「私たちの信心の後輩である平成の法華講衆の皆さま。折伏で、社会的・経済的に恵まれ、満ち足りた生活をしているような人に対したとき、私のような者の話を聞いてくれるだろうか、などと不安になることがあるかもしれません。その時には私たちを思い出してください。どんな相手であろうと、人としての心は同じなのです。親子や兄弟や色々なことで悩んでいるのです。ですから、遠慮なく正しい教えを説き折伏をして、その人を真実の幸福に導いてあげることが第一です」と自らが手本となり、折伏の勇気を与えて下さっているのです。
私たちには名誉もお金もありませんが、世界一の宝物である御本尊様があります。この境界こそ最高絶対の境界であり来世に持って行くことの出来る唯一のものであることを自覚し、自信と誇りをもって折伏の修行に励みましょう。そして今世に御本尊様に縁が叶った自身の福徳に感謝しようではありませんか。
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from: 21世紀さん
2009/04/03 14:09:07
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「Re:大石寺の信徒たち」
南部信順
南部八戸藩・九代藩主
〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち 4 〜
南部信順(南部八戸藩・九代藩主)
日蓮正宗歴史人物像 その四
〈南部八戸藩・九代藩主南部信順〉
南部信順(なんぶのぶゆき)は薩摩藩八代藩主・島津重豪(しまずしげひで)の十三男として、一八一四年(文化十一年)に生まれました。兄姉には三女の茂姫(一七七三年・安永二年)がおります。この茂姫さんは徳川十一代将軍・家斉(いえなり)の正室になり、広大院と呼ばれております。したがって、将軍の家斉さんと信順さんは義理の兄弟ということになります。
一八三八年(天保九年)に八戸藩に養子として迎えられ、四年後の一八四二年(天保十三目年)に八戸藩第九代藩主となり家督を継いでおります。
信順さんが藩主になった翌年の天保十四年、日蓮正宗・仏眼寺僧侶の玄妙房日成師(げんみょうぼうにちじょうし)が弘教のために八戸を訪れ、阿部喜七宅に滞在しました。仏眼寺は仙台にある日蓮正宗の寺院で、伊達家とも深い縁があります。前後しますが、信順さんは藩主になったとはいえ、未だ江戸の藩邸におり、国元では義父の南部信真(なんぶのぶまさ)が実権を握っておりました。
さて、喜七さんは日蓮宗の本寿寺の檀家でしたが、玄妙房の説く、日蓮正宗富士大石寺の信仰こそが本当の日蓮大聖人様の御教えであることを知り、先祖代々続いてきた日蓮宗の教えを改めて富士大石寺の信徒となりました。そして、
「須く心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧めんのみこそ、今生人界の思い出なるべき」(『持妙法華問答抄』御書三〇〇頁)
との日蓮大聖人様の教えを素直に実践しました。真実の日蓮大聖人の教えを伝える富士大石寺の御法門の前では、身延派をはじめとする日蓮宗の教えは無いに等しく、次から次へと論破され、富士大石寺の信徒が続々と八戸に誕生することになりました。
ところが、信徒が改宗してしまった本寿寺では、自らの誤りは棚に上げて、富士大石寺の信仰を「切支丹類似の富士門流」として、藩庁に訴えたのです。藩では、信仰の正邪を判断するのではなく、改宗を禁止した国法に背くことは許されない、として富士大石寺の信仰を捨てることを命じました。しかし、正しい教えのあることを知った八戸の法華講衆は一歩も引きませんでした。そして、ついに入牢や所払いの刑を受け、総本山富士大石寺から御下附頂いた、御影様や御本尊様も藩に取り上げられてしまったのです。これが「八戸法難」といわれるものです。
そのころ江戸藩邸にいた信順さんは、出入りの高野周助という常泉寺の信徒に折伏を受けておりました。同時に、周助さんは藩邸に勤めていた侍女・喜佐野も折伏をしておりました。どちらが先に入信をされたのか分かりませんが、二人とも富士大石寺の信仰に入りました。
ここで思い出していただきたいのですが、以前にお話をしました天璋院篤姫は、重豪さんの曾孫でしたね。ですから、篤姫さんからみれば、信順さんはお祖父さんの弟、ということになります。現在の感覚からすれば、このように申し上げると、ずいぶん年が離れているように思うかもしれません。しかし実際のところは、篤姫さんと信順さんは二十二歳違いです。ちょっと年の離れたお兄さん、といったところでしょうか。信順さんたちが入信したこのころ、薩摩から将軍家へお嫁に行くために篤姫さんが江戸に登ってきました。そして、将軍家の御台所になる篤姫さんに、正しい信仰を持って嫁入りすることが幕府のため、日本のため、ひいては国民のため、と立正安国論の精神を説いて折伏をしたことは想像に難くないところです。信順さんから折伏を受け篤姫さんはたいそう聡明な女性でした。ですから、素直に日蓮大聖人様のお弟子となることが叶い、富士大石寺の信徒として徳川十三代将軍・家定の正室として嫁入りし、その後の活躍は周知の通りです。
次ぎにあげる手紙は、総本山五十一世日英上人が嘉永六年(一八五三年)九月一日に、青森県八戸のご信徒、渡辺重兵衛さんに宛ててお出しになったものです。現在は八戸市玄中寺(げんちゅうじ)に所蔵されています。
信順さんや喜佐野さんの信心、また周助さんたちのことが記されております。
「日英上人お手紙」
「扨て度々有り難き事は遠江守様え高野周助より種々法義筋申し上げ、当春御入国に付き、色々手段相廻し、折能く喜佐野と申す御老女、周助教化致し、今春幸ひ御供にて御国え参り候に付き、先年法難の節、御取り上げに相成り候尊像御三体、御本尊廿一幅、大石寺へ下し置かれ候様、喜佐野殿へ程能く願い含め置き候処、折こそ有り、右喜佐野今年卅七歳、大厄年の処、当夏中、大病相煩い、先々大切にも及ぶべき処、兼ねて周助より願ひにて愚老(日英上人)より遣はし置く御秘符頂戴致し、七日立たざる内、本復致し、殿様も奇代に思し召される処え、右喜佐野より闕処蔵入りの尊像・御本尊等の儀願い上げ候処、即時に御取り出しに相成り、六月中より殿様御居間に御安置、日々、御膳等上り、喜佐野殿等御題目修行候由、喜佐野より周助へ申し参り候旨、此の程周助より申し越し候」(諸記録第九部四十五)
【現代語訳】
さて、常に有り難くまた不思議に思うことは、南部信順さんに、高野周助さんより富士大石寺の法門を種々申し上げ入信に導かれたことです。その結果として、今年の春、八戸にお帰りの時に、手を尽くして下さることとなりました。
折よく、喜佐野さんという侍女の責任者も周助さんより教化を受け入信をしており、今年の春に信順さんが八戸にお帰りの時にお供をすることができました。その時に、喜佐野さんに、前の法難で藩に取り上げられていた、日蓮大聖人様の御影様三体、御本尊様二十一幅を、大石寺に返していただくように折を見てお願いして下さい、と頼んでおりました。喜佐野さんは三十七歳の大厄の年であり、夏のころに大病を患いました。命にも及ぶような病気でした。しかし、喜佐野さんの病気のことを案じていた周助さんが、私に御秘符を願い出ておりました。喜佐野さんがその御秘符を頂戴したところ、七日たたないうちに病気が良くなりました。その姿を見た殿様も、御本尊様の不思議なお力である、とより強く日蓮正宗の信仰に励むようになりました。そのようなことがありましたので、喜佐野さんは、以前の八戸法難の時に、藩から取り上げられ、蔵に納められている御影様と御本尊様等のことをお話しいたしましたところ、殿様はすぐさま蔵からお取り出しになられ、六月の中頃より殿様の居間に、法難で取り上げた御本尊様や御影様を御安置になりました。そして、毎日お膳などもお供え申し上げ、喜佐野さん達も勤行や唱題をして、修行に励んでいる、とのことです。このことを、喜佐野さんより周助さんに連絡がありました。さらにこの度、周助さんより私に連絡があったものです。
このお手紙から、
①南部八戸藩・第九代藩主南部信順(のぶゆき)さんが日蓮正宗富士大石寺の信仰をされていたこと。
②南部信順さんを折伏したのは、高野周助さんという人であったこと。
③高野周助さんは、喜佐野(きさの)さんという侍女の責任者(老女)も折伏したこと。
④喜佐野さんが三十七の大厄の年、大病を患ったが、日英上人より御下附された御秘符を戴き、七日もたたないうちに全快したこと。
⑤その功徳の現証を見て、南部信順さんが自身の居間に御本尊を御安置して信心に励んだこと。
⑥先に、法難の時に取り上げられていた御影様や御本尊様が返されたこと。
などが分かります。
南部信順さんを折伏した高野周助さんは、常泉寺の法華講員です。南部信順さんの実家である薩摩藩出入りの商人でした。商人といっても、高野という苗字を名乗ることができたのですから、一角の人物でした。また、藩主を折伏をするのですから、信心の面からいえば、「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(一一〇九頁)と仰せにあるような、勇気のある信仰生活でした。
また、出入りの商人から、日蓮正宗の話を聞き、入信する殿様も素敵な兼識の方だといえます。身分制度の厳しい時代ですからなおさらです。臆することなく勇気を出して折伏をする人、その法門を聞いて素直に入信をする人。日蓮正宗富士大石寺の信仰は、社会的地位や名誉、また財産などを超越して存在することを南部信順さんや喜佐野さん、さらに高野周助さんの関係で学ぶことができます。
私たちの周囲にも、地位や財産には恵まれていても、心が空洞の人が大勢います。そのような空洞を埋めるのが正しい教えです。相手を思う素直な心になって、周助さんのように御本尊様のお使いとして、真実の教えである富士大石寺の南無妙法蓮華経を伝えてまいりましょう。
日蓮大聖人様のお使いをすることにより、篤姫さんや信順さんの後輩といって胸を張ることができるのです。なお、南部信順さんは、一八六一年(文久元年)に八戸に、自らの住していた館を移築して、玄中寺を建立御供養いたしました。正墓は総本山富士大石寺にあり、朝な夕な大御本尊様の功徳に浴しています。
戒名は 玄中寺殿信順仁翁日義大居士(げんちゅうじでんしんじゅんじんおうにちぎだいこじ)です。明治五年二月二〇日五十九歳で亡くなりました。
【参考 日蓮正宗妙光寺誌「高照」 大日蓮・諸記録】
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from: 21世紀さん
2009/04/03 14:11:13
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「Re:Re:大石寺の信徒たち」
加賀前田家
〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち 5 〜
加賀前田家
前田綱紀公は寛文元年(一六六一年)に加賀藩の第五代藩主になっております。加賀藩江戸藩邸は現在「赤門」として名残を留めておりますが、その藩邸の隣に常在寺がありました。その縁で綱紀公は常在寺に参詣し、日精上人のお説法を聴聞したのです。日蓮大聖人様の教えに触れ、富士大石寺の信仰の素晴らしさを理解し、家中の人々に常在寺に参詣し日精上人のお説法を聴聞するように勧めました。
側近をはじめとする家臣は、日精上人のお説きになる御法門こそ真実の御法門であり、正しく日蓮大聖人様の教えを伝えている、と深く感じ、次々と入信をしました。そして、江戸での勤めが終わった後、金沢に帰った法華講衆は喜び勇んで折伏に励み、延宝八年(一八六〇年)には金沢法華講を結成するまでになりました。総本山へもたびたび登山をして、御本尊様の御下附も受けておりました。現在伝えられている一番古い御本尊様は、寛文十一年(一六七一年)の脇書があります。
前田綱紀公の信仰 (加賀法華講 竹内八右衛門の書状より)
仏法の御内得に取りては、松雲院殿(綱紀)第一と存じ候。その故は、松雲院殿の御事、御内証には仏法の邪正を弁ひ、外用には人々を勧めて邪正を捨てしめ正法を信受せしむるの故也。
然らば過ぎ去りし候松雲院殿殿御近衆の御物語を承り置き候に、松雲院殿には平生御学問を好み遊ばされ候故にや。 世流布の日蓮聖人の書籍までをも拝見遊ばされ候のみにあらず、日蓮聖人より日興上人等と嫡々相承し、秘書本因妙抄・一百六箇・血脈抄等をも御覧遊ばされ候。常恒に本門の題目を口唱し、御近衆中え仰せ付けられ候様は、仏法の中には法華経第一也。法華経の中には本門寿量品第一也。譬へば国には大王、天には日月第一也。人身には寿命第一なるが如し。八宗九宗の中には日蓮宗第一なり。日蓮宗の中には富士大石寺の弘通秘法第一なり。その故は日蓮聖人付法の弟子と申すは唯だ日興(上人)一人なり。所弘の秘法は法華経本門寿量品の文底下種の事の一念三千の南無妙法蓮華経なり。この秘法を能々信行する時は国土も能く治まり栄ゆるなり。家民も能く身を持ち家を伝え安穏なり快楽なり。其旨日蓮聖人の御書並大石寺日興上人相伝の秘法本因妙抄等に分明なり。汝等も此の秘抄を拝見し本門寿量品の正法を受持して国家安全現当二世安楽を願へしとて、三大秘法抄・本因妙抄・百六箇血脈抄等を下し置かれ給ふ。
之に依り、加賀・能登・越中三箇国の内に早速流布の御家中には多く内得信仰の人々ありき。其上在府の砌には大石寺の末、下谷竹町常在寺、本所中郷妙縁寺、小梅常泉寺え参詣せり。就中小梅常泉寺と申すは近代、文昭院殿(徳川第六代家宣)御取立の寺にして御先祖の御位牌御姫君の御正墓御仏殿等皆建立なり。其上新知三十五石所領を下され候。彼の寺にて富士大石寺御貫主の御説法を聴聞し奉り候に松雲院殿仰せの如く、少しも相違無き御法門なり。
然る間、人々皆一同に申し合わせいよいよ信仰の志を堅固に成し松雲院殿の御為には身命とも惜しむべからずと御奉公ありし故にや、御国も静謐に治まり、国主も安穏にして麓に毒殺害等の災難もこれなく、誠に以ていみじき御治世と伝え奉り候
大聖寺藩第十代藩主・前田利極(としなか)正室、勇姫(ゆうひめ)の信仰
天保十四年(一八四三年)七月十日、総本山第四十八世日量上人から御本尊を御下附される。大聖寺藩は前田家本藩から別れた藩で、現在の地名では、石川県加賀市にあたる。石高は七万石であったが、勇姫の入信後不思議なことに十万石に加増されている。勇姫のお墓は遺言により常泉寺にあり、総本山にも墓地があり、その後、代々の藩主は日蓮正宗の信徒となった。
○入信のきっかけは、
①嫁いだ三年後に夫の利極が二十七歳の若さで病死したこと。
②その翌年に一人娘を二歳で亡くしたこと。
③勇姫が病気がちであったことがあげられる。
○教化親は
折伏をした人は、勇姫の病床で世話をしていた桑島という老女。この当時、金沢法難の最中でした。藩では富士大石寺の信仰は禁制の信仰でした。発覚すれば良くて所払い悪ければ死罪、という中で、桑島をはじめ法華講衆は力を合わせて折伏したのです。そして、主人を思う家臣たちの強い心に導かれ、勇姫は入信をいたしました。宿業だと諦めていた病が平癒したことに、御本尊様の功徳を実感した勇姫は、側近の女中衆たちをはじめ多くの人々を導き、さらに妙喜寺の建立に大きな力を発揮しました。
(この稿は、妙喜寺法華講員・向井敏子さんの「金沢法難を尋ねて」を参考にしました)
from: 21世紀さん
2009/04/03 14:04:42
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「Re:大石寺の信徒たち」
天英院
〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち 2 〜
私たちが総本山を目指して、大御本尊様に御目通りを願って登山参詣をしたときに、真っ先に目につく建物が朱塗りの三門です。あの勇姿に触れた瞬間、苦しいことや辛いことも即座に消えてしまうから不思議です。そして、命の故郷に帰ったことを実感します。その三門を建立寄進したのが天英院です。
先月は徳川幕府第十三代将軍家定の正室であった天璋院についてお話をいたしました。今月は第六大将軍家宣の正室であった天英院です。徳川幕府三百年の間に、家康以下十五人の将軍がおりました。そして、そのうちの六代将軍と十三代将軍の正室が富士大石寺の信仰をしていた、という事です。しかも、その二方とも将軍家の御台所として他の正室たちとは違って、よい意味で歴史に残る活躍をしております。このことからも、御本尊様を信じる功徳と大きさを確信いたします。
天英院は徳川幕府第六代将軍家宣の正室です。寛文六年(一六六六年)京都の生まれ。父は前の関白・太政大臣近衛基煕(このえもとひろ)、母は第一〇九代後水尾天皇(ごみずのうてんのう)の皇女品宮(常子内親王)です。つまり、天英院は天皇の孫ということになります。近衛家は公家の筆頭格で天皇を補佐する役を担っており、朝廷の中ばかりではなく世間的にも重要な位置にありました。
天英院は幼名を熙子(ひろこ)と称し、熙姫あるいは豊姫と呼ばれておりました。天英院の乳母の子供が常泉寺第七代住職を勤められた日顕贈上人という方でした。そのようなことから日蓮正宗に縁を深く結ばれたと伝えられております。
この日顕贈上人は、もとは西山本門寺の僧侶でした。しかし、後に日蓮正宗に帰伏し常泉寺の住職になられたのです。
西山本門寺は、日興上人の弟子で日代という方の開かれたお寺です。ご承知のように、日興上人は、大聖人様の六老僧の例にならって本六(日目上人・日華・日秀・日禅・日仙・日乗)と新六(日道上人・日代・日澄・日妙・日豪・日助)の方々を定められました。日代は新六といわれる中の一人です。残念ながら西山本門寺は現在は日蓮正宗から離れております。
この西山本門寺の記録によりますと、近衛家の日蓮大聖人様への信仰については、天英院の母である品宮が、近習の中務卿の勧めにより西山本門寺に帰依したことになっております。延宝三年(一六七五年)です。この時天英院は十歳でした。
常泉寺史には
「(常泉寺)第七代の日顕贈上人は元西山本門寺末の京上行院の住僧(日衆)であったが、後に江戸上行寺に移住、更に改宗して常泉寺に入住した。後水尾帝の皇女級宮の息女天英院(将軍家宣公室)の乳母が日顕贈上人の母であったことなどの関係により親交があり、その帰依を受け、天英院の資援により伽藍寺域の荘厳を極めた。当寺は日顕贈上人滅後も天英院との深縁により三千四百余坪の広大な境内地を有するに至り、また江戸城本丸の客殿等の寄進をうけ寺運の発展をみた。日顕贈上人の門に入った栄存(日宥上人)は、天英院の猶子となるなどの縁によって、後に日宥上人が大石寺二十五世となり三門建立の折には天英院より巨額の資援を得た。尚、寛保元年天英院死去の折、その遺言により弘安四年日仙授与の大聖人真筆ご本尊が当寺に奉納されたことは特筆すべきことである」
と記されています。
延宝七年(一六七九年)、甲府藩主松平綱豊(後の徳川幕府六代将軍家宣・三代将軍家光の孫)との婚儀が整って、十二月十八日に輿入れし桜田門にあった甲府藩邸に住むことになりました。天英院十四歳、夫綱豊は十七歳でした。その三十年後、綱豊は四十七歳で第六代将軍家宣になります。
天英院は夫が将軍となったことにより、徳川家の御台所として江戸城の本丸に入り、以来寛保元年(一七四一年)に亡くなるまで三十数年の間、徳川幕府を裏方で支えました。
総本山に伝えられる『続家中抄』には、総本山二十五世御法主日宥上人を外護した天英院のことが次のように記されています。
①正徳二年壬辰年の夏、三門造営に就いて、公儀より金子及び富士山の材木御寄進下し置かるるなり。
これは、現在の総本山にある三門の建立のことに付いて記されたものです。公儀とは幕府のことで、将軍を指します。三門建立の御供養として、黄金で一二〇〇両と記録にあります。現在の貨幣価値に直すといくらぐらいになるのでしょうか。一両が十万円とも二十万円ともいわれておりさだかではありませんが、公儀としても決して少ない額ではないでしょう。しかも当時の幕府経済は豊ではありませんでした。これ以外にも、富士山で伐採された大木を七十本も御供養されております。
このような貴い御供養があったからこそ、二百九十六年後の今日にあっても、天英院が御供養された富士山の大木が山門に姿を変え、私たちを迎えてくれるのです。こんどお山に行ったときに、三門の柱にそっと触れてみて下さい。天英院の護法の精神が肌を通して命の中に染み通ってきます。そして、天英院の総本山を御護りし、未来の法華講衆の道しるべに山門を建立御供養しよう、という貴い精神が伝わってくるはずです。この天英院の真心からの御供養が、私たちを励まし、大御本尊様に導いて下さるのです。ゆえに、天英院の護法の精神を手本として、信心に励めば大きな功徳を受けることができます。
総本山案内には三門について次のようにあります。
「三門は朱塗りの木造建築で、その美しさは東海道随一のものと称されています。第二十五世日宥上人の発願により、徳川幕府第六代将軍家宣公と、その御台所・天英院の寄進を受け、六年の歳月をかけて享保二年(一七一七)八月に完成しました。 昭和四十一年(一九六六)に静岡県の有形文化財に指定されています」
②一、独礼席御免許の事
富士大石寺
向後独礼坐仰せ付けられ候間明六日より独礼坐にて御礼申し上ぐべく候
寅正月五日 毛利讃岐守役人
駿州大石寺
③一位様付き堀山城守書状
兼ねて願い上げられ候今六日独礼の席に於て御礼申し上げ度きの旨、数年中絶致し寺社奉行衆取り上げ申されず、然れ共貴僧儀は御台様に従い若年の時分より御取り立ての出家、今又大石寺入院の儀も思し召しに依り右の仕合わせ、彼是れ御由緒を以て独礼の儀、間部越前守迄仰せ出され御老中へ右の旨申し渡され手柄に存知候。右の旨御台様にも御気色の御事に思し召され候。御礼の旨宜しく御沙汰申し上ぐべく候。 恐々謹言。
正月六日 堀山城守正勝判
大石寺日宥上人
独礼席を許可される、ということは、将軍と単独で面会をすることのできるようになった、ということです。つまり、日蓮正宗大石寺の御法主上人は、徳川幕府から、特別の地位が認められた、ということです。当時の江戸城では、「数年中絶致し寺社奉行衆取り上げ申されず」とあるように、独礼席は事実上廃止されていたようです。したがって、寺社奉行が困惑している様子が記されています。しかし、天英院の強い希望があって独礼席が復活したようです。破格の扱い、といってもよいでしょう。もちろん、私たちの信心の上からは、征夷大将軍であっても、未だ日蓮大聖人様の信仰をしていない限りは折伏をする相手です。ですから独礼席を許されたからと言って喜んではいられません。しかし、天英院からすれば、大聖人様より唯授一人の血脈を御所時遊ばされる御法主上人が、その他大勢の中にあって将軍に相対するのは申し訳ないと思ったのです。ですから、途絶えていた独礼席を復活させ、城中に御法主上人をお迎えするように取り計らったのです。このことからも、天英院の深い信心がうかがえます
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