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  • from: 22世紀さん

    2011年06月22日 23時57分55秒

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    池田大作「権力者」の構造

     創価教育学会弾圧事件の真相

     なお、池田はここで戦時中の弾圧が「気になり」、やめることまで考えたと明言しているが、彼はのちにそれを次のように言いかえる。
    「戦後戸田会長に会ったときも、この人は戦争に反対して二年間も、牢に入っていた、この人のいうことならば、わたしは信じてついていってもまちがいはない、と思ったのです」(松本清張との対談、『文藝春秋』昭和43年2月号)
     この池田の追憶談が二つの嘘でなりたっていることは、指摘するまでもあるまい。一つは池田の入信後の思念の偽りである。「やめるなら今のうちがよい」が、「信じてついていってもまちがいはない」と、まるで逆方向に変えられている。これによれば、池田は戸田の反戦の経歴を知って、戸田をただちに師と決めるほどに、確固とした信念を持つ平和主義者だったわけだが、事実を前にすれば、偽造の歴史によってしか己を高くしえない池田の姿がみじめに浮かび上がるばかりである。
     もう一つは一番目の嘘の前提となる、戸田が戦争に反対したという論述である。これが事実と相違することも前に述べたが、創価学会の戦時中の反戦活動という謬説はかなり広く流布されており、またこの池田の対談の嘘を真にうけて、池田論を書き進める論者もかなりあった。
     戸田はすでに故人であって、その多少の誤伝は仕方ないとしても、池田がそれによって自己の辺幅を飾る権利はなに一つないはずである。
     ここで創価学会弾圧の経緯とその性格を今一度確かめてみよう。その結果、戸田が戦争に反対していなかったなら、池田の二つの嘘は二重の嘘となり、妄想と等しいものになろう。
     昭和15(1940)年、政府は前年に成立した宗教団体法と新体制運動により、宗教の統制と戦争目的への動員を進め、その一環として宗教教団の大同団結を強く促し、日蓮正宗に対して日蓮宗との合同を求めた。これに関し、日蓮正宗は会議を催したが、その席で創価教育学会会長・牧口は、他宗派を邪宗として排撃する教義上の立場を厳格に守ることを主張し、合同に強く反対した。      また政府は学校や家庭、職場に神棚を設け、皇大神宮の神札(大麻)を祀って拝むように強制した。これに対しても、狂信的なまでに日蓮正宗の教義を信じていた牧口は、末法では護法の善神は天に在り、伊勢神宮には魔物しか住んでいない、神札の受け入れは謗法の行為になると、拒否した。牧口や戸田を本山に呼びつけ、ともかく神札を受けるように勧めていた日蓮正宗は、創価教育学会のこうした言動に、弾圧の危険を感じ、同会会員の大石寺への参詣を禁止した。
     日蓮正宗の危惧は現実となって現れ、警察も創価教育学会をマークし、昭和17年5月には機関誌『価値創造』の廃刊を指示した。牧口はその廃刊の辞で、『国策にかなうことを信ずるのであるが、廃刊になるのは、不認識の評価によるか」と不満をもらしている。
     牧口は明治人らしく天皇を尊崇する者だったが、信仰上、神札を祀ることだけはできなかった。彼は創価教育学会が昭和17年12月31日に発行した『大善生活実証録』(第五回総会報告)の中で、こう述べている。
    「吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖している。しかし解釈が異るのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よくぞ国家の為に働いて下さった、有難うございます』といふお礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与へ下さいといふ祈願ではない。(略)天照大神に対し奉っても同様で、心から感謝し奉るのである。独り天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝し奉ってゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる、今上陛下に凝集されてゐるのである。(略)吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。天照大神のお礼をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考へ奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確信するのである」
     牧口は詭弁によって神礼を拒否しようとしたが、当局は牧口の論理にだまされなかった。昭和18年1月ころから、当局の圧力はさらに加わり、同会の座談会に特高の刑事が現れ、しばしば集会を禁止した。
     同年4月、日蓮正宗は結局、合併せずにすんだが、戦争の進展にともない、ヒステリックな様相を強めていた官憲側は、創価教育学会をそのままではすまさなかった。
     6月、同会会員の陣野忠夫は近所の人を折伏しようとして、その人の子供が死んだのを罰だと決めつけた。怒ったその人が警察に訴えたので、警察は陣野らを捕え、はげしく取り調べて同会の罪状をつくりあげた。
     戸田は当局の弾圧が身辺に及ぶのを恐れ、6月25日、創価教育学会各理事、各支部長に宛て、理事長・戸田城外(城外は戸田のそのころの名)名で「通諜」を発する。
    「時局下、決戦体制の秋、創価教育学会に於いては益々尽忠報国の念を強め、会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦い抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
    一、毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、皇祖天照大神、皇祖神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。
    一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
    一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
    一、創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
    一、皇大神宮の御礼は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱  ひなき様充分注意すること」
     弾圧逃れのためのアリバイつ゛くりが、この「通諜」の目的だったが、いずれにしろ、創価教育学会が戦争に反対したのでも、軍部に反対したのでもなかったことは、これにより明らかである。
      戸田の作戦は成功しなかった。警察は陣野逮捕を突破口に、芋つ゛る式に上層部へと検挙の手を伸ばした。
     7月6日、牧口、戸田、矢島らが捕えられ、また、その前後に他の会員も逮捕された。8月25日、牧口は巣鴨拘置所に移され、11月20日、治安維持法違反と神社に対する不敬罪で、その予審請求を東京地裁に出された。
     その祈りの検察調書は牧口の罪状に関し、次のように結論している。
    「謗法の罪をまぬがれんが為には、皇大神宮の大麻を始め、家庭に奉祀する一切の神府を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに至らしめ、以て神宮の尊厳を冒涜し奉る所為をなしたる等、諸般の活動をなし、以て神宮の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に従事したるとともに神宮に対して不敬の行為をなしたるものなり」
     これだけが、治安維持法第七条「国体を否定し又は神宮若しくは皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的として結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は無期又は4年以上の懲役に処し」、および神社に対する不敬罪に相当する行為だったのである(池田論『牧口常三郎』、村上重良『創価学会=公明党』、および日隈、前掲書による)。
     戸田の罪状が牧口に準ずること、もちろんである。
     以上によって明らかなように牧口、戸田は侵略戦争に反対したのではない。彼らは戦後にも行われた邪教排撃の教義により、神礼を受けず、また燃やしたにすぎず、せいぜい戦争に勝つために、神道を奉じている政府の誤りを諫めるという立場を固執したに過ぎなかった。
     戦争に反対し、日本の前途を憂えた宗教者は別にいた。神戸地裁、控訴院、大審院と公判闘争を続けた法華宗の刈谷日淳、敗戦直前拷問死したその老信者・原真平、侵略戦争だとして陸軍刑法違反で起訴された真宗大谷派の一住職など。また教義面からの弾圧をうけた教団教派はさらに多く、ホーリネス系と無教会系のキリスト教などの他、日蓮正宗の講においても、藤本秀之助の弾正会が弾圧され、藤本は獄死している。
      牧口の創価教育学会は、戦争に反対しなかったばかりか、その批判も教義面からにのみとどめられていた。
     なお論証をすすめるなら、たとえば、牧口は獄中で、一人だけ残った息子の洋三の戦死を知らされたが、その嫁に、彼の絶筆となった次の返事をしたためている。
    「・・・・・ビックリシタヨ。ガッカリモシタヨ。・・・・・病死ニアラズ、君国ノタメノ戦死ダケ(ダカラ)名誉トアキラメルコト。唯ダ冥福ヲ祈ル、信仰ガ一バン大切デスヨ。百年前、及ビ其後ノ学者共ガ、望ンデ手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居ル。コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文ノ通リデス」(佐木秋夫、小口偉一『創価学会』)
     君国のための戦死、名誉といった語に反戦の思想はなんらうかがえまい。もっとも獄中の身で当然検閲が考慮されていただろうが、まるきりの擬装とみるには後半の文章が生々しすぎていないだろうか。
     また創価教育学会設立の当時を知るあるジャーナリストは、入獄前の牧口の講話をこう報告している。
    「当時は太平洋戦争の初期で日本軍は南に北に連戦連勝(?)であった。
     牧口会長の講話は、いつもこの点に触れ蒙古襲来のときの日蓮を引き合いに出して、日本の戦勝は、みな御本尊の正統を受け継ぐ日蓮正宗の信仰の力によるものであり、日本は、やがて全世界を統一し、『王仏冥合』によって、日蓮正宗こそが世界のすべての中心となり、世界人類の救済者となる――というのが、要するに、その結論であった」(『赤旗』昭和45年2月19日)
     さらに戸田自身、当時を回顧して次のように語っている。
    「戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今持っている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた」(小口偉一『宗教と信仰の心理学』)
     勝ちたいとの願望は、決して戦争反対や絶対平和主義と相いれるものではあるまい。
     また池田自身でさえ、昭和32年時においては、「胸を打った」とかなり美化しているものの、それでも、戸田が軍部を攻撃した――明らかに言い過ぎだが――というのみで、戦争に反対したとはいわなかった。
    「私の胸を打ったのは、創価(教育)学会が、あの戦時中に真っ向から軍部と対抗して、天照大神では日本の国は救えないと、日蓮大聖人の仏法立正安国論、顕仏未来記の予言。諫暁八幡抄の哲理をもって、軍部を攻撃したあげく、初代の牧口会長先生、現会長先生始め二十何名の人々が牢獄へ行ったんです」(池田「私の初信当時」、『聖教新聞』昭和32年10月18日)
     池田による「戦争反対」の嘘は、入信神話と同様、彼の利益のための嘘であったが、また一面ではそれとは異なり、会内部向けではなく、対外的な社会的正当性を得たいと願うあまりの嘘でもあった。





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