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from: 21世紀さん

2011年07月27日 12時24分48秒

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歴史改竄(かいざん)

"重要な歴史"から「邪魔者」を消去(仮題)------------------------------------------------------


"重要な歴史"から「邪魔者」を消去(仮題)

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―改竄(かいざん)商人と呼ばれる池田大作―

(『慧妙』H19.1.1)

 池田大作による過去の改竄(かいざん)は、文章によるものだけではありません。視覚に訴える手法も大いに使われているのです。
 創価学会では、"重要な歴史"の一場面を描(か)いた絵画を"重宝"にしています。
 そうした絵画のいくつかを、その元となった写真と対比してみましょう。
 写真と絵を、よく見比べてください。どこか違っているはずです。そう、写真には写っている人間が絵では削られ、また、写っていない人間が書き加えられたりしているのです。


【「河口湖畔での水滸会」】
 まず1枚目。富士山を背景に、戸田会長と池田大作がイスに腰かけて、何かに見入っている絵。これには「河口湖畔での水滸会」との題が付けられています。
 掲載されていた『聖教グラフ』には、
 「昭和30年6月11、12日の両日、水滸会のメンバー83人は、山梨県の河口湖、山中湖に1泊2日の野外訓練を行った。青年をこよなく愛する戸田会長は、池田名誉会長(当時・青年室長)ととむに水滸会メンバーの熱こもる相撲を観戦」
との解説が付けられています。
 この解説は、間違いではありません。が、実際には写真のように、戸田会長の周(まわ)りには多くの青年部幹部がおり、戸田会長と池田大作の間の特別な関係を象徴するような場面では、けっしてないのです。
 それを、あたかも戸田会長と池田大作との"師弟相対の一場面"風に仕立ててしまうのですから、呆(あき)れたものです。

[画像]:周囲の青年部幹部を消し去り、戸田会長との"特別な関係"を演出

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from: 21世紀さん

2011年07月30日 00時50分54秒

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「Re:歴史改竄(かいざん)」
「御僧侶リンチ事件」の真相

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―「小僧さんをいじめた所化頭を諭(さと)した」だって!?一
―真相は「注意を逆恨みして討画的に集団暴行」―

(『慧妙』H9.5.16)

【事件の概要】
 戸田会長逝去直前の昭和33年3月29日、後の池田創価学会の暴力体質を窺(うかが)わせる事件が、池田によって引き起こされた。
 いわゆる「的場正順尊師水漬け事件」である。
 事件は、大講堂落慶法要のため大坊に起居していた学会青年部が、当時、所化頭であった的場正順尊師から、大坊内での行状について注意されたことに始まる。
 青年部幹部からそれを伝え聞いた池田は、逆上し、的場尊師を御塔川の川原に連れ出して、尊師の頭を冷たい川に押し込む等の暴行を加えたのである。
 これが「水漬け事件」の概要だが、このような学会の暗部ともいうべき事件を、池田が正直に『人間革命』に載せるわけがない。


【事件の発端】
 『人間革命』"寂光"の章を要約すると、所化頭を務めていた御僧侶が、暴言と暴力で小僧さんたちをいじめていたから、宗門の将来を危惧した池田が、御塔川の河原で所化頭を諄々(じゅんじゅん)と諭した、ということになっている。
 もちろん、「水漬け事件」には一言も触れていない。
 さて、事件の本題に入る前に、指摘しておかなければいけないことがある。それは、小説中で、池田は、事件自体が偶発的に起きたように描いているが、実際は、池田によって周到かつ計画的に行なわれた、ということである。
 この点について、当時の大幹部であった竜年光氏は、

●池田は、16日に行なわれた広宣流布の模擬試験の儀式を青年部に伝授する式典の後、大蔵商事の営業部長として、北条、森田ともども、東京に帰っていた。ところが、事件の前日に当たる27日、北条、森田を引き連れて、突然、総本山に戻ってきたのだ。
 この頃、連日、全国から千人以上の学会員が登山してきていた。それら学会員の世話や整理のために、30〜40人の青年部員が「登山部員」として大坊内の部屋に宿泊し、「客殿」で集会・打ち合わせをしていた。登山部長は星野義雄だった。(中略)ところが、青年部員たちが、小僧さんたちに、煙草や日用品を買いに行かせるなど私用を頼み、そのお礼として菓子をやったりソバ代を出してやったりしていたらしい。
 所化・小僧さんたちの親代わりとして指導ずる立場にあった「所化頭」の的場正順師(当時33歳)は、これを知り、再三にわたって青年部に抗議していた。青年部と的場師の感情的対立は、星野を通して、逐一、池田に報告されていた。池田はこれをもとに、一騒動起こすために総本山にやってきたのだ(竜年光著『日蓮正宗の敵・池田創価学会を解敬させよ』)
-----------------------
と、的場尊師から注意された池田が、これを根にもって計画的に暴行事件を起こしたことを指摘している。

 また、同じく大幹部であった石田次男氏も、

●在山中、宿坊不足で、相当数が大坊へ宿泊させていただきました。本山の所化小僧さんたちとほとんど雑居です。昔の大坊は今と違って、設備いっさい粗末で不便なものでした。不幸の種蒔(たねまき)はここでの起居から起こりました。
 剥(む)き付けに書くのは遠慮しなければなりませんが、今と違って、昔の所化小僧さん方の生活は「旧陸軍内務班の暮らし振りにさも似たり」、と申せば、高齢僧侶の方々は、ハハーンと、お判りだと思いまず。(中略)
 泊まり込んだ学会青年部員達は、新米の所化小僧さん達と同様に、入営新兵みたいな事になりました。これらは当然、青年部へ報告されました。(中略)池田氏の独断と偏見とには、自分の可愛い部下達がミソクソ扱いにされた、と映りました。つまり、突っ込み不足で短絡な癖を持つ、情量主義者の池田氏は、事態を情念で捉えたのです。
(中略)
 ここで日本一の身勝手男・池田参謀室長は、1人で勝手に、ある事を決意しました。(中略)入営新兵扱いされた青年部貫達の"カタキ"を討つべく、大坊最古参基幹兵たる所化頭へ懲罰を加えて、水漬(みづ)く"屍(かばね)"にすることです(石田次男著『内外一致の妙法-この在るべからざるもの』)
-----------------------
と、竜氏と同様に、池田の計画的犯行を指摘しているのである。

 さて、本題に入ろう。
 池田は、このような状況など小説中にはおくびにも出さず、的場尊師の"悪業"を次のようにデッチ上げている。

************************************************************
 青年は、いたいけな少年たちを、怒鳴りつける僧侶を見て、あっけにとられて立ち止まった。この僧侶は所化頭であった。酒を飲んでいると見え、顔は異様に赤かった。(中略)所化頭は、さんざん罵声を浴びせると、ひとかかえほどもある六壷の大きな鈴を手にし、1人のお小僧さんの頭に被せた。そして、その上から、鈴棒を力まかせに振り下ろし、打ち据えたのである。(中略)
 青年部は驚いて立ち去り、理境坊の運営本部に行くと、参謀窒長の山本伸一にその模様を伝えた。
 「また、そんなことがあったのか……」
 じつはその前にも、清掃作業のために総本山に雇われていた特別作業班の青年部員から、同じような報告が寄せられていたのである。(中略)
 作業班の青年たちは大坊に宿泊していたが、この所化頭が酒を飲んで、お小僧さんたちをすごい剣幕で罵倒する現場を目にした。
 「お前たちなど、身延の山へ行ってしまえ!」
 謗法の身延へ行けなどという言葉を日運正宗の僧侶が口にするなど、およそ考えられないことであった。(中略)
 「参謀室長、それだけじゃありません。あの所化頭は、登山者がお小僧さんのために持ってきた各地の銘菓や果物に対して、"こんな余り物を"と吐き捨てるように言っているんです。16日に戸田先生を車駕にお乗せしたことについても、"総本山では乗物は禁止されているのに、いい気になってなんだ"と声高に罵っていました。もう、黙っているわけにはいきません」
 青年たちにしてみれば、この所化頭の振る舞いはとても許すことのできない所業であった。(『人間革命』第12巻「寂光」の章)
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 文中で省略した箇処でも、延々と、的場尊師の悪口を書き連ねている。
 しかし、池田が挙げたこうした"悪業"の数々も、じつは、捏造・スリカエの産物であったことを、竜氏は次のように証言している。

●的場師の手記によれば、池田が来た27日の夜、青年部員たちが「正宗の坊主も、邪宗の坊主となんら変わりない。物さえ与えれば、自分たちのいうことを聞く」と言っていたのを的場師が聞き、翌28日の朝、六壷での所化小僧さんとの勤行の後、厳しく注意した。
 隣の客殿でこれを聞いていた青年部員達は激しく反発し、的場師に抗議した。すると的場師はこう逆襲した。
 「本山には本山のしきたりがある。あなたたちも、本山のしきたりをよく勉強しなさい。例えば、本山の中では乗物は禁止されている。それなのに、あなたたちの会長は、豪華な輿(こし)に乗って山内を練り歩き、宗教界の王者といって威張っている。これは増上慢というものだ」
 このことを「ご注進」された池田大作は激怒した。
 とくに池田を怒らせたのは、輿の一件だろう。前述のごとく、16日の式典の際、戸田先生は体が弱っていたので、目立たぬように会場へ行くため、蓮台のようなものを作らせようとした。ところが池田は先生の意に反して豪華な輿を作ってきたので、先生から厳しく叱られた。的場師の指摘は、池田の最も痛いところを突いたのだ。(竜年光著『日蓮正宗の敵・池田創価学会を解散させよ』)
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 文中に出てくる「的場師の手記」とは、創価学会がいかに総本山大石寺に圧力を加えたかという証拠資料として、裁判所にも提出された、的場尊師が事件を記録したメモのことである。
 同手記には、学会青年部に対し、
 「小僧とはいえ修行中の僧侶である。信者が僧に私用をいいつけるのは遠慮してもらいたい。大坊は本来、修行僧の宿泊するところを、大講堂落慶式典だというので、猊下とお仲居の特別の許可を得てお泊めしているのである」
と、厳しく注意した旨も記されているという。
 これらの証言からわかるように、事件は、本山の山法山規にしたがった的場尊師の指摘を、学会への悪口と捉えた池田が、的場尊師を逆恨みして起こしたものだった、ということである。

それにしても、的場尊師が、本宗の化儀・信条の上から学会青年部に対して行った指摘を、悪口・雑言としか捉えられない池田大作―学会の無慚・無愧・無反省の体質は、やはり池田が作ったのだ。


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―「御僧侶が酔っていたから潤井川で顔を洗わせた」だと?―
―真相は「池田が青年部を指揮し御僧侶を川に放り込んだ」―

(『慧妙』H9.6.1)

【事件の検証】
 前回、「御僧侶水漬け事件」の発端と概略を記した。今回は、事件そのものを検証してみよう。
 的場正順尊師の指摘に激怒した池田は、的場尊師に対し「水漬け」という暴力行為に及んでいくが、この場面も、池田の手にかかると、次のように変わる。

************************************************************
 伸一は、所化頭に反省を求める必要があると考え、総本山の内事部を訪ねた。内事部にいた宗門の理事は、事情を聞くと、「それでは、彼を呼んで反省を促し、謝罪させましょう」と約束してくれた。しかし、所化頭は、自分の言動が問題にされていることを知ると、姿を隠してしまった。だが、近くの旅館の押入に隠れているところを見つけられ、やむなく六壼にやってきた。そこには、学会の青年部の幹部も2、30人ほど出向いていた。(中略)
 所化頭は押し黙って青年たちを睨(にら)みつけるばかりで、まったく反省している様子はなかった。同席していた僧侶も困惑していた。
 間もなく御開扉のために、日淳上人がここを通られる時間が迫っていた。青年たちは、ご心配をおかけしてはならないとの思いから、場所を移して話し合うことにした。立ち会いの僧侶と所化頭とともに、青年たちは潤井川へ向かった。
(中略)
 青年の1人が言った。
 「酔っているのなら、顔を洗ってきたらどうですか」
 所化頭は衣を脱ぐと、川に入り、顔を洗いはじめた。戻ってくるのを待って、伸一は込み上げる激情をこらえ、諄々(じゅんじゅん)と諭(さと)すように語りはじめた。」(『人間革命』第12巻「寂光」の章)
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 以上のように『人間革命』では、何事もなかったかのごとく淡々と描いてあるが、この記述はとんでもない大ウソである。
 的場尊師は、事件の模様につき、大要、次のように証言している。

●六壷に赴いた的場尊師を、池田をはじめとする学会青年部30〜40人ほどが待ち受け、池田は青年部に「この小僧の衣を脱がせろ」と命じたが、的場尊師は、「信者が法衣を脱がせたのではバチが当たる。自分でやる」と、いったん部屋に戻り法衣をきちんとたたみ、下に巻ていた白装束で再び出向いた。
 戻ってきた的場尊師を前に、池田は、背広のポケットに手を入れた得意のポースで「こいつを担ぎ上げろ」と青年達に命じたが、的場尊師は「足があるのだから自分で歩く」と、青年達の手を振り切り、押されるようにして御塔川の河原に連れて行かれた。
 この時、池田は的場尊師に対し「学会と会長をバカにして申し訳ないと謝罪文を書け」と迫り、的場尊師も「死んでも書かぬ」と返した。
 そのような池田に、的場尊師が「殺す気か」と訪ねると、池田は、「そこまでやる気はない、反省させるのだ」と言い、白衣を取って下着だけになった的場尊師を、青年部員が数人がかりで担ぎ上げて御塔川に放り込んだ。
 いつのまにか青年部員は2百人ほどにふくれ上がり、罵声(ばせい)を浴びせては、代わる代わる的場尊師に馬乗りになって、頭を水の中につっこむ等の暴行を加えたのである。
 その間、池田は、ポケットに手を差し入れた、例のポーズで見下しながら、指揮していたという。(的場尊師の証言『週刊文春』S52.9.1要旨)

また、当時、参謀室の一員であった竜年光氏も、

●池田は、「的場の頭を冷やしてやれ!」と叫んだ。的場師は、「後で白衣や襦袢(じゅばん)を洗濯するのは大儀だから、自分で脱ぐから待て」といい、自ら帯を解き、白衣を畳んで石の上に置いた。すると池田は、裸になった的場師を青年部員に担き上げさせ、冷たい水の中に頭を何度も押し込ませた。この時の池田の異常な形相は、これまで誰にも見せなかった険悪なものだった(竜年光著『日蓮正宗の敵・池田創価学会を解散させよ』)

と語っている。さらに、当時、日淳上人の御仲居を務められていた八木直道尊師(故人)も、

●急を聞いて駆けつけ、この暴行をやめさせようとしたが、池田がそれを聞かなかったため、「私は猊下の代理だ」と一喝し、この暴行をやめさせた(当時、日淳上人の御仲居を務められていた八木直道尊師)
-----------------------
と証言している。

以上が、「御僧侶水漬け事件」の顛末(てんまつ)であるが、池田の『人間革命』がいかに欺瞞に満ち、いかに多くのウソで塗り固められているかがわかろう。


【「追撃の手をゆるめるな」】
さて、池田は、この事件について、事件5日後の昭和33年4月3日、つまり戸田氏逝去の翌日の本部幹部会の席上、

************************************************************
青年部に最後の指示を下さったのは、3月29日、この日、ある人物が、お小僧さんをいじめ創価学会を非常に馬鹿にしている存在の人物がおりました。その人物と青年部は闘いました。その報告を会長先生に申し上げましたところ、お休みになっておられた会長先生は、毅然としたお姿で、「一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな。一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな」というご指示を受けたのでございます(池田大作『聖教新聞』S33.4.4)
------------------------------------------------------------
と発表し、戸田氏が事件を承認したかのように言い繕(つくろ)い、これを正当化しようとしている。
 「追撃の手をゆるめるな」との戸田氏の"遺言"とやらについては、次回にゆずるが、では、戸田氏は、この事件に関与していたのであろうか。
 まず、戸田氏自身は、

●立宗7百年を明年にひかえて、ますます宗門内の団結を固め、折伏逆化に進むべきことは当然でありますが、「或者(あるもの)は僧を軽侮する風潮すらきざせるを感ぜられることは慨嘆(がいたん)を禁じ得ないのである」とのおことばを拝しましたことは、とくに宗徒として、もっとも厳戒せねばならぬ点でありながら、ご心痛をいただいたことについて、各人、深く己れの謗法の有無を省みねばならぬところであります(『戸田城聖全集』第3巻)
-----------------------
と述べているように、御僧侶を軽侮することすら"謗法"と捉え、また、会員達にもそのように指導していたのである。その戸田氏が、御僧侶へのリンチを承認する、などということは考えられない。
 また、当時、学会の理事の1人であった石田次男氏は、

●当時、学会には理事室も青年の参謀室もありまして、その誰もが池田氏の気性や羽振りには一目も二目もおいて遠慮がちではあったものの、普通は、池田氏その他、誰かの独断専行というのはなくて、何でも、形だけにもせよ、理事や参謀の協議でしか〈計画〉というものは決まりませんでした。しかし、大坊最古参基幹兵水漬(みづ)く事件屍化ゲバ計画―テロ計画の方が近い―に限っては、誰一人として参謀室長から相談を持ちかけられた人さえもおりません。自分の羽振りに驕(おご)り、猜疑(さいぎ)心が強くて人を信用しない池田氏が、幹部仲間にも極秘で奇襲を狙ったことが明らかです。
 いっさいを理事長責任で取り仕切っていた―戸田先生はこの時会務不可能―理事長さえも、池田氏の鼻息の荒さに辟易(へきえき)するばかりで、何かの指示を発するどころか、「黙って俺に委(まか)せて置け』と言わんばかりの『青年部で善処しますから……」と言う曖昧(あいまい)な〈報告といろ名の申し渡し〉を受けただけで、どう"善処"するやら何も知らされてはおりませんでした。
 小泉氏(当時理事長)は、当時からすでに池田氏の猜疑の対象であり、徹底して氏から舐(な)められていた訳でした。したがって、戸田先生はおろか理事長以下何びとも、この事件には絡んでおりません。つまり、全員バカチョン扱いされていたのでして、何のことはない、揃いも揃って棚上げされていたのであります(石田次男著『内外一致の妙法-この在るべからざるもの』)
-----------------------
と語り、理事長以下、最高幹部全員が、この事件に関しては、事件の前も後もまったく知らなかった、否、知らされていなかったことを明らかにしている。

 これらのことからわかるように、この暴行事件は、戸田氏とも組織体としての創価学会ともまったく無関係に、池田の単独暴走行為として行なわれたものであった。
 かくのごとく、僧俗の筋目をわきまえず、私怨を晴らすために手前勝手に騒乱を起こしておきながら、「内事部も事情を知っていた」「同席していた御僧侶も池田に同調していた」「戸田先生も認めた」だのと、ありもしない証言者を勝手に作り出す池田大作―この男の辞書に「反省」の2字はどこにもない。

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