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  • from: 22世紀さん

    2011年06月28日 20時23分01秒

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    池田大作「権力者」の構造

     折伏大行進と大蔵商事の商法

    昭和26年5月、戸田は創価学会本部に常置する本尊の下賜を総本山に請願した。それはその請願書に、「一国大折伏の時機到来せり・・・・・大折伏大願成就の為の大御本尊」とあったように、同会の広宣流布という大目的の公然化と、それへの起請文にほかならなかった(またその請願は、同年4月公布施行された宗教法人法の宗教団体の定義に、「礼拝の施設を備える」という一句があり、それを字義通りに受けたうえでの、日蓮正宗から独立した宗教法人設立に向けての用意周到な布石をも兼ねていた)。
    戸田の号令一下、創価学会は折伏大行進の臨戦態勢下に入り、以後、暴力的といわれるまでの折伏が創価学会の常態になった。
    戸田の下ではすべてが組織伸張を基準に処断された。6月には10名近くを除名し、少し遅れて、前に理事長からおろした矢島周平を休養の名目で、さらに指導監査部長からもおろし、後任を柏原ヤスに兼任させた。27年4月、矢島は復帰がかなったものの、翌28年8月に出家して日蓮正宗の僧にならなければならなかった。
    池田は矢島について、「矢島さんは良い調子で派閥を作った。親の心、子知らずで、戸田先生の気持ち等全然わからず、良い調子になった」(『社長会記録』昭和43年4月29日)と語っているが、矢島自身は、「ひとくちにいえば、戸田さんに追い出されたんです。私は彼の教学に批判的だったし、事業のやり方にも反対だった。それをしばしば口にしたわけです。それが戸田さんには気に入らなかった」(『週刊ポスト』昭和53年9月22日号)としている。
    彼は昭和8(1933)年の長野県赤化教員事件で検挙された一人だったというが、昭和10年創価教育学会に入会、18年に牧口、戸田とともに検挙され、20年4月まで入獄という経歴が語るように強い意志を持つ草創期からの幹部だった。
    人事は原則として能力と実績だけで考課された。
    ふつう新興宗教では、選挙によらない非民主主義的な形態にもかかわらず、他教団との競争や分派発生防止のため、実力第一主義の人事が行われ、一般の社会のような学歴、顔、買収、追従などは通用しないとされる(高木宏夫『日本の新興宗教』)が、戸田の人事も、たとえば元子爵夫人・北条ツネ子に教学部の名誉教授を授け、その血族・北条浩の早い登用など、元華族の偏重を除けば、大約その例外ではなかった。
    池田の置かれた地位は、その当否はともかく、彼にとっては大いに満足すべきものであった。彼は最初から幹部候補生としてノミネートされていた。
     戸田の就任前には、池田は、一日の大部分の時間と精力とを大蔵商事の信用の確保と、新しい営業分野の開拓に費やし、「彼ひとり人知れぬ分野で孤軍奮闘し」(池田、前掲書)なければならなかったため、その会活動は皆無に等しく、「池田は〝退転〟したのではないか」と噂されるほどだったが、彼が日本正学館や東京建設信用組合の困難な業務に見せた努力は、戸田の心証をよくし、会活動にかわる経歴と考えられていた。
    そのころ池田は前に述べたように、蒲田支部の大森地区委員だったが、当時の戸田の池田評価は、「竜年光君、池田大作君・・・・・等は共に熱血をたぎらせて広宣流布の闘志として養成され邪宗折伏においての獅子吼は相手に一撃を加えずにはおかない」という聖教新聞(昭和26年5月1日)評とほぼ同一と見られ、池田は同支部幹部の竜年光の一ランク下ぐらいに位置つ゛けられていた。
    会員がまだ少なく、聖教新聞も同人連絡紙のおもかげを漂わす時代に零細企業で苦楽をともにしたという戸田へのコネを持つ池田は、きわめて有利な場所にいたといえよう。彼には、戸田の会長就任後一ヵ月で、さらにもう一つの有利さが加わった。
    6月、池田の勤める大蔵商事は新宿から市ヶ谷駅前の市ヶ谷ビルに移転した。戸田は翌年4月、同ビルの一室に創価学会の分室を設けたが、分室と称して差し支えないほどに西神田の創価学会本部と近く、池田の会活動には便利となった。
    また大蔵商事の社業好転も池田の活躍を助けてあまりあるものがあった。
     創価学会員の増加とともに、池田をしばり、苦しめ、彼のハンディキャップとなっていた戸田の事業は発展に向かい、昭和27年春には、戸田の7、8,000万円という借財は、三割返済を含んでいたものの、ともかく皆済されるほどであった。
     大蔵商事の営む不動産や保険代理業、高利貸し等は、いずれも顔と信用が物をいう業種であり、同社の最高顧問である戸田の背後に多数の信者が控えていることは、そのまま絶大な信用につながったし、また聖教新聞に「資金の融通は大蔵商事」と広告をうっていることからも、会員との取引が増大したことは十分察知される。
     大蔵商事の主業務は手形の割引であった。
    「割り引いてもらいたい者は創価学会支部長の紹介状をもらって朝9時までに大蔵商事に行く。商事では手形を預かり、3時にまた来いというわけだ。それから、目と鼻の先の三菱銀行市ヶ谷支店に運んで、銀行の手で振出し銀行に問い合わせ、ふるいにかけて2時に戻ってくる。割引率はふつう1割5分、3ヵ月手形なら4割5分を引く。一方、会員からは日歩15銭で運用してやると金を集めていた」(前出、瀬尾正吉談)
     池田はまた債務の取立てで「病人の寝ている布団をはぐ」こともしたといわれている。池田ののちの回顧「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どおしてこんないやな仕事をするのかと思った」(『社長会記録』昭和43年2月10日)が、その業務の非情さを裏つ゛けていよう。
     同社の繁昌は創価学会の隆盛に負うものであった。
     大蔵商事の発展は、それまでとは逆に池田の会活動を保証するものに変わった。社業がうまくいっている以上、戸田が他の事業家の誰よりも、創価学会員である部下の会活動に理解を示すのは見やすいところであり、その点、池田は他の青年男子部員の誰よりも、それ以上望みようがないほど恵まれた勤務環境にあったといえよう。
     さらに四六時中、戸田と顔をつきあわせている生活は、戸田の意向を汲み取ることを池田の得手にさせた。池田の追随的な事務家の能力は、戸田のアイデアを実行するうえに、ソツがなかった。




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