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創価学会SGIを本音で語ろう

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  • from: 21世紀さん

    2011年07月10日 00時29分50秒

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    :【日達上人講述・ 略解日有上人・化儀鈔】

    日有師化儀抄(日達上人略解)緒総本山大石寺には、山法山規という規則があって、われわれは、知らず知らず、その規範に律せられているのである。ところが、この

    日有師化儀抄 (日達上人略解)



    総本山大石寺には、山法山規という規則があって、われわれは、知らず知らず、その規範に律せられているのである。ところが、この山法山規は、不文律である。しかも、この山法山規は不文律でありながら、総本山には、今日まで、七百年来、厳然と行われているのだから、不思議である。

    この山法山規も、そのもとは、二祖日興上人の遺戒置文二十六箇条と、日有上人の化儀抄百二十一箇条にあるのである。

    遺戒置文には、
    一箇条に於ても犯す者は、日興が末流に有るべからず。

    化儀抄には、
    この上意の趣を守り、行住坐臥に拝見有るべく候。
    と、強く末弟を、誡められているのである。

    その末弟を誠められた事がらを、末弟がよく心肝に染めて、伝えたのである。それが、いつか、山法山規という名になって、今日に伝えられたのである。

    そして、この化儀抄は、日有上人が直接お書きになったものではなく、弟子の南条日住という人が常々お聞きしたことを書き留められたのを、日有上人の御入滅(文明十四年・1482年)の翌年、文明十五年これを浄書して、本山第十二代日鎮上人に御渡した書物である。

    本山九代日有上人は、北は奥州から、西は京都まで教化せられ、説法折伏に暇がなかったごとくである。それ故、御真筆のものは、御本尊以外は余りないようである。しかし、常に説法せられたから、弟子たちが、上人の説法、談義の聞書をものせられて、今日に伝えられているものが、多いのである。

    日有上人は、文明十四年九月二十九日、入滅の時は、七十四歳の高齢であったから第十代日乗上人と、第十一代日底上人は、すでに御遷化(文明四年・1472年)せられた後で、第十二代日鎮上人は、文明四年、十六歳で血脈相承をうけられているので、日有上人が御入滅の時は、ちょうど二十六歳であった。

    そこで南条日住も老年で、すでに自分の死の近きを知り、かねてからの日有上人かに聞きおいたことを、年若き日鎮上人に法主貫首としての教訓として、書きつかわされたのである。

     本書は南条日住の正筆そのまま、本山の宝蔵に所蔵している。

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    from: 21世紀さん

    2011年08月12日 18時35分51秒

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    「Re::【日達上人講述・略解日有上人・化儀鈔】」【121】一、涅槃経の九に曰く、諸の衆生命終の後、阿鼻地獄の中に堕して方に三思有り、一には自ら思わく

    from: 21世紀さん

    2011年08月11日 22時34分34秒

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    「Re::【日達上人講述・略解日有上人・化儀鈔】」【119】法華経を修するに五の様あり、夫れとは受持、読、誦、解説、書写等と云云、広して修するは像法の

  • from: 22世紀さん

    2011年07月30日 19時11分35秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田大作「権力者」の構造投稿者:管理人投稿日:2011年7月30日(土)19時10分1秒返信広宣流布の手段としての政治池田は安保問題のさなかに会長に就

    池田大作「権力者」の構造投稿者:管理人 投稿日:2011年 7月30日(土)19時10分1秒 返信
     広宣流布の手段としての政治

     池田は安保問題のさなかに会長に就任したが、「安保改定よりも、それよりか、もっと本質的に大事な
    ことは、邪宗改定である」(『聖教新聞』昭和35年6月4日)と述べて安保への見解の明確化を回避し、
    その賛否を会員各自の判断にゆだねた。創価学会の9名の参議院議員たちも、自民党の単独強行採決
    に対しては、国会正常化の名目で反対したものの、基本的には安保を傍観した。わずかに会内左翼と
    いわれた石田次男が、池田の就任に先立って2月10日、参院本会議で、極東の範囲、海外派兵、条約
    の年限、事前協議等について割合まともな質問をしただけであった。
     池田が戸田以来の政治進出を受け継ぎ、さらに強化、拡大する方向に踏み出したのは昭和36年5月
    3日の文化局の設置からであった。文化局は池田によって「第三文明」の実行機関と意味つ゛けられた、
    政治、経済、教育、言論の四部(のちに学芸部増設)からなる、本格的な政治進出のための中枢機関で
    あり、局長には参議院議員辻武寿が任じられた。
     ことにその政治部は、「混乱した日本の政界を浄化するため、学会精神によってはぐくまれた優秀な
    政治部員を養成し、日本の政治に正しい方向を示していくとともに、本質的な国立戒壇建立という大業
    の必要性を、政界に理解させようというものである」(『聖教新聞』昭和36年5月6日)との記事に明らかな
    ように、国立戒壇の建立をむくつけに目ざすものであった。
     同年11月27日、池田は創価学会の外郭政治団体として公明政治連盟(公政連)を発足させ、政党化
    へのひそかな布石とした。この少し前、池田は、「創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを
    進めるものではない。あくまでも、参議院、地方議会、政党色があってはならない分野に議員を送るもの
    である」(『大白蓮華』昭和36年6月)
     と述べて政党化と衆議院進出を否定していたが、その裏では政党化への基本工作を着々と進めた。
    昭和37年1月7日には教学試験を全国いっせいに行い、教学部員を前年の3倍近く11万数千名に激増
    させて選挙運動員の確保策とした。また4月2日には『公明新聞』を創刊し、近代政党への外見を整えた。
     参院選後の7月20日、池田は参議院の院内交渉団体・公明会を結成させ、公政連の15議員を無所属
    クラブから独立させた。
     続く9月13日、公政連は第一回大会を開催した。この席上、池田は、「もし10年先、20年先、・・・・・大
    政治団体になり、皆さん方が一流の名士になって、派閥やそれから反目があるようなことが、もし毛すじで
    もあったならば、即座にわが政治連盟は大衆の政治団体ではない、そういう資格はないものとして、解散を
    私はすべきであるということを、本日第一回の大会において、言い残しておきたいのであります」
    (『公明新聞』昭和37年9月16日)と述べた。
     当時、公政連は政界浄化を「基本政策」の一つに掲げていたから、派閥を非難する当の政治団体に派閥
    があってはならなかった。が、この池田発言には、さらに、池田にそむいてはならない、公政連においても
    創価学会と同様、池田の宗教的権威が貫徹するという含みが蔵されていた。組織内の派閥や反目は組織
    の能率と体面を損ない、また容易にその指導者への批判に転化すると考える池田にとっては、それらは
    最大の不正であり、事前にその芽をつまずにはいられなかった。
     公政連は最初から池田に首根っこを押さえられた創価学会の別動隊であった。昭和39年5月3日、第
    27回本部総会が開かれたが、池田はここではじめて公明党の結成と、衆議院進出の方針を明らかにした。
    「公明政治連盟をば、皆さん方の賛成があるならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の
    要望にこたえて政党にするもよし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがで
    ございましょうか(大拍手)。それでは全員の賛同を得ましたので、これをもって決定といたします。
     すなわち、創価学会のなかに文化局があります。文化局のなかに政治部が現在までありました。その政
    治部の使命について私は巻頭言で『われらは政党ではない。すなわち創価学会は政党ではない。従って
    衆議院にコマを進めるものではない。あくまでも参議院、地方議会、政党色があってはならない分野に議員
    を送るものである』という意味の一項目を書いておきました。
     したがって、本日をもって、創価学会の政治部は発展的解消といたしたいと思うのであります。なぜならば、
    この十年間、原島委員長を中心として、わが同志である議員は戦い、勉強し、一流の大政治家に育ってま
    いりました。恩師戸田先生も時来たらば衆議院へも出よとのご遺訓があったのであります。
     したがって、政治の分野においては、公政連であくまでも自由奔放に戦ってもらいたい」(『聖教新聞』
    昭和39年5月5日)
     これは明らかに前の発言に食言するが、池田にとってはそのようなことは問題ではなかった。なぜなら、
    彼の大目的は広宣流布=創価王国の建設にあったから、そこに至る手段はどのようなものであれ、有効で
    ありさえすれば認めることができたのである。それは文字通りの嘘も方便であり、社会的な通念からの批判
    をなに一つ容れない、池田の体質と化したマキャベリズムであった。
     11月17日、東京・両国の日大講堂で公明党の結成大会が開かれ、委員長に原島宏治(昭和39年12月
    死亡)、副委員長に辻武寿、書記長に北条浩が任じられた。委員長・原島は結党大会の挨拶で、「きょうは、
    この会場にお見えになっておりませんが、池田先生は、この公明党の生みの親であり、育ての親であり、
    現在、偉大なるささえとなってくださっております。そして、われわれの将来をじっと見守って下さり、擁護して
    下さり、指導して下さっております」(『公明』昭和39年12月号)と述べて、公明党が公政連から引き続き、
    池田の指導下にあることを再確認した。
     昭和42年1月29日、公明党は総選挙を迎え、25の議席を得て、初の衆議院進出を果たした。選挙直後
    の1月31日、池田は公明党指導部を衆議院中心に切りかえ、委員長に創価学会総務の竹入義勝、書記長
    は同副理事長の矢野絢也を指名した。竹入は就任後のインタビューで、「池田会長から申し渡されたばか
    りで、正直いって面くらっています」(『毎日新聞』昭和42年2月1日)と答えた。

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  • from: 21世紀さん

    2011年07月27日 18時51分34秒

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    池田学会のレクイエム――創立80周年

    「池田死後」見据えて、内外から登場する大胆な言説溝口敦ノンフィクション作家ジャーナリスト「民衆宗教からの逸脱」と指摘する中野論文創価学会は11月18日

    「池田死後」見据えて、内外から登場する大胆な言説
    溝口 敦
    ノンフィクション作家
    ジャーナリスト
    「民衆宗教からの逸脱」と指摘する中野論文
    創価学会は11月18日に創立80周年を迎えながら、ほとんど慶祝の式典を営めなかった。わずかに11月3日、創価大学の記念講堂で80周年を祝う「青年文化総会」「全国青年部幹部会」「新時代本部幹部会」「SGI総会」が共に開かれたが、これに名誉会長・池田大作氏は出席せず、単にメッセージと和歌と称する「断固して 今世の栄光 師弟舞 君よ忘るな 勝利の旗振れ」を贈っただけだった。
    11月18日付の「聖教新聞」には2013年、信濃町の創価文化会館跡地に完成予定の総本部の外観イメージと併せ、池田氏夫妻の近影(14日撮影という)が掲載された。写真を見るかぎり、池田氏は座って上体を立てることはできるようだが、いくぶんか顔は痩せ、生気と表情に欠けている。
    また11月21日、学会の恩師記念会館で米マサチューセッツ大学ボストン校の学長モトリー氏が池田氏に「名誉人文学博士号」を授けた際の写真が聖教紙22日付に掲載されたが、椅子に座り、上体を右に傾けて左手を上げる池田氏の顔はどこか痴呆のように見える。脳の一部が損傷し、すでに認知活動に一定の障害を来している可能性が否定できまい。
    創価学会は「80周年」が一刻も早く通り過ぎてほしいと願っているのか、早くも2030年の創立100周年に向けて、声高にアピールを始めた。池田氏が2030年まで生き長らえることはあり得ず、100周年への打ち出しは池田亡き後に備えた学会官僚の遠謀と推測される。100周年が会員を統合する目標になり得るかもしれないからだ。
    先日、都議会公明党顧問の藤井富雄氏に会う機会があり、池田氏の病状を尋ねたところ、藤井氏はこう否定した。
    「いや、悪かないですよ、元気ですよ。(表に出ないのは)若い者に時代を移してるからで、だからといって(何もしないのではなく)陰でいろんな手を打ってるじゃないですか。執筆は毎日書いてるしさ、勤行してるし。うん、すごいですよ」
    藤井氏は明らかにウソをついている。池田氏は健常者のころから、執筆は代作者に依存していたし、勤行はしないことで有名だった。脳機能の衰えで執筆できるようになることは通常あり得ない。
    創価学会、公明党の官僚たちは池田氏が最後の息を引き取るまで、内外に池田氏の病状を明らかにしないだろう。発表すれば、学会員に甚大な衝撃を与え、学会活動を低迷させることが必至だからだ。もちろん選挙活動にもマイナスに働いて集票活動は低調を極め、公明党候補の落選が相次ぐはずである。
    池田氏の死が明らかになれば、創価学会、公明党は総じてタガが外れた状態になる。これを逆にいえば、組織の締め付けがゆるみ、会員としての活動により自由度が加わることを意味する。
    すでに池田氏の余命を読み切ったか、あたかも池田氏が死んだかのように歯に衣着せない大胆な言説も登場している。たとえば創価大学文学部教授・中野毅氏が学術誌「宗教と社会」16号(10年6月発行。「宗教と社会」学会が年1回刊行)に発表した論文「民衆宗教としての創価学会―社会層と国家との関係から」である。
    中野氏は論文の中で冷静に創価学会・公明党が民衆宗教から逸脱したと指摘している。主要な論点をいくつか摘記してみよう。
    「創価学会が政治に参加していった動機の一つは、国家権力を議会を通して監視し、信教の自由を堅持させるためでもあったと筆者は考えているが、政治参加が深まるにつれて、国家権力に取り込まれていったと言えないこともない」
    「このような転換は、公明党支持者の大部分を占める創価学会員の反戦平和観とのズレを大きくし、以下に詳述するような反発を生む要因になった。基本理念を棚上げし、支持層からの反発を買いながらも、ひたすら政権与党にすり寄るような近年の行動は、どのような要因によって生まれてきたのだろうか」
    「第二には、公明党の諸政策や行動と会員間の政治的見解や経済的利害の不一致である。自民党の諸政策、特に上記タカ派的政権下の諸施策によって日本社会に経済的格差が広がっていった。自民党の支持層の階層的利益と公明党支持層すなわち創価学会員の階層的利益は必ずしも一致せず、格差が拡大していく時期にはむしろ対立する。その時期に自民党政権を支えるということは、創価学会員の階層的利益を度外視したり、相反する政策の『担い手』に公明党はならざるを得なくなるということである」
    「公明党を支援する創価学会側も、支援理由やその根拠となる国家像や社会理念などをより明確にする必要があると指摘されている」
    「(公明党を)支持する会員層に戸惑いと不満を引き起こした。信仰心と組織方針に基づいて支援活動に向かっても、支援理由を非会員や一般世間に通じる内容で明瞭に示すことが困難となり、組織的運動が空転し、ひいては支援のため宗教的情熱をも奪う結果になったといえないだろうか」
    池田氏の実態糾弾と死後のよき地ならし
    中野論文は、創価学会員が持つ政治理念を多分に美化している嫌いはあるが、少なくとも回顧録を発表して、池田氏の怒りを買った竹入義勝氏や矢野絢也氏より本質的な公明党批判になっているとはいえよう。だが、こうした論文を発表した中野氏が池田氏から厳しくお叱りを受けたという話は聞かない。池田氏はもはや叱責するだけの力を残していないか、中野氏の公明党批判が巧妙に池田批判を避けて通っているためか、理由は明らかではないが、これまではあり得なかった学会環境の変化を印象づける。
    中野毅氏は生粋の学会っ子である。学会の古い学生部幹部名簿によれば、7歳で学会に入会、学生部では主任部長、学内では学区長を歴任。友人6人を折伏したとある。東大文学部西洋史学科を卒業、筑波大学大学院修士課程を経て同博士課程哲学思想研究科で単位を取得し、学会系の東洋哲学研究所に勤務、その後創価大学文学部で職を得た。
    彼は学生時代、創価学会のための諜報活動にも従い、元学会顧問弁護士・山崎正友氏に宛てた中野氏の報告書が何通か知られている。
    たとえば75年1月6日付「井門富二夫教授訪問の件」と題された報告書、同年2月6日付「国際宗教研究所長と面談の件」と題された報告書などである。
    「昨日、津田塾大教授の井門氏宅を訪問しましたので、その概要を報告いたします。
    教育大の西山茂氏の件をうまく話題にして、教授の口から創価学会研究を行っている人物として紹介されたら、引き合わせてもらおうと考えていましたが、話題になりませんでした。宗教学会の主流における現在の関心並びに仕事は講座『宗教学』全五巻を東大出版会から出版することにあり、学会を研究する動きは主流においてはないようです。ただ教育大の森岡教授は何らかの関心を持っているようなニュアンスを感じました。
    西山氏に関しては、次回、こちらから切り出そうと思っています」(井門富二夫教授訪問の件)
    中野毅氏も若き日は「池田万代路線」の忠実な信奉者だったのだろうが、今は池田氏にとって長らく防波堤の役割を果たしてきた公明党の価値と役割を否定している。
    最近、フィクサーの朝堂院大覚氏(旧名は松浦良右氏)は、20年ほど前、東京富士美術館に納品されたルノワール「浴後の女」「読書する女」の取引にからみ、前記の藤井富雄氏と元東京都副知事・続訓弘氏から5億円で右翼の大行社と優政会の街宣活動を抑えてくれるよう頼まれたことを、写真誌「フライデー」で暴露した。この絵画疑惑に絡み、使途不明となった3億円は池田氏に渡ったとか、東京地検特捜部による池田氏逮捕説とかを否定するための特殊工作だったわけだが、朝堂院氏の暴露は、そもそも池田氏が死んでから公表したのでは意味がないとして踏み切ったものである。
    池田氏の命数がいよいよ尽きそうな今、創価学会の外ばかりか、内からも池田創価学会の実相を知らせる言説が相次いで登場するだろう。それらは池田氏の実態を糾弾すると同時に、池田氏死後のよき地ならしになるかもしれない。
    溝口 敦(みぞぐち・あつし)ノンフィクション作家、フリージャーナリスト。1942年生まれ。早稲田大学政経学部卒。出版社勤務などを経てフリーに。宗教関係をはじめ幅広く社会問題を扱う。『食肉の帝王』(講談社プラスα文庫)で第25回講談社ノンフィクション賞、日本ジャーナリスト会議賞、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム大賞の3賞同時受賞。『堕ちた庶民の神』(三一書房)『歌舞伎町・ヤバさの真相』(文春新書)『パチンコ「30兆円の闇」』『生贄の祀り』『あぶない食品』(小学館文庫)『武富士 サラ金の帝王』『池田大作「権力者」の構造』『中国「黒社会」の掟』『細木数子 魔女の履歴書』(講談社プラスα文庫)など著書多数。
    特集/池田学会のレクイエム――創立80周年

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    from: 21世紀さん

    2011年07月27日 18時53分21秒

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    「Re:池田学会のレクイエム――創立80周年」乙骨正生が創価学会に全面勝訴―「創価新報」名誉毀損事件投稿日:2011年5月28日作成者:okkotu東

  • from: 22世紀さん

    2011年07月26日 20時53分54秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田大作「権力者」の構造投稿者:管理人投稿日:2011年7月26日(火)20時52分55秒通報返信・引用攻撃から占有へ――戸田継承者としての池田の資質

    池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 7月26日(火)20時52分55秒   通報 返信・引用
     攻撃から占有へ――戸田継承者としての池田の資質

     戸田の死後、幹部たちは、戸田は聖業の発展のために死んだと公表した。これは戸田の死の拙さを償おうとする強弁に過ぎなかったが、その後の事実は、戸田が創価学会の発展のためには、タイミングよく死んだとはいえるものであった。戸田はすぐれて創見と攻撃の人ではあったが、安定期と占有の人ではなかった。彼の死は、時代にかなった創価学会の陣取りとエスタブリッシュメントへの道をスムーズに開いた。
     池田の資質は戸田の跡を受け、それらの役を担うにふさわしいものがあった。池田が独裁者までにのし上がったのは、基本的には自己増殖する組織の引き継ぎと教義面の支えによるが、かと言って彼の能力と努力を過小に評価することは誤りである。
     池田の戸田からの進展は、攻撃から占有への移行にあり、彼の腐心はつねに創価学会の占める分野の拡大と、そのイメージ・アップに費やされた。彼は戸田に比して創造性には劣るものの、有能な祖述者、管理者ではあり、それは彼の上昇志向と分かちがたく結びついていた。政治、文化面への進出等は広宣流布への投網であったと同時に、彼の劣等感と、世間を見返してやりたいという復讐欲に深く根ざす近代化という同一パターンにおしなべて属するものであった。

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  • from: 22世紀さん

    2011年07月26日 20時22分13秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田大作「権力者」の構造投稿者:管理人投稿日:2011年7月26日(火)20時15分28秒通報返信・引用池田独裁体制の確立こうして池田はスムーズに権力

    池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 7月26日(火)20時15分28秒   通報 返信・引用
    池田独裁体制の確立

     こうして池田はスムーズに権力の膨大化に進んだが、彼の会長就任にまるで反対の動きがなかったわけではない。
     池田の就任二日後の昭和35年5月5日、元男子部第一部隊の隊長で、蒲田支部幹事の佐倉雅章、大野兼弘は、創価学会員30人ほどを引き抜いて会を割って出、顕徳会という分派を結成した。佐倉は32年の大阪参院補選で、2ヵ月の未決勾留人りするまで創価学会に尽くして、前述のように除名され、その後、復帰を許された会員の一人だったが、池田の会長の就任にまつわるすべてを、「きたない」として創価学会を見限ったのだという(『週刊コウロン』昭和35年7月19日号)。
     池田は佐倉宅に辻武寿、牛田寛、鈴木一弘、竜年光を向けて、彼をおどしたり、すかしたりしたが、5月11日に除名し、また日蓮正宗妙真寺にも意を通じて彼らを破門させ、運動を圧殺した。
     日蓮正宗からの破門は、信者にとって生命を絶たれるに等しかろう。が、池田はそのようなことに頓着なく、創価学会の日蓮正宗支配の威力と、自身の権力を想うがままにふるった。
     このころ大幹部たちは、たとえ池田に不満を持っても、叛旗をひるがえせなかった。彼らは故戸田を畏敬していたから、彼の、「ゆずる会長はひとりでありますが、そのときに、分裂があってはなりませんぞ」という遺訓にしばられたし、また反乱の失敗を思えば、それによって失うものがあまりにも大きすぎることに気つ゛いた。創価学会員の増加と組織機構の拡充は、彼らのパイの分け前を大きくしていた。それは池田の取り分に較べれば小さすぎたが、なんとか彼らの不満を慰めるほどには大きかった。
     しかし、大幹部たちは最初から、池田に絶大な権力を付与することを認めていたのではなかった。会長の権限は年々の発展の中で、池田の自負と欲望、周囲の阿諛追従と盲信に従い、醜悪なまでに肥大化した。それは独裁の制度が必然的に到達する個人崇拝の一大奇観であった。
     例えば昭和37年6月、創価学会規則が改定されたが、その会長に関する規定は、池田をかなり掣肘していた。要点を列記してみよう。
     ①会長は、創価学会の責任役員でもある。
     ②会長は、責任役員の一人であり、理事会によって選出される責任役員により選出される。
     ③会長は、理事会によって罷免されることがある。
     ④会長の任期は4年である。
     ⑤会長は、理事会を召集し、その会議を主宰する。
     池田は理事会で罷免され得、また任期を4年と限られていた。この時点では、池田の権限はまだ歯止めをかけられるほどに穏当であったが、昭和41年5月の規則になると、すでに池田の権力は独裁者のそれに完成する。
     ①会長は、創価学会の責任役員でもある。
     ②会長は、総務を統括する。
     ③会長は、幹部会(内21名が責任役員)を召集する権限をもつ。
     ④会長は、責任役員を任命し罷免する。
     ⑤会長は、副理事長、理事、その他の必要な役員を任命し罷免する。
     ⑥会長の任期は終身とする。
     ⑦会長は、後任を選ぶことができる。
    (ホワイト、宗教社会学研究会訳『創価学会レポート』による)
     任期が終身で、後継者まで指名できるとは、宗教が私事であるとはいえ、異常である。まして創価学会は公明党という公事に「一体不二」の関係を有したのである。
     昭和45年1月の規則は、41年の規則とほぼ同様だが、理事長の任免、代表役員等の諸点で、さらに独裁の強度を高めている。
     なお池田は創価学会の登記によれば、昭和38年7月15日、代表役員と責任役員を辞任し、10日間の空白期間を置いて7月26日に再度、代表役員兼責任役員に就いている。また39年5月2日に池田は代表役員を辞任し、翌3日、代表役員は原島宏治にかえられて同年7月16日まで続き、翌17日に池田が代表役員に三度就任している。
     これを創価学会の政変の露呈とする見方があるが、事実は事務手続き上の処置に過ぎなかったという。少なくとも39年5月の辞任は、「任期」4年の規定に従ったという説明がつくであろう。が、38年7月の就任は責任役員空席期の説明がつかない。
     この日、北条浩以下23名の、昭和35年5月以降に就任した新責任役員も退任しており、2日後の7月17日、それ以前に就任した旧責任役員7名が退任する。そして7月26日に彼らの全員が順序を変えて再任される。参考までに新順位(カッコ内は前の順位)を付して次に列挙してみよう。   ①池田大作(8) ②原島宏治(4) ③北条浩(9) ④辻武寿(6) ⑤小泉隆(1) ⑥和泉覚(2) ⑦秋谷城永(16) ⑧柏原ヤス(5) ⑨石田次男(7) ⑩森田一哉(10) ⑪竜年光(11)⑫白木義一郎(15) ⑬山田徹一(22) ⑭白木薫次(3) ⑮小平芳平(12) ⑯鈴木一弘(13)⑰北条雋八(17) ⑱森田悌二(18) ⑲牛田寛(14) ⑳星生務(19) 21田中正一(20)22渋谷邦彦(21) 23吉田顕之助(23) 24多田省吾(24) 25神尾武雄(25)26宮崎正義(26) 27中尾辰義(27) 28中西治雄(28) 29星野義雄(29)30上林繁次郎(30) 31竹入義勝(31) 32藤原行正(新任) 33渡部城克(新任)
     池田をはじめとして原島、北条浩、辻、秋谷、白木義一郎、山田の上位進出が眼につき、逆に小泉、和泉、柏原、石田、白木薫次、小平、鈴木、牛田などは下位に下がっている。おそらく会長、理事長、副理事長といった会の役職の実勢を反映したものだろう。池田体制の確立期は昭和38、9年頃とおさえてまず間違いではないと思われる。




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  • from: 21世紀さん

    2011年07月24日 22時17分51秒

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    中野法論

    投稿者:掲示板の副管理人投稿日:2011年7月22日(金)09時43分24秒各位お世話様です。中野法論が、樋田さんよりアップされてます。御確認下さい。

    投稿者:掲示板の副管理人 投稿日:2011年 7月22日(金)09時43分24秒
    各位

    お世話様です。
    中野法論が、樋田さんよりアップされてます。
    御確認下さい。

    http://www.youtube.com/user/yamasan40web
    http://www.youtube.com/user/yamasan40web

    降魔(ごうま)の剣
    http://8223.teacup.com/koumanoken/bbs

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  • from: 22世紀さん

    2011年07月16日 18時51分42秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田大作「権力者」の構造投稿者:管理人投稿日:2011年7月16日(土)18時50分30秒通報返信・引用権力の王権神授説風脚色池田は昭和37(1962

    池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 7月16日(土)18時50分30秒   通報 返信・引用
     権力の王権神授説風脚色

     池田は昭和37(1962)年3月に法華講大講頭、39年4月に、戸田でさえ死後に贈られた法華講総講頭に就いて、本仏・日蓮の宗教的権威を、日蓮正宗の法主を通じて一身に具現したが、この有徳王のはめこみによって、法主よりも上位者、創価学会・日蓮正宗内での最高権力者となった。
     だからこそ、池田は、「諸君は、会長になろうなどという気持ちをもってはならない。なぜかならば、会長という役割を全員が目的にすることは、あまりにも愚かです。会長というのはご仏意なのです」(『池田会長全集』3)と公言出来たのであり、また教授である大幹部に試験を課して、その更迭をほしいままにする権能を授けられたのである。
    「教学部長が先日、私に対して『・・・・・いつも試験官である教授全員も、いっぺん試験をしてためしていただきたい』と、このような殊勝な考えをもらして下さいましたもので、私も同じ教授として、涙をのんで許しました。それを、それで会長だけは教授であるけれども試験を受ける必要はないという教授会の決定になりましたもので(笑い)。会長は馬鹿でも脇士がしっかりしておれば、絶対安定であることは仏法の原理でありますから(笑い)。私はやらなくてもいいことを、仏法の上から自覚しております」(『聖教新聞』昭和36年9月2日)
     こうして池田は大幹部、末端を問わず、およそ全員とは比較すべくもない、超越的な権勢を手中におさめた。
     また彼はそれを背景に、さきに述べた入信神話をはじめとする戸田との関係の聖化につとめ、さらに先輩幹部、ことに石田次男の功績を奪って、意地汚いまでに自己の戦歴表に書き加え、ペテンによる理想化によって、彼の権力を王権神授説風に脚色した。
    「(昭和25年の暮れ)恩師(戸田)と私と二人きりで、(聖教)新聞作製の構想を練った。その時、恩師はこう言われた。
    『おれが社長になる。おまえは副社長でやれ』と。この時を期して聖教新聞は創まったのである』(池田「創刊十周年に寄せる」、『聖教新聞』昭和36年4月22日)
    「池田先生は当時(26年)、第四部隊の一班長であったが、信心半年たらずで聖教新聞編集長、男子部隊長となった石田さんに対して、あらゆる面で忠告を与え、進路を示し、あたたかく守っていらっしゃった」(『大百蓮華』昭和38年12月号)
     これらが事実と相違することは、今さらいうまでもない。戸田は側近の誰彼を問わず、同紙の構想を話していたし、池田が副社長だったこともない。同紙の作製は石田を編集長に、森田一哉、岩本他見男、広告部長は原島宏治の編成で出発した。また当時、あらゆる面で石田の下位にいた池田が、石田に「忠告を与え、進路を示」すなどは、あり得ようもなかった。池田は昭和32年においてさえ、まだ、石田を、「信頼出来るといって、これ程立派な人はいない。俺の兄貴だもの」(『聖教新聞』昭和32年10月4日)と、評していたほどである。
     さらに北条浩は『大百蓮華』(昭和39年2月号)の池田の「闘争日誌」に、「(昭和27年)3・26 キリスト教討論」との一項を記しているが、これも事実は、「有名なキリスト教法論で、戸田先生が石田さんを指名されたのも、その実力を買っていらっしゃったゆえであろう」(『大百蓮華』昭和38年12月号)というのが真相で、池田の戦功ではない。
     石田次男のかつての存在は、池田の跡目相続の神性を損なう目の上のタンコブだったから、池田の石田からの収奪は、とりわけ甚だしかった。が、功績の書き替えは石田からにとどまるものではない。
     例えば昭和27年2月、池田は蒲田支部員の折伏を督励して201世帯の折伏を記録し、「2月闘争」という言葉を残した、と自らいう(池田『人間革命』5)が、このとき池田は同支部の一幹事に過ぎず、それも一月に就いたばかりであり、これはとりもなおさず支部長・小泉隆の功績を奪うものである。
      


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  • from: 22世紀さん

    2011年07月10日 10時41分04秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田大作「権力者」の構造投稿者:管理人投稿日:2011年7月10日(日)10時36分42秒通報返信・引用第5章池田大作の独裁体制へ約束されていた成功生

    池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 7月10日(日)10時36分42秒   通報 返信・引用
    第5章

     池田大作の独裁体制へ

     約束されていた成功

     生前、戸田は北海道に向かう飛行機の中で、「お前たちの孫の孫の代までの構想は教えてゆくからな」と、言ったという。戸田はそれを教えずに死んだのだろうが、会長についた池田としては、創価学会の構想をことあらためて教わるまでもなかった。池田は戸田が敷設したレールの上を、それまでの惰力を減殺することなく、走ればよかった。戸田亡き後の創価学会の成功は、池田の能力に大きく負うとしても、その成功は基本的には、最初から約束されていた。
     創価学会の政治進出や出版活動、寺院や会館の建設、文化面への進出など、すべての事業活動を可能にする根本は、多数の会員と、やむことのないその増加である。会員の増加が金を集め、販路を開き、人材を供給し、それらを通して、また会員を増加させる。会員が順調に増大しているかぎり、池田の企みはすべて成功し、その会長としての手腕は疑われようがない。
     会員の増加はすべてを可能にするが、重要なことは、それが創価学会の教義に内在化している点である。その意味では、創価学会の一定の成功は、なにも池田の優れた才幹にまつまでもなかった。
     創価学会員の信仰生活にふつう課されたのは、勤行と折伏、『聖教新聞』と『大百蓮華』の購読、座談会や講義への出席、大石寺への登山などだが、そのうち最重要視される任務は折伏であり、折伏が創価学会の自己増殖のメカニズムである。
    「今末法においては、日蓮大聖人の仏法たる三大秘法の御本尊を信じたてまつって、題目を唱え折伏行にいそしんでこそ絶対的な幸福境涯を会得し、成仏ができるのである。・・・・・自己の幸福のみを願って信心をしていけばよいというのは、真の仏弟子ではない。また、謗法の者を見ておいて折伏をしなければ、仏法中怨として無間地獄に落ちるのである。・・・・・
     折伏行に邁進するならば、不幸な人々を救う歓喜はもちろんのこと、折伏によって自己の生命力も強められ、永遠に崩れない歓喜にあふれた幸福境涯を建設することが出来るのである。しかも順縁広布の機は熟し、さらにわれわれは勇気をもって折伏に励むべきである。
     これこそが末法の信心であり、折伏なのである」(創価学会教学部遍『折伏教典』)
     いうまでもなく折伏とは会員の獲得、非信者の創価学会員化にほかならず、それは、怠れば無間地獄に落ちるとの威迫によって、ネズミ講と同じ仕組みである。会員は次々と被害者――折伏の責任を負わされるという被害者を作らねばならず、被害者さえ作れば、本人は被害者でなくなる以上に、「生命力も強められ、幸福境涯を建設すること」ができる。だが、ネズミ講では被害者二人を作れば事たりるが、創価学会はそれだけでは満足しない。
     このような折伏をもってすれば、創価学会の急伸も理の当然であり、それは会長の能力、資質、構想のいかんに左右されない原構造であった。
     さらに会員増を支えたものに、創価学会員になることの容易さがある。本尊を幸福製造機とあからさまにいうことに象徴される現世利益の賛美、奨励は、現在の主流の生活信条ともいうべき拝金主義、快楽主義の促進であり、会員はなんら自己変革を要求されることがないばかりか、それまでのためらいながらの欲望、利己心を、野放図に解放することができた。
     そこにあるのは出世主義や体制内での遊泳術、二十日鼠の勤勉主義、個人の損か得か、他人の蹴落としだけであり、社会という視点はまったく欠落する。
    「資本家というのは、働らけば働くほど自分の利益になります。労働者は、やはり時間だけ働いて、あとは帰ったほうが得で、おそくまで働いても、直接的には自分には利益はないと、いちおう、こういう立て分けができるのです。しかし、私どもは、いっさい働いたことが、ぜんぶ自分の功徳になるのだと決心するのです。また、事実そうなるのです。それが一念随喜なのです。われわれは資本家と労働者のどちらに味方するわけでもなく、両方ともひっくるめた立場でありますけれども、例として、資本家的な気持ちで、すなわち自分が働いたものが、ぜんぶ自分のためになるのだという信心でなくては損なのです」(池田『池田会長講演集』十一)
     これは労働の論理でなく、仕える論理であり、現代では失望と落胆、うまくいって抜け駆けとスト破りしか結果しないが、個人の利益に密着しているなりに理解しやすく、革新陣営の運動員になることに較べ、創価学会員になることを易しくしていた。
     会員の増加は池田の功績となり、池田体制の安泰を保ち、年と共にその権力をより強固にした。そしてさらに創価学会流の教義解釈が、その池田の地位を超絶性の高みにまで押し上げていた。
     その教義解釈とは仏教説話中の覚徳比丘と有徳王の話のあてはめであり、梗概は、――
     釈迦出現前に、正法を説く覚徳比丘という僧がいたが、邪法の僧に迫害された。時の国王・有徳はこれを聞いて駈けつけ、満身創痍となりながらも覚徳比丘を守った。この功により有徳王は阿閦仏の国に生まれかわって仏の第一の弟子、覚徳比丘は第二の弟子となった。両者の地位が逆転したわけで、のちの有徳王が釈迦、覚徳比丘が迦葉仏になった。
     ――というものである。
     池田はこの説話を自ら、創価学会会長と日蓮正宗法主の関係にあてはめた。
    「『正法を説ける覚徳比丘あり、その比丘を守る有徳王あり、この有徳王は邪宗教と戦闘して、全身に芥子ばかりも残らぬほどの傷を受け、最後まで戦いきった」という経文があります。いま創価学会の私どもは、日夜、朝な夕な、不幸の人々を救おうと折伏に励み、また教学に、座談会に、支部結成に、総本山を、日達猊下をお守り申し上げているその精神、その姿、その方程式こそ、有徳王の精神であり、姿であると私は信ずるのであります」(『聖教新聞』昭和36年5月6日)
     池田の話は一気にまくしたてた感じで、文の接続がおかしいが、これを整理していうなら、「覚徳比丘とは、末法今時よりこれを読めば日蓮大聖人の教えを堅く守るものであり、お山の代々の法主上人である。これを守る有徳王とは創価学会会長の立場である」(東京大学法華経研究会『日蓮正宗創価学会』)と、いうことになる。






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  • from: 21世紀さん

    2011年07月02日 13時36分43秒

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    【日達上人講述・略解日興遺誡置文】

    日達上人・序】宗祖日蓮大聖人滅後七百年、その門下は既に大聖人の仏法の正鵠を失ない、乱雑なる信仰と分派を形成している中に、独り我が日蓮正宗は大聖人の化法

    日達上人・序】

    宗祖日蓮大聖人滅後七百年、その門下は既に大聖人の仏法の正鵠を失ない、
    乱雑なる信仰と分派を形成している中に、独り我が日蓮正宗は大聖人の化法に於て化儀に於て、一糸の乱れもなく厳然として、そのまま正法を今日まで伝持して居ることは、実に二祖日興上人が大聖人に随身給仕して知らず知らずに大聖人の化儀を体得し、なお且つ大聖人の内証の御法門の付嘱を受け、それを厳格に師伝して金口嫡々に歴代の法主が相承して来た為めである。
    日興上人は大聖人滅後七年にして、自ら別当たるべき身延山久遠寺を捨てざるを得なかった。
    その御心中は只だ大聖人の仏法を如何に正しく清く広宣流布の暁まで伝持するかにあったと推察申すのである。
    そして富士に移られ大石の寺を建立し戒壇の大本尊を深く蔵して、広宣流布の時、富士戒壇の根拠とせられたのである。
    そのことは宗祖大聖人の御本意であって、身延の御入山は大聖人の御本意ではない。「日本無雙の名山富士山に隠籠せんと欲すと雄も、檀那の請に依って今此の山に籠居す」云云(法華本門宗要抄)と仰せられている。
    ことに「本門寺の戒壇の勅を申し請うて戒壇を建んと欲せば、すべからく富士山に築くべし」云云と同じ以下に仰せられているから、常時に大聖人の御心のまま働かれた、日興上人であるから、上人は身延を捨てて富士に戒壇建立をはげまれたことが伺われるのである。
    その後、日興上人は大石寺に九年在住せられて、永仁六年、北山に御影堂を移され此処に三十六年在住せられたのである。
    日興上人は、大石寺を戒壇の本拠としてそこに大本尊を安置し、弟子日目上人を置かれて之れを守護せしめ、自らは北山に更に檀林(学校)を設置して万年救護の為に弟子の教育に当られたのである。
    さしも御壮健なる日興上人も晩年に及んだので、後々の為に元徳二年正月に犬石寺の番帳を定められ正慶元年に日目上人に大本尊を相伝し大石寺を管領せしめた。更に正慶二年一月十三日弟子等の為に遺戒置文二十六箇条を書き遺され、二月七日安祥として御入滅せられたのである。
    此の嚢の二十六箇条によって大聖人御入滅より二祖日興上人御入滅に到る五十一年の間に大聖人門下の他の人々が如何に大聖人の仏法を破り、化儀を乱したかを知ることが出来ると同時に日興上人は如何に厳格に之れを守って後世に伝えられたかを知ることが出来るのである。
    此の遺戒置文の御真書は北山本門寺に有ったことはたしかであるが今は現存せず、我が本山には日時上人の写本、日亨上人所蔵の天文五年八月保田の日我の写本、天文年中の日辰の写本等が現存している。
    今、遺戒置文を披見するのに、先ず最初に二十六箇条を定めた因縁を書かれ而して二十六箇条を条書きにしている。

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    from: 21世紀さん

    2011年07月09日 12時18分49秒

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    「Re:【日達上人講述・略解日興遺誡置文】」[25]一、先師の如く予が化儀も聖僧たるべし、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の妖犯有りと難も衆徒

    from: 21世紀さん

    2011年07月08日 22時51分42秒

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    「Re:【日達上人講述・略解日興遺誡置文】」[23]一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す、但し出仕の時節は帯すべからざるか、若し其れ大衆等に於ては

  • from: 22世紀さん

    2011年07月08日 23時53分33秒

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    池田大作「権力者」の構造

    池田大作「権力者」の構造投稿者:管理人投稿日:2011年7月8日(金)23時52分6秒通報返信・引用参謀室長、情報部最高顧問・池田大作『聖教新聞』昭和

    池田大作「権力者」の構造 投稿者:管理人 投稿日:2011年 7月 8日(金)23時52分6秒   通報 返信・引用
    参謀室長、情報部最高顧問・池田大作

     『聖教新聞』昭和29年元日号の名刺広告に、池田は男子部第一部隊長、教育参謀、文京支部長代理、教学部助教授、学会秘書という五つの肩書を付している。これら多数の役職の兼務は池田にかぎらず、創価学会幹部の通例であり、それは多忙と、各部門の人員交錯により、分派の画策の防止をはかる戸田の人事管理術であった。
     この年から本部での個人面接は、各支部長と支部長待遇、地区部長が交替であたることになったが、池田は毎月第二週の木曜に担当することになった。
     同月、聖教新聞に社友、通信員制度がしかれ、池田も11名の社友の一人として、随時、同紙に執筆することに決まった。聖教新聞は石田の、かけがえのない存在意義を証するといった意味での牙城だったが、池田も同紙にかなりの影響力を行使することができたのである。
     3月30日、青年部は一支部に一部隊が設けられ、男女各15部隊に再編成された。これにより、青年部は戸田直属の親衛隊であるとともに、支部の折伏活動の機動力となることをも期待された。またそれまでの参謀部は新設の参謀室に解消され、池田は第一部隊長を解任されて参謀室長に、北条浩は主任参謀に、森田一哉、竜年光、山浦千鶴子、石田栄子、北条弘子、樋口トシ子は参謀に、それぞれ任命された。池田は旧男女部隊長の上に立ったことで、石田をのぞく有力な若手幹部のほとんどを自陣に引き入れる機会を持ったと見られる。
     この参謀室の性格は、池田の就任挨拶によれば、
    「参謀室の任務はあくまでも広宣流布成就の青年部の立法機関であり、15部隊は行政機関である、又参謀室は大本営であり、各部隊長は武将であり将軍である。新しき闘争は民衆を相手とするものであり広宣流布途上に起る大衆性の問題政治経済等あらゆる一切の源泉の命令は青年部より発せられる。その命令をば男子部直結に行動成就していく」(『聖教新聞』昭和29年4月11日)
     という青年部の中枢機関であって、参謀部が男子部長の下にあったのとは異なり、青年部直属に図示されている。
     同日、本部に情報部が設置され、部長に山浦千鶴子、同部の最高顧問に池田が任じられた。







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