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from: 21世紀さん

2009/03/13 08:24:15

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御法主上人猊下御講義

第三回法華講夏期講習会―信・行・学―『信』について㊤ー第三期より抜粋-信行学行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも

 第三回法華講 夏期講習会 ―信・行・学―

『信』について㊤ ー第三期より抜粋-

信行学
    行学の二道をはげみ候べし。 行学たへなば仏法はあるべからず。 我もいたし人をも教化候へ。
行学は信心よりをこるべく候。 力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし (諸法実相抄 御書668)


 この御文は非常に大切という以上に、我々日蓮正宗の信仰を持つ者としては、この御文を常に肚(はら)に入れておく必要もあるし、御文それ自体を暗誦できるくらいに、しっかり考えていただきたいと思うのであります。 この御文が肚(はら)に入っていますと、大聖人様の仏法に対する基本が、自ずと身体に入ってくると思います。 特にこの信と行と学の三つは、とても大切なことなのであります。

 皆さん方も、いろいろな法門を聞かれることがあると思いますが、大聖人様の御法門においては、それはもう実にたくさんの御書があり、そのなかにおいて一代仏教の内容を縦横無尽に述べられながら、しかもその全体において、きちっとした筋道が立っておるのであります。

 このようなことを私が申し上げるのも申しわけないけれども、大聖人様は一代仏教の内容を、ただ思いつくままにお話されておるのではないのです。 あくまでも一番根本のところから全体に至る筋道があり、その根本と枝葉という問題も含めて、その全体をすべて通暁(つうぎょうされた上で、時と所と相手に応じて御書が述べられておるわけであります。

 そのようななかで、いろいろな面において説かれておることは、これは全部「学」に入るわけです。

 大聖人様の御法門の基本的なかたちという上から教判というものがあります。 すなわち『開目抄』には五重相対が説かれており、『観心本尊抄』には五重三段という教判があります。

これらは、やはり一代仏教を貫いて肝要のところまでを述べられておるわけでありますから、それら一つひとつを勉強していくのは「学」のほうに入るわけです。 

しかし、その「学」は、「行学は信心よりをこるべく候」と仰せのように、「信」から起こるということを仰せになっておるわけです。

 この「信」ということについては、皆さん方は信心がおありになるから今日もここにこれだけの方がお集まりになっておるわけでありますが、しかしまた、この「信」ということをもう一度、大聖人の御指南にしたがって拝してみることも必要かと思いましてここに一往、テキストとして挙げておるわけであります。




 五根の一、五力の一

 この「五根(ごこん)」と「五力」というのは、仏道修行の一番基本を言うのであります。 この「五根」とは、すなわち信・進・念・定・慧の五つであり、それから「根」とは、能力という意味であります。

 仏法では、別の意味からの「六根」ということを言います。 これは眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六つですが、この六つがあるから我々は、自分自身のことをはじめ、世の中のあらゆることを認識して、生活していくことができるのであり、これがなかったら全くできなくなります。

 それで、この六根とは何かと言うと、まず「眼」は、ものを見る能力です。眼があるからものを見ることができるわけです。それから「耳」は、聞く能力であります。「鼻」は、臭いを嗅ぐ能力です。 「舌」は、ものを味わう能力です。 「身」は、ものに触れることによって感じ覚る能力です。 「意」は、思惟(しゆい)する、考える能力であります。 したがって、このように「六根」とは、色・声・香・味・触・法を受け入れる能力という意味であります。

 
 しかして、テキストにある「五根」、すなわち信・進・念・定・慧というのは、仏道を修行する上での能力ということであります。 この能力は。具わってはいても最初は直ちに発揮されてこないわけで、それが実際の力として発揮されてくるのが、五根に対しての「五力」であります。 この五根と五力は、要するに内容的には同じことであります。

 その五根の中でも一番最初に「信」があるわけで、これは仏法の道理を信ずる心であり、その信から次に進むというかたちになります。 信ずることによって進むことができ、信じなければ進むことができないわけです。 正しい方向に向かって進むには、その元に必ず信があるということです。

 その次は「進」ということで、これは信によって勤め修行する心であります。

 それから「念」とは、それによって心が向かうべき勝れた対境に住して忘れない心であり、心にいつまでも信を忘れないできちんと持っていくという意味の「念力の故に持つ」ということであります。

 その次の「定」とは、正境に縁して忘れないことにより、気持ちが正しい方向にきちんと定まってくるということであります。

 仏法を知らない世間の人々は、ありとあらゆる問題で心が揺れ動いておりまして、そういうところから自分自身に様々な問題を起こし、不幸な状態になっていく意味があります。 それがきちっと正しい方向に定まって動かなければ、様々な悪縁に遭ったとしても、不幸な状態になっていくことはないという力が生ずるのです。 それが、この定根による定力ということです。

 それから「慧」とは、定の心によって自ずから仏道の智慧が湧いてきて、あらゆるものの理を正しく知る心であります。正しい智慧がその人の心に顕れて、様々な意味で自他共に大きな功徳を生じていく。 それが慧力です。


 ですから、仏法の修行の内容の力という意味が「五根」「五力」でありますが、その一番最初に「信」があり、これが仏道修行の根本であるということを申し上げたのであります。


 次にこの「信」については、御書の中にいろいろな限りない御指南がありますが、ここではとても全部は挙げられませんので、その中のいくつかの、要点となる御文を挙げた次第であります。

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from: 21世紀さん

2009/03/14 23:57:30

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「Re:御法主上人猊下御講義」
現代の一凶創価学会
 次に、
(5)授戒不要・塔婆不要・寺院不要・観念文改変等各邪義。
 これは、池田創価学会が仏法の化儀を否定しておるところの邪義であります。
 初めに「授戒不要」とありますが、この「授戒」ということは、仏法の上から絶対に大事なことなのです。これは「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」とある三大秘法の中の「戒壇」の「戒」なのです。また「戒」は「防非止悪」ということからも、正法を正しく受持する上においては、その意味の正しい戒めがなければならないのです。その戒めをせずに「授戒不要」などと言うこと自体が、創価学会が三大秘法に無知であり、いい加減に考えている証拠であります。まあ、創価学会も一種の株式会社のようなもので、そのような考え方で多くの会員を組織内に取り込んでいこうというような考え方ですから、いい加減になってくるのでしょう。けれども、授戒をしないということは、仏法の本義を知らない邪義の姿であるということをはっきり申しておきます。
 それから、次が「塔婆不要」ということです。皆さん方は、御先祖を深く敬って正しい意義において追善供養をしますね。これは先ほども言いましたが、我々の先祖は遡(さかのぼ)っていけば非常にたくさんいるわけです。その中において、近い先祖と遠い先祖の区別はありますが、戒名にしても俗名にしても、判っている方は塔婆にその名を書いて供養するということが大切なのです。
 大聖人様も『中興入道御消息』に、
「丈六のそとばをたてゝ其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿、其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生まれん。況んやかのそとば(卒塔婆)に随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや」(御書一四三四頁)
と仰せのように、塔婆を建てることによってその建てた本人が功徳を受けるのみならず、その周りにいる畜生のようなものまでが、その風に触れて成仏をしていくという、法界全体の意義の上からの功徳をも御指南あそばされておるのです。ですから、塔婆供養ということば、常に、また時に応じて必要なのであります。
 そのような大事な意義が塔婆供養には存するにもかかわらず、創価学会の連中は「そのようなものは必要ない」として、「御書根本」と言いつつ、その御書に違背するようなことを平気で言うわけです。
 さらに、創価学会では昔から「なるべく寺へ行くな」と言っていたようです。皆さん方の中にも、このようなことを聞いた方もいるでしょう。つまり「寺などには行かずに、創価学会の会館に来て供養をするように」と常に言っていました。
 それから最後に「観念文改変等各邪義」とありますが、この観念文の改変については、三宝破壊、なかんずく僧宝破壊の邪義が明らかでありますが、細論は省略します。
 次に、
(6)学会主宗門従
 この「学会主宗門従」ということは、創価学会の内部文書に、はっきりと書いてあります。つまり創価学会が「主」で、宗門が「従」ということは、一切は創価学会全体の外郭団体であると言っているのです。全くの思い上がりであり、自分らの発生の元を忘れた我見・邪見にほかなりません。
 そもそも創価学会は、昭和五年に牧口常三郎という人が「創価教育学会」を創立したことに始まるのです。しかも、明治の頃に「直達講」という講中を作って活躍していた法華講の三谷素啓という人がおりましたが、その人が講頭を務める「直達講」に、牧口常三郎氏とか戸田城聖氏、さらには藤本秀之助氏というような人たちが入講して信心を始めた姿があるのです。そして「直達講」の三谷素啓氏が亡くなった後に、藤本秀之助氏は、現在の千葉県の弾正寺の元となった「弾正会」という信徒の集まりを作り、さらに牧口常三郎氏は「創価教育学会」を作って、現在の創価学会になったのです。
 ですから、本来、創価学会は日蓮正宗の一つの信徒団体だったわけです。それがいつの間にか増長・増慢して、創価学会が中心で宗門はその一つの外郭団体であると言い出したのです。つまり、創価学会の外郭団体には民音や公明党など様々な団体がありますが、これらはみんな創価学会を護るために存在しておる。そこで宗門をもくるめて、これらと同様に創価学会を護るための一つの団体であると言うのです。このような本末転倒の悪見を「学会主宗門従」と言っておるわけであります。
 よって、創価学会は過去においてここまで逸脱したわけでありますが、現在はこれにも増して、その変節無恥の暴慢が、なおひどくなっておる意味があります。
 次に、
二、文証
 創価学会が仏法の道理に違背していることについての文証は、大聖人様の御書にもいろいろな御教示があり、また現在では創価学会がこれまでに行ってきた悪事・悪行を破折した本などもたくさん出ていますね。
 大聖人様の仏法を多少聞きかじった池田xxの「御書根本」などという文献偏重のような考え方は、根本的にその本人の考え方が間違っているわけですから、正しい意味において取り上げたのが、大聖人様の御書における四つの文証であります。しかし、もとよりその他にも彼らの誤りを示す御書の文証は枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がないほど多いのであります。
創価学会の三宝不信、悪口言訟への誡めと拝すべき文。
○「日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候」(上野殿御返事 御書一二一九頁三行目)
 つまり、法門を一生懸命に勉強して自らの領解を喜んで人に伝えるのはよいことです。けれども、それがいつしか「私が偉いんだ」というように勘違いをしてしまって、それで「寺などには行かなくてもいい」「御講なんかは行く必要がない」などと慢心を起こして信徒の分斉を超過してくると、正法の化儀・化法を乱
すことになってしまうのです。そこに「法門しりたりげに候人々はあしく候げに候」と、つまりそのような者は悪いということをおっしゃっておるのです。
 次は、
○「たとひさとりなけれども、信心あらん者は鈍根も正見の者なり。たとひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡提の者なり。善星比丘は二百五十戒を持ちて四禅定を得、十二部経を諳にせし者なり。提婆達多は六万八万の宝蔵ををぼへ、十八変を現ぜしかども、此等は有解無信の者なり。今に阿鼻大城にあり云々」(法華題目抄 御書三五三頁十五行目)
 これは「善星比丘」と「提婆達多」のことを挙げられております。
 この「善星比丘」という人は、釈尊が出家する以前の太子であったときの子供なんです。この人も初めは釈尊に従って仏教を学んだのですが、そのうちに外道に縁をしたことによって、その外道の教えである四禅定という禅定を得た結果、これこそが本当の正しい教えであり、悟りであると勘違いをして、ついには釈尊に敵対するようになってしまったのです。
 釈尊の足の裏には「千輻輪」という三十二相の一つがあって、釈尊が砂の上をお歩きになると、その足跡に仏様でなければ付かない千輻輪の模様が地面に付くわけです。それを見た人は「ああ、有り難い」と手を合わせるわけですが、それを善星比丘は後ろからどんどん消して歩くのです。そのように、妄信によって怨嫉を生じ、本当に無恥忘恩の行為がありました。
 したがって、因果撥無の邪見を起こし、仏様に対して悪心を起こして誹謗した結果、最後は生きながらにして地獄に堕ちたということです。
 それから「提婆達多」という人のことは、皆さん方も聞かれたことがあると思いますが、提婆達多は「六万八万の法蔵」を覚えたと言われております。
 普通、一代仏教においては「八万四千の法蔵」ということを言うのですが、ではなぜ八万四千なのかと言うと、これは我々の命の中に八万四千の迷いがあるから、それを導くためと言われておるのです。たしかに我々の生活の中では、様々な迷いがたくさん出てくるわけですが、その種類を数え上げていくと八万四千の煩悩があると言われておるのです。その八万四千の煩悩に対して一つ一つ説かれておるのが「八万四千の法蔵」であるということです。
 お釈迦様の一代仏教の法蔵、経蔵は、非常にたくさんありまして、それらが日本に渡って来たわけであります。現在では、それが『大正新脩大蔵経』などになっておりますが、その分厚い本が正篇・続篇を合わせると八十五巻、さらには図像部・総目録も合わせると百巻にもなるのです。その本を開くと、中は全部漢文で書いてあり、内容も非常に難しいことから、一ページを読むだけでも非常に時間がかかるのです。けれども、その広大な一代仏教も内容的に戒・定・慧の三学に括ることができるのです。
 そういうことで、とにかく提婆達多は八万四千の法蔵に通じていたということです。
 それから「十八変を現ぜしかども」とある「十八変」とは、これは仏菩薩が衆生を教化するために神通力をもって行う十八種類の術であります。すなわち、左右の脇から水や火を出す、身体の上下から水や火を出す、また地面を歩くように水上を歩く、逆に水上を歩くように地面を歩く、さらには空中から没して地に現れ、また地に没して空中に現れるとか、それから空中を行く、空中に住する、空中に坐す、空中に臥す、さらに大身を現じて虚空に満つとか、逆に大身から小身に変化するなどの様々な術のことを「十八変」と言い、このようなことを提婆達多が行ったということです。
 しかし「此等は有解無信の者なり」。つまり、これは解は有るけれども信が無いのであって、そのような者は「今に阿鼻大城にあり」、すなわち今でも地獄に堕ちているということです。
 ですから、池田のように法門を多少勉強して、その上で「御書に、このようにあるではないか」「『御善根本』である」などと偉そうに語っても、三宝に対する本当の信がなければ、必ず地獄に堕ちるという意義があるのです。それが、この御書の御文において拝せられるのであります。
 次が、
○「智者・学匠の身と為りても地獄に堕ちて何の詮か有るべき」(十八円満抄 御書一五一九頁三行目)
 大聖人様は、
「行学の二道をはげみ候べし」(御書六六八頁)
というように、仏教を学びなさいとおっしゃっているけれども、しかしここでは「智者・学匠の身」となっても、「私が一番偉いのだ」という我見に入ってしまうと、結局「地獄に堕ちて」しまうということです。
 次が、
○「御文に云はく、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱へ申し候なり。但し聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」
 これはつまり、入信したばかりで仏教のことを何も知らない人が唱える御題目も、すでに三年とか五年、信心をしている人が唱える御題目も、御題目の功徳においては全く違いがないと仰せられているのです。
 私も御題目を唱えてから、七十年以上にもなりますが、その私の唱える御題目も、昨日入信したような人の唱える御題目も変わらないのです。ですから、有り難いんですね。
 ところが、それが変わる場合もあるのです。それはどういうことかと言えば、「但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」。すなわち「此の経の心」に背いて唱えるところの御題目には、違いがあるというのです。ですから「此の経の心」に背いてはならないのです。
「此の経の心」の根本は信心であるけれども、そこに十四誹謗というものを犯すことによって、「此の経の心」に背くことになるのです。
「此の経の修行に重々のしなあり。其の大概(おおむね)を申せば、記の五に云はく」
 この「重々のしなあり」という内容においては、摂受・折伏、受持・読・誦・解説・書写、その他いろいろな内容について様々な区別がたくさんあるわけです。その中において、特に法華経の『譬喩品』に、
「驕慢懈怠 計我見者 莫説此経云云(驕慢懈怠 我見を計する者には 此の経を説くこと莫れ云云)」(法華経一七五頁)
と、十四誹謗の元となる内容が説かれているのです。
 摂受・折伏ということについて言えば、法華経を説いた釈尊は、熟益・脱益の化導ですから、大聖人様の下種の化導とは違うのです。ですから、釈尊の化導においては「本当に素直な心で聞きたいと欲している者には、この経を説きなさい」とあり、またその代わりに「暴悪な者に対しては、この経を説いてはならない」というような修行の姿も示されておるのです。ところが、末法の大聖人様の御化導は、そうではないのです。すべて下種の修行ですから、どのような者に対してでも説き聞かせる意味があるのです。その修行の中において、法華経の心に背く内容として十四のものがあるということが、この後に述べられておるわけです。
 このことを詳しく説いておるのが、法相宗の慈恩大師窺基(きき)という人が著(あらわ)した『法華玄賛』であります。その中の教理においては「三乗真実・二乗方便」という根本的な間違いを犯しているけれども、『譬喩品』の内容においては、きちんと立て分けて説いてあるのです。
 その慈恩大師が説いた内容を妙楽大師がお挙げになっているのが次のところで、その慈恩大師のことを妙楽大師は「有る人」と言っております。
「『悪の数を明かすをば今の文には説不説と云ふのみ。有る人此を分かって云はく、先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり」
 この「悪の因」をうっかり犯していると、これが法華経の心に背くことになるわけで、その内容が次に示されております。
「一に驕慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり』と。此の十四誹謗は在家出家に亘るべし、恐るべし恐るべし」
 この「十四誹謗」ということは、我々が本当に気をつけなければならないことです。我々の命の中には濁(にご)っている面がありますから、信心をして御題目を唱えていても、十四誹謗を犯してしまうことがあるのです。けれども、純粋な「一心欲見仏」の信心により、しつかりと御題目を唱えて、その上で皆を救っていこうという気持ちになると、この十四誹謗は自然に消えていくのです。
 そして、この十四誹謗は「在家出家に亘る」、つまり私たち僧侶や皆さん方信徒も犯すことがあるということですから、これは皆が気をつけなければならないのです。
 しかし、後に述べますが、創価学会の在り方は、このすべてを徹底して犯しているのです。これをはっきり知るべきであります。
「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり(乃至)之を以て之を思ふに、忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり」(松野殿御返事 御書一〇四六頁十一行目)
 つまり、我見・我欲において毀ることが一番悪いのです。創価学会は、自分たちの組織を守るために日蓮正宗を徹底して誹謗しておりますが、これはまさしく「法華経を持つ者」を毀ることになります。
 私が「現代の一凶 創価学会」と題して、今、皆さん方に話をしているのは、これは毀っているということではないんです。邪悪な創価学会に皆が誑かされていくところを救う意味において破折をしているのです。ですから、これは決して毀ることにはならないということを申し上げておきます。
 しかるに大聖人様は、正しい仏法を信心している者同士が、お互いに毀り合うことはよくないということを御指南であります。
 ともかく、ここに「十四誹謗」を挙げておられることを鑑(かがみ)として見ると、このすべてが創価学会の思想と行為に当たっておることは恐ろしいほどであります。

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