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創価学会SGIを本音で語ろう

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  • from: 21世紀さん

    2009/05/06 23:27:33

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    戸田城聖2代会長指導から

    大御本尊様の車引き  戸田先生の指導より

    --------------------------------------------------------------------------------

    もったいなくも、総本山から猊下をおむかえして、ここに第四回の総会を開催できたことは、ひじょうな喜びに耐えないしだいである。
    わたくしは、きょう、創価学会の使命について、この機会に少し述べたいと思う。

    日蓮大聖人様から六百年余年、法燈連綿(ほうとうれんめん)と正しく続いた宗教が、日蓮正宗である。もっとも完全無欠な仏法が、日蓮正宗なのである。
    この仏法こそ、わたくしたちを、真に幸福に導いてくれる宗教であることを、わたくしたちは、日夜、身をもって体験しているのである。

    世界の文化がいくら発達しても、国と国とのもつ間柄が、道徳を無視して、実力と権力闘争の世界では、決して人類の真の幸福はない。不幸にして、原子爆弾による戦争がおこったならば、世界の民族は、崩壊の道をたどる以外にない。
    この時に、日本国に厳然として存在している、人類破滅を阻止しうる偉大な宗教が、日蓮大聖人様によって、与えられているのであると確信する。

    毎朝、御観念文に拝することのできるのは、誠にもったいないしだいである。
    われわれは、日蓮大聖人様の家来であり、子であり、弟子なのである。
    そして、宇宙の仏様であらされる大聖人様の家来、子、弟子となれることは、人生の大因縁なのである。
    しかも、開示悟入(かいじごにゅう)の大聖人様の因縁である。
    大聖人様のご出世は、われわれのごとき無智な悪人に、大御本尊様を拝ましてやるという一大事因縁なのである。ゆえに、

    大聖人様の教えに随順(ずいじゅん)して、世に最高唯一の大御本尊様を子として、弟子として、家来として拝することは、無上の大果報である。

    ゆえに、世人にさきだって、この因縁を知りえたわれわれは、御本尊様の功徳を、悩める衆生につたえる使命をもっている。われも拝(おが)み、人にも拝ませるようにつとめ、善きにつけ、悪しきにつけ、世のなかがいになろうとも、世界人類の幸福のために、自分も拝み、他にも拝ませなければならない。

    わたくしたちは、無智な人々をみちびく車屋である。

    迷っている人があれば車にのせて、大御本尊様の御もとに案内して行くのが、学会唯一の使命である。

    宝の山にはいって、宝をとるかとらないかは、その人の信心の結果であって、ただ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが、われわれ学会の尊い使命なのである。


    宗教によって名誉を欲するのではない。
    まして、新興の宗教屋ごとき金もうけを目的とするものではないことなど、いまさら申し上げるまでもない。
    ただ目前のご利益を望み、真の大聖人様の功徳を知りえないならば、まことに不覚といわなければ為らない。最近にいたって、百人にもおよぶ指導員ができて、ともに同志として、広宣流布に邁進(まいしん)できることになっとことを、まことに喜ばしく思っているしだいである。

    昭和24年10月24日
    創価学会第四回総会
    東京教育会館

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コメント: 全31件

from: 21世紀さん

2009/05/06 23:30:53

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
学会は信心一途に  戸田先生の指導より

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きょうは地区部長以上の集まっている幹部会なのだから、こういう席で話をするのではなくて、自分の部屋にいるのと同じ気分で、ゆっくり話しをしたいと思うがどうだろうか。

創価学会という会ですが、この会が、二万世帯とか五万世帯ぐらいの時なら問題ないが、五十万世帯になり、まさに八十万世帯になるというと、いろいろと問題が出てくる。

創価学会を、今日までもってきた私の理由は、宗教で金もうけをしているやつが世の中にいる。
立正佼成会にせよ、霊友会にせよ、宗教で金もうけするなんてこれはもっとも罪悪であり、インチキだと私は信ずるのだ。

こういうインチキ宗教どもを、ひとつ退治してやろうというのが私の根本精神なのです。

宗教で金もうけするぐらい簡単なことはないのだぜ。

おさい銭をあげろと言うのだよ。
インチキ宗教のやり方は、功徳をもらうには手元がいる。だから金を出して神を拝めば、倍にも三倍にもなって出てくるから出せ、出せと言うのだよ。
そういわれると、もっともだと思うだろう。泣く泣く、皆は、ない金をはたいて出すでしょう。そういうことをして、

信者をだまして金を取る。

これくらい、世の中にかんたんなことはない。

やりたければやってもよいが、必ず地獄へ行くからやってみたまえ。それがいかんというのが、私の精神なのだ。

そうすると困ることが一つあるのだ。仏教のうえからいって、日蓮大聖人様の御書を読んでも、はっきりするし、釈迦の学説を聞いても、はっきりするが「お布施を出せ」
と言うことがある。
大聖人様は、お布施を出せとはおっしゃらない。しかし、法華経の行者を供養した者には、功徳があるとおっしゃっている。
そうすると、出さねばならないような気持ちが出てくる。どうだね。これが邪宗教の起こるもとになってくる。悪いことをするやつは、この原理だけ使うのだ。

日蓮大聖人様でないものが、大聖人様のような顔をして金を集めるから邪宗教だろう。

日蓮大聖人様もお釈迦様も、けっして、社会事業などやっていない。

釈迦が社会事業をやったのを聞いたことはない。

日蓮大聖人様が道路を直した話も聞いたことがない。

さて大聖人様は「銭一貫文給び畢(おわ)んぬ」と御書におおせられている。
悪いやつは、そこだけ、マネをするのだ。
だが。その後に書いてあるところを読んでごらんなさい。
仏法とはこういうものだ、お前の生活はこういうのだぞと仰せになっている。
私は御書に書いてある、あとのほうの信心を、ちゃんとやらなければならんと、こう考える。今日まで、それをやってきました。

ほんとうの法華経の行者に供養するなら、これはまた別だ。もし、日蓮大聖人様がここにいらっしゃったら、私など、裸になっても御供養してしまう。
これはほんとうの信心からくるものである。

そこで、今度は、私自体が問題になってくるのです。創価学会が参議院に三人も出し、また五十万世帯も持ちますれば、今度私のところへついてくる人間は、創価学会を利用したら、どれだけもうかるかというやつでそれが研究されているのだよ。
そうすると、戸田城聖というものは、動くわけにいかなくなる。
もし私が一つ動けばおかしなことに利用される恐れがある。

地獄へ行くつもりならば、何も恐くありません。
私は仏さまのところへ行きたいのですから、大聖人様にしかられるのはいやなのですから、そういうインチキなものとは、絶対組まないと思うから、本部にいても、お山へ行っても、断じて動かないことに決めている。

さあ、そこで、今度そう考えてくると、世の中というものは、金と権力です。
戦争中にはこれを、どういったか、あなた方も知っているでしょう。
「星とサーベルと顔」こう言って、あなた方を戦争にやったのでしょう。
創価学会にも、地区部長級になると、私のこのいちばん心配している問題に引っかかってくる。地区部長という位置につくと権力が出てくる。

戸田は会長だからといって、権力を使いませんぞ。

おれは会長だからお前ら金をもってこい、物をもってこいとか言いませんよ。
君らの中で、私になにか、くれたい人がいるかも知れませんけど、断じてもらいませんよ。

さあ、そこだ。考えなくてはならないところが、そこなんだよ。金と権力が、この世の中なのだ。ですから貸借問題が起こる。金を貸してはいけませんとは絶対言いません。
ただ問題は、創価学会の地区部長とか班長とか言う位置を使って金のことや権力を振り回してはいけないと私は言うのです。
「おれは地区部長だ、おれは班長だ。金がいるから貸せ」。そんな生意気なことがあるか。学会の位置を使っての金銭の貸借は断じていかん。学会の位置を使っての権力を振り回してはいかん。

創価学会は、信心一途にいくものだと私は考えるが、どうか。

私には、権力もありません。創価学会の会長として皆様にたてまつってもらってみても、生まれをたずねれば漁師の子供です。どこに偉いところがありましょう。
創価学会の会長なんて、なにも偉くはありません。私が偉くないのだから支部長でも、地区部長でも同じく偉くないと思うのだ。

地区部長級などに「先生」というやつがいるのだ。婦人部の常任委員だとか。なにが「先生」だ。カマボコ屋のおやじが先生、ゲタ屋のおやじが先生になったと言うのだ。恥ずかしくないかね、どうだ。
たとえ、言われても、御本尊様のおかげて言われたのでしょう。そう思うたら、御本尊様に、涙を流してお礼を申し上げなければならぬと思うのだ。

地区部長だ、班長だという権力と位置を利用して金を借りたりするのは断じていかん。
事業は金をもたなければならない。政治家は権力をもたなければならない。
しかし学会は信心をもって構成し、運営しなければならないというのが学会の精神であり、私の精神なのです。

ほんとうに、信心なら戸田と太刀(たち)打ちしても負けるものかという相手なら私も受けましょう。

私はなにも、金に驚かない、権力にも驚かぬ。
だが信心だけはこわい。

だが、私は、日蓮大聖人様のお使いとして、七百年後の今日きたのでありますから、
創価学会なんてインチキだ、デタラメだというなら、言わしてやろうではありませんか。どんな結果になるか、断じて負けませんからね、私は。
三年かからずに、必ず結果をみせてあげる。

これが信心というものです。金でもなければ、権力でもない

学会の位置を使って、金のことや権力の行動をしたなら、必ず罰を受けるということを、きょうは宣言して、私の話を終わります。



昭和32年2月28日
本部幹部会
豊島公会堂

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from: 21世紀さん

2009/05/07 17:17:05

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
死身弘法  戸田先生の指導より

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日蓮大聖人様は、開目抄に「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期(ご)とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼(こつげん)の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善につけ悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、
大願を立てん日本国の位をゆづらむ法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の首を刎(はね)ん念仏もうさずは、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずは用いじとなり、其の外の大難・風の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とまらむ等とちかいし願やぶるべからず」と。

末法今時の五濁爛漫の代に生をうけ、無上最高最大の大御本尊様を受持したわれわれは理のとうぜんにおきまして、御本仏・日蓮大聖人様の眷属たるに間違いありません。

大聖人様の眷属として、
大聖人様を主とあおぎ、
師と尊び、
親として慕いまいらせるかぎり、大聖人様のご本願のごとく生きるのが、われわれの道であり、御本仏のおめがねにかない、かつ、これが最大最高の幸福でなくてはなりませぬ。

「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」と。
わが学会人は、妙法のためには身命をすてる覚悟でなくてはなりません。
命を捨てて御本尊様を護持する功徳のゆえに、御本尊様は感応しまして諸願満足するのであるが、かくのごとき、功利的な立場は、初心の行者にこそ、必要であって、われわれにいたっては、大聖人様のみ心を心として、ただただ命がけであるだけなのである。

「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業」で幸福なぞは、ぜったいにあるわけないのであります。「身子が六十劫の」云々とおおせの通り、今生において、御本尊様に仕えたてまつるのに、心弱くして捨てまいらせたなら、何億万年の後にお目通りをなしうるものやら。
それを思うと、かくおおせくださった大聖人様のご慈悲、ただただ涙なしには拝せられませぬ。

また「日本国の位をゆずられる」「父母の首を刎ねる」との誘惑や、おどかしに、おどされて、どうして、その無上最高最大の信仰を捨てられましょうや。

「智者に我義やぶられずは用いじとなり」と、この大信念、いまわれわれ弟子どもは、この大聖人様の御義たる生命哲学をもって、日本民族復興の指針としなくてはなりません。この義、ここに立てて、共産党にも、観念哲学にも敗れるわけはありません。

敗るるとすれば、弟子どもの罪であって、罪、墮地獄に当たるものであります。
さればこそ、「其の外の大難・風の前の塵」でありましょう。

日本の国の敗れた罪は、「我日本の柱とならむ我日本の大船とならむ」と叱咤せられた大聖人様の教えを、教えとしてあおがぬ仏罰であると、わたくしは申します。
いまこそ、柱をおこし、眼目をひらき、大船をつくるべきときである。学会人一同、大いに心を同じうして、法のために命を捨てようではありませんか。

昭和23年10月17日
創価学会第三回総会
東京教育会館

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from: 21世紀さん

2009/05/07 20:12:54

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
僧俗一致の誠(まこと)を尽くせ  戸田先生の指導より

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このたびのことは、われわれ信徒として、まことに恐懼(きょうく)にたえないところであります。

立宗七百年を明年にひかえて、ますます宗門内の団結を堅め、折伏逆化に進むべきことはとうぜんでありますが

「あるものは、僧を軽侮する風潮すら萌(きざ)せるを感ぜられることは、概嘆(かんたん)を禁じえないのだある」
とのおことばを拝しましたことは、とくに宗徒として、もっとも厳戒せねばならぬ点でありながら、ご心痛をいただいたことについて、各人、深くおのれの謗法の有無をかえりみねばならぬところであります。

立正安国論にのたまわく、
「大集経に曰く頭を剃り袈裟を著(ちゃく)せば持戒及び毀戒をも天人彼を供養す可し、則ち我を供養するに為りぬ、是れ我が子なり若し彼を打(かだ)する事有れば則ち我が子を打つに為りぬ、若し彼を罵辱(めにく)せば即ち我を毀辱(きにく)するに為りぬ」と。

また、御開山上人の御遺誡置文を拝するにつけても、このたびのご訓諭のままに、僧俗一致のまことを尽くすべきことを、お誓い申し上げるしだいであります。


昭和26年9月26日
日昇上人の御訓諭に答えて
聖教新聞紙上談話

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from: 21世紀さん

2009/05/08 08:29:49

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
不退の信心をもて  戸田先生の指導より

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「これを知れるは日蓮唯一人なり」というおことばがあります。
いったい、日蓮大聖人様ただおひとりがお知りになったことはなにか・・・
これは、御書全集の二百ページのなかにある一句でありますが、このことばにあいましたときに、わたくしは考えた。
「ハテ・・・なにを大聖人様おひとりがご承知なのだろうか」と。

ところが、ことばは短いけれども、これが胸のうちにジンときたときには、恐ろしくなってくる。それは、あらゆる邪宗邪義が、人生を不幸にし、人々の幸福を奪っているのだということなのです。
しこうして、日蓮大聖人様の仏法以外のものはぜんぶ邪宗邪義だ。
しかも大聖人様の仏法が、正しく、強く七百年間守られてきたのは富士大石寺、日蓮正宗なのであります。

かく感じてくるならば、広宣流布への途上は、あらゆる宗派を敵にしなきゃならない。
われわれには妥協がないのです。
こんご広宣流布までは、いろいろの難もおこるでありましょうがぜったい無二なる大御本尊様を、みなさま信じて、ぜったい退転してはなりませんぞ!!

そうして、幸福な人生を必ずつかみ、幸福に暮らしなさい。これがわたしの願いであり、
警告です。


昭和29年11月3日
創価学会第十一回総会
両国国技館

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from: 21世紀さん

2009/05/08 08:31:38

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
広宣流布の証拠  戸田先生の指導より

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先ほどから、広宣流布ということについていろいろと話されましたが、広宣流布ということは、日蓮大聖人様のこの世へお出ましになった本願でございます。
しこうして、われわれに対してのご命令であります。

それは、広宣流布するならば、この世のなかが平和になる。

世のなかから、貧乏というようなもの、病気というものを
放擲(ほうてき)できる。民衆の幸福のために、大御本尊様を広宣流布せよと、ご命令になったのであります。

しからば、こういうことが、いちおう考えられる。「日蓮宗というものが数たくさんあるんだから、どの宗旨が広宣流布してもよいじゃないか。」と
いちおうは考えられる。
だが、それは、ほかの宗旨にたいしてご命令はないのです。

わが日蓮正宗のみに、広宣流布のご命令があるのです。

こういうならば、戸田は、自分が日蓮正宗だから、日蓮正宗を好きでひいきしているそうだろうとみなさまはお考えになるかもしれません。

しかし、あらゆる哲学的に、あるいは歴史的に、あるいは実証的に説明はつきますが、
ごくやさしく、そしてわかりやすく、申し上げますればかりに、身延としてもよろしゅうございましょう。
それらがかりに広宣流布したとします。そのときに、日蓮大聖人様のご遺言があります。それは、必ず広宣流布するとそのときに、天皇陛下が御本尊様をいただきたいというに違いない。勅使を御本山へ必ず出すであろう。
そのときに、御本尊様がなかったらば困るであろうから予がしたためておく。
そして、紫宸殿へ飾るべし。
これを紫宸殿御本尊様と申し上げております。
もう、広宣流布ができることを、ちゃんと、仏様ですからご承知で、ご用意がある。
身延が広宣流布したとして、「おまえのところに紫宸殿御本尊様があるならもってまいれ」と陛下からいわれたとして、身延はもって行けない。
どこにその紫宸殿御本尊様があられるか。富士大石寺の御宝蔵に、厳然とあるのであります。これをもって、仏勅は「日蓮正宗でいたせよ。日蓮正宗のみは、ほんとうに日蓮大聖人様の教義を清く守って、必ず広宣流布のときまで進めよ」とのご仏勅なのであります。

いまや、わが国に三災七難が起こっております。
この三災七難は、広宣流布するときの前兆なのであります。七つの難と申しますれば、まず風の難、水の難、火の難、星の難、それから太陽の難、そらからこんどはうちわもめ、敵国から攻められる。これが盛んに起こるのです。

敵国に攻められたというのは目の前でしょう。三千年らいのわが歴史を汚し、宮城の前で、外国の兵隊の閲兵式をみるなどということは、日本人として腹が立ってしようのないことじゃないでしょうか。

この七つの難は、もう現れている。これからもちょこちょこ出てくる。小さいのや大きいのが。それから、三災というのは、物価の騰貴、それから国が外国から攻められること、
つぎは疫病がはやる。
三つともはやっていましょう。疫病はまだはやっていないじゃないか、なんてのんきなことをいってちゃいけませんよ。

疫病にふたいろある。ほんとうの疫病と、それから、みんなの頭が狂っちゃった、正しい見解をもつことができないのも、疫病のうちにはいる。
精神病だ。
そのほかの病気もずいぶんある。そういうような、この三災が現れている。

三類の強敵というものが現れて、その三類の強敵に向かってわれらが敢然と戦いうるときなんです。これは、なかなか、言えてもやれないことなんです。

三類の強敵と申しますのは、俗衆増上慢と申しまして一般の大衆が盛んに悪口をいうことと。つぎには道門増上慢と申しまして、お坊さんがたが、ただしい正宗のご僧侶じゃありませんよ他宗の坊主が、盛んに悪口をいうことだ。
その次は、

潜聖増上慢と申しまして、
世のなかから偉い人だと思われている人が、あだをなすことです。

それで、わたくしも仏勅をかしこんで、広宣流布の途上に出たものの、俗衆増上慢しかありませんので、心にいとさびしく思っておりました。ところが学会も十五万世帯を数えるにいたりましたら、邪宗の坊主が急に値段が下がっちゃった。飯が食えなくなるので、こんどはやっきになって三流の新聞記者を買収して、そうして、さんざん悪口を言いだしてきた。

こんどは、三類が現れてくる番になってくる。
そりゃ、用心しなければいけませんよ。
わたくしは喜んでおっても、あんたがたが退転してたんじゃだめなんです。だから念を押しておきます。

ましてや第三類、いちばん上等品です。
それが現れてきたときには、あんたがた、たいてい腰をぬかす。そのときこそ腰をぬかさんように。

二類ぐらいで驚いているんじゃ、三類のほうは、なおこわいんだからね。
それは驚かんようにして、そして、われわれは広宣流布をまっとうして、そうして霊鷲山会に大いばりで、「創価学会員、広宣流布をしてまいりました」とね、日蓮大聖人様にお目通りのできるように、信心していこうじゃありませんか。

昭和29年10月9日
仙台支部第八回総会
レジャーセンター

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from: 21世紀さん

2009/05/10 09:15:56

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
僧侶の大功績  戸田先生の指導より

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日本中にいる一般の坊主は、全然不要なものである。非生産的階級であって、社会に何の寄与するところもない。寄生虫的存在である。外面は文化面に属し、宗教の衣を着ているが、宗教の使命を自覚もないし、なんら宗教行為を実践していないのである。

釈迦の出世の目的も知らなければ、釈迦の仏教が、どうなっているのかも知らない。
生命の実相観もないし、人と仏との真実の関係においても、思索が徹底していない。
知っているのは、意味を知らないお経文を読むことと、「檀家」の数と、金の勘定と、社会的名誉のことである。
寺に住み、葬式および法要のときに、ケサをつけるがゆえに、日本語において僧侶と名ずけるのである。「二十の扉」の語をかりれば、「動物」と言う題で、陰の声が「寺に住む動物の親分」ということになる。すなわち高級乞食である。

かかる何十万の動物のなかで、同じ姿こそしておれ、厳然として人であり、人の中でも、りっぱな僧侶と名づくべき百数十人の小さな教団がある。この教団こそ日本の宝であり、仏のおおせの僧宝であると、万人の尊敬すべきとことで、まことにめずらしい教団である。日蓮正宗の僧侶の教団こそ、これである。

かかるりっぱな教団でも、身近に住む信者は、ありがたいとも思わず、ふつうだと考える。これは、この教団の偉大な功績を見ないものであって、この教団の一部分観をなしたり、または、この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけておるものが、おったりするものだけを見るから、宗祖大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹いっぱい食うことを、唯一の願いであるとしている猫坊主が多いと攻撃して、功績の方を見ない。

この教団の七百年の古い伝統は、一面には尊く、かつ清く、ありがたく、かつ一面には猫もねずみも出るであろう。
かかる猫やねずみの類は、必ず一掃されるから、心配することはない。
かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖人ご出世のご本懐より、または仏法の大局視よりなすなら、口にも筆にも表せぬ一大功績が、この教団にはあるのである。

わずか小勢百数十人の僧侶が、愚僧、悪僧、邪僧充満の悪世に、よくたえるもので、
大聖人の「ご出世のご本壊」たる弘安二年十月十二日ご出現の一閻浮提総与の大御本尊様を守護したてまつって、

七百年間、チリもつけず、敵にもわたさず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで、一瞬も身に心に心身一つに、御本尊を離れずに、今日にいたったのである。
朝夕の給仕、大聖人ご在世と一分も変わりなく、時勢の隆替(りゅうたい)にも、法主上人の代々にも、なんら変わりがないことは、大聖人ご在世を拝すると同様である。
天台大師いわく、「霊山一会の大衆、厳然としていまだ散らず」
と。私のいわく、「大聖人ご在世の一会大衆厳然として石山にあり」と。

もったいなくも、代々の法主上人の丑寅の勤行は、御開山より、ただの一日も休んだことがない。丑寅の勤行とは、夜の2時からのご勤行で、暑くとも、寒くとも、大衆救護(くご)の御法主上人はじめ石山僧侶一同のお勤めである。

もったいないではないか。神々しいではないか。
ありがたいではないか。

他山に、かかる勤行があるであろうか。かくも、法体を守護し、かつ他儀連綿(たぎれんめん)たる功績こそ称えねばならぬことである。
この上に、大聖人のご教義は、深淵にして、厳博(げんぱく)であって、愚侶(ぐりょ)の伝えうべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損することなく、なんら加えることなく、今日まで清純に、そのままに伝えられたということは、仏法ー真実の仏法哲学を滅しないことであり、実に偉大なる功績ではないか。

以上、この二つのご功績は、これ日蓮正宗僧侶の大功績と称えなくてはならない。
この大功績によって、真に大衆の苦を救う広宣流布するの日には、東洋の民衆は、大聖人の仏慧(ぶつて)をこうむり、世界平和の礎(いしずえ)が、きずかれるのである。


昭和26年6月10日
大白蓮華  巻頭言

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from: 21世紀さん

2009/05/10 09:22:18

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
折伏の心がけ  戸田先生の指導より

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われらが信心をなす目的は、永遠の生命のなかに、幸福を生きんがためである。本尊とは、不可思議境であって、この御本尊を、なにを知らなくても、だだ信じて南無妙法蓮華経と唱えるならば、必ずや不可思議境に到達する。
この妙境に到達するとき、永遠の幸福は保証され、慈悲の力がわき出でるのである。

また、われらが折伏を行ずるは、慈悲の行である。慈悲の行は、仏の仕事であり、真に尊いことである。
なんとなれば、自己が永遠の幸福をつかむと同時に他の貧窮(びんぐ)の衆生にも、その幸福を分け与えようとするのであるから、これ以上尊い仕事はない。
しかるに、この尊い仕事にたずさわりながら、折伏に応じないからといって、憎んだり、おどしては、あいならん。
慈悲に満ちみちた行動でありたいと思う。

罰論を説くにあったても、教えると言う態度ではなくてはならないのに、「私のいうことを聞かなくては罰が当たる」等と、

さも自分が仏になったような・醜い至りである。

罰によってきたるところ、貧しきわれらの境遇を諄々(じゅんじゅん)と説き、尊極無上の御本尊を讃歎(さんたん)し、救わるるはこれだけであるということを説くべきである。

また折伏したのちに、恩着せがましく、自分をありがたがれという態度はよくない。
ただ、御本尊にご奉仕できたのを感謝するだけでいいのである。教化親などということばは、邪宗の用いることばであって、断じて使ってはならぬ。
またつぎに、折伏したものを、最初よく指導してやらぬはいけない。御本尊を持たせっぱなしなどということは、かわいそうなことだあるから、よくよく、その点は考えなければならない。

また指導するに当たって、さも、自分が偉くなったように思うのがあるが、それは、慢心を起こすもとであるから、気をつけなくてはならぬ。
なかには先生などとよばれて、さも偉そうな顔をしているものもいるが、もってのほかといわざるをえない。ことに、自分の指導しているものにたいして、
威張りちらしたり押さえつけたりすることは、絶対に禁物である。

ただこの世に生まれて、一言にても法の説けることを御本尊に感謝して、慎み深くあらねばならぬ。

昭和28年3月30日
大百蓮華 巻頭言

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from: 21世紀さん

2009/05/10 09:25:54

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
三法律  戸田先生の指導より

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世のなかに、三つの法律のあることを知らなくてはならない。
世間法律、国法律、仏法律の三つである。

今、日本の国には、仏法を知る者がほとんどいなくなった。
日蓮正宗以外の坊主は、ほとんど、仏法の定理を信じない。
否、知らないのである。
ゆえに、仏法律のあることを知らないのである。
世間法とは、世間的評判であり、物質的生活内容である。
国法律は正邪で、仏法律は勝負である。

世間法と、国法律とを、網にたとえれば、世間法律は大きな目の網で、国法律は中ぐらいの目の網、仏法律は、ごく細かい網の目で、絶対に、この法律をのがれることはできない。

世間に、いかに評判が良く、物質的に豊かであっても、国の法律にはかなわない。
国法は世間法より厳しいのである。いかに、国法に準じ、世間に評判良く、物質的に豊かでも、

仏法にそむけば、仏法律は絶対に厳しいのであるから、仏罰は当然である。

いかに、世間に評判悪く、貧乏で、万が一、国法にそむくようなことがあっても、仏法律にたがわなければ、冥冥(みょうみょう)の加護があって、世間的にもよくなり、国法の支配を乗り越えた幸福が、起こるのである。


世間法は、世間の交際が良いとか、お世辞が良いとか、商売がうまいとか、財産があるとかによって、この法の利益を受けるのある。
国法は正邪である。国の法律に照らして正であるか、邪であるかの判定をなしのであって、国民全体生活の秩序を乱さぬ最低範囲において、基準が置かれている。この基準日蓮大聖人様おいて、正邪を定めるのである。

仏法律は、国法をもっていかんとすることのできない、峻厳(しゅんげん)、かつ崇高(すうこう)な法律である。

日蓮大聖人は、仏法律に、すこぶる忠順であられた。

一切民衆に、真実の楽土を建設させんがために、命も捨て、苦しみをしのび、悪口に耐えて、ご奮闘あそばされた。もったいない限りである。

世間法からみて、決して評判は良くなかった。

国法からみて、世間法からみて、ほめられるご境涯ではない。しかるに、大聖人は、仏果を成ぜられ、末法の御本仏として仏国土に君臨あそばされて、東洋の仏法を、ここにご建立なされたのである。だれ人か、大聖人のご心境を奪えるものぞ。いかなる国法も、大聖人の仏果をさまたげうるものぞ。

大聖人が「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生(ごしょう)には大楽を・うくべければ大いに悦(よろこ)ばし」(御書全集237ページ)と。
されば、仏法律は国法律をもって、いかんともなしがたいものである。
国法律は、正邪をもって判じ、

仏法律は勝負である。
仏法を信ずるものは、その生活において、勝負を決するのである。

末法今時において、日蓮正宗を信じ、ひたすらに題目を唱えるとき、仏法律によって冥々の加護を受け、誰人も奪いえない真の幸福をうるのである。

ここに考えなければならないのは、最高の仏法律に従うといえども、世間法、国法の一部分であることを忘れてはならないことである。一切法これ仏法である。とくに世間法にそむき。国法にそむくことはあってはならぬ。

ただ、仏法を守らんためには、世間法もそむかねばならぬことはあるのである。


昭和26年9月10日
大白蓮華   巻頭言

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from: 21世紀さん

2009/05/10 21:49:59

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
仏法に妥協はない  戸田先生の指導より

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学会も、いよいよ広宣流布の門出をした形になってきた。きょうは、一般の宗教界と、学会の相違を一言申し上げておく。

立正佼成会や霊友会、念仏、真言宗は、謗法をしてもなにもいましめない。お賽銭を多く出せば、良い信者だといい、他宗をやってもよいという。
そこに、他宗を認めて妥協を見出すと言う性格だ。わたくしは、ひじょうにおかしいと思う。なにゆえかといえば、たとえば阿弥陀経をやったとする。
そこで、阿弥陀経以外のものをやってもよいというならば、阿弥陀経より、外の教えの方がよいことになる。そうなれば、なにも自分の阿弥陀経をすすめる必要がない。

ところが、わが宗祖日蓮大聖人様は、いっさいの教えはだめだ。
念仏は無間地獄、人を地獄へやってよいものか。禅は天魔、真言は亡国、律は国賊。
いまは律宗はないが、こういわれた日蓮大聖人様のご意志を、われわれは受け継いで、徹底的に邪宗を攻撃し、ただ七文字の南無妙法蓮華経でなければだめだというのが、学会精神である。

かつて平左衛門は、日蓮大聖人様に迫害を加え、その結果すごい死に方をしたが、蒙古の襲来があったとき、大聖人に
「いままであなたと喧嘩したが、仲直りをしたい。それで一つお願いがある。蒙古はいつ頃せめて来るだろうか」とたずねた。
大聖人様は
「天のようすを見るに、いかにもひどい。ことしは、さぞや押し寄せてくるだろう」とおおせられた。蒙古がいつくるかは仏教書にかいてないが、大聖人様は仏様だからわかるのである。

そこで平左衛門が、
「どうか蒙古を調伏するために祈ってはくれぬか。そうすれば、お寺も建てて、布教も許そう。そして三千貫の寺領もあげましょう」と言ってきた。これが、われわれだったならば、寺も建ててくれる、領地もくれる。といってきたら、もうこれ以上いじめられてもたまらないから、たいへんけっこうなことだと思うが、

大聖人様は断固として
「だれが法華経を広めさせてくれと言った。そんなことを頼んだ覚えはない。
自分は日本民衆を救うため、念仏や禅、真言、律をやめさせなければだめだといっているのであって、広めさせてくれとは頼まぬ。三度いさめて聞かなければ去る」
といって身延の山へ入られた。

いま、現に民衆を不幸にしているあらゆる邪宗邪義、すなわち立正佼成会や仏立宗、念仏、真言、禅等の邪宗は、断じて許すことは出来ない。
「あれも良いでしょう。これもよいでしょう」などとは、学会は言ってはいない。
断固として、世界の宗教界を相手にまわして、戦っていく孤立無援の教団が学会であります。あらゆる方面から敵が現れてくることは、会長就任以来すでに覚悟の上だ。
前からわかっていることです。

わたくしが難を受けることはいいが、みなさまにはぜったいの幸福をつかませてから
死にたいものだということを、わたくしは念願している。

そして「指導者は難を受けることがとうぜんだ」と、前々から教えてあるが、学会はいかなる教団とも手を結ばず、日本国を万代まで平和にするために戦っているのです。
いかなる事が起こりましょうとも、退転することなく、学会とともに戦い、しあわせな安住の境涯を獲得してください。


昭和29年10月29日
本部幹部会
豊島公会堂

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from: 21世紀さん

2009/05/10 21:51:39

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
仏法は勝負である  戸田先生の指導より

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わたくしは、毎月諸君らの確信を聞くたびに、悲しい気がする。
というのは、折伏をするのが、まるで数字の計算のようであるからだ。
どこそこが勝った、やれ負けたと相撲か、野球でも見るような気持ちで来る人が、この中にいるんです。しかし、折伏は遊戯のようにやっても功徳がある。相撲を見て、自分のひいきが負ければ悲しいし、入場料を損する。ここは、ただで見られる。

仏法は勝負で、国法は正邪、世法は評判である。
この三つがわからぬと戸田の哲学がわからない。

やみの米を運ぶことが、良いか悪いかと聞かれる。病に病んでいる夫を持ち、子を持っているならば、どうするのだ。どしどし、やみ米を運びなさいという。
国家できめた国法では悪いが、仏法では悪くない。国民の生活を維持できないのは、国の政治が悪いのではないか。つかまらないようにやるのが仏法だ。
国法と仏法とけんかして、仏法は必ず勝つ。戸田は悪人であると評判しても、罰することは出来まい。

罰せられるようなことをしないわたくしは、こんど謗法しました。いままで謗法しないと思うた。しかし謗法はよくやるが、わからぬのだ。
わたくしは、病気で気持ちが悪いときがあった。声がでなくなり、のどがつまり、息ができぬ。その原因は、本部ができて、嬉しくてたまらなかった。さぞかし、静かであろうと思ったら、毎日題目でわんわんであり、うるさいと思った。とたんに謗法でこのとおりになっていた。

ただ題目をとなえれば良い。うんとあげなさい。

もうひとつ、謗法しては悪いから言うとくそれは子どもがきていろいろこわす。
どんどんきてこわしている。これを、こわされる方も謗法であれば、こわす方も謗法である。
ゆえに、いま懺悔している。ほんとうに懺悔しているのは、御本尊様に向かう以外にない。
いまぼくが三百円盗んだとする。懺悔できない。言ったらいけない。キリストと違う。
これを「まさに懺悔せんと欲せば端座して実相を想え。衆罪(しゅうざい)は霜露(そうろ)の如し。慧日(えにち)良く之を消除す」といわれている。

これがほんとうの懺悔といわれる。題目を唱えれば良い。こんどの病気は懺悔してなおった。きょう、支部長がほらを吹いたから、きみたちもほらを吹くのだ。仏法ではほらの貝を法羅(ほうら)という。

本年十八万というが、そんなにやらなくてもよい。八万で結構だ。十五万できれば広宣流布できることを知っている。いくらやっても、学問教育がなかったら、なにごともできぬ。虱(しらみ)の集団である。
来年二十五万世帯になったら、手に負えない。わたくしが教学を立てなければつぶれる。会長の願いは、十八万やらなくてもよいから、八万やってもらいたい。

昭和28年12月21日
本部幹部会
豊島公会堂

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from: 21世紀さん

2009/05/12 09:49:06

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
人間革命の精神  戸田先生の指導より

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小説「人間革命」における最後の項は、著者妙悟空(みょうごくう)のいわんとする結論であり、人間革命の根本である。
ここでいう人間革命とは、人生の目的観を確立して自己完成することである。

われわれは、生活を営んでいく上に、何らかの人生観なりをもっているが、現在まで、自分でもっている人生観・世界観・社会観に変化を起こすことが人間革命であり、いいかえれば、今までの生き方を根本的に変化させることである。
中小目的より大目的へ、中小善より大善生活へ、現世だけの目先の目的観より、永遠の生命観に立脚した、確固不抜の生命観の確立にある。

卑近(ひきん)な例であるが、もっともこれの激しいのは、子どもの世界に良く見られる。たとえば、きのう自動車のオモチャに、熱中していたかと思うと、きょうは、飛行機でなければ、絶対に承知しない等と、常に変化している。これが、一つの人間革命に似たものと言えよう。

また、ここに一人の青年があって、自分の最も愛する女性との幸せな生活を目的に、
嬉々として、仕事に打ち込んでいたとする。それが、

一度その夢が破られるや、徹底的に、金銭の鬼となって世のかなに対抗しようと決意する。これも、人間革命の姿と言えよう。

あの有名なデュマの「巌窟王(がんくつおう)」の主人公も、はじめは、純真そのものの青年であるが、無実の罪におとしいれられて、苦しい牢獄生活を味わい、その中から、莫大な財宝をてにするや、復讐に、一生をささげようとする冷徹な人生観に一変する。これも、人間革命である。

このように、人間革命というも、各種各様の形があって、その目的観の高低・浅深・善悪によって、幸福・不幸の結果を生活にもたらすのである。

われわれが、信仰をもつということは、今までの宗教ではダメだと、決め切ったところから、宗教革命を行い、生活改善のために、貧乏な者は裕福に、病気に悩むものは健康体にとそれぞれ、自分の宿命打開に、努力しているのである。

小説「人間革命」に登場するおとら婆さんは、七年間もの長い鬼子母神信仰の生活を打破して、大御本尊を信じ、わずかのうちに、健康と、安穏な生活をとりもどして、生活の革命を行っている。
とくに、苦悩のどん底にあって、世をはかなみ、人をうらんでいた婆さんが、病気の人をあられみ、人の不運に涙するような心境に変わったということは、まさしく、人間革命をしつつある良い例であろう。

しかし、金持ちになりたいとか、自分の性格を改革したいとかを目的とする宿命の打破は、相対的幸福への欲求であって、これのみでは、絶対的幸福境涯の建設、すなわち、
真実の人間革命の真髄とは言い得ないのである。

小説「人間革命」の巌(がん)理事長が、身を持って体験した牢獄の重難のなかに、
断っても断っても、入ってくる教典から、仏法求道の眼(まなこ)を開き、題目をかさね、教典と取り組んで、激しい苦悶の末に、ついに、自らの生命が仏であり、過去久遠のむかしよりの地涌の菩薩であったことを確信して、歓喜にふるえ、「よし、僕の一生は決まった!この尊い法華経を流布して生涯を終わるのだ」との、強い決意を胸にきざみ
「かれに遅るること五年にして惑わず、かれに先立つこと天命を知る」と叫んだ姿こそ、一切大衆救済を願望する真の人間革命である。

裸一貫から、資本金五百万の事業を築きあげた巌さんが、世俗の執着を払い捨てて、心の底から人生に惑わず、真の天命を知った姿こそ、人間革命の真髄である。これは、竜の口における大聖人のご確信にも通じ、宗教革命を叫ぶ者の真の姿である。

大御本尊を信じ、大聖人の弟子として、信行にはげむ青年諸君よ、青年こそ国家を救い、民衆の良き指導者としての使命を担う者である。

真に国家を憂い、民衆の幸福を願う心のある青年であるならば、まず自らが、この高邁(こうまい)な人間革命の真髄を求めて、いかなる三類の強敵・三障四魔とも戦い抜き、勝ち抜いて、勇猛精進すべきではなかろうか。


昭和32年8月1日

大白蓮華   巻頭言

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from: 21世紀さん

2009/05/12 09:54:19

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
青年よ、理想をもて!  戸田先生の指導より

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みんなが、こんなにいっぱい集まっているところを、
初代の会長が見られたら、どれほど喜ばれるかと
思う。初代のことを、思うと胸がいっぱいになります。

青年というのは、見ても楽しいものであると同時に
またこわいものである。
明治維新のその封建制度を打破して、明治の文化を
つくったのは、皆、青年だ。
今度、世界の大戦争を起こして日本をぶっつぶした
のも青年だ。
しこうして青年は水のごときものだと思う。
毎日、水が川によどみ、
あるいは水車の回りによどむとき、あるいは堂々と
流れるのを見たときは、まことにたのもしく思われ、
うれしいと思う。
ひとたび大怒涛をなしたときは、船をもつぶし、
家をもこわす。これが青年と言うものだ。
ですから、皆さまは、じつにりっぱであらうと
思うとともに、こわい。
そこで日本の指導者は、皆さんに
一つの理想を与えなければならんと、私は思うので
有ります。しかるに、今、日本の国において
青年の行く手を、はっきりしているものがない。
私はそれは日本の青年にとってまことに
遺憾だと思う。

ここに韓国の方がおられたら、まことに申し訳ない
けれども、日本民族というものはね、絶対に
中国人や韓国人に負ける民族ではない。

全世界の民族を救うには、いままでのような
妙ちくりんな理論ではだめだ。
最高の仏さまである日蓮大聖人様の哲学を
もって、全世界の人を救わねばならんと、
私は思う。それには青年は高い理想がなければ
ならぬ。しかも救うにはです。剣や鉄砲を
使うのではない。みんなに功徳を与える。
幸福を与える。その哲学、理論、実践をもって、
全世界を救いたいと私は思うが、どうだ諸君!

昭和30年12月18日
男子青年部第四回総会
蔵前国技館

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from: 21世紀さん

2009/05/12 15:39:04

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
思想の混乱  戸田先生の指導より

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世界の文化人が混乱している思想に二つ有る。このふたつの混乱が、いろんな悲劇を人生に与えている。

一つは、知識が即智慧であるという考え方である。知識は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して知識自体が智慧ではない。

つぎは、健康即生命との思い誤りである。健康であれば、生命も長生きであるような、
錯覚におちいっている。ただし、健康であることが、その人の日常生活をいかに楽しませ、いかに活動させるかを認めないのではない。
それは、生活条件には必須なものではあるが、生命それ自体とは、また違ったものである。

このことがはっきりするならば、むりに大学課程をおさめさせたり、また丈夫にならなければならないと、自分の人生を悲観したりするよなことは起こるまい。

日本のことわざのなかに、「論語読みの論語知らず」と言う言葉がある。これなんぞは、知識と智慧と異なることを、りっぱに表現しているではないか。

あの有名な曲亭馬琴(きょくていばきん)の長男が子どものときから、父親が一生けん命に論語をしこんで、りっぱな学者にしようとしたが、ついに単なる医者の株を買って、医者になったという話しがあるが、これなんぞは、明らかな事実ではないか。

また、こんな話しもある。ある人が長崎の医学の修業にいって、行李三杯ほどの講義録をためて、揚々と帰国した。これさえあれば、りっぱな医者で通せると思ったのである。ところが、瀬戸内海で大波にあい、船が沈没して自分だけ助かった。かれの頭のなかには、医学の一物も残っていなかった。

と、こんな話しは、昔の人のように思うが、今の大学生が、たんねんに先生の講義を筆記している。もちろん全部の学生とは言わない。その人が、その講義を全部自分の物にしているかというに、さはなくて、ただ試験に通りたいためである。

このように、智慧と知識は根本的な相違がある。
ただし、智慧の本道にはいるためには、知識の門を開いて、はいらなければならぬことは、いうまでもない。

仏法においても、随喜功徳品において、五波羅蜜を捨てよとはいうが、般若波羅蜜をば捨てよとは言っていない。
智慧のない人間は、犬猫にも劣るのであるから、智慧を磨くということを、よろしく考えるべきであろう。

また、こんな言葉が、関西方面で言われていると言う。「病気上手の死に下手」と。
これは、また健康と生命の関係を、如実にものがたっているのではないか。健康なら長生きすると言う考え方は、大いなる誤謬(ごびゅう)である。

人間は何のために生まれてきたか、こういうことを人に聞くとき、満足に答える人はおらない。親孝行のために生まれてきたといっても、それは実際的ではなかろう。金もうけのために生まれてきたというならば、資本主義の変形である。

人間に生まれてきたわれわれの目的は、楽しむためであるということを、どこまでも忘れてはならない。

その楽しむためには、健康というものが、そうとうの役割を占めることを忘れてはならぬ。それとて度をすぎるならば、身を誤るもとになる。

要するに、根本は強き生命力と、たくましき智慧とによって、わが人生を支配していかなくては、ほんとうの幸福は得られないことを知らねばならぬ。

ここまで吾人が論じたことは、単なる議論であって、これを実践に移し、いかにすべきかという問題は、

わが創価学会の主張のごとく、日蓮正宗総本山の、一閻浮提総与の御本尊に、南無すること以外に、方法のないことを付記しておく。


昭和33年4月1日
大白蓮華  巻頭言

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from: 21世紀さん

2009/05/16 21:57:34

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
寿量品について  戸田先生の指導より

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寿量品において「譬如良医」(ひにょろうい)とは、久遠元初の自受用身(じじゅゆうしん)、無作三身(むささんじん)の如来、また、南無妙法蓮華経仏とも申し上げる。
「是時其父(ぜじごぶ)、還来帰家(げんらいきけ)」のその父は、日蓮大聖人様であらせられる。「遣使還告(けんしげんごう)」は、富士大石寺にいます法主上人であらせられる。

以上のごとく心得て、経文は拝すべきで、譬如良医をインドの釈迦と読んではならぬ。
この良医が「智慧聡達(ちえそうだつ)」であって「明練方薬(みょうれんほうやく)」-----よく衆病を治すとある方薬とは、三大秘法の大御本尊様であって、「飲佗毒薬(おんたどくやく)」の佗の毒薬と言う佗は、三大秘法の本尊にあらざる佗であって、毒薬とは邪宗教である。
良医の作った薬以外は、みな毒薬であるから、佗といったのであって、三大秘法の御本尊以外は、ことごとく邪宗教である。佗の字に心を留められたい。「色香美味(しきこうみみ)」とは、三大秘法と拝すべきで、戒定慧(かいじょうえ)と読むべきでない。

また、学会で、この信仰によれば生命力が強くなる、ということについての文証は、「更賜寿命(きょうじゅみょう)」という文である。
その前の文に「我等愚痴(がとうぐち)、誤服毒薬(ごふくどくやく)、願見救療(げんけんくりょう)」、すなわち、われら愚痴にして誤って毒薬を服せり、願わくは救療を給え、と。

当世の体をみるのに、みな「我等愚痴(がとうぐち)」のことばに当たり、誤って毒薬を飲むというが、みな邪教に迷って、その生命力及び福運が衰減して、病み疲れているかたちである。

そこで、願わくは救療を給えと言わざる終えない。ここに、宇宙唯一の御本尊あり、弱った生命に、衰減した福運に、うまくいかない事実に、さらに寿命を与えようと仰せになっている。
なぜ、すみやかに、末法の御本仏、出世のご本壊たる三大秘法の本尊を信じないのだ。
まことに「我等愚痴(がとうぐち)」というが愚痴なるものである。

また、御本尊を守護する側も、すみやかに謗法を去り、勇気を盛り起こし、たがいに怨嫉(おんしつ)することなく、一団となって、広宣流布の大道へ進もうではないか。

昭和28年2月15日
大白蓮華   巻頭言

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from: 21世紀さん

2009/05/16 22:05:02

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
邪教をつく  戸田先生の指導より

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世間に、今大流行をしている宗教がある。

この宗教は南無妙法蓮華経と唱えるから、知らない人々は、日蓮宗だと思っている。

信者自身も、日蓮宗とはこんなものかと信じているものが大多数である。
その理由は、ただ南無妙法蓮華経と唱えるからである。しかし、その教義は、日蓮大聖人の教えなど、毛ほども用いていない。

信者を二十五人から五十人と作ったものは、利益があるとせられている。
だから、「ねずみ算」式に、信者はどんどんふえる。

もうかるのは本部だけで、信者の方は真の仏教でないデタラメなものに夢中になるから、宗教の原則によって、だんだんと生命力をなくしてしまう。

仏教経典になんら根拠もないインチキの教えを振りまいている状態を見て、さらに無智の大衆が、なんらの批判もなしに、これが日蓮大聖人の真の教えであるかのように、
眩惑されているのを見て、吾人は、だまっておられないのである。

邪教の理論的詐術(さじゅつ)を知らぬ愚人こそ吾人は哀れと思わざるおえない。


昭和24年10月10日
大白蓮華   巻頭言

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from: 21世紀さん

2009/05/18 11:39:34

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
指導者  戸田先生の指導より

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学会は指導主義である。指導と教授は違う。教授とは教えることであり、指導とは導くことである。創価学会は、最初から、御本尊を信ずることに導くのである。
したがって、御本尊を教えることは、第二次的なのである。しこうして、信じた後には、信心のあり方を進んで指導するのである。また、信仰即生活であることを指導して
幸福へと導くのであって、指導者とは、一日も早く会員一同が、幸福であらんことを
願うべきである。

人生は険難であり、その行路は多難である。なかなか、普通の生命力では押し切っていけない。ゆえに、大指導者として、偉大なる御本尊の功徳を受けさせ、強き生命力を得させるように指導するのである。

されば、学会の指導者は、大御本尊のお姿を心の奥に刻みつけて、一般民衆の指導に当たらなくてはならない。

学会の指導者とは、なにをもって一般より高しとしうるのだ有ろうか。いうまでもなく信心の力である。その人自身の持っている才能、財力、社会的位置等ではない。ただただ信仰の道においてのみであることを深く自覚しなければならぬ。

されば、大御本尊のこと以外においては、けんそんであって、決して傲慢(ごうまん)な姿であってはならない。また、上長の位置を誇ることなく、なにごとも命令的であってはならぬ。指導である以上、相手の納得いくようにしてやらねばならぬ。そうして、御本尊の尊さ、功徳の偉大さを十分に納得させねばならぬ。

要するに御本尊を信ずる力と、慈悲とに満ちて、友として指導するものこそ指導者の自覚を得たものというべきではないか。

昭和30年3月1日
大白蓮華   巻頭言

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from: 21世紀さん

2009/05/18 11:41:13

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
折伏教典より  戸田先生の指導より

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☆「弘安二年十月十二日にあらわされた一閻浮提総与の大御本尊(本門戒壇の大御本尊)に対して題目を唱えるのが大聖人の教えである。(略)

大聖人の正しい教えを聞きたければ、大聖人より日興上人に御付嘱があって以来、富士大石寺に七百年間、連綿として血脈相承されている日蓮正宗についてのみ、日蓮宗を正しく知ることができるのである。
大聖人の御書の上からも、哲理に照らしてみても、また現証の上からも正邪の区別は判然としている。

看板のみ無断借用しているニセ日蓮宗と称するものは、大聖人にそむいているゆえに、たとえ小利益があったとしても、その後かならず大罰が出、ついには生命を弱らせたり、一家離散したりして不幸におちいるのである。」
(戸田城聖発刊 折伏教典)



☆「電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光りを発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光りが出ないのである。
御本尊が大聖人のご真筆であっても、大御本尊に直結しなければ、なんの功徳もないのである。従って富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」
(折伏教典)



☆「この大御本尊に直結したお漫荼羅を拝む信仰でなければ、絶対に功徳もなく、ましてや、生命の本質をつかんで仏の境涯に立ち、永遠の生命を感得することなどは、とうてい望めないことである。」
(折伏教典)



☆「信仰の対象としていっさいをささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においては御相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあさばされるものであり、われら信者がうんぬんすべきことではないのである。三大秘法、観心本尊抄等に照らして拝察するのであれば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることが、
はっきりとわかるのである。これは不相伝なるがゆえに深義に迷うのであって、不相伝家はみな本尊に迷うということができる」
(折伏経典)

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from: 21世紀さん

2009/05/21 07:34:30

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
なぜ信心をするか  戸田先生の指導より

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信仰というものは、修養のためとか、あるいは、
気休めとかというために、するのではない。
信仰して、利益、すなわち、
生活上のしあわせがなければ、やっても無駄です。

日本の国の人々がみんな困っている。
その困っている時に功徳があるから
広まっていくのです。
理屈や学問で広まるのではないのです。
御利益で広まるのです。

それならどうすればいいかというと、
今度は今生において、布施をし、善根を積んで、
来世においてしあわせに生まれてくると、
こういうふうになっている。
これが、今、仏法を信じない人は、皆、このいき方を
しなければならないことになっているが、だれも善根を
積む者がいないから、来世はますますひどくなるに
きまっているのです。
大聖人様が、これでは、かわいそうだと、おもし召し
あそばれたのです。
そこに日蓮大聖人様の仏法と、釈迦の仏法との、
根本的相違があるのです。
これをわかるのは日蓮正宗だけなのです。

そこで大聖人様は、末法の衆生をかわいそうに思われて、
どうなさったかといいますに、これはいかん、
末法の衆生には過去世にりっぱな行いがないと。
それであるから、これを捨てておいたならば、
その貧乏、あるいは病気あるいは、
いろいろの不幸をそのまま背負って死ななければならない。
それでは、かわいそうだ・・・、そうおっしゃった。

この大御本尊様を受持すれば、過去世において
つくらなかった、原因をくださるという約束がある。
即座に下さるのですよ、原因を。
あとは自分の信心と、折伏によって、
結果を勝ち取らなければいけない。

御本尊様のことを、縷々(るる)
御説明くださっている観心本尊抄という御書のなかに
「この五字を受持すれば、釈尊の因行果徳の
二法を譲り与え給う」という約束がある。
この五字とは、お曼荼羅のことであります。
御本尊様のことであります。

ただ、この御本尊様は、富士大石寺しかないのです。
ほかの寺々で、どんなにうまいことを言っても、
絶対に富士大石寺の御本尊様しか、功徳がない
ということは、この御書において明らかなのです。
ですから、あなた方が、この御本尊様を受持して、
ちゃんと信心をりっぱにしまして、折伏を行じておれば、
必ず、必ず、しあわせになることを、私は誓っておく。
安心して、折伏をしなさい。
功徳は必ず出ます。すなおな信心をしなさい。
必ず功徳がでます。
また、あなた方が、しあわせになるために
熱心に折伏をし、信心をしていれば、
しぜんに広宣流布の時がきます。

しかし、広宣流布は、一日も早くしなければならんと、
私は思っております。
仏天の加護を、国家のために、仏天の加護を願おうと
するならば、一国謗法であっては、
仏天の加護は無いのです。
ですから、一国謗法の罪をのがれるために、一日も早く、
広宣流布をしなければならない。
さあ、そうなると、迷う人があるかもしれない。
ほかでもやっていいのではないかと。だが、
ほかでは絶対だめなのです。これだけは、絶対、
日蓮正宗でなけらばだめなのです。

広宣流布の暁には、大聖人様が御存生中に、
広宣流布ができたならば紫宸殿へかざって、
時の天皇に拝ませなさいと、予言をなさって
おつくりになった、紫宸殿御本尊という御本尊様が
あるのです。

だから、身延には広宣流布する資格がないと
いうことが、はじめからわかっている。
ましてや、このごろできたての
ニセ日蓮宗などはあるわけがない。

この、紫宸殿御本尊のある寺こそ、
広宣流布をする寺なのです。
それが、この紫宸殿御本尊というのは、
七百年も近く、富士大石寺に、厳然として
奉持(ほうじ)し奉っているのです。
この一事をもっても、われわれ日蓮正宗の者は、
広宣流布をしなければならない責任があると
いうことになっているのです。

だから、広宣流布だなどと、マネをしだした時に、
この一事をもって、きゅっと押さえて
やらなければいけない。
まあ、これだけで、あとは、あなた方が、
しっかりと信心をして、功徳を受けますように。

昭和30年8月23日
蒲田支部函館地区総会

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from: 21世紀さん

2009/05/22 00:30:27

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
信者の大精神に立て  戸田先生の指導より

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突然、御法主上人様のお座替わりのご意向発表を伺い申し上げた。聞くところによれば、過日、本山内の重役会議の席で、日昇上人様からご隠退(いんたい)の意をもらされ、その席上でご決定とのことである。
学会再建以来、御法主上人よりは数限りないご慈悲をたまわって、いまの学会発展をみることができ、まことに、いつまでも法主様としてお仕え出来たらばと思うが、御仏意であるから私の感情は恐れ多い。


先代牧口先生当時から、学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に
除名する。信者の精神はそうでなければならない。


むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳をそこなう者は当然そうなる。

どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、いさかかも変わりない。
新猊下を大聖人さまとしてお仕え申しあげ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである。思えば、こんどは二御隠尊様、一御法主様の三猊下がおいでになるから、宗門はますます磐石だ。これは、まことに喜びである。

こんどの日昇猊下ご退座には、なにかの形で微忠(びちゅう)の一端をあらわしたいと考えているが、これは全会員の気持ちではないかと思う。
戦後の宗門が七百年祭を経て、いまの大宗門になったことを思うと、猊下のお徳の高さをまことにありがたく拝する。

どうか、この戸田の精神を全会員の精神として、この発表をむかえるように望む。

昭和32年1月29日
戸田城聖全集 二巻論文より

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from: 21世紀さん

2009/05/22 07:27:32

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「Re:戸田城聖2代会長指導から」
凡夫と御本尊  戸田先生の指導より

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われわれが日々拝する大御本尊は、われわれ凡夫とは関係ない雲の上の存在であり尊上無比の存在であると拝し、われわれ下賤(げせん)の者のつたない日常生活現象とは、およそかけはなれた存在であると拝することは、誤りである。

尊上無比の大御本尊は、じつに日蓮大聖人の御当体そのものであられるのである。

ゆえに、御義口伝には「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」とおおせられてる。さらに、日蓮大聖人は、われわれごとき迷える凡夫の主・師・親であらせられ、「しう(主師)父母(親)」であらせられるのである。
かくて、日蓮大聖人の大慈大悲によって御建立あそばされた大御本尊を拝することがただちに、われわれ凡夫にとっては、したしく久遠の御本仏を拝することであり、したしくおのれの主・師・親を拝することになるのである。

法華経の信解品では、四大声聞が窮子(ぐうじ)の譬えを引いて領解している。
すなわち、父を捨てて他国を放浪した窮子が、五十余年の後に、ようやくその大長者の父に会った。しかし、父を忘れた窮子は、恐れて近づかず、父と自分とは関係のない別のものと思っている。
父は種々の方便を設けて窮子を教えみちびくが、なおも窮子は放浪の心を捨てきらず、下劣の本処にあって、この父を父と悟ることができなかったが、ついに、窮子は、大長者が自分の真実の父であったことを悟りて、おおいに歓喜するというしだいである。
すなわち、窮子は、せっかくの自分の父である長者の家におりながら、
「爾の時に窮子、此の遇(ぐう)を欣(よろこ)ぶと雖(いえど)も、猶故(なお)自ら客作(かくさ)の賤人(せんにん)と謂(おも)えり」
それゆえに、二十年の間、糞はらいをしていたが、それでもなお、「然(しか)も其の所止は猶本処(なおほんじょ)に在り」といって、放浪の昔を忘れずに、父と自分はいまだに別のものと思っていた。
そのうちに、長者が「今我と汝と便(すなわ)為異(これことな)らず」といっていたが、なお「然も其の所止は、故本処に在り。下劣の心、亦未(またいま)だ捨つることを能(あた)わず」(妙法蓮華経並開結259ページ)としていたが、最後に父の死ぬときにいたって、ようやく自分は長者の子であることを悟るのである。これは、御本尊が自分とは別のものだと思うのは、長い間、貧窮下賤(びんぐげせん)
であった窮子が、自分の父を忘れているのと同じことである。

またこれとは反対に、
本尊とはまったく他所(よそ)に求むべきでなくて、
自分自身が本尊であり、お題目を唱えるものは、等しく自涌の菩薩であって、日蓮大聖人とも変わりがないと考えることは、重大な増上慢のきわみであり、大謗法である。

にせ日蓮宗においては「久遠の本仏は釈迦であり、その本仏から地涌の菩薩が末法にお題目を弘めよと付属されているから、末法いまのときにお題目を唱えるものは、すべて本仏の使いであり、日蓮聖人はわれわれの先頭に立たれた兄貴分であり、先輩である」ぐらいに考えていて、しかも公然と、このような誤信を放言して、無知の大衆を迷わしているのが現状である。

この誤りの根本は、まず久遠の本仏が釈迦であると決定するので、日蓮大聖人と、われわれ凡夫との関係が、まったく歪曲されたものとなり、したがって、大聖人を悪しく敬う結果となるのである。
法華経の文上においては釈迦が本仏であり、日蓮大聖人は上行菩薩として付属を受けられたことは、だれしも疑う余地のないとことである。しかしながら、御内証の深秘は、日蓮大聖人こそ、われわれ末代凡夫を教えみちびかれる御本仏であられる。

かかる久遠元初の自受用身の御当体であらせられる大聖人の御肉体が、そのまま大御本尊であらせられるのである。

ゆえに、われわれは、この仏力・法力をあおいで、信心修行を励まねばならない。大聖人は仏界所具の人界をお示しくだされたのにたいし、われわれは、大聖人の大慈大悲に浴し、大御本尊の光明に照らしだされて、初めて人界所具の仏界が開覚されるのである。
されば、御義口伝に、「我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎(はら)は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり」(御書716ページ)とおおせられ、また、「霊山一会儼然(りょうぜんいちえげんねん)として未だ散ず」の文も、あるいはまた、「仏こそ凡夫に礼を申すべきなり、凡夫の体を借りまいらせ候」とおおせられたことも、すべて、この立場から拝さなければならない。

これを要するに、尊上無比の大御本尊様の大功徳は、すべて、われわれ凡夫の一日一日の生活のなかに、ほとばしり出ているのである。
御本仏の眷属として即身成仏と開覚されるのである。これ以外に、「仏」というものは絶対にない。

われわれの想像もおよばぬ色相荘厳の神様とか仏様が、
雲の上や西方十万億土などにいるはずはないのである。

と同時に、われわれ凡夫は、「仏性」をだれしも平等にもっているが、御本尊を信じ奉る以外に、「成仏」はありえない。たとえ、御本尊を信じ奉るとも、総別の二義があり
「総別の二義少しも相そむければ成仏思いもよらず」(御書1055ページ)との仰せがある。
ゆえに、別して、日蓮大聖人様が御本仏であらせられ、われわれ凡夫は、主従、師弟、父子のごとく、あまりにもしたしくして、しかも、あまりにも厳然たる区別のある存在なのである。
この態度は、また御遺文を拝するにあったても同じであり、

御遺文を研究して大聖人の御観心がわかったというのも誤りであり、

また、御遺文は、われわれ凡夫の生活とかけはなれた、難しい別のものだというのも、同様に誤りなのである。

昭和25年8月10日
戸田城聖全集・論文より

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