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  • from: 21世紀さん

    2011年06月26日 19時34分19秒

    icon

    牧口常三郎の実像

    牧口常三郎関連年表

    --------------------------------------------------------------------------------

    <明治36年> 『人生地理学』を発刊
    ●同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
    -----------------------
    しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。


    <大正1年>
    ●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
    -----------------------
    この国家観は入信後も変わらなかったようである。


    <大正3年頃> 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(<芳野朝廷研究会>WS)
    [画像]:大日本皇道立教会のメンバー


    <大正5年> 『地理教授の方法及内容の研究』を著す
    ●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)


    <昭和3年>
    ・6月 東京・常在寺所属の信徒で直達講講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信

    ・秋 後の戸田城聖2代会長も、三谷氏の折伏で入信(『慧妙』H18.3.1)
    ●(牧口氏入信の動機について)貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう(柳田国男著『牧口君入信の動機』/『慧妙』H18.3.1)


    <昭和5年>
    ・11月 「創価教育学会」の名で『創価教育学大系』第1巻を発刊(この日が後に"学会創立の日"とコジツケられた)


    <昭和6年>
    ●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

    ・3月 『創価教育学大系』第2巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表
    ◆百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです(牧口常三郎『獄中書簡』/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
     すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘(ひろ)めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕(あら)わしたのだから、三障四魔が紛然と競(きそ)い起こるのは当然、というのです。
     これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全くの本末顛倒(ほんまつてんとう)という他ありません。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度(さいど)の教であることになりますから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師"であるということになってしまいます(事実、かの52年路線の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となりました)。
     結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪(ゆが)め、それが後の創価学会異流義化の温床になった、といえるでありましょう。(『慧妙』H18.3.1)


     さて、こうした異質な思想をもつ牧口氏は、氏の教化親(きょうけおや)であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相(あい)容(い)れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなります。
     これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂(たもと)を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮(※住職は堀米泰栄尊師=後の第65世日淳上人)を事実上の所属寺院とするようになりました。(『慧妙』H18.3.1)


    <昭和12年>
    ・夏 創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)

     昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗しはじめたのです。
     それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧(きぐ)を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれています(当時の僧侶、信徒の証言)。
     実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係険悪化を裏付けています。
     この時の牧口氏は、よほど日淳上人に反発を覚えたのでしょう、会員達を使って、上人に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊し上げまで行なったのです。その事実は、当時の会員の証言や、覚え書きによって伝えられるところです。

    ●牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、「もう貴僧の指導は受けない」と、席を蹴(け)って退去(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
    こうして、上人との関係が険悪化したことから、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱(しか)りつけました。(『慧妙』H18.3.1)

    ●本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
    牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われます。とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨(むね)とする宗であります。そのような不遜(ふそん)な牧口一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思(おぼ)し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう、手配なされたのでした。(『慧妙』H18.3.1)


    <昭和16年>
    ・11月
    ●北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)


    <昭和17年>
    ・1月
    ●警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

    ・5月 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

    ・5月17日 創価教育学会第4回総会

    ・11月 創価教育学会第5回総会


    <昭和18年>
    ・4月 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

    ・5月
    ●牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

    ・6月
    ●東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

    ・6月初旬 本山での神札指導
    ●学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

    ・7月6日 牧口、逮捕
    ●牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)


    <昭和19年>
    ・9月6日
    ●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
    牧口会長による日淳上人誹謗を懺悔


    <昭和20年>
    ・7月5日
    ●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)

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from: 21世紀さん

2011年07月26日 07時17分57秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
【「和泉ミヨさんの手帳」】
 創価学会員は今頃(H17)になって「和泉ミヨさんの手帳」なるものをインターネットの掲示板上で出してきた。「和泉手帳は、牧口先生の逮捕等、学会の歴史を伝える1級資料となっている」そうだが、それにしては戦時下の学会弾圧の様子を伝える『富士宗学要集』第9巻にも、『牧口常三郎全集』第10巻にも出ていない。さらに宗門誹謗で悪名高い『地涌』にも出ていないようである。まことに眉唾モノの「1級資料」ではある。
 しかしここでは、「和泉手帳」の信憑性(真偽問題)は保留し、仮にその内容が真実であると仮定して学会側の「通諜」批判を論破することにする。


************************************************************
 ところが、牧口会長らが登山し、神札甘受を言い渡されたのは、「6月27日」であったことがすでに判明している。牧口会長は翌28日にも鈴木日恭に面会を申し入れ、国家諌暁を直訴した。
 このことは、牧口先生の秘書的な役割ををされていた和泉ミヨさんの手帳からも明らかになっている。(和泉手帳は、牧口先生の逮捕等、学会の歴史を伝える1級資料となっている)
 あどべの手元にあるコピーにはこのように記されている。
 「6月28日(月) 朝5時半で御本山へ、牧口先生にお目にかヽる。3時40分のバスで下山 ○○さん宅に宿る」
 その直前の登山は、
 「5月23日(日) 御本山へ、○、○、○(以下名前列挙)一行20余人」とある。
 手帳に記された6月初旬の牧口会長の行動は、
1日(火)幹部会に出席
5日(土)教育者クラブの会合
6日(日)砂町教会御講
7日(月)退転防止委員会
8日(火)京橋支部会合
10日(木)日本橋支部会合
13日(日)千葉県鎌ヶ谷村へ折伏
と活発に学会の活動を行っており、6月初旬に本山へ行った記録は残っていない。
 6月27・28日に登山し、神札の受け取りを拒否していた牧口会長・戸田理事長が、応急策で25日に通牒を出すこと自体、何の意味もないのである。
25日付けの通牒で神札甘受を会員に徹底し、27日に「神札は絶対に受けません!」、28日に「今こそ日蓮正宗は国家諌暁を!」では、全くストーリーが成り立たないのである。

(fb:7467/2005-10-25)
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◆神札甘受を言い渡されたのは、「6月27日」
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証拠として出してきた「和泉ミヨさんの手帳」には「6月27日」の「牧口会長の行動」が紹介されていないのは何故か?(笑)この記述は『創価新報』(H15.11.5)を鵜呑みにしたものであろうが、「27日」の根拠はまったく示されていない。

◆28日にも鈴木日恭に面会を申し入れ、国家諌暁を直訴した
◆牧口先生の秘書的な役割ををされていた和泉ミヨさんの手帳からも明らか
◆6月28日(月) 朝5時半で御本山へ、牧口先生にお目にかヽる。3時40分のバスで下山 ○○さん宅に宿る
-----------------------
「鈴木日恭に面会を申し入れ、国家諌暁を直訴した」という28日の項には、和泉氏が本山にて牧口会長と会った事実しか述べられていない。こんなことでは「和泉手帳は、牧口先生の逮捕等、学会の歴史を伝える1級資料となっている」とは到底いえない。

◆6月初旬に本山へ行った記録は残っていない
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そもそもこの証拠は「和泉ミヨさんの手帳」であって、牧口会長自身の記録ではない。仮に学会の主張どおり和泉氏が「秘書的な役割」をしていたとしても、氏が牧口会長の行動の一切を掌握していたという保障(証拠)はどこにもない。また、この手帳が牧口会長の「秘書」活動用のものであったとは考えにくい。その証拠に、学会が出してきた内容は、和泉氏自身の日記ともいうべきものである。氏自身の行動と感想が中心に綴られており、牧口会長に関する記述も和泉氏との関連で書かれているではないか。そうであれば「6月初旬の牧口会長の行動」なるものも、実は和泉氏自身に関わるものを列挙したに過ぎないという可能性は大きい。

●戰局も悲運にかたむき、官權の思想取締が徹底化して來た昭和18年6月初旬に総本山から「学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事7名登山せよ」という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隱尊猊下おそろいの場に御呼出しで(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日坊御住職)から「神札をくばつて來たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざつているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一應受け取つているから学会でもそのように指導するようにせよ」と御命令があつた。(戸田会長の談話『聖教新聞』S27.6.10/『地涌』第667号)
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 これは、戸田会長が機関紙に公式に発表した内容である。ここには"神札指導"の年月日を「昭和18年6月初旬」と断言しているではないか。「6月初旬」は、総本山から「登山せよ」と御命令があった日であるから、登山したのは別の日とも考えられるが、「これを受けた学会幹部が至急登山」との記述から考えれば、どんなに遅くとも10日以内には登山したことであろう。とすれば、仮に御命令の日が6月10日であったとしても、6月20日までには登山していたと見るべきであろう。
 尚、『慧妙』(H5.6.1等)では"神札指導"の日を6月20日としている。しかし、その根拠については確認できていないので、当サイトとしては一応6月初旬を"神札指導"のあった日とする。

◆同年6月初旬、牧口、戸田両氏が二上人立ち会いの下、渡辺慈海庶務部長(当時)より神札を受けるよう申し渡された(『地涌』第33号)
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学会側謀略誌も「6月初旬」としている。




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7月度の内容(和泉ミヨさんの手帳)を出してみたく思う。
・1日 岸さん宅に伺って色々お話してざんげする。<幹部会に出席>
・2日 <6時40分汽車で伊豆へ。牧口先生、岸さんと一緒に。夜は蓮台寺へ落ち付く。>牧口先生から色々お話を伺た。御本尊様を信じていない事を反省する
・3日 <朝から荒増へ出掛け御本尊をおまいりして来る。お札が取れないので本当に困って了ふ。>子供がけがをしてゐた。とけいによって伯父と話す
・4日 蓮台寺から下田へ。家へ寄って3時半のバスで須崎へ。今日も雨に降られる。田中さん宅へ来る途中、自分を反省して慈悲心のない事をつくづく感じて申し訳ない
・5日 須崎から下田へ。加増野へ行くつもりでいたのにバスが遅いので明日早く出掛ける予定。戦地へ九信
・6日 加増野へ。道合、和瀬隠居へ行く。久し振りにお墓まいり。林さん病気で休んでいる。<夕方、蓮台寺へ。牧口先生、下田警察へ。突然の事で驚く>
・7日 中田へ藤木さん見える。<下田警察へ行く。牧口先生、もうお立ちになった由。>中田へ帰ってゆっくりする。明朝、帰京の予定
・8日 朝9時30分のバスで帰途につく。<牧口先生宅に伺って、奥様に色々お話する>
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 牧口先生逮捕までの様子が伺える。牧口先生は7月2日、下田の折伏に出かけられた。和泉ミヨさんも一緒である。下田の近くの蓮台寺温泉の中田旅館を拠点に2日、3日、4日と近隣の縁故者や旅館の従業員を対象に折伏座談会を行われた。この旅館の主人は親戚の折伏で入信しており、前回に牧口会長が訪れた折に御本尊の御安置が行われていた。
 さて、7月3日に注目したい。
 「3日 <朝から荒増(あらぞう)へ出掛け御本尊をおまいりして来る。お札が取れないので本当に困って了ふ。>」
 荒増には、この年の春に入信した和泉家の親戚が住んでいた。東京で御本尊下附を受けたその親戚様子を伺うために和泉さんが訪ねたところ、家に神札をまつったままなので謗法払いするように言ったが、どうしても取ろうとしないので困った、ということである。
 和泉さんがこのことを牧口先生に報告、指導を受けておられたであろうことは疑いないであろう。少なくとも、彼女が神札を謗法払いしようとしていたことは明瞭である。
 「通諜」なる文書があったのであれば、間違いなく牧口先生は共に下田の折伏に向った彼女にそのことを説明するはずである。更に、日記には
 「7月1日 幹部会に出席」とある。当時は毎月1日に、神田の本部で、会長・理事長等が出席して月例幹部会が開催されていた。逮捕された昭和18年7月にも、1日に幹部会が開かれており、和泉さんはこの戦前の学会の最後の幹部会に出席していたのである。
 宗門のいうように、6月25日に、「通諜」なる文書が作成されていたのなら、しかも本山から神札を受けるように言われていたのだから、当然にこの幹部会で「通諜」のことが報告され、更には宛て先である理事や支部長に配られていたはずである。ましてや、幹部会の前々日の29日には、陣野支部長らが逮捕されるという事件が起こっている。ところが誰も「通諜」なる文書の存在を知らず、報告さえもされていない。和泉さんは7月3日に神札をはがそうとしている。
 当時のナンバー3であった野島副理事長も、退転して、牧口先生や戸田先生をうらんでいたが、その彼の手記にも神札拒否のことが書かれているが、「通諜」なる文書は全く出てこない。全く知らないのである。野島の手記は、遺族によれば、「昭和20年に埼玉県の疎開先で筆を起し、戦後の23年頃にかけて纏めたもののようです。」と証言されている。(「通諜」なる文書は昭和23年より後に偽造されたのであろう)
 このように「通諜」なる文書が作成されていたとは到底有り得ない。

(fb:7516/2005-10-27)
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学会同様、宗門も謗法払いを否定していない。宗門が学会に指示した内容は、公的機関から差し出された神札(大麻)を拒否したり、公然と焼却せずに一応受け取るというものである。だから、会員であれ、新入信者であれ、本人が納得して神札を取り払うのであれば、宗門の指示に反するものではない。

●日本国民の総氏神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)をまつっている伊勢の神宮の御神札は、明治以前は御師(おし)といわれる神職によって全国各地の家々に配布されていました。(中略)明治の御代になって、御師による配布は廃止され、御祓大麻は神宮大麻(じんぐうたいま)と名称が改まり、明治天皇の聖旨により政府事業として全国全戸に漏れなく配布されるようになりました。(<神社と神道>WS060311)

●昭和17.1頃以降 警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)
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宗門が問題にしたのは、世情や人情、社会的常識を逸した法を下げる行為であったといえよう。

●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月(※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)
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神札を焼却しなくとも謗法にはならない。↓

●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
●当時、全戸に配布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫52頁)
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他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」に納めていたのである。その意義から言えば、新入信者の神札等を、世相を無視して堂々と焼却する必要はまったくなかったといえる。会員の神札受け取りについても、金銭を支払って受け取るのであれば格別、当局が勝手に配布するのであれば、一応受け取り、捨て置くか寺院に納めるか、コッソリ焼却すればよかろう。

●総本山において、天照大神のお札を貼ったことは1度もありません。今時の大戦争において、国において軍部が大変に力を得て、我が国を滅ぼしたような状態でございました。昭和18年ごろ、いよいよ戦争が激しくなってきた時分、この総本山においては当時客殿・御宝蔵・庫裡・六壷、それから大奥と、そのちょうど真ん中あたりに書院がございまして、・・・そこは大書院ですから、御本尊は祭ってありません。その所を、昭和18年の、戦争がいよいよ盛んになった時に、国で借り上げてしまった、国に借りられてしまったわけです。その時にその書院を「中部勤労訓練所」ということにされてしまったのでございます。・・・その時に所長である上中甲堂と云う人が、書院の上段の間へ天照大神のお札を祭ったんです。
 それに対して、こちらは再三異議を申し立てたんですけれども、しかし国家でやる仕事である、国の仕事であるから、いくらこちらで何を言っても、それは及びもしない。何とも仕方がないから、そうなってしまったのであります。ただそれだけのことで、別に我々がその天照大神のお札を拝んだことなどありもしない。また、実際その中へ入って見たこともない。入れてくれもしない。まあ借家同然で、借家として貸したんだから向こうの権利である。そういうような状態であって、決して我々が天照大神のお札を祭ったとか、拝んだとかいうことは事実無根であります。(第66世日達上人/『大白法』H3.4.1)

●18年7月、中部勤労訓練所という、徴用工訓練のための機関が大坊の書院(200畳敷き)を利用しはじめた。神道に毒されていた指導者たちは、この書院に神棚をつくり、天照太神を祀ってしまった。総本山の宗務院は、当局者に厳重に抗議をした。(中略)再三にわたって、日蓮正宗の教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った。(『人間革命』第1巻「千里の道」258頁〜)
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謗法の徒が総本山内に神札を祀った時、宗門は「教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った」のである。この事実から考えても、宗門として信徒に神札を祀ることを容認する指導があったとは考えられない。神札受容は、実質をともなわない形式的対外的配慮に過ぎなかったのである。

●(※牧口)「天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな」
(本山側)「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(昭和18年6月初旬の本山での会話/戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)
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本山側は学会に対し「そっと処分」するように指示している。これのどこが謗法なのか。


◆当時は毎月1日に、神田の本部で、会長・理事長等が出席して月例幹部会が開催されていた(中略)当然にこの幹部会で「通諜」のことが報告され、更には宛て先である理事や支部長に配られていたはずである。
-----------------------
配られていなかったという証拠はない。以下の理由によって、6月25日以降に学会幹部が謗法払いしていた事実が、必ずしも「通諜」の否定にはならないと考えられる。

①宗門が学会側に指示した内容は「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」(『富士宗学要集』第9巻431頁)というものであった。これと呼応する形で「通諜」には「皇大神宮の御札」とあるが、一般の神札や御守り等については言及されていない。しかし、「和泉ミヨさんの手帳」には単に「お札」とあるのみで、「国禁」の対象となる「大麻」とは断定できない。

②宗門が学会側に指示した内容は「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」というものであった。しかし、その一方で「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)という教示もあった。また、宗門自身、部外者によって書院に天照太神が祀られたときには「教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った。」(『人間革命』第1巻「千里の道」258頁〜)のである。このことから考えて、「通諜」が宗門の指示に基づいて作成・配布されたとしても、対外的なもので、内実は"バレないようにうまくやれ"という程度のものであったと考えられる。

★要するに、牧口会長の"謗法厳戒の精神"について、宗門はまったく否定していない。謗法払いのやり方が問題だっただけである。だから、本山での"神札指導"後において、牧口会長はじめ幹部連が、折伏をし神札を取り払うべく努力したとしても、そのことをもって「通諜」の存在を否定することにはならないのである。

●父母は早くから、小泉隆氏、辻武寿氏と共に蒲田の三羽ガラスといわれ、中心的な活動家でした。父が小泉氏を折伏し、小泉氏が辻氏を折伏したのです。
 当時、私の家の隣が白木薫次氏のお宅で、その次女が、後に池田大作の妻となったカネ子さん(香峯子と改名)。白木家は私の父が折伏したのです。私の母・精子は学会の初代婦人部長でした。(中略)
 先日、創価

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from: 21世紀さん

2011年07月25日 12時53分37秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<転向>

************************************************************
牧口会長は死亡、戸田会長は「予審中」と昭和特高弾圧史4に掲載され、不退転が示されている。他の多くは転向したことは、学会はかねてから示しているし、戸田会長も記述している。(旧sf)
------------------------------------------------------------
「予審中」とあるのは古い資料です。牧口氏と同時に逮捕された者は皆、終戦前に釈放(『富士宗学要集』第9巻432頁)となっている。また、その後に逮捕された者も森田、堀、小林の3名を除いて終戦前に釈放または起訴猶予となっている。ナンバー2の戸田氏をはじめ多くの者が終戦前に釈放となっていることから考えて、組織としては「通諜」の内容、または、それに則した供述が最終的に信用されたのであろう。わずかに3名が有罪(執行猶予)となったのは、個人的な問題であろう。個人的な問題とは、不用意に不敬の言動をなしたとか。



************************************************************
 通牒があるのなら、転向以前に、追検挙の際「其の後検察当局の取調べ進捗し、本月末被検挙者11名中10名の起訴を終り、他の1名も起訴の見込みとなりたる」及び「右取調の結果容疑濃厚と認めらるる左記3名を追検挙」というような文書(特高月報昭和19年1月分掲載)とはならなかったであろう。
 そして転向した者は後に釈放されている。転向は会員の退転を促すのであり、転向を最も求めたのである。これは共産党においても同様であった。(旧sf)
------------------------------------------------------------
大本教への弾圧証言(2●)や藤本蓮城の例(3◆〜5◆)からも分かるように、転向の有無に拘わらず、違法行為があれば逮捕し、容疑事実に即した調書が作成され、起訴、有罪となるのである。

6◆吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
-----------------------
「感謝のためなら神社に参拝してもよい」これが牧口会長の指導でした。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)

7◆吾々は現在の天皇陛下以外にどなたに対し奉って祈願すべきでありましょうか(「訊問調書」/『牧口常三郎全集』第10巻207頁)
-----------------------
感謝の対象は神社(6◆)、祈願の対象は天皇だという邪義を展開

◆私の願いは、一身一家ではない。この世界の大動乱の中にあって、この世界に皇道を宣布し、世界中の大悪思想を撲滅し、(中略)英、米の自由主義、個人主義、利己主義の思想はもとより、世界の隅々まで蝕んでいる共産主義思想を撲滅することが、我々の務めである(『大善生活実証録』に掲載の幹部の話/『慧妙』H8.9.1)

★逮捕前から(感謝のための)神社参拝を容認し、戦争を翼賛、天皇を神と考えていた牧口氏であれば、特に「転向」の必要もなかったのではないか。拘留が長引いたのは、"謗法厳戒の貫徹"などではなく、過去の神札不敬をなかなか認めなかったことや、不敬の意思のないことを信用してもらえなかったこと等によるものであろう。

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from: 21世紀さん

2011年07月24日 17時25分03秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<「通諜」あれば釈放されたはず?>

************************************************************
逮捕された幹部たちも、「通諜」なるものがあるのなら、それを積極的に存在をアピールすべきであるのに、そのような形跡が全く無い。方針転換をしたというアピールもない。誰もその存在を知らない。(旧sf:2075)
------------------------------------------------------------
 通牒は牧口氏(または稲葉氏)の押収資料の中にあったものである。しかし、押収資料をすべて証拠採用する訳ではない。証拠採用するかどうかは、検事の一存で決定されるのである。
 また、「通諜」についていえば「会長の応急策も已に遅し」(1●)とあるように、印刷はしたが、広く会員に行き渡る前に逮捕された可能性もある。

◆牧口会長が布教先の伊豆・下田で逮捕されていること、中枢幹部を一斉検挙していることからして、警察による長期間にわたる内偵がおこなわれ、逮捕にあたっては綿密な準備がなされていたと結論される。 それは6月29日の理事・有村や中野支部長・陣野らの逮捕により弾圧が始まったのでなく、それは水面下で長期間つづけられてきた捜査が、顕在化するきっかけとなったと見るべきである。有村、陣野らを1週間、調べただけで、創価教育学会中枢に対する組織的な一斉検挙がなされることなどあり得ない。 創価教育学会幹部の逮捕はその後も相次ぎ、7月20日には、副理事長・野島辰次、理事・寺坂陽三、理事・神尾武雄、理事・木下鹿次、幹事・片山尊が警察に逮捕された。この昭和18年7月以降も逮捕が相次ぎ、昭和19年3月までに総計21名が逮捕された。(『地涌』第669号)
-----------------------
当局は、「長期間にわたる内偵」によって、幹部2名の逮捕以前から一斉検挙を「準備」していたのである。そうであれば、逮捕後に「通諜」が発見されたとしても、逮捕を正当化するために当局がこれを無視したことは充分考えられる。

●1943.6.29 陣野忠夫、有村勝次の両氏が学会活動の行き過ぎ(罰論)で逮捕(『富士宗学要集』第9巻431頁/『慧妙』H5.6.1)
◆(※昭和18年)6月29日には幹部の陣立、有田等が淀橋署に検挙されていた。忍び寄る司直の魔手が、刻々と牧口の身辺にも近づいていたのである。彼は、それを感じてはいた。(中略)検察当局は、学会幹部の一斉検挙の機会を、虎視眈々と狙っていた。そして、神道を蔑視する言動を理由に、ついに学会を反国家的な団体として決めつけていったのである。(『人間革命』第3巻「渦中」)
-----------------------
じつは、当時の特高警察は、先に逮捕してあった陣野らを激しく取り調べ、学会弾圧の罪状を作成した上で、一挙に、牧口氏以下21名の幹部を逮捕に踏み切っている。つまり、学会を潰滅せしめる意志決定が、あらかじめなされていたのだ。(『慧妙』H15.6.1)そうであれば、「通諜」の存在や牧口会長自身の態度を酌量して保釈・求刑の減刑を考慮するにしても、当局自らが貼り付けた学会に対するレッテル=神札不敬を公然と主張する反社会的団体、を簡単に撤回することはできないであろう。更には、既に不敬罪を犯した過去の罪まで許すことはできないことは言うまでもない。ただし、ナンバー2の戸田氏を初め、他の幹部が終戦を待たずに保釈されている事実からすれば、早晩、牧口会長も保釈される予定があったのかも知れない。保釈されるはずだったが、保釈を待たずに病死してしまった。十分考えられることである。



************************************************************
そんな「通諜」を出したのなら、なにゆえ戸田理事長はそのように供述しない?老体の牧口会長を少しでも早く出したいとするであろう。(旧sf)
------------------------------------------------------------
 戸田会長の供述など、どこにあるのだ?訊問調書では、『大善生活実証録』で容認していた感謝のための神社参拝まで否定されている。このことからも、訊問調書が逮捕前後の学会の主張を無視していることは明らかです。
 「通諜」は特高が押収したものであるが、それを証拠として採用するか否かは、すべて検事の一存で決まるのである。感謝のための神社参拝を容認した『大善生活実証録』も押収されているが、訊問調書には反映されていない。(<訊問調書>参照)
 「老体の牧口会長を少しでも早く出したいとするであろう。」というが、牧口氏と同時期に逮捕された者は、戸田氏も含め皆、終戦前に釈放(『富士宗学要集』第9巻432頁)されているではないか。このことは何を意味するか?既に牧口氏自身が、戦争翼賛、神社参拝容認や、天皇中心主義的指導をしていたのであるから、逮捕された者はそれに沿った供述をしたのであろう。しかし、牧口氏は会長として、これまでに多くの不敬を指導した"前科"があったから特別扱いされたのであろう。

3◆日蓮正宗僧侶である藤本蓮城(本名=秀之助)も、創価教育学会の有村・陣野らが逮捕される少し前の6月16日に、不敬罪等の容疑により逮捕されている。 藤本は昭和2年ごろ、日蓮正宗に入信し、昭和16年に出家し僧侶となった経歴の持ち主。この藤本と同時に、藤本にしたがう高塩行雄も逮捕されたが、高塩は逮捕直後より「改悛の情顕著」ということで起訴猶予となり、藤本のみが、9月22日に起訴となった。(『地涌』第669号)
4◆蓮城房は、東京区裁判所の公判で、「失言を取り消します」と言えば助かると言われたが、「僕の言ったことは失言といえるけれども、日蓮大聖人の言ったことだから失言とはいえない」と、譲らなかったという。 蓮城房への判決は、早くも10月25日に東京区裁判所において下された。判決内容は、不敬の罪で懲役1年4カ月であった。蓮城房は上告せず服役した。(『地涌』706号)
5◆日蓮正宗僧侶中ただ1人、逮捕拘留されていた藤本蓮城に対しては、一宗擯斥処分に付し宗門より追放してしまった。藤本は昭和19年1月10日、長野刑務所で獄死している。(『地涌』第670号)
-----------------------
罪を認め尚且つ「改悛の情顕著」であれば、いちはやく起訴猶予となり(高塩行雄)、罪を認め尚且つ再犯の恐れのある者はいち早く起訴され刑が確定する(藤本蓮城)、ということか。牧口、戸田両氏はどちらでもなかった。つまり、当初は、なかなか罪を認めようとしなかったために調書作成にてまどった。"罪を認めない"とは、不敬の事実を否認したということである。

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from: 21世紀さん

2011年07月23日 12時36分47秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
【逮捕後の経緯】
<訊問調書>

************************************************************
「牧口先生の訊問調書を読めば、先生の言い分が神社参拝を否定してきた本来の日蓮正宗の教えに基づくことは、すぐに分かります」(小平芳平『創価新報』H5.6.16)
------------------------------------------------------------
2●取調官があんまりひどいデッチ上げをいうので「そんなバカなことはない」と食ってかかろうものなら両手を背中までもっていって後手にしばる、足もしばって転がしてしまう。口にはゴムでつくった丸い猿ぐつわをくわえさせられて、しめつけられる。物も言えない・・・。ところが向こうの机の上にはちゃんと質問書ができているんですね。(中略)こちらの言い分も聞かないで、どんどん書いていっちゃう(中略)取調官は書くだけ書いてしまうと、「きょうはこれで終わりだ。えらかったろう。ちょっとこれにハン押してくれ」。ハン押せったって、大国さんは手をくくられている。そうすると印肉をしばられている後の手へ持ってくるんです。あおむけに転がされているのを今度は裏がえしにしてうつぶせにして、上になった手の指に印肉をもっていってぴしゃっと引っ付ける。それで自分がちゃんと印を押したことにされてしまった、というんだからひどいもんです。署名の字も大国さんに名前を何枚も何枚も書かせ、それをもってあとで特高が調書を間にはさんで、なぞる。これで、自分が書いたことになる。(『宗教弾圧を語る』岩波新書12頁〜)
-----------------------
訊問調書は、逮捕を正当化するために、容疑事実を裏付けるように官憲によって"作文"されていたのです。

牧口氏の本心がより明らかに表れているのは、取調べ検事が押収書籍(堀日亨上人の『日蓮正宗綱要』など)の内容を盛り込んで作成した"訊問調書"よりも、牧口氏の自発意志で行われた"総会での講演"記録であろう。

◆吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よくぞ国家の為に働いて下さった。有難うございます』といふお礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。もし、『あゝして下さい、こうして下さい』と靖国神社へ祈願する人があれば、それは恩を受けた人に金を借りに行くやうなもので、こんな間違った話はない。 天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神(あらひとがみ)であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば吾々は神聖にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)天照大神のお札をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考え奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確信するのである。またこれが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である(牧口常三郎『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁〜)
-----------------------
牧口氏自ら靖国神社へ参拝していた(もしくは参拝を問題なく許容していた)ことが明らかではないか。いったい、どこが「本来の日蓮正宗の教え」だというのか。 また、小平氏は「(天皇一元論は)当時の世相のなかで神札を拒む合法的な一つの便法として、指導・徹底されたもの」とも言っているが、そもそも一方で"靖国神社参拝容認発言"があるのに、これでは、まったく苦しい言い逃れにしか見えぬであろう。(『慧妙』H5.8.16)

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from: 21世紀さん

2011年07月22日 19時08分22秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
【会長の応急策】


1●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした、が心中には次の様に考えられていた、当時の軍国主義者は、惟神道と称して、日本は神国だ、神風が吹く、一億一心となつて神に祈れ、等々と呼びかけていた。少しでも逆う者があると、国賊だ、非国民だといつて、特高警察や憲兵のつけねらう所となつた、もとより牧口会長は、神札を拝むべきではない、神は民族の祖先であり、報恩感謝の的であつて、信仰祈願すべきではないと、日蓮大聖人、日興上人の御正義を堂々と主張なされていた。(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)

-----------------------
「会長の応急策」こそは、会員に神札受取を指導する「通諜」だったのである。学会は、神札受取を勧めた当事者の1人である日亨上人がウソをついているというのか。まことに不知恩の極みである。

************************************************************
 「この"応急策"の記述は、6月本山から帰った後のことではありません。当時の弾圧の準備は、この年に入って急速に進み、4月、5月ごろには、理事クラスの逮捕や先ほども述べた牧口会長の中野署での取調べのように、もう現実段階に入っていました。
 そこで、これらの当局の不穏な動きに対して、牧口会長のもと弁護士なども入って真剣に対応策を練っていたんです。ただ、もはや、弾圧の流れは止まらない勢いになっていたため、間に合わなかったのです」(小平芳平『創価新報』H5.6.16)
------------------------------------------------------------
●当時は弁護する弁護士も起訴するというくらいの気持ちだったようです。(中略)三木弁護士は少し引っ張られたのではないかと思います。不敬罪というのは、当時、認定罪ですからね。こっちに意思がなくても、認定されてしまえば仕方がない罪名なんです。ですから、そういうものを弁護する弁護士も不敬罪だということにできるんですね。(『宗教弾圧を語る』岩波新書30頁〜)

◆牧口会長は、8月(※昭和18年)に東京・巣鴨の東京拘置所に移され、同じく戸田理事長も、同拘置所で、本格的な取調べを受けた。しかし、思想犯ということで、弁護士もなかなかつかず、取調べも、進まなかった。(創価学会発行『創価学会40年史』/『慧妙』H5.9.16)

◆治安維持法違反と不敬罪という罪名のために、後難を恐れて弁護士さえなかなか決まらなかった。(聖教新聞社発行・創価学会45年史『革命の大河』/『慧妙』H5.9.16)

◆弁護師(ママ)は未だ決せぬなら、小栗へ言ふて田利君に頼ませて下さい。先方法華経に反対ならば、双方に罰があるから頼まぬ事。さもなくば相当の報酬を約束して頼んで呉れ。(牧口「獄中書簡」昭和19年2月7日/『牧口常三郎全集』第10巻286頁)
-----------------------
「田利」=牧口が大正、西町小学校の校長時代、牧口のもとにあって教師を勤めながら、勉強して資格をとった田利清弁護士。

◆牧口に弁護士をつけようと努力した有志もいた。19年春、藤森富作が「弁護届け」をもって東京拘置所へ行った。牧口の拇印をもらいにである。典獄(現在の所長にあたる)は、さっそく部下を通じて拇印をとりに行かせた。その部下は「弁護届け」を差し出した。しかし、牧口は拇印を押そうとしなかった。 ところが、藤森が戻ってきた部下に「藤森がきておりますと伝えてください」と頼むと、今度は、牧口は珍しくニコニコして「そうか、そうか」といって気持ちよく拇印を押した。弟子の心づかいがうれしかったのであろう。(聖教新聞社編『牧口常三郎』/『慧妙』H5.9.16)

これらを見ても明らかなように、思想犯として当局から睨まれ、(学会側の説によれば)すでに昭和18年初頭から2度にわたって警視庁で取り調べを受けていた牧口会長らを支援する弁護士は、1人としていなかった。いなかったからこそ、逮捕後も弁護士が見つからなかったし、逮捕の翌19年になって、はじめて弁護士を捜す手続きを開始しているのである。(『慧妙』H5.9.16)

◆1942 創価教育学会の座談会・総会にも、1942年(昭和17年)頃になると、特高刑事が監視に現れるようになった。年を追って激しくなり、1943年頃になると、ほとんどの会合は特高刑事の監視下で行われ、牧口はもとより、各会員の発言に注意を向け、動向を探り続けていた。(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

◆1943.5 牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた。(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

●1943.6.29 陣野忠夫、有村勝次の両氏が学会活動の行き過ぎ(罰論)で逮捕(『富士宗学要集』第9巻431頁/『慧妙』H5.6.1)

◆(※昭和18年)6月29日には幹部の陣立(※陣野)、有田(※有村)等が淀橋署に検挙されていた。忍び寄る司直の魔手が、刻々と牧口の身辺にも近づいていたのである。彼は、それを感じてはいた。(中略)検察当局は、学会幹部の一斉検挙の機会を、虎視眈々と狙っていた。そして、神道を蔑視する言動を理由に、ついに学会を反国家的な団体として決めつけていったのである。(『人間革命』第3巻「渦中」)
-----------------------
本山での神札受け取り指示(1943年6月上旬)よりも前から、学会は公然と特高の監視下に置かれていたのである。このような状況下、国家に睨まれている団体の窮地を救うべく手を貸そうとする殊勝な弁護士がいるはずもない。

●東京の弁護士の意見は、こういう意見でしたよ。「日本の有数の弁護士を30人入れようと50人入れようと、ほんみちを無罪にするということは、治安維持法があるかぎりは不可能だ」(『宗教弾圧を語る』岩波新書137頁)
-----------------------
弁護士の活動は、国法に則った形でしか許されないのである。そうであれば、どんな策を弄しようとも、不敬罪に当たる行為(神札拒否)を止めない限り、弾圧を回避できないことは、誰の目にも明らかだったはず。"弁護士の手を借りれば弾圧を回避できる"などと暢気なことを考える者は、平成の時代に平和ボケした頭を酷使し、机上の空論を振り回し、その場凌ぎの自己弁護に終始する学会員くらいのものだろう。

◆彼は獄中で、彼の事業がまったく挫折していることを、すでに承知していたが、その実態を知る由もなかった。(中略)戸田は決めた。彼の事業の残務整理を一切託してある、渋谷の一弁護士を、ただちに訪問することにした。(中略)彼の衰弱は歩行をも困難にしていた。昨夜、豊多摩刑務所から自宅まで、2時間以上も要したのである。(『人間革命』第1巻「再建」)
-----------------------
獄中においても、家族との書簡のやり取りは許されていた。しかも、その内容は信仰活動にも及んでいた。それでも、学会活動とは何の関係もない事業の「残務整理を一切託してある、渋谷の一弁護士」とは連絡がとれなかったのである。もし、学会の言うように弾圧回避の「応急策」が弁護士の介入を意味するのであれば、その弁護士は、逮捕後もそれなりの弁護活動をしたはずであり、獄中においても弁護士と何らかのコンタクトがとれたはずである。しかし、家族を介してさえ、そのようなコンタクトがとれなかったのは何故か?答えは1つ、「応急策」とは、弁護士の協力などではなかったのである。

◆彼は、仕事を具体的に一歩すすめようと、年来の友人、小沢清弁護士に、このことを相談することに決めた。(中略)(※昭和20年7月)6日(中略)午後になると、幾枝に付き添われて家を出た。(中略)電話で連絡してあったので、小沢は心まちに待っていた。(中略)小沢は、戦況の裏にいささか通じていた。軍部の一端と結んで、和平工作の企画にもあずかっていたからである。(中略)2人の終生の友は、この時すでに25年の交遊を経ていた。彼らが最初に出会ったのは、大正9年、開成中学の夜間部3年のクラスの時であった。(中略)友情は色褪せることなく長くつづいた。(中略)失意の友を目の前にして、小沢は、この「雲雀男」を信ずるのに困難を感じた。こんどは、時代と諸条件が、まるで違っているからである。(中略)戸田は、治安維持法や不敬罪で起訴されている。その友とのかかわりあいは、できることなら時節がら、避けたい思いがあったにちがいない。(『人間革命』第1巻「再建」)
-----------------------
「小沢清弁護士」は、戸田氏の「年来の友人」であり「友情は色褪せることなく長くつづいた」という。しかも彼は「軍部の一端と結んで、和平工作の企画にもあずかっていた」ほどに、権力の側に対してコネクションを持っている、ある意味で"有力者"であった。そのような人でさえ、「治安維持法や不敬罪で起訴されている」「友とのかかわりあいは、できることなら時節がら、避けたい思い」があったのである。そうであれば、学会弾圧の最中にあって、わざわざ、特高に目をつけられている組織の弁護を買って出る殊勝な弁護士などいるはずがない。また、そのような弁護士がいると考えるハズもない。

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from: 21世紀さん

2011年07月21日 22時43分58秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<法華講員S>

************************************************************
・偽書「通諜」(昭和52年頃に出まわったコピー)
 この「通諜」のコピーが世に最初に出回ったのは、昭和52年のことであった。この昭和52年は、戦後第2次檀徒活動である正信会活動の胎動の年でもある。そして第3次檀徒活動ともいえる「C作戦」発動にあたり「通諜」が再び浮上した。創価学会切り崩しをめざした檀徒活動のたびにクローズアップされる「通諜」。(『地涌』第668号)
------------------------------------------------------------
・偽書「通諜」を書いた法華講員・S(故人)の自筆文書(※「S文書」と呼ぶ=法蔵)。
 Sは昭和20年代、法道院より発行されていた『大日蓮』編集部に勤務していた。
 偽書「通諜」とS自筆文書の筆跡の一致は瞭然。
 この文書が作られたのは、書面のコピーが出まわりはじめた昭和52年当時であると判断するのが妥当ではないか。なぜならばニセ物を作った者は、必要性があるからデッチ上げたのだ。それを何年も放置するとは考えにくい。(『地涌』第61号)
------------------------------------------------------------
以下の点について明らかにされるべきであろう。

・S氏とは誰か。

・「S文書」がS氏のものである証拠は何か。

・「S文書」が昭和52年頃出回った証拠は何か。
-----------------------
学会が公開した現物が、実際に昭和52年頃までに出回ったという証拠がない限り、当該文書は、「通諜」公開後に学会側によって作成された可能性が残る。

・「通諜」と「S文書」の筆跡比較/[資料]:「通諜」の筆跡
-----------------------
「一、」の右上がりの具合など、一見したところ、文書全体から受ける感じは筆跡が似ているようでありながら、1つ1つの文字を丹念に見比べてみると、大分特徴に違いがある。「外」「殿」「月」「日」「と」など、素人目にも異なる筆跡と分かる。とくに「域」「城」「義」「誠」など、「S文書」ではしっかりとはねているが、「通諜」ではそれほどでなく、両者の違いは明白である。

・「S文書」が「通諜」より先に書かれたものであるならば、同文書は「通諜」の原案であり、これを写したのが「通諜」だと考えるのが自然である。しかし、そうであれば、「通諜」と同じく縦書きで、字体も昭和18年当時のままにするはず。だが、「S文書」は横書きであり字体(「価」「職」など)も異なる。また、「S文書」が「通諜」の原案であれば「昭和18年6月本山より下山した直後の公式文書(ワラ半紙のガリ版刷)」(「S文書」)という記述は有りえない。

・「S文書」が、「通諜」作成よりも後に書かれたものであるとすると、何のために、自分の文書(「通諜」)を書き写したのか?しかも、自分で「通諜」を作成しておきながら「昭和18年6月本山より下山した直後の公式文書(ワラ半紙のガリ版刷)」(「S文書」)などと書くのもおかしい。まったく不自然というべきである。

・「S文書」の作者と「通諜」の作者が同じならば、むしろ「通諜」(またはそのコピー)そのものを最初から世に出すはずであるし、"戦時中の「通諜」を戦後になって第三者が書き写した"という体裁になっている文書を、「通諜」と同じ作者が自分の意思で世に出すとは考えられない(筆跡が同じであることが簡単にバレてしまうから)。「S文書」が公表された経緯を明らかにすべきである。

・「通諜」が偽物であるならば、その作成目的は、世に出すこと以外考えられない。そうであれば、常識的には偽物を作って程なく世に出回ったと考えるべきである。とすれば、何故に「通諜」は、わずかの期間で周辺部がボロボロになるほど腐蝕してしまったのか?まったく不自然である。

★以上のように"「通諜」偽作説"には、筆跡その他、不自然な点が多く、信用できない。いずれにせよ、日亨上人の「会長の応急策」(下記1●『富士宗学要集』第9巻431頁)が神札受け取りに関するものであることは否定しようもないのである。



************************************************************
 今回の『慧妙』同様、日顕宗時局協議会資料収集班1班が、「通諜」を本物と断定して、平成3年の3月と5月に、それぞれ「『神札問題』について」と「日蓮正宗の戦争責任」と題する文を宗内に配布した。
 このとき、創価学会側は、谷川佳樹男子部長名で日顕宛に抗議文を送り、文中、
 「(中略)しかも、私どもは単に戸田理事長の筆跡ではないというだけでなく、その筆跡が、戦後に入信し、戦前の創価教育学会とは何らの関係もない、ある特定の法華講員の筆跡であるとの確実な証拠を入手しております。
 このことは、『通諜』なる文書が戦後に偽造された謀略文書であるということを、見事に証明して余りある事実であります」(『地涌』第666号)
------------------------------------------------------------
 本紙からの「ならば、その根拠と法華講員の名を明かせ」との責めに対し、(『慧妙』H5.7.16)↓



************************************************************
 たしかに、「通諜」の筆者の名を明かせばこと足りる。だが、それをしない。理由はただ一つ。言い訳にもならぬ言い訳を、『慧妙』編集部に代表される日顕宗の「非学匠」の者らにさんざんさせ、自らの"屁理屈"によってガンジガラメになるのを見て楽しみたいのである(『地涌』第672号)
------------------------------------------------------------
余程、カッコ悪い言い訳であることに気づいたためかWSには掲載されていない。↓
http:/www.houonsha.co.jp/jiyu/chap18.html

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from: 21世紀さん

2011年07月20日 09時31分25秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<代々の天皇への報恩>

************************************************************
 『慧妙』がこの文章を本物というならば、「皇祖天照大神皇宗神武天皇」およびそれに連なる代々の天皇への報恩、そして神を敬い「國運の隆昌」「武運長久」を祈ることが、初座の祈願目的であると「御本山の御指示」が出ていたことを認めることになる。
 これは、国家神道を支える皇国史観に額づくものである。宗門は明らかな謗法を犯していたことになる。(『地涌』第666号)
------------------------------------------------------------
 昭和16年8月22日改訂の御観念文においては、初座は
 「謹みて、皇祖天照太神・皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩(こうおん)を謝し、併せて皇国守護の日月天等の諸神に法味を捧げ奉る」
となっており、学会文書「通諜」の第1項は、明らかにこの文を引用したものである。(このことは、むしろ、「通諜」が当時に作られたもの、という傍証になっている)。
 『地涌』は、これを指して「国家神道」「明らかな謗法」というのだが、「皇祖天照大神」云々については、『神国王御書』に
 「神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身のごとく・あがめ給う」(『神国王御書』御書1298、全集1518頁)
とあるように、国王(天皇制の時代なら天皇)が崩御(ほうぎょ)して善神となるのだから、天皇家の祖先(皇祖)が、天照大神等の諸神として、善神につらなることは、法義上あたりまえのことなのである。
 次に「皇国守護」という表現については、もとより諸天善神には、法華守護の働きと国土守護の働きとの両面があり、また、天皇制であった当時の我が国は「皇国」と称していたのだから「皇国守護の日月天等の諸神」とは国土守護の諸神の別名にすぎない。
 いったい、どこが「明らかな謗法」であるというのであろうか(※ただし、「通諜」中の「敬神の誠を致し、国運の隆昌・武運長久」云々は初座の御観念文にもなく、宗門とは無関係である)。(『慧妙』H5.7.1)

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from: 21世紀さん

2011年07月19日 22時37分10秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<「天拝」>

************************************************************
 創価学会員にとって、戦時中に入信した者であっても「天拝」というのは聞き慣れない言葉である。「天拝(初座)」として後に初座と断り書きがしてあるが故に、初めて意味が通じるのである。
 「天拝」は、かつて日蓮正宗の僧侶においてよく使われた言葉である。この偽書を作りあげた犯人が、凝りすぎて馬脚をあらわしたのである。単に「初座」としておけばよいものを、わざわざ「天拝(初座)」と凝ったために、逆に偽造犯人がしぼられることになった。
 この「通諜」の偽造犯人は、日蓮正宗の僧侶かあるいはその周辺の者の可能性が大である。かつ旧字の使い方、文章の表現もボロを出しているとはいえ巧みであり、戦時中の状況を体験として知っている年齢の者であると推測される。(『地涌』第61号)
------------------------------------------------------------
◆「天拝」は、かつて日蓮正宗の僧侶においてよく使われた言葉
-----------------------
御僧侶においてよく使われた語であれば、御僧侶と交流のあった信徒が使用しても不思議はない。「日蓮正宗の僧侶かあるいはその周辺の者」とは、まさに戸田城聖(城外)氏のことではないか(爆笑)

◆「天拝(初座)」として後に初座と断り書きがしてあるが故に、初めて意味が通じる
-----------------------
その辺のことを知悉していたが故に「(初座)」と書き加えたのであろう。つまり作者は、当時使われていた「天拝」の語を知っていて、さらに、それが会員の間ではあまり知られていないことも知っていたのである。これこそ、僧侶と交流のあった当時の学会員が作者であるという証拠である。

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from: 21世紀さん

2011年07月18日 19時22分19秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<「天皇」の語>

************************************************************
「天皇」という語句を文中にそのまま続けて書くのも、時代を考えれば非常識である。当時の公式文書でこのような書き方をすることはない。「天皇」という語句の前を1文字あけるか、改行して最上部に書いていなければならない。(『地涌』第61号)
------------------------------------------------------------
この「通諜」は緊急の内部通達用であり、公式文書ではない。少なくとも対外的な文書ではない。逮捕も時間の問題、という緊急を要する状況下において作成された「応急策」なのだ。また、「天皇」の語は公式出版物である『大善生活実証録』にも文中に記載されている。

◆答 左様な事にはならないと思います。私は学会の座談会等の席や又会員其他の人に個々面接の度々 陛下の事に関しまして、
 天皇陛下も凡夫であって、皇太子殿下の頃には学習院に通はれ、天皇学を修められて居るのである。(「訊問調書」/『牧口常三郎全集』第10巻202頁)
-----------------------
この文書は内務省警保局保安課『特高月報』の末尾に摘録されたものである。「陛下」の語の前は1字空白にし、「天皇」の語の前では意識的に改行されている。尚、文中「天皇陛下も凡夫」という発言については、<牧口常三郎の戦争観>参照のこと。

◆吾々は神聖にして犯すべからずとある「天皇」を最上と思念奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)即ち人法一致によって現人神とならせられるのであって、吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。(昭和17年『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻363頁)
-----------------------
この文書は創価教育学会の公式出版物である。「天皇」の語は、現在同様、文中にそのまま書かれている。

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from: 21世紀さん

2011年07月17日 12時47分46秒

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「Re:牧口常三郎の実像」

<天皇中心主義>

************************************************************
 決定的な間違いがある。2項目の「天皇中心主義」という言葉は、現在から考えれば、戦時下において使われていたもののように思うが、意外にも、その当時は使われていないのである。
 この言葉は、当時の右翼のなかでも、最も過激な数団体のみが使った、きわめて特殊な用語で、一般では使うことのないものであった。従って、教職に従事している者の多い創価教育学会の通達文書で使用することは考えられない。この語句を使ったことは偽造犯人にとって致命的な過ちである。(『地涌』第61号)
------------------------------------------------------------
もともと学会にも宗門にも「天皇中心主義」などという思想も言葉もない。しかし、天皇を国家の中心・要とする思想は、既に牧口氏の指導にあるから、それを端的に言い表した語が「天皇中心主義」だったのであろう。↓また、当時は「日蓮主義」「全体主義」「共産主義」などの語も多用されており、その影響で「天皇中心主義」という語がでてきたのであろう。

◆吾々は神聖にして犯すべからずとある「天皇」を最上と思念奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)即ち人法一致によって現人神とならせられるのであって、吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。(『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻363頁)
-----------------------
この内容を仮に「天皇中心主義」と名づけたのであろう。

「極右」というが、彼等は、当時の国策を強力に推進しようとする立場であったはず。そうであれば、むしろそのような者の用いる語を用いた方が、特高対策としては都合がよい、という計算もあったかも知れない。また、元直達講(牧口氏が所属していた)副講頭・竹尾清澄氏の『畑毛日記』によれば、当時、極右の人間が大石寺に出入りしていたようである。だから、戸田氏らも彼らと何らかの交流があり、「天皇中心主義」なる語も、その影響で出てきたのかも知れない。可能性としては十分ある。

●極右の朝日平吾も大石寺に参篭したことのある人である。 また他面、牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠尊と山峰氏のお話から感じられた。・・・(元直達講副講頭・竹尾清澄『畑毛日記』/『慧妙』H6?)
-----------------------
朝日平吾は大正時代の人であるが、牧口氏の入信が昭和3年であるから、あるいは入信前(内得信仰時代またはそれ以前)に、折伏親の三谷素啓氏らを通じて交流があったのかも知れない。上記記述は、別のテーマ(牧口氏らが日淳上人を誹謗し、宗門と疎遠になった経緯)で紹介された『畑毛日記』の記事の端っこに偶々掲載されたものでる。そのため残念ながら、前段の内容は不明である。しかし、「極右の朝日平吾も大石寺に参篭・・・また他面、牧口氏の側にも」とあるから、朝日平吾についての記述は、牧口氏との関連で書かれたことは間違いない。
[資料][画像]:『畑毛日記』

●28(昭3)年に目白商業学校校長の三谷素啓に出会い日蓮正宗に入信。(『現代日本-朝日人物事典』/<牧口常三郎・戸田城聖とその時代>WS)

●設立当初の創価教育学会は、元々大日本皇道立教会(※南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)の教旨・目的を根本として国民に新たな皇道を教育する団体として結成されました。(<芳野朝廷研究会>WS)
-----------------------
牧口氏や戸田氏は日蓮正宗に入信する以前から、天皇(制)に対して深い思い入れがあったようである。そのような牧口氏や戸田氏であれば、「天皇中心主義」なる語は知っていたであろう。

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from: 21世紀さん

2011年07月16日 18時27分02秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<誤字>

************************************************************
そもそも、いまコピーで出回っている「通諜」なるものは、字が間違っています。正しくは「通牒」ですよね。こんなひどい間違いを、戦時中、厳格な教育者であった牧口先生や戸田先生が・・・(元学会教学部長・小平芳平『創価新報』H5.6.16)
------------------------------------------------------------
非常時下、慌(あわ)てふためいて作った文書(それも、ガリ版の原紙を書くのは、牧口・戸田両氏が直接ではなく、担当者がいたことだろう)であれば、字の間違いがあっても何ら不思議ではない。それよりも、むしろ後年の偽作だとした場合には、時間の余裕もある中で、念入りに作るであろうから、字の間違いなど起こりえぬであろう。したがって、逆に、この単純なミスが「通諜」の信憑性を高めている、とすら感ぜられるのである。(『慧妙』H5.8.16)

◆給う(ママ)(ふ)(『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻130頁)、賞罰(ママ)(読点カ)(同132頁)、準基(ママ)(基準カ)(同132頁)、怯ぢず(ママ)(怖)(同133頁)、言語同断(ママ)(道)(同134頁)
-----------------------
これは、『大善生活実証録』の中の「大善生活法実験証明の指導要領」の項にあった誤字脱字の訂正である。わずか6頁中に5ヵ所も間違いがある。公式の出版物でさえ、これほどのミスがある。慌てて校正する暇もなかったであろう手書きのガリ版印刷であれば、これ以上の誤字脱字等があっても不思議ではなかろう。

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from: 21世紀さん

2011年07月16日 00時22分16秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<戸田氏の筆跡>

************************************************************
 今回の『慧妙』同様、日顕宗時局協議会資料収集班1班が、「通諜」を本物と断定して、平成3年の3月と5月に、それぞれ「『神札問題』について」と「日蓮正宗の戦争責任」と題する文を宗内に配布した。
 このとき、創価学会側は、谷川佳樹男子部長名で日顕宛に抗議文を送り、文中、
 「すなわち、まず何よりも、『通諜』なる文書の筆跡は、戸田理事長の筆跡とは似ても似つかないほど全く異なるものであり、明らかに第三者の筆によるものであるということであります。」(『地涌』第666号)
------------------------------------------------------------
●ワラ半紙にガリ版刷りの「通諜」があったのである。その数、およそ30枚―。(『慧妙』H5.6.1)
-----------------------
ガリ版の原紙を書くのは、牧口・戸田両氏が直接ではなく、担当者がいたことだろう(『慧妙』H5.8.16)

●印刷原稿を作る仕事は、通称「ガリ切り」と呼ばれ、ヤスリ板の上にロウ原紙をのせ、鉄筆で枠の中をひたすら文字で埋めてゆく実に根気のいる仕事だった。ガリ切りで内職をする人もいて、早い話がその道の「プロ」までいた。(<ガリ版印刷機>)
-----------------------
このような、単純だが根気のいる作業を理事長自らが行ったと考える方が、不自然であろう。戸田理事長がメモ書きし、それをもとに印刷原稿を作る仕事は、身近にいた人が行ったと考えるべきである。従って、「通諜」の筆跡は戸田理事長のものでなくて当然である。

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from: 21世紀さん

2011年07月15日 19時24分28秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<理事長名>

************************************************************
なにゆえそのような重大な方針転換を会長の名で出さないのか?応急処置がこれだというのなら、会長名で出すのが自然である。弾圧を避けるためというのなら、牧口会長を守るという観点からもそれが当然である。(旧sf:2075)
------------------------------------------------------------
緊急のことでもあり、原稿の作成や印刷の手配など、戸田氏の責任で行ったのであろう。戸田氏と牧口会長が一体の関係であったことは、会員の間に広く浸透していたであろうし、立場上も「理事長」であるから、会内の重要事項を理事長名で出すことに何ら問題はない。現在の学会の会則では理事長が「代表役員」の地位にあり、「臨時に会長の職務を行う」とある。世間的にも理事長が、緊急時その他において代表者として行動することは不自然とはいえない。

◆第14条 理事長は、会長を補佐し、会務を掌理し、会長に事故のあるときまたは会長が欠けたとき、臨時に、会長の職務を行なう。(現在の学会会則)

◆第15条 理事長は、宗教法人「創価学会」の代表役員を兼務する。(現在の学会会則)

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from: 21世紀さん

2011年07月15日 19時14分38秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<押証番号>

************************************************************
 「これも返還された押収資料の一部」と写真説明された『大善生活實證録 第5回總會報告』と題する創価教育学会発行の本の表紙には、「治安維持法違反事件 被疑者 稲葉伊之助 證第二號」との文字がクッキリと読める。『慧妙』が気張ってカラー印刷した効果は抜群である。ほかにも短冊様の小さな紙が貼られており、押証番号がかすかに読み取れる。
 だがどうだ、肝心な「通諜」にはそれらのものはない。すなわち「通諜」は、戦中、押収されたものではなかったのである。
------------------------------------------------------------
 まず、『大善生活実証録』に貼(は)られていた「証第二号」の紙であるが、これは読んで字のごとし、「証拠として採用した第二番目の書類」という意であって、べつに押収書類のすべてに貼られていたわけではない(※ちなみに「押証番号」なる呼称は、学会が勝手に付けたものである)。
 しかも、まったく同じ内容の書類が30枚もあれば、仮にそれを証拠として採用したとしても、「証第○○号」と貼るのはそのうち1枚だけで、30枚すべてに貼ったりしないのは当然のことである。(『慧妙』H5.7.1)

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from: 21世紀さん

2011年07月14日 22時50分38秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<稲葉証言>

************************************************************
 稲葉「証言」は信用できない。稲葉は、縁戚関係である牧口会長はともかくも、戸田会長には深い恨みを持っていた。
 戦中の弾圧でもろくも崩れてしまった創価教育学会の理事・稲葉伊之助は、稲葉荘の実父である。その稲葉伊之助らに対し、戸田会長は公に厳しく評価を下している。
 「投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人をご本仏と知らぬ悲しさである。
 名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、21名のうち19名まで退転したのである」(戸田会長著『創価学会の歴史と確信』より引用)
 戸田会長は、さらに稲葉について、
 「狂人的警察官、不良の官吏、斎木という特高の巡査になぐられ、いじめられ、ついに死を覚悟して、取り調べのすきをうかがって2階から飛び降りたほど苦しんだ稲葉伊之助氏などは、4か年の刑をおそれて畜生界のすがたであった」(同)
 とも書いている。
 稲葉伊之助は法難のただ中にありながら、それを自覚せず、恐怖に囚われ精神に異常を来したのであった。
 この『創価学会の歴史と確信』は、戸田会長が会長に就任した昭和26年5月3日のすぐ後、同年7月10日に書かれたものである。その稲葉伊之助に対する戸田会長の評価を、息子である稲葉荘は快く思わず、創価学会より離れ、砂町教会(のちの白蓮院)に依拠した。いうならば、稲葉荘は戦後の檀徒のはしりである。
 この砂町教会には、創価教育学会のかつての副理事長でありながら、獄に長く繋がれたのは牧口会長、戸田理事長(当時)のせいと恨み、創価学会を忌み嫌っていた野島辰次もいた。
 野島や稲葉は、昭和27年4月の狸祭り事件の前後、砂町教会内に竜門講を結成し創価学会の組織切り崩しをおこなった。竜門講は、台頭する創価学会に反感を持つ坊主や法華講勢力を背景に、戦後第一次の檀徒活動をおこなったのである。稲葉は、その竜門講の中核メンバーであった。
 これらの経緯から、稲葉「証言」は信憑性に欠けるのである。(『地涌』第666号)
------------------------------------------------------------
 まず、稲葉伊之助氏が「精神に異常をきたした」などというのは、まったくの事実無根のことであるし、氏は昭和25年に亡くなるまで、一貫して学会員として通した人だったのである。
 しかるを、子息の荘(さかり)氏憎さのあまりとはいえ、生涯を通じて学会員であった伊之助氏に対し、気違い呼ばわりするわ、造反者扱いするわ―もう、ムチャクチャである。
 また、荘氏本人についても、氏は戸田会長とは最後まで親交を貫いていたから、氏が戸田会長を深く恨んでいた、などというのはまったくの大嘘である。
 ただ、狸祭り事件を契機に、荘氏は「学会組織の暴力的体質にだけは、どうしても付いていけない」として、戸田会長にことわった上で円満に砂町教会へと移ったのだが、その時は、すでに竜門講は存在していたから、「野島や稲葉は竜門講を結成し」などというのも、もちろん事実に反している。また、それからの氏が、竜門講の中核メンバーとして学会切り崩しを行った、などという事実はどこにもない。(『慧妙』H5.7.1)

 稲葉氏は、牧口常三郎氏とは身内の関係(稲葉氏の姉は牧口家に嫁いでいる)になる上、稲葉氏夫人の父親替わりを務めたのは戸田会長であり、そのような関係上、戸田会長も講義の帰り途、しばしば稲葉氏宅に寄っては酒を飲む、というほど親密な間柄を続けたのであった。
 ゆえに、稲葉氏が、牧口氏や戸田氏や学会を恨むような事は、何ひとつないのである。ただ、氏としては、あくまでも事実を事実として述べたい、との、実直な考えの上から、当時あったこと(神札問題と「通諜」の件)をありのまま語っているにすぎない。(『慧妙』H5.9.16)

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from: 21世紀さん

2011年07月13日 14時06分10秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<出処と出回った経緯>

************************************************************
この書面が出まわったのは、宗門と創価学会とのあいだが少しギクシャクしはじめた、昭和52年の8月の終わりか9月の初め頃であった。それ以前には見た者もまったくおらず、もちろんのこと、その存在すらも語られたことはなかった。昭和52年に突然、それもコピーのみが世の中に出まわりはじめたのである。実に不可解なことである。(『地涌』第61号)
------------------------------------------------------------
 昭和51年春、学会系企業「シナノ企画」により、映画『続・人間革命』が製作された。48年の本編に続き、この続編についても日蓮正宗宗門は、学会からの要請で製作に全面協力をした。
 が、その内容に関し、史実の歪められている箇処があるとして、不快に思った僧侶Y師が、旧知の間柄だった稲葉氏に胸の内を語った。
 その会話の中で、稲葉氏が
 「学会では、"本山は神札を受けて謗法を犯したが、学会だけはこれを拒否して弾圧された"などと言っているけども、それは事実と違う。その証拠に、うちには、こんなものが残っている」
といって、自宅地下室から持ち出したのが、かの、「戸田城外理事長」名での「通諜」だったのである。
 これがY師の手を経て、52年問題の時にコピーとなって宗内に出廻った、という次第であって、そこには、学会側の妄想するような「戦後入信の、ある特定の法華講員」など、まったく介在しておらない。(『慧妙』H5.9.16)

 この文書は、東京の稲葉荘氏(学会の初代総務・稲葉伊之助氏の子息)宅に保管されていたものである。
 昭和18年7月6日、牧口会長・戸田理事長・矢島周平氏・稲葉伊之助氏らが逮捕された際、各人の家は特高警察の刑事達によって捜索され、関係資料の一切(この中には、なんと御本尊までが含まれていた)が押収されてしまった。
 稲葉氏宅の場合、この押収資料が返還されることになったのは、ようやく戦後10年も経った昭和30年頃のことであり、リヤカーを引いて資料の受け取りに行ったということである。
 その折、伊之助氏の娘(荘氏の姉)が牧口氏の子息・洋三氏(戦死)に嫁いでいる、という縁戚関係があったことから、当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏はハトロン紙に包んだ返還資料を2人分(2個口)持ち帰ってきた。
 そして、当時既に2代会長に就任していた戸田会長に架電し、牧口氏の分の返還資料の処置について相談したところ、
 「それは荘君が保管してくれ」
との指示であった。
 そこで稲葉氏宅では、いったん2個の包みを開き、その中味を一緒に保管するところとなったのだが、昭和35年に池田が3代会長に就任して後、柏原ヤスを通じて、
 「保管されている牧口先生の分の資料を、記念品として学会に引き渡して欲しい」
旨、申し入れがなされた。
 こうして、ほとんどの牧口氏の資料が学会に引き渡されたのだが、稲葉氏宅では、2個の包みをほどいて中味だけを一緒に保管していたため、牧口氏の携行用の小さな御書を含め若干の引渡し洩れが生じたのであった。そして-この引渡し洩れの牧口氏の資料の中にあったか、あるいは稲葉氏の分の資料の中にあったか、定かに区分けすることはできないが、ともかく、そのとき稲葉氏宅に残った資料の中に、ワラ半紙にガリ版刷りの「通諜」があったのである。その数、およそ30枚―。
 稲葉氏宅では、この文書がそれほど重大な問題になるものとは夢にも思わず、他の資料と共に、再び地下室に収蔵したのであった。その後、湿気の多い地下室に長期収蔵されたため、同文書は多くが破損滅失し、残りは各関係先へ資料として寄贈された(幸いにして3通の「通諜」の現存が確認されている)。
 以上が、稲葉氏宅に「通諜」が伝わった経緯である。(『慧妙』H5.6.1編集)

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from: 21世紀さん

2011年07月13日 14時03分39秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
<保存状態>

************************************************************
 「通諜」とやらのコピーを見ると、書面の四方がボロボロになっており、余白の部分も朽ちたように穴があちこちにあいているのがわかる。ところがそこまで朽ち果てているのに、なぜか文字だけはすべて判読できるのである。
 また、書面の真ん中には縦に汚れが走っている。まるで長い間2つに折られてほこり焼けしたかのようになっている。それなのに、四方の朽ち果てたような破れは左右対称でない。余白の破れも同様である。真ん中がほこり焼けするほど長い間折られていたのであれば、当然のことながら朽ち方も左右対称であるはずだ。外見からだけでも、いろいろと疑念のわいてくる書面である。(『地涌』第61号)
------------------------------------------------------------
◆なぜか文字だけはすべて判読できる
-----------------------
「通諜」は複数確認されている。今回『慧妙』紙が公表したカラー写真では、文字の部分にもシッカリ(?)穴が開いていて判読できない(笑)

◆まるで長い間2つに折られてほこり焼けしたかのようになっている
-----------------------
憶測に過ぎない。

●今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘氏(学会の初代総務・稲葉伊之助氏の子息)で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気で周辺部がボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳(たた)まれて保存されているが、畳まれたときの破損状況は理にかなって作為はあり得ない。(実物確認をしたフリージャーナリストの溝口敦『慧妙』H5.8.16)

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from: 21世紀さん

2011年07月12日 22時45分45秒

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「Re:牧口常三郎の実像」

「通諜」問題総括

--------------------------------------------------------------------------------

[画像]:「通諜」のカラー写真
創価学会教育学会各理事
 仝     各支部長  殿
           理事長  戸田城外
 通諜
時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員には益々尽忠報国の念を強め会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦ひ抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一 毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。
一 学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一 感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一 創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一 皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。
 以上
6月25日


(『慧妙』H5.7.1)
【「通諜」】
<日付>

************************************************************
「通諜」に書かれている「6月25日」との日付を、昭和18年のことであると一方的に断定している。なぜ「6月25日」が昭和18年だと判断するのかについては一切、触れられていない。(『地涌』第60号)
------------------------------------------------------------
言わずもがなの愚問です。「通諜」の趣旨は、神札を粗末に扱わないように会員に、指示徹底することです。もし、この「通諜」が昭和18年6月初旬以前のものであれば、本山から神札の受け取り指示があるはずがない。また、牧口会長・戸田理事長が逮捕されたのが昭和18年7月であるから、それ以後に、このような「通諜」が作成されるはずがない。つまり、その内容から考えて「通諜」の「6月25日」という日付は、昭和18年以外にはありえないのである。

●戰局も悲運にかたむき、官權の思想取締が徹底化して來た昭和18年6月初旬に総本山から「学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事7名登山せよ」という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隱尊猊下おそろいの場に御呼出しで(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日坊御住職)から「神札をくばつて來たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざつているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一應受け取つているから学会でもそのように指導するようにせよ」と御命令があつた。(戸田会長の談話『聖教新聞』S27.6.10/『地涌』第667号)
-----------------------
 これは、戸田会長が機関紙に公式に発表した内容である。ここには"神札指導"の年月日を「昭和18年6月初旬」と断言しているではないか。「6月初旬」は、総本山から「登山せよ」と御命令があった日であるから、登山は別の日とも考えられるが、「これを受けた学会幹部が至急登山」との記述から考えれば、どんなに遅くとも10日以内には登山したことであろう。とすれば、仮に御命令の日が6月10日であったとしても、6月20日までには登山していたと見るべきであろう。
 尚、『慧妙』(H5.6.1等)では"神札指導"の日を6月20日としている。しかし、その根拠については確認できていないので、当サイトとしては一応6月初旬を"神札指導"のあった日とする。



************************************************************
神札甘受を言い渡されたのは、6月27日(fb:7467/2005-10-25)
------------------------------------------------------------
学会員が証拠として出してきた「和泉ミヨさんの手帳」には「6月27日」の項が紹介されていないのは何故か?(笑)この記述は『創価新報』(H15.11.5)を鵜呑みにしたものであろうが、「27日」の根拠はまったく示されていない。

◆同年6月初旬、牧口、戸田両氏が二上人立ち会いの下、渡辺慈海庶務部長(当時)より神札を受けるよう申し渡された(『地涌』第33号)
-----------------------
学会側謀略誌も「6月初旬」としている。

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from: 21世紀さん

2011年07月11日 22時12分59秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(完結編)

--------------------------------------------------------------------------------

(『慧妙』H5.9.16)

 連載してきた「―屁理屈を破す」も、いちおう今回をもって終了する。
 そこで今回は、これまで論述してきた内容についての若干の補足、及び追加説明を加えておこう。


【「弁護士との相談が"応急策"」という大嘘】
―弁護士つかなかった当時の学会―
 まず、本紙第15号で述べた、
 「牧口氏が弁護士と共に対応策を練った、それが『会長の応急策』だった―というのは大ウソ。思想犯と睨(にら)まれた学会には、牧口逮捕後においてすら弁護士がつかなかった」(要旨)
という点について、かつて学会側で出していた資料を紹介する。
 「牧口会長は、8月(※昭和18年)に東京・巣鴨の東京拘置所に移され、同じく戸田理事長も、同拘置所で、本格的な取り調べをうけた。しかし、思想犯ということで、弁護士もなかなかつかず、取り調べも、進まなかった。」(創価学会発行『創価学会40年史』)
 「治安維持法違反と不敬罪という罪名のために、後難を恐れて弁護士さえなかなか決まらなかった。」(聖教新聞社発行・創価学会45年史『革命の大河』)
 「牧口に弁護士をつけようと努力した有志もいた。19年春、藤森富作が『弁護届け』をもって東京拘置所へ行った。牧口の拇印をもらいにである。典獄(現在の所長にあたる)は、さっそく部下を通して拇印をとりに行かせた。その部下は『弁護士届け』を差し出した。しかし、牧口は拇印を押そうとしなかった。
 ところが、藤森が戻ってきた部下に『藤森がきておりますと伝えてください』と頼むと、今度は、牧口は珍しくニコニコして『そうか、そうか』といって気持ちよく拇印を押した。弟子の心づかいがうれしかったのであろう。」(聖教新聞社編『牧口常三郎』)
 これらを見ても明らかなように、思想犯として当局から睨まれ、(学会側の説によれば)すでに昭和18年初頭から2度にわたって警視庁で取り調べを受けていた牧口らを支援する弁護士は、1人としていなかった。いなかったからこそ、逮捕後も弁護士が見つからなかったし、逮捕の翌19年になって、はじめて弁護士を捜す手続きを開始しているのである。
 これで学会の嘘は明白だ。学会よ、もう観念して、いいかげんな作り話はよせ。だいたい、ほとんど寝たきりになっている小平芳平氏の名を利用し、こんな嘘を発表するなんて、良識ある人間のすることではあるまい。


【「通諜」が世に出廻った経緯】
―稲葉氏と牧口・戸田両会長の関係―
 次に、稲葉荘(さかり)氏が「通諜」を世に出した経緯につき、触れておく。
 昭和51年春、学会系企業「シナノ企画」により、映画『続・人間革命』が製作された。48年の本編に続き、この続編についても日蓮正宗宗門は、学会からの要請で製作に全面協力をした。
 が、その内容に関し、史実の歪められている箇処があるとして、不快に思った僧侶Y師が、旧知の間柄だった稲葉氏に胸の内を語った。
 その会話の中で、稲葉氏が
 「学会では、"本山は神札を受けて謗法を犯したが、学会だけはこれを拒否して弾圧された"などと言っているけども、それは事実と違う。その証拠に、うちには、こんなものが残っている」
といって、自宅地下室から持ち出したのが、かの、「戸田城外理事長」名での「通諜」だったのである。
 これがY師の手を経て、52年問題の時にコピーとなって宗内に出廻った、という次第であって、そこには、学会側の妄想するような「戦後入信の、ある特定の法華講員」など、まったく介在しておらない。
 なお、稲葉氏のことに触れたついでに、本紙第12号で述べた、
 「"稲葉荘氏が戸田会長と学会を深く恨んでいた"などは真っ赤な嘘。氏は戸田会長と最後まで親交を貫いていた」(要旨)
という点をもう少し詳しく補足しておく。
 稲葉氏は、牧口常三郎氏とは身内の関係(稲葉氏の姉は牧口家に嫁いでいる)になる上、稲葉氏夫人の父親替わりを務めたのは戸田会長であり、そのような関係上、戸田会長も講義の帰り途、しばしば稲葉氏宅に寄っては酒を飲む、というほど親密な間柄を続けたのであった。
 ゆえに、稲葉氏が、牧口氏や戸田氏や学会を恨むような事は、何ひとつないのである。ただ、氏としては、あくまでも事実を事実として述べたい、との、実直な考えの上から、当時あったこと(神札問題と「通諜」の件)をありのまま語っているにすぎない。
 どす黒い腹の学会幹部には、そうした氏の心情はまったく理解できず、"戸田会長への深い恨みがあるに違いない"としか思えないらしい。じつに哀れな連中ではある。


【切り文で本紙の記事を改ざん】
―良識のカケラもない悪徳編集子―
 次に、学会側の反論・批判の支離滅裂ぶり、狂いぶりについて、2、3、指摘しておきたい。
 『創価新報』(6月16日号・4面)に、「通諜問題」と題して、
 「何とカラー写真で逆に押収物でないことを証明」
 「『慧妙』も認めた・『通諜』はだれも見ず知らずの幽霊」
 「化けの皮はがされた『戦中作成説』」
等の見出し付き記事が掲載されている。
このうち、最初の見出しに示される「カラー写真で逆に押収物でないことを証明」云々という言い掛かりについては、すでに本紙第12号で粉砕済み(それに対して学会側は、真摯な対応をせず居直りを決め込んでいる)。
 残る2つの見出しの趣旨は、
 「『慧妙』の通諜論で化けの皮がはがされたのは、戦時中『通諜』を見た者はだれもいなかった、ということである。これは重要な記述である。『慧妙』では"野島氏以下ほとんどの幹部達は『通諜』の現物を見てすらいなかった""まだ配布されていない『通諜』なる文書が牧口氏宅からの押収資料の中にあった"つまり、だれも見ず、知らず、聞かず、だというのである」
というものだが、これがまったく呆れ果てたゴマカシなのである。
 すなわち、『新報』が本紙からの引用として挙げている2文の末尾には、それぞれ、「であろう」と「としても」の字句が故意に削除されており、本紙が、論を進める途中の推測および仮定として述べた文を、あたかも既定の新事実を明かした「重要な記述である」かのごとく改ざんしているのだ。
 このように、相手側の主張を勝手に歪曲しておいて、それを得意気に批判してみせる手口は、平成3年以降、学会が使ってきた常套(じょうとう)手段であり、これは、相手側を打ち破るというより、むしろ、自らの陣営側(学会員)に、学会の正しさを印象づける目的で行なわれている洗脳報道であり、戦時中の大本営発表と全く同じ性質のものである。もはや、学会には良識のカケラもない、といえよう。
 なお、『新報』の同記事の末尾には、
 「それにしても『慧妙』編集子の程度の低さ。支離滅裂な推理といい、手の内を何でも明かしたがる幼稚さといい、話にもならない幼年探偵団だ」
などという捨てゼリフが吐き捨てられてあったが、学会に都合の悪い事実は全て隠蔽(いんぺい)し、宗門攻撃の材料として使えそうな話だけを選別して、断定的かつ針小棒大に報道するのが常識の"悪徳編集子"の眼から見れば、取材結果をそのつど全てオープンに報道し、推測は推測として有り体に記述する本紙の姿勢が、かように異和感を伴って映ずるのであろう。したがって、これは、『新報』から本紙に対する、ある意味で正しい評価ともいえるが、あえて嫌味な御礼までは言わないでおく。


【「健気(けなげ)な信徒団体」だなんて悪い冗談】
―悲哀!天に唾(つば)ならぬ排泄物―
 最後に、この通諜問題での論争中、可笑(おか)しくて可笑しくて仕方のなかった、学会側の一文を引いて紹介したい。
 「どうして日蓮大聖人の末流に、謗法厳誡にして神札を峻拒(しゅんきょ)した健気(けなげ)な信徒団体があったことを認めないのであろうか。(略)依って立つべき聖なる地の無い者は、他を穢(けが)すことのみを喜びとするのである。誇るべき信も行も学も無い者の哀れな排池行為である。」(『地涌』第666号・不破優)
 僧誹謗、摧尊入卑(さいそんにゅうひ)、現代仏陀論、0分勤行、本尊模刻―等々等々、こんな輩が「謗法厳誡の健気な信徒団体」だなどと自讃しては、もう完全なブラック・ユーモアだ。
 その上、このような、まさに「依って立つべき聖なる地の無い者」が、無賛任な怪文書をバラまくなどして「他を穢すことのみを喜び」としているのだから、後半の文は全て彼ら自身のことを言い当てた文ではないか。だとすれば彼らは、自らの「哀れな排泄行為」によって生じた排池物を、自らの顔面にかぶって喜ぶ狂人のようなものだ。何とも悲哀の漂(ただよ)う、あまりに馬鹿げた姿ではないか。
 以上、通諜問題に関する学会の屁理屈を、おおむね破し了(おわ)った。もし、学会側が再反論に及ぶ気力を持ちあわせていたら、あらためて、とことんまで論じ合う所存である。(以上)


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from: 21世紀さん

2011年07月10日 08時28分41秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(下)

--------------------------------------------------------------------------------
―史実覆い隠す"小平談話"の嘘―

(『慧妙』H5.8.16)

 何としても「通諜」実在を否定したい学会は、これまで池田離れが噂されていた小平芳平氏(元・学会教学部長で、池田を折伏した人物)を創価新報(六月十六日号)に登場させ、インタビュー記事の形での談話を発表した。
 ところが、これまた、史実に反する嘘と苦しい言い訳に終始しており、まったく用をなしておらない。
 以下、まとめて指摘しておこう。

<牧口氏は日本の侵略戦争を翼賛>
―小平氏はその史実を忘れたのか―
 まず第一に、小平氏は
 「(牧口会長は)日本軍が占領した海外の各地に神社をつくり、他民族に礼拝を強制したことに対して、日本民族の思い上がりも甚だしいと激しく非難していました」
等、さも、牧口氏が日本の侵略戦争に反対していたかのごとく述べているが、これは当時の史実に反する真っ赤な嘘である。(でなければ、小平氏も学会の洗脳によって、そう思い込んでいるのか)
 すなわち、戸田会長著の『人間革命』によれば、戦時中、牧口氏は
 「森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、一年の後か、二年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい」
 「国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ」
 「国家諌暁をしなければ、日本は惨憺たる敗戦を招く!」
等々の発言をしていたことが明らかだし、また、『大善生活実証録』(昭和十七年十二月三十一日発行)によれば、創価教育学会第五回総会(むろん牧口氏が主催した)の席上、理事の1人に
 「いまや、島国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、さらに南洋諸島を経て西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙疆満州に至るのは広大な戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつある」
※【聖戦】宗教的に神聖とみなされる目的のために戦われる戦争。また、正義の戦い。(三省堂提供『大辞林』第2版=法蔵)
との発表をさせている。そればかりか、当時の学会の総会においては、毎回のように、
 「牧口会長の発声で天皇陛下の万歳を三唱し奉って」(第四回総会)
 「吉田理事の指導にて、遠く戦野にある牧口会長令息・洋三君をしのぶ軍歌を高唱し、(中略)牧口会長の発声にて、聖寿(天皇の年齢をさす)の万歳を三唱し奉って」(第五回総会)
いたのである。
 かかる思想であった当時の牧口氏が、日本の占領地政策等に対し「日本民族の思い上がりも甚だしいと激しく非難」などするハズがなかろう。牧口氏(および氏の弟子達)は、明確に、日本の侵略戦争を翼賛し、日本による諸国征服を期待していたのだ。
 このような明らかな史実を、なぜ、小平氏は覆い隠そうとするのか。もし、史実を忘れてしまった、あるいは曲げて記憶していた、というなら、それが学会による洗脳(マインド・コントロール)の成果であると知るべきであろう。

<牧口氏の本心は講演内容に明白>
―靖国神社参拝を是認した牧口氏―
 第二に、小平氏は
 「牧口先生の訊問調書を読めば、先生の言い分が神社参拝を否定してきた本来の日蓮正宗の教えに基づくことは、すぐに分かります」
などと述べている。
 しかしながら、牧口氏の本心がより明らかに表れているのは、取調べ検事が押収書籍(堀日亨上人の『日蓮正宗綱要』など)の内容を盛り込んで作成した"訊問調書"よりも、牧口氏の自発意志で行われた"総会での講演"記録であろう。そこには、牧口氏の記録として
 「吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よくぞ国家の為に働いて下さった。有難うございます』といふお礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。もし、『あゝして下さい、こうして下さい』と靖国神社へ祈願する人があれば、それは恩を受けた人に金を借りに行くやうなもので、こんな間違った話はない。
 天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神(あらひとがみ)であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば吾々は神聖にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)天照大神のお札をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考え奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確信するのである。またこれが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である」(大善生活実証録)
と述べられており、牧口氏自ら靖国神社へ参拝していた(もしくは参拝を問題なく許容していた)ことが明らかではないか。いったい、どこが「本来の日蓮正宗の教え」だというのか。
 また、小平氏は
 「(天皇一元論は)当時の世相のなかで神札を拒む合法的な一つの便法として、指導・徹底されたもの」
とも言っているが、そもそも一方で"靖国神社参拝容認発言"があるのに、これでは、まったく苦しい言い逃れにしか見えぬであろう。

<「字の間違い」云々の言い掛かり>
―かえって「通諜」の信憑性を高める―
 第三は、小平氏は
 「そもそも、いまコピーで出回っている『通諜』なるものは、字が間違っています。正しくは『通牒』ですよね。こんなひどい間違いを、戦時中、厳格な教育者であった牧口先生や戸田先生が」云々
などと、何故か『地涌』(第61号)の論旨丸写しの発言をしているが、だいたい、非常時下、慌(あわ)てふためいて作った文書(それも、ガリ版の原紙を書くのは、牧口・戸田両氏が直接ではなく、担当者がいたことだろう)であれば、字の間違いがあっても何ら不思議ではない。
 それよりも、むしろ後年の偽作だとした場合には、時間の余裕もある中で、念入りに作るであろうから、字の間違いなど起こりえぬであろう。したがって、逆に、この単純なミスが「通諜」の信憑性を高めている、とすら感ぜられるのである。

<見苦しい言い訳や怪釈はよせ>
―「不本意だが従った」の文意明らか―
 第四に、小平氏は、自らが『富士宗学要集』第九巻に記載した文について、
 「『暫く柔らかにお受けした』というのは、本山からの話を無下に拒否するのではなく、一応、話は"お受け"した、つまり聞いたという意味で、特に本山の忠告を"受け入れた"意味ではありません。したがって『その場では』と記しているのです。(中略)実際、本山の話の内容を受け入れなかったことは、すぐ次下に"が、心中には牧口会長は、神札を拝むべきでない等と、日蓮大聖人、日興上人の正義を主張されていた"と記した通りなんです」
等々と、訳のわからぬ言い訳をしている。
 いったい、氏には日本語の意味(それも自身の書いた文の意味)がわからぬのか。「一応、話は"お受け"した」「"が、心中には、牧口会長は、神札を拝むべきでない等と、日蓮大聖人、日興上人の正義を主張されていた"」との表現は、誰が考えても"内心は不本意だったが、忠告には従った"との意味ではないか。
 この他にも氏は、「当時は、そういう言い方をしたんですよね。"話はお受け帰ってきた"といったように」等、ますます訳のわからぬ弁明を試みているが、まったく見苦しいかぎり、という他はない。

<「弁護士を加えた対応策」との嘘>
―小平氏よ、当時の状況思い出せ―
 第五に、小平氏は、本紙が投げかけてあった"すでに手遅れだった会長の応急策とは何か"との疑問に対し、
 「この"応急策"の記述は、六月本山から帰った後のことではありません。当時の弾圧の準備は、この年に入って急速に進み、四月、五月ごろには、理事クラスの逮捕や先ほども述べた牧口会長の中野署での取調べのように、もう現実段階に入っていました。
 そこで、これらの当局の不穏な動きに対して、牧口会長のもと弁護士なども入って真剣に対応策を練っていたんです。ただ、もはや、弾圧の流れは止まらない勢いになっていたため、間に合わなかったのです」
等と述べ、「会長の応急策」とは「弁護士なども入って」練っていた「対応策」にすぎない、としている。
 しかし、氏よ、よくよく、当時の状況を思い出してみるがよかろう。
 学会は当時、治安維持法違反(要するに思想犯)の容疑で当局から狙われ、取り締りを受けた。思想犯に荷担する者は、また思想犯の一味と見なされる時代であったから、学会には、弾圧以前も以後も、弁護士などつかなかったのである(それを証明する当時の記録も数多ある)。
 しかるを、牧口氏が弁護士と共に対応策を練った、それが「会長の応急策」だった、などとは、よくも言えたもの。どうせ五十年も前のことだから、何を言っても大丈夫、と思ったのかもしれないが、あまり白々しいゴマカシは止めることだ。
以上、新報(六月十六日号)掲載の"小平談話"の誤りと嘘について指摘してきたが、このデタラメ度合いからして、これが本当に小平氏の語ったとおりの内容なのか、どうか―それすら疑わしくなってくるのである。(次号「完結編」へ続く)


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