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  • from: 21世紀さん

    2011/06/26 19:34:19

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    牧口常三郎の実像

    牧口常三郎関連年表

    --------------------------------------------------------------------------------

    <明治36年> 『人生地理学』を発刊
    ●同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
    -----------------------
    しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。


    <大正1年>
    ●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
    -----------------------
    この国家観は入信後も変わらなかったようである。


    <大正3年頃> 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(<芳野朝廷研究会>WS)
    [画像]:大日本皇道立教会のメンバー


    <大正5年> 『地理教授の方法及内容の研究』を著す
    ●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)


    <昭和3年>
    ・6月 東京・常在寺所属の信徒で直達講講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信

    ・秋 後の戸田城聖2代会長も、三谷氏の折伏で入信(『慧妙』H18.3.1)
    ●(牧口氏入信の動機について)貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう(柳田国男著『牧口君入信の動機』/『慧妙』H18.3.1)


    <昭和5年>
    ・11月 「創価教育学会」の名で『創価教育学大系』第1巻を発刊(この日が後に"学会創立の日"とコジツケられた)


    <昭和6年>
    ●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

    ・3月 『創価教育学大系』第2巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表
    ◆百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです(牧口常三郎『獄中書簡』/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
     すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘(ひろ)めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕(あら)わしたのだから、三障四魔が紛然と競(きそ)い起こるのは当然、というのです。
     これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全くの本末顛倒(ほんまつてんとう)という他ありません。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度(さいど)の教であることになりますから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師"であるということになってしまいます(事実、かの52年路線の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となりました)。
     結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪(ゆが)め、それが後の創価学会異流義化の温床になった、といえるでありましょう。(『慧妙』H18.3.1)


     さて、こうした異質な思想をもつ牧口氏は、氏の教化親(きょうけおや)であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相(あい)容(い)れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなります。
     これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂(たもと)を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮(※住職は堀米泰栄尊師=後の第65世日淳上人)を事実上の所属寺院とするようになりました。(『慧妙』H18.3.1)


    <昭和12年>
    ・夏 創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)

     昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗しはじめたのです。
     それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧(きぐ)を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれています(当時の僧侶、信徒の証言)。
     実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係険悪化を裏付けています。
     この時の牧口氏は、よほど日淳上人に反発を覚えたのでしょう、会員達を使って、上人に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊し上げまで行なったのです。その事実は、当時の会員の証言や、覚え書きによって伝えられるところです。

    ●牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、「もう貴僧の指導は受けない」と、席を蹴(け)って退去(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
    こうして、上人との関係が険悪化したことから、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱(しか)りつけました。(『慧妙』H18.3.1)

    ●本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
    牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われます。とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨(むね)とする宗であります。そのような不遜(ふそん)な牧口一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思(おぼ)し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう、手配なされたのでした。(『慧妙』H18.3.1)


    <昭和16年>
    ・11月
    ●北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)


    <昭和17年>
    ・1月
    ●警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

    ・5月 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

    ・5月17日 創価教育学会第4回総会

    ・11月 創価教育学会第5回総会


    <昭和18年>
    ・4月 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

    ・5月
    ●牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

    ・6月
    ●東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

    ・6月初旬 本山での神札指導
    ●学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

    ・7月6日 牧口、逮捕
    ●牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)


    <昭和19年>
    ・9月6日
    ●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
    -----------------------
    牧口会長による日淳上人誹謗を懺悔


    <昭和20年>
    ・7月5日
    ●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)

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コメント: 全55件

from: 21世紀さん

2011/06/26 19:48:33

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「Re:牧口常三郎の実像」
牧口常三郎の戦争観

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<天皇制>
一般人以上に天皇への忠誠を大切にし、天皇と国家は一体と考えていた。弾圧回避の組織防衛のためとはいえ、感謝のための神社参拝を容認し、天皇は現人神などとする邪義を展開。神札については、当初は撤去焼却していたが、本山の指導に従い、柔軟に対応しようとする。逮捕後は、国法遵守を一層明確にする。

<戦争観>
侵略戦争である15年戦争(特に太平洋戦争)の最終局面を『立正安国論』で説く他国侵逼難と捉え、その原因は謗法であると主張。しかし、その一方で、日本の海外派兵、参戦を容認。戦勝を願い、戦勝のためには国家諌暁が必要だと考えていた。ただし、国家諌暁の事実はなく、逮捕後は「国法にはどんなにでも服従する」と。



【関連年表】

【池田学会、歴史を捏造】

【天皇中心主義】

【戦争翼賛する牧口学会】

【「国家諌暁」への執着と世相無視の行動】
<国家諌暁>
<世相を無視し宗熱に突喊(とっかん)し官憲の横暴を徴発した牧口学会>
<訊問調書>
<戦争翼賛は組織擁護の方便?>
<検閲について>

【柳田國男の証言】

【『人生地理学』】

【『立正安国論』と平和主義】
<戦争反対と「立正安国」は次元が違う>
<第65世日淳上人>

【戯論粉砕】

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【関連年表】
・1903(M36) 『人生地理学』を発刊
●同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
-----------------------
しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。

・1912(T1)
●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
-----------------------
この国家観は入信後も変わらなかったようである。

・1914(T3)頃 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(<芳野朝廷研究会>WS)
[画像]:大日本皇道立教会のメンバー

・1916(T5) 『地理教授の方法及内容の研究』を著す
●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)

・1925(T14) 治安維持法

・1928(S3)6. 日蓮正宗に入信。続いて戸田も牧口の紹介で入信(『牧口常三郎全集』第10巻78頁)

・1930(S5)11.18 「創価教育学会」(創価学会の前身)を創立(<SOKAnet>WS)
●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

・1931(S6) 満州事変(15年戦争開始)

・1937(S12) 日支事変

・1941(S16)11.
●北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)

・1941(S16)12.8 太平洋戦争開始

・1942(S17)1.
●警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・1942(S17)1.6 大都市配給制実施(『富士年表』)

・1942(S17)4.18 米B25爆撃機13機日本本土を初空襲(同)

・1942(S17)5. 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

・1942(S17)5.17 創価教育学会第4回総会

・1942(S17)11. 創価教育学会第5回総会

・1943(S18)4. 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

・1943(S18)5.
●牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

・1943(S18)6.
●東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

・1943(S18)6.初旬 本山での神札指導
●学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

・1943(S18)7.6 牧口、逮捕
●牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・1943(S18)10.15 従来の建物・施設疎開に加えて、建物疎開に伴う人員疎開対象地区として京浜、阪神、名古屋及び北九州が重要都市に定められた。(『牧口常三郎全集』第10巻328頁)

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from: 21世紀さん

2011/06/27 19:18:35

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「Re:牧口常三郎の実像」
【池田学会、歴史を捏造】

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国家が強権で民衆をおさえこんだ時代。創価学会牧口(常三郎)初代会長は、国家主義にかたよらない、世界市民の育成を訴えた。侵略戦争に反対し、信教の自由のために苦闘した。そのため、牧口会長と戸田(城外)理事長(当時)は不当にも逮捕され投獄(1943年)。牧口会長は1944年11月18日、獄中に殉じ、1945年7月3日、戸田理事長は衰弱した体で豊多摩刑務所を出獄。壊滅させられた創価学会の再建に歩み出した(『SGIグラフ』H11.5/『フォーラム21』H14.3.15)
------------------------------------------------------------
牧口や戸田が不敬罪や治安維持法違反で逮捕されたことは事実だが、その理由を「国家主義にかたよらない、世界市民の育成を訴えた。侵略戦争に反対し、信教の自由のために苦闘した」ことによると主張することは、真っ赤なウソであり、歴史の偽造以外のなにものでもない。

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from: 21世紀さん

2011/06/27 19:20:18

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「Re:牧口常三郎の実像」
【天皇中心主義】
●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
-----------------------
ここには「国」に優先して「個」を大事にし、国家よりも子どもの幸せを優先するという考えは微塵もみられない。

●我国の主権は、即ち万世一系の天皇にましまして、吾々国民から言へば上に万世一系の皇室を戴(いただ)き奉(たてまつ)るのである(T5「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻277頁/『慧妙』H17.11.1)
-----------------------
我が国の主権者は天皇・皇室であることをしっかりと教え込め、と訴えているのだ。

●我々は天皇陛下の御為に、1人でも多く折伏し、実行を以て示さねばならぬ(S16.7「目的観の確立」『牧口常三郎全集』第10巻8頁)

●東亜共栄圏乃至世界列国にこれからの新秩序の中核として吾等が実証によってこゝに提供せんとする最高価値の大善生活法は、人生の理想として何人も渇望する所のものであり、仏教の極意たる成仏法こそ之に応じた妙法であり、又「惟神(かんながら)の道」の真髄も之でなければなるまい。所謂(いわゆる)皇道精神もこれ以外にあるべきはない(S16.8.20「大善生活法の提唱」『牧口常三郎全集』第10巻9頁)
-----------------------
[惟神の道]かんながら-のみち=神代から伝わってきて、神のみこころのままで人為の加わっていない道。神道(しんとう)。〔近世、国学者が用いたことに始まる〕(『大辞林』)

●大臣も知事も他の百官も権力に於いては悉く、天皇陛下の大御稜威(みいつ)に摂(せっ)せられる。故に一切の政治機関のあらゆる権力は悉く、天皇陛下の統治権の発動に過ぎない(S16.12.5「大善生活法の実践」『牧口常三郎全集』第10巻18頁)

1●万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち天照太神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されているのである。されば吾々は神聖にして犯すべからずとある「天皇」を最上と思念奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。「義は君臣、情は父子」と仰せられているように、吾々国民は常に天皇の御稜威の中にあるのである。恐れ多いことであるが、十善の徳をお積み遊ばされて、天皇のお位におつき遊ばされると、陛下も憲法に従い遊ばすのである。即ち人法一致によって現人神とならせられるのであって、吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。(S17.11『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻363頁)
-----------------------
「人法一致」などという語をつかって、宗義にはない思想を展開してまで、皇国思想におもねる。

2●吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(S17.11第5回総会「大善生活実証録」『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
-----------------------
"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)

●学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと(戸田城外=城聖「通諜」S18.6.25)
-----------------------
文面を考えたのは戸田理事長(当時)である。しかし、「天皇中心主義」という語は、大日本皇道立教会なる団体に所属するなど、天皇制に対して深い思い入れのあった牧口会長が口にしていたものであろう。この語は牧口会長の造語ではなく、当時大石寺に出入りしていたという極右団体がさかんに使っていたという(<「通諜」問題総括>参照)。↓

●極右の朝日平吾も大石寺に参篭したことのある人である。 また他面、牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠尊と山峰氏のお話から感じられた。・・・(元直達講副講頭・竹尾清澄『畑毛日記』/『慧妙』H6?)
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朝日平吾は大正時代の人であるが、牧口氏の入信が昭和3年であるから、あるいは入信前(内得信仰時代またはそれ以前)に、折伏親の三谷素啓氏らを通じて交流があったのかも知れない。上記記述は、別のテーマ(牧口氏らが日淳上人を誹謗し、宗門と疎遠になった経緯)で紹介された『畑毛日記』の記事の端っこに偶々掲載されたものでる。そのため残念ながら、前段の内容は不明である。しかし、「極右の朝日平吾も大石寺に参篭・・・また他面、牧口氏の側にも」とあるから、朝日平吾についての記述は、牧口氏との関連で書かれたことは間違いない。



************************************************************
>問 王仏冥合一天四海帰妙法と云ふ事は、上は 陛下より下国民に至る迄で日蓮正宗の本尊に帰依することなりや。
答 左様であります。

(「訊問調書」『牧口常三郎全集第10巻』201頁)
>天皇陛下も凡夫であって(中略)間違ひも無いではない。

(「訊問調書」『牧口常三郎全集第10巻』203頁)
>日本国民は 陛下に忠義を尽すのが臣民道であると考へます。之は私が法華経の真理から左様に悟って居るのであります。

(「訊問調書」『牧口常三郎全集第10巻』203頁)
------------------------------------------------------------
ここに書かれていることは、仏法の正義から逸脱しているようには思われない。これが、牧口会長の真意であると信じたいところである。が、しかし、逮捕前に公式の出版物で表明した天皇観(1●2●)は、仏法上の邪義が含まれている。これを、どう解釈するか。

[解釈1]=組織防衛のために1●2●のような邪義を方便として展開、訊問調書では本心を述べた。
-----------------------
戦後の創価学会が主張する牧口像="身命を賭して国家諌暁しようとし、最後まで神札拒否を貫いた"という主張と完全に矛盾する。また、組織防衛のために方便を駆使したというのなら、逮捕されても同様の主張をするはずである。そうでなければ、さらに逮捕者が拡大することになり、解散命令が出ないとも限らないからだ。解散命令が出なかったこと自体、訊問調書が宗義書に基づいて書かされたことを示唆する。

[解釈2]=組織防衛のために1●2●のような邪義を方便として展開。宗義書等が押収されていたから、その内容に沿った訊問調書が強制的に作成された(牧口会長自身の筆答であることを否定するものではない)。
-----------------------
戦後の創価学会が主張する牧口像="身命を賭して国家諌暁しようとし、最後まで神札拒否を貫いた"という主張と完全に矛盾する。

[解釈3]=1●2●の邪義は本心。訊問調書については、宗義書等が押収されていたから、その内容に沿って強制的に作成された(牧口会長自身の筆答であることを否定するものではない)。
-----------------------
この場合は、牧口会長の信念は貫かれた可能性を否定できない。しかし、その信念は仏法から逸脱していたことになる。

[解釈4]=1●2●の邪義は本心。訊問調書の内容も本心。
-----------------------
この場合は、牧口会長の信念は貫かれた可能性を否定できない。しかし、その信念は仏法から逸脱していたことになる。

★上記の解釈のうち、[解釈1]または[解釈2]が真実に近いと思われる。牧口会長が、日蓮正宗の本尊に帰依しなければ真実の幸福は得られないと考えていたことは、逮捕前の氏の主張からも明らかである。。頑なな神札拒否や性急な国家諌暁の主張は、その強い信仰心の現れと思われる。しかし、天皇の解釈については組織防衛のあまり、邪義を展開。頑なな神札拒否については、本山の指導後より柔軟となり、逮捕後の獄中書簡では、国法遵守の気持ちが一層明確に表明されている。すなわち、国家諌暁の主張は、宗門の指導後、一時的な反発もあったようであるが、結局撤回されたのである。

●我々は決して寺を遠のけとは言はない。寺を離れたら原理を失うことになり日蓮正宗でなくなる。是だけが正宗で他はすべて邪宗であります。(S17.5.17「大善生活実証録」『牧口常三郎全集』第10巻145頁)

●皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱いなき様充分注意すること(戸田城外=城聖「通諜」S18.6.25)

●国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。(牧口「獄中書簡」S19.3.16/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)

●御上の事は何んでも従ふ(牧口「獄中書簡」S19.3.27『牧口常三郎全集』第10巻405頁)

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from: 21世紀さん

2011/06/27 23:29:07

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「Re:牧口常三郎の実像」
【戦争翼賛する牧口学会】
●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(T5「地理教授の方法及内容の研究」/『牧口常三郎全集』第4巻273頁)
-----------------------
"外敵"に対する防御のみならず、日本の権勢拡大のためにも弱い国家に対して「力」を使え、と力説

●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)
-----------------------
創価教育学会が、、当初から反戦・平和を唱え、天皇制を批判していたのなら、軍人や植民地支配の最高責任者に顧問就任を要請するはずなどなく、また軍人らも、要請されたとしても、それを承(う)けようはずがない。

●最近、文部省が軍事訓練を課したるは、近ごろの大できである。……何という、今の非常国家に適切の忠告であろう(牧口常三郎「『光瑞縦横談』と教育・宗教革命」S11/『フォーラム21』H14.3.15)
-----------------------
「軍事教練」の義務化を賞賛する牧口に、軍国主義に反対する思想があったとはとうてい言えない。牧口会長は、戦争に反対するどころか、教育の分野においても戦時下に即した対応の必要性を認めていたのである。

●大善生活は個人主義生活や独善主義の生活ではなく、まして臆病なる寄生主義の生活でもなくて、勇敢なる全体主義の生活なることが解るであらう。全体主義とはいへ己を忘れるが為に、云ふべくして行はれないやうな空虚なる偽善生活ではなく、自他共に共栄することによって初めて、完全円満なる幸福に達し得る、真実なる全体主義の生活のことである。全体のためと共に、各個人にもその所を得しめる皇道精神の理想と一致することが知れるであらう(S16.10.20「大善生活法即ち人間の平凡生活に」『牧口常三郎全集』第10巻14頁)

●戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによつてのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである。(S16.10.20「価値創造」第3号/『牧口常三郎全集』第10巻18頁)

●(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
-----------------------
大東亜戦争(太平洋戦争)で赫々たる戦果があがっているのは、日本が法華経の護持の国であればこそであり、勝利の戦果を聞く時に総会を開催することは感激の極みだというのである。宮城遥拝に次いで首脳幹部が大東亜戦争の戦果を賞賛する。ここには侵略戦争に反対したという事実も、軍国主義に抵抗した事実も全く見あたらない。あるのは侵略戦争に迎合協力する体制翼賛団体としての創価教育学会の姿だけである。

●(※戸田理事長が披露した歌=幹部会員・四海民蔵作詩)男だ 日本人だ 日蓮正宗の信者だ 栄光ある生活改善同盟の戦士だ 大君のかがやく御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
-----------------------
「大君の御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む」とは、大東亜共栄圏の建設を目指した軍部政府のアピールそのものである。

●(※岩崎洋三理事)我々は大東亜戦争を戦ひ取っている、日本帝国の銃後の一員として課せられた一大使命を発見する者であります。産業報国が然り、職域奉公が然り貯金報国が然り簡素の生活が然り、而し斯る一通りの事に依って銃後の使命足れりとする創価教育学会の会員が万一ありとすればそは誤れるの甚しき物であります。然らば我等の使命は何ぞや。折伏之のみであります。折伏に於て此の幸福の生活を世間に延しひろめて、不安と疑と嫉妬と排斥ときづなと権謀の世界の消へ去った時こそ、たとへ何年でも大東亜共栄圏を戦ひ取る迄がんばり抜く銃後が築かれるのである(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
-----------------------
八紘一宇の思想に基づく大東亜共栄圏を建設するために、通り一遍の協力のみならず、「大東亜共栄圏を戦ひ取る迄がんばり抜」ける優秀なる「銃後の民」を築くのが、創価教育学会員の一大使命だというのである。創価教育学会の実態が、創価学会の言う「侵略戦争に反対」する「反戦・平和の団体」ではなく、軍国主義体制に迎合する体制翼賛団体であったことは、第4回総会での一連の幹部発言に照らせば明瞭である。

●「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を安堵(あんど)せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以(ゆえん)である。それは銃後に於けるすべての生活の理想の要諦でもある(S17.5「大善生活実験証明の指導要領」『牧口常三郎全集』第10巻129頁)

●(※理事の1人)いまや、島国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、さらに南洋諸島を経て西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙疆満州に至るのは広大な戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつある(創価教育学会第5回総会『大善生活実証録』S17.12.31発行)
-----------------------
[聖戦]=宗教的に神聖とみなされる目的のために戦われる戦争。また、正義の戦い。(三省堂『大辞林』第2版)

●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
-----------------------
これは、終戦後に出版されたものである。戦後の日本社会は反戦・平和思想が広く浸透しており、創価学会もその時流に乗り、反戦・平和を前面に掲げて活動している。そのような中で、池田学会は自己正当化のために"牧口会長は反戦論者であった"かのように喧伝している。しかし、戸田会長は、そのようには牧口会長のことを描いてはいなかったのである。戸田会長が描く牧口会長は「日本の民族は勇敢」であるから「米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させた」と、国粋主義者のような言動をとり、出征する会員に対して「前線で悔いのない働き」をするように激励していたのである。これは、終戦後の反戦思想の普及した時代に書かれたものであり、決して"会員擁護のための方便"などではない。

●(※牧口会長)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)

●洋三(牧口会長の三男、享年38歳)戦死の御文、(中略)病死にあらず、君国のための戦死だけ、名誉とあきらめ唯だ冥福を祈る(「獄中書簡」『牧口常三郎全集』第10巻300頁)
-----------------------
これを、家族を守り検閲を逃れるための方便とすることはできない。なぜなら、牧口氏の他の獄中書簡には戦争翼賛、皇国讃歎の記述はないからである。つまり、一々君国賛美の記述がなくても検閲は通っていたのである。そもそも妻子を守るために真意を隠すような態度で「反戦思想を貫いた」などといえるのか?

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from: 21世紀さん

2011/06/27 23:33:06

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「Re:牧口常三郎の実像」
【「国家諌暁」への執着と世相無視の行動】
<国家諌暁>
●(※日恭上人より)予(※日亨上人)が池袋の蟄窟(ちっくつ=ひそかに住んでいる場所)に駕を枉げて(がをまげて=貴人がわざわざ来訪する)国諌の御相談があった、此頃は大東亜戦の最中で危機非常の時とて東西の真俗に古例に倣つて国諌を成し遂げ法力を以て国家を磐石たらしむべき説が蜂起したので、東京の一部の真俗よりの熱願に酬(こた)へての最後の手段の御相談であった。予は宗開両祖伝統の国諌の対所は時の国権の実権者であって、皇帝でも無く将軍でも無い執権でもない、国家の棟梁として平左衛門尉如き下級官吏までも時に取っては敵手(あいて)とされた。此点を考慮なされ先ず第一に御自身に全責任を負はれ門下の何人も力にしてはならぬ、安政度の霑上の国諌ぶりをも引いて懇談した事で、要するに激越に御奮起を催したが此の盛挙は取り止めになった道程は聞かないが但或方面の低級な御信者の中には池袋の隠居は国諌は嫌ひぢやげな先聖に背く怪(けし)からぬ悪魔であるとかの聲(こえ)がしたとの事、尤(もっと)も宗門の表面から隠れて居(お)る足の無い亡者であるから此の曲批を不問に付した(第59世日亨上人著『日恭上人伝補』29頁〜/『大白法』H6.7.1ただし下線部はwt:21966による)
-----------------------
 国家諌暁が取り止めになったことについて「国諌は嫌ひぢやげな先聖に背く怪(けし)からぬ悪魔である」と批判した信者を指して「低級な御信者」と批判されている。一往これは、国諌に賛成であった日亨上人への批判であったから、このように評されたと考えられる。
 一方、『日恭上人伝補』が、日恭上人の御徳を宣揚するために認められた書であることを考えれば(下記●)、日亨上人が、国諌中止(延期)を批判されるはずはないし、事実、批判されていない。むしろ、国諌は御法主上人御自身が「全責任を負はれ」行うことで、「門下の何人も力にしてはならぬ」というお考えであったのだから、国諌の時期についても御法主上人の責任においてお決めになることに全く異論はなかったはずである。
 このことからすれば、「低級な御信者」云々との批判は、再往、御法主上人の決定に口を挟(はさ)む者への言ともいえるのではないか。
 ところで、国諌中止(延期)を批判した「低級な御信者」って、もしかして牧口会長?

●此の筆は傳補と名けてお弟子方の本傳の補充にとしたが、出来上がれば全くの随筆である。それも遺弟方と屡熟議の上に執るべき豫定の所を極度交通に便宜を失してその機会を一回も得ず獨断に成し終りて、某人に内示したるに、始めの三四頁を見了って此は丸で御隠居の回顧録のやうで恭尊への記事が少ない。法兄賛美の御筆も却って皮肉に見る人も有って御真意を曲解する者ありはせぬかと案ぜらるるとの伴語があった。鳴呼難いかな難いかな拙筆では意を尽し得ぬ、願くば虚心坦懐以て愚の真情を汲み取られたし。更に実情を顧りなせば法兄は本性に性徳に秀いで、功まず飾らず努めずして常に獅子遊戯三昧なり。(第59世日亨上人『愚跋』47頁/wt:22076)
-----------------------
これは『日恭上人伝補』を読んだ方が、日恭上人への評価を曲解することを恐れた日亨上人の御言葉だということです。

●(昭和18年)牧口会長は今こそ国家諌暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向つて来たが、時日の問題で総本山からは、堀米部長(日淳上人)がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諌暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である」と主張なされた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
-----------------------
「国家諌暁は時期尚早」とは、日亨上人の御意見を伺った日恭上人が、日淳上人と御相談の上、決定されたことであろう。この決定に不服であった牧口会長は「なにを恐れているのか知らん」(下記●)と言ったそうだが、「世相を無視」(下記3●)し平気で「官憲の横暴を徴発」(3●)する氏らしい発言ではある。

●一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん(牧口常三郎『戸田城聖全集』第3巻所収「創価学会の歴史と確信」)
-----------------------
これは、昭和18年6月初旬の発言とされるものである。「一宗が滅びることではない」とは、どういう意味か?もし、戒壇の大御本尊と血脈の断絶を意味しているとすれば、本末転倒の暴言であろう(<四悉檀と御法主の教導>参照)。

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from: 21世紀さん

2011/06/27 23:37:03

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「Re:牧口常三郎の実像」
四悉檀と御法主の教導

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(試論<法蔵>H19.5.19)

【御本仏の弘教】
―発迹顕本と法体建立に向けての法華経の行者の振る舞い―
 大聖人の折伏は、法華経の文々句々をことごとく身読することによって自身が法華経の行者であり上行菩薩の再誕であることを証明するための特別の振る舞いである。そして、法華経の完全な身読の後に発迹顕本をなさり、末法の御本仏として時を感じて法体を建立されたのである。(『「三類の強敵」は大聖人の為に説かれた』参照)
 この振る舞いこそ、御書に説かれる如説修行であり、我々の理想であり模範とするところである。しかし、これは別しての法華経の行者の修行である。(『法難と法体厳護』参照)



【折伏の上の摂受】
大聖人滅後の御僧侶の使命は、大聖人が身命を賭して建立された法体と法門を正しく伝持することにある。それは折伏の上の摂受に当たる。

◆「法体の折伏」「化儀の折伏」からいえば、宗門僧侶の使命は「法体の折伏」という「折伏の上の摂受(しょうじゅ)」にあったといえる。事実、宗門700年の歴史を振り返ると、広布の時に備え、どうにか大御本尊を護持してきた「折伏の上の摂受の時代」であったと言わざるを得ない。(『聖教新聞』H5.9.20取意/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

●当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。(『観心本尊抄』全集254頁)
●折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く「法華折伏、破権門理」の如し。蓮祖の修行これなり。二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く「正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし」等云云。仙予国王等これなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり。或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云。(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』)
-----------------------
大聖人が「摂受」とは理解し難いところだが、「法華折伏、破権門理」とあるように他宗破折の法門の確立及び法門の説法等を「摂受」というのか。しかし、立宗宣言から佐渡赦免までは、法華経の行者としての特別の振る舞いであるから、法体建立前後(身延入山)からの振る舞いが、特に御僧侶の修行の規範となるのではあるまいか。

●法体の折伏は既に大聖人の御出現によって確立され、あとは日興上人以下、僧宝による伝持の折伏となりますが、問題は国王による化儀の折伏です。これは大聖人御出現当時より現在、そして未来へ向かう時の流れのなかに正法を篤く信仰してその威儀を顕し、法の威光を発揚するとともに、勧善懲悪の働きをなす大人格の出現であります(第67世日顕上人『大日蓮』H2.4/wt:23396)
-----------------------
池田大作は、自分の代で広宣流布を達成しようと目論んでいたが、残念ながら「大人格」とは、池田のことではない。謗法まみれの氏が「勧善懲悪の働きをなす大人格」であるはずがないからネ。

●去ぬる文永十一年太歳甲戌二月十四日に・ゆりて同じき三月二十六日に鎌倉へ入り同じき四月八日平の左衛門の尉に見参してやうやうの事申したりし中に今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ、同じき五月の十二日にかまくらをいでて此の山に入れり、これは・ひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために身をやぶり命をすつれども破れざれば・さでこそ候へ、又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(『報恩抄』全集323頁)
-----------------------
佐渡からお帰りになった大聖人は「三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれ」との故事に則り、身延山に入られた。その後は国主諌暁を控えられ、令法久住(弟子檀那の教化育成、法体の建立)に力を注がれた。

●法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ(『忘持経事』全集977頁)
-----------------------
大聖人門下における学問所の起源をたどれば、古く御開山日興上人が大石寺の運営を3祖日目上人に任せ、御自身は北山重須の地に子弟育成の重須談所を開かれたのが、大聖人門下全体を見渡しても最も古い談所となります。日興上人のこの御構想は、宗祖大聖人が晩年身延山にあって法華経等を講ぜられたことに端を発したものと拝されます。(『日寛上人と興学』511頁)

●まかる・まかる昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり(『松野殿女房御返事』全集1394頁)

●今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ、此れらは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ(『曽谷殿御返事』全集1065頁)

◆700年の間には、徳川時代のような時代があった。あの時代に貫主様のなさっていらっしゃる行躰は摂受なんです。折伏の中の摂受です。折伏という大きな舞台からみて、摂受の分という意味です。(『戸田城聖全集』第2巻452頁)

●縦(たと)ひ此の如く山林に斗藪(とそう)し万人に対せずとも義理に違背之無くんば折伏の題目と成り、普(あまねく)く諸人に対する談義なれども広の修行は摂受の行相となるべきか、是即ち大聖の仰せ云云(第13世日院上人『要法寺日辰御報』/『富士宗学要集』第9巻64頁)
-----------------------
[斗藪]=①衣食住に対する欲望をはらいのけ、身心を清浄にすること。また、その修行。とすう。
②雑念をはらって心を1つに集めること。(『大辞泉』)

●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)
-----------------------
僧の役割は仏法を正しく後世に伝えることである。ここでいう「僧」とは、当然"僧俗"の「僧」であり、在家に対する語すなわち出家した人である。

●涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」云云、天台大師は毛喜等を相語らい伝教大師は国道弘世等を恃怙む云云。(『曾谷入道殿許御書』全集1038頁〜)

●戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)
[有徳王]=(前略)唯一人の正法の受持者、覚徳比丘が破戒の悪僧に襲われ、正法がまさに滅せんとしたとき、武器を執って悪僧と戦い覚徳比丘を守った。(『新版仏教哲学大辞典』初版)
-----------------------
広宣流布がまさに達成する時には、在家の有徳王が出家の覚徳比丘を守る。ここにも僧俗の役割・立場の相違が明らかである。

●善男子正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持して持戒清浄の比丘を守護すべし(『釈迦一代五時継図』全集644頁)
-----------------------
 在家は僧を守護することによって、令法久住の一翼を担うのである。僧俗の立場の相違はここにも明白である。
 学会よ!"命を捨てて謗法厳誡を貫き折伏をしたのは学会だけ"と自慢するのであれば経文どおり「持戒清浄の比丘を」命がけで「守護すべし」
※"「持戒清浄の比丘」などいない"という反論が聞こえてきそうだが、それは「持戒清浄」の意義を履き違えているからであろう。また、"僧侶不要""僧俗平等"を主張する在家団体であること自体「正法を護持する者」たりえない証拠である。


時期 修行の目的または内容 文証
身延入山前の大聖人 法華経の身読(国主諌暁、三類の強敵、数々見擯出等)→法華経の行者・上行菩薩の再誕の証明→発迹顕本(末法の御本仏)

「法華折伏、破権門理」の法体の折伏 ●我が身の法華経の行者にあらざるか、(中略)日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん(『開目抄』全集202頁〜)

●問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、答えて曰く(中略)末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり、問うて曰く其の証拠如何、答えて曰く況滅度後の文是なり、疑つて云く日蓮を正と為す正文如何、答えて云く「諸の無智の人有つて・悪口罵詈等し・及び刀杖を加うる者」等云云(『法華取要抄』全集333頁〜)

●疑つて云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く法華経に云く「況んや滅度の後をや」又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」又云く「数数擯出せられん」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「杖木瓦石をもつて之を打擲す」又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」等云云、此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し、時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん(『顕仏未来記』全集507頁)


身延入山以降の大聖人 法体建立と令法久住、及び「法華折伏、破権門理」の法体の折伏 ●摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。(『観心本尊抄』全集254頁)

●三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(『報恩抄』全集323頁)

●此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがことし。余は二十七年なり。(弘安2年10月1日『聖人御難事』御書1396、全集1189頁)


滅後の僧侶 法体護持と令法久住、及び「法華折伏、破権門理」の折伏(伝持の折伏) ●摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。(『観心本尊抄』全集254頁)

●涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」云云、天台大師は毛喜等を相語らい伝教大師は国道弘世等を恃怙む云云。(『曾谷入道殿許御書』全集1038頁〜)

●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)

●一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)



大聖人御入滅後の御僧侶の使命の第一は、大聖人が建立された法体(本門戒壇の大御本尊)と唯授一人の血脈を死守し、令法久住せしめることである。その上で謗法厳誡や布教拡大、国主諌暁がある。大御本尊と唯授一人の血脈は宗旨の根幹であり絶対不変、少しも傷を付けてはならない。それに対して謗法厳誡や布教拡大、国主諌暁などは、四悉檀の上から時機に応じた対応が可能。




【世相を弁(わきま)えた折伏】

************************************************************
●謗国の失を脱れんと思はば国主を諫暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり(『秋元御書』全集1076頁)
●常に仏禁しめて言く何なる持戒智慧高く御坐して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大城に堕つべし(『秋元御書』全集1077頁)
-----------------------
弾圧を恐れて国家諌暁もせず、神札を受け取ったり、観念文を改訂したり、御書を削除した戦時下の宗門は、明らかに上記御指南に反する。
------------------------------------------------------------
経文どおりに国主を諌暁し三類の強敵がすべて惹起したのは歴史上、大聖人様お一人。しかし、大聖人滅後の上人方も世相に応じて国主を諌暁されている。我々弟子檀那もまた、その分に応じて大聖人の折伏を規範として修行に勤めることは当然である。だからといって、世相を弁えずに、"何が何でも大聖人のように命を捨てて折伏しなければ謗法"などということは決してない。

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from: 21世紀さん

2011/06/27 23:42:44

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「Re:牧口常三郎の実像」
<総じての「法華経の行者」>
●凡(およ)そ法門に於(おい)ては総別の二義があるのでありまして此れを忘れると地獄へ堕ちることになります。日蓮大聖人は「総別の二義を違へば成仏思ひもよらず」と仰せられてありますが、此れは行人(ぎょうにん)の最も心ををくべきところであります。法華経の行者は大聖人唯御一人だけで末法の仏も大聖人であります。総じて申せば妙法を信受する程のものは行者といへますが別して逆縁の衆生でありまして順逆の分別は行功によるところであつて畢竟(ひっきょう)御一人の仏に対しては凡夫であります。かへすがへすも此のところが根本でありまして、その御本尊を信受し奉る上の修行が題目になるのであります。既に仏身地であらせられる大聖人の建立し玉ふ大曼荼羅を信受し持ち奉ることが肝要でありまして、此れ以外は皆偏見であり邪道であります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』982頁〜)

●法華経の行者に二人あり・聖人は皮をはいで文字をうつす・凡夫は・ただ・ひとつきて候かたびら・などを法華経の行者に供養すれば皮をはぐうちに仏をさめさせ給うなり(『さじき女房御返事』全集1231頁)
-----------------------
「法華経の行者に供養」とは、大聖人への供養であるが、滅後は御僧侶に供養するのである。↓(<『さじき女房御返事』御書解説>参照)

●在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか(建治2年御作『松野殿御返事』全集1386頁)
-----------------------
折伏は大切であるが「南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養」すること、つまり正しい自行が基本である。

1●末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし争か徳分なからんや、後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり。(『新池御書』全集1443頁)
2●此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、此の僧を解悟の智識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし、(『新池御書』全集1444頁)
-----------------------
1●の「僧」が大聖人に限定されないことは、同じ御手紙の「此の僧」(2●)が大聖人の命によって派遣された弟子であることから明らか。

●貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬にるい(類)し威儀は猿猴ににて候へども、あを(仰)ぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり、例せば蛇の珠(たま)をにぎり竜の舎利を戴くがごとし、藤は松にかかりて千尋をよぢ鶴は羽を恃みて万里をかける、此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし、我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし、此の羽をもつて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たから(宝)は・もたせ給いてをはします女人かな、彼の竜女は珠をささげて・仏となり給ふ、此女人は孫を法華経の行者となして・みちびかれさせ給うべし(『盂蘭盆御書』全集1430頁)
-----------------------
「無戒」「無智」であっても「法華経」を「信ずる」「僧」は「いみじき御たから(宝)」だと仰せである。御手紙を頂いた女性は在家信徒であるが、その人から見れば一般僧侶は「法華経の行者」であり「宝」(僧宝)なのである。


<時機に応じた折伏>
●心は日蓮に同意なれども身は別なれば与同罪のがれがたきの御事に候に主君に此の法門を耳にふれさせ進せけるこそ・ありがたく候へ、今は御用いなくもあれ殿の御失は脱れ給ひぬ、此れより後には口をつつみて・おはすべし、又天も一定殿をば守らせ給うらん、此れよりも申すなり。(『主君耳入此法門免与同罪事』全集1133頁)
-----------------------
折伏は、誰彼となくシツコク何回もすればよい、ということではない。建長8(1256)年に27歳で入信した四条金吾が主君・江馬氏を折伏したのは、文永11(1274)年9月、実に入信18年後のことであった。それまでは幕府の弾圧が厳しかったが、この時、大聖人の佐渡流罪が幕府より赦免されたのである。弾圧が厳しかったときにはできなかった主君への折伏を、赦免を機に行ったとも考えられる。それでも周囲の金吾に対する迫害は厳しく、大聖人は「此れより後には口をつつみて・おはすべし」と、主君に対する折伏を控えるように御指南されている。

●賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(『報恩抄』全集323頁)
-----------------------
大聖人は、上記故事に倣い、佐渡赦免後は身延に退かれ国家諌暁を控えられた。

●小蒙古の人・大日本国に寄せ来るの事、我が門弟並びに檀那等の中に若し他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず、若し此の旨に違背せば門弟を離すべき等の由・存知せる所なり、此の旨を以て人人に示す可く候なり。(『小蒙古御書』全集1284頁)
-----------------------
大聖人は、他国侵逼難を予言され、幕府に対し何度も"法華経に帰依しなければ他国に攻められる"と諫言された。しかるに、いざ、かねてからの予言が的中し、蒙古が攻めてくると、「言語に及ぶ可からず」と仰せられた。

●縦(たと)ひ此の如く山林に斗藪(とそう)し万人に対せずとも義理に違背之無くんば折伏の題目と成り、普(あまねく)く諸人に対する談義なれども広の修行は摂受の行相となるべきか、是即ち大聖の仰せ云云(第13世日院上人『要法寺日辰御報』/『富士宗学要集』第9巻64頁)

●(昭和18年)牧口会長は今こそ国家諌暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向つて来たが、時日の問題で総本山からは、堀米部長(日淳上人)がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諌暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である」と主張なされた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
-----------------------
世相を弁えずに、勝手に暴走した牧口会長。しかし、氏が国家諌暁をしたという事実はない。尚、大聖人は、蒙古が襲来する前には何度も国家諌暁をされたが、いざ蒙古が襲来し国家存亡の危機が現実化したときには「他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず」と弟子檀那に厳命された。

3●(※日恭上人より)予(※日亨上人)が池袋の蟄窟(ちっくつ=ひそかに住んでいる場所)に駕を枉げて(がをまげて=貴人がわざわざ来訪する)国諌の御相談があった、此頃は大東亜戦の最中で危機非常の時とて東西の真俗に古例に倣つて国諌を成し遂げ法力を以て国家を磐石たらしむべき説が蜂起したので、東京の一部の真俗よりの熱願に酬(こた)へての最後の手段の御相談であった。予は宗開両祖伝統の国諌の対所は時の国権の実権者であって、皇帝でも無く将軍でも無い執権でもない、国家の棟梁として平左衛門尉如き下級官吏までも時に取っては敵手(あいて)とされた。此点を考慮なされ先ず第一に御自身に全責任を負はれ門下の何人も力にしてはならぬ、安政度の霑上の国諌ぶりをも引いて懇談した事で、要するに激越に御奮起を催したが此の盛挙は取り止めになった道程は聞かないが但或方面の低級な御信者の中には池袋の隠居は国諌は嫌ひぢやげな先聖に背く怪(けし)からぬ悪魔であるとかの聲(こえ)がしたとの事、尤(もっと)も宗門の表面から隠れて居(お)る足の無い亡者であるから此の曲批を不問に付した(第59世日亨上人著『日恭上人伝補』29頁〜/『大白法』H6.7.1ただし下線部はwt:21966による)
4●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(第59世日亨上人『富士宗学要集』第9巻247頁)
-----------------------
日亨上人が、国家諌暁に賛成であったとしても、それは御法主上人御自身が「全責任」(3●)をもって行うことで、「門下の何人も力にしてはならぬ」(3●)というお考えであった。だから当然、国諌のやり方や時期についても御法主の専権事項である。また一方、個々の僧俗が勝手に「世相を無視」(4●)し「官憲の横暴を徴発」(4●)するような行為に対しては否定的であったことは「似非信行の門徒」(4●)という語から容易に分かることです。


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from: 21世紀さん

2011/06/29 13:23:42

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「Re:牧口常三郎の実像」
<身命に及ぶ弘教、不惜身命>
我々が模範とし、常に目指すべき聖人の修行か。ただし、「不惜身命」といっても初信の者が直ちに実践できるものではなく、初信の人々の信心を守ることも、大切なことではないか。また、自由な時代に敢えて文字通りに身命を捨てる必然性はない。

●仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候、死して候はば必ず各各をも・たすけたてまつるべし(『佐渡御勘気抄』全集891頁)

●未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)

●悲いかな我等誹謗正法の国に生れて大苦に値はん事よ、設い謗身は脱ると云うとも謗家謗国の失如何せん、謗家の失を脱れんと思はば父母兄弟等に此の事を語り申せ、或は悪まるるか或は信ぜさせまいらするか、謗国の失を脱れんと思はば国主を諫暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり、我不愛身命但惜無上道と説かれ身軽法重死身弘法と釈せられし是なり、過去遠遠劫より今に仏に成らざりける事は加様の事に恐れて云い出さざりける故なり、未来も亦復是くの如くなるべし今日蓮が身に当りてつみ知られて候、設い此の事を知る弟子等の中にも当世の責のおそろしさと申し露の身の消え難きに依りて或は落ち或は心計りは信じ或はとかうす、御経の文に難信難解と説かれて候が身に当つて貴く覚え候ぞ、謗ずる人は大地微塵の如し信ずる人は爪上の土の如し、謗ずる人は大海進む人は一〓。(『秋元御書』全集1076頁〜)

●常に仏禁しめて言く何なる持戒智慧高く御坐して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大城に堕つべし、譬えば我は謀叛を発さねども謀叛の者を知りて国主にも申さねば与同罪は彼の謀叛の者の如し、南岳大師の云く「法華経の讎(あだ)を見て呵責せざる者は謗法の者なり無間地獄の上に堕ちん」と、見て申さぬ大智者は無間の底に堕ちて彼の地獄の有らん限りは出ずべからず、日蓮此の禁めを恐るる故に国中を責めて候程に一度ならず流罪死罪に及びぬ(『秋元御書』全集1077頁)



【四悉檀】
四悉檀を駆使し世相に応じた教化によって僧俗の信心を擁護するのは血脈付法の御法主の役割

[四悉檀]し‐しつだん(シシッダンとも)=仏様の教法を4種に分けたもの。『大智度論』巻1等に説かれる世界悉檀・為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀をいう。悉檀とは宗、理、成就、究極などの意。また、『法華玄義』巻1下では、仏が4種の教相をもって遍く一切衆生に施すゆえに悉檀というとしている。
①世界悉檀……楽欲(ぎょうよく)悉檀ともいい、一般世間の楽(ねが)い欲する所にしたがって法を説き、凡夫を歓喜させ利益を与えること。
②為人悉檀……詳しくは各各為人悉檀といい、生善悉檀ともいう。人によって性欲機根が不同のために、人に応じて法を説き、過去の善根をさせていくこと。
③対治悉檀……断悪悉檀ともいう。貪欲の多いものには不浄を観ぜしめ、瞋恚(しんに)の多いものには慈心を修せしめ、愚痴の多いものには因縁を観ぜしめること。三毒の煩悩を対治するために法を説き、遍く一切衆生に施すので対治悉檀という。
④第一義悉檀……真実義悉檀、入理悉檀ともいう。前の3種が仮の化導であるのに対し、真理を直ちに説いて衆生を悟らせること。

●予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且(しばら)く世間普通の義を用ゆべきか(『太田左衛門尉御返事』御書1222、全集1015頁)
-----------------------
「強ちに成仏の理に違はざれば」これを判断される方こそ、大聖人以来の血脈相承を受けられた御法主上人なのです(<化儀と血脈>参照)。

●各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ、若し爾らずんば五体を地に投げ徧身(へんしん)に汗を流せ、若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め若し爾らずんば奴婢と為つて持者に奉えよ若し爾らずんば・等云云、四悉檀を以て時に適うのみ(『顕立正意抄』全集537頁)
-----------------------
不惜身命は成仏のための大切な要件であるが、最初からそのような境界を得られるものではない。「若し爾らずんば」と仰せのように、修行者を取巻く社会的立場や世相、修行者自身の信心その他を総合的に判断し、時機に応じた信仰活動も認められるのである。

●日本国は神国なり此の国の習として仏・菩薩の垂迹不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに・是をそむけば現に当罰あり、委細に経論を勘へ見るに仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当れり、此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり、此の由を知ざる智者共神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義を申して多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり(『月水御書』全集1202頁〜)

●釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり、但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ、自身並に子にあらずばいかんがと存じ候、御所領の堂の事等は大進の阿闍梨がききて候、かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし、いつぞや大黒を供養して候いし其後より世間なげかずしておはするか、此度は大海のしほの満つるがごとく月の満ずるが如く福きたり命ながく後生は霊山とおぼしめせ。(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
-----------------------
この御手紙は、富木常忍へ宛てたものである。常忍は造像を好むところがあり大黒を供養することすらあった。そのような常忍が釈迦仏を造立したことに対して、権実雑乱の大謗法を制止する立場から、一時的に許可されたものと拝する。

●随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。(『五人所破抄』全集1614頁)
-----------------------
日興上人は「執する者」に対してのみ「四菩薩を加」えた造仏を許可されている。

●開山上人御弟子衆に対するの日仍容預進退有り是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻177頁)
-----------------------
 日寛上人は大聖人・日興上人時代の造仏については「是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり」と容認されている。すなわち、本来の化儀からみれば逸脱(謗法)であっても、「信者を将護」するために時機を鑑みて容認する場合もある、ということである。
 ここでは本尊としての仏像安置について「宗門最初なる故に」許されたのであるが、時代が下っても相応の寛容を示されることがある。それは、江戸時代に幕府の宗教政策によって種々の弾圧を受けたり、不如意を強いられた宗門僧俗の対応について御存知だった日寛上人が「開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」(『当流行事抄』)と明言されているとおりである。↓

●開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり(第26世日寛上人『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)
-----------------------
 趣旨は勤行の化儀にあるが「故に」とあるから「化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」は化儀・化法に対する一般論として成り立つ意義である。つまり、化儀・化法全体について「四百余年全く蓮師の如し」という前提が正しいからこそ「故に」勤行の化儀についても同様に「四百余年全く蓮師の如し」という文意である。「四百余年全く蓮師の如し」とあるから当然、日精上人が一部末寺での仏像安置を容認されたことや、金沢法華講衆が表面上邪宗の檀家となっていたことも含まれる(下記5●6●)。これらは、四悉檀の上から許容される範囲のことであり、謗法厳誡を説かれた大聖人の御指南に反するものではないのだ。
 ただし、血脈の真義から考えて、あくまでも化儀を決定されるのは正師(大聖人以来の別付嘱の方)である。本来の化儀から見れば逸脱であっても正師の認可がある限りにおいて血脈が流れ通い功徳が出る。その場合の化儀は正義を前提としての方便のようなものであり、逸脱であって逸脱ではない。方便の法門も絶待妙の立場からみれば体内の法となるようなものか?

●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇(※世界悉檀) 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候(第62世日恭上人より小笠原慈聞師への書簡S16.8.21『特高月報』所収/『慧妙』H6?)
-----------------------
 すなわち、当時の時局や人々の機を考えて、無用の反発を生むことのなきよう(中略)世間悉檀の上から衆生教化を目されていたことが明らかである。
 また、この往復書簡を通読すると、某師は日恭上人に、わざと「神本仏迹説は邪義」と言わせることに腐心していた形跡がうかがわれる。つまり、書簡は私信ではあっても、某師の裏には軍部が控えており、わずかでも不敬にあたる言説があれば、弾圧、ひいては宗門断絶の危険性があったということであり、日恭上人はこの罠にも似た策謀を、四悉檀を駆使して巧みにかわされているのである。
 こうした、日恭上人の筆舌に尽くせぬ御苦労があって、今日、我々が妙法を信受できるのであり、多くの民衆が成仏の境界を享受できるのである。
 後年、2代会長戸田城聖氏は、某師に向かい、
 「あなたの神本仏迹論を、深く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、いまは亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです」(『人間革命』第6巻)
 と呵責したそうだが、大法を護持しぬかれた日恭上人を誹謗する学会こそ、この呵責を我が身に引き当て、真摯に受け止めるべきであろう。(『慧妙』H6?)

●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(第59世日亨上人『富士宗学要集』第9巻247頁)
-----------------------
[突喊]とっかん=①ときの声をあげること。 ②ときの声をあげて、敵陣へ突き進むこと。(『大辞泉』)
-----------------------
戦時下の国家弾圧において「世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒」とは一体誰で「官憲の横暴を徴発」とは何でしょうか。すぐに思い浮かぶのが、牧口会長以下学会員達が神札焼却の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等に走ったことです。

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from: 21世紀さん

2011/06/29 13:33:49

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「Re:牧口常三郎の実像」
【門外折伏・門内摂受】

(全国布教師・正説寺住職 早瀬義久御尊師『大白法』H20.4.16抜粋)

 「門外折伏・門内摂受」、皆様には聞き慣れない御言葉かと思います。
 この御言葉は、総本山第59世日亨上人が第9世日有上人の『化儀抄』121箇条を解説された折に、大聖人様の御教示をふまえて私たちの信心の在り方、姿勢を、一言に「門外折伏・門内摂受」と説かれたものであります。
 その元は、『化儀抄』第57条の、
●法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背(けはい)の別名なるが故なり(聖典983頁)
-----------------------
という、日有上人の御教示を敷衍(ふえん)されて「門外折伏・門内摂受」と説かれるのであります。
 門外、つまり宗門の外部に向かっては、勇猛果敢に折伏を進めなくてはいけない。
 対して門内、宗門内の僧俗間にあっては「法華宗の大綱の義理」、正しく仏法僧の三宝を崇めるということでありまして、仏宝として大聖人様を御本仏と仰ぐ、法宝として本門戒壇の大御本尊様を根本の御本尊と定める、そして僧宝として2祖日興上人以来血脈付法の御歴代上人を大聖人様の御代理として、その御指南を拝する。また、他の一切の宗教を邪宗邪義として捨てる。これが「法華宗の大綱の義理」ということであります。
 この「大綱の義理」に背かない限りは、広い心、寛容の心をもって、些細なことには目をつぶり、その人の長所、すばらしいところを敬い、励まし合い、異体同心の絆を固めていく。これを「門内摂受」と説かれるのであります。
 「摂受」、摂引容受という言葉を略したもので、摂は「おさめる、包み込む」という意味があります。仏法の根本に背かない限りは、相手に仮に誤りがあっても、それを許し、包み収めて少しずつ導いていく。



【国法遵守】
国法遵守は当然のことであり、大聖人も国法は遵守された。

●よき師とは指したる世間の失無くして聊(いささか)のへつらうことなく少欲知足にして慈悲有らん僧の経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば仏は一切の僧の中に吉第一の法師なりと讃められたり(『法華初心成仏抄』全集550頁〜)


<鎌倉時代>
大聖人の時代はどうであったかといえば、法論そのものを禁止する法律はなかったのです。だからこそ幕府は、大聖人に付すべき罪状に困り、種々の讒言(ざんげん)を用いることによって「世間の失」なき大聖人を処刑しようとしたのです。

●念仏者等此の由を聞きて、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程にかなはざりしかば、長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ。されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし(『妙法比丘尼御返事』全集1413頁)
-----------------------
伊豆流罪は文応元年の国主諌暁を契機として起こった法難である。この流罪は、時の最高権力者が国法に則るのではなく「親の御心を知りて」「理不尽」に行ったものである。つまり仏法上は勿論、世法に照らしても違法な行為であった。

●然るに事しづまりぬれば、科(とが)なき事は恥づかしきかの故にほどなく召し返されしかども、故最明寺の入道殿も又早くかくれさせ給ひぬ(『立正安国論』御書1150頁)
-----------------------
この「最明寺の入道」というのは北条時頼のことでありますが、つまり時頼は、全く失がないのに流罪(※伊豆流罪)にしたということに気が付いて、大聖人様を赦免されたということです。(第68世日如上人『大日蓮』H18.7)

●故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり(『聖人御難事』全集1190頁)
-----------------------
「此の殿」とは北条時宗のこと。

●日蓮が度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頚を刎られんとせし事は別に世間の失に候はず(『清澄寺大衆中』全集893頁)

●我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし(『佐渡御書』全集958頁)

●法華経を信じ参らせて仏道を願ひ候はむ者の争か法門の時・悪行を企て悪口を宗とし候べき、しかしながら御ぎやうさく有る可く候・其上日蓮聖人の弟子と・なのりぬる上罷り帰りても御前に参りて法門問答の様かたり申し候き(『頼基陳状』全集1157頁)
-----------------------
貞永式目12条は「悪口は騒乱の元であるから口にしてはならない。これを犯す者は流罪および禁固の刑に処す」とあります。しかしこれは法論対決を否定するものではなかったのです。

●讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる(『種種御振舞御書』全集916頁)
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鎌倉時代は、折伏自体は国法に触れる行為ではなかったのです。だからこそ、邪宗の連中は、他の罪を捏造したのです。


<江戸時代>
●1640(寛永17)年、幕府は、寺請制度を設けて、宗門改役を設置しました。
 宗門改役は、絵踏などをさせて、キリシタンや日蓮宗不受不施派かどうかを取り調べました。これを宗門改めといいます。キリシタンでないことが証明されると、宗門改帳(宗旨人別帳)に記載されます。一度定められた寺院を変更することは出来ません。定められた寺院を檀那寺といい、記載された人を檀家とか檀徒(施主)といいます。こうした制度を寺請制度と言います。(<エピソード高校日本史>WS070803)

●1665(寛文5)年、4代将軍徳川家綱は、諸宗寺院法度を出しました。これは先の寺院法度を強化したもので、幕府は、各宗派ごとに、その本山・本寺の地位を公認し、本山・本寺に末寺を統制する権限を与えました。これを本山・末寺制度といいます。
 内容は、(1)各宗の法式を守る(2)寺院の住持の資格や本末関係を厳正にする(3)自由な布教活動や自由な法談は制限する(4)新寺建立やそのための勧進募財は制限する(5)寺格や僧侶の階位も細かく規定する(6)住職になるための修行年数や学問も定める、などとなっています。(同上)

◆日寛上人の時代には、今のような折伏をやる人もないし、やったらまた、首を斬られてしまう。そういう意味だと、わたしは思うのです。(『戸田城聖全集』第2巻452頁)
-----------------------
死身弘法は当然ですが、国法を遵守し四悉檀や随方毘尼の上から、時代状況に適合した修行をすることもまた必要なのです。「大石寺日俊累年の間御制法に背き自讃毀他の談義を致し」(『富士宗学要集』第9巻30頁)といって北山が日俊上人を攻めたように、江戸時代は、法論そのものが国法に違反する行為だったのです。

●慈雲寺(※法華宗陣門派)のほとんどの檀家が富士派となり、その近辺の寺院にも驚く程の富士派信者がいたことを、寺の過去帳などによって突きとめることができた。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』64頁)
5●久保家子孫代々伝えまいらせ候。今日まで正宗の法華経唱え奉り候えども、藩の取締り堅固なれば思うままに信心致し難く、大石寺にまかり出る事なかなか至難に相なり候ば、ただひたすら襖(ふすま)の影より心ひそかに題目を唱え居り候。(久保専朴の遺言状・弘化3〈1846〉年/『金沢法難を尋ねて』)
●身業は一往は国法に任すといえども、口意の二業は全く当山興尊の付弟と申し、無二信受の大賢人あり、名を池田宗信と云う(第32世日教上人『金沢法難を尋ねて』向敏子著37頁)
-----------------------
金沢では、慈雲寺(法華宗陣門派)の僧、了妙が折伏を受けて富士派に改宗したことから享保11(1726)年、第1回の加賀藩の富士派信仰禁止令が出た。第5代藩主・綱紀の代には、法論に負けると潔く改宗を表明することが常識であったが、第6代藩主・吉徳の代には改宗は事実上厳禁となった。表面上は邪宗の檀徒として、葬儀などの法要を依頼する。しかし、隠れて御本尊を拝み折伏し登山もしていた。第32世日教上人は、身は国法に従わざるを得ない厳しい環境にあって、あらゆる困難を乗り越えた絶大なる信心を称讃されている。

●先年、岩田伝右衛門の調べの時、富土派一万二千人(寛政3〈1791〉年の記録)
-----------------------
この当時の金沢の人口は10万人に満たなかったであろうから、藩禁制であるにもかかわらず、この数字は藩にとって脅威の的と写ったことは言うまでもなかった。事実野田山墓地を調査して見ると富士派の人々は本当に多いのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』91頁)当時は相当の信心がなければ御本尊の下附は叶わない時代であった。(中略)城下が寝静まる夜中に題目を唱え、壁をくり抜いて御本尊をお掛けして護り抜き、折伏に走った時代なのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』110頁〜)

6●かならず、かならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ候て御供養候とも若信心なくば詮なき事なるべし。たとへ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし。乃至・かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ(第26世日寛上人著『松任治兵衛殿御返事』妙喜寺蔵)
-----------------------
これは、第26世日寛上人が加賀信徒に与えられた御手紙の一節である。歴代上人の慈悲あふれる感動的な御手紙は多くの加賀信徒の中に代々語り伝えられてきたのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』84頁〜)

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from: 21世紀さん

2011/06/29 13:46:41

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「Re:牧口常三郎の実像」
<戦時下>
◆第7条 国体を否定し又は神宮若は皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的して結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は無期又は4年以上の懲役に処し(治安維持法=昭和16年改正/『牧口常三郎全集』第10巻444頁)
-----------------------
戦時下は直接国家神道を破折すること自体が国法に触れる行為であったのです。

●昭和十六年五月十五日改正治安維持法施行後も前記目的を有する同会の会長の地位に止まりたる上、同会の目的達成の為(中略)昭和五年頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、東京市内其の他に於て同市王子区神谷町三丁目千三百六十四番地岩本他見雄外約五百名を折伏入信せしむるに当り、其の都度謗法罪を免れんが為には皇大神官の大麻を始め家庭に奉祀する一切の神符を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに至らしめ、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)し奉る所為を為したる等諸般の活動を為し、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に従事したると共に、神宮に対し不敬の行為を為したるものなり(「創価教育学会々長牧口常三郎に対する起訴状」/『牧口常三郎全集』第10巻252頁〜)
-----------------------
学会の大麻焼却は、当時の国法(治安維持法)に違反する行為であった。

●日本国民の総氏神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)をまつっている伊勢の神宮の御神札は、明治以前は御師(おし)といわれる神職によって全国各地の家々に配布されていました。(中略)明治の御代になって、御師による配布は廃止され、御祓大麻は神宮大麻(じんぐうたいま)と名称が改まり、明治天皇の聖旨により政府事業として全国全戸に漏れなく配布されるようになりました。(<神社と神道>WS060311)

●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月(※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)
-----------------------
神札を焼却しなくとも謗法にはならない。↓

●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
●当時、全戸に配布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫52頁)
-----------------------
他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」にを納めていたのである。その意義から言えば、新入信者の神札等を、世相を無視して堂々と焼却する必要はまったくなかったといえる。会員の神札受け取りについても、金銭を支払って受け取るのであれば格別、当局が勝手に配布するのであれば、一応受け取り、捨て置くか寺院に納めるか、コッソリ焼却すればよかろう。

●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候 甚だ乍略寸暇も無之最中御海容願上候 拙僧に対し責任ある身之上なるが故に時局柄手紙にては法義を論ずべからずと注意せられ候間此等之点に就而以後は他之方へ御照会願上候 右之次第に付是迄にて御断り申候(第62世日恭上人『特高月報』/『慧妙』H6?)
-----------------------
これは、第62世日恭上人が小笠原慈聞師に宛てた書簡である。「大聖人を本仏として人本尊と仰ぐ」ことは「第一義の法門」であると断言されている。しかし、これを公言して神本仏迹論を否定することになれば「不敬に渡る事故言ふべからざる事」と仰せである。勿論これは、公然と神本仏迹論を主張し身延との合同を画策していた小笠原慈聞師への書簡であるから、このように述べられたのであろう。



【御遺命の達成と御法主の教導】
 広宣流布は絶対達成される―これは大聖人の弟子檀那の確信であり、大聖人の御指南である。また、大聖人は謗法厳誡と不惜身命の信心を強調されている。この点において、牧口会長は、謗法厳誡を貫くことによって必ず諸天の加護があると信じていたといえよう。確かに原則は、そのとおりである。しかし、よくよく大聖人の御書を拝してみれば、時機に応じた様々の御指南が存在するのである。それらを総合的に考慮し、弟子檀那の信心を擁護するために四悉檀を駆使して謗法厳誡と国法遵守の両立をはかる―これこそ広布達成時まで法体を護持し一宗を導かれる御法主上人の役割であり、そこには我々の想像を絶するほどの苦衷があったことであろう。
 牧口会長のように命を惜しまず謗法厳誡を貫くことは立派ではあるが、ある意味指導者としては楽である。が、そのようなことでは信徒の信心は守れないし、法体の護持そのものが危うくなる恐れすらあるのだ。世相を弁えずに突喊(とっかん)する信心は、決して大聖人の御意に沿う信心ではないのである。

●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
-----------------------
大聖人は、日興上人に背く者は「非法の衆」だと断定されています。このように、大聖人御自身が、滅後の師匠を日興上人御一人に限定されたのです。たとえ、大聖人の直弟子であっても、大聖人御入滅後は、日興上人を師と仰がなければならないのです。時の貫首である日興上人を蔑ろにした「大聖人直結」などありえないことは、明らかです。

●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し(中略)釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
-----------------------
後加文ではありません。御本尊書写の権能が唯授一人血脈相承の方に限るとされています。唯授一人の相承は大御本尊だけではなく、大聖人の御内証の伝授とともに、本尊書写の権能も含まれるのです。しかもそれは「塔中に直授せるなり」とあるように、上行菩薩への別付嘱に由来するのです。

●一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)

●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
-----------------------
日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのです。



************************************************************
唯授一人の血脈によって大聖人の内証が伝わるのであれば、敢然と国家権力に立ち向かっても血脈が断絶することはないのではないか。
------------------------------------------------------------
歴代上人は、内証(内心の悟り)は大聖人と一体であるが、外用は菩薩の位であり、自ずからその能力や振る舞いにおいて仏とはことなる。(<内証と外用>参照)

●殺生―下殺は螻蟻蚊蝱
     中殺は凡夫人及び前三果の聖人
     上殺は阿羅漢・辟支仏・菩薩・父母等十悪(『一代五時図』全集616頁)
●五逆―一殺父
     二殺母
     三殺阿羅漢
     四出仏身血
     五破和合僧(『一代五時図』全集616頁〜)
-----------------------
「殺生」とは十悪の1つであるが、その中に仏は含まれない。「五逆」(五逆罪)は「5種の最も重い罪のこと」(『新版仏教哲学大辞典』初版)で「これが業因となって必ず無間地獄の苦果を受ける」(同)という重罪であるが、「出仏身血」とあるのみで"殺仏"はない。すなわち、いかなる悪人であっても強大な国家権力をもってしても仏を殺害することはできないのである。これに対して菩薩方は殺害される可能性がある。御法主上人が御法の為に命を惜しむことなど有り得ないが、血脈の断絶だけは断固として避けなければならないのである。

◆牧口が宗門をあげての「国家諌暁」を願った時、総本山では文部省から、思想統一政策の1つとして、全日蓮宗の統合合併策を強要されていた。そして宗門の一部には、この身延との統合案に迎合する悪侶も出ていたのである。これらの節操のない僧侶が、時の軍部と手を握ったため、宗門は紛糾せざるを得なかった。
 国家諌暁の断行には、第1に宗門の内部の意志の統一が必要であることは、いうまでもない。宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。宗内の獅子身中の虫ともいうべき一派は、水魚会と称する背後の軍部勢力と結託していた。これらが、文部省の宗教政策を牛耳りつつあったのである。そのため正宗の僧侶達は、国家の危機より、宗門の7百年来の未曾有の危機を克服することに懸命であった。(『人間革命』第3巻「渦中」)
-----------------------
池田自身、当時の宗門の置かれていた状況を「宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。」としていた。一信徒の牧口と、宗門全体の信徒の信心と法体を守るべき立場とでは、自ずから考えや行動の視点が異なるのである。


●広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし(『諸法実相抄』全集1360頁)
-----------------------
大聖人の如説修行の御指南と上記御指南から、牧口会長は単純に、身命を賭して折伏をすれば諸天の加護があり戦争にも勝つ、と考えたのであろう。しかし、大聖人の御書をよくよく拝すれば、時機に応じた様々な御指南があるのだ。当該御指南は、血脈付法の御法主方が、必ず時機に応じた適正な教導をなさることを前提とした御指南なのである。

◆邪宗の本尊は、人の命を食うことは知っているが、幸福にすることはできない。われわれがお山に行って、たった300円でお参りができるのは、もったいないことである。もし、小笠原慈聞が身延へ売ったとしたら、何万円出しても拝することはできなかったであろう。(S28.3.1第2回鶴見支部総会『戸田城聖全集』第4巻20頁)
-----------------------
"大御本尊は絶対に守られ広宣流布は絶対できる"と運命論的に安易に考えるのは誤りであろう。戸田会長は、「(大御本尊を)小笠原慈聞が身延へ売ったとしたら」と仰せであるが、この言葉には安易な運命論はない。"命懸けで拝めば何でもかなう"と思っている人もいるが、それほど単純ではない。大聖人が御在世中に国主を帰伏させられなかったのは何故か?『三大秘法抄』の他言を制止され、大御本尊の意義を公言されなかったのは何故か?日興上人が断腸の思いで大御本尊を奉持し身延を去られたのは何故か?自身の能力や客観的状況、弟子の機根等、すべてを総合的に判断して、道理に適った努力なくして願い(目的)は達成できないし、因縁がなければすぐにはかなわないのである。

●日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし(『異体同心事』全集1463頁)
-----------------------
戦時下の宗門には、神本仏迹論を公言し身延との合同を画策する僧や、反対に世法を無視し宗熱に突喊(とっかん)する僧俗がいた。これでは宗門が一丸となって国家権力に対峙できなかったのも当然であろう。

------------------------------------------------------------
●迹門は全部で14品ありますが、その中心は方便品第2から授学無学人記品第9までの8品です。ここにおいて三周の説法というものが示され、法説周・譬説周・因縁説周という3つに区分されて説かれてくるのです。これはどういうことかというと、相手の機根によったのです。つまり説法を聞く衆生のなかに、上根の人、中根の人、下根の人というような区別がありまして、いわゆる法を聞く能力に違いがあるのです。(中略)
 このように釈尊は法説周・譬説周・因縁説周の3段階で説かれたのでありますが、このことは、まさに今日の折伏においても活用できるかと思います。特に譬え話、具体的に言うと体験談など、そういった話をとおして話をしていくことで、相手の方が納得することがあるのです。また、御親戚の方にお話をするときに「あなたと私はこういう深い関係があるのです」と言って納得されることもあるでしょう。(第68世日如上人『大白法』H20.11.16)
-----------------------
仏法上の機根といえば大きくは本未有善(末法の衆生)と本已有善(在世及び正法・像法時代の衆生)に分けられる。しかし、釈尊在世の弟子方の中にも機根の違いがあり、釈尊は機根に応じた説法をされた。同様に末法においても機根の違いがある。

●『撰時抄』のなかに、
 「世尊は二乗作仏・久遠実成をば名字をかくし、即身成仏・一念三千の肝心其の義を宣べ給はず。此等は偏にこれ機は有りしかども時の来たらざればのべさせ給はず。経に云はく『説時未だ至らざるが故なり』等云云」(御書834頁)
と仰せのように、機根が調っていても、時が来なければ大事な法は説かれないのだとおっしゃっております。(中略)
 このように、仏法においては時を逸してはだめなのです。ならば今、私達は何をすべき時なのか。この末法に在って、明年の『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節を迎える時に、我々はいったい何をすべきなのか。
 その答えは実に明快に、日顕上人から平成14年に御指南を頂戴しております。私達は『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節へ向かって、2つの御命題を賜りました。1つは「地涌倍増」であり、もう1つは「大結集」であります。(第68世日如上人『大白法』H20.11.16)
-----------------------
仏法上の時といえば大きく正法・像法・末法に分けられる。しかし、釈尊在世に時の違いがあったように、末法の中においても時の違いがある。

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k

from: 21世紀さん

2011/06/30 22:57:41

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「Re:牧口常三郎の実像」
【学会の矛盾】
<国交正常化後の中国や旧ソ連での弘教>
学会は、国交正常化後の中国や旧ソ連において、まったく布教できていません。それは何故でしょう?おそらくは、国家として信教の自由を認めていなかったからです。布教自体が国家によって禁止されていたからです。


<折伏放棄>
◆SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して(中略)対話し、その解決のために協力していく(SGI第20回総会・H7.10.17※<SOKAnet>WSによれば「H7.11.13」/『大白法』H15.10.16)
-----------------------
「尊重」する「他の宗教」の中には神道も含まれるのであろう。戦時下の学会会長が池田大作だったら、不敬罪で投獄されることもなかったし、組織が壊滅することもなかったでしょう。(笑)

◆創価学会は平成6年2月、それまで対立関係にあった立正佼成会に〝和解〟を申し入れ、「在家仏教団体の先輩である佼成会に教えを乞(こ)いたい。戒名の付け方等も教えてもらいたい」とまで媚(こ)びを売った。
 当時の大新聞はこのことを、政界への影響力を強めるための、創価学会の政治戦略として報じたが、事実、その後の学会は、支持拡大、票獲得のために、大聖人の謗法厳誡の御制誡を次々と破っていったのである。(『慧妙』H13.9.1)


<自由な時代に謗法容認>
●とくに理解に苦しむのは、小泉首相が毎年続けた靖国神社への参拝への対応だ。形ばかりの反対に終始したのはどうしたことか。
 公明党の支持母体である創価学会は、戦中の国家神道の時代に厳しい宗教弾圧を受け、会長が獄中死した歴史もある。靖国神社はその国家神道の中心的な施設だった。
 政教分離を定めた憲法に抵触する疑いもある。信仰の自由と並んでこの党がもっとも重んじる理念のはずだが、意外にあっさりと6度の参拝を受け止めた。(『朝日新聞』社説H18.9.19)
-----------------------
池田学会には、国家諌暁の精神など皆無であることがよく分かります。

◆謗法払いについては、あくまで原則どおり、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません。(秋谷栄之助『聖教新聞』H9.2.11)
-----------------------
「古い対象物」とは、邪宗の本尊などです。これを所持したまま曼陀羅を拝んでもよいというのです!信教の自由が保障された時代にこんな指導をする者に、戦時下の神札受け取り(形式的なもの)を批判する資格はありません。

◆もし宗教目的に賛同して、他宗の本尊や神体を信じて拝むのであれば、それは謗法です。しかし、町会や自治会の一員として、仮に宗教的色彩のある祭りなどの行事に参加しても、信じて拝むのでなけれは、謗法にはなりません(秋谷栄之助『聖教新聞』H11.9.9)
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「他宗の本尊や神体を」「信じて拝むのでなけれは、謗法にはなりません」一体こんな御指南が御書にあるでしょうか?これでは、外見上何をやっても謗法になりません。

◆祭りにおいて、御輿を担がざるをえない場面があったとしても、地域役員として宗教色の濃い儀式等に立ち会わざるを得ない場面があったとしても、それは地域の文化行事への参加と同次元のことです。”一種の文化祭”と名付けた学者もいた。それをもって、ただちに謗法とは言えません。」(秋谷栄之助『聖教新闇』同日付)
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「御輿」の中には謗法の神体が入っており、これを担ぐことが謗法であることはいうまでもありません。

★四悉檀の上から化儀について一時的例外的に、本来の姿からの逸脱を容認する場合もありました。しかし、それは、国家の宗教政策や交通事情、宗門草創期など、弟子旦那の意思とは無関係の不可効力的な特殊な状況があったからです。しかも、化儀改変を決定されるのは血脈付法の御法主上人に限られることは、唯授一人の血脈を根本とする師弟相対の信心の上から当然のことです。信教の自由が認められた時代においてこそ、化儀は本来の姿のままに実践すべきはずです。それを、正当な理由もなく勝手に化儀を解釈し改変しておきながら、一方で日精上人や日恭上人を謗法だと詈る学会、これこそ御都合主義の最たるものであり、頭破作七分の現証としかいいようがありません。


<牧口学会の実態は>
・命を賭するという正の部分もあったが、世相を無視して宗熱に突喊した似非信行という負の部分もあった。→ただし、後の戸田会長の懺悔(下記◆)と功績に鑑み、歴代上人も、正の部分のみを強調されていた。

・大部分の会員は退転し、組織は壊滅状態に→牧口学会総体としては、退転という最も避けなければならない謗法を犯したといえる。


<池田学会と牧口会長との関係は>
・池田学会の主張する牧口像(謗法厳誡)が正しかったとしても、牧口会長の精神は池田学会には伝わっていません。(<摂受謗法路線>参照)→一般論としても正しい師匠についた弟子が異流義を構えたり、親の信心を子が受け継がない場合があります。

・従って、牧口会長を如何に宣揚しようとも、そのことをもって現在の池田学会を正当化することはできません。→残念でした。(笑)

●「先生・・・」
 戸田は数珠を手にしたまま、ふり仰いだが、あとは言葉にならなかった。彼は、堀米尊師の前に手をついて、無言のまま動かなかった。堀米尊師は、彼の傍によって、痩せた手をのばし、戸田の手をとった。大御本尊の真ん前であった。戸田は、思わず両手でその手を握った。すると堀米尊師は、もう片方の手を、その上に重ねた。2人は、互いに抱擁するような姿で、戦友のように堅く握りあった。
 2人のあいだには、語るべき多くのことが溢れていた。だが、あまりの懐かしさに、その感慨は言葉にはならなかった。ただ、無言で堅く握っている手が、言葉以上の多くを語っていた。
 堀米尊師は、戦時下、総本山の中枢であり、宗門の矢面に立って戦ってこられたのである。特に、国家権力に対峙する一切の衝にあたり、骨身を砕いてきていた。
 戸田城聖は、学会の要として、あらゆる苦難を一身にあびてきていた。そして、弾圧の2年の歳月は、2人をまったく隔離していた。複雑怪奇ともいうべき時代の激流は、助けあい、呼びあう2人を、みるみる遠ざけてしまった。流れのうえには、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた。
 後世の歴史家は、この昭和の最大の法難にあたって、勇敢に弾圧と戦った人は、2人いたというだろう。1人は、日蓮大聖人の法水を、微塵も汚すことなく護りきった、総本山側の堀米尊師、もう1人は、最大の講中である創価教育学会側の戸田城聖その人である―と。(中略)
〈※堀米尊師〉「戸田さん、いつ?・・・」
〈※戸田〉「おとといの夜、やっと保釈になりました」(中略)
「この戸田の生きているかぎり、断じて御本山を安泰にお護り申しあげます。ご心配くださいますな。ただ、出獄後、まだ事業の見とおしも得ませんので、しばらくの猶予をおねがいいたします。」
 僧俗一体の実は、2年ぶりで回復したのである。(『人間革命』第1巻「一人立つ」)
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 戸田会長自身が「(堀米尊師が)日蓮大聖人の法水を、、微塵も汚すことなく護りきった」と言っている。当然、「法水」とは唯授一人の血脈のことであり、池田学会が謗法を犯したと口汚く詈る日恭上人所持の法水のことである。ここでは一応堀米尊師のみが「宗門の矢面に立って戦って」こられたように述べているが、結局は御法主を初めとする宗門首脳の指示のもと行動されたのであり、あるときには御法主(日恭上人)自ら、当局に足を運び「(身延との)合同不承知」を宣言されたこともある。「国家権力に対峙する一切の衝」の内容は、池田学会が誹謗する神札の件、観念文の件等も含まれると考えるべきである。これら一切の宗門側の対応について戸田会長は「日蓮大聖人の法水を、、微塵も汚すことなく護りきった」といっているのである。
 尚、「(※戸田)おとといの夜、やっと保釈になりました」とあることから、保釈後、初めて宗門御僧侶に面会したのが、このときの会話であることが推測される。実は、このとき戸田氏は、日淳上人に戦時中に僧侶誹謗の罪を懺悔していたという証言がある(下記●)。「流れのうえには、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた」とは、このことを婉曲的に述べたものだろう。

◆堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
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日淳上人誹謗を懺悔。仏法上、心から懺悔すれば罪障を消滅することができる。このことと、戦後の戸田会長の折伏活動および唯授一人の血脈に対する絶対的尊信の念(<戸田城聖の実像>参照)より、歴代上人は牧口会長に対しても正の部分を強調した讃歎の言を残されたといえよう。日亨上人が戦時下の学会弾圧を法難として賞賛されたのもその表れか。ただし、一般論としては、「世相を無視」(上記4●)し「官憲の横暴を徴発」(同)するような「似非信行の門徒」(同)が存在したとし、暗に学会を批判されている。尚、溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』によれば『若き日の手記・獄中記』(『獄中書簡』を納めたものか)は昭和45年に遺族が刊行。

●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)

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from: 21世紀さん

2011/06/30 23:04:32

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「Re:牧口常三郎の実像」
日淳上人の神道観

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(<法蔵>H19.7.15)

【『誤ることなかれ』】

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 神道に於て神社神道と宗派神道との二流があつて、前者は祖神崇敬を中心とし、後者は神道を宗教として立てるところに両者は全く趣を異にするといふのが学者の定説である。然るに近時神道家の間に神社神道を宗教的たらしめやうとする運動が擡頭(たいとう)しつつあるやうである。此は今日の国体精神の復興に刺激せられ国粋的純情の自然の趨勢(すうせい)として起り来るもの敢へて怪しむに足らぬところであつて、一般世人も暗々裡にかくの如き傾向にあるといへる。
 此れ等の所論に従へば日本は神国であり、世界無比の国である。然るに他国より輸入せられた神仏を崇敬して膝を屈するは恥辱であり、国体観念の混乱はこのことによつて醞醸される。苛(いやしく)も文化が他国と同等若くはそれ以上に達したる現在何を苦(ママ)んで他国の神仏を崇める必要があるか宜しく此等を排撃して神道に帰すべきであるといひ、而して此のために神道も此れ等の所依となるべく宗教的にならねばならぬといふ。而して又神道を宗教たらしむることの合理的なるについては神道は本来国家的倫理的宗教的の三つの要素を包含してをる。それ故此の宗教的要素を高揚して宗教とするも毫(ごう)も差支へなく当然であるといふ。
 此れについて吾人は前の他国の神仏を崇敬するを止めんとするは別途の意義もあり大いに賛するところである。由来かかる他国の神仏を立つることは往昔我が国文化が劣つてをつた時他国文化を崇拝するあまりに起つたことである。勿論此れは人情の然らしむるところ、今更とかくいふ必要もないが今日我が国が世界のどの国にも遜色なき文化をもち、しかも真の面目を宣揚して世界を導かんとする時に当って過去の残滓(ざんし)たるものを清掃して自家の天地を自覚し、決然立つべき時に於ては当然執(と)られねばならぬ処置である。このことはけつして感情上の議論ではなく、純粋理性の上から他国の神仏を批判する時到達するところなのである。
 しかし乍(なが)ら一方論者のいふ神社神道を宗教たらしめんとすることには一言しなければならぬと思惟する。神道が三つの要素を包含してをるが故に宗教たらしむることは差支へないといふは一往もっともの如くである。しかし乍ら此れは祖神を立つるところに自ら三要素が具足するのであつて宗教的の上に神があるのではない。此れが神道の根本義である。然るにその宗教的要素の高揚は必らず宗教的なる辺に神道を立つるといふことに結果する。若し然れば今日の宗派神道と何等撰ぶところがなくなるのである。祖神を立つるところ宗教的であるといふのと、宗教的なる辺に立つるといふのとは大した差違もなく考へられるが、しかしその結果より見る時大変な相違がある。而してこのことは神道の根本義を破壊するものである。
 神道が宗教として立てられることは宗派神道に見られる。而し此等がその教義を徹底して窮極(きゅうきょく)するときどうであるか。大概は神道の根本義たる祭政一致を没却し直接祭祀のことをなすが故に神の啓示は教祖教主が或は自己にありと信じ必然的に世間法の混乱錯雑を誘引するにいたる。このことは大事が中の大事である。
 西洋の神なるものは造化神であるかまた祖神なることに違いはない。彼等は此の神を宗教の上に信ずるがため、此れに影響せられて皆悪平等に堕するのである。その結果はどうであるかといへば西洋史の上に現はれてをる。今神道を宗教たらしむることは此の弊を踏襲することに他ならぬ。
 神道に於ては祖神を崇敬するところに宗教的要素があるのであつて、宗教的なるところに神道を立てないのが根本でなければならない。此の限界は一見不分明であるが、もつとも戒心すべきところである。(第65世日淳上人『大日蓮』S11.8/『日淳上人全集』136頁〜)
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【『神道の限界性に就いて』】

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 最近神道側から神社を以て宗教となし、之れを国教とせよといふ声が頻(しき)りに伝へられる。而してその論ずるところは神社以外の一切の宗教は非国家的であつて国体観念を破壊する誘引とこそなれ、豪(ごう)も涵養(かんよう)するものでないが、神社は国体の表現そのものであり、神人合一にこそ国家人としての体現があるとし、従来神道は教典を有せず三世を説かない等宗教としての要素を具備しないといはれるがけつして此見解が当つてをるものでないといふ。而して或は又神社は倫理的宗教的国家的の要素の上にあるものであるから宗教的面の高揚は少しも不都合でないとして主張するが如くである。
 宗教を国家の上から批判してその適合性によつて正邪を判断することは正当なことであり、日蓮大聖人は五綱の教判即ち教、機、時、国、教法流布の前後の五箇条を基準として宗教の正邪を判定なされてあるが此のうち国判がそれである。大聖人はこの国判によつて他一切の宗教は吾が国体に不適合であると断定せられてをる。神道側の主張は別な意味からではあるが国家を基準としてなさるゝ点は同じであり此は正当なことである。
 実際この国家を基準として現在行はるゝ宗教を見るとき吾が国体に適合するものはない。此点からいつて此等の宗教は否定されなければならない。或は此れに対して非常時に於て和を破ぶるが如き極論は避くべきでありといふものもあり、或は今日迄此等の宗教を信仰せるものの中にも日本精神を発揮せしものもあつたといふ理由をもつて抗議せんとするものもある様である。而し此等は誠に不徹底な言であつて非常時なるが故に国体に不適合なものは整理されねばならないしまたそれ等の宗教のうちに日本精神を発揮したものがあるといふもそれはそれ等の教法によつて体達されたものでなく天性の然らしめたのに他ならない。
 以上の理由によつて神道が宗教たり国教たらねばならぬといふことは一応首肯し得られやう。若しそのため必要ならば宗教的要素を補足するも可なりであつて、それは一切の宗教に於て見らるゝところであるから少しも差支へない。しかし乍ら神社を宗教たらしめた結果はどうなるであらうか。論者のいふ如く宗教として神人合一を庶幾(しょき)しその体現の上はどうなるであらうか。この事を考へる時到底此れ等の説を首肯することができない。神人合一の体現は必然的に世間法を混乱に導くことになる。今日不敬事件をもつて摘発を受けた宗教は皆神道に属するもののみである。その禍因(かいん)は他にもあらうが吾人は神道を宗教として信仰し、神人合一の結果当然堕入る結果が不敬となるものと思惟する。此ことは世間の識者に充分なる考慮を煩はさねばならぬところと思ふ。恰(あたか)も西洋の神なるものは造化神であるが祖先であることに相違はない、而して此れを宗教神として崇めるとき一切の人は平等であるといふ悪平等の思想が胚胎するその結果はどうであるか、西洋神が如実に之れを物語てをる。西洋の思想が基督教を産み出したといふも基督教が西洋思想を生み出したといふも結局同じことであつて危険なることに変りはない。
 考へてこゝにいたれば神社宗教論は国粋的純情のしからしむるところとしてその心情の辺は一応理解する事はできるが、その結果よりいつて到底賛ずる事はできない。神社はあくまで祖廟(そびょう)として世間法に属してその上に出世間法に跨(またがる)るものとしての立場を厳守しなければならない。それが神道の姿であり、本来の使命であつて此の範(のり)を超す時その面目を失ふ事になり弊害を醸(かも)すことになるであろう。(第65世日淳上人『大日蓮』S12.7/『日淳上人全集』164頁〜)
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【神社神道と宗派神道】
<神社神道>
[神社神道]……祖神崇敬を中心とする。祖神を立つるところに自ら3要素(国家的倫理的宗教的)が具足するのであって宗教的の上に神があるのではない。此れが神道の根本義である。(日淳上人)
-----------------------
「祖神崇敬を中心とする」「国家的」というから、これは国家神道のことである。

●それが宗教であるためには必ず本尊がある筈である。本尊のないものは思想であるか学であるに過ぎない。(『大日蓮』S10.12/『日淳上人全集』122頁〜)
-----------------------
宗教は本尊をもって根幹とする。本尊とは「信仰者が供養し、礼拝・祈祷し、生命を委ねる対境」(『大白法』)である。日淳上人が神社神道を宗教でないとされた理由は、まさにこの点―個人の幸不幸に関わる本尊の有無―にあったといえよう。

◆国家神道(こっかしんとう)とは明治から大東亜戦争(太平洋戦争)の終戦までの間に日本政府の政策により成立していた国家宗教、あるいは祭祀の形態の歴史学的呼称である。「国体神道」・「神社神道」とも、また単に「神社」とも称した。(<Wikipedia>070712)

◆「国家神道」を宗教では無いとする説と宗教であるとする説がある。非宗教説は、敬神を国民の義務とし、この義務は道徳の範疇にあるので、敬神は宗教では無いとする説である。(<Wikipedia>070712)


<宗派神道>
[宗派神道]……神道を宗教として立てる。直接祭祀のことをなすが故に神の啓示は教祖教主が或は自己にありと信じ必然的に世間法の混乱錯雑を誘引するにいたる。(日淳上人)



【日恭上人】
●畏(おそれおお)くも聖上陛下には昨冬12月12日伊勢神宮に御親拝と拝承し奉る、是れ赤子(せきし)たる我等国民の齊(ひと)しく恐懼(きょうく)感激する所なり。(第62世日恭上人=報国団結成の「祈願文」S18.1.15)
-----------------------
日恭上人も国家神道の祖神崇敬自体については一往容認されていた。天皇がその祖先を崇敬すること自体は、仏教の教えにも適っている。

●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候 甚だ乍略寸暇も無之最中御海容願上候 拙僧に対し責任ある身之上なるが故に時局柄手紙にては法義を論ずべからずと注意せられ候間此等之点に就而以後は他之方へ御照会願上候 右之次第に付是迄にて御断り申候(第62世日恭上人『特高月報』/『慧妙』H6?)
-----------------------
これは、第62世日恭上人が小笠原慈聞師に宛てた書簡である。「大聖人を本仏として人本尊と仰ぐ」ことは「第一義の法門」であると断言されている。しかし、これを公言して神本仏迹論を否定することになれば「不敬に渡る事故言ふべからざる事」と仰せである。天皇の祖先を神と仰ぐ国家神道としては、神を仏の垂迹とする法門は受け入れられない。よって世間悉檀(世界悉檀)の上から、本地垂迹説の主張を控えられたものと拝する。

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from: 21世紀さん

2011/06/30 23:05:45

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「Re:牧口常三郎の実像」
【牧口会長】
◆吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
-----------------------
「無条件で敬神崇祖」とは国家神道の教えである。ここに牧口会長が国家神道を容認していたことは明らかである。「神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない」とは、日淳上人が「宗教的の上に神があるのではない」として国家神道を容認された主張を参考にしたものか。それにしても、「神社は感謝の対象」「吾々が靖国神社へ参拝するのは」とは言い過ぎではないか。



日淳上人は神道を「神社神道」と「宗派神道」に分類し、前者は宗教的でないとして容認し、後者は邪宗教として排斥された。国家神道とは、天皇及びその祖先を神として敬うという理念(イデオロギー)であり、個人の具体的な幸不幸に関わる教義や祈念の対象としての本尊を持たない。その意味で宗教ではないのであり、その限りにおいて容認される。それに対して宗派神道は本尊(神体?)を持ち、それを信じることによって個人の幸不幸に関与する。だから邪宗教として破折排撃されるべきである。日恭上人を初めとする戦時下の宗門は、世間悉檀の上から、このような方針で国家神道に臨まれたものと拝する。


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from: 21世紀さん

2011/07/01 18:33:00

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「Re:牧口常三郎の実像」
●牧口が宗門をあげての「国家諌暁」を願った時、総本山では文部省から、思想統一政策の1つとして、全日蓮宗の統合合併策を強要されされていた。そして宗門の一部には、この身延との統合案に迎合する悪侶も出ていたのである。これらの節操のない僧侶が、時の軍部と手を握ったため、宗門は紛糾せざるを得なかった。 国家諌暁の断行には、第1に宗門の内部の意志の統一が必要であることは、いうまでもない。宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。宗内の獅子身中の虫ともいうべき一派は、水魚会と称する背後の軍部勢力と結託していた。これらが、文部省の宗教政策を牛耳りつつあったのである。そのため正宗の僧侶達は、国家の危機より、宗門の7百年来の未曾有の危機を克服することに懸命であった。(『人間革命』第3巻「渦中」)
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池田自身、当時の宗門の置かれていた状況を「宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。」としていた。一信徒の牧口と、宗門全体の信徒の信心と法体を守るべき立場とでは、自ずから考えや行動の視点が異なるのである。


<世相を無視し宗熱に突喊(とっかん)し官憲の横暴を徴発した牧口学会>
3●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(第59世日亨上人著『富士宗学要集』第9巻247頁)
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国家諌暁に賛成であった日亨上人も、個々の僧俗が勝手に「世相を無視」し「官憲の横暴を徴発」するような行為に対しては否定的であったことは「似非信行の門徒」という語から容易に分かることです。

●客年(※昭和17年)1月頃以降警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者ありて、皇大神宮に対する尊厳冒涜竝に不敬容疑濃厚となりたる為同庁に於て、本月(※7月)7日(※昭和18年7月6日逮捕。7日、警視庁に護送)牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)
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謗法払いのために、敢えて神札や仏壇を焼く必要はない。「夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起」などは、戦時下でなくとも非常識な、法を下げる行為であろう。また、謗法払いは、本人や家族が充分納得した上で行うべきものである。それが実行できておれば神札不敬があったとしても、警察への投書などによって社会問題化することもなかったであろう。学会弾圧は、社会常識、庶民感情を無視した強引な布教の結果、一般庶民を敵に回したために惹起した自業自得の"災難"だったのである。

●昭和18.4頃 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕。

●昭和18.6.5 東京・中野の一学会員が、近所の人の子供が死んだのを、頭から「罰だ」と決めつけて折伏しようとしたことで、怒った相手から訴えられ、特高警察に逮捕・拘留されるという事件が起きた。 特高では、この事件を機に、かねてマークしてきた創価教育学会を一気に壊滅(かいめつ)せしめる意志決定をし、逮捕した学会員を厳しく取り調べて、学会弾圧の「罪状」を作成にかかったのである。(『慧妙』H13.8.16)
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学会弾圧の契機は、神札不敬ではなく、人情を無視した非常識な「罰論」であった。


<「訊問調書」>

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逮捕後も、安国論を示しながら「現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張り謗法國である処から起きて居ると思ひます。故に上は陛下より下國民に至る迄総てが久遠の本仏たる曼荼羅に帰依し、所謂一天四海帰妙法の國家社會が具現すれば、戦争飢饉疫病等の天災地変より免れ得るのみならず、日常に於ける各人の生活も極めて安穩な幸福が到来する」と言われた。仏法教義のことがあるため、「訊問調書」は牧口先生自ら調書を書くのを手伝われたこともわかっている。
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 もし、特高刑事の前で、政府による戦争行為を批判したのであれば、それ自体が大問題視され、当然、起訴状にもその事実が記載されていたであろう。しかし、実際には、起訴状には牧口会長が反戦論者であることを示す記述は一切ない。
 このことからも分かるように、「現在の日支事変・・・」の発言は、戦争批判ではないと考えるべきである。戦争によって多くの死傷者が出ることは不幸なことであり、戦争がないにこしたことはない。それについては時の政府とて否定しなかったであろう。日支事変や大東亜戦争も、多くの死傷者を出したという点では、不幸なことである。だからこそ仏法も戦争を三災七難の中に含めているのである。そのような不幸な戦争をしなければならなかったことは止むを得ないこととはいえ、その原因の元を糺(ただ)せば謗法にある、というのが牧口会長の見解である。その辺のニュアンスは刑事には伝わっていたはずであり、だからこそ、取り立ててこの発言を問題視しなかったのである。
 ところで、『立正安国論』を示して日支事変や大東亜戦争の原因が謗法であると主張したとあるが、これは少々おかしいのではないか。『立正安国論』に示された戦争に関する難といえば、他国侵逼難である。この難は、他国から侵略されるというものである。だから、牧口会長が、自国から進んで他国へ侵攻した日支事変や大東亜戦争をもって他国侵逼難と捉えていたとすれば、事実誤認というべきであろう。

●三災七難すでに現れ、ついに未だかつてなき他国侵逼の大難も、厳然と現れたことは、御承知のとおりです。(戸田城聖発言S23.11.12『人間革命』第3巻「結実」)
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太平洋戦争を含め、満州事変以降のいわゆる15年戦争は、明らかに日本軍から仕掛けた侵略戦争であった。それでも形勢逆転し本土空襲、無条件降伏による連合軍の日本上陸という事態を他国侵逼難と捉えている。

●「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を安堵せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以である。それは銃後に於けるすべての生活の理想の要諦でもある。(『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻129頁)

●吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(S17.11第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)



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検挙され訊問を受けた創価教育学会幹部など、種々の証言によると、この訊問調書の供述は牧口自身の筆答が大半であることが判明している。(『牧口常三郎全集』第10巻184頁)
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「訊問を受けた創価教育学会幹部」「種々の証言」とは誰なのか?同書の発行・編集者が学会とは無関係の者であれば、信用するところであるが、学会関係者が発行・編集しているから、具体的に証言者及び証言内容を示さない限り信憑性は低い。また、この記述を信用したとしても「牧口自身の筆頭」は「大半」である。残りの部分は官憲が作成したことになる。そうであれば、難解な純粋教義に関わることについては牧口会長に書かせ、神札不敬など起訴事実にかかわる部分は官憲が作文したと考えるのが自然である。また、既に宗義書が押収されていたから、その内容に沿った供述を筆答させられたのであろう。

4●取調官があんまりひどいデッチ上げをいうので「そんなバカなことはない」と食ってかかろうものなら両手を背中までもっていって後手にしばる、足もしばって転がしてしまう。口にはゴムでつくった丸い猿ぐつわをくわえさせられて、しめつけられる。物も言えない・・・。ところが向こうの机の上にはちゃんと質問書ができているんですね。(中略)こちらの言い分も聞かないで、どんどん書いていっちゃう(中略)取調官は書くだけ書いてしまうと、「きょうはこれで終わりだ。えらかったろう。ちょっとこれにハン押してくれ」。ハン押せったって、大国さんは手をくくられている。そうすると印肉をしばられている後の手へ持ってくるんです。あおむけに転がされているのを今度は裏がえしにしてうつぶせにして、上になった手の指に印肉をもっていってぴしゃっと引っ付ける。それで自分がちゃんと印を押したことにされてしまった、というんだからひどいもんです。署名の字も大国さんに名前を何枚も何枚も書かせ、それをもってあとで特高が調書を間にはさんで、なぞる。これで、自分が書いたことになる。(大本事件・徳重高嶺『宗教弾圧を語る』岩波新書12頁〜)
-----------------------
訊問調書は、逮捕を正当化するために、容疑事実を裏付けるように官憲によって"作文"されていたのです。

[資料]:牧口常三郎に対する起訴状

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from: 21世紀さん

2011/07/01 18:34:36

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「Re:牧口常三郎の実像」
創価教育学会々長牧口常三郎に対する起訴状

--------------------------------------------------------------------------------

(『特高月報』昭和18年12月分/『牧口常三郎全集』第10巻252頁〜)

 被告人 東京都神田区錦町一ノ九
     牧口常三郎 当七十三年

被疑者は明治二十六年北海道師範学校を卒業し、爾来小学校訓導師範学校教諭文部属、小学校長等を歴任し、昭和六年東京市立麻布新堀尋常小学校長を退職したるものなるところ、昭和四年頃従来教育学に慊(あきた)らず、自己創案に係る生活の科学と称する創価学説に基き、人類をして最大の幸福を得しむる為の最良の方法を考究することこそ真の教育学なりと做して、創価教育学なる独特の学説を提唱するに至り、更に其の頃日蓮宗の一派なる日蓮正宗の研究者三谷素啓より同宗に関する法話を聴くや、之を右創価教育学の学理に照合理解して痛く共鳴し、同宗の教理こそ末法時に於ける一切衆生の帰依すべき唯一無二の正法なるのみならず、創価教育学の極致なれば人間をして最大の幸福を得しむるには同宗に帰依せしむるの外なしと思惟し、昭和五年頃同宗の教理に特異なる解釈を施したる教説を宣布する為、創価教育学会なるものを創設したるが右教説たるや、妙法蓮華経を以て仏法の根本宇宙の大法なりとして弘安二年日蓮図顕に係る中央に法本尊たる南無妙法蓮華経及人本尊たる日蓮を顕し、其の四方に十界の諸衆及妙法の守護神を配したる人法一箇十界互具の曼茶羅を以て本尊とし、一切衆生は此の本尊を信仰礼拝し、同本尊の題目たる南無妙法蓮華経を口唱することに依りてのみ成仏を遂げ得べしと倣す日蓮正宗本来の教理を創価教育学の見地より解釈したるものにして、日蓮正宗の法門こそ無上最大の善にして、該法門に帰依し其の信仰に精進するに於ては、最大の善因を施すことゝなり、因果の理に依り最大の善果を得、最も幸福なる生涯を送り得べく、爾余の神仏を信仰礼拝するは該法門に対する冒涜(ぼうとく)にして、所謂謗法の罪を犯すことと偽り、法罰として大なる不幸を招くべしと説き右本尊以外の神仏に対する信仰礼拝を極度に排撃し、畏くも皇大神宮を尊信礼拝し奉ることも亦謗法にして、不幸の因なれば尊信礼拝すべからずと做す神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)するものなるに拘らず、実験証明と称し入信者が忽ち幸福を得たる反面謗法の罪を犯したる者が怖るべき不幸に陥りたる実例を挙げて該教説を証明する等の手段を用ひ、未信者を強硬に説伏入信せしむる所謂折伏を行ひ、該教説の流布に努め来りたるものにして、昭和十五年十月に至り同会組織の整備を企図し約二百名の信者を糾合して之を会員とし、綱領規約を決定し自ら会長に就任すると共に理事長以下各役員を任命し、本部を同市神田区錦町一丁目十九番地に設けて前記教説を流布することを目的とする結社創価教育学会の組織を遂げ、爾来同会拡大の為活溌なる活動を続け、現在会員干数百名を擁するに至れるが其の間昭和十六年五月十五日改正治安維持法施行後も前記目的を有する同会の会長の地位に止まりたる上、同会の目的達成の為

第一 昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年七月六日頃迄の間前記同会本部に於て同会の運営竝活動を統轄主宰したるが
(一)昭和十六年六月一日頃より昭和十八年七月一日頃迄の間、毎月約一回前記同会本部等に於て幹部会を開催し、之を主宰して同会の運営竝活動に関する方針を決定し
(二)昭和十六年十一月二日頃より、昭和十八年五月二日頃迄の間四回に亘り同市神田区一橋教育会館に於て総会を開催し、其の都度講演、実験証明等の方法に依り参会者数百名に対し折伏又は信仰の強化に努め
(三)昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年六月三十日頃迄の間、二百四十余回に亘り、同市中野区小滝町十番地陣野忠夫方等に於て座談会を開催し、其の都度説話、実験証明等の方法に依り参会者数名乃至数十名に対し折伏又は信仰の強化に努め
(四)昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年六月三十日頃の間毎週一回面会日を定め、其の都度同市豊島区目白町二丁目千六百六十六番地自宅に於て、説話、実験証明等の方法に依り身上相談の為の来訪者数名乃至数十名に対し折伏又は信仰の強化に努め
(五)昭和十六年十一月五日頃より昭和十八年七月五日頃迄の間十回に亘り地方支部又は地方に在住する信徒の招聘に応じ福岡県其の他の地方に赴き、約十五回に亘り福岡市二日市町武蔵屋旅館其の他に於て座談会又は講演会を開催し、其の都度講演、説話、実験証明等の方法に依り参会者数名乃至数十名に対し折伏又は信仰の強化に努め
(六)昭和十七年九月前記同会本部に同会員三十数名を委員とする退転防止委員会を設け、昭和十八年七月六日頃迄の間、全委員を七班に分ち、信仰を失ひ脱会せんとする同会々員の再折伏に努めしめ、且其の間六回に亘り同本部に其の報告会を開催し、委員より再折伏の実際に関する報告を徴し、爾後の方策を考究指示する等同委員会の指導に任し

第二 昭和五年頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、東京市内其の他に於て同市王子区神谷町三丁目千三百六十四番地岩本他見雄外約五百名を折伏入信せしむるに当り、其の都度謗法罪を免れんが為には皇大神官の大麻を始め家庭に奉祀する一切の神符を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに至らしめ、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)し奉る所為を為したる等諸般の活動を為し、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に従事したると共に、神宮に対し不敬の行為を為したるものなり

検事 山口弘三

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from: 21世紀さん

2011/07/01 18:36:57

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「Re:牧口常三郎の実像」
<戦争翼賛は組織擁護の方便?>

************************************************************
既に特高は、創価教育学会の総会にも監視に表れるようになり、第5回総会ごろにはほとんどの会合が監視下になった。牧口初代は個人活動の思想家ではない。当時数千人に及んだ民衆を組織した運動の責任者であり、主導者であった。内外からできえる限り会員を守り、なおかつ運動の目的を遂げなければならなかったのである。よって時と場合において韜晦(とうかい=才能や学問をつつんであらわさないこと)せざるを得ない。
------------------------------------------------------------
 これは、『創価学会の歴史と確信』で描かれた牧口会長像に大いに反するではないか。同書をはじめとして戦後の創価学会による牧口像は、国家諌暁を声高に叫び、死をも厭わずに国家権力に対峙したというものである。そのような牧口会長が「内外からできえる限り会員を守り」、「時と場合において韜晦」したというのであれば、氏は一体、本気で国家諌暁をする気があったのか、疑わしいという他ない。まさに"あちらが立てれば此方がたたず"である(笑)。
 牧口会長にとっての国家諌暁の動機は太平洋戦争に勝って日本を救うことであった。そうであれば、氏には時間的猶予などなかったはずである。また、国家諌暁すれば、組織全体に大難が降りかかってくることは誰の目にも明らかなことである。それなのに、既に配給制が実施され、本土空襲も始まったという時期に、弾圧回避の戦争翼賛発言をしていたのである。こういう態度の人を普通、反戦論者・平和主義者などとは言わない。なぜなら、一般庶民でも陰では"戦争はいやだ""このままでは日本は負けるだろう"くらいのことは言っていたからである。陰では反対していても、決して公言はできなかったのが普通の人々の態度だったが、牧口会長も普通の人々と大同小異だったということになろう。

●最近、文部省が軍事訓練を課したるは、近ごろの大できである。……何という、今の非常国家に適切の忠告であろう(牧口常三郎「『光瑞縦横談』と教育・宗教革命」S11/『フォーラム21』H14.3.15)
-----------------------
「軍事教練」の義務化を賞賛する牧口に、軍国主義に反対する思想があったとはとうてい言えない。

●戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによつてのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである。(S16.10.20「価値創造」第3号/『牧口常三郎全集』第10巻18頁)
-----------------------
これは、ほかならぬ牧口会長自身の言葉である。しかも太平洋戦争勃発前の記述である。

●国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。(牧口常三郎「獄中書簡」昭和19年3月16日/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)
●御上の事は何んでも従ふことで検事様との間はなごやか(牧口常三郎「獄中書簡」S19.3.27『牧口常三郎全集』第10巻405頁)
-----------------------
「国法にはどんなにでも服従」「御上の事は何んでも従ふ」と獄中書簡で綴った牧口会長であるが、「創価学会の歴史と確信」で述べる意気軒昂な牧口像との相違が明白である。ここには、一番弟子が語った牧口氏の「確信」の片鱗も見られない。


<検閲について>

************************************************************
 戦前・戦中に発行された牧口先生の古い文献に基づいて「学会も謗法を容認した」「学会も戦争賛美した」との正宗サイドの主張ですが、戦前・戦中の「検閲」を経て発行された出版物の資料としての取り扱いを知らない、ド素人の主張ですね。というよりも『慧妙』編集子はド素人の法華講員を欺くために意図的にやっているのでしょうな。(中略) そもそも、この時代に「出版物として発行された」という事実は、「国家権力の主張に反しないように検閲された」ということと同義なのです。その上で、創価教育学会を含めた各団体は「出版する」という目的を達成するために、あえて国家主義的な表現を使いながら、言葉の奥に主張を込めるような工夫していたのです。
 その点を全く勘案せず、出版された文字のみを「まんま」で捉え、判断の対象とすることは、「いかに国家権力が検閲を行ったか」の事実検証には役立つでしょうが、その団体がいかなる思想、行動を取ったかという判断の基準にはならないのです。
 これは、戦前・戦中の公式文書、出版物を読む上での、ジャーナリズム、学術界における常識です。
------------------------------------------------------------
創価教育学会の目的は、大聖人の仏法流布にあるはずである。そうであれば、「あえて国家主義的な表現を使い」戦争賛美の主張を展開する必要などないはずである。

●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(T5「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)
-----------------------
これは、治安維持法が成立する前(大正5年)の出版であるから検閲に対する配慮などなかった頃の主張である。牧口氏が武力をもって外交問題を解決しようと考えていたことが分かる。

「『出版する』という目的」は、広く会員以外の者にも読んでもらうことであろう。しかし、【戦争翼賛する牧口学会】で紹介されたような事実や主張に接した当時の人々が、"牧口会長は平和主義者"だと思っただろうか?答えはノーである。100人が100人中、牧口会長のことを戦争翼賛者だと感じたことであろう。つまり「国家主義的な表現を使いながら、言葉の奥に主張を込めるような工夫」などなかったのである。そうであれば、仮令検閲下であったとしても氏の主張内容は、決して"反戦論者""平和主義者"のそれではないのである。

「戦前・戦中の公式文書、出版物を読む上での、ジャーナリズム、学術界における常識」などというが、牧口会長を"反戦論者""平和主義者"と評価する人は、学会関係者だけだろう。戦時下に戦争に反対し平和主義者と評価された人で、牧口会長のような戦争賛美の主張を残した人があったのだろうか。

●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
●(※牧口会長)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
-----------------------
 戦後の日本は反戦思想が広まり、それに呼応するかのように、創価学会も反戦を掲げていた。戸田城聖著『人間革命』は、検閲のない戦後になって出版されたものであるが、それでも戦時下の牧口会長を反戦論者のようには描いていない。それどころか、信心を根本として戦争に勝つことを願っていたように描かれているのである。
 戸田氏は牧口会長の一番弟子であったから、牧口会長のことは他の人(学術関係者を含め)以上に詳しかったはずである。また、戦後の創価学会の反戦・平和路線と、牧口氏が初代会長であったことを考えれば、池田学会がそうであったように、多少なりとも脚色して牧口会長が反戦論者であったかのように描いても不思議ではない。それにも拘らず、牧口会長が戦勝を強く願っていたように記述したことは、相当信憑性があるというべきである。


・牧口会長が国家諌暁をしたという事実はない。もし、特高刑事の質問に答えたことをもって国家諌暁だと言うのであれば、大笑いである。

・国家諌暁をして逮捕されたのではなく、戦争翼賛の言辞を弄したり、神社参拝容認ともとれる指導(2●)をして弾圧を回避しようとしたが、以前行った神札破却等のために逮捕されてしまったのである。

・訊問調書に記述された謗法厳戒の主張も、押収された宗義書をもとに検事等が作文した可能性が高い。(4●)

・起訴状をみる限り、当時の戦争に反対したという事実はない。

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from: 21世紀さん

2011/07/01 21:56:30

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「Re:牧口常三郎の実像」
【柳田國男の証言】

************************************************************
 今度の戦争に入つて間もなく、牧口君は一晩若いのを連れて話しに来て、泊り込んで行つたが、私は大した印象もうけなかつた。それにあれの哲学のシステムが少し違つてゐると思つたので、深入りしても役に立たないと思ひながら、一緒に話して泊つたのが最後であつた。若い者を用(つか)って熱心に戦争反対論や平和論を唱えるものだから、陸軍に睨(にら)まれて意味なしに牢屋に入れられた。妥協を求められたが抵抗しつづけた為め、牢の中か、又は出されてか直ぐかに死んでしまった。宗祖の歴史につきものの殉教をしたわけである。
 その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく、30人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度であった。(中略)宗祖となるには牧口君は少し不適当で、それほど深い信仰ではなかったから、物足りなかったと思ふ。本も沢山読んでいたわけではなかった。

(『定本柳田國男集』別巻第3=筑摩書房:絶版463頁)
------------------------------------------------------------
<昭和6年頃の記憶>
◆その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく、30人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度であった。
------------------------------------------------------------
●発会時には、数十人にすぎなかった会員が、15年には500人を超え、翌16年には、3千人に達した。(『創価学会40年史』/『牧口常三郎全集』第10巻50頁)
-----------------------
「30人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度」とあるから、牧口会長らが「一晩若いのを連れて話しに来て、泊り込んで行つた」のは、創価教育学会の発会当時、即ち昭和5年頃であったことが分る。とすれば「今度の戦争に入つて間もなく」という「今度の戦争」とは太平洋戦争のことではなく15年戦争(昭和6年の満州事変勃発から昭和20年の太平洋戦争終結までの一連の戦争)のことである。

[15年戦争]=教科書では、「15年も続いた戦争」と書いてありますね。第2次世界大戦の終了が1945年ですから、1931年から1945年のことを15年戦争と呼びます。(<シリウス(静岡教育サークル)>WS)

[資料]:15年戦争史


<「戦争反対論や平和論」云々について>
●1903年(明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。「人生」すなわち人間の生活と「地理」の関係から世界を見つめた意欲作でした。同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
-----------------------
 この記述どおりだとすれば、確かに明治36年頃の牧口会長には反戦意識があったようである。しかし、大正5年の『地理教授の方法及内容の研究』では「日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ」(『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)とも述べている。その後も史料を見る限り、反戦どころか一貫して戦争翼賛的言動が続いている。これをどうみるか。
 牧口会長の戦争観に変化がないとすれば、『人生地理学』の思想は一種の理想論または目標であって、現実の戦争を無条件で否定したものではなかったといえよう。
 戦争観に変化があったとすれば、反戦思想から戦争翼賛への転向である。

・大正時代以降、牧口会長自身の著作物に戦争翼賛的言辞は数多く見られるが、反戦的言辞は見当たらない。
・牧口会長が熱心だったのは謗法払いと折伏、さらに国家諌暁による戦勝である。これについては戦後の戸田会長の記述からも明らかである。
・そのような牧口会長が、創価教育学会設立以降、折伏ではなく「戦争反対論や平和論」を「若い者を用(つか)って熱心に唱える」とは考えられない。
・もし柳田の記憶が正しいとすれば、昭和6年当時に柳田の前では、話しの流れの中でたまたま、かつて『人生地理学』で述べたような理想論を吐露したのであろう。しかし、戦線が拡大し、思想統制が厳しくなると一貫して戦勝を願うようになる。


<自身の記憶と獄死した事実を結び付けて誤った結論を出す>
◆戦争反対論や平和論を唱えるものだから、陸軍に睨(にら)まれて意味なしに牢屋に入れられた。
------------------------------------------------------------
●軍国主義の横暴と、時の警視庁の小役人の愚癡蒙昧から、ついに牢死(『人間革命』第2巻「車軸」)
●検察当局は、学会幹部の一斉検挙の機会を、虎視眈々(こしたんたん)と狙っていた。そして、神道を蔑視する言動を理由に、ついに学会を反国家的な団体として決めつけていったのである。(『人間革命』第3巻「渦中」)
●生れ故郷といつてよい兵庫県の代表日刊紙たる神戸新聞の懇請により、33年1月9日から、9月14日まで、200回にわたる「故郷70年」が連載されることになつたわけであります。(嘉治隆一「『故郷70年』の成り立ち」/『定本柳田國男集』月報34)
-----------------------
『定本柳田國男集』別巻第3は昭和33年1月9日から、9月14日まで『神戸新聞』に連載された「故郷70年」を収録したものである。昭和33年といえば牧口会長が死去してから10年以上になる。創価学会は戸田会長の最晩年であり、世帯数も約30万世帯(公称)と飛躍的に拡大している。「その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく」という記述から明らかなように、当該記事は、昭和33年に15年以上昔のことを思い出して書かれたことが分る。しかしながら、「戦争反対論や平和論」については、現存する牧口会長自身の著書からは証拠がない。むしろ、戦争には肯定的で勝利を願っていたという証拠さえ存在する。戦後に書かれた戸田城聖著の『人間革命』にさえ好戦的な牧口会長らの発言が掲載されているのである。このことから分るように、「戦争反対論や平和論」「陸軍に睨(にら)まれて」云云というのは、戦後になって得た情報であろう。自身が見聞した昭和6年頃の記憶と戦後になって知った事実(牧口会長が思想犯として獄死)をつなぎ合わせて、誤った推測をしたものであろう。

●柳田の文は、創価教育学を「創価経済学」と記すなど誤りもある(『仏教者の戦争責任』70頁)
●私は前からなかなか関係が深かったから『価値論』といふ本に序文を書いているが、創価学会そのものは私にはよく分らない。若い者を引立てることが好きで、師範学校で教へたお弟子たちを大変可愛がつたりするのが1つの特徴であった。(『定本柳田國男集』別巻第3=筑摩書房:絶版187頁)
-----------------------
柳田にとって創価学会はさほど興味があったとは思われない。会の名前を平気で誤記するくらいなのだから、15年以上も前に私的に交わした会話を正確に記憶していたとは考えにくい。

●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
●(※牧口会長)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
-----------------------
 戦後の日本は反戦思想が広まり、それに呼応するかのように、創価学会も反戦を掲げていた。戸田城聖著『人間革命』は、戦後になって出版されたものであるが、それでも戦時下の牧口会長を反戦論者のようには描いていない。それどころか、信心を根本として戦争に勝つことを願っていたように描かれているのである。
 戸田氏は牧口会長の一番弟子であったから、牧口会長のことは柳田國男以上に詳しかったはずである。また、戦後の創価学会の反戦・平和路線と、牧口氏が初代会長であったことを考えれば、池田学会がそうであったように、多少なりとも脚色して牧口会長が反戦論者であったかのように描いても不思議ではない。それにも拘らず、牧口会長が戦勝を強く願っていたように記述したことは、相当信憑性があるというべきである。

●(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
-----------------------
というように、学会もおおいに喜んでいた。そんな状況下で、牧口会長が時局批判などするはずがないのだよ。大戦の詔勅が下され、日本軍が勝利している時期に、もし牧口会長が柳田翁に戦争反対をぶっていたら、翁が「私は大した印象もうけなかつた」というはずがないではないか。とんでもないことをいう、と強く印象に残っているはずだ。が、翁はそうはいっていない(宵待草)

[資料]:牧口常三郎に対する起訴状

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from: 21世紀さん

2011/07/02 00:19:09

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「Re:牧口常三郎の実像」
【『人生地理学』】

************************************************************
1903年(明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。「人生」すなわち人間の生活と「地理」の関係から世界を見つめた意欲作でした。同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
------------------------------------------------------------
<平和論の歴史>
●ストアの人々の平和論は、一切の人類は1つの神から出て平等であり、神の前に同胞であるという考えから出発し、人間同士の反目や戦争を非合法のものだとして平和論を打ち立てました。(『世界国家』S27.1/<国際平和協会>WS)

●ゲルマン諸民族の建国や西欧諸国の形成となり、近世諸民族の自覚と対立は、前のような、あこがれや武力では到底世界の恒久平和も期待できないことを知らしめました。そして平和を望む人々は、武力や政治力によらず、宗教的権威によって平和を招来しようと考えるようになりました。ルネッサンスの哲学者カムバネラの提唱した神政的平和論がこれです。(同)

●17世紀の初め頃、アンリ4世は、ヨーロッパだけではありましたが、一種の国際連盟の構想を立てました。これが世界平和機構の最初のものといえましょう。
 アンリ王の案は、凡てのヨーロッパのキリスト教諸国が連合して普遍的キリスト教共和国を組織し、さらに最高国際裁判所を設置して国際紛議を裁判しようというのでした。もっとも、アンリ王の案は机上のプランにとどまり、その実現は見ませんでしたが、今日の国際連合が300年前既にこの王のプランによって芽を出していたということは、注目されねばなりますまい。それのみならず、それから間もなく起こった30年戦争(1613-48年)が終わり、ウェストファリアで講和が締結さられる時、この考えが幾分取り入れられ、諸国の協同の最初の試みがなされたのでした。(同)

●1693年、クェーカーの指導者ウィリアム・ペンによって一石が投ぜられました。彼は『欧州平和の展望』と題する一書を著し、国連思想と、クェーカーの平和主義とを結び付けて、平和は正義を通じて保たれると説き、個人がその国の政府の法治に服するように、政府はそれよりも高次な政府の法治に従うべきであるとして、国際連盟的な機構を欧州に組織せしめようとしたのでした。当時、英国はルイ14世の治下で、侵略戦争を行っている最中でしたので、ペンのこの議論は一大風雲を巻き起こしました。(同)

●サン・ピエールによって唱道されたヨーロッパ永久平和論です。(中略)ピエールの説いたところは、ヨーロッパのキリスト教世界は元来「1つの世界」を形成しているわけなのであるから、ヨーロッパ諸国の間に「公法」を作り、お互いにこれを遵奉して行けば平和は保たれる筈であり、またそうして平和を保って行くべきである――としたもので、一大同盟を組織し、常設の会議を開き、調停及び仲裁により紛争や戦争を未然に防止しようというのでした。このピエールの平和草案は、大きなセンセーションをヨーロッパに巻き起こし、殊にジャン・ジャック・ルソーが、これを祖述して広く宣伝したので、一層有名となり、国際機構の問題は、もはやユートピアや、あこがれではなく、現実の問題として取り扱われるようになったのでした。そして、このピエールの平和論が、後に述べるカントの永久平和論を生む基礎となり、国際連盟はいよいよ胎動を始めることになるのです。(同)

●『永久平和のために』は1795年、ケーニヒスベルクで出版された。三批判書を完成させた晩年のカントの関心は、宗教や政治や歴史や具体的な諸義務の規定などに向けられていった。既に71歳に達していたカントが、永久平和の実現を念じて公表した著作である。執筆の直接の動機となったのは、1795年にフランスとプロイセンの間で締結されたバーゼル平和条約に対する不信であったと思われる。フランス革命から6年、まだ混乱の最中にあったフランスは、対外戦争においても和平を求めざるをえない状態にあった。一方のプロイセンにおいても、ロシアとオーストリアのポーランドをめぐる進出に気が気でなく、フランスと戦争をしている余裕はなかった。そういった両国の事情からバーゼル平和条約は結ばれたのだが、なぜカントがこの条約に対して不信の念を抱いたかというと、戦争を永久に終わらせるような条約では決してなく、秘密条項を含む欺瞞的平和条約だったからである。
 カントは人間の尊厳に基づいて永久平和論を主張している。「汝の意思の格率(個人の行為を決定する原理)が同時に普遍的立法の原理に妥当し得るように行動せよ」カントの言葉であるが、人間は自分の快楽の方向に進んでしまうと彼は知っていた。これは自然な傾向ではあるが、人間である以上は理性的に立ち向かわなくてはならない。自分の理性によって立てた道徳法則に自発的に従うことをカントは「自律」と呼び、自律の状態において人間は真に自由であるとした。またカントは自律の能力を持つ自由の主体を「人格」として、道徳的な自律を持てる存在である人間には尊厳があると説いた。尊厳がある以上、人間は常に「目的」として扱われるべきで、「手段」ではありえない。つまりカントにとって人間を手段として扱う戦争は、国家間、個人間、大小に関わらず道徳上、悪であった。戦争は、目的そのものである人間の尊厳を壊し、自由を損なう。したがって、「戦争はあるべからず」というのが実践理性の絶対的命令なのである。戦争のない永久平和は人間の到達すべき義務であるから、人間は努力しなくてはならない。有限な人間にとっての永遠の課題である。永久平和へのこの努力はカントにとって、人類の福祉とか、世の功利のためとか、あるいは博愛主義に基づくといったものではなくて、実践理性に基づく人間の無条件的な義務そのものであったのである。(京都産業大学文化学部国際文化学科・深尾光恵『カントの平和論とその現代的意義』)

平和論自体は牧口会長以前にも数多く世に提出されていた。これらの平和論は、現実に起こっている戦争を制止し、平和世界を構築しようとする熱意が感じられる。一方、牧口会長および創価教育学会の場合は、戦争を悪だとはしながらも日露戦争や15年戦争といった、現実に自国が直面した戦争を真っ向から否定し行動するというものではなかった。それどころか、戦争を翼賛する言動が数多く残されている。これをどう解釈するか。


<転向>
◆1903年(明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。
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 一般に知られている牧口会長および創価教育学会の戦争翼賛発言は、昭和11年以降のものである。日露戦争直前とはいえ、国家による締め付けが緩いときには吐けた理想論も、だんだんと思想統制が厳しくなると、転向して戦争翼賛者となったということか。
 同書は入信前の著書である。氏に好意的に考えるならば、入信して大聖人の仏法の偉大さを知り、反戦を直接叫ぶよりも、折伏によって広布を進める方が真の平和構築への近道であると悟ったのか。その場合には、大聖人門下としては立派な心掛けではあるが、一般にいう"反戦思想家"ではなかったことになる。

◆日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。
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●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
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これは、終戦後に出版されたものである。戦後の日本社会は反戦・平和思想が広く浸透しており、創価学会もその時流に乗り、反戦・平和を前面に掲げて活動している。そのような中で、池田学会は自己正当化のために"牧口会長は反戦論者であった"かのように喧伝している。しかし、戸田会長は、そのようには牧口会長のことを描いてはいなかったのである。戸田会長が描く牧口会長は「日本の民族は勇敢」であるから「米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させた」と、国粋主義者のような言動をとり、出征する会員に対して「前線で悔いのない働き」をするように激励していたのである。これは、終戦後の反戦思想の普及した時代に書かれたものであり、決して"会員擁護のための方便"などではない。


<戦争翼賛と『人生地理学』は矛盾しない!?>
 牧口会長は『人生地理学』で「世界は『軍事的競争』『政治的競争』『経済的競争』の時代から『人道的競争』の時代へと移らねばならない」と考えた。しかし、彼にとって「人道的競争」の時代へ移る方法は教育であり後には宗教であった。だから、現実に直ちに「軍事的競争」を否定するものではない。
 そう考えれば牧口会長が「世界市民を志向」し、「人道的競争」の時代を求めたことは一種の理想論(あるいは教育改革と宗教改革の徹底によって遠い将来に実現する目標)であり、国策に従って直面する戦争に翼賛することとは、必ずしも矛盾しない、といえるかも知れない。

●本当の八紘一宇とは「世界の人全てと仲良く暮らしましょう」と言う理想だったのです。決して世界征服を企む邪悪な日本軍の陰謀の合い言葉などではありません。(中略)当時の世界情勢が白人絶対主義、帝国主義全盛であったことを考えると、かなり革新的思想だったのではないでしょうか?ですから、本当のところは日本人が当時の世界で、白人絶対主義に対抗する為には、「アジア人の団結を謳うことで、少しは白人社会に対するバランスが取れるのかもしれない」という、当時の進歩的文化人達の理想とする少々甘ちゃん的発想であったのです。しかし輝く理想も厳しい現実の前に他聞(ママ)に難儀したようではありますが、その理想が生かされたのがインドネシアの今村均将軍の解放政策であったりする訳です。(アーモンド<道徳・教育・何でも会議室>WS000310投稿)

●40年に発足した第2次近衛文麿内閣は、「基本国策要綱」で「皇国の国是は八紘一宇とする肇(ちょう)国の大精神に基(もとづ)き世界平和の確立を招来することを以(もっ)て根本」とするとうたい、「皇道の大精神に則(のっと)りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圈の確立をはかる」(松岡外相の談話)ことをめざしました。(『しんぶん赤旗』H11.11.11)

●抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス(「大東亜共同宣言」1943=S18.11.6/フリー百科事典『ウィキペディア』051127)

●(※戸田理事長が披露した歌=幹部会員・四海民蔵作詩)男だ 日本人だ 日蓮正宗の信者だ 栄光ある生活改善同盟の戦士だ 大君のかがやく御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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「大君の御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む」とは、大東亜共栄圏の建設を目指した軍部政府のアピールそのものである。

 『人生地理学』で述べる反戦的思想は、一種の理想・目標であり「軍事的競争」(同書)を直ちに否定するものではない。牧口会長にとっては、「八紘一宇」「大東亜共栄」のスローガンのもとに進められた戦争は「大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」(「大東亜共同宣言」)するのための緊急措置であり「世界平和ノ確立ニ寄與」(同)するための止む終えない措置であった。むしろ、国家諌暁によって戦争に勝てば一気に「人道的競争」(『人生地理学』)の時代への道が拓かれると考えていた。
 このように考えれば、牧口会長や彼の組織が行った戦争翼賛の言動と、『人生地理学』との間に矛盾はなかったことになる。
 しかし、この場合には当然、牧口会長を一般的意味での"反戦思想家"と規定することはできない。


<転向>したにしろ<戦争翼賛と『人生地理学』は矛盾しない>にしろ、牧口学会が戦争翼賛的発言を繰り返していたことは事実である。それは、公式な場所だけではなく、官憲のいない私的な会話においてもそうであった。そうであれば、氏がいかに"立派な"反戦平和論を述べていたとしても、反戦思想家ということはできない。

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from: 21世紀さん

2011/07/02 15:23:59

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「Re:牧口常三郎の実像」
【『立正安国論』と平和主義】

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>牧口初代は入信4年後発刊の『創価教育学体系』で、「日蓮聖人が当時の世相を経文に照ら合せて、その毫も違わないのに驚き『立正安国論』を著わし、一世を警醒して帰趣を明らかにせられたのであるが、正に現代迄をも痛烈に警められて居るのには更に驚異せざるを得ないではないか」と安国論に注目されていたことを示されているが、昭和18年の春ごろから学生対象に安国論の講義を始められて逮捕直前まで続けられ、「立正」による「安国」を訴えられている。

>牧口先生は、真っ直ぐに『立正安国論』を実践されたのであり、「立正」によって平和の方向、「人道的競争形式」に導かんとされたのである。
------------------------------------------------------------
 『立正安国論』の主旨は、その名の示す通り、「立正」すなわち正法を打ち立てることによって「安国」すなわち安寧な国家を実現できるというものである。
 たしかに仏法では三災七難の中に他国侵逼難や自界叛逆難が含まれている。国内問題であれ、外国との問題であれ、武力による争いは多くの死傷者を生み出すものであり不幸の最たるものである。しかしてそのような不幸の原因は、主権者や国民が正しい仏法を信じないところにある。

●人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには(『立正安国論』全集24頁)
●国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回(めぐ)らし忩(いそい)で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり(『立正安国論』全集31頁)
-----------------------
要するに、『立正安国論』が我々に求める実践内容は、正法の弘通にある。正法が弘通すれば、国民個々の一生成仏も実現し、自ずから国家社会も種々の災難から免れるということである。反戦・平和の徹底および実現は仏法流布の目的の一部であるが、すべてではない。究極的目的は全生命の成仏であり、法界全体の仏国土化である。


<戦争反対と「立正安国」は次元が違う>
 戦争反対のための政治的文化的言論や行動は世法の問題であり、仏国土達成のための正当な手段ではなく、『立正安国論』で示された「安国」実現のための具体的手段ではない。もし、牧口会長が戦争反対を座談会で主張していたとすれば、手段を誤った言動であったというしかない。
 日蓮大聖人の御書には、戦争が仏法上の災難(三災七難)であるという主張はあっても、個々具体的な戦争反対の主張をされたことはない。かの蒙古が襲来したときにさえ、戦争回避の具体策は一切提示されてはいない。むしろ、真言による蒙古調伏の祈祷を制止され、正法によるべきことを主張されている。

●皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る一家の者も返る、日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさ(戦)のあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべしと申せしかば・いかにや思いけめあはててものもいはず、念仏者・持斎・在家の者どもも・なにと云う事ぞやと恠しむ。(『種々御振舞御書』全集918頁)
-----------------------
これは自界叛逆難(二月騒動)を予知された大聖人が、六郎左衛門尉に対して、"戦(いくさ)が起こるのだから急いで鎌倉へ上り、名をあげなさい"と助言されているところである。当時の武士にとっては、戦において力を発揮することが名誉である。"戦争で活躍しなさい"などと言うことは、決して反戦論者の言とはいえない。また、仏法は戦争を三災七難の1つに挙げている。つまり、戦争のない国土をつくることと戦争に反対することとは、全く次元が異なるのである。言い換えれば、いくら戦争反対と叫び行動したとしても、真の平和は実現しないというのが仏法の見解である。だからこそ大聖人は、その時代の社会的価値観を尊重されながら仏法を弘通されているのである。

●今日蓮は去ぬる建長五年〔癸丑〕四月二十八日より今年弘安三年〔太歳庚辰〕十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり(『諌暁八幡抄』全集585頁)
-----------------------
『立正安国論』の精神とは「妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ」ことであり、戦争反対を叫ぶことではない。


<第65世日淳上人>
・昭和10年10月には堀米御尊師(第65世日淳上人)が『大日蓮』に、「立正安国論」と題して同書の講義をされている。(『日淳上人全集』113頁参照)

●大聖人の御遺文の中に時節柄不穏当と認められる箇所があるとして、此れを削除すべしとの問題があって、その是非の論議が行はれてをるが如くである。(中略)大聖人御一代の御主旨は何んであらせられたか。いふ迄もなく正法国家として真の日本の面目を堅持せしめ、真浄国土の顕現を計るにあらせられたのである。(「御書削除の問題について」『大日蓮』S11.12/『日淳上人全集』147頁)
-----------------------
戦時下、御書削除の声に対する反論として認められたのが同書である。その中で簡単ではあるが「大聖人御一代の御主旨」として『立正安国論』の主旨が明確に述べられてある。このことからも分かるように、『立正安国論』を初め、大聖人の仏法は、単に個々の戦争を否定するといった短絡的な思想ではないのである。

※以上のように、『立正安国論』の講義をされたからといって反戦論者だという証拠にはならない。そのことは、戦時下に政府によって不適当とされる御書の御文が削除されたが、その中に『立正安国論』が入っていなかったことからも明らかである。

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from: 21世紀さん

2011/07/03 21:55:00

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「Re:牧口常三郎の実像」
【戯論粉砕】

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牧口初代は既に昭和15年には政党関係者の会合に出席し、軍国思想・教育を批判していることがわかっている。(fb)
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根拠がない。



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当時の会員は座談会で牧口先生が戦争に反対されていることをはっきりと言われていたことを証言している。そして戦時下でも240回以上も座談会は開催されている。
------------------------------------------------------------
 もし、牧口会長が戦時下において、未入信者や入信間もない者の前において戦争反対を主張していたらどうなっていたであろうか。直ちに通報され当局に逮捕されていたであろう。しかしながら、牧口会長の罪状を記した起訴状にさえ反戦論者であったことを示す記述は一切ない。
 これらのことからも明らかなように、柳田國男のような伝聞または不確かな記憶は別として、牧口会長が反戦論者であったという客観的証拠はないのである(『人生地理学』、「訊問調書」については前述)。

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