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from: 22世紀さん
2010/11/08 20:57:04
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池田大作「権力者」の構造
人事は原則として能力と実績だけで考課された。
ふつう新興宗教では、選挙によらない非民主主義的な形態にもかかわらず、他教団との競争や分派発生防止のため、実力第一主義の人事が行われ、一般の社会のような学歴、顔、買収、追従などは通用しないとされる(高木宏夫『日本の新興宗教』)が、戸田の人事も、たとえば元子爵夫人・北条ツネ子に教学部の名誉教授を授け、その血族・北条浩の早い登用など、元華族の偏重を除けば、大約その例外ではなかった。
池田の置かれた地位は、その当否はともかく、彼にとっては大いに満足すべきものであった。彼は最初から幹部候補生としてノミネートされていた。
戸田の就任前には、池田は、一日の大部分の時間と精力とを大蔵商事の信用の確保と、新しい営業分野の開拓に費やし、「彼ひとり人知れぬ分野で孤軍奮闘し」(池田、前掲書)なければならなかったため、その会活動は皆無に等しく、「池田は〝退転〟したのではないか」と噂されるほどだったが、彼が日本正学館や東京建設信用組合の困難な業務に見せた努力は、戸田の心証をよくし、会活動にかわる経歴と考えられていた。
そのころ池田は前に述べたように、蒲田支部の大森地区委員だったが、当時の戸田の池田評価は、「竜年光君、池田大作君・・・・・等は共に熱血をたぎらせて広宣流布の闘志として養成され邪宗折伏においての獅子吼は相手に一撃を加えずにはおかない」という聖教新聞(昭和26年5月1日)評とほぼ同一と見られ、池田は同支部幹部の竜年光の一ランク下ぐらいに位置つ゛けられていた。
会員がまだ少なく、聖教新聞も同人連絡紙のおもかげを漂わす時代に零細企業で苦楽をともにしたという戸田へのコネを持つ池田は、きわめて有利な場所にいたといえよう。彼には、戸田の会長就任後一ヵ月で、さらにもう一つの有利さが加わった。
6月、池田の勤める大蔵商事は新宿から市ヶ谷駅前の市ヶ谷ビルに移転した。戸田は翌年4月、同ビルの一室に創価学会の分室を設けたが、分室と称して差し支えないほどに西神田の創価学会本部と近く、池田の会活動には便利となった。
また大蔵商事の社業好転も池田の活躍を助けてあまりあるものがあった。-
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