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from: 21世紀さん
2009/03/13 08:24:15
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御法主上人猊下御講義
第三回法華講 夏期講習会 ―信・行・学―
『信』について㊤ ー第三期より抜粋-
信行学
行学の二道をはげみ候べし。 行学たへなば仏法はあるべからず。 我もいたし人をも教化候へ。
行学は信心よりをこるべく候。 力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし (諸法実相抄 御書668)
この御文は非常に大切という以上に、我々日蓮正宗の信仰を持つ者としては、この御文を常に肚(はら)に入れておく必要もあるし、御文それ自体を暗誦できるくらいに、しっかり考えていただきたいと思うのであります。 この御文が肚(はら)に入っていますと、大聖人様の仏法に対する基本が、自ずと身体に入ってくると思います。 特にこの信と行と学の三つは、とても大切なことなのであります。
皆さん方も、いろいろな法門を聞かれることがあると思いますが、大聖人様の御法門においては、それはもう実にたくさんの御書があり、そのなかにおいて一代仏教の内容を縦横無尽に述べられながら、しかもその全体において、きちっとした筋道が立っておるのであります。
このようなことを私が申し上げるのも申しわけないけれども、大聖人様は一代仏教の内容を、ただ思いつくままにお話されておるのではないのです。 あくまでも一番根本のところから全体に至る筋道があり、その根本と枝葉という問題も含めて、その全体をすべて通暁(つうぎょうされた上で、時と所と相手に応じて御書が述べられておるわけであります。
そのようななかで、いろいろな面において説かれておることは、これは全部「学」に入るわけです。
大聖人様の御法門の基本的なかたちという上から教判というものがあります。 すなわち『開目抄』には五重相対が説かれており、『観心本尊抄』には五重三段という教判があります。
これらは、やはり一代仏教を貫いて肝要のところまでを述べられておるわけでありますから、それら一つひとつを勉強していくのは「学」のほうに入るわけです。
しかし、その「学」は、「行学は信心よりをこるべく候」と仰せのように、「信」から起こるということを仰せになっておるわけです。
この「信」ということについては、皆さん方は信心がおありになるから今日もここにこれだけの方がお集まりになっておるわけでありますが、しかしまた、この「信」ということをもう一度、大聖人の御指南にしたがって拝してみることも必要かと思いましてここに一往、テキストとして挙げておるわけであります。
信
五根の一、五力の一
この「五根(ごこん)」と「五力」というのは、仏道修行の一番基本を言うのであります。 この「五根」とは、すなわち信・進・念・定・慧の五つであり、それから「根」とは、能力という意味であります。
仏法では、別の意味からの「六根」ということを言います。 これは眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六つですが、この六つがあるから我々は、自分自身のことをはじめ、世の中のあらゆることを認識して、生活していくことができるのであり、これがなかったら全くできなくなります。
それで、この六根とは何かと言うと、まず「眼」は、ものを見る能力です。眼があるからものを見ることができるわけです。それから「耳」は、聞く能力であります。「鼻」は、臭いを嗅ぐ能力です。 「舌」は、ものを味わう能力です。 「身」は、ものに触れることによって感じ覚る能力です。 「意」は、思惟(しゆい)する、考える能力であります。 したがって、このように「六根」とは、色・声・香・味・触・法を受け入れる能力という意味であります。
しかして、テキストにある「五根」、すなわち信・進・念・定・慧というのは、仏道を修行する上での能力ということであります。 この能力は。具わってはいても最初は直ちに発揮されてこないわけで、それが実際の力として発揮されてくるのが、五根に対しての「五力」であります。 この五根と五力は、要するに内容的には同じことであります。
その五根の中でも一番最初に「信」があるわけで、これは仏法の道理を信ずる心であり、その信から次に進むというかたちになります。 信ずることによって進むことができ、信じなければ進むことができないわけです。 正しい方向に向かって進むには、その元に必ず信があるということです。
その次は「進」ということで、これは信によって勤め修行する心であります。
それから「念」とは、それによって心が向かうべき勝れた対境に住して忘れない心であり、心にいつまでも信を忘れないできちんと持っていくという意味の「念力の故に持つ」ということであります。
その次の「定」とは、正境に縁して忘れないことにより、気持ちが正しい方向にきちんと定まってくるということであります。
仏法を知らない世間の人々は、ありとあらゆる問題で心が揺れ動いておりまして、そういうところから自分自身に様々な問題を起こし、不幸な状態になっていく意味があります。 それがきちっと正しい方向に定まって動かなければ、様々な悪縁に遭ったとしても、不幸な状態になっていくことはないという力が生ずるのです。 それが、この定根による定力ということです。
それから「慧」とは、定の心によって自ずから仏道の智慧が湧いてきて、あらゆるものの理を正しく知る心であります。正しい智慧がその人の心に顕れて、様々な意味で自他共に大きな功徳を生じていく。 それが慧力です。
ですから、仏法の修行の内容の力という意味が「五根」「五力」でありますが、その一番最初に「信」があり、これが仏道修行の根本であるということを申し上げたのであります。
次にこの「信」については、御書の中にいろいろな限りない御指南がありますが、ここではとても全部は挙げられませんので、その中のいくつかの、要点となる御文を挙げた次第であります。
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コメント: 全25件
from: 21世紀さん
2009/03/14 23:57:30
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「Re:御法主上人猊下御講義」
現代の一凶創価学会
次に、
(5)授戒不要・塔婆不要・寺院不要・観念文改変等各邪義。
これは、池田創価学会が仏法の化儀を否定しておるところの邪義であります。
初めに「授戒不要」とありますが、この「授戒」ということは、仏法の上から絶対に大事なことなのです。これは「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」とある三大秘法の中の「戒壇」の「戒」なのです。また「戒」は「防非止悪」ということからも、正法を正しく受持する上においては、その意味の正しい戒めがなければならないのです。その戒めをせずに「授戒不要」などと言うこと自体が、創価学会が三大秘法に無知であり、いい加減に考えている証拠であります。まあ、創価学会も一種の株式会社のようなもので、そのような考え方で多くの会員を組織内に取り込んでいこうというような考え方ですから、いい加減になってくるのでしょう。けれども、授戒をしないということは、仏法の本義を知らない邪義の姿であるということをはっきり申しておきます。
それから、次が「塔婆不要」ということです。皆さん方は、御先祖を深く敬って正しい意義において追善供養をしますね。これは先ほども言いましたが、我々の先祖は遡(さかのぼ)っていけば非常にたくさんいるわけです。その中において、近い先祖と遠い先祖の区別はありますが、戒名にしても俗名にしても、判っている方は塔婆にその名を書いて供養するということが大切なのです。
大聖人様も『中興入道御消息』に、
「丈六のそとばをたてゝ其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿、其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生まれん。況んやかのそとば(卒塔婆)に随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや」(御書一四三四頁)
と仰せのように、塔婆を建てることによってその建てた本人が功徳を受けるのみならず、その周りにいる畜生のようなものまでが、その風に触れて成仏をしていくという、法界全体の意義の上からの功徳をも御指南あそばされておるのです。ですから、塔婆供養ということば、常に、また時に応じて必要なのであります。
そのような大事な意義が塔婆供養には存するにもかかわらず、創価学会の連中は「そのようなものは必要ない」として、「御書根本」と言いつつ、その御書に違背するようなことを平気で言うわけです。
さらに、創価学会では昔から「なるべく寺へ行くな」と言っていたようです。皆さん方の中にも、このようなことを聞いた方もいるでしょう。つまり「寺などには行かずに、創価学会の会館に来て供養をするように」と常に言っていました。
それから最後に「観念文改変等各邪義」とありますが、この観念文の改変については、三宝破壊、なかんずく僧宝破壊の邪義が明らかでありますが、細論は省略します。
次に、
(6)学会主宗門従
この「学会主宗門従」ということは、創価学会の内部文書に、はっきりと書いてあります。つまり創価学会が「主」で、宗門が「従」ということは、一切は創価学会全体の外郭団体であると言っているのです。全くの思い上がりであり、自分らの発生の元を忘れた我見・邪見にほかなりません。
そもそも創価学会は、昭和五年に牧口常三郎という人が「創価教育学会」を創立したことに始まるのです。しかも、明治の頃に「直達講」という講中を作って活躍していた法華講の三谷素啓という人がおりましたが、その人が講頭を務める「直達講」に、牧口常三郎氏とか戸田城聖氏、さらには藤本秀之助氏というような人たちが入講して信心を始めた姿があるのです。そして「直達講」の三谷素啓氏が亡くなった後に、藤本秀之助氏は、現在の千葉県の弾正寺の元となった「弾正会」という信徒の集まりを作り、さらに牧口常三郎氏は「創価教育学会」を作って、現在の創価学会になったのです。
ですから、本来、創価学会は日蓮正宗の一つの信徒団体だったわけです。それがいつの間にか増長・増慢して、創価学会が中心で宗門はその一つの外郭団体であると言い出したのです。つまり、創価学会の外郭団体には民音や公明党など様々な団体がありますが、これらはみんな創価学会を護るために存在しておる。そこで宗門をもくるめて、これらと同様に創価学会を護るための一つの団体であると言うのです。このような本末転倒の悪見を「学会主宗門従」と言っておるわけであります。
よって、創価学会は過去においてここまで逸脱したわけでありますが、現在はこれにも増して、その変節無恥の暴慢が、なおひどくなっておる意味があります。
次に、
二、文証
創価学会が仏法の道理に違背していることについての文証は、大聖人様の御書にもいろいろな御教示があり、また現在では創価学会がこれまでに行ってきた悪事・悪行を破折した本などもたくさん出ていますね。
大聖人様の仏法を多少聞きかじった池田xxの「御書根本」などという文献偏重のような考え方は、根本的にその本人の考え方が間違っているわけですから、正しい意味において取り上げたのが、大聖人様の御書における四つの文証であります。しかし、もとよりその他にも彼らの誤りを示す御書の文証は枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がないほど多いのであります。
創価学会の三宝不信、悪口言訟への誡めと拝すべき文。
○「日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候」(上野殿御返事 御書一二一九頁三行目)
つまり、法門を一生懸命に勉強して自らの領解を喜んで人に伝えるのはよいことです。けれども、それがいつしか「私が偉いんだ」というように勘違いをしてしまって、それで「寺などには行かなくてもいい」「御講なんかは行く必要がない」などと慢心を起こして信徒の分斉を超過してくると、正法の化儀・化法を乱
すことになってしまうのです。そこに「法門しりたりげに候人々はあしく候げに候」と、つまりそのような者は悪いということをおっしゃっておるのです。
次は、
○「たとひさとりなけれども、信心あらん者は鈍根も正見の者なり。たとひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡提の者なり。善星比丘は二百五十戒を持ちて四禅定を得、十二部経を諳にせし者なり。提婆達多は六万八万の宝蔵ををぼへ、十八変を現ぜしかども、此等は有解無信の者なり。今に阿鼻大城にあり云々」(法華題目抄 御書三五三頁十五行目)
これは「善星比丘」と「提婆達多」のことを挙げられております。
この「善星比丘」という人は、釈尊が出家する以前の太子であったときの子供なんです。この人も初めは釈尊に従って仏教を学んだのですが、そのうちに外道に縁をしたことによって、その外道の教えである四禅定という禅定を得た結果、これこそが本当の正しい教えであり、悟りであると勘違いをして、ついには釈尊に敵対するようになってしまったのです。
釈尊の足の裏には「千輻輪」という三十二相の一つがあって、釈尊が砂の上をお歩きになると、その足跡に仏様でなければ付かない千輻輪の模様が地面に付くわけです。それを見た人は「ああ、有り難い」と手を合わせるわけですが、それを善星比丘は後ろからどんどん消して歩くのです。そのように、妄信によって怨嫉を生じ、本当に無恥忘恩の行為がありました。
したがって、因果撥無の邪見を起こし、仏様に対して悪心を起こして誹謗した結果、最後は生きながらにして地獄に堕ちたということです。
それから「提婆達多」という人のことは、皆さん方も聞かれたことがあると思いますが、提婆達多は「六万八万の法蔵」を覚えたと言われております。
普通、一代仏教においては「八万四千の法蔵」ということを言うのですが、ではなぜ八万四千なのかと言うと、これは我々の命の中に八万四千の迷いがあるから、それを導くためと言われておるのです。たしかに我々の生活の中では、様々な迷いがたくさん出てくるわけですが、その種類を数え上げていくと八万四千の煩悩があると言われておるのです。その八万四千の煩悩に対して一つ一つ説かれておるのが「八万四千の法蔵」であるということです。
お釈迦様の一代仏教の法蔵、経蔵は、非常にたくさんありまして、それらが日本に渡って来たわけであります。現在では、それが『大正新脩大蔵経』などになっておりますが、その分厚い本が正篇・続篇を合わせると八十五巻、さらには図像部・総目録も合わせると百巻にもなるのです。その本を開くと、中は全部漢文で書いてあり、内容も非常に難しいことから、一ページを読むだけでも非常に時間がかかるのです。けれども、その広大な一代仏教も内容的に戒・定・慧の三学に括ることができるのです。
そういうことで、とにかく提婆達多は八万四千の法蔵に通じていたということです。
それから「十八変を現ぜしかども」とある「十八変」とは、これは仏菩薩が衆生を教化するために神通力をもって行う十八種類の術であります。すなわち、左右の脇から水や火を出す、身体の上下から水や火を出す、また地面を歩くように水上を歩く、逆に水上を歩くように地面を歩く、さらには空中から没して地に現れ、また地に没して空中に現れるとか、それから空中を行く、空中に住する、空中に坐す、空中に臥す、さらに大身を現じて虚空に満つとか、逆に大身から小身に変化するなどの様々な術のことを「十八変」と言い、このようなことを提婆達多が行ったということです。
しかし「此等は有解無信の者なり」。つまり、これは解は有るけれども信が無いのであって、そのような者は「今に阿鼻大城にあり」、すなわち今でも地獄に堕ちているということです。
ですから、池田のように法門を多少勉強して、その上で「御書に、このようにあるではないか」「『御善根本』である」などと偉そうに語っても、三宝に対する本当の信がなければ、必ず地獄に堕ちるという意義があるのです。それが、この御書の御文において拝せられるのであります。
次が、
○「智者・学匠の身と為りても地獄に堕ちて何の詮か有るべき」(十八円満抄 御書一五一九頁三行目)
大聖人様は、
「行学の二道をはげみ候べし」(御書六六八頁)
というように、仏教を学びなさいとおっしゃっているけれども、しかしここでは「智者・学匠の身」となっても、「私が一番偉いのだ」という我見に入ってしまうと、結局「地獄に堕ちて」しまうということです。
次が、
○「御文に云はく、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱へ申し候なり。但し聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」
これはつまり、入信したばかりで仏教のことを何も知らない人が唱える御題目も、すでに三年とか五年、信心をしている人が唱える御題目も、御題目の功徳においては全く違いがないと仰せられているのです。
私も御題目を唱えてから、七十年以上にもなりますが、その私の唱える御題目も、昨日入信したような人の唱える御題目も変わらないのです。ですから、有り難いんですね。
ところが、それが変わる場合もあるのです。それはどういうことかと言えば、「但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」。すなわち「此の経の心」に背いて唱えるところの御題目には、違いがあるというのです。ですから「此の経の心」に背いてはならないのです。
「此の経の心」の根本は信心であるけれども、そこに十四誹謗というものを犯すことによって、「此の経の心」に背くことになるのです。
「此の経の修行に重々のしなあり。其の大概(おおむね)を申せば、記の五に云はく」
この「重々のしなあり」という内容においては、摂受・折伏、受持・読・誦・解説・書写、その他いろいろな内容について様々な区別がたくさんあるわけです。その中において、特に法華経の『譬喩品』に、
「驕慢懈怠 計我見者 莫説此経云云(驕慢懈怠 我見を計する者には 此の経を説くこと莫れ云云)」(法華経一七五頁)
と、十四誹謗の元となる内容が説かれているのです。
摂受・折伏ということについて言えば、法華経を説いた釈尊は、熟益・脱益の化導ですから、大聖人様の下種の化導とは違うのです。ですから、釈尊の化導においては「本当に素直な心で聞きたいと欲している者には、この経を説きなさい」とあり、またその代わりに「暴悪な者に対しては、この経を説いてはならない」というような修行の姿も示されておるのです。ところが、末法の大聖人様の御化導は、そうではないのです。すべて下種の修行ですから、どのような者に対してでも説き聞かせる意味があるのです。その修行の中において、法華経の心に背く内容として十四のものがあるということが、この後に述べられておるわけです。
このことを詳しく説いておるのが、法相宗の慈恩大師窺基(きき)という人が著(あらわ)した『法華玄賛』であります。その中の教理においては「三乗真実・二乗方便」という根本的な間違いを犯しているけれども、『譬喩品』の内容においては、きちんと立て分けて説いてあるのです。
その慈恩大師が説いた内容を妙楽大師がお挙げになっているのが次のところで、その慈恩大師のことを妙楽大師は「有る人」と言っております。
「『悪の数を明かすをば今の文には説不説と云ふのみ。有る人此を分かって云はく、先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり」
この「悪の因」をうっかり犯していると、これが法華経の心に背くことになるわけで、その内容が次に示されております。
「一に驕慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり』と。此の十四誹謗は在家出家に亘るべし、恐るべし恐るべし」
この「十四誹謗」ということは、我々が本当に気をつけなければならないことです。我々の命の中には濁(にご)っている面がありますから、信心をして御題目を唱えていても、十四誹謗を犯してしまうことがあるのです。けれども、純粋な「一心欲見仏」の信心により、しつかりと御題目を唱えて、その上で皆を救っていこうという気持ちになると、この十四誹謗は自然に消えていくのです。
そして、この十四誹謗は「在家出家に亘る」、つまり私たち僧侶や皆さん方信徒も犯すことがあるということですから、これは皆が気をつけなければならないのです。
しかし、後に述べますが、創価学会の在り方は、このすべてを徹底して犯しているのです。これをはっきり知るべきであります。
「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり(乃至)之を以て之を思ふに、忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり」(松野殿御返事 御書一〇四六頁十一行目)
つまり、我見・我欲において毀ることが一番悪いのです。創価学会は、自分たちの組織を守るために日蓮正宗を徹底して誹謗しておりますが、これはまさしく「法華経を持つ者」を毀ることになります。
私が「現代の一凶 創価学会」と題して、今、皆さん方に話をしているのは、これは毀っているということではないんです。邪悪な創価学会に皆が誑かされていくところを救う意味において破折をしているのです。ですから、これは決して毀ることにはならないということを申し上げておきます。
しかるに大聖人様は、正しい仏法を信心している者同士が、お互いに毀り合うことはよくないということを御指南であります。
ともかく、ここに「十四誹謗」を挙げておられることを鑑(かがみ)として見ると、このすべてが創価学会の思想と行為に当たっておることは恐ろしいほどであります。
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from: 21世紀さん
2009/03/14 23:47:50
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「Re:御法主上人猊下御講義」
現代の一凶創価学会
教義上の我見・邪見の非道理と矛盾
(1)大聖人直結の邪義
これは皆さん方も聞いたことがあると思いますが、創価学会では「大聖人直結」ということを言うのです。結局、これも池田xxの思い上がりによる我見・邪見の考え方から、あのような標語みたいなものを作り出しておるわけです。
やはり彼らには、三宝に対して南無するという、本当の意味での帰命の心がないのです。仏法の本来の在り方は、三宝に帰命するということであって、大聖人様の下種仏法においては最も然るべきことです。その三宝を否定して仏法は存在しません。
しかるに、創価学会では「大聖人直結」などということを言っておる。本来、大聖人様に対してすべての者は帰命すべきことであって、直結などということではないのです。直結とは「間を隔てないで、二つのものが直接に結びつくこと」という意味ですから、これでは大聖人様と池田xx、さらに創価学会の者どもが対等の立場にあることではありませんか。そこに彼らのどうしようもない思い上がりがあるのです。ですから「大聖人直結」という言葉からして、信心の筋道において狂っているのです。
ましてや、その「大聖人直結」ということは、第二祖日興上人をはじめとする御歴代上人をも不必要とすることになるのです。つまり、自分たちは大聖人様にさえ直結すればいいわけですから、日興上人や日目上人などもいたかもしれないけれども、それらは全く必要ないということになるわけで、したがって、これは三宝を否定しておることになるのです。すなわち、仏・法・僧の三宝には一体の意味がありますから、その僧宝たる日興上人をはじめとする御歴代上人を否定することは、また翻(ひるがえ)って仏宝たる大聖人様を否定することにもなるのです。
そこでまた彼らは「大聖人直結」ということで、日興上人以来の化儀・化法をも否定するから、勝手なことをやり出すんですね。「我々は『大聖人直結』で、大聖人即我々の立場が正しいのだから、僧宝たる日興(上人)以下の法規に必ずしも従う必要はない。自分たちの考えるように行うんだ」ということで、五座三座の勤行をやめて『方便品』と『自我偈』だけに改悪したり、勤行の観念文を改変したり、塔婆供養を不要だと言ったり、その他にも様々なことを勝手に行っておるわけです。
したがって、この「大聖人直結」というところにそもそもの矛盾があるわけで、その元は、いわゆる彼らの驕慢によるのであります。
そこで、テキストの下のところに、
日興上人以下を不必要とする。三宝の否定と法体血脈の否定の大悪義。
とあります。
次に、
(2)御書根本の邪義
大聖人の仏法は、一期全体の御化導より拝すべし。その一切は付嘱よって括(くく)らる。日蓮一期弘法並びに釈尊五十年の説法は日興上人へ付嘱。我意による御書の一文一文に、自我特勝の悪見を生ずるのが池田xxと創価学会なり。
これは、やはり彼らは本当の意味での帰命の心をもって御書を拝していないのです。ただ文字面だけを見て「ここに、こう書いてあるから我々がやっていることは正しいんだ」というようなことでそこには三宝などということも考える必要はないというような意味から「御書根本」という考え方があるわけです。
けれども日興上人は、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して」(御書一八八四頁)
とおっしゃっているのです。この「極理を師伝」しておるのは、一体どなたなのかということが大事なのです。
しかるに池田xxは、それを自分だと思っているのです。自分が師匠であるから、私の言っていることさえ聞いていればよく、その上で御書を解釈していますから、そうすると池田xxがまるで大聖人と同じというようなことに自然になってしまうし、事実、創価学会はそのような構図になっているんですね。
したがって「御抄を心肝に染め極理を師伝して」という意義のところに、彼らはそもそも我見を持っておりますから、よって「御抄を心肝に染め」ということも、口先だけになっておるのです。
また、孟子(もうし)の言葉に、
「悉く書を信ずれば則ち書無きに如(し)かず」
というのがありますが、これは批判的な視点を持たずに書物を読んで、そこに書かれていることのすべてを盲信するならば、むしろ書物などは読まないほうがよいという意味です。
ですから、大聖人様の御書について、彼らはただ文字面だけを見て「ここに、こうある」「あそこに、こう書いてある」と言うけれども、大聖人様の御書には「文」に対して「義」ということがあるのです。そして、その義には高低浅深というけじめがあるわけです。
それもこれもすべて知ったように奢(おご)り誇って、驕慢な心で歴代血脈の僧宝を蔑(あなど)り、誹謗を繰り返しています。しかし、
仏法の文と義には、さらに「意」という重大な帰結があるのです。この意は仏意であり、法門の理論や理屈だけで成仏の大事を遂げることはできません。
すなわち仏法においては、お釈迦様の化導においても同様ですが、大聖人様の御一期の御化導にも段階があるのです。
つまり、お釈迦様の場合は、方便の教えである華厳・阿含・方等・般若等を先の四十余年に説いて、最後に真実の教えである法華経を説かれたのです。
そして、大聖人様の場合は、方便はないけれども、三大秘法の中において、まず初めに本門の題目を御自らお唱えになったのです。それが佐渡以前の化導です。それから佐渡へ行かれて、上行菩薩の意義の上から本門の法をお示しになる。その後、身延に入られて一宗の究竟である三大秘法の弘通と整足をきちんと行われて、そして最後に、そのすべてを括(くく)られて日興上人に付嘱をされたのです。そこまでが大聖人様の御一期の御化導なんですね。
その日興上人への付嘱は、いわゆる、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり云云」(御喜一六七五頁)
という『日蓮一期弘法付嘱書』と、もう一つは、
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり云云」(同)
という『身延山付嘱書』の二箇相承です。これは、大聖人様の御一期の御化導の意義を全部括った上での御相伝なのです。この上から日興上人、日目上人、歴代各上人への相伝が厳として存し、その御相伝の上から拝して、初めて御書の一文一文の意義を正しく理解することができる、また正しく受けることができるわけです。
すなわち『法華文句』に、「信」と「順」の二字が最も大切であることを釈して、
「信ずれば即ち所聞の理会し、順ずれば則ち師資の道成ず」(法華文句記会本 上 四八頁)
という文があります。正しい信によって初めて法華甚深の文義を知り、身に当ててその意を会得することができる。また、三宝に我意・我見を捨てて随順するところに初めて仏法の正意に適う師弟の道を成ずることができるのです。そして、信は順によって正しい信が生じ、順は信を得て確固たる正法流布の源となる。故に、順のない信は邪信・盲信となり、信のない順は正しい師弟の道を破って邪義・邪教の団体となる。三宝背反の者たちは、いくら法門を知っても、随順のないところ、自らその意に背く故に文義の一切の解決が誤るのです。
しかるに、創価学会では「そんな相伝などは、どうでもいい」「我々はこれだけやったから我々の考えが正しい」と我見を逞(たくま)しくして、勝手に御書を解釈しているわけです。
そこに、あの孟子が言った「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」の言葉にすら破折されるような、中心から外れ、成仏はおろか、即到三悪道なる池田創価学会の「御書根本」の邪義が存するということを申し述べておくものであります。
次は、
(3)血脈否定の邪義
付嘱による仏法の血脈伝承は、日蓮正宗の宗是として動かすべからざる常恒の定則定理なり。
今、申し上げたように、付嘱によって仏法の血脈伝承が存するわけです。
これを否定する池田xxは「日蓮大聖人の正しい血脈は創価学会にある」と僣聖す。
これは、いつも高言していますね。ですから「日蓮正宗には血脈はないんだ」と。何を言っているのか、あきれてものが言えません。
少しばかり折伏をしたからといっても、みんな狂ったほうへ行ってしまったら、何にもならないのです。それでは仏法の弘通にならないわけですが、それでも彼らは「我々は、これだけ折伏したんだ」ということを言うのです。これもやはり、みんな我見から来ておるわけです。
そこで、
「超高が民の身として横(よこしま)に帝位につきし」簒奪(さんだつ)の言。
ということを大聖人様がおっしゃっておるのです。この「簒奪」とは、帝王の位を奪い取ることを言うのです。
昔、中国に秦(しん)の始皇帝に仕えていた超高(ちょうこう)という人がおりました。この人は始皇帝が亡くなった後、李斯(りし)という丞相(じょうしょう)に命じて、自分に都合の悪い始皇帝の長子である扶蘇(ふそ)を殺させたのです。そして、自分がうまく利用できそうな始皇帝の末子である胡亥(こがい)を二世の皇帝として、実質の権力を握ったのです。
その後も、帝の胡亥に讒言(ざんげん)をして、自らの悪事を知る李斯や、始皇帝時代の有能な旧臣を殺させ、そして終(しま)いには帝の胡亥をも殺してしまうのです。このように、超高というのは非常に悪逆な人物であったのです。しかるに、この超高も、後に即位した英明な子嬰(しえい)によって殺されてしまうのであります。
このようなことが「纂奪」ということでありますが、それ以上に悪いのが、大聖人の仏法をそのまま纂奪し、日蓮正宗における宗祖以来の血脈相承を否定して、あたかも自分たちに血脈があるかのように囁(うそぶ)く創価学会であります。この創価学会の業は、超高の業以上の悪業であるということを、ここに申し述べておきます。
次は、日有上人の『化儀抄』の御文であります。
日有上人云わく「手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり」(化儀抄 聖典九七四頁四行目)
このほかに、もう一つ大事な御文がありますが、ここでは省略いたしました。
この御文において拝せられることは、必ず師匠より弟子として仏法を受けられていくところに仏法の本義が存するということです。ですから「我に信を取るべし」というところに仏法の血脈が継続していく、つまり血脈が伝わっていくのであります。先ほどの「信ずれば即ち所聞の理会し、順ずれば則ち師資の道成ず」の文は、まさにこのところを道破しております。
そこで「此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり」と。つまり、師・弟子が一体となって妙法を唱えるところに本因本果が一体となるのであり、よって「是れを即身成仏と云うなり」と仰せになっています。
次に、
日寛上人云わく「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり」(文底秘沈抄六巻抄六六頁一行目)
これは「一器の水を一器に移すが如く」に血脈法水が伝わっておる故に、大聖人様のお心は断絶していないということをおっしゃっておるのです。
日寛上人が「蓮師の心月豈此に移らざらんや」と仰せられるのは、大聖人様のお心が、まさしく今日に至るまで血脈法水として日蓮正宗に伝わっておるということではありませんか。そしてこの血脈法水は、私も第六十六世日達上人より、はっきりと承っておるのであります。
したがって、このように血脈法水が厳然と伝わっておるということを、ここに申し上げるものであります。
次に、
(4)本尊迷乱の邪義
『ニセ本尊』のコピー(別紙にこの邪義を示す)。大聖人直結ならば歴代本尊盗用の必要なし。
創価学会は、そもそも「大聖人直結」と言うのであれば、本当は池田xxが御本尊を書かなければならないことです。けれども、そこまでは簡単にはできない。やはり多くの創価学会員も、これまで組織の中でずいぶん誑(たぶら)かされてきてはいるけれども、そこまでやってしまうと、あまりにも化けの皮が剥(は)がれ過ぎてしまうから、そこまではしないのです。では、どうするのかということで、日寛上人の御本尊をコピーしようということになったのです。
しかるに、この御本尊は日寛上人が享保五(一七二〇)年六月十三日に御書写あそばされたものであり、これを彼らは正しい筋道から入手したわけでもなく、さらにはこの御本尊に認められている「下野国小薬邑本如山浄圓寺大行阿闍梨本證坊日證授与之」という「授与書き」を抹消し、勝手にコピーをして造り上げたのが、あの創価学会の『ニセ本尊』であります。
この絶対に許されざる創価学会の大謗法について、私も以前(平成九年八月)に講義をしたことがありまして、それをまとめたのが『創価学会の偽造本尊義を破す』という本であります。
それには、種々の面から彼らの邪義に対して破折を加えておりますが、
「一つには、血脈相伝の大義、下種三宝の御法魂に背き、仏意に反する。したがって、その形骸のみの本尊に仏意と三宝の法魂は全く存在しない。故に、三宝欠除の『ニセ本尊』である」(創価学会の偽造本尊義を破す一七〇頁)
ということです。これは、形だけは日寛上人の御本尊ではあっても、そこには仏様の法魂は存在しないという意味があるのです。
次に、
「二に、歴代各上人の御本尊のすべては、もぬけられて本尊の法魂は現法主の承るところにあり、その大義に背いて血脈上の本尊を勝手に作るのは、池田と創価学会の魔性が入っている故に、魔性・魔心の『ニセ本尊』である」(同)
ということです。したがって、これは、
「三に、日寛上人も代々の血脈伝承によって本尊を書写せられているのです。その血脈上の本尊を邪まに掠(かす)め取るのは纂奪の所業であり、したがって無許可簒奪の『ニセ本尊』である」(同)
さらにまた、
「四に、その資格のない者が、勝手に血脈上の本尊を印刷、配布するは、つまり授与するのは血脈相伝の仏法上の道義に反します。すなわち、非道の『ニセ本尊』である」(同)
それから、
「五に、無知の会員を誑かすため、形のみ似せた本尊を示すは、仏法の精神なく形骸のみであり、唯物形骸の『ニセ本尊』である」(同)
さらに、
「六に、日寛上人は本来、大行阿闍梨本證坊日證師に授与されたのであり、その授与書きを勝手に抹消し、変造しています。すなわち、ほしいままに本尊を変造する大逆であり、変造の『ニセ本尊』と言うべきである」(同)
また、
「七に、日寛上人の書写本尊を用いつつ、日寛上人の御意志、大行阿闍梨本證坊日證授与のお心、すなわち、日寛上人に背く、背逆の『ニセ本尊』である」(同)
そして最後に、
「八に、長い間、池田や創価学会で言ってきた宗門の法主への血脈尊敬と、近年まで現法主の書写本尊を信仰せしめてきた現実に矛盾する。これ、矛盾撞着・自語相違の『ニセ本尊』である」(同)
というように、彼らの邪義を破しております。要するに、創価学会では『ニセ本尊』を勝手に造って会員に配布しておりますが、その『ニセ本尊』に向かっていくら手を合わせても、全く功徳はないということであります。
しかるに、ここではまず「本尊迷乱の邪義」があるということを申し上げておきます。
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from: 21世紀さん
2009/03/14 23:30:27
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「Re:御法主上人猊下御講義」
現代の一凶創価学会
最後が、
○法爾の道理(法性・真如)
↓(創価学会の非道理)法性妙法中の我見に執われる結果、染法に終始する無明の不道理。
大聖人様は御書に、
「時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり」(御書 七六四頁)
ということを仰せでありますが、この「法爾」とは「法のままの爾(しか)るところ」、つまり「自然の定まり」という意味です。それが、そのまま一つの道理のかたちをなしておるわけです。
また、御書に、
「水はいつもつめたく、火はいつもあつく」(同 一八四三頁)
という御文がありますね。ですから、自然の在り方、自然の姿が、そのまま道理を形成しているわけであります。山川草木をはじめ、あらゆる生物等は、みんな地・水・火・風・空の衆生であります。その地・水・火・風・空の在り方、乃至それを取り巻く様々な因縁によって、我々をはじめとするあらゆるものが存在しておるのです。
我々の身体の中にも、火がなかったら死んでしまいます。ですから、身体が冷たくなったということは死んだということになるのです。それから、水がなかったらどうでしょう。これは血液などもそうですが、我々の身体は水で満たされているわけですから、水がなかったらやはり死んでしまうのです。それから身体の固いところは地の意味であり、また呼吸をすることは風の意味があるのです。さらに、その一切を包含(ほうがん)し調和するところが空です。ですから、地・水・火・風・空の存在が我々の命の元になっておるわけです。そのような存在の中における一つのかたち、それが不可思議な妙理としての法の姿として存するわけであります。
そして、その法全体を素直に受けるところに「法爾の道理」に順応する意味があるわけです。ところが、その「法爾の道理」を自分自身の我見においてわがまま勝手に考えると、そこにどうしても汚れが生じてくるのです。それが我見によって受けるところの濁りであり、非常に微妙なかたちであるのです。
我々は、自分の命の元がどこにあるかということは判りません。けれども最近の科学では遺伝子などということも言われておるように、この遺伝子の奥底にもいろいろなものが存在しておるのです。したがって、我々の命の元にはいろいろなものが存在しておるわけですから、我々の命そのものが久遠なのです。つまり目の先だけのものではないのです。
我々には、父親と母親がいてその親として祖父と祖母がそれぞれおります。そして、さらにそのまた親がそれぞれおるというように、たくさんの先祖がおるわけです。そのような先祖が、自分たちの守護霊としているようなことを、易者などが言っているのを皆さん方も聞いたことがあるでしょう。
先日新聞に、どこかの新興宗教の教祖が「守護霊を持ちなさい」などと言っている記事がありましたが、守護霊などをわざわざ意識して持つ必要はないのです。そもそも守護霊というのは因縁によって存するのですから、自分が嫌だと言っても、自分に因縁のある人はついているのです。
ただし、その守護霊も「あの者は私の孫であるにもかかわらず、けしからんやつだ」と思われたら、これは悪い霊になるわけです。そのようなことも、ないことはないんですよ。ですから、先祖の追善供養ということは大事なんですね。
よく「守護霊、守護霊」と言って、守護霊に頼るような考え方の人も世間にはおるようですが、これは部分に執われているのであって、法界全体の大真理としての妙法を知らないためです。
まず我々の両親は二人いるけれども、その二人の両親はまた二人ずついるわけです。そして、またその両親は二人いるわけですから、そうすると二代前で四人になり、三代前で八人です。さらに四代前では十六人、そして五代前は三十二人、その前は六十四人というように遡(さかのぼ)っていくと、我々の先祖は本当にたくさんおるわけで、そのような人たちがいなければ、我々一人の命が今ここに存在していないのです。
そのように考えると、我々は善い霊も悪い霊もみんな背負っているわけです。我々一人ひとりには、それだけたくさんの先祖がおるわけですから、その中には人殺しや盗人のような悪人もいれば、善人もいるように、ありとあらゆる人がいるのです。それがやはり法界の姿であり、その全体が妙法の姿、法性なのです。ですから、その法全体を正しく受けていくために妙法を受持し、その功徳を発揚(はつよう)し、先祖に追善供養することが大事なのであります。
それについて、次に『当体義抄』の御文を挙げました。
「問ふ、一切衆生の当体即妙法の全体ならば、地獄乃至九界の業因・業果も皆是妙法の体なるや。答ふ、法性の妙理に染浄の二法有り。染法は薫じて迷ひと成り、浄法は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。此の迷悟の二法、二なりと雖も然も法性真如の一理なり」
ここに、迷いも悟りもすべてが「法性真如」の姿であると仰せであります。ただし、「染法」と「浄法」とを区別されております。
「譬へば水精の玉の日輪に向かへば火を取り、月輪に向かへば水を取る、玉の体一なれども縁に随って其の功同じからざるが如し。真如の妙理も亦復是くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇へば迷ひと成り、善縁に遇へば悟りと成る。悟りは即ち法性なり、迷ひは即ち無明なり。譬へば人夢に種々の善悪の業を見、夢覚めて後に之を思へば、我が一心に見る所の夢なるが如し。一心は法性真如の一理なり。夢の善悪は迷悟の無明・法性なり。是くの如く意得れば、悪迷の無明を捨て、善悟の法性を本と為すべきなり」(当体義抄 御書六九二頁八行目)
これは『当体義抄』の最初のほうにある御文です。この御文は言葉が難しいですから、判りにくいような感じがあるかも知れませんが、これは法性全体が我々の命の当体、法界全体の姿であるということです。そして、その法性に「染」と「浄」の姿があり、それによって迷いや悟り、あるいは悪となり善となるということを、夢の譬えをもって示されておるわけです。
要するに、法性は善悪の全体を含んでおり、それが法性の妙理の中から部分的執われにより、染まって不純なものと、清浄なものの二つが存在するということであります。
次に、テキストの私の言で、
法性の八・九の二識。八識に二義あり。一に妄、二に真。解性の義は真。果報の義は妄なり。自我の浄化と染汚において池田創価の本源は、この染分の無明なり。
と書いてあります。この法性自体は、実は「九識」という絶対的な法界体性の妙境妙智でありまして、これを「阿摩羅識」と言います。これは認識の上から見て非常に深く広いもので、先ほど「法爾の道理」とありましたが、法そのものの姿を明白に悟り識(し)るところの根本の意識を言うのです。しかるに、この九識というのは、我々には到底認識できないのです。
そして、この九識のところから八識が出てくるわけで、この八識のことを「阿頼耶識」と言います。このところに先ほど示された「染」と「浄」の二法ということがあるのです。いわゆる染まった不純なものと清浄なものとが分かれるわけです。
そこからさらに次の七識、すなわち「末那識」において、はっきりと悪が悪として現れ、また善が善として現れてきて、次に六識としての我々の生活が現れてくるのです。
六識というのは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの識であります。まず最初の「眼識」とは、眼でものを見るということです。それから「耳識」とは、耳で音を聞くこと。次の「鼻識」とは、鼻で臭いを嗅(か)ぐこと。そして「舌識」とは、舌でものを味わうこと。さらに「身識」とは、身体でものに触れてそのものを感じ取ることであります。それから最後の「意識」とは、これら眼・耳・鼻・舌・身の五つにおいて、色・声・香・味・触という外界のものをことごとく総合して感ずることであります。ですから、眼・耳・鼻・舌・身を総合する意識を六識と言うのです。
したがって、この六識が我々の生活の上での意識であります。ですから我々は、心というものはその意識というところにしか存在しないと思っているわけです。けれども実際には、その意識の奥に七識があり、八識があり、さらにその元に九識という法界全体を悟るところの深く広い智慧が存しておるのです。しかるに、それは我々の日常生活の中においては隠れておりますから、自分自身で認識をすることは全くできないのであります。
仏教では「還滅門」と「流転門」ということを言いますが、下の迷いのところから上の悟りの方向へ行くのを「還滅門」と言い、逆に上から下へ行って我々の生活のなかの迷悟の姿として出てくるほうを「流転門」と言います。このような内容が仏法において存在しておりますが、その上から下へ流転してくるなかの、九識から八識へ出てくるところに「染分」と「浄分」に分かれることがあるわけです。
その「染分」とは何かと言えば、これは自我というものに執われることによって、法の上から正しく物事を見ることができず、それによってそれが一つの無明の煩悩というかたちとして現れてくるということです。
そこで先ほど拝読したところに「是くの如く意得れば、悪迷の無明を捨て、善悟の法性を本と為すべきなり」という御文がありましたね。つまり「悪迷の無明」を捨てて「善悟の法性」に帰すべきであると言われるのです。自然のかたちのなかでは、どうしても八識の中に「悪迷の無明」が存在しているのです。そこで「悪迷の無明」を捨てて浄化し、「善悟の法性」に帰していくことが大事なのです。
では、どのように浄化していくのかと言えば、それは正しく法性の姿を示すところの教えである妙法蓮華経を受持していくことによって、自然のかたちのなかで「悪迷の無明」を捨てて「善悟の法性」に帰していくことができるわけです。
しかるに、そこで妙法の御題目を唱えながらも、なおかつ仏法に対する我見を生ずることによって無明になってしまっておるのが池田創価学会の姿であります。
では、正しい仏法を長い間信心していたにもかかわらず、なぜ池田のような邪法邪義の姿が出てきてしまったのかということが、皆さん方も不思議に思うでしょう。その原因は結局、前の「法爾の道理」のところを見ていただくと判りますが、この「法爾の道理」とは「法性・真如」であり、その中において「法性妙法中の我見に執われる結果、染法に終始する無明」があるということです。
ですから、表面上は妙法を受持しつつも、そこに八識の中の迷いが現れてくることによって仏法の根本を見失い、そこに「創価仏法」などという本末転倒の己義を構えて、厳然と在します大聖人様の仏法を蔑(ないがし)ろにして否定する意味が存するのです。それが「法爾の道理」に背く、創価学会の無明の不道理の姿であるということを申し述べておきます。
このようなところから出てくるのが、テキストの次のところにある「教義上の我見・邪見の非道理と矛盾」であります。これは道理に関連しますので、このところへ入れた次第であります。
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from: 21世紀さん
2009/03/14 23:25:03
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「Re:御法主上人猊下御講義」
現代の一凶創価学会
次は、
○作用の道理(因果)
→(創価学会の非道理)善因善果悪因悪果の道理に背き唯勝利のみに執着する因果の不道理。
「作用」とは、「はたらき」とか「活動」という意味ですから、これはあるものを実際に行ったかたちがどうであるかということです。我々の日常生活において何を行うにしても、一つのことをやれば、その結果がすぐに出ますね。
卑近な譬えではありますが、奥さん方は朝起きたら何をやりますか。最初に勤行をなさるでしょうが、その後は自分の主人や子供たちのために朝食を作らなければなりませんね。その朝食を作ろうと思って作り出すのが因であり、その結果として、美味しい朝食が出来上がる。それが果ということになります。
ですから、どのようなことでも作用によるわけで、つまり原因を作るところにその結果が現れるのです。それが因と果ということであります。先ほどは「因縁」ということを言いましたが、今度は直接的な事物の在り方においては「因果」ということになります。
その因果には様々な内容がありますが、なかでも我々の生活上の大事な問題としては、先はどお話したように善と悪ということであります。すなわち、悪の因を作れは悪の結果、善の因を作れば善の結果が来るわけです。この因というものは無量無数にあるわけですが、やはり善因は善果を呼び、悪因は悪果を呼ぶということになります。その意味において「作用の道理」というものがあるわけです。
道理においては、先はどは因縁の道理があるということを言いましたが、ここではさらに因果の上からの道理というものが存在するのです。それが、つまり悪因は悪果、善因は善果であるということであります。
この悪ということは、どういうことかと言うと、これには儒教的な考え方や仏教的な考え方などいろいろな表現がありますが、なかでも仏教で説くところの悪ということについて括ってみますと、身・口・意の三つにおいて十の悪が存するわけです。
まず、口における悪について言えば、これには悪口・両舌・妄語・綺語という四つの悪があるのです。
皆さん方もご承知のように、
「口は禍のもと」
という諺があるでしょう。これは皆さん方にも経験があると思いますが、ついうっかりしたことを言ってしまって、それが元で災いが起きるということは世の中によくありますね。そういう意味で、口の上からの善の言葉、悪の言葉、これに大事な意味があります。やはり正しいことを言えば、正しい結果が来るし、逆に禍の起こるような悪いことを言えば、悪い結果が来るのです。したがって、他人の悪口を言うのが「悪口」という、十悪のうちの一つであります。
次が「両舌」で、これは二枚舌ということです。例えば、Bさんに向かって「Aさんはあなたのことをこんなふうに悪く言っていましたよ」というように、Aさんが言ってもいないことをBさんに吹き込むわけです。さらに今度は、Aさんに向かって「Bさんはこのようにあなたの悪口を言っていましたよ」などと言って、二人を反目させるのです。このように二枚舌を使って、人と人との関係をもませるようなことをするわけです。
三つ目が「妄語」ということです。これは皆さん方もご承知のとおり、いわゆる嘘であります。嘘を言うには、やはり何らかの意味でその目的があるわけです。結局は、自分自身を擁護するため、あるいは自分自身を利得するためなどに嘘を言うのです。人を騙すことによって、自分自身が利益を得るということにあるわけですから、当然、悪の行為となります。
最後が「綺語」ということで、これは空虚なことやお世辞などの飾ったことを言ったり、または心にもないようなことを言って人を誑かして、自分の利益を図るというようなことであります。
これらが、口における四つの悪であります。
次に、身体における悪について言えば、これには大きく分けて、殺生・偸盗邪淫という三つがあるのです。
初めの「殺生」とは、無益にものの命を取るということで、これはたいへん悪いことです。
今の時期は、外を歩くときに足元を見ると、よく蟻などが歩いていますね。けれども、私は蟻のいるところでは、なるべく踏み潰さないように気を付けているのです。やはり一匹の蟻にも尊い命があるということを思うと、お互いに法界全体の中において生活していく上での尊さが、そこに顕れてくると思います。笑っている人がいるけれども、これは本当なんですね。平気で蟻を踏み潰している人もいるし、中には「ああ、蟻がいる」と見れば、わざと踏み潰して通る人もたまにはいるでしょう。まあ、一匹の蟻がどうこうではないと思われるけれども、やはり命の尊さということを蟻一匹においても感ずるというところに、慈悲の尊さがあると思うのであります。また、それが自ずからその人の命の中に善の姿として顕れていくと思うのです。
次の「偸盗」とは、これは他人のものを盗むということですから、当然、悪いことですね。
それから最後が「邪淫」で、詳しくは説明しませんが、これは身体で邪な行為をすることであります。
これらが、身体における三つの悪であります。
それから次が、貪欲・瞋恚・愚痴という、身と口に対する意(こころ)における三つの悪であります。
「貪欲」とは、必要以上に物を貪(むさぼ)るということで、これは将来において必ず不幸な結果が現れてくるのです。
皆さん方もよくお判りでしょうが、貪るとかえってだめなんですね。勝負事などもそうですが「勝ちたい、勝ちたい」と、貪る心をもって行うと、かえって結果が悪かったりするのです。ですから、自分自身の能力を錬磨し錬成して真心をもって人事を尽くした上で、しかも勝敗にはこだわらないというところに、むしろ初めて本当の姿が現れると思うのです。
これは、皆さん方のほうがよくご存じだと思いますが、美空ひばりという歌手がおりましたね。その人の歌に『柔』という曲がありまして、その歌詞に、
「勝つと思うな、思えば負けよ」
という一節がありましたが、勝負にこだわることは貪りの心から出るので、やはりあれも一つの真理を歌っていることでしょう。
ですから、貪りの心はいろいろな意味でよくない結果があるのです。なかには食べ物を貪る人もいれば、酒を貪ってたくさん飲む人もいますが、みんな結果的には不幸になっていくのです。大酒を飲むにしても、若いうちは平気だと思っていても、徐々に年を取っていくうちに必ず身体に悪いところが出てくるのです。ですから、たくさんお酒を飲む人が今ここにいたならば、そのような方は早く直してください。そういうことで、貪ることはよくないのです。
次の「瞋恚」とは、瞋(いか)りということで、これも本当によくないのです。
瞋りにも「順理」と「非理」というのがあるのです。この順理の瞋りというのは、正しい瞋りであります。例えば、本当にわがままで悪いことばかりしている子供に対して、親がそれを厳しく叱るというような瞋りは、子供のためを思う心からで、順理の瞋りと言えるのです。ところが、慈悲がなく、ただ癪(しゃく)に障(さわ)るからと言って、理不尽に子供を叩いたりするのは、瞋りになります。
ですから、この瞋りには順理と非理の二つがありますが、特に非理の瞋りということにおいては人を不幸にし、自己を不幸にする場合があるということです。
それから「愚痴」とは、愚かという意味であります。これはごく簡略に言えば、因縁の道理と因果の道理、つまり悪因は悪果であり、善因は善果であるということが判らないということです。それが愚痴であり、そこから愚かなかたちが全部現れてくる意味があるのです。
これらが、意における三つの悪であります。
要するに、これら十悪ということがありますが、これらは今の創価学会の振る舞いを見ていると、ほとんどが当たっているのです。
すなわち、日蓮正宗という正しい教えに対してさんざん悪口を言って罵倒し、それからありとあらゆる捏造をもって誹謗しておるのです。私もずいぶん誹謗されましたが、皆さん方にもそういう経験があるでしょう。
それから、本当は根性が悪いくせに、世間にうまく取り入って、いかにも「創価学会は立派な団体である」というように見せるような言い回しをするのです。
ここでは具体的に一々申し上げませんが、この他にも十悪に相当するようなことが多々あるのです。そういう点において創価学会の在り方は、作用における因果の道理に外れておるということがはっきり言えるわけであります。
次が、
○証成の道理(論証)
→(創価学会の非道理)道理に背く論理の矛盾。正理に背くあらゆる発言論理の不道理。
「証成の道理」というのは、証を成ずる道理ということで、今の言葉で言えば「論証」とも言えます。この論証とは、与えられた判断の真実性の理由を明らかにするという意味です。
そこで「あることは、こうだ」と言うのは論定なのです。例えば「人は動物である」という一つの言葉があるとすれば、これは論定なのです。仮りに私が「人は動物である」と言ったとします。そこで皆さん方はどう思いますか。これは当然「そうだ」と思うでしょう、人は間違いなく動物ですからね。
今度は、これを「動物は人である」というように逆に言ったらどうでしょう。皆さん方は当然「おかしい」と思われるでしょう。つまり実際に動物というのは人間以外にも、ありとあらゆるものがたくさんおりますから、よってこの論定は誤りとなります。
したがって、逆は真ではなく、間違いになってくるのです。そういう意味において、逆のこと、道理に外れたことは不道理になるのです。ですから「道理に背く論理の矛盾。正理に背くあらゆる発言論理の不道理」ということになります。
このような逆のこと、真理に対する矛盾はいろいろなことが数多くありますが、創価学会の池田xxの発言等において、あちらこちらに見受けられるのです。例えば「嘘も百遍言えば本当になる」などということも言っておるのです。けれども嘘は本来、一遍言っても百遍言っても千遍言っても嘘は嘘なんですよ。それを「嘘が本当になる」と言うのが、これが池田xxの論証の上からの不道理なんですね。それから「正邪は問題ではない。ただ勝つことである」などということも言っておるのです。これも正しい倫理観からは逆なんですね。このようなことが、彼らの一つの大きな誤りなのです。
大聖人様は、
「悪は多けれども一善にかつ事なし」(御書一三九〇頁)
と仰せです。これは、どんなに悪が多くても、結局、一つの善にはかなわないのであるという意味ですね。それを彼らは逆のことを言っていますから、これはやはり論理・論証の上からも、創価学会の言うことは不道理であるという意味になるのです。
しかるに池田xxが話をすると、全国の会員が皆それを受けて、その内容の理非善悪を考えもせず、その通りに信じて狂ったように盲従しているのですから、そこに社会がどんどん悪くなっていく姿があるのです。ですから、その意味からも皆さん方は、厳密にその点を論証しつつ見極めていかなければならないと思うのであります。
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from: 21世紀さん
2009/03/14 23:19:40
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「Re:御法主上人猊下御講義」
現代の一凶創価学会
皆さん、おはようございます。
本年度の法華講夏期講習会も今回をもっていよいよ第十期となりまして、これで本年度の講習会が終了する次第であります。
しかるところ、昨日の台風から本朝は打って変わりまして、まことに晴朗な天気となり、特に富士山がくっきりと見えております。
本年度の講習会においては、雨の降らない時が多かったのですけれども、両日にわたって富士山が全く顔を現さないような日が割に多かったと思います。
ところが最後の第十期において、このような晴朗な天気と共に富士山がくっきりと現れまして皆さん方も今朝、富士山を仰ぎ見て、たいへん清々しいお気持ちになられたことと思うのであります。
私は、これにも一つの深い意義があると感ずるのであります。今、宗門は僧俗一致してあらゆる邪義・魔義・悪義の迫害を打ち破りつつ、大聖人様の正法をどこまでも正しく弘通しておりますが、その姿が講習会最後の本朝の天気に表れており、諸天善神がこのように配慮されたことと感ずるのであります。したがって私もその点から、すっきりした気持ちでここに参上した次第であります。
本年度における私の講義内容は『諸法実相抄』の、
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ絵ふべし」(御書 六六八頁)
という、あの有名な信・行・学の御指南について申し上げてまいりました。
その中でも、第一期と第三期は、「信」という内容に関してのお話をさせていただきました。それから第二期と第四期は、「行」の内容について。また第五期と第六期は、実際の修行のかたちとしての「正行」「助行」、さらに「方便品読誦」「寿量品読誦」の意義について申し述べた次第であります。
そして、次の第七期の時は、私はブラジルへ参りましたので講義はできませんでした。それから、その後の第八期では、信・行・学の全体を通じての上から簡略に申し述べた次第であります。
それから第九期と第十期においては、講習会の最後でもありますので、今回は「現代の一凶 創価学会」と題して、彼らの邪義・魔義・悪義、乃至いろいろな誤りを、ある程度申し述べました。これは、これからの破邪顕正の上に、創価学会の在り方を指弾しておくことも必要と思いまして、そのような内容を選んだ次第であります。
それでは、お手元に配布してあるテキストをご覧ください。
まず最初に、
現代の一凶 創価学会
とあります。これは「創価学会」という集団が、あらゆる面から日蓮正宗を誹謗しておるのみならず、邪義・魔義・悪義を露わにして、日本乃至世界の多くの人々を、わがまま勝手な思想において乱していく、紊乱していくところの「現代の一凶」であるということを感ずるのであります。その上から、このような題号といたしました。
次に、
創価学会の一切は徹頭徹尾、邪義・魔義・悪義なり。
しかる所以は、日蓮大聖人の仏法にその一切が背いているからである。すなわち池田xxの己見・我見による仏法の悪用にあり。
このように一往、最初の序文として書いたわけであります。これから後は具体的なかたちで、その「邪義・魔義・悪義」の検証として、それぞれ申し述べてまいりたいと患います。
◎ 検証
これは「検し、証していく」という次第であります。
次の御書の御文は、有名な三証の文であります。
「日蓮仏法をこヽろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事 御書八七四頁一行目)
この御文は、皆さん方もずいぶん聞かれたことがあるでしょう。あるいはこの御文をもって、いろいろな理に対する事柄の論証において、この御文の精神にしたがって折伏をされておることもあると思います。要は「道理」「証文」「現証」ということです。
この「証文」というのは、「文証」とも言いますが、これは文献上の証拠のことであります。次に「道理」とは、正しい道筋のこと。さらに「現証」とは、実際の現れ方ということです。それが幸せな姿であるか不幸な姿であるか、また善い姿であるか悪い姿であるかなど、それがはっきり出て来るという意味においていずれであるかを検するのが現証であります。
この後は、その順序にしたがって申し述べていきたいと思います。
一、道理
この「道理」という語は、皆さん方もずいぶん使っておると思うのです。日常の生活の中でも「道理に合う」とか、「道理に合わない」とか、「それも道理である」などというように使っていらっしゃるでしょう。
けれども「道理」とは何かと聞かれると、はっきり説明することはなかなか難しい意味もあるのではないでしょうか。そこで、ある仏教経典から引いてきましたが、道理には一往、四つの意味があると思われます。すなわち「観待の道理」「作用の道理」「証成の道理」「法爾(ほうに)の道理」という四つであります。
この文字面を見て難しく感じて、いきなり心の中で拒否反応を起こしている人がいるかもしれませんが、これからなるべくやさしく説明してまいりますので、この文字の意味をよく見ていただきたいと思います。
初めに、
○観待の道理(因縁)
→(創価学会の非道理)仏縁重恩の日蓮宗の三宝を凌ぎ、我勝を計る因縁の不道理。
この「観」という字は「みる」という意味で、「待」は「たいする」で、すなわち相対、対峙(たいじ)、対立というように、二つのものが相対するということです。一つのものから観(み)た場合に、相手があればそれは対立しているという意味があります。したがって、これは相対することを観ずるということですから、一つのものを一つのものだけで考えないで、相対するものを観ずるということです。それが「観待」という意味です。
我々の生活の上から言えば、自分のことだけを考えている人がいますね。他人のことはどうでもよく、何より自分の利益、自分が苦しいとか楽しいとか、そこだけを考えて生活している人がおりますが、これは非常に世界が狭いということが言えるのです。
つまり自分の周りには、実際はいろいろなものが厳然と存在しているのです。どのような存在にも、相対するもの乃至周りのものが存在して、初めてそのもの自体が存するということが言えるわけであります。
そういう点からするならば、これは仏法の中でも特に法華経の上からいきますと、
「如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」(法華経 八九頁)
の十如是の因果に当たるのです。この十如是の因果は、実に深く広く、またそこには我々自身の生活、命、乃至法界全体の姿が、その法理法則に括(くく)られて完全に示されてあるのです。その十如是の中の「如是因。如是緑」が、「因」と「縁」ということなのです。
この「因」というものを主体的に考えてみると、その因は決して因だけで存在するものではなく、必ず縁があるのです。縁があって初めて因が存在するわけです。
我々が、今ここにこうして安定しているのも、一往、客殿という建物があるからであって、客殿があるから我々はその中に座っていることができるわけです。
さらに、この客殿自体も、地球の地盤の上に乗っかっているわけですから、地球があるから客殿もここに存在できるわけです。
したがって、一つの存在は、それだけが空中に浮いているのではなくして、必ず何らかの縁によって保たれておるわけです。
これは、皆さん方の家庭も同様です。いかにご主人が毎月給料を取ってくるからと言っても、やはりその裏には奥さんの支えがあったり、あるいはその他様々な人の支えがあるからこそ、一つの家庭も成り立つことができるわけです。
さらに、毎日の食生活にしても同様です。我々が一人で全部の食材を一から十まで調達することはとてもできません。あらゆる人の因と縁のかたちがあって、その力によって我々の生活自体も成り立っておるのです。このように、因に対する縁というものが必ず存するわけです。
また、この因と縁は、何も日常生活の内容ばかりではありません。善悪という問題から考えていきますと、悪には悪の縁、善には善の縁があり、この善悪の縁によって、その人自身が善いほうにも、悪いほうにも進んで行くわけです。
初めから悪い人ではないけれども、悪い縁に誑かされ、引っ張られて、その人自身が悪い方向へ進んで行ったり、悪い姿になったりするのです。そして、不幸になっていくという人が、新聞紙上でも報道されておりますように、世間にはたくさんいるわけです。しかるに、その元は何かということを考えてみれば、それはその人自身をそのような状態に引き込んだところの悪縁が必ず存在するのです。ですから、この経というものは怖いのです。
けれども、この縁は怖いだけではなく、また大切なものでもあるのです。善縁という善い縁は大事なんですね。人は善い縁によっていろいろな面で幸せになったり、あるいは向上していくということが言えるのです。
故に、その善い縁の中で最も大切なのが教えであります。正しい教え、勝れた教えであるほど、その人を幸せにしていく、立派な正しい人にしていくということが言えるのです。ですから、善縁においても段階があるのです。すなわち、低次元な善縁もあれば、それより高い善縁もあり、さらには最高の善縁もあるわけです。しかるに、最高の善縁は何かと言えば、これは皆さん方も聞かれておるように、法華経が最高の善縁なのです。釈尊の教えの中で、出世の本懐として最後に説かれたのが法華経であります。
その法華経に「一大事因縁」ということが言われておるのです。すなわち、法華経の『方便品』に、
「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう」(法華経一〇一頁)
とあります。これは因と縁において、幸せになるか不幸になるか判らない衆生の命を、そのまま最高の善縁である仏縁をもって、衆生を本当に救っていくというのが一人事因縁であります。
よって、この因と緑ということを正しく知ることか大事であり、それを知るのが本当の仏子たる日蓮正宗の僧俗であるということを、ここで皆様方にはっきりと申し上げるものであります。
この一大事因縁は、末法において下種二宝として出現されており、それが三大秘法であります。すなわち、三大秘法を弘宣していく姿において、法宝は、事の一念三千、本有の妙法蓮華経の大御本尊であり、仏宝は、末法下種の本仏として御出現あそばされた日蓮大聖人であり、僧宝は、その教えを正しく受けて末法万年、尽未来際にこれを伝えていくところの、唯我与我の日興上人をはじめとする御歴代上人であります。すなわち、第二祖日興上人からさらに第三祖日目上人、そして第四世日道上人というように正法が正しく伝えられており、そこに下種三宝の姿か存するのであります。これが因と縁における本当の仏縁なんですね。
しかるに、その仏縁を無視し、仏縁を我が物であるとして全く踏みにじっておるところの姿が創価学会であります「よって、テキストに「創価学会の非道理」として、一つ目のところに「仏縁重恩の日蓮正宗の三宝を凌ぎ、我勝を計る因縁の不道理」と書いた次第であります。
創価学会は、「観待の道理」「作用の道理」「証成の道理」「法爾の道理」という四つの筋目の上から見て、これらすべての道理から外れておるのです。この道理ということは正しいことを言うわけですから、その道理に順じておれば正しいのですが、道理から外れておれば、これは不道理となるわけです。そして、その不道理のところには悪業・悪事の姿が存するのであります。
そこで、第一番目の「観待の道理」、つまり因縁という上からいきますと、一大事因縁たる末法の下種三宝に背き、またこれを誹謗しておるところの池田xxをはじめとする創価学会は、いわゆる仏の縁として最高に大事な重い恩である日蓮正宗の三宝を凌いで、自分たちこそが本当の三宝であるというような我勝を計っておるのです。つまり、自分たちが劣っておるにもかかわらず、勝れているように言うことであります。
よって、これらが「観待の道理」、すなわち因縁の上から見たところの創価学会の不通理であります。
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from: 21世紀さん
2009/03/13 14:11:31
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「Re:Re:御法主上人猊下御講義」
創価学会の偽造本尊義を破す(H9・10・15発行)
発行者:日蓮正宗宗務院
―抜粋―
170頁―173頁
創価学会が、日寛上人書写の、大行阿闍梨本證坊日證師に授与された本尊を勝手に印刷し会員に配布することは大謗法であるが、さらに克明に数えれば、次の如き謗法の理由が存するのであります。
一つには、血脈相伝の大義、下種三宝の御法魂に背き、仏意に反する。したがって、その形骸のみの本尊に仏意と三宝の法魂は全く存在しない。故に、三宝欠除の『ニセ本尊』である。
二に、歴代各上人の御本尊のすべては、もぬけられて本尊の法魂は現法主の承るところにあり、その大義に背いて血脈上の本尊を勝手に作るのは、池田と創価学会の魔性が入っている故に、魔性・魔心の『ニセ本尊』である。
三に、日寛上人も代々の血脈伝承によって本尊を書写せられているのです。その血脈上の本尊を邪(よこしま)に掠(かす)め取るのは簒奪(さんだつ)の所業であり、したがって無許可簒奪の『ニセ本尊』
四に、その資格のない者が、勝手に血脈上の本尊を印刷、配布するは、つまり授与するのは血脈相伝の仏法上の動義に反します。すなわち、非道の『ニセ本尊』である。
五に、無智の会員を誑(たぶら)かすため、形のみ似せた本尊を示すは、仏法の精神なく形骸のみであり、唯物形骸の『ニセ本尊』である。
六に、日寛上人は本来、大行阿闍梨本證坊日證師に授与されたのであり、その授与書きを勝手に抹消し、変造しています。すなわち、ほしいままに本尊を変造する大逆であり、変造の『ニセ本尊』と謂うべきである。
七に、日寛上人の書写本尊を用いつつ、日寛上人の御意思、大行阿闍梨本證坊日證授与のお心、すなわち、日寛上人に背く、背逆の『ニセ本尊』である。
八に、長い間、池田や創価学会で言ってきた宗門の法主への血脈尊敬と、近年まで現法主の書写本尊を信仰せしめてきた現実に矛盾する。これ、矛盾撞着(どうちゃく)・自語相違の『ニセ本尊』である。
また、創価学会が自らを「未曾有の仏意仏勅の団体」と言うのが、そもそも大きな誤りであります。本来の仏意仏勅、広布の宗団は日蓮正宗であり、創価学会はその派生団体に過ぎないのです。
その派生団体も、本体の血脈仏勅宗団に従っているうちは、仏勅団体の一分の意義があったけれども、池田を中心とする悪逆・背反が明らかとなって以来、全く仏意仏勅団体の傘下より懸け離れた謗法団体となったのであります。だから創価学会が、自ら仏意仏勅団体であると自画自賛しているが、これは?慢であり、うぬぼれであります。
故に、創価学会が、大聖人直結の信心の血脈があるところに本尊授与の資格があるとの理由により本尊を作ると言うこと自体、大謗法であります。
そういうことから、もうひとつ見方を変えて、十四誹謗のほうから考えますと、創価学会は、
一に、自ら本尊に関する権能がないにもかかわらず、ありとする思い上がりは「?慢謗法」である。
二に、正しい大聖人の本尊の伝承は、七百年来、血脈法水にあるにもかかわらず、これを無視して本尊偽造を企てるのは「計我謗法」である。
三に、下種三宝万年の相伝を否定し、その本義に背いてよしとするは、三宝の深義を知らぬ「浅識謗法」である。
四に、宗門を恨み、貪瞋癡(とんじんち)の三毒の感情をもって本尊を変更すること、また、それによる利得を図るは、共に貪瞋癡の「著欲謗法」である。
五に、下種三宝の正流を信ぜず、背逆の本尊を作るは「不信謗法」である。
六に、下種三宝の正流が三世常住である鉄則を、ありうべからずと疑うのは「疑惑謗法」である。
七に、下種三宝の正流を悪口罵言(あっくめり)、妄語をもって謗り、その結果として『ニセ本尊』を作るのは「誹謗謗法」である。
八に、「軽善(きょうぜん)」「憎善」「嫉善」「恨善」は、すべて下種三宝と御本尊の正流に対する背反であり、『ニセ本尊』の作為はまさにこの四つの誹謗に当たっておるということを申し上げて、創価学会の『ニセ本尊』についての十カ条に関する、私の破折とする次第であります。
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from: 21世紀さん
2009/03/13 14:05:24
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「Re:御法主上人猊下御講義」
創価学会の偽造本尊義を破す(H9・10・15発行)
発行者:日蓮正宗宗務院
―抜粋―
164頁―170頁
ここでは手当たり次第に御書の十四文を羅列しており、その一々について特に創価学会の付け加えも解説もないのですが、これらの御文に対する彼等の解釈には、その根本に観心偏向、未得謂得、未証謂証の慢者たる池田の流れを汲む錯乱がある故に、仏法の本義・大儀をもすべて自己の所有とする我所見となり、大なる破法が存在することは、推測に難しくありません。
したがって、差し当たり、この諸文についての正式の解釈をごく簡略に述べ、顛横(てんおう)の見解に対する頂門も一針とするものです。まず、
最初の① (「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」)
の文は『御義口伝』の文で、下種本仏宗祖大聖人の法華経の行者の深い御内証を、末法弘通三大秘法の随一たる本門の本尊として示されたのです。
②番目は(「此の本尊全く余所に求むる事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」)
『日女御前御返事』における、末法の正しい大聖人の御本尊による二而不二の衆生の大功徳を示された文で、池田崇拝の邪信・創価学会の者どものことではありません。
③番目は(「所謂妙法蓮華経の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり」)
『当体義抄』の文で、下種本門事行の上の妙法受持の功徳を仰せられています。これも正法正師の正義に基づいて、初めて可能なのです。
④番目は(「此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり」)
『一念三千法門』の文で、佐前早期の御書のため、直ちに本門の構格による妙法受持の法軌を示されず、天台の理の一念三千を一歩進めて本門の仏身に論及される観念成仏(受持成仏に対する)の文です。故に
「是をしるを如来とも聖人とも悟りとも云ふ」(御書107)と仰せなのです。しかし、その元意に寿量文底の妙法受持、事行の一念三千成仏義が秘められているのです。この文をもって、短絡的に「我が身が三身即一の仏身」などと言うのは、野狐禅(やこぜん)の素人法門となるのです。
⑤番目は(「我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり」)
『阿仏房御書』の文で、大聖人の直弟子として南無妙法蓮華経と久遠元初名字の妙法を唱える、宝塔寂光の住処の功徳を示し給うのです。
⑥番目は(「過去久遠五百塵点劫のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」)
『船守抄』で、これも文の表面にのみ引っ掛かる創価学会の者どもの短絡的な迷いに陥り易い文ですが、この「衆生」とは宗祖大聖人の下種本仏の御内証、三身即一身の上の法身、すなわち、宗祖大聖人の己証なのであり、創価学会の如き邪信の衆生のことではありません。
⑦番目の(「無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」)
『御義口伝』寿量品の文は、南無妙法蓮華経の宝号を持(たも)つ本仏大聖人の弟子・檀那の当体蓮華仏たる功徳を示された文です。この「弟子」とは、続いて「檀那」という語があるから、この場合は出家を意味します。下種仏法の万年流伝中、僧としての出家は欠くべからざる存在で、これを否定し、悪し様に罵る創価学会は、弟子の資格も檀那の資格もなく、この文章から全く外れているのです。
⑧番目は(「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ(中略)凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」)
有名な『諸法実相抄』の文で、体本用迹(ゆうしゃく)に約して久遠元初人法一箇の本仏と色相荘厳の釈迦・多宝との本迹の違いを判ぜられたのです。この、
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし云々」(同665ページ)
とは、『総勘文抄』の、
「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(同1419ページ)
と示された、凡夫即極(そくごく)久遠元初自受用身のことであり、一般の凡夫のことではありません。まして十四誹謗のすべてに当たる、池田xx・創価学会のことでないのは当然です。池田xx・創価学会は、この「凡夫」を直ちに自分達のことだと短絡しているのです。
⑨番目に(「法体とは南無妙法蓮華経なり」)
挙げているのは『御義口伝』の冒頭の文です。附文の辺りは法華経品々(ほんぼん)の題目ですが、元意の重(じゅう)では久遠名字の妙法、三大秘法惣在の南無妙法蓮華経なのです。この「法体」を一般凡夫とか創価学会と言うのは、前者は約理のみの見方、後者は謗法・破法の滅徳により該当しないのです。
⑩番目は(「法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり」)
やはり『御義口伝』に「仏所護念」を説かれるなかで、護念の体を南無妙法蓮華経と示されて七種に約釈されるなかの第六・法体に約すの文です。これは久遠本仏の常住三身相即中の法身・応身の内容を示されたものであります。本仏妙悟の法界中の衆生なのであり、そこに具する本有(ほんぬ)の慈悲なのです。謗法の創価学会の者どものことではありません。三世を貫く一切衆生の仏性を仰せなのです。
⑪番目に(「如来とは本法不思議の如来なれば此の法華経の行者を指す可きなり」)
『御義口伝』の文は、まさしく如来の持ち給う一切衆生引導の大施主の意義を御指南であり、特に末法出現の上行菩薩たる大聖人御自身を仰せであります。池田xxのことではありません。
⑫番目の(「法華経の行者はかあkる大難に値うべしと見えたり、大難に値うを以て後生善処の成仏は決定せり」)
文は、『御講聞書』の法華経の行者に関する大難の文で、この総意は特に『開目抄』に明らかです。十四誹謗の創価学会とは、全然、懸け離れた御文です。
⑬番目の(「法華経の行者あらば三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし」)
『開目抄』の御文は、大聖人様がまさしく法華経の行者であることを決定あそばす、重大な条件を示し給う文です。池田xxや創価学会は、この「三類の怨敵」の一分であり、それは勧持品の三類を示す経文にまことに明らかです。まして彼等が法華経の行者の位を勝ち取るなど、天をも望む莫迦さ加減であり、自らの数々の悪心・悪業を反省しない外道なのです。
⑭番目の(「今日蓮等の類の意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮が弟子檀那等なり、されば無作三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」)
文は『御義口伝』寿量品の、如来に関する総別を示し給うのですが、その主旨は前にも論じた如く、本仏日蓮大聖人と、その教えを正しく持ち、真の広布に向かう日蓮正宗の僧俗のことなのです。もちろん、別して究竟即の無作三身とは、一天に二日なく、三世にただお一人の法華経の行者・宗祖大聖人であります。池田xxが身のほども顧みず「大聖人より二人目の法華経の行者」などと言い、また、会員に言わせることは、この御文の正意に背く大謗法なのであります。
以上、ごく簡略に彼等の挙げる文について、その邪解を見越した意味から正義を述べましたが、このように本尊人法の法体、修行、開合、境地冥合等の文義を順序不同に羅列するところ、山に入って山を見ざるが如く、その誇示し誇揚するところの「御書根本」というものは、深く信によって拝さねばならぬ尊い大聖人の御書の文義を、自己中心の観心偏重の邪義をもって能所を混乱する三宝背反の解釈にある、と断ずるものであります。
もちろん、これらの御書の解釈の正義と、本尊、三大秘法の実体・実義は、ただ日蓮正宗のみ存するところである、ということを申し述べておきます。
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from: 21世紀さん
2009/03/13 13:50:37
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「Re:御法主上人猊下御講義」
『日蓮正宗の修行』
次が、
2 行
名 進 趣
とあります。この「行」には「進趣」、すなわち「進んで趣いていく」、つまり目的観を持って進んでいくという意味があるわけです。
(正行・助行)
この「正行」と「助行」については、今日、講義をする後のところにも出てまいります。
次に
唱 題 之 外 無 遊 楽
「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり(乃至)遊楽とは我等が色心依正(しきしんえしょう)ともに一念三千自受用身(じじゅゆうしん)の仏にあらずや。
法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏・後生善処とは是なり。たヾ世間の留難来る共、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此の事はのがれず。たヾ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(四条金吾殿御返事 御書991)
この御文には、とても深い意味があるのです。簡単に読むと「ああ、そうか」というように判る感じもするのですが、この一つひとつの御文字からその意義を深く拝してみると、非常に深い大聖人様の大慈大悲が拝せられるのであります。
この「行」のところについては、第二期と第四期で行いましたので、これもまた、いずれ『大白法』に載ることと思います。
次に
五 種 妙 行
若し復(また)人有って、妙法蓮華経の、乃至一偈を受持、読、誦、解説、書写し、此の経巻に於て、敬い視(み)ること仏の如くにして(乃至)合掌恭敬(くぎょう)せん (法師品第十 法華経319)
法華経においては、基本的に行というものは五種の妙行として示されておるということであります。
次が、
受 持 総 結
我が滅度の後に於て 応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定(けつじょう)して疑い有ること無けん (神力品第二十一 法華経517)
前の「五種妙行」が受持・読・誦・解説・書写として示されておるけれども、末法においては、そのうちの「受持」というところに一切の中心が存する、仏道修行の根本が存するということが、この『神力品』の最後の偈文に示されておる所以であります。
次に
総 体 受 持
此の妙法等の五字を末法白法隠没(おんもつ)の時、上行菩薩御出世有って五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと経文に親(まのあた)り之在り。 夫とは神力品に云はく「於我滅度後(おがめつどご)、応受持斯経(おうじゅじしきょう)、是人於仏道(ぜにんのぶつどう)、決定無有疑(けつじょうむうぎ)」云々。此の文明白なり (御義口伝 御書1795)
この漢文のところは、法華経の『神力品』の御文を大聖人様がそのままお引きになられておるわけです。
次に
題 目 妙 行
「夫れ本門の題目とは、即ち是れ妙行なり。聖人垂教の本意、衆生入理の要蹊(ようけい)、唯此の事在り。(乃至)故に宜しく妙行を励むべき者なり」(法華取要抄文段 日寛上人御書文段545)
この[妙行」に対して、一切の誤った宗教の人々が行っておるところの行を「麁行(そぎょう)」と言います。いわゆる日蓮正宗の三大秘法の行こそが本当の題目であり、妙行であるという所以であります。
次に
行 の 始 終
「行に始終有り。謂わく、信心は是れ唱題の始めなり、唱題は是れ信心の終わりなり。是れ則ち刹那の始終、一念の因果なり」
妙楽大師の云わく「理に依って信を起こす、信を行の本と為す」等云々。
又云わく「一念信解とは即ち是れ本門立行の首(はじめ)」等云々(法華取要抄文段 日寛上人御書文段545)
次に、
信 行 の 譬 喩
「信心は目の如く唱題は足の如し、目足具足して能く寂光に趣くなり。天台の云わく『智目行足をもって清涼池に到る』等云々(法華取要抄文段 日寛上人御書文段545)
これは、信心が目であり、御題目を唱えることが足であるということです。つまり、目だけでは目的地には行けないし、足だけでも方向が判らないから目的地に到ることはできないということで、したがって目と足とが一緒になって初めて清涼池に到ることができるという譬えであります。
次に
即 身 成 仏 境 智 冥 合
「当体義抄に云わく『当体の蓮華を証得して寂光当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり』云々。此の一文に三大秘法了々明々たり
この御文のどこに三大秘法があるのかということを説明すると長くなりますから省略しますが、これも『大白法』をご覧いただければと思います。そこで、次が大事なところなのです。
(乃至)心に本尊を信ずれば本尊即ち我が心に染み、仏果即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具・百界千如・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり」(法華取要抄文段 日寛上人御書文段545)
要するに、即身成仏が御本尊様との境智冥合にあるということを、ここに言われておるわけであります。
右、境智冥合・十界互具・百界千如・一念三千事行の南無妙法蓮華経の功徳
これは、一番上に「境智冥合」とあります。これが即身成仏の要諦であり、功徳の根本、意義の根本であります。
この後のところからは、皆さん方に少しでも判りやすくという意味をもって書いたわけであります。
1.十界十如三世間自在無碍(むげ)による、法界全体を要括する御本尊よりその時処(じしょ)境遇に即して来る無限の功徳
つまり、功徳は無限であるということが、まず第一であります。
2.右無限の功徳中に含まれる凡夫生活中の具体的功徳
①自身内徳の充実・成就
○正善の智慧を得。 ○正善の定を得。 ○正善の行業を得。 ○正善の幸福を得。
○正善の慈悲・忍辱を得。 ○真善美の発得。 ○広布目的観の確立堅持。
②化他外徳の充実・成就
これは外に向かって、他に対していろいろと導くという意味のところからの徳であります。
○慈悲・忍辱・諸法空。
これは法華経の『法師品』に説かれております。法華経を信じ、法華経を説いていくためには、この「慈悲」と「忍辱」と「諸法空」の三つが大事であるということが、厳然たる法則として示されてあります。
○広布目的観の教導実践。
これは、他人に向かって教え導いていく、実践していくということであります。
次に、
○破邪顕正の増進。
3.唱題功徳の総別
(総)本門の題目唱題は法界通達・現当二世の無量の功徳
これには総体の意義があります。これは無量ということですから、他にもたくさんあるわけです。けれどもここでは一往、このようなかたちで分けてみました。
(別)(1)身心の徳
これは、身体と心の徳であります。
○貪瞋癡(順理)即妙。 ○貪瞋癡(非理)消滅。
「貪瞋癡」というのは心の用(はたら)きでありますが、実際に発動するのは身体になるわけです。それで貪瞋癡が「順理」の場合には、即妙として御題目の功徳で浄化されるのです。それから「非理」の場合は、自ずから御題目の功徳によって貪瞋癡が消滅していくということです。
○心身無上の鍛錬 ○身口意三業の調和・発揚。 ○諸悪災難の乗り越え。 ○転重軽受
この「転重軽受」とは、重き罪業の報いを受けることを転じて軽く受けるという意味であります。例えば、交通事故で死ぬようなところが、ごく軽い怪我で済んだというようなものも、この転重軽受の一つになります。
(2)心徳
○勇猛心。 ○慈悲心。 ○慰労心。 ○調和心。 ○自在心。 ○奮発心。
○背暴心。 ○止害心。 ○柔和心。 ○離執着心。 ○自然積徳心。
○無作心。 ○軽安心。 ○反省十四誹謗心。
とうように、いろいろ挙げましたけれども、この他にもたくさんあるわけです。けれども一往、このような意味も一つの徳の表れとして、御題目の生活の中の功徳として現れてくるということであります。
(3)身徳
○四大調和。 ○五臓六腑調和。
これは身体のほうの徳です。まず「四大調和」について言えば、我々の身体は、地・水・火・風の四大で出来ていますから、この四大が不調和になると必ずどこかが病気になるのです。 それから、その現れとして「五臓六腑調和」ということがありまして、これがやはり調和しないと、いろいろな意味において故障が出てきます。そのような意味で、身体の健康を得るという徳も、この唱題の中に存するということです。
次に、
(4)善悪
○止未生悪
これは「未生の悪を止む」と読み、将来起こってくる悪を止めるということです。
○滅已生悪
これは「已生の悪を滅す」と読み、すでに生じておる悪は自然に滅していくということです。
○生未生善
これは「未生の善を生ず」と読みます。未だ起こっていない善であります。
その善が将来、題目の功徳によって生じていくということです。
○増已生善
これは「已生の善を増す」と読み、すでに生じた善が、ますます増えていくという意味です。
(5)正道
○正見事理 ○正動身心 ○正語真実 ○正業成就
○正得諦理 ○正定発得 ○正念真道 ○正命成徳
○六度の徳分の冥現
(6)福運福利の開展
これは生活の上において福を求める、いわゆる幸せを求めるということがいろいろな面でありますが、部分的な幸せだけを求めていくと、かえってそこに不幸なかたちが現れてくることもあるのであります。ですから、根本のところから現れてくる「福運福利」というものが非常に大事であると思うべきです。その福運福利は、御題目を唱えることによって本当の深い境界、正しい境界を開いていくところに存するのであります。
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from: 21世紀さん
2009/03/13 13:47:02
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「Re:御法主上人猊下御講義」
『日蓮正宗の修行』
今回の講義においては「3 日蓮正宗の修行」というところを説明をしてまいります。
けれども、その前にやはり「信」と「行」について、大聖人様の御書、その他法華経等の文を一往、テキストに挙げましたので、皆さん方と共に拝読をしてまいりたいと思います。
この「信」と「行」の項目において一往、要点的に大聖人様の御書等を挙げておりますが、五百篇になんなんとする大聖人様の御書の中には、ありとあらゆる面からの御指南が、まだ多々存するのであります。 したがって、テキストにある御文は、その中から選んで挙げておる次第でありますから、その点を御了承ください。
では「1 信」というところから読んでみますので、テキストをご覧ください。
1 信
五根の一、五力の一
これについての説明は、今回は省略いたします。簡単に言えば、信・進・念・定・慧ということであります。
次に、
以 信 代 慧
とありまして、これは「信を以て慧に代う」と読みます。
五品の初・二・三には、仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり(四信五品抄御書1112)
次に、
一 念 信 解
其れ衆生有って、佛の壽命の、長遠是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量有ること無けん(分別功徳品 法華経450)
それから、
説 信 心 已 摂 尽(しょうじん)
これは「信心を説かば已に摂尽す」と読みます。
正直捨方便の法華経には「信を以て入ることを得」と云ひ、双林最後の涅槃経には「是の菩薩の因は復無量なりと雖も、若し信心を説けば、則ち已に摂尽す」等云々。夫仏道に入る根本は信をもて本とす(法華題目抄 御書353)
それから、
無 解 有 信
たとひさとりなけれども、信心あらん者は鈍根も正見の者なり。たとひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡提の者なり(乃至)迦葉・舎利弗等は無解有信の者なり。仏に授記を蒙りて華光如来・光明如来といはれき。仏説きて云はく「疑ひを生じて信ぜざらん者は、即ち当に悪道に堕すべし」等云々。此等は有解無信の者を皆悪道に堕すべしと説き給ひしなり (法華題目抄 御書353)
有 解 無 信
有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし。皆此の経の意なり、私の言にはあらず(新池御書 御書1461)
以 信 得 入 非 己 智 分
二の巻には「信を以て入ることを得、己が智分に非ず」とて、智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり(新池御書 御書1461)
次が
切 元 品 無 明 利 剣
一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。此の信の字は元品の無明を切る所の利剣なり(御義口伝 御書1737)
この「元品の無明」等についても、説明は前にいたしましたので今回は省略いたします。しかるに、間もなく『大白法』に「信」の部分についての講説が載ると思いますので、そちらをご覧いただければと思います。
不 変・随 縁
信は不変真如の理なり。其の故は信は知一切法皆是仏法(ちいっさいほうかいぜぶっぽう)と体達(たいだつ)して実相の一理と信ずるなり。解は随縁真如なり。自受用智を云ふなり。文句の九に云はく「疑ひ無きを信と曰ひ、明了なるを解と曰ふ」と(御義口伝 御書1738)
この「不変・随縁」という語も仏教用語でありまして、これについても以前に説明をしております。
次に、
信 如 価 解 如 宝
信は価の如く解は宝の如し。三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり。信は智慧の因にして名字即なり。信の外に解無く、解の外に信無し。信の一字を以て妙覚の種子と定めたり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚不求自得(むじょうほうじゅふぐじとく)の大宝珠を得るなり(御義口伝 御書1737)
憶 持 不 忘
此の経をきゝうくる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども「憶持不忘(おくじふもう)の人は希なるなり。 受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり。「則為疾得無上仏道(そくいしつとくむじょうぶつどう)」は疑ひ無し。三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持つとは云ふなり(四条金吾殿御返事 御書775)
信 心 強 弱
信心のよはきものをば、法華経を持つ女人なれどもすつるとみへて候。れいせば大将軍心ゆわ(弱)ければしたがうものもかいなし。ゆみゆわければつるゆるし、風ゆるなればなみちいさきはじねんのだうりなり(四条金吾殿女房御返事 御書757)
け な げ な 信 心
此の曼荼羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は獅子吼(ししく)の如し。いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹如、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり(乃至)但し御信心によるべし。つるぎなんども、すゝまざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼうたるべし(経王殿御返事 御書685)
火 の 信 心 ・ 水 の 信 心
抑 今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもえども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり。此はいかなる時もつねはたいせずとわせ給へば、水のごとく信ぜさせ給へるか。たうとしたうとし(上野殿御返事 御書1206)
以上が「信」のところでありまして、なるべく判りやすい御書や経文等を挙げたわけであります。
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from: 21世紀さん
2009/03/13 13:41:40
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「Re:御法主上人猊下御講義」
『行』について㊦ ー第四期より-
右、境智冥合・十界互具・百界千如・一念三千事行の南無妙法蓮華経の功徳
この「一念三千」ということは、簡単に口では言えないんですね。これは全体ですから、十界の一つひとつが全部具わっていて、その中において顕れてくる功徳というものには、無量無辺のかたちがあるわけです。
しかし、一言にして言えば、あらゆる考えや悟りにおいて、その総括の悟りが一念三千であるということです。すなわち即身成仏であります。 その中の一分一分の功徳として、例えば、餓鬼界において苦しみを受けている人が畜生界に行なったならば、それだけでも助かるのです。畜生界よりも餓鬼界のほうが苦しみが多いわけですから、そこから畜生界に行なったならば、苦しみの一分が助かったということになるわけです。
けれども、畜生にもたいへんな苦しみがあるのです。鳥なんかは四六時中、首を回してあちらこちらを見ているでしょう。あれは心が落ち着かないのです。つまり、いつ敵が来て殺されるか判らないという不安から、あのような姿に自然になっているのです。もちろん畜生の中には、ライオンのように平気なものもいるけれども、あれも畜生の一種に過ぎませんから、それ相応の苦しみが当然あるわけです。これらは、果報がそのようにするわけです。ですから、これらの衆生が人界に生まれることも、また一つの功徳であります。
このように、法界の存在においてありとあらゆる無量無辺の功徳が、妙法を行じ、その功徳を法界に回向することにしたがって無数の発現があります。つまり即身成仏することにおいて、その身のところに自ずと縁にしたがったかたちの中での功徳を得るのです。
そこで、
1.十界十如三世間自在無碍(むげ)による、法界全体を要括する御本尊よりその時処(じしょ)境遇に即して来る無限の功徳
これは、御本尊様が絶対であるというところから来る根本の功徳というものが存するという意味です。
この後のところは、分分にいろいろな功徳が出てくる意味があるということを述べましたが、その一つひとつに執(とら)われてはいけないのです。むしろ、すべてが南無妙法蓮華経から来るところの無作の功徳であるというように考えていただければよいと思います。
そこで、そこから顕れてくる分々の功徳のかたちとして、次に挙げました。
2.右無限の功徳中に含まれる凡夫生活中の具体的功徳
①自身内徳の充実・成就
○正善の智慧を得。 ○正善の定を得。 ○正善の行業を得。 ○正善の幸福を得。
○正善の慈悲・忍辱を得。 ○真善美の発得。 ○広布目的観の確立堅持。
要するに、題目の功徳として広布の目的観を、自分自身が広宣流布をしていくのだという目的を、はっきりと掴むことが大事であります。
皆さん方一人ひとりの、生きていく上での目的はたくさんあるでしょうけれども、やはり「広宣流布をしていくのだ」という目的をしっかり持つことによって、それが大きな功徳になっていくのです。
また、正善の智慧、心の安定、行いや正しい幸福が現れ、慈悲のない人が慈悲の心を持ち、また種々の艱難を忍ぶという徳を持つようになります。真理を観じ、悪を捨て、善を願い、また諸々の美を作り表す心を倍増する徳が現れることを確信します。
②化他外徳の充実・成就
○慈悲・忍辱・諸法空。
これは前の箇所と重複しているようではありますが、この場合の慈悲等は化他のほうからの内容なのです。
このことは、法華経の『法師品』に説かれておりますが、要するに皆さん方が広宣流布をしていこうという気持ちを持って教えを説く時には、この三つのことを肚(はら)に入れておくことが大事なのです。
すなわち、一つは「慈悲」で、これは相手に対して大慈悲の心を持つということです。次は「忍辱」で、これは相手に何と思われようと堪え忍んでいく。また辱めを甘んじて受けて、それに堪えていく心を持つことです。それから最後が「諸法空」ということで、これは諸法空の境界を得ることです。
法華経を説いていく上においては、この三つが非常に大事であるということが説かれておるのです。
皆さん方が、他の人に向かって信心の上からの話をされる時には、やはりこの三つを肚(はら)に入れておくと、しっかりとした話ができる意味があるのです。
他人に話をするなかでも、よく長々と話をする人がおりますね。皆さん方のなかにも、そのような人がいるかもしれません。やはりこのような場合は、自分自身が話したいことの要点をきちんとまとめ、五分なら五分と時間を決めて、それで話をしていくことが大事なのです。
そしてその場合においては、やはり自分自身の話に酔わないということも大切です。私自身も先ほどから一生懸命に話していますから、自分の話に酔っていりかもしれませんが、これはよくないんですね。自分の話に酔わずに、要点をしっかりと掴んで話をしていくことが大事です。
ですから、要するに皆さん方が、大聖人様の仏法を弘めていく上においては、「この人に正しいことを教えてあげよう」というような慈悲の気持ちを持ち、そしてどんなに白眼視されようと、誹謗されようとも、それらを堪え忍び、さらには諸法空という執(とら)われのない境界において要点をきちっと述べて話をすることが大事であるということです。
これは『法師品』に説かれてある、
「大慈悲を室と為し 柔和忍辱を衣とし 諸法空を座と為す」(法華経 332)
という意味であり、これを「衣座室の三軌」と言います。
○広布目的観の教導実践。
これは実際に行なっていくということです。 それから、
○破邪顕正の増進。
これは、他の衆生を導いていく上からの境界が、そこに開かれてくるという御題目の功徳を述べました。
3.唱題功徳の総別
(総)本門の題目唱題は法界通達・現当二世の無量の功徳
本門の題目唱題は法界に通達するわけでありますから、我々の現在と未来の無量の功徳がそこに開かれていくのである、存在するのであるということです。
(別)①身心の徳
○貪瞋癡(順理)即妙。 ○貪瞋癡(非理)消滅。 ○心身無上の鍛錬
○身口意三業の調和・発揚。 ○諸悪災難の乗り越え。 ○転重軽受
②心徳
○勇猛心。 ○慈悲心。 ○慰労心。 ○調和心。 ○自在心。 ○奮発心。
○背暴心。 ○止害心。 ○柔和心。 ○離執着心。 ○自然積徳心。
○無作心。 ○軽安心。 ○反省十四誹謗心。
③身徳
○四大調和。 ○五臓六腑調和。
④善悪
○止未生悪 ○滅已生悪 ○生未生善 ○増已生善
⑤正道
○正見事理 ○正動身心 ○正語真実 ○正業成就
○正得諦理 ○正定発得 ○正念真道 ○正命成徳
○六度の徳分の冥現
⑥福運福利の開展
このように、細々と書きましたけれども、時間がまいりましたので省略いたします。
要するに「貪瞋癡」という問題もたくさんあるのです。この貪瞋癡をということも煩悩即菩提ですから、御題目を唱えるところに、それらがそのまま菩提になって、幸せの要諦になるわけです。
その場合は「順理」の上からの貪瞋癡であります。貪は「貪り」、瞋は「瞋(いか)り」、癡は「愚癡」で、迷いの境界であるけれども、その迷いの境界が御題目を唱えることによってそのまま菩提になるという不思議なかたちが存するわけです。 これはやはり順理の上からの自然なかたちにおいて、貪瞋癡はそのようになると思います。
先ほど私は、勤行の姿勢について所化たちを叱ると言いましたけれども、やはり間違ったことをしている者に対しては、きちんと注意しなければいけないのです。
皆さん方もそうですよ。御題目をしっかりと唱えて、その上で意見をすることが大切です。子供が悪いことをしていれば、御題目を唱えた上で注意をすることが大事なのです。「どうしょうもない子だ。もう勝手にしろ」というのも、実は自分がそういう子供にしてしまったのです。
その責任を親として回避すれば、しまいに子供はいよいよ悪い方向へ行ってしまうんですね。それで最後に気がついた時には、どうしょうもないことになっている場合も多いのです。
ですから、やはり正しい目的のための貪瞋癡も大事なんです。けれども「非理」の貪瞋癡はよくないのです。人は過去の罪業で非理の貪瞋癡、つまり正しい理由のない貪瞋癡が起こってくるのです。例えば「もとは自分が悪いのだけれども、あの人が憎くてしょうがない」とか、「あの人をみるたびに癪にに障る」などというのは、結局これは非理の瞋りであります。
このような非理のありとあらゆる貪瞋癡なども迷いの衆生にはたくさん出てくるわけです。したがって、こういうかたちを正しく処理していくという方途も、御題目を唱えるなかにおいて自然に正しく出てくるのであります。
その他、いろいろな面がたくさんあるけれども、これは時間もありませんので省略することにいたします。
皆さん方には、御題目を唱えていくところに一切の行の根本があり、そこに真の成仏の道があるということを肚(はら)に入れていただいて、これからの信行倍増に資していただきたいと思うのであります。
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2009/03/13 13:39:38
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「Re:御法主上人猊下御講義」
『行』について㊦ ー第四期より-
即身成仏境地智冥合
「当体義抄に云わく『当体の蓮華を証得して寂光当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり』云々。此の一文に三大秘法了々明々たり(乃至)心に本尊を信ずれば本尊即ち我が心に染み、仏果即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具・百界千如・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり」(法華取要抄文段 日寛上人御書文段545)
大聖人様の御書には、五大部とか十大部という、それぞれの深義による御指南もありますが、この他にも教・行・証という法門もあるのです。
初めの「教」とは、教えということ。次の「行」は、行い、仏法を行ずることです。最後の「証」は、悟るということで、このように仏法には教・行・証の三つがあるのです。
そこで、大聖人様の御書の中には『教行証御書』という題のお示しもありますが、御一期の御化導の中には五百篇になんなんとするたくさんの御書があるわけです。
その中で、まず仏法の「教」の内容を示された御書として代表的なものを挙げれば、これは『開目抄』です。この『開目抄』は、長い御書ですが、教えという上からは全体を括られた内容が示されてあるのです。 次に「行」という法門の上から示されたのが『観心本尊抄』なのです。 それから「証」という上から述べられたのが、この『当体義抄』であります。
皆さん方も御書を持っていらっしゃるでしょうから、「そうか『当体義抄』は悟りを説かれた御書だから、ひとつ読んでみよう」と思って、自宅に帰ってから一生懸命読み出したら何も判らなかった、なんていうことがあるかもしれません。けれども、
「読誦百遍、意自ずから通ず」
ということもありますから、難しい御文であっても、繰り返し拝読していけば、その意とするところが多少なりとも判ってくることがあるのです。
そこで、今拝読したところは、その『当体義抄』の御文を日寛上人が引かれて、『法華取要抄文段』において述べられておるわけであります。
この日寛上人が引かれた『当体義抄』の御文の前の部分には、
「日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てゝ、正直に正法正師の正義を信ずる故に」(御書701)
という御文があるのです。そういうことからも、ここに「正直」ということをお示しになっておる大切な意義があります。
それから、法華経の『方便品』に、
「正直捨方便 但説無上道(正直に方便を捨てて 但無上道を説く)」(法華経124)
という文があります。やはり正直は、正しくまっすぐということです。
人間、正直が大事ですね。皆さん方の中で、「私はこれまでずっと不正直なことをしてきたし、今でも不正直な心で生活をしている」という人がもしいましたら、「それは間違っているんだ」と思って改心してください。まぁ、もっとも皆さん方の中には、そのような方はいないでしょうけれども。不正直なことを思って生活をしていったら、これは絶対にだめなんです。 やはり、正直ということを常に心がけていくことが大切です。
もしも、正直を貫いてそれで不幸になったとしても、いいじゃないですか。そこで御題目を唱えていないと不幸になりっぱなしになってしまうけれども、御題目をしっかり唱えている中での不幸は、地面によって倒れた人が地面によって立つように、それによってかえって幸せになっていく意味があるのです。
妙法による正直は、必ず大幸をもたらします。ですから、正直ということが本当に大事なのです。正直ということを常日頃から心がけて行動している人は、他人からも頼られ、尊敬され、また他の人をも幸せにしていく、そのような徳を具えていくのです。したがって、その元はやはり正直ということにあるのです。
ですから、テキストの『御書文段』のほうにはないけれども、今申し上げたように、
「日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てゝ、正直に正法正師の正義を信ずる故に」(御書701)
の御文の後に、
「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり」(御書701)
の御文が続くのです。
そこで、この御文のところに「当体蓮華」と示されておるのは何を意味しているのかと言えば、これは「本門の本尊」のことなのです。
これは、先ほども申し上げましたが、
「至極は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す」(御書 695)
とある、この「因果倶時・不思議の一法」ということ、これが「当体蓮華」なのです。 したがって、それは仏様が久遠元初において悟られた法の内容を意味しているわけですから、これはいわゆる人に即する法の本尊であります。 ですから、当体蓮華ということは、人即法の本尊を意味しているわけであります。
「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕はす」。この「寂光」ということは、場所を意味しているのです。
我々の住んでおる国土は「凡聖同国土(ぼんしょうどうごど)」と言うのです。これは人天などの凡夫から仏菩薩などの聖者までが同居する国土であります。
それから「方便有余土(うよど)」というのがありまして、これは長い修行をして見惑・思惑を断尽し、未だ塵沙の惑、無明の惑を余す二乗や菩薩が住む国土であります。つまり、これは小乗の教えでありますから、見惑・思惑は断じたけれども、未だ塵沙の惑、無明の惑が残っていることを教えないのです。 ですから小乗では、見惑・思惑を断尽した結果、身を灰とし、智を滅して全くの空無の身となると教えますが、それによって阿羅漢となって死ねば空に入れるかと思ったら入れないのです。極微細な生命の残りがあって、それで今度は別の国土に移っていきます。それが方便有余土という国土であります。
この方便有余土とは別に、今度は本当の意味で大乗の悟りを得た、すなわち別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住むのが「実報無障礙土(じっぽうむしょうげど)」という国土です。
さらに、法身・般若・解脱の三徳を具えた、全体を含んだところの仏様の住む国土として「常寂光土」があるのです。
ところが、その常寂光土は凡聖同居土の迷いの国土にそのまま存在しておるということが「寂光」の本来の意味なのです。 したがって「寂光当体の妙理」ということは、我々の住んでおる国土、この環境に即して寂光無上の境界を開くということです。
そして、この「寂光」とは、場所を意味するわけですから、「寂光当体の妙理」とは、すなわち「本門の戒壇」のことを言うのであります。
そして「顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふる」。この「南無妙法蓮華経と唱ふる」ということが、「本門の題目」であります。
したがって、「当体の蓮華」ということが「本門の本尊」に当たるのです。 つまり我々が、本門の本尊として本有無作(ほんぬむさ)の当体蓮華を証得することによって、我が身が即、本門寿量の当体蓮華仏と顕れると仰せられるのです。
そしてまた、我々の所住のところが即「本門の戒壇」であります。そこにおいて「寂光当体の妙理」が、そのまま我々の所住のところに顕れるということです。
それから、その「顕はす事」とは、どのようなことによるのかと言えば、「内証の寿量品」としての本因妙の教主・日蓮大聖人の御金言を信じて、本門寿量の肝心としての南無妙法蓮華経を唱える。これが「本門の題目」であります。故に「此の一文に三大秘法了々明々たり」と仰せであります。
そこで、我々が御本尊様を信ずることによって、どのようなかたちで境智冥合するのかとということについて、さらに詳しく述べられたのが次の御文であります。
「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり」。この「信ずる」という意味は、我々が本当の幸せを得る道、本当の悟りを開く道は、この御本尊以外にないということを信ずることであります。 これが本門の本尊を信ずるということです。信ずるときに、我々の心が御本尊様に染まってくる、つまり凡心が仏心に染まるのであります。
人の心というものは、人それぞれいろいろなものに染まっております。
明治時代に、文豪の尾崎紅葉という人が書いた『金色夜叉』という小説がありました。
その中に、「熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限り」という歌がありましたね。まあ、今の若い人たちは知らないでしょうけれども、これは昔、多くの人が歌った流行歌です。
この『金色夜叉』の貫一は、女房となるべきお宮が、金持ちのところへ嫁いで行ってしまったわけです。それで、貫一は「世の中はすべて金なんだ」と思い、「俺は守銭奴になって絶対に金を貯めてやる」というようなことになってしまったんですね。
これと同じように、世間の人たちの中には「世の中はすべて金だ、金で解決する」と思い込んでいる人が多いようですね、これは、その人の心が金に染まっているということなのです。しかし、この思い込みは大きな誤りです。
それから「見つからなければ、うまくいく」などといい加減な考え方でいるのは、その人の心が不正直な、不真面目な心に染まっているわけです。また、悪いことをして利益を得る人の姿を見て、その人が行なっていることが羨ましいと思えば、それはその悪人の行為、行動に、その人の心が染まっているわけです。
しかるに、御本尊を信ずれば、法界全体に通暁する自在の境地たる御本尊様が我々の心に染まるということを、ここでおっしゃっているのであります。すなわち「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み」るということをであります。
「仏界即九界の本因妙なり」。御本尊様は仏界ですから、この仏界が即九界の迷いに入り給うということです。 すなわち、我々の心は迷いの九界の心ではあるけれども、信心の一念によって、その迷いの心に御本尊の仏界が染まってくださり、仏界即九界となるのです。この場合は、九界が主体となりますから、九界の因の立場、修行の位になるわけで、「本因妙」と言われるのです。
次に「口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み」。身・口・意の三業ということから言えば、意においては信ずるということですが、今度は「我が身」、つまりこの場合は肉体のことを言われるのです。ですから、口で妙法を唱えることによって、我々の身体が即御本尊に染まっていくのであります。
そこに「九界即仏界の本果妙なり」ということが存するのであります。この「九界」というのは、すなわち迷いの我々のことであり、その迷いが仏界に染まって、我々迷いの九界の身が即仏界となる。今度は九界即仏界、すなわち果ということが中心主体になりますから、そこで「本果妙」と示されるのです。
ところが、信と行は先ほども述べたように因果一念ですから、因即果なのです。したがって、妙法蓮華経の妙行は、因と果が離れていません。
世間一般においては、大抵の場合、まず原因があって、それからしばらくしてやっと結果を得るということになるのです。
ところが因果倶時ということは、因と果が直ちに具わっているわけですから、そこに根本の即身成仏の意義、また妙法の大きな功徳の所以が存するのであります。
そこで「境智既に冥合す」というのは、境と智の冥合を言うので、これが成仏の根本であります。この「境」とは、御本尊様のこと、「智」は、信心のことでありまして、我々はそのまま信によって智慧を得るわけでありますから、そこで仏と凡夫の境智が冥合する、深い法界全体を含む因と果の内容において一致するというわけであります。
「色心何ぞ別ならんや」。先ほどは、信によって心が御本尊に染まり、それから今度は、唱えることによって身体が御本尊に染まるということでした。この色心の二法が御本尊に染まるというのが、境智冥合においてはただ一つであり、色心不二にして別個のものではないと言われるのです。
「十界互具・百界千如・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり」。この「千如」というのは、十界にそのまま互いに十界が具わることによって百界となり、その百界にさらに十如が具わることによって千如になるのです。
この「十如」が具わることは、我々の不可思議な命の用(はたら)きを、現在から未来に向かって、現当二世に顕す意義があるのです。それが、
「如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」(法華経 90)
という『方便品』の十如是の法門であります。これは実に不思議であり、この中に我々の命の基本が全部篭(こ)もっておるのです。
例えば、「如是相」一つを取ってみても、世の中においては、その人の相を見て、いといろなことを占っている人がいますね。最近では、いろいろなテレビ番組なんかにも出ているようです。
あのような占いは、ある部分では当たっていますが、ただし彼らは仏法における三世にわたる法門は判っていないのです。現在の一世ぐらいのことが、ある程度は判るのです。相者はある程度のことは判るということが、いろいろな経文にも書いてあるのです。これは何も今始まったことではないんですね。昔から、占い師のような能力を持った人はたくさんいたのです。ですから、それで驚くことは少しもないんですね。
仏法の上からはの本当の相者は、その人の顔を見て、「この人は死んだ後に畜生に行く」「餓鬼に行く」、乃至「天界に行く」「仏界に行く」というような未来のことが全部判るのです。けれども、現在ではそのような相者はいませんね。
このように、相ということについてはいろいろと言いますけれども、あの相の全部を含んでいるのが、皆さん方が毎日読んでいる『方便品』の「如是相」の文なのです。空・仮・中の三諦(さんたい)から見るならば、その中にあらゆるものが含まれておる所以が存するわけであります。
この十界に各々十界が具わって百界となり、その百界に『方便品』に説かれる十如是が具わっておりますから千如是となるのです。その千如是に、さらに国土世間・衆生世間・五陰世間の三世間が具わって三千世間となるという意味が存するのであります。 そして、この三
千ということが、宇宙法界のすべての存在でありさらに仏界の上からの法界の姿をはきりと我々の信心の上において拝することができるのが一念三千であります。
そこが「事行の南無妙法蓮華経」であるということを、ここに述べられております。
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from: 21世紀さん
2009/03/13 13:35:37
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「Re:Re:御法主上人猊下御講義」
『行』について㊤ ー第四期より抜粋-
信行の譬喩
「信心は目の如く唱題は足の如し、目足具足して能く寂光に趣くなり。天台の云わく『智目行足をもって清涼池に到る』等云々(法華取要抄文段 日寛上人御書文段545)
これは「信」と「行」に関する「目」と「足」の譬えであります。
これは皆さん方も、すぐにお判りのように、目で見ることによって進むべき方向が定まり、そして足を使うことによってその目的地へと到達することができるわけです。
そこで、その「目」とは何であるかと言うと、これは「信心」であります。信ということをもって目の能力が存するわけです。 それから「足」は「唱題」である、御題目を唱えることが足であると仰せです。ですから信行が共に具わるというのは「目足具足」、目と足が共に具わるということであります。
天台大師の「智目行足をもって清涼池に到る」という文の「智目」の智とは智慧であり、信心であります。「以信代慧」という語がありますが、要するに末法の我々の智慧などというものは、本当の智慧ではないのです。ですから、成仏に到るところの智慧がないから「信を以って慧に代える」ということを言うのが以信代慧の法門であり、大聖人様の御指南であります。
したがって「智目行足」ということは「信目行足」ということになり、それが
「信心は目の如く唱題は足の如し」という所以であります。
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2009/03/13 13:34:25
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「Re:御法主上人猊下御講義」
『行』について㊤ ー第四期より抜粋-
行の始終
「行に始終有り。謂わく、信心は是れ唱題の始めなり、唱題は是れ信心の終わりなり。是れ則ち刹那の始終、一念の因果なり」
この「行」には、「信」と「行」ということがあって、それが始めと終わりであるということをここに言われておるのです。
これは、信心がなければ唱題がないわけです。また、唱題は信心によって起こります。すなわち信心が唱題の始めであり、唱題が信心の終わりであるということで、始めと終わりということをまず分けるのであります。 しかし、この始終は一念のところにそのまま始めと終わりがある。したがって「刹那の始終」と言われております。
皆さん方も、瞬間とか刹那という語を使うことがあるでしょう。この「刹那」というのは、時の非常に短いことを言うのです。我々がよく指を鳴らすことがありますが、その指を弾く時間のことを一弾指と言います。一説には、この間に六十五の刹那があるとのことで、本当に短い時間を言うわけです。そこに「一念の因果」がそのまま具わるということが存するのであります。
妙楽大師の云わく「理に依って信を起こす、信を行の本と為す」等云々。
この「理」ということは、至極の真理であります。すなわち『当体義抄』に、
「至極は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し」(御書695)
とお示しになっておるように、あらゆるものが具わっておるということが大真理なのです。そして、その真理を端的にはっきりと示されたものが妙法蓮華であるということです。ですから、具体的なかたちで仏の大慈悲によって顕された理の姿としては、妙法蓮華の経であるのです。
したがって「理に依って信を起こす」ということは、すなわち本門の本尊、妙法蓮華によって信を起こすのであります。
それで「信を行の本と為す」、つまり信が行の元になっているということです。
又云わく「一念信解とは即ち是れ本門立行の首(はじめ)」等云々(法華取要抄文段 日寛上人御書文段545)
この「一念信解」ということは、『寿量品』の後の『分別功徳品』において「四信五品」ということが説かれますが、その中の「現在の四信」の一番最初に出てくるのです。
「信解」ということは、必ず信の次に解があるわけで、その順序を正しく知るべきです。「一念解信」などという語はないように、解があってから信ずるというようなことはあり得ないのです。
皆さん方が折伏をする相手のなかには、「まだよく解らないから、解ったら入信しますよ」などと言う人がいるでしょう。そのような人は、いつまでも経っても入信できないんですね。やはり信が先であることをよく説くべきです。すなわち、信によって解を得ることができるということで、それがこの一念信解であります。
「一念信解とは即ち是れ本門立行の首」。つまり、それが本門において行を立てるところのはじめであると言われるのです。
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2009/03/13 13:32:01
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「Re:御法主上人猊下御講義」
『行』について㊤ ー第四期より抜粋-
題目妙行
「夫れ本門の題目とは、即ち是れ妙行なり。聖人垂教の本意、衆生入理の要蹊(ようけい)、唯此の事在り。(乃至)故に宜しく妙行を励むべき者なり」(法華取要抄文段 日寛上人御書文段545)
『法華取要抄』をはじめ『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』等の、大聖人様の大事な御書について、日寛上人が講義をなされておるのが『日寛上人御書文段』であります。
この本が今、宗門から出ていますので、皆さん方も小遣いを少し節約して、お買いになったらいいかとも思うのであります。
その中に「夫れ本門の題目とは、即ち是れ妙行なり」ということが示されております。
この「妙行」の「妙」という字の意味は、やはり対照するものがあるとはっきりするわけです。
すなわち、この「妙」に対する意味としては「麁(そ)」ということがあります。この「麁」という字は、本来は「鹿」という字を三つ書くのです。つまりこれは「粗い」とか「粗末」というような意味で、不完全なものを指すのです。
それに対して「妙」という字は、「この上ない巧みで、言い表しようのないほどすぐれること」ということで、非常にきめ細かで繊細、言うに言えない尊い意味があり、したがってこれは完全なものを指すわけです。
ですから、言うなれば世間一般のあらゆる考え方の行は麁であり、その他いろいろな宗教がたくさんあるけれども、そこにおいて論ずるところの行もすべて麁であって、これら全部間違っておるわけです。
少し前にも、オウム真理教という教団が摘発されましたね。あの麻原彰晃という人も「修行するぞ、修行するぞ」と言って、悟りを開こうとしてやっていたんですね。それで本当に悟りが開けたかと言ったら、とんでもない、あのような結果になってしまったんですね。
このように間違っっているものは、みんな「麁行」なのです。念仏宗や禅宗、真言宗などもみんな麁行になるのです。禅宗で行なっている坐禅なども、最近ではテレビなんかで取り上げられているようだけれども、大聖人様の御指南からすれば、これも麁行になるわけです。
その「麁行」に対する「妙行」というのが南無妙法蓮華経であります。それが「聖人垂教の本意」であるというのです。この「聖人」は、釈尊その他三世の諸仏を言うのですが、教えを垂れるところの根本の心、本意がそこにあるということです。
「衆生入理の要蹊、唯此の事に在り」。これは、つまり衆生が真実の理に入るところの要蹊であると。この「理」ということは、要するに根本の深い真理ということであります。そこへ入るところの「要蹊」、すなわち肝要な道が本門の題目であるという指南です。
そこで「故に宜しく妙行を励むべき者なり」ということをおっしゃっております。
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2009/03/13 13:30:38
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「Re:御法主上人猊下御講義」
『行』について㊤ ー第四期より抜粋-
受持総括
我が滅度の後に於て 応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定(けつじょう)して疑い有ること無けん (神力品第二十一 法華経517)
これは『神力品第二十一』の一番最後の文なのです。 この『神力品』には、特に「四句の要法」が説かれており、さらには末法に出現する地涌の菩薩の用(はたら)き、活躍、活動と、その絶大な威力というものがずっと述べてあって、その一番最後の結論のところが、この文であります。
「我が滅度の後に於て 応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし」。 この「受持」のところに修行がすべて総括されておるのです。 ですから、御本尊を受け持って南無妙法蓮華経と唱える一行こそが大事であるというわけです。
そこにおいて「是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」。 これは末法の即身成仏を示されており、その修行としての受持をもって総括しておるわけであります。
総体受持
此の妙法等の五字を末法白法隠没(おんもつ)の時、上行菩薩御出世有って五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと経文に親(まのあた)り之在り。 夫とは神力品に云はく「於我滅度後(おがめつどご)、応受持斯経(おうじゅじしきょう)、是人於仏道(ぜにんのぶつどう)、決定無有疑(けつじょうむうぎ)」云々。此の文明白なり (御義口伝 御書1795)
この『御義口伝』の御文には、前出の文と同じ『神力品』の文を引かれております。
これは、末法に上行菩薩が出現され、そのお振る舞い、教えの中においては、五種の修行の中には四種は略するということを言われておるのです。 つまり受持を根本として、あとの読・誦・解説・書写は略するということであります。
では、なぜ四種を略するのかと言うと、法華経を読むということは一部八巻二十八品を読むことであり、そういう意味では読・誦・解説・書写がすべてそれに当たることから、他の四種はすべて省略するのです。
ただし、妙法蓮華経の直接の内容を文において示しておる、
「爾時世尊。従三昧(乃至)如是本末究竟等」(法華経 88〜90)
の『方便品』の諸法実相の文、それから、
「爾時仏告。諸菩薩。及一切大衆・・・・」(同 428)
の『寿量品』の、いわゆる久遠元初の妙法蓮華経を直ちに文底において顕しておるところの文は、やはり助行(じょぎょう)として読むのです。 ですから、この『方便品』と『寿量品』以外の他の品に執(とら)われて、それらを読む必要はないということであります。
他宗派の中には、よく形だけに執(とら)われて、要するに法華経二十八品を読むのはたいへんですから、お経本をパラパラめくり動かして、それで読んだことにしているようなところもあるんですね。 これは、あくまでも法華経一部八巻二十八品を読まなければならないというところに執(とら)われて、それで大聖人の正しい末法の修行としての正行(しょうぎょう)・助行(じょぎょう)ということが疎かになっている姿であります。
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from: 21世紀さん
2009/03/13 13:28:16
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「Re:御法主上人猊下御講義」
> 『行』について㊤ ー第四期より抜粋-
五種妙行
若し復(また)人有って、妙法蓮華経の、乃至一偈を受持、読、誦、解説、書写し、此の経巻に於て、敬い視(み)ること仏の如くにして(乃至)合掌恭敬(くぎょう)せん (法師品第十 法華経319)
法華経は、大きく迹門と本門の二つに分けることができますが、その迹門・本門のそれぞれに序分・正宗分・流通分があるのです。 この『法師品』は、迹門のほうの流通分の第一番目に当たります。
「序分」とは、仏様が衆生に教えを説かれる準備のための経典であり、「正宗分」とは、その目的とするところの主旨を示す経典、そして「流通分」とは、,前の正宗分において顕された、目的とする大事な要点を、広く世の中に流れ通わせていく、つまり多くの人々をそれによっって利益していくという経典です。
その流通分の第一番目にあるのが、この『法師品』です。
したがって、その『法師品』において法華経の修行法が述べられておるわけです。 それは何かと言うと、受持・読・誦・解説・書写の五つで、それを五種妙行と言います。 そして、この五つの中でも受持が根本となるのです。
「受持」の「受」は「うける」ということで、何によって受けることができるのかと言えば、これは信の力で受けることができるわけです。 ですから皆さん方は、信力によって御本尊を受持しておるのです。 そして「持」は「たもつ」ということで、これは念力によって持つことができるわけです。 故に天台大師は、
「信力の故に受け念力の故に持つ」と述べられておるのです。
次の「読」は「読む」ということで、これも大事なことなのです。 先ほど言った御題目を唱えることである正行(しょうぎょう)、それから『方便品』と『寿量品』を読誦することである助行(じょぎょう)、これらは何れも「読」に当たります。
次の「誦」は「諳(そら)んじる」、つまり暗誦(あんしょう)するということです。
『方便品』と『自我偈』は、暗誦できる人が大勢いるけれども、『寿量品』の長行は、暗誦できない人が多いようです。 けれども、勤行を毎日欠かさず行なっていると、自然に暗記できるようになります。 つまり、お経本を見ないで読むのが「誦」であります。
その次が「解説」で、これは法華経の義理を解釈し、講説するということです。 この解説には、いろいろな内容があるのです。
妙法蓮華経の真理を解釈し、講説するということは、それを開くところの智慧によるという意味があり、智慧は信によって得ることができますから、まず信が最も大切であることを解説することになります。
妙法の真理とは、境妙(きょうみょう)と言い、十如実相や空・仮(け)・中の円融三諦(さんたい)、十界互具、さらには久遠実成等、重々の法理が存在しますが、これも信が基となって智慧を生じ、その智慧で正理正境(しょうりしょうきょう)を知ることができるのです。
次に「このように修行をしていくことが大事である」と説明することは、行の解説になり、またそれによって得られる我々の境界、信心生活の在り方がどのようなものであるということを述べていくのは、位を解説することになります。
さらに、我々の行なっていくところの筋道がどのようなかたちであるかということが、『法華玄義』に真性軌(しんしょうき)・観照軌(かんしょうき)・資成軌(しじょうき)という三つの軌道において説かれておりますが、そのようなことも解説の内容であります。
それから「感応」ということがあります。 感応の「感」は、我々が実際に仏様から受けた功徳を感ずること、そして「応」は、仏様が我々に応え給うことで、これにも実に深く広い内容と体験があります。
また、妙法の不思議な用(はたら)きを示す神通という法門もあります。 さらに大事なのは、功徳を受けたこと、また利益についての体験です。 このように、解説ということのなかには、いろいろなことがあるわけです。
しかし、要は皆さん方が妙法を信心していることについて、功徳や利益を感じたことを他人にお話するのが最も適切な解説なのです。
ですから難しいことではないんですね。 まあ、難しく考えれば、今述べたように、この解説ということには、法界全体の内容や、また妙法蓮華経の不思議な内容など、たくさんのことがあるけれども、要するに皆さん方が御題目を唱えて感じた功徳そのものを、他の人に向かって話していく、それが尊い解説ということに当たります。 これが本当に大事なことであります。
次が「書写で、これは書き写すことです。 特に、末法においては大聖人様の御書を書き写すことも良いことなのです。 私も大事な御書を時々書き写すことがあるのです。 そうすると御文を覚えてしまうんですね。 例えば、先ほどの「行学の二道をはげみ候べし云々」の御文もそうですが、その他にも様々な御書がありますね。 それを書き写すことにおいて、その内容をさらにはっきりと身に体することができるということもあるわけです。 これには、法華経を書き写すということも当然あるわけです。
したがって「此の経巻に於て、敬い視ること仏の如く云々」の「此の経巻」ということは、依義判文(えぎはんもん)すれば本門の本尊という意味が存するのであります。
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2009/03/13 13:25:40
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「Re:御法主上人猊下御講義」
『行』について㊤ ー第四期より抜粋-
唱題之外無遊楽
これは「唱題のほか遊楽なし」と読みます。
「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり(乃至)遊楽とは我等が色心依正(しきしんえしょう)ともに一念三千自受用身(じじゅゆうしん)の仏にあらずや。
法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏・後生善処とは是なり。たヾ世間の留難来る共、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此の事はのがれず。たヾ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(四条金吾殿御返事 御書991)
なかなか難しい御文が示されていますね。しかし、とにかく最初にあらゆる衆生は南無妙法蓮華経と唱うるよりほかの遊楽はないと言われておるのです。
皆さん方は「遊楽」と言うと、いろいろなことを考えるでしょう。例えば、音楽が好きな人は、楽器を弾いたり、曲を聴いたり、あるいは芝居が好きな人は、それを見たり、その他にも様々な趣味という意味において楽しみが存するわけです。 けれどもその一番元として南無妙法蓮華経と唱えるのが、本当の意味での遊楽であると言われるのです。
この「遊楽」ということは「自我偈」に、
「衆生所遊楽(衆生の遊楽する所なり)」(法華経 441)
とあります。遊び楽しみということは、心を本当にゆったりとさせて、本当の意味での安穏の心を成ずる、安らかな心を成ずるということが遊楽ということなのです。
ですから、他にも部分的な遊楽はたしかにあるけれども、その中にはやはりいろいろな意味での喜・怒・哀・楽が存在しておるのです。 ところが南無妙法蓮華経の御題目を、本当に信心に徹底して唱えるときには、そういうものが一切なくなる意味があるんですね。そして口では言い表せない、心の奥底、生命の一番奥底から来るところの安楽、遊楽があるのであります。
こう話している時、皆さん方も「私もたしかにそう思う」という顔をされていますね。これは本当にそのとおりなのです。ですから、ここに「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふる外の遊楽なきなり」と、まずおっしゃっているわけです。
それはどういことかと言うと、次に「遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千自受用身の仏にあらずや」と仰せであります。 つまり法華経を信ずるところに、この御文に説かれるような意味での、南無妙法蓮華経と唱えるところに法華経の深さの上からの、我々の安楽の境界が生ずるのであります。
我々の生活の中でいろいろなことがありますが、それらはすべて迷いの世界の上からの業苦の内容と知るべきす。 しかし、それが南無妙法蓮華経を根本とした功徳から照らされてくると、それがそのまま全部、遊楽に変わってくるという意義が存するのであります。
それで「我等が色心依正」とある「色心」とは、色は「肉体」であり、心は「こころ」であります。我々の生活は、肉体と心によって存在しておるわけです。
しかし、我々の生命は、ただ単に一つの存在として単独にあるわけではなく、必ずそれを取り巻く環境によって存在しております。 つまり、それが正報(しょうほう)の我々に対しての環境、つまり依報(えほう)ということであります。 したがって「依報」とは、我々が生活するために絶対に必要なあらゆる環境です。 ですから、まず大きく国土世間が我々の依報になるわけです。 さらに詳しく言うならば、我々の住んでおる家、毎日寝たり起きたりして生活している一軒の家が、依報(えほう)の一番小さなかたちであり、また直接的なかたちで存在しておるということであります。
それから「正報(しょうほう)」とは、過去からの業によって正しい報いとして現れている我々自身のことを言うのです。
ですから、この「依正」とは「依報(えほう)」と「正報(しょうほう)」ということで、「正しい報い」と、その生活基盤として「依るところの報い」ということであります。
つまり「色心依正」とは、大きい広がりを持った我々の生命生活全体を示されるのです。その色心依正が南無妙法蓮華経を離れると、何らかの意味で迷いの原因となり、また現実にそうなっておる姿も多々あるわけです。
ところが最上の遊楽、すなわち南無妙法蓮華経と唱えるところに、我々の色心依正が共に一念三千即自受用身(じじゅゆうしん)の仏と成ると大聖人が仰せられるのです。
さて、この「一念三千」とは、要するに我が身を法界の全体と開くという意義があります。 それから「自受用身」とは、自由自在に法界のあらゆるものを受け用いていくところの仏という意味です。
受け用いるとは、身体と心との関係、他の人や物と自己の関係において、障りや滞りがなく、円満自在に自らの生命を最高に発揮することと言えます。 ですから南無妙法蓮華経と唱えるところに、自然に仏の境界になっていくということであり、御題目を唱えて遊楽の境界に入る時には、すでにその仏と成っておるという尊い御指南であります。
そこで「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし」。この「法華経」とは、もちろん一部八巻二十八品の法華経という意味も含まれるけれども、末法においては基本として南無妙法蓮華経の御本尊を受け持ち、その御本尊に向かって唱える御題目のことを言うのであり、それよりほかに遊楽はないということであります。
「現世安穏・後生善処とは是なり」。
この「現世安穏・後生善処」ということは、法華経の『薬草喩品』という品の中に説かれております。 すなわち、
「是諸衆生(ぜしょしゅじょう)。聞是法已(もんぜほうい)。現世安穏(げんぜあんのん)。後生善処(ごしょうぜんしょ)。以道受楽(いどうじゅらく)。亦得聞法(やくとくもんぽう)。既聞法已(きもんぽうい)。離諸障礙(りしょしょうげ)。於諸法中(おしょほうちゅう)。任力所能(にんりきしょのう)。漸得入道(ぜんとくにゅうどう)
(是の諸の衆生、是の法を聞き已(おわ)って現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け、亦(また)法を聞くことを得。既に法を聞き已(おわ)って、諸の障礙(しょうげ)を離れ、諸法の中に於て、力の能(た)うる所に任せて、漸(ようや)く道に入ることを得)」(法華経 217)
という文であります。
要するに「現世安穏」とは、「現世」というのは、今我々が住んでおる世の中のことで、これが「安穏」になるということです。
今の世の中は、実に様々な問題と災難がありますね。例えば、何でもないところで転んで怪我をする人もあるし、それから道を歩いていたら突然狂った人に襲われて大怪我をするという災難があったり、その他様々な安楽ならざる問題があるようであります。
しかし、仮りに災難を受けるような因縁が本人にあったとしても、御題目をしっかり唱えて信心をしていれば、そういう災難から自然に免れていくという法界の深い意味があるのです。
昨年末に発生したスマトラ沖大地震とインド洋大津波の大災害は、皆さん方も記憶に新しいでしょう。あの大災害では、数十万人の人たちが亡くなられているのです。 インドネシアだけでも三十万人に及ぶ人たちが亡くなられており、その他、スリランカやタイなどの沿岸諸国でもたいへんな被害が出ていました。
その中で、不思議なことに本宗の御題目を唱えている御信徒は一人も亡くなっていないのです。 インドネシアにおける本宗の信徒は、数十万人とも言われておるけれども、一人も亡くなっていないんですね。ですから不思議なのです。それから平成十一年に発生した台湾の大地震や、さらには平成七年の阪神・淡路大震災の時も、等しく本宗信徒が災害より護られている。 これは本当に不思議なことであります。 ですから、この遊楽は現世安穏ということですから、やはりしっかりと正しい仏法を信心することが大事なんですね。
それから「後生善処」ということが、また非常に大事です。 現在は善くても、将来悪くなったら困るでしょう。この「後生」という意味は、死んだ後、善処へ至ることを言うのです。死んだ後に、地獄へ堕ちたり、餓鬼へ行ったり、畜生へ行ったりする場合もあれば、それに対して人天の楽しみを受ける場合もあれば、さらには成仏して法界自在の境界を得て、自由自在の上からの用きをなすということもあり得るわけで、その意味で後生の善処ということが大事であるのです。 その「後生」が遊楽になるためには、いわゆる南無妙法蓮華経と唱えることが大切であります。
次に「たヾ世間の留難来るとも、とりあへ給ふべからず」。
この「留難」ということの「留」とは「とどめる」という字です。『寿量品』の、
「是好良薬(ぜこうろうやく)。今留在此(こんるざいし)」(法華経 437)
の「留」は、「是の好(よ)き良薬を、今留めて此に在く」(同)
ということで、これは仏の慈悲の良薬を留めるという非常に善い意味であります。 けれども、この留難の「留」は同じく「とどめる」という字ではありますが、言い換えれば、阻(はば)むということで、つまり行おうとすることを阻んでしまう、止めさせようとするという意味になります。
したがって「留難」ということは、我々が生活上の必要なことを行う場合、様々なかたちで難が起き、つまり障害が現れて、それによって行為を阻まれてしまうということです。つまり阻害とか妨害を受けるということで、このようなことは皆さん方の生活の中で多くの経験があるでしょう。 自分が何か善いことを一生懸命やろうとしても、それを妨害したり意地悪くしたりする人が出て来ることがあります。
そこで、そういう時にはどうしたらいいのか。そのことを、ここで御指南あそばされておるのです。 すなわち「留難来るとも、とりあへ給ふべからず」と。 この「とりあへ給ふべからず」とは、つまり関わり合うなということです。 関わり合うなという意味は、そのようなことに対し、心の中で悩み苦しみに落ち込んで、その苦しみに執(とら)われるなということです。
たしかにあらゆる難がありますから、一々にそういうことに執(とら)われたらきりがないのです。 どうにも癪に障ってしょうがないというようなことであっても、それに執(とら)われると、逆に自分の心に貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)が充満してしまうんですね。 そして、それによってかえって自分が苦しい状態に追い込まれてしまうわけです。
ですから「留難が来ても、あえて苦しみに惑わされず、御題目を唱えていけば絶対に大丈夫だぞ」ということを、ここにおっしゃっておるのです。
「賢人聖人も此の事はのがれず」。 これは、どんなに賢い人でも、または聖人であったとしても、その人なりに留難があるということです。 御書の中でも大聖人様が、お釈迦様にも「九横(くおう)の大難」、つまり九つの様々な難があったということをお書きになっていますね。 ですから、様々な災難ということは誰人も逃れられないと仰せです。
次に「たヾ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ」。
これは家庭の和が大切であることと、夫婦が互いに助け合うことの大事な意味を「女房と酒うちのみて」の語にお示しであり、その基本は題目を唱えることとしての御指南です。 その反対に、お酒ばかりを飲んでいて、南無妙法蓮華経を忘れてしまってはだめなんですね。
世間では、よくお酒ばかり飲んで女房や子供当り散らしているような人もいます。 そして、さらにひどいのになると、女房に暴力を振るって、それによって奥さんが耐え切れなくなって、とうとう離婚したなんていう話を、いくらでも聞くでしょう。 皆さん方の中にも、万一にもそういう旦那さんを持っている人が、あるいはいるかもしれませんが、それも留難の一種です。そのような時も、しっかりと御題目を唱えていけば、問題は徐々に必ず正しく解決していくということであります。
そこで「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」。 これがまた非常に大切な、深さのある御指南であります。
我々は、生活において苦というものも、楽というものも感ずるわけです。 しかし、苦も楽も相対的なものなのです。その全体を含めたのが絶対的な遊楽なのです。 あらゆるものに通じつつ、そのすべてを包含しておるわけです。 相対を超越しているわけですから、それが絶対的な遊楽の意味であります。
南無妙法蓮華経と唱えるところに、あらゆるものがそのまま生きてくる、苦も苦の中において活用されて、幸せの原因になる場合があるわけです。 楽もまた苦の原因となることが多くあります。 ですから苦は苦として正しく受けるべく、楽はそれを貪らず対処することの限りない意義を
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて」 と仰せられるのです。
どんなことがあろうとも「南無妙法蓮華経」と唱えていくことが大事であり、これが本当の「自受法楽」であるというお諭(さと)しです。
この「法楽」とは、法の楽しみということです。 この法にもいろいろあるのですが、やはり本当の法でなければならないわけで、これがいわゆる妙法の大真理を行じて悟るところの法楽であります。
そこで「自受法楽」とは、どういうことかと言えば、これは自らそれを受けるということです。 信心をもって南無妙法蓮華経と唱えるところにおいて、その法楽を自ずと自分の身において受けることができるという仰せです。
要するに、南無妙法蓮華経と唱える「正行(しょうぎょう)」、すなわち唱題のほかに本当の喜びはないのです。 これはやはり大事なことでありますので、ここにこの御文をお出ししたわけであります。
皆さん方には、たとえどんなに苦しいことがあったとしても、南無妙法蓮華経と唱えて真の喜びを得るならば、そこからあらゆるものが、苦も楽もことどとくが浄化されて、必ず正しい解決がついていくのであります。 また南無妙法蓮華経の中に、我々自身の成仏の境界があるということを覚悟していただきたいために、ここに挙げたわけであります。
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from: 21世紀さん
2009/03/13 13:21:15
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「Re:御法主上人猊下御講義」
『行』について㊤ ー第四期より抜粋-
信行学
行学の二道をはげみ候べし。 行学たへなば仏法はあるべからず。 我もいたし人をも教化候へ。
行学は信心よりをこるべく候。 力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし (諸法実相抄 御書668)
この御文は、釈尊の仏法と日蓮大聖人の下種仏法を総括する最も基本の御指南であります。 したがって、この御文をいつでも暗誦できるようにすることも、やはり皆さん方の信心修行の一つの基本のかたちであると思うのであります。
行
この「行」は、「信」によって起こることは当然であります。 その「行」の意味においては、まず、
名進趣(しんしゅ)
とあります。 これは「進趣と名づく」と読みまして、この「進趣」とは「進み趣く」ということであります。 さらに言うならば、これは「因より果に向かう」ということなのです。
因果というのは、ありとあらゆる意味で因となる考え方があり、そこから自分の期するところに向かって行き、そこへ到達することが果になるわけです。
例えば、お腹が空いたから、そこの食堂へ行って何かものを食べてこようと思う、これがまず「因」となるわけです。それから出かけるのが「行」、つまり進み趣くということになるわけです。 そして、そこへ行って目的のことを行う、到達するのが「果」になります。
そのように、あらゆる事柄に因と果があるのです。 しかるに、仏道のほうでも因と果がということが教えの根本をなしております。 しかし、一般的には要するに自分の生活の上の原因から結果に至る主観的な目的として「行」が考えられます。
また、これを一切の有為(うい)法という存在から考えてみると、そこに遷流(せんる)という意味があります。 あらゆるものは、結局、いろいろなかたちの原因と結果によって、また縁にしたがって造作されており、それがいわゆる世の中のあらゆる存在なのです。
仏法においては「有為法」と「無為法」ということが説かれております。
「有為法」とは、因縁によって造作されたすべてのものを言うわけで、すなわちあらゆるものが因縁による存在です。 ですから道端に生えている草花から何から何まで、あらゆる存在は一切、有為法であります。 そして、その有為法は全部、時と共に変わっていくものですから、その意味は、造作、遷流と名付けるのであります。
それから「無為法」とは、因縁によって造作されることのない、生(しょう)・住(じゅう)・異(い)・滅(めつ)の四相を離れた常住不変のものを言うわけです。 つまり、これはあらゆるものを生ずるけれども、それ自体は全く生じたり、変わることのない、一切の元の存在と言いますか、真実の存在という意味であります。 そういう意味について無為法ということが言われておるわけです。
有為法は、生・住・異・滅ですから必ず遷(うつ)るのです。 この遷るということは、変わるという意味でもありますから、したがって遷流ということは変化という意味になります。 つまり客観的な意味から事々物々が遷流し変化することが「行」の意味になります。
しかし、ここに「名進趣」と書いてあるのは、我々の実際の生活の中においては、主観的な因より果への道、すなわち進趣という意味において「行」というものが存するのであります。
そして、その下に、
(正行・助行)
とあります。 この「正行」は、中心となるところの行であり、「助行」は、それを助けるところの行であります。
すなわち「正行」とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが、我が宗門におけるところの正しい行であります。 これは法義の肝要から言いますと、
「文底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、直達正観(じきたつしょうかん)・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(御書1684)
ということが正行の意味であります。 しかし、要するにこれは御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える皆様方の姿が、そのまま正行を行じていることになるのです。
これについて、やはり大事なことは、テキストにはないけれども、身・口・意の三業ということがあります。 これは常識的に考えてみれば、我々の生活が全部、身・口・意の三業であり、そこから離れた生活は、どこにも存在しないのです。
皆さん方の毎日の生活は、まず身体が存在して、それによっていろいろなことを行う意味があります。 それから口でいろいろな意志を表現し、また口によって様々な行いがあるわけです。 さらに、意は心でありますが、心においてあらゆるものを感じ、あるいは念じて、それについて行為をすることになります。 ですから、行ということの目的観、進趣(しんしゅ=すすみ趣く=因より果に向かう)ということを先ほど言いましたが、この実際の内容は、身・口・意の三業になるわけです。
そこで仏法の修行についても、唱題をして南無妙法蓮華経と唱えるときに、身・口・意の三業が揃っていることが一番基本であり、大事なことであります。
ところが最初のうちは、なかなか身・口・意の三業が揃わない人が多いんですね。
まず「身」について言えば、やはり勤行・唱題の時は、きちっと姿勢を正すことが大切です。 合掌した手は、だいたい四十五度で、胸のところできちんと合わせるのがいいのです。 よく口元まで手が上がっている人がおりますが、これは少し上げ過ぎという意味があるんです。それから、さらに悪いのが、手がだらっと下がっている人です。これは所化小僧の中にも時々いますから、その時は私も厳しく注意します。姿勢が悪いということは、心にも影響してくるわけですから、やはり姿勢をきちっとして行うことが大事なのです。
そして、これは健康にもいいのです。 この唱題くらい健康にいいものはないと言ったら、みんな信じないかもしれないが、私はそう信じています。 病は心と肉体の不調和から表れます。唱題は最も勝れた身心調和の方術と言えるからです。
また、姿勢をきちっとして唱題していると立派ですし、自行化他の行業もはっきり進んでいくことになるのです。つまり端から見ている人が「自分もあのようにしなければいけない」と思って、自らの姿勢を正すというように、人を導いていく姿が自然に出てくることにもなるのです。それが、だらしのない姿勢でいると、他の人もそれを見て「自分も唱題をしっかりしよう」なんていう気も起こらなくなってしまうのです。 ですから、やはり身体というものをきちっとすることが大事なんですね。
それから「口」について言えば、経文や題目の発言にしたがって、はっきり口を動かすべきです。なかには他の者がみんな口をしっかり動かして御題目を唱えている時に、ぜんぜん口を動かさない人が時々います。 皆さん方は、そんなことはありませんね。今朝も丑寅勤行へ参列していたけれども、みんな本当に立派にやっておられました。
それが本当の御信者であり、立派なものですよ。 ―中略―
とかく若いうちは、いろいろな雑念が起こるでしょう。そうすると、その雑念のために、つい口が動かなくなる。 それは修行においてよくないわけで、読経・唱題に当たって口をきちんと動かすこと、これはやはり大事なことであります。
それから次に「意」とは、心、すなわち信心であります。 これは前にも言いましたけれども信ということで、御本尊様を信じる心、大聖人様を信じ奉るという気持ちをもって勤行・唱題をする。 これはやはり「行」の基本になります。 それで、まずここに身・口・意の三業ということを申し上げておきます。
次に「助行」について申し上げますと、これも大切ですが、やはり正行としての南無妙法蓮華経が根本なのです。 なかには勤行の時に読む『方便品』や『寿量品』の経文のほうが、何か難しそうなので題目より有り難いのではないかと思っている人もいるようです。しかし、本当は御題目が一番有り難いのです。
ですから、「正行」は御題目であり、成仏の直道としての直因は南無妙法蓮華経なのです。 そして、その南無妙法蓮華経の教えの意義や功徳をさらに助けつつ、我々の修行を正しく伸ばしていくという意味での補助の行を「助行」と言うのです。 これが本宗においては『方便品』及び『寿量品』を読誦することであります。
この「正行」と「助行」の内容意義については、第五期と第六期の時に少しお話したいと思っております。
本宗における「行」のかたちは、末法の下種本仏としての大聖人様が、法華経の内容を末法の衆生に合うように正しく決められた意味がありますが、それは大聖人様がご自分の考えのみで勝手にお示しになったのではなく、法華経にきちっとその元が存在しておるのであります。
釈尊は、一部八巻二十八品の法華経を説かれたけれども、ただ釈尊の法華経は一往、在世の衆生を中心として述べられております。 それをさらに迹門・本門の違いから末法の時の在り方として示されてくる上において、法華経の本意を取捨選択の上にきちっと示されてくるのが、大聖人様の御判釈(はんじゃく)、御指南でありまして、そこに末法の妙行が存するのであります。
それではテキストを拝読してみます。
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from: 21世紀さん
2009/03/13 09:03:57
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「Re:御法主上人猊下御講義」
不変・随縁
この「不変」「随縁」ということは、大乗仏教の中心肝要のところでありまして、馬鳴(めみょう)菩薩という人が『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』の中などで説いておるのです。
この『大乗起信論』の文意は、日寛上人も『当流行事抄』の「唱題篇」のところで、信ということを示される中で引用されております。 すなわち、
「起信論に云わく『一には根本を信じ、二には仏宝を信じ、三には法宝を信じ、四には僧宝を信ず』
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from: 21世紀さん
2009/03/15 00:08:30
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「Re:御法主上人猊下御講義」
現代の一凶創価学会
次に、
三、現証
大聖人様は『妙法比丘尼御返事』の中で、
「謗法と申す罪をば、我もしらず人も失とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ恩ひて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」(御書一二五八頁)
と仰せであります。これは「仏法を信心しておるからいいんだ」ということで謗法を犯していると、無間地獄に堕ちることがあるという意味です。
この御文も、今の創価学会にぴったりと当てはまりますね。すなわち、多くの学会員が「但仏法をならへば貴し」と思っていて、それで「此の人も又此の人にしたがふ」というように、皆が池田xxや秋谷栄之助等に従っておるのです。しかるに、これら謗法を犯している池田xxをはじめとする多くの創価学会員は、大聖人様が「弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」と仰せのように、無間地獄に堕ちることがあるということであります。
今、世間においては様々な災難・災害がテレビや新聞などでも報道されておりますが、そのような中で宗門の人たちは、不思議なことに、ほとんどがその難から守られているのです。
平成七年一月十七日未明の阪神・淡路大震災においても、法華議員の方は、ほとんど亡くなっていないんですね。しかるに、あの大震災が起こった前日、前々日には、創価学会があの地域において『ニセ本尊』を配布しておったのであります。そして、その直後にあの大地震が起こり、言うに言えないような悲惨な結果となったのであります。
それから、少し前の新潟県中越地震においても、日蓮正宗の檀信徒は、家がだめになった方は多少いらしたようですが、身体に被害を受けた方は一人もいなかったのです。
さらには、台湾においても大地震がありましたね。あれもかなりひどい被害が出たそうです。あの辺りには何千人という日蓮正宗の信徒がいるのですが、一人も被害がなかったのです。
それから、さらに被害がひどかったのが、先般のスマトラ沖大地震・インド洋大津波です。あの災害では、インドネシアだけでも十数万もの人々が亡くなっているんですね。その他にも、タイやスリランカなどの国々においてもかなりの人が亡くなっているのです。
その中で、特にインドネシアにおいては、日蓮正宗の信徒は数十万人もいるのです。しかも、そのインドネシアでは十数万もの人々が亡くなっているにもかかわらず、本宗の信徒は一人も亡くなったという連絡がないんですね。これは私も二回確認をしたのですが、やはり亡くなった方はいないそうです。
大聖人様は『新尼御前御返事』に、
「此の五字の大大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至後生の大火炎を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ」(御書 七六四頁)
と仰せのように、今生において守られ、さらに亡くなってからも地獄に堕ちるのを免(まぬが)れる、つまり現当二世にわたって災難を免れるということを、はっきりとお示しであります。そして、それがそのまま今日の日蓮正宗の信仰の中において、大功徳の現証としてはっきりと現れておるのであります。
したがって、皆さん方には、この姿をはっきりと知っていただいた上で、創価学会の邪義を破折し、一人でも多くの人たちを救ってあげることが大事であると思うのであります。
次に、
○十四誹謗と池田創価学会
驕慢・懈怠・計我・浅識・著欲・不解・不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽善・憎善・嫉善・恨善
まず最初の「驕慢」とは、「自らおごり高ぶる」ということで、慢心の意であります。この驕慢ということについて言えば、これは先ほどから話しておれば判る通り、池田xxほど驕慢な人間はいないのです。彼の言動は、他の本にたくさん出ているけれども、その言動の内容が実に驕慢至極なのです。それもそうでしょう、自分は大聖人と一緒で、日興上人や御歴代上人などは必要ないというような考えの者ですからね。ですから、いくら大聖人の仏法を信仰しているからと言ったって、根本のところが驕慢で、法華経の心に背いて信仰しているわけですから、それでは絶対に功徳はないのです。
次の「懈怠」とは、「なまけ、おこたる」という意味です。これについて言えば、正しいことについて懈怠しているのが今の創価学会です。方向の間違った名聞名利の執われや嘘の宣伝、悪口誹謗、捏造等の悪いことばかりは行っているけれども、正しい信行の姿には懈怠しておりますから、これもやはり十四誹謗の懈怠に、はっきりと当たっておるのです。
三つ目の「計我」とは、自分自身の執着による我見をもって仏法を計るということです。これもまた創価学会にぴったりであります。
四つ目の「浅識」とは、「浅く識る」ということです。つまり、仏法ほど深い内容はないのですが、それをいとも簡単に「私は判った」と思うことです。これがまた今の創価学会の姿において、実にそっくりであります。
五つ目の「著欲」とは、「欲に著く」ということで、つまり欲に絡(から)んでありとあらゆることを行うことです。池田xxなどは、宗門を支配するどころではなく、もう日本を、世界を支配しようという考えなんですね。これは池田が明言していましたからね。それも邪悪な考えでの支配欲、権勢欲などのありとあらゆる欲望が、この創価学会に存するのであります。
その他にも「不解・不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽善・憎善・嫉善・恨善」とありますが、時間がありませんので一つ一つの説明は省略いたしますが、これらもすべて今の創価学会に当てはまるのです。つまり一つ一つ解明していくと、この十四誹謗の全部が創価学会に当たっているということであります。
ですから、いかに創価学会が『松野殿御返事』の御文のごとく、法華経の心に背いておるかということであり、したがって彼らには正しい仏法の功徳はないということが明らかなのであります。
次に、
○大聖人の教えを掲げているようで、似て非なるもの創価学会。
創価学会では、一往は大聖人の教えを掲げているように言うのです。すなわち「大聖人直結」とか「御書根本」などと、素人騙しの言を吐くけれども、その実際は大聖人の正しい教えとは内容が違っておるのです。つまり似て非なるものが創価学会であるということです。
○暴力・罵声・ウソ・スリカ工・逸脱・デッチ上げ・カメレオン的変化・
この「カメレオン的変化」ということについて言えば、彼らは自分たちに都合のいいように、ぐるぐると言うことが変わるのです。今までも、どれほどいろいろなことが変わってきたことか。皆さん方も学会員と話していると判るでしょう。問い詰めていくと、詰まったところですぐに別の話にもっていくんですね。あれも「カメレオン的変化」ですよ。とにかく、都合が悪いとどんどん変わるんですね。ですから、そういうときは「元の話に戻しましょう」と、きちんと言えばいいと思います。
それから、
狡猾・独善・排他・謀略・怨念・貪瞋癡三毒充満の集団。
ここまで言うと、たしかに悪口のようにも聞こえますが、真実でないことをあえて作って言うことは悪口になりますが、彼らは衆生を欺瞞し、社会に悪い考え方を敷衍(ふえん)させていますから、やはりその実際の姿から、このように挙げたわけであります。
要するに、日本制覇・世界制覇の汚い野望目的のためには何をやってもよいという盲信・盲解。
創価学会では、目的を達成するためには手段を選ばず、たとえ嘘であっても百遍言えば本当になると言うごとく、勝つことがすべてだと言うのです。
けれども、そんな莫迦なことを言ってはいけませんよ。勝つとか負けるなどということ以上に、さらにその一切を含めた高い次元のところに大聖人様の仏法はあるのです。
「夫仏法と申すは勝負をさきとし云云」(御書 一一七五頁)
という御書の御文もありますが、その「勝負」という意味は、ただ何でも勝てばいいということではないのです。これは、正しい仏法は自然に法理法則においてあらゆる邪義を打ち破っていく姿があるということをおっしゃっておるわけです。ですから「何でも勝てばいい」とか、「どんなことをしても勝て」などということに執着した考え方は、大聖人様が仰せられる「勝負」の意ではないのです。したがって、何をやってもよいという考え方に大きな誤りがあるということであります。
○平成二年には、日蓮正宗支配を画策し、
ご承知の方も多いと思いますが、これがちょうど大石寺開創七百年の年なんです。この年は大石寺において大きな意義のある御報恩ができましたが、またその時に池田xx、創価学会が宗門に対してはっきりと反旗を翻してきたわけです。その結果、同年十二月に池田xx他十四名の総講頭・大講頭の資格が喪失したわけであります。とにかく日蓮正宗の支配を画策したのであります。
これに失敗したので独立を推進して正宗を徹底攻撃に転じた。すなわち、あくなき宗門攻撃と濫訴(らんそ)。
この「濫訴」というのは、池田xxの汚い根性での命令一下、あらゆることで日蓮正宗を困らせようということで、ありとあらゆる訴訟を起こしてきたわけです。それが例の墓理法(墓地、埋葬等に関する法律)に反しているなどと言ってきた問題や、さらに全国のあらゆるところで同時に起こしてきた正本堂解体の問題などですが、これらの訴訟については宗門がほとんど勝っています。まあ、なかにはこちらの多少の不備において負けたものもありましたが、そのような例は本当に二割にも満たないくらいなのです。これらの訴訟は、ほとんど彼らが提起してきたものであって、それでいて向こうが負けているわけです。
ですから、この濫訴というのは実にめちゃくちゃな、柄のないところに柄をすげるような訴えを起こすわけです。これが悪義非道の創価学会の姿であります。
最後は、
○学会が最も恐れるもの、それは真実を語られ、それを気づかれること。
このように創価学会は、陰では本当に悪義非道な行いをしておきながら、世間の人々に対しては、それらをうまく覆(おお)い隠して、いかにも日本や世界の人々が幸せになるために活動している立派な団体であるかのように印象づけようと一生懸命になっておるのであります。
ですから、むしろ創価学会は、彼らの本当の悪い体質、真実を語られること、またそれに気づかれることをたいへん恐れているのであります。
したがって、
我等はあらゆる面で真実を語り示すべし。
ですから我々は、創価学会員をあらゆる面から正しく導いていく上において、創価学会の真実の姿を、すなわち誤りの姿を、あらゆる人々に知らしめていくことが大切であると思います。
したがって、折伏教化ということにおいては、縁のある創価学会員以外の人たちを折伏し、教化していくことも当然、大事ではありますが、縁のある創価学会員に対しても「あなたは根本的に池田xxの邪義に騙されていますよ」「あらゆる道理・文証・現証の上からいっても創価学会は誤りですよ」と言って破折してあげることが大切なのです。とにかく、間違ったことを正しいようにねじ曲げて言っておるのですから、それに騙されてはいけないということを、相手が判っても判らなくても言ってあげることが大事であると思うのです。
そういう意味において皆さん方には、僧俗一致の上に、あくまで正義完遂の志をもって筋道を糾(ただ)し、邪義・邪法を破折し、創価学会の多くの人々を救っていこうという気持ちを持ってご精進されることを心からお祈りいたしまして、私の話を終わる次第であります。
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