サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
from: 21世紀さん
2011/05/14 19:12:45
icon
会則変更
新興宗教「創価学会」「会則」改変の欺瞞を糾す-----------------------------------------------------
新興宗教「創価学会」「会則」改変の欺瞞を糾す
--------------------------------------------------------------------------------
(日蓮正宗 宗務院 教学部<宗門>WS抜粋)
第3章 創価学会「会則」「規則」条文の変更
第1節 本尊に関する語句の削除・すり替えについて
現行の宗教法人法においては、宗教法人設立の要件として、「教義」「儀式行事」「信徒」「礼拝施設」の4つを規定しているが(法2条1号)、その4つを統括するものが本尊である。それは本尊なくしては教義は無論のこと、儀式行事や信徒の活動、礼拝施設の意義が成り立たないからである。
今回の「会則」および「規則」の改変で、創価学会は本尊に冠せられる語句を削除し、あるいは新たな語句にすり替えているので、その意図を明らかにして破折を加えるものである。
************************************************************
第1項 「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊を根本」(旧会則第3条)「本門戒壇の大御本尊を本尊とし」(旧規則第3条)との条文を削除したことに対する破折
------------------------------------------------------------
1.「弘安2年10月12日」の削除について
現在、日蓮大聖人御真筆の漫荼羅本尊は、130数幅を数えるが、日蓮大聖人の仏法の根本法体が「弘安2年10月12日」の本門戒壇の大御本尊に限られることは、宗祖以来の伝統法義に照らして明らかである。
その文証として、第2祖日興上人御自筆の相伝書『日興跡条々事』
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」(新編1883頁)
第26世日寛上人『観心本尊抄文段』
「弘安2年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり」(御書文段197頁)
などの御文が挙げられる。
それ故に、日蓮正宗においては『日蓮正宗宗制』第3条に、
「この法人は、宗祖日蓮立教開宗の本義たる弘安2年の戒壇の本尊を信仰の主体とし」
と定め、『日蓮正宗宗規』第2条には、
「本宗の伝統は(中略)弘安2年本門戒壇の本尊を建立して宗体を確立し」
と明確に謳っているのである。
かつて創価学会も、
「日蓮大聖人のご本懐は一閻浮提総与の弘安2年10月12日の御本尊にあること間違いなく(中略)これは世界唯一の本尊であり、日蓮正宗は最高にして唯一の宗教である」(折伏経典 218頁)
と言い、池田自身も、
「三大秘法総在の御本尊こそ、弘安2年10月12日ご図顕の本門戒壇の大御本尊である」(観心本尊抄の池田会長講義 25頁)
と指導していた。
しかるに今回、学会は従来の「弘安2年10月12日」の文言を削除した。
これは日蓮大聖人出世の本懐である本門戒壇の大御本尊を明確に指標する「弘安2年10月12日」の文言を隠蔽することによって、会員を誑かそうとする思惑以外のなにものでもない。
2.「本門戒壇」の削除について
「本門戒壇」とは、法華経本門の仏法、すなわち、末法出現の法華経の行者、日蓮大聖人が説き明かされた仏法の法体を安置し、一切衆生成仏の依処となるべき堂宇をいう。
「戒壇」に関して、日蓮大聖人は『三大秘法抄』に、
「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(新編1595頁)
と教示され、『一期弘法付嘱書』には、
「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同1675頁)
と明確にその場所を特定されている。これについて第26世日寛上人は、
「然るに三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り」(六巻抄64頁)
「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(同 68頁)
と教示され、「本門戒壇の大御本尊」まします富士山こそ、戒壇建立の聖地であると仰せられている。
この富士山とは第2祖日興上人以来の歴史的経緯からみても、日蓮正宗総本山大石寺をおいて他にないことは明々白々である。
創価学会は、この尊い日蓮大聖人および日寛上人の御教示に背き、会員に対して本門戒壇の大御本尊への渇仰恋慕の心を喪失せしめ、大石寺を覆い隠すために、「会則」「規則」から「本門戒壇」の文字を削除したのである。
************************************************************
第2項「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」(新会則第2条・新規則第3条)とすり替えたことへの破折
------------------------------------------------------------
今回、創価学会は、「本門戒壇の大御本尊」との表現を「一閻浮提総与」「三大秘法」にすり替えた。その邪悪な意図を明らかにし、破折を加える。
1.「一閻浮提総与」とのすり替えについて
「一閻浮提総与」とは「全世界の人々に等しく与えられたもの」との意味であり、御本尊に冠した場合は「全世界のすべての人々が信受すべき御本尊」という意味である。
しかるに創価学会は、この「一閻浮提総与」を、単にすべての衆生すなわち創価学会員をはじめとする人々に与えられたものと解釈している。
日蓮大聖人は、
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(新編662頁)
と御教示され、この御文を日寛上人は、
「久遠元初の自受用身、大慈悲を起こして妙法五字の本尊に自受用身即一念三千の相貌を図顕し、末代幼稚の頸に懸けさしむ等となり」(御書文段285頁)
と解釈されている。日蓮大聖人は、一念三千を知らざる煩悩具縛の一切衆生の成仏と救済のために、大慈悲を起こし、本門戒壇の大御本尊を御図顕されたのである。
この大御本尊は、『一期弘法付嘱書』に、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」(新編1675頁)
と仰せられるように、日蓮大聖人から日興上人ただお一人に付嘱され、以来、御当代日顕上人に至るまで、唯授一人の血脈相承によって、厳然と富士大石寺に伝えられているのである。
また御当代日顕上人は「一閻浮提総与」の意義について、
「戒壇の御本尊様についても、大聖人様御所有の上からの名称でなければならない。それは、大聖人様が一切衆生総与という意味において、日興上人へ相伝あそばされているわけなのです。その場合は能化、すなわち、仏につく言葉であります(中略)能化の仏様のお心の上から『一閻浮提総与』と申し上げるべきであり」(創価学会の偽造本尊義を破す 136頁)
と仰せられ、本門戒壇の大御本尊に冠せられる「一閻浮提総与」とは、能化の御仏意に基づく言葉であり、その真義は法主への血脈相伝によって一切衆生に授与される御本尊なる旨の御指南をされている。
これはまた「一閻浮提総与」の深義を、不相伝の輩が迷妄の我見をもって軽々に解釈すべきものではないとの御指南でもある。
これらの御教示と御指南を拝するならば、学会が、いかに仏法の本義に背逆しているかが分かるであろう。
今回の文言のすり替えは、血脈相伝による授与の意義を否定せんとする、学会の慢心と邪悪な意図のもとに行われたのである。
なお付言するならば、「一閻浮提総与」は、日蓮大聖人の御書には勿論のこと、第2祖日興上人および日寛上人の御教示にも使用されていない言葉である。この言葉は、総本山第59世日亨上人が『大日蓮』に、
「近年荒木翁が戒壇本尊は未来の満天下の一切衆生に授与せられたものであるから総与の御本尊と云ふべきと主張した」(大日蓮 大正12年1月号 14頁)
と紹介されているように、近代の在家信徒が言い始めたものである。「御書根本」をさかんに振り回す学会が、何ゆえ『二箇相承』にある「本門戒壇」の文言を削り、あえて御書にない言葉を用いるのか。これも学会の大いなる矛盾であると指摘しておく。
2.「三大秘法」とのすり替えについて
「三大秘法」とは、日蓮大聖人の仏法の根幹をなす法義であり、その中心となる法体は、本門戒壇の大御本尊にましますことはいうまでもない。
しかるに不相伝の日蓮宗各派においては「三大秘法」を口にしながら、宗祖大聖人の御意とは遠く離れたまったくの邪義珍説を吐いている。
その一例を挙げると、『日蓮宗読本』には、
「本門の本尊は美術的要素、本門の題目は音楽的要求、本門の戒壇は造形的要素」(日蓮宗読本 150頁・要旨)
などと解説していることからも分かる。
今回、学会が「本門戒壇」との明確に大御本尊を指し示す文言を、他門日蓮宗でも口にする「三大秘法」にすり替えたことは、本門戒壇の大御本尊を覆い隠し、その意義を薄めようとする意図によるのである。
第2節 教義・信仰について
今回、創価学会は宗教団体の生命線ともいうべき教義および信仰についても、基本的な部分の改変を行っている。
以下、4点を挙げてその目論見を破折しておきたい。
第1項 「日蓮正宗の教義に基づき」の削除について
創価学会は従来の、
「この会は、日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」(旧会則第3条・傍線編者)
との条文を、
「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする」(新会則第2条・傍線編者)
と改変し、「日蓮正宗の教義に基づき」の文言を削除した。
これは日蓮正宗の信徒団体として設立された学会が今後、独立した新興教団として異流義の道を進んでいくためには「日蓮正宗の教義に基づき」との規定が足枷となるからである。
かつて池田大作は、
「私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、第2祖日興上人、第3祖日目上人、第4世日道上人、および御歴代上人、そして現在は第67世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。この一貫した仏法の正しき流れを、いささかなりともたがえてはならない」(広布と人生を語る 3―249頁)
と、御歴代上人の血脈相承と、その血脈に基づく日蓮正宗750年の伝統教義を奉ずることが、学会の根本理念であると指導していた。
しかるに今回、日蓮正宗の教義・信仰から離れ、本門戒壇の大御本尊を流布する資格を失った学会が、「日蓮正宗の教義に基づく」の文言を削除したことによって、日蓮大聖人の「正しき流れ」から離反し、濁流に浮かぶ根無し草と化したことは明らかである。
第2項 「日蓮大聖人の御書を根本として」(新会則第4条)の新加について
ここで創価学会のいう「御書根本」とは、正当な血脈相伝によらず、我見によって都合よく御書を用い、解釈することである。
第2祖日興上人は、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して」(新編1884頁)
と、唯授一人血脈相伝の「極理」に基づいて御書を拝するよう誡められている。
第65世日淳上人は、
「古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知って、極理の師伝を知らずこれを忽がせにするもののみを見る、此れが為に我見に堕して救ふべからざるに至る誠に嘆ずべきである」(日淳上人全集 45頁)
と仰せられ、極理の師伝なくして、御書を学ぶことは我見に堕ち、無間地獄の業因であることを御指南されている。
かつて池田大作も、
「日蓮大聖人の御書を拝するにあたっては、あくまでも御法主日顕上人猊下の御説法を中心として、よくよく拝していかなければならない」(広布と人生を語る 1―118頁)
と述べていた。
学会が、新「会則」で「日蓮正宗の教義に基づき」を削除して、「日蓮大聖人の御書を根本として」と謳った意図は、宗祖大聖人以来の血脈相伝の法義を否定して、御書を悪用する池田の指導を根本とすることにほかならない。まさしく学会は、御本仏の教えを離れ、不相伝の魔族の集団と化したのである。
なお付言するならば、今回学会が「根本」とすべき対象を、従来の「御本尊」から「御書」に変更したことも、宗教法人「創価学会」の存立基盤に関わる「根本」的な改変である。
第3項 「会員は日蓮正宗の教義を遵守し、三宝を敬い」(旧会則第62条)の削除について
この条文の削除は、創価学会の基本理念であった日蓮正宗教義の遵守と仏法僧への尊信恭敬を放棄したことを示している。
ここで学会が意図するところは、日蓮正宗の三宝、特に僧宝たる御歴代上人を除外して、会員の御歴代上人への尊敬の念を喪失せしめるところにある。
日蓮大聖人の仏法において、歴代法主上人を僧宝と立てることは自明の理である。
それは、
「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典379頁)
「南無仏・南無法・南無僧とは(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師」(六巻抄225頁)
「日興上人已下代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝なり、外用に順ずれば則ち僧宝なり」(日因上人御消息 金沢妙喜寺蔵)
等の御指南によっても明らかである。すなわち、歴代法主上人は、その御内証に宗祖大聖人以来の血脈を紹継され、三宝一体の御境界にまします僧宝なのである。
かつて池田自身も、
「あくまでも師匠は日蓮大聖人様即御本尊様です。それから『遣使還告』であそばされる代々の御法主上人猊下です。われわれはぜんぶその弟子です」(池田大作 巻頭言・講義集 3―113頁)
「『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる」(聖教新聞 昭和53年2月26日付)
と述べていた。
今回、学会が「三宝を敬う」ことを削除した真意は、日蓮正宗の三宝を会員の意識から抹殺し、かわって池田大作の絶対化・神格化を目指すところにあるというべきである。それについては本書64頁で述べる。
第4項 「創価学会は、日蓮大聖人の仏法を広宣流布することを使命とする仏意仏勅の教団」(新会則前文)の新加について
この条文には、創価学会が大聖人の御意のままに妙法を全世界に弘めてきた、という思い上がった底意がある。
日寛上人は『文底秘沈抄』に、
「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(六巻抄68頁)
と仰せられている。この御教示は、全世界の人々が総本山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を信受することこそ広宣流布であるとの御意である。
第66世日達上人は、
「日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(大日蓮 昭和49年8月号 20頁)
と、学会の逸脱を厳しく誡められた。
まさしく日蓮大聖人の仏法を広宣流布する使命は、正統血脈に連なる日蓮正宗僧俗にのみ存するのであり、流布すべき御本尊を持たない学会が「日蓮大聖人の仏法を広宣流布する」ことなどあり得ないのである。
したがって、宗祖以来の血脈法水の正法から脱落退転した輩が「仏意仏勅の教団」であろうはずがない。
from: 21世紀さん
2011/05/16 00:59:04
icon
「Re:会則変更」
学会ついに一宗一派の旗揚げへ!!
--------------------------------------------------------------------------------
(『慧妙』H14.4.16)
<会則変更!池田教への道を固める「宗教的独自性」の闡明と池田絶対化>
創価学会が、ついに『会則』の変更に踏み切った。
新会則は、『聖教』(3月29日付)記事で「学会の宗教的独自性を確認」と述べているように、日蓮正宗の教義・本尊から乖離(かいり)した新興宗教〝池田教〟の基盤作りへ、大きく足を踏み出したもの。
また、会則変更に踏み切った池田大作の本当の狙いは、もう1つ別なところにもある、と本紙は読んでいる。以下、学会の会則変更について分析する。
<池田を「永遠の指導者」と規定 将来的な本尊新造も視野に>
創価学会が新会則を発表・施行したのは、4月1日。それに先だって、3月29日付『聖教新聞』では、その新会則の特徴を
「学会の宗教的独自性を確認」
「大聖人直結の教団であることを明らかに」
「3代会長は永遠の指導者」
「会長の権限を明確に」
「『最高指導会議』の性格、位置づけを見直し」
等と述べている。
これを、新会則の条項に照らし合わせてみたところ、学会・池田大作の驚くべき本音(ホンネ)と意図が浮かび上がってきた。
<学会の独自性>
まず、「学会の宗教的独自性」ということであるが、これは言うまでもなく、〝日蓮正宗に対する独自性〟という意味である。
従来の会則では、第2条に「日蓮正宗の教義に基づき」と明示されており、そのままでは、本紙(本年2月1日号)でも指摘したように、「パラサイト(寄生)教団」の謗(そし)りを免(まぬが)れない。
それゆえ、本紙は、「学会よ、日蓮正宗を誹謗(ひぼう)し、日蓮正宗からの独立を主張するのであれば、(規則・会則を)即刻改正すべし」と迫ってきた。
しかるところ、今般の新会則では、その第2条から「日蓮正宗の教義に基づき」の語が削除された。
これは、学会が日蓮正宗への寄生を解消することを意味しており、教義と法統の系譜(けいふ)に、日蓮正宗とは一線を画した違いを立てるからこそ、そのように言っているのである。
まず、法統の系譜についてであるが、日蓮正宗が、日蓮大聖人より、二祖日興上人以来代々の御法主上人に付嘱(ふぞく)された、唯授一人の血脈相承を根本とするのに対し、学会は、 「(牧口・戸田・池田の)『3代会長』に貫かれる師弟不二の精神と広宣流布実現への死身弘法の実践こそ『学会精神』であり、永遠の規範である」
と、会則冒頭の前文に強調し、さらに、第3条に「『3代会長』は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である」と規定している。
言い換えれば、創価学会には、大聖人以降の順次の正統な法脈というものは繋(つな)がっていない、ということを認め、いきなり初代牧口・2代戸田・3代池田の「3代会長」を「永遠の指導者」に規定してしまった、ということである。
しかも、「永遠の指導者」の中に初代牧口会長・2代戸田会長の名も並べてはいるが、牧口氏も戸田氏も故人であり、現在の学会の中で絶対的な指導者として崇(あが)められているのは、池田大作ただ一人である。しかも、4代以降の会長は、この「永遠の指導者」の中には含まないのだ。
したがって、この条項は、まさに池田大作を「永遠の指導者」として絶対化するものに他ならない。
これを「池田教」と言わずして、何と言えばよいのか。
<本尊>
次に教義についてであるが、新会則では、日蓮大聖人の仏法の根幹である本門戒壇の大御本尊に関して、重大なまやかしを施(ほどこ)している。
つまり、従前の会則では、
「弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」とされていたものが、新会則では、
「一閻浮提(いちえんぶだい)総与・三大秘法の大御本尊を信受し」に変更されているのである(第2条「教義」の項)。
なぜ、学会は、新会則で「弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊」の名を削(けず)ったのか――その理由は2つであろう。
まず第1に、「弘安2年10月12日の」と特定される大御本尊は、日蓮正宗総本山大石寺にのみ御安置されているのであるから、今後、学会が「宗教的独自性」を闡明(せんめい)していく上で、どうしても都合が悪い、ということ。
そして第2に、将来的に、独自の「大御本尊」を造り出すことのできる伏線として、「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」という抽象的な表現を用いた、ということである。つまり、「弘安2年……」と特定しておかなければ、根本となる本尊は、いずれ変更することも可能なのである。
これについては、かつての池田大作の発言を見るかぎり、けっして突拍子(とっぴょうし)もない憶測(おくそく)などではない。
すなわち池田は、
「(※池田に対し)究極に求められるものは何でしょうか、と質問しました。おそらく〝板曼荼羅(いたまんだら)の御本尊〟と答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会長は、久遠元初の法です、と答えられたのです」(平成5年5月3日)
「大聖人は『この御本尊も只信心の二字にをさまれり』と仰せである。『信心の二字』の中にこそ御本尊はまします、と」(平成5年9月7日)
と公言しているのだ。
この池田発言と合わせて考えれば、学会が根本とする「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」とは「久遠元初の法」であり、それを信ずる「信心の二字」の中にある、といえることになる。
さらに新会則では、会長の権限として「本尊に関する事項を司(つかさど)る」という条項があるから、先々、会長が「久遠元初の法を目に見える曼荼羅(まんだら)として池田センセーに顕わしていただくことにしました」とでも発表すれば、池田大作が独自に本尊を顕わすこともできるのである(もちろん、学会の会則上、「できる」のであって、仏法上は断じて許されぬ大謗法である)。
とはいえ、現段階では、多くの学会員の心の中に、いまだ弘安2年の大御本尊に対する愛着が消え失(う)せていないから、そうした状況の中では、学会としても、いきなり「弘安2年10月12日の大御本尊」を否定したり、いきなり新本尊を打ち出す、というようなことはできなかったのであろう。
その苦しさの表われが、この第2条に関する、教学部長斉藤克司の詭弁(きべん)を弄(ろう)した解説である。
斉藤は、「弘安2年10月12日の大御本尊」が「大聖人の出世の本懐」であることを、いちおう述べた後、
「日蓮大聖人は、衆生救済・仏国土成就・広宣流布実現の大願を込めて、出世の本懐の大御本尊を顕わされたのです。この大聖人の心に呼応して、同じく広宣流布の大願を起こし、民衆救済の実践に邁進(まいしん)していく強い信心こそ、『学会の信心』です。大聖人の御生命と一体の御本尊は、広宣流布の戦いを貫き、魔を打ち破っていく強い信心にこそ現れるのです。これが『観心の本尊』ということです。この強き学会の信心こそ、『大御本尊を信受する』ということの意味です」(3月28日・総県長会)
と。
ここでは、いちおう、「弘安2年10月12日の大御本尊」を出世の本懐と認めているが、実際には、学会の信心の中にこそ本尊があるとして、「弘安2年の大御本尊」を信仰礼拝の根本的対象たる意義から遠ざける意図が、すでに見え見えではないか。
しかも、いちおう「弘安2年10月12日の大御本尊」と述べているとはいっても、これは斉藤の発言にすぎず、新会則では、あくまでも「弘安2年10月12日」を削っているのであるから、いずれ「大御本尊」の意義をさらに変通させていくことは確実であろう。
学会はそれを狙って、忍び込むように、徐々に会員の意識改革を計っていくはずだ。
学会が、池田大作の顕わした本尊を拝む日は、そう遠くないかもしれない。
<会長に権限集中の不思議 新会則は「会長交代」への布石か!?>
次に、池田の現在のポストである「名誉会長」についてであるが、新会則では、
「総務会の議決に基づき、名誉会長を置くことができる」
という一文があるだけで、何の権限も与えられていない。
一方、この新会則では、「永遠の指導者」を除けば、ほとんどの権限が「会長」に集中している。
つまり、中央会議・師範会議・参議会等、本部機構の重要機関における任免権や会議招集権は言うに及ばず、第10条には、
「教義および化儀を裁定する」
「御本尊に関する事項を司る」
ことまで、会長の務めとして規定されているのである。
いったい、これはどうしたことか。
推測するに、これが、池田が会則変更に踏み切った、もう1つの狙い――すなわち、会長・秋谷栄之助を勇退させて名誉会長職に就け(池田はすでに「永遠の指導者」に祭り上げられているから問題ない)、新会長を起用する腹づもりなのだろう、と本紙は見る。
その新会長に、いっきに世襲によって池田の長男か三男がなるにせよ、あるいは、わずかな期間のワンポイント・リリーフで、子飼いの誰かがなるにせよ、池田にとって大して問題はない。
何故ならば、いかに「会長」に権限が集中しているといっても、「会長」は全て「最高指導会議」の意見を聞き、これを尊重する」ことになっており、創価学会の方針や行く手を決する重要事には、全て、この「最高指導会議」が隠然と権威を振るう仕組みになっているのである。
では、「最高指導会議」にはどういう人物が選ばれ、誰が任命するのか、といえば、不思議なことに、その規定が全くない。第24条にいきなり、
「最高指導会議は、最高指導会議員若干名をもって構成する」
と記されているのみ。
賢明な読者には、もうおわかりであろう。「最高指導会議」の頂点に位置するのは、「永遠の指導者・池田大作」なのである。あるいは、池田一人をもって、「最高指導会議」と称することもできよう。
池田がこの立場にある以上、会長といえども、池田の意のまま。それゆえ、権限の集中する「会長」職に、世襲実現までのワンポイント・リリーフを起用したとしても、池田万代体制に揺るぎはないのである。
いずれにしても、池田は、今回の会則変更によって、表向きは何の責任も問われない位置で、自らが公然と創価学会を牛耳る立場を確立すると共に、近い将来の会長交代=世襲への道をつけたのである。
最後に、宗旨建立750年の大佳節にあたって、寄生(パラサイト)教団・創価学会が日蓮正宗から離れていってくれることは、正信の僧俗にとっては大きな悦びであるが、池田大作などという、私利私欲の塊(かたまり)のような男に奔弄(ほんろう)され、新興宗教・池田教の旗揚げに付き合わされる学会員には、お気の毒というしかない。今こそ冷静な眼をもって判断せよ、と申し上げたい。
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
閉じる
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
閉じる
icon拍手者リスト