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from: 21世紀さん

2011/06/26 19:34:19

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牧口常三郎の実像

牧口常三郎関連年表------------------------------------------------------------------

牧口常三郎関連年表

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<明治36年> 『人生地理学』を発刊
●同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
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しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。


<大正1年>
●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
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この国家観は入信後も変わらなかったようである。


<大正3年頃> 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(<芳野朝廷研究会>WS)
[画像]:大日本皇道立教会のメンバー


<大正5年> 『地理教授の方法及内容の研究』を著す
●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)


<昭和3年>
・6月 東京・常在寺所属の信徒で直達講講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信

・秋 後の戸田城聖2代会長も、三谷氏の折伏で入信(『慧妙』H18.3.1)
●(牧口氏入信の動機について)貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう(柳田国男著『牧口君入信の動機』/『慧妙』H18.3.1)


<昭和5年>
・11月 「創価教育学会」の名で『創価教育学大系』第1巻を発刊(この日が後に"学会創立の日"とコジツケられた)


<昭和6年>
●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

・3月 『創価教育学大系』第2巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表
◆百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです(牧口常三郎『獄中書簡』/『慧妙』H18.3.1)
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 すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘(ひろ)めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕(あら)わしたのだから、三障四魔が紛然と競(きそ)い起こるのは当然、というのです。
 これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全くの本末顛倒(ほんまつてんとう)という他ありません。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度(さいど)の教であることになりますから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師"であるということになってしまいます(事実、かの52年路線の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となりました)。
 結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪(ゆが)め、それが後の創価学会異流義化の温床になった、といえるでありましょう。(『慧妙』H18.3.1)


 さて、こうした異質な思想をもつ牧口氏は、氏の教化親(きょうけおや)であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相(あい)容(い)れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなります。
 これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂(たもと)を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮(※住職は堀米泰栄尊師=後の第65世日淳上人)を事実上の所属寺院とするようになりました。(『慧妙』H18.3.1)


<昭和12年>
・夏 創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)

 昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗しはじめたのです。
 それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧(きぐ)を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれています(当時の僧侶、信徒の証言)。
 実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係険悪化を裏付けています。
 この時の牧口氏は、よほど日淳上人に反発を覚えたのでしょう、会員達を使って、上人に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊し上げまで行なったのです。その事実は、当時の会員の証言や、覚え書きによって伝えられるところです。

●牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、「もう貴僧の指導は受けない」と、席を蹴(け)って退去(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
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こうして、上人との関係が険悪化したことから、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱(しか)りつけました。(『慧妙』H18.3.1)

●本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
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牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われます。とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨(むね)とする宗であります。そのような不遜(ふそん)な牧口一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思(おぼ)し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう、手配なされたのでした。(『慧妙』H18.3.1)


<昭和16年>
・11月
●北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)


<昭和17年>
・1月
●警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・5月 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

・5月17日 創価教育学会第4回総会

・11月 創価教育学会第5回総会


<昭和18年>
・4月 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

・5月
●牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

・6月
●東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

・6月初旬 本山での神札指導
●学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

・7月6日 牧口、逮捕
●牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)


<昭和19年>
・9月6日
●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
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牧口会長による日淳上人誹謗を懺悔


<昭和20年>
・7月5日
●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)

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from: 21世紀さん

2011/07/26 07:17:57

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「Re:牧口常三郎の実像」
【「和泉ミヨさんの手帳」】
 創価学会員は今頃(H17)になって「和泉ミヨさんの手帳」なるものをインターネットの掲示板上で出してきた。「和泉手帳は、牧口先生の逮捕等、学会の歴史を伝える1級資料となっている」そうだが、それにしては戦時下の学会弾圧の様子を伝える『富士宗学要集』第9巻にも、『牧口常三郎全集』第10巻にも出ていない。さらに宗門誹謗で悪名高い『地涌』にも出ていないようである。まことに眉唾モノの「1級資料」ではある。
 しかしここでは、「和泉手帳」の信憑性(真偽問題)は保留し、仮にその内容が真実であると仮定して学会側の「通諜」批判を論破することにする。


************************************************************
 ところが、牧口会長らが登山し、神札甘受を言い渡されたのは、「6月27日」であったことがすでに判明している。牧口会長は翌28日にも鈴木日恭に面会を申し入れ、国家諌暁を直訴した。
 このことは、牧口先生の秘書的な役割ををされていた和泉ミヨさんの手帳からも明らかになっている。(和泉手帳は、牧口先生の逮捕等、学会の歴史を伝える1級資料となっている)
 あどべの手元にあるコピーにはこのように記されている。
 「6月28日(月) 朝5時半で御本山へ、牧口先生にお目にかヽる。3時40分のバスで下山 ○○さん宅に宿る」
 その直前の登山は、
 「5月23日(日) 御本山へ、○、○、○(以下名前列挙)一行20余人」とある。
 手帳に記された6月初旬の牧口会長の行動は、
1日(火)幹部会に出席
5日(土)教育者クラブの会合
6日(日)砂町教会御講
7日(月)退転防止委員会
8日(火)京橋支部会合
10日(木)日本橋支部会合
13日(日)千葉県鎌ヶ谷村へ折伏
と活発に学会の活動を行っており、6月初旬に本山へ行った記録は残っていない。
 6月27・28日に登山し、神札の受け取りを拒否していた牧口会長・戸田理事長が、応急策で25日に通牒を出すこと自体、何の意味もないのである。
25日付けの通牒で神札甘受を会員に徹底し、27日に「神札は絶対に受けません!」、28日に「今こそ日蓮正宗は国家諌暁を!」では、全くストーリーが成り立たないのである。

(fb:7467/2005-10-25)
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◆神札甘受を言い渡されたのは、「6月27日」
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証拠として出してきた「和泉ミヨさんの手帳」には「6月27日」の「牧口会長の行動」が紹介されていないのは何故か?(笑)この記述は『創価新報』(H15.11.5)を鵜呑みにしたものであろうが、「27日」の根拠はまったく示されていない。

◆28日にも鈴木日恭に面会を申し入れ、国家諌暁を直訴した
◆牧口先生の秘書的な役割ををされていた和泉ミヨさんの手帳からも明らか
◆6月28日(月) 朝5時半で御本山へ、牧口先生にお目にかヽる。3時40分のバスで下山 ○○さん宅に宿る
-----------------------
「鈴木日恭に面会を申し入れ、国家諌暁を直訴した」という28日の項には、和泉氏が本山にて牧口会長と会った事実しか述べられていない。こんなことでは「和泉手帳は、牧口先生の逮捕等、学会の歴史を伝える1級資料となっている」とは到底いえない。

◆6月初旬に本山へ行った記録は残っていない
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そもそもこの証拠は「和泉ミヨさんの手帳」であって、牧口会長自身の記録ではない。仮に学会の主張どおり和泉氏が「秘書的な役割」をしていたとしても、氏が牧口会長の行動の一切を掌握していたという保障(証拠)はどこにもない。また、この手帳が牧口会長の「秘書」活動用のものであったとは考えにくい。その証拠に、学会が出してきた内容は、和泉氏自身の日記ともいうべきものである。氏自身の行動と感想が中心に綴られており、牧口会長に関する記述も和泉氏との関連で書かれているではないか。そうであれば「6月初旬の牧口会長の行動」なるものも、実は和泉氏自身に関わるものを列挙したに過ぎないという可能性は大きい。

●戰局も悲運にかたむき、官權の思想取締が徹底化して來た昭和18年6月初旬に総本山から「学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事7名登山せよ」という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隱尊猊下おそろいの場に御呼出しで(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日坊御住職)から「神札をくばつて來たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざつているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一應受け取つているから学会でもそのように指導するようにせよ」と御命令があつた。(戸田会長の談話『聖教新聞』S27.6.10/『地涌』第667号)
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 これは、戸田会長が機関紙に公式に発表した内容である。ここには"神札指導"の年月日を「昭和18年6月初旬」と断言しているではないか。「6月初旬」は、総本山から「登山せよ」と御命令があった日であるから、登山したのは別の日とも考えられるが、「これを受けた学会幹部が至急登山」との記述から考えれば、どんなに遅くとも10日以内には登山したことであろう。とすれば、仮に御命令の日が6月10日であったとしても、6月20日までには登山していたと見るべきであろう。
 尚、『慧妙』(H5.6.1等)では"神札指導"の日を6月20日としている。しかし、その根拠については確認できていないので、当サイトとしては一応6月初旬を"神札指導"のあった日とする。

◆同年6月初旬、牧口、戸田両氏が二上人立ち会いの下、渡辺慈海庶務部長(当時)より神札を受けるよう申し渡された(『地涌』第33号)
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学会側謀略誌も「6月初旬」としている。




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7月度の内容(和泉ミヨさんの手帳)を出してみたく思う。
・1日 岸さん宅に伺って色々お話してざんげする。<幹部会に出席>
・2日 <6時40分汽車で伊豆へ。牧口先生、岸さんと一緒に。夜は蓮台寺へ落ち付く。>牧口先生から色々お話を伺た。御本尊様を信じていない事を反省する
・3日 <朝から荒増へ出掛け御本尊をおまいりして来る。お札が取れないので本当に困って了ふ。>子供がけがをしてゐた。とけいによって伯父と話す
・4日 蓮台寺から下田へ。家へ寄って3時半のバスで須崎へ。今日も雨に降られる。田中さん宅へ来る途中、自分を反省して慈悲心のない事をつくづく感じて申し訳ない
・5日 須崎から下田へ。加増野へ行くつもりでいたのにバスが遅いので明日早く出掛ける予定。戦地へ九信
・6日 加増野へ。道合、和瀬隠居へ行く。久し振りにお墓まいり。林さん病気で休んでいる。<夕方、蓮台寺へ。牧口先生、下田警察へ。突然の事で驚く>
・7日 中田へ藤木さん見える。<下田警察へ行く。牧口先生、もうお立ちになった由。>中田へ帰ってゆっくりする。明朝、帰京の予定
・8日 朝9時30分のバスで帰途につく。<牧口先生宅に伺って、奥様に色々お話する>
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 牧口先生逮捕までの様子が伺える。牧口先生は7月2日、下田の折伏に出かけられた。和泉ミヨさんも一緒である。下田の近くの蓮台寺温泉の中田旅館を拠点に2日、3日、4日と近隣の縁故者や旅館の従業員を対象に折伏座談会を行われた。この旅館の主人は親戚の折伏で入信しており、前回に牧口会長が訪れた折に御本尊の御安置が行われていた。
 さて、7月3日に注目したい。
 「3日 <朝から荒増(あらぞう)へ出掛け御本尊をおまいりして来る。お札が取れないので本当に困って了ふ。>」
 荒増には、この年の春に入信した和泉家の親戚が住んでいた。東京で御本尊下附を受けたその親戚様子を伺うために和泉さんが訪ねたところ、家に神札をまつったままなので謗法払いするように言ったが、どうしても取ろうとしないので困った、ということである。
 和泉さんがこのことを牧口先生に報告、指導を受けておられたであろうことは疑いないであろう。少なくとも、彼女が神札を謗法払いしようとしていたことは明瞭である。
 「通諜」なる文書があったのであれば、間違いなく牧口先生は共に下田の折伏に向った彼女にそのことを説明するはずである。更に、日記には
 「7月1日 幹部会に出席」とある。当時は毎月1日に、神田の本部で、会長・理事長等が出席して月例幹部会が開催されていた。逮捕された昭和18年7月にも、1日に幹部会が開かれており、和泉さんはこの戦前の学会の最後の幹部会に出席していたのである。
 宗門のいうように、6月25日に、「通諜」なる文書が作成されていたのなら、しかも本山から神札を受けるように言われていたのだから、当然にこの幹部会で「通諜」のことが報告され、更には宛て先である理事や支部長に配られていたはずである。ましてや、幹部会の前々日の29日には、陣野支部長らが逮捕されるという事件が起こっている。ところが誰も「通諜」なる文書の存在を知らず、報告さえもされていない。和泉さんは7月3日に神札をはがそうとしている。
 当時のナンバー3であった野島副理事長も、退転して、牧口先生や戸田先生をうらんでいたが、その彼の手記にも神札拒否のことが書かれているが、「通諜」なる文書は全く出てこない。全く知らないのである。野島の手記は、遺族によれば、「昭和20年に埼玉県の疎開先で筆を起し、戦後の23年頃にかけて纏めたもののようです。」と証言されている。(「通諜」なる文書は昭和23年より後に偽造されたのであろう)
 このように「通諜」なる文書が作成されていたとは到底有り得ない。

(fb:7516/2005-10-27)
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学会同様、宗門も謗法払いを否定していない。宗門が学会に指示した内容は、公的機関から差し出された神札(大麻)を拒否したり、公然と焼却せずに一応受け取るというものである。だから、会員であれ、新入信者であれ、本人が納得して神札を取り払うのであれば、宗門の指示に反するものではない。

●日本国民の総氏神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)をまつっている伊勢の神宮の御神札は、明治以前は御師(おし)といわれる神職によって全国各地の家々に配布されていました。(中略)明治の御代になって、御師による配布は廃止され、御祓大麻は神宮大麻(じんぐうたいま)と名称が改まり、明治天皇の聖旨により政府事業として全国全戸に漏れなく配布されるようになりました。(<神社と神道>WS060311)

●昭和17.1頃以降 警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)
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宗門が問題にしたのは、世情や人情、社会的常識を逸した法を下げる行為であったといえよう。

●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月(※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)
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神札を焼却しなくとも謗法にはならない。↓

●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
●当時、全戸に配布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫52頁)
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他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」に納めていたのである。その意義から言えば、新入信者の神札等を、世相を無視して堂々と焼却する必要はまったくなかったといえる。会員の神札受け取りについても、金銭を支払って受け取るのであれば格別、当局が勝手に配布するのであれば、一応受け取り、捨て置くか寺院に納めるか、コッソリ焼却すればよかろう。

●総本山において、天照大神のお札を貼ったことは1度もありません。今時の大戦争において、国において軍部が大変に力を得て、我が国を滅ぼしたような状態でございました。昭和18年ごろ、いよいよ戦争が激しくなってきた時分、この総本山においては当時客殿・御宝蔵・庫裡・六壷、それから大奥と、そのちょうど真ん中あたりに書院がございまして、・・・そこは大書院ですから、御本尊は祭ってありません。その所を、昭和18年の、戦争がいよいよ盛んになった時に、国で借り上げてしまった、国に借りられてしまったわけです。その時にその書院を「中部勤労訓練所」ということにされてしまったのでございます。・・・その時に所長である上中甲堂と云う人が、書院の上段の間へ天照大神のお札を祭ったんです。
 それに対して、こちらは再三異議を申し立てたんですけれども、しかし国家でやる仕事である、国の仕事であるから、いくらこちらで何を言っても、それは及びもしない。何とも仕方がないから、そうなってしまったのであります。ただそれだけのことで、別に我々がその天照大神のお札を拝んだことなどありもしない。また、実際その中へ入って見たこともない。入れてくれもしない。まあ借家同然で、借家として貸したんだから向こうの権利である。そういうような状態であって、決して我々が天照大神のお札を祭ったとか、拝んだとかいうことは事実無根であります。(第66世日達上人/『大白法』H3.4.1)

●18年7月、中部勤労訓練所という、徴用工訓練のための機関が大坊の書院(200畳敷き)を利用しはじめた。神道に毒されていた指導者たちは、この書院に神棚をつくり、天照太神を祀ってしまった。総本山の宗務院は、当局者に厳重に抗議をした。(中略)再三にわたって、日蓮正宗の教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った。(『人間革命』第1巻「千里の道」258頁〜)
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謗法の徒が総本山内に神札を祀った時、宗門は「教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った」のである。この事実から考えても、宗門として信徒に神札を祀ることを容認する指導があったとは考えられない。神札受容は、実質をともなわない形式的対外的配慮に過ぎなかったのである。

●(※牧口)「天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな」
(本山側)「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(昭和18年6月初旬の本山での会話/戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)
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本山側は学会に対し「そっと処分」するように指示している。これのどこが謗法なのか。


◆当時は毎月1日に、神田の本部で、会長・理事長等が出席して月例幹部会が開催されていた(中略)当然にこの幹部会で「通諜」のことが報告され、更には宛て先である理事や支部長に配られていたはずである。
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配られていなかったという証拠はない。以下の理由によって、6月25日以降に学会幹部が謗法払いしていた事実が、必ずしも「通諜」の否定にはならないと考えられる。

①宗門が学会側に指示した内容は「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」(『富士宗学要集』第9巻431頁)というものであった。これと呼応する形で「通諜」には「皇大神宮の御札」とあるが、一般の神札や御守り等については言及されていない。しかし、「和泉ミヨさんの手帳」には単に「お札」とあるのみで、「国禁」の対象となる「大麻」とは断定できない。

②宗門が学会側に指示した内容は「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」というものであった。しかし、その一方で「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)という教示もあった。また、宗門自身、部外者によって書院に天照太神が祀られたときには「教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った。」(『人間革命』第1巻「千里の道」258頁〜)のである。このことから考えて、「通諜」が宗門の指示に基づいて作成・配布されたとしても、対外的なもので、内実は"バレないようにうまくやれ"という程度のものであったと考えられる。

★要するに、牧口会長の"謗法厳戒の精神"について、宗門はまったく否定していない。謗法払いのやり方が問題だっただけである。だから、本山での"神札指導"後において、牧口会長はじめ幹部連が、折伏をし神札を取り払うべく努力したとしても、そのことをもって「通諜」の存在を否定することにはならないのである。

●父母は早くから、小泉隆氏、辻武寿氏と共に蒲田の三羽ガラスといわれ、中心的な活動家でした。父が小泉氏を折伏し、小泉氏が辻氏を折伏したのです。
 当時、私の家の隣が白木薫次氏のお宅で、その次女が、後に池田大作の妻となったカネ子さん(香峯子と改名)。白木家は私の父が折伏したのです。私の母・精子は学会の初代婦人部長でした。(中略)
 先日、創価

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