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from: 21世紀さん

2011年06月26日 19時34分19秒

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牧口常三郎の実像

牧口常三郎関連年表------------------------------------------------------------------

牧口常三郎関連年表

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<明治36年> 『人生地理学』を発刊
●同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
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しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。


<大正1年>
●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
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この国家観は入信後も変わらなかったようである。


<大正3年頃> 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(<芳野朝廷研究会>WS)
[画像]:大日本皇道立教会のメンバー


<大正5年> 『地理教授の方法及内容の研究』を著す
●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)


<昭和3年>
・6月 東京・常在寺所属の信徒で直達講講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信

・秋 後の戸田城聖2代会長も、三谷氏の折伏で入信(『慧妙』H18.3.1)
●(牧口氏入信の動機について)貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう(柳田国男著『牧口君入信の動機』/『慧妙』H18.3.1)


<昭和5年>
・11月 「創価教育学会」の名で『創価教育学大系』第1巻を発刊(この日が後に"学会創立の日"とコジツケられた)


<昭和6年>
●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

・3月 『創価教育学大系』第2巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表
◆百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです(牧口常三郎『獄中書簡』/『慧妙』H18.3.1)
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 すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘(ひろ)めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕(あら)わしたのだから、三障四魔が紛然と競(きそ)い起こるのは当然、というのです。
 これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全くの本末顛倒(ほんまつてんとう)という他ありません。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度(さいど)の教であることになりますから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師"であるということになってしまいます(事実、かの52年路線の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となりました)。
 結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪(ゆが)め、それが後の創価学会異流義化の温床になった、といえるでありましょう。(『慧妙』H18.3.1)


 さて、こうした異質な思想をもつ牧口氏は、氏の教化親(きょうけおや)であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相(あい)容(い)れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなります。
 これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂(たもと)を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮(※住職は堀米泰栄尊師=後の第65世日淳上人)を事実上の所属寺院とするようになりました。(『慧妙』H18.3.1)


<昭和12年>
・夏 創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)

 昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗しはじめたのです。
 それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧(きぐ)を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれています(当時の僧侶、信徒の証言)。
 実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係険悪化を裏付けています。
 この時の牧口氏は、よほど日淳上人に反発を覚えたのでしょう、会員達を使って、上人に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊し上げまで行なったのです。その事実は、当時の会員の証言や、覚え書きによって伝えられるところです。

●牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、「もう貴僧の指導は受けない」と、席を蹴(け)って退去(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
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こうして、上人との関係が険悪化したことから、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱(しか)りつけました。(『慧妙』H18.3.1)

●本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
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牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われます。とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨(むね)とする宗であります。そのような不遜(ふそん)な牧口一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思(おぼ)し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう、手配なされたのでした。(『慧妙』H18.3.1)


<昭和16年>
・11月
●北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)


<昭和17年>
・1月
●警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・5月 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

・5月17日 創価教育学会第4回総会

・11月 創価教育学会第5回総会


<昭和18年>
・4月 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

・5月
●牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

・6月
●東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

・6月初旬 本山での神札指導
●学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

・7月6日 牧口、逮捕
●牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)


<昭和19年>
・9月6日
●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
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牧口会長による日淳上人誹謗を懺悔


<昭和20年>
・7月5日
●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)

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from: 21世紀さん

2011年06月29日 13時33分49秒

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「Re:牧口常三郎の実像」
【門外折伏・門内摂受】

(全国布教師・正説寺住職 早瀬義久御尊師『大白法』H20.4.16抜粋)

 「門外折伏・門内摂受」、皆様には聞き慣れない御言葉かと思います。
 この御言葉は、総本山第59世日亨上人が第9世日有上人の『化儀抄』121箇条を解説された折に、大聖人様の御教示をふまえて私たちの信心の在り方、姿勢を、一言に「門外折伏・門内摂受」と説かれたものであります。
 その元は、『化儀抄』第57条の、
●法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背(けはい)の別名なるが故なり(聖典983頁)
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という、日有上人の御教示を敷衍(ふえん)されて「門外折伏・門内摂受」と説かれるのであります。
 門外、つまり宗門の外部に向かっては、勇猛果敢に折伏を進めなくてはいけない。
 対して門内、宗門内の僧俗間にあっては「法華宗の大綱の義理」、正しく仏法僧の三宝を崇めるということでありまして、仏宝として大聖人様を御本仏と仰ぐ、法宝として本門戒壇の大御本尊様を根本の御本尊と定める、そして僧宝として2祖日興上人以来血脈付法の御歴代上人を大聖人様の御代理として、その御指南を拝する。また、他の一切の宗教を邪宗邪義として捨てる。これが「法華宗の大綱の義理」ということであります。
 この「大綱の義理」に背かない限りは、広い心、寛容の心をもって、些細なことには目をつぶり、その人の長所、すばらしいところを敬い、励まし合い、異体同心の絆を固めていく。これを「門内摂受」と説かれるのであります。
 「摂受」、摂引容受という言葉を略したもので、摂は「おさめる、包み込む」という意味があります。仏法の根本に背かない限りは、相手に仮に誤りがあっても、それを許し、包み収めて少しずつ導いていく。



【国法遵守】
国法遵守は当然のことであり、大聖人も国法は遵守された。

●よき師とは指したる世間の失無くして聊(いささか)のへつらうことなく少欲知足にして慈悲有らん僧の経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば仏は一切の僧の中に吉第一の法師なりと讃められたり(『法華初心成仏抄』全集550頁〜)


<鎌倉時代>
大聖人の時代はどうであったかといえば、法論そのものを禁止する法律はなかったのです。だからこそ幕府は、大聖人に付すべき罪状に困り、種々の讒言(ざんげん)を用いることによって「世間の失」なき大聖人を処刑しようとしたのです。

●念仏者等此の由を聞きて、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程にかなはざりしかば、長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ。されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし(『妙法比丘尼御返事』全集1413頁)
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伊豆流罪は文応元年の国主諌暁を契機として起こった法難である。この流罪は、時の最高権力者が国法に則るのではなく「親の御心を知りて」「理不尽」に行ったものである。つまり仏法上は勿論、世法に照らしても違法な行為であった。

●然るに事しづまりぬれば、科(とが)なき事は恥づかしきかの故にほどなく召し返されしかども、故最明寺の入道殿も又早くかくれさせ給ひぬ(『立正安国論』御書1150頁)
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この「最明寺の入道」というのは北条時頼のことでありますが、つまり時頼は、全く失がないのに流罪(※伊豆流罪)にしたということに気が付いて、大聖人様を赦免されたということです。(第68世日如上人『大日蓮』H18.7)

●故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり(『聖人御難事』全集1190頁)
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「此の殿」とは北条時宗のこと。

●日蓮が度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頚を刎られんとせし事は別に世間の失に候はず(『清澄寺大衆中』全集893頁)

●我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし(『佐渡御書』全集958頁)

●法華経を信じ参らせて仏道を願ひ候はむ者の争か法門の時・悪行を企て悪口を宗とし候べき、しかしながら御ぎやうさく有る可く候・其上日蓮聖人の弟子と・なのりぬる上罷り帰りても御前に参りて法門問答の様かたり申し候き(『頼基陳状』全集1157頁)
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貞永式目12条は「悪口は騒乱の元であるから口にしてはならない。これを犯す者は流罪および禁固の刑に処す」とあります。しかしこれは法論対決を否定するものではなかったのです。

●讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる(『種種御振舞御書』全集916頁)
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鎌倉時代は、折伏自体は国法に触れる行為ではなかったのです。だからこそ、邪宗の連中は、他の罪を捏造したのです。


<江戸時代>
●1640(寛永17)年、幕府は、寺請制度を設けて、宗門改役を設置しました。
 宗門改役は、絵踏などをさせて、キリシタンや日蓮宗不受不施派かどうかを取り調べました。これを宗門改めといいます。キリシタンでないことが証明されると、宗門改帳(宗旨人別帳)に記載されます。一度定められた寺院を変更することは出来ません。定められた寺院を檀那寺といい、記載された人を檀家とか檀徒(施主)といいます。こうした制度を寺請制度と言います。(<エピソード高校日本史>WS070803)

●1665(寛文5)年、4代将軍徳川家綱は、諸宗寺院法度を出しました。これは先の寺院法度を強化したもので、幕府は、各宗派ごとに、その本山・本寺の地位を公認し、本山・本寺に末寺を統制する権限を与えました。これを本山・末寺制度といいます。
 内容は、(1)各宗の法式を守る(2)寺院の住持の資格や本末関係を厳正にする(3)自由な布教活動や自由な法談は制限する(4)新寺建立やそのための勧進募財は制限する(5)寺格や僧侶の階位も細かく規定する(6)住職になるための修行年数や学問も定める、などとなっています。(同上)

◆日寛上人の時代には、今のような折伏をやる人もないし、やったらまた、首を斬られてしまう。そういう意味だと、わたしは思うのです。(『戸田城聖全集』第2巻452頁)
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死身弘法は当然ですが、国法を遵守し四悉檀や随方毘尼の上から、時代状況に適合した修行をすることもまた必要なのです。「大石寺日俊累年の間御制法に背き自讃毀他の談義を致し」(『富士宗学要集』第9巻30頁)といって北山が日俊上人を攻めたように、江戸時代は、法論そのものが国法に違反する行為だったのです。

●慈雲寺(※法華宗陣門派)のほとんどの檀家が富士派となり、その近辺の寺院にも驚く程の富士派信者がいたことを、寺の過去帳などによって突きとめることができた。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』64頁)
5●久保家子孫代々伝えまいらせ候。今日まで正宗の法華経唱え奉り候えども、藩の取締り堅固なれば思うままに信心致し難く、大石寺にまかり出る事なかなか至難に相なり候ば、ただひたすら襖(ふすま)の影より心ひそかに題目を唱え居り候。(久保専朴の遺言状・弘化3〈1846〉年/『金沢法難を尋ねて』)
●身業は一往は国法に任すといえども、口意の二業は全く当山興尊の付弟と申し、無二信受の大賢人あり、名を池田宗信と云う(第32世日教上人『金沢法難を尋ねて』向敏子著37頁)
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金沢では、慈雲寺(法華宗陣門派)の僧、了妙が折伏を受けて富士派に改宗したことから享保11(1726)年、第1回の加賀藩の富士派信仰禁止令が出た。第5代藩主・綱紀の代には、法論に負けると潔く改宗を表明することが常識であったが、第6代藩主・吉徳の代には改宗は事実上厳禁となった。表面上は邪宗の檀徒として、葬儀などの法要を依頼する。しかし、隠れて御本尊を拝み折伏し登山もしていた。第32世日教上人は、身は国法に従わざるを得ない厳しい環境にあって、あらゆる困難を乗り越えた絶大なる信心を称讃されている。

●先年、岩田伝右衛門の調べの時、富土派一万二千人(寛政3〈1791〉年の記録)
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この当時の金沢の人口は10万人に満たなかったであろうから、藩禁制であるにもかかわらず、この数字は藩にとって脅威の的と写ったことは言うまでもなかった。事実野田山墓地を調査して見ると富士派の人々は本当に多いのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』91頁)当時は相当の信心がなければ御本尊の下附は叶わない時代であった。(中略)城下が寝静まる夜中に題目を唱え、壁をくり抜いて御本尊をお掛けして護り抜き、折伏に走った時代なのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』110頁〜)

6●かならず、かならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ候て御供養候とも若信心なくば詮なき事なるべし。たとへ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし。乃至・かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ(第26世日寛上人著『松任治兵衛殿御返事』妙喜寺蔵)
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これは、第26世日寛上人が加賀信徒に与えられた御手紙の一節である。歴代上人の慈悲あふれる感動的な御手紙は多くの加賀信徒の中に代々語り伝えられてきたのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』84頁〜)

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