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from: 21世紀さん

2009年02月27日 11時42分48秒

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御法主上人猊下御講義 立正安国論

於夏季講習会第1・2期<立正安国論講義の開講に当たって>皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗

於夏季講習会第1・2期
<立正安国論講義の開講に当たって>
皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗門僧俗一致しての正法護持興隆・行学増進に励む次第であります。そういうことから、本年度よりまた、この夏期講習会を始めることになり、今回は第2期に当たります。昨日から、それぞれ担当講師によりまして、折伏その他のいろいろな重要な行学に関する話があったことと思うのであります。

本年度は『立正安国論』正義顕揚750年を6年後に控えた、その最初の年といたしまして、『立正安国論』を拝読して、皆様と共に大聖人様の深い御仏智を拝したいと思うのであります。それで、講義の内容を考えましたが、『安国論』の始めから終いまでの御指南の量は、たとえば『開目抄』とか『報恩抄』『撰時抄』というような御書はとても長い御書でありますが、それに対してもっと短い御書も御消息等においてはあるわけで、この『安国論』は、ちょうどその中間くらいの長さになります。

そこで、全10期にわたっての講義の内容をどのようにしたらいいかということを考えた挙げ句が、『安国論』全体を5つに分けさせていただき、第1期と第2期を最初の部分、次のところを第3期と第4期というような形で行うことにいたしました。したがって本日は、先般の第1期のときに拝読いたしました『安国論』の最初の部分を、もう1回拝読する次第であります。


<安国論建白の背景と意義>

最初に、この『安国論』は、どのような縁由によって示されたかと申しますと、その当時、数年にわたって大風・大雨・洪水・飢饉・疫病・大地震等の災害がずっと重なったのであります。これは日本国中が正に背き、邪を行っておるところの謗法に因るということを大聖人様が御覧になりまして、しかも王臣共にこれを覚らず、したがって仏の弟子としてその謗法を戒め、不義・邪悪を諌めるということが、この『立正安国論』を作り、最明寺入道時頼に献じられたその意義であります。

しかし、これは一往、文に付しての形の上からの縁由でありますが、再往の深い元意におきましては、久遠元初自受用報身という根本の仏様が末法において再誕をせられ、そして法華本門の下種の大法を、その大行者たる日蓮大聖人によって末法万年の正法広宣流布のため、一切の民衆、一国乃至全世界への折伏諌暁の書であると拝して、しかるべきと思うのであります。

その時は、人皇(にんのう)90代・亀山天皇の御宇(ぎょう)でありました。いわゆる文応元(1260)年7月16日に奏呈をされました。そのときの将軍は、鎌倉9代の中の第6代・宗尊(むねたか)親王であり、執権は北条長時という人でありましたが、政治の実権はその前に執権を務めた最明寺入道時頼の手にあったのであります。時頼は4年前の康元元(1256)年に落髪をして入道となりましたが、なお政務に携わっており、したがってその政治の権力を持つ実力者として存在しておりましたから、宿屋入道光則(みつのり)に託して、この『立正安国論』を時頼に献ぜられた次第であります。

その主意は、第一に未来の大災難、これは経文等に明らかに示されるところの自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難と他国侵逼(たこくしんぴつ)の難、この2つは、それ以外のたくさんの災難が現れておるこの時点においても、まだ現れていなかったのであり、かかる大災難の起こるべき所以を、予言書として示されたのであります。第二に、その災難の原因としての謗法の誤りを指摘して、これを強く諌められておる。すなわち仏法上の謗法に対する諌めであります。それから第三には、衆生の現当二世にわたる救済のために、その謗法の罪を糾されるという意義があります。

しかるに、文永9(1272)年の2月にこの予言の一つである自界叛逆の難が起こりました。さらに文永11(1274)年10月と弘安4(1281)年5月の2回にわたって蒙古の国が攻め寄せてきて、他国侵逼の災難の大予言が、まさに寸分も違わず的中したわけであります。これまさに、このことを通じてさらに下種の御本仏が未来末法万年にわたるところの日本乃至世界における真の正法護持、立正安国により真の平和に至る道を示された大予言であり、その大指針であります。


<安国論の題号について>

次に、「立正安国」の題号ということについて申し上げます。

「立正安国」というのは「正を立てて国を安んずる」ということです。この依拠は経文にたくさんありますけれども、法華経の『方便品』に、「正直捨方便・但説無上道(正直に方便を捨てて、但無上道を説く)」(法華経124ページ)という文があります。すなわち、従来の爾前経、大乗・小乗等の四十余年の経々はすべて方便教であるということを、釈尊自らがはっきりと決定した上で「正直に方便を捨てて但無上道を説く」ということを説かれたのであります。この正直に方便を捨てるということは、方便にいつまでもとらわれて真実を見ないところが邪道であり、その邪を破すという意義であります。また無上道を説くのが正法を立てること、顕正であります。いわゆる「破邪顕正」が、この「立正」であります。

次に、「正」の内容は非常に深く、また広いのであり、すなわち五重相対が考えられます。これは第一に内外相対、次が大小相対、第三番目が権実相対、第四番目が本迹相対、第五番目が種脱相対で、この5つの相対の上からはっきりと浅深勝劣をつける。そこに本当の「正」の意義と衆生を開導する徳が現れるのであります。

 ・内外相対

第一の「内外相対」ということは、内道すなわち仏教は法界の一切と過去・現在・未来の三世にわたるところの正しい原因・結果、さらに因縁・果報ということをはっきり正しく述べておるのであります。しかるに、外道たる他の哲学・宗教等においては、このところがまことにはっきりしておりません。イスラム教やキリスト教など、その他世界中にはたくさんの宗教がありますけれども、それぞれの神様が出来た原因は、全く説いておりません。神は元々存在するというのです。しかし、これは一切万物の、原因があって結果があるという理法に反するのです。仏教においては、仏も仏としての原に成る原因がある。また、それによって一切衆生がその筋道の上から本当の仏の修行と悟りに基づいて、真の幸せを得ることができるという次第であります。

また、因縁因果は、そのまま善因善果、悪因悪果という大原則に通じています。この善因は必ず善果を生じ、悪因は悪果を生じるという因果の理法が徹底していないために、今、世の中において「目前の結果さえ良ければ、悪いことをしても平気である」というような誤った思想が現れておるのであります。その悪見が、今日の世界の様々な不幸と大動乱を起こしておるということが言えるのです。

したがって、内外相対した場合に、「内道」の仏教と、仏教以外の教えの「外道」との相対において、仏教が因縁因果の道理を説く故に本当に正しい教えであるということ。その筋目から見ないと、この『立正安国論』のこれから拝読していくところの本当の意義が判りません。やはり仏の教えをきちんと正しい意義と筋道において見ることにより、はじめて「正」が立つわけであります。それが第一の内外相対であります。

 ・大小相対

次は「大小相対」です。この「小」というのは小乗のことで、同じ仏教の中でも小乗と大乗の区別があり、仏教は外道に対すれば正しいけれども、大乗と小乗を内容の上から相対すれば、小乗は非常に視野が狭いのであります。教えの内容が、単に六道の迷いから抜け出して、より安穏な灰身滅智(けしんめっち)のところに行こうということにすぎません。ですから法界全体の存在とその因果の姿、またその大きな法界観、世界観によるところの修行の道が欠けているのであります。したがって、小乗は自分だけが迷いを去って悟りを開けばいいということだけで、他の苦悩の相を見ることができないのです。

しかし実際には、世の中は決して自分一人だけの存在ではありません。必ず他との関連において善悪、正邪、幸不幸等、あらゆることが存在するのです。したがって、自分が善い行いによって幸せになっていくと共に、他をも導いていくということがなければならない。故に、小乗は「空」の真理を示すのみであるのに対し、大乗は「空」と「仮」と「中」の真理観が説かれます。それらをはっきりと示して、全体観の上から教えを説くのが大乗の教えであります。

したがって、小乗と大乗を相対するならば、小乗に対して大乗こそ真実の正法であるにもかかわらず、小乗が大乗に背くならば邪の意義が生じます。故に「正を立てる」とは、小乗を廃して大乗を立てることが大小相対の意味であります。

 ・権実相対

次が「権実相対」。「権(ごん)」とは「かりのもの」方便の意で、「実」とは真実の意です。仏教五千七千の経巻を大きく分ければ、方便と真実に分かれます。この方便教として華厳・阿含(あごん)・方等・般若等の四十余年の諸経が説かれておりますが、それに対して「正直に方便を捨てて、但無上の道を説く」と、釈尊が法華経においてはっきりと宣言され、法華経こそ一切の衆生を真に導き幸せにするところの教えであると示されました。

そうすると、この権教によって宗旨を立てておるところの、いわゆる念仏・禅・真言・律等、様々な仏教における権大乗の宗旨は、すべて正法を無視し、正法の意義と価値に背いておるところに邪の意味があるのです。その邪を打ち破って、真実を立てるところに権実相対における「立正」の意義があります。特にこの『立正安国論』においては、大聖人様の御一期(いちご)のうち最初の御化導の形として、まず第一に法然(ほうねん)の念仏宗の邪義を中心として破折されており、これがこの権実相対の内容からの破折に当たるのであります。

 ・本迹相対

その次が「本迹相対」です。これは法門の上から言うならば、本門の大法をもって根本とし「正」といたしますから、爾前迹門にとらわれた考え方は邪法となります。その法華迹門を中心とする宗旨として天台宗があります。これは一往、法華経の教えをもって正しく仏法を立てたものであるけれども、まだ権実相対までがその教義の主意になっておりまして、きちんとした形で本門と迹門とのけじめがついていないのであります。これは迹門付嘱の天台や伝教の法義としては当然のことなのです。

しかし、すでに時の過ぎた、像法の時代の衆生を導く法華迹門にいつまでもとらわれることは邪法となり、末法においては法華本門の教えをもって爾前迹門との区別を立てていくところに「立正」の「正」という意義が存するのであります。

 ・種脱相対

[本尊] 最後は「種脱相対」です。これは下種の法華本門の教えこそが本門の宗旨の実体であり、大聖人の御出現の目的でありますから、その種脱に迷乱するところの日蓮他門家はことごとく、「立正」と口では言っても真実の「立正」ではありません。それは何かと言えば、下種の本尊とその三大秘法こそが真の「立正」の「正」という意味であり、末法万年の下種仏法の弘通、化導の上にはっきりと示された大法であります。そこに種脱相対しての「立正」とは、三大秘法の妙法大漫茶羅、本門戒壇の本尊であります。その意義はすでに大聖人の『立正安国論』の中に深く篭(こ)められておるわけですけれども、ただ化導の具体的な形としては、文永、建治、弘安等、御一生の御化導の上から、それが次第に現れてくるのであります。

さて、「立正」とは「三大秘法」であるということよりして、この「正」とは何かと言うと、第一には「妙」ということなのです。「妙」が「正」、「正」がまた「妙」です。ですから「妙」ということを離れて真実の「正」はないのです。

故に「妙」についてさらに本仏の悟りを拝するならば、それは「妙法蓮華経」の五字であります。この妙法蓮華経の法体のもとについて、大聖人様が『観心本尊抄』に仰せであります。すなわち、末法万年を救う法華経の根本的な付嘱の要旨として、「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊・薬王等にも之を付嘱したまはず、何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏…」(御書654ページ)と示されております。右の文の「本尊の為体」というところに、特に注目すべきです。

すなわち妙法蓮華経とは、地涌の菩薩に付嘱された法華経本門の根本の法体としての本門の本尊なのです。ですから「立正」の「正を立てる」ということは、三大秘法を立てるということであり、その第一は「本門の本尊」を立てることであります。本門の本尊を正しく立てることが「立正」の「正」なのであります。

[題目]さらに、この御本尊を顕す目的は、一切衆生に正しい修行をさせるためである。ですから、この正境の本尊に縁するということは、正しい本尊に縁して初めて信心が正しくなるわけです。信心が正しくなるから、また「行」というものが正しくなるのです。もし間違った「行」をしていたら大変です。いつの間にか不幸になっていき、未来は地獄に堕ちるような結果となります。

すなわち正しい「行を立てる」とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることであり、これがいわゆる「行」についての「立正」であります。ですからこれは「本門の題目」です。

[戒壇]また、次に「正」とは「一」に「止」まると書きまして、この「一」とは、三に非ず、五に非ず、七に非ず、九に非ず、三乗、五乗、七方便、九法界を超絶し、かつこの一切を含む久遠元初の実相たる人法体一の法体です。これについて、「一大事の秘法を霊鷲山にして相伝」(同1569ページ)という『南条殿御返事』の中の大事な御文があります。その御本尊を所持されて末法に出現し給う大聖人様のおわしますところ、またその御魂を墨に染め流して御顕示あそばされた本門の本尊のところに妙法の法体が止(とど)まるわけであります。

「止まる」とは、すなわち住する、そこに存在するということです。したがって、止まり住するということは、本尊の住するところの意義であり、すなわち「本門の戒壇」であります。ですから、先般、皆様方の尊い御供養によりまして立派な奉安堂が出来ました。この奉安堂に本門戒壇の大御本尊様を御安置申し上げておるところが、すなわち本門の戒壇であります。

さらに、戒壇に関する根本的な大聖人様の御指南の上から拝するならば、『一期弘法抄』『三大秘法抄』のごとく、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同1675ページ)と示された戒壇は、また広宣流布の時の戒壇です。そのような意味において、日本国乃至世界の衆生の妙法受持の功徳をもって立てる事の戒法の顕現たるところの戒壇。それがまた「立正」の「正を立てる」という意味に当たります。故に「立正」とは、末法万年に弘通するところの本尊と題目と戒壇、すなわち三大秘法であるということ、これをまず申し上げておく次第であります。



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from: 21世紀さん

2009年02月27日 16時06分53秒

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「Re:Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
さて、次は涅槃経『聖行品』を引かれます。今度の経文には、謗法者の命を断つという意味が出てきます。しかし、この殺すということも、実は正法を護るという意義より示されるのであります。


又云はく「我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉悋(そあくしつりん)有ること無し。善男子、我爾の時に於て心に大乗を重んず。婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已はって即時に其の命根を絶つ。善男子、是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」と。又云はく「如来昔国王と為りて菩薩道を行ぜし時、爾所(そこばく)の婆羅門の命を断絶す」と。又云はく「殺に三つ有り、謂はく下中上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受く。中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是を名づけて中と為す。是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。阿鼻大地獄の中に堕す。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり」已上。

 ・又云はく、「我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。

すなわち昔、仙予という国王がいたのであり、それは釈尊が自分の前身であるとおっしゃっておるのです。その仙予国王が現れた時には、その国の状態において、仏様がまだ出世しておられなかったのです。それから菩薩もいなかったし、声聞・縁覚というような聖者もいなかったのです。したがって宗教・道徳についても、その道を説くところの婆羅門という指導者の教えを受けて、12年間、様々に国王としての種々の道を勉強してきたのです。

 ・大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉悋(そあくしつりん)有ること無し。

けれども本来、仙予国王は、不思議な因縁で以前に大乗経典を聞いておったために、大乗の教えに対して非常に憧憬の念を持ち、またそれを大切と思っておりました。故に心は純真に善事を心掛け、様々の悪心や嫉みや物を惜しむ心がなかったと言われます。

 ・善男子、我爾の時に於て心に大乗を重んず。

そこでで12年を過ぎたとき、仙予国王が婆羅門に対して「私は、どうしても大乗の教えが正しいと思う。我々は、すべからく本当の菩提心を起こして、大乗の教えによって正しい道を学ぶべきである」という信念を述ベたわけです。

 ・婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已はって即時に其の命根を絶つ。

ところがそのとき、師匠であった婆羅門が「あの大乗の教えなどは、虚空のように掴みどころのない空虚な教えであって、そんなものは考えるに足らないものである」と答えたのです。そのときに仙予国王が、その言葉を聞き終わって、直ちにその人の命を断ってしまったのです。

 ・善男子、是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」と。

それについて釈尊が「善男子よ、私のこの殺の因縁は善事である故に、この功徳によってこれより以後、地獄に堕ちることがないのだ」と仰せになっている文であります。

 ・又云はく、

それでこのところでは、一体、謗法者を殺すことにおいては、どのような意味があるのかについて、涅槃経の『梵行品』を引かれて述べられます。

 ・「如来昔国王と為りて菩薩道を行ぜし時、爾所(そこばく)の婆羅門の命を断絶す」と。

この『梵行品』の内容においては、前の部分から釈尊が、菩薩が仏に成るための大きな慈悲についてずっと説いてきておるのです。特にこの場合は、菩薩にも段階があり、下のほうの初心の菩薩から、かなり高く深い境界になったような上位の菩薩がありますが、非常に勝れた境界の菩薩になると、常にあらゆる人を導こうという気持ちになって励むのです。そのような菩薩の境界について、仏様がこの『梵行品』でずっと説いておるのであります。

特に、自分に仇をする者、またはどんな者に対してでも、根本的にはこの者を救おうという気持ちを持って導くことが大切であると説いているのです。そのときに、それらの始終を聞いておったのが迦葉という菩薩でありました。そのことに関してこの菩薩が疑問を感じ、一切衆生を慈悲をもって導くべしと言われるけれども、仏様、あなたは昔、婆羅門を殺し、命を断ったことがあると言われたではありませんか」という質問の言葉が、この文なのです。

この『梵行品』に説かれている中に「一子地(いっしち)」という菩薩の境界がありますが、これは自分の子供に対しては、親はありとあらゆる愛情を傾けて、自分の命にも代えて子供を救おうとする、そのような境界であり、つまりあらゆるものを救おうとする菩薩の境界を言うのです。そのような菩薩の境界であなたは説いているにもかかわらず、あなたは昔、婆羅門を殺したと言うのは、一仏二言の矛盾ではないかと、釈尊の言の矛盾背反を詰(なじ)る質問の文なのです。

それに対して釈尊は、迦葉菩薩を納得させるためにいろいろ説かれるのですが、その文は原経典にあって『安国論』に引用はされていません。簡略に申しますと、要するに釈尊は「この婆羅門を、憎いという悪い心をもって殺したのではない」とおっしゃるのです。「このままいけば、この者は必ず地獄へ堕ちる、したがって今殺すことによって命を改めさせ、それによってむしろこの大乗をもって殺された因縁において、将来、正しい大乗の教えにおいて救われることになる意義を観じ、その慈悲の気持ちを持って殺したのである」と言われました。

したがって、その殺した行為の元となる心は、菩薩が一子地に住して、親が子供を本当に救おうというごとき、菩薩が一子地に住して衆生を救う慈悲の気持ちといささかも変わりないものであったと釈明されたのであります。つまり大乗を誹謗する者に対し、慈悲の上からその命根を断つ行為を護法の手段として挙げられているのです。

 ・又云はく、「殺に三つ有り、謂はく下中上なり。

ここからの経文も、涅槃経『梵行品』です。殺という行為の不可と可についての仏説を挙げられるのであります。

「下中上なり」とは、つまり殺の行為には下と中と上の3段階の罪があると言われます。まず初めに「下」とは、殺す罪の中でも一番軽い罪を言うのです。

 ・下とは蟻子乃至一切の畜生なり。

この下殺とは、諸の畜生を殺すことであると示されています。

 ・唯菩薩の示現生の者を除く。

ただ「菩薩の示現生」というのは、菩薩が特別に衆生を導く誓願により畜生として生まれ、自分が殺されることによって、その因縁で衆生を救うという、深い三世の仏法の因縁果報の上からの誓願によるものです。したがって、それを殺しても罪にはならないと言われるのです。

 ・下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。

けれども、それ以外の畜生について殺生を犯せば、具に下殺の因縁で地獄・餓鬼・畜生に堕し、「下の苦」、すなわち「上」「中」に比べれば比較的に軽い苦を受けるとの仏説です。

 ・何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受く。

つまりこれらの畜生にも、生を受けた命には過去の善根が微かに存在する。故にこれを殺せば、やはり罪を受けるのです。これは法界全体観の上から見る仏の知見であります。それによれば、蟻を殺しても地獄へ堕ちると書いてあるのです。すなわち仏教を正しく勉強すると、蟻も理由なく殺してはいけないということが判るのです。蟻も微かな善根の命を持っているから、無益に悪心をもって残虐な心によって殺せば、やはりそれだけの報いを受けると言われるのです。これは、蟻に限らず一切の畜生を殺すのも同様で、やはり仏法の上から罪になるのです。

 ・中殺とは凡夫の人より阿那含(あなごん)に至るまで是を名づけて中と為す。

この「中殺」とは、人を殺す罪がこれであります。普通の凡夫の、つまり凡人から阿那含までを殺すのは「中」の罪業になるのです。

「阿那含」というのは、下のほうから須陀亘(しゅだごん、初果)・斯陀含(しだごん、二果)・阿那含(三果)・阿羅漢(四果)という4つの聖者の位があるうちの、先ほど出た阿羅漢より1つ下の位でありまして、かなり上の境界であります。これは「不還果」と言いまして、三界のうちの欲界の煩悩を断尽した聖者の名であります。ただし未だ色界・無色界の思惑が残っていますから、未だ三界を脱却できないけれども、欲界に再び生まれることはないのです。しかし、まだ完全な聖者ではないという意味がありますから、凡夫の人から阿那含までを殺すのを「中殺」と名付けるということであります。

 ・是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。

この業因によって、地獄・餓鬼・畜生に堕ちて具に「中の苦」を受けると説かれます。

 ・上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。

この「上殺」には、先ほど言った五逆罪という意味が出てきます。父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺す。これらは五逆罪です。さらに辟支仏、畢定の菩薩を殺すということです。阿羅漢と辟支仏は、大体同じような意味ですが、阿羅漢は声聞の極位で、辟支仏は縁覚の聖者という位であります。皆さん方が読んでいる『方便品』と『寿量品』の中にも、「辟支仏。所不能知」(法華経88ページ)「辟支仏。以無漏智」(同430ページ)という文が出てきます。

この辟支仏の「辟支」という語には、各々、独、一人という意味があるのです。それから「仏」という字は、当然「覚」という意味です。ですから辟支仏は一人で覚る、すなわち独覚という意味で、十二因縁という法門がありますが、その無明・行・識・名色(みょうしき)・六入・触・受・愛・取・有・生・老死を自分で観じつつ煩悩を断じ、空理を覚っていくのです。山林に入って修行をし、それによって心を研ぎ澄ましつつ十二因縁を観じ、それによって覚るのが辟支仏で、阿羅漢と同様の聖者のことであります。

次に「畢定の菩薩」という「畢」とは、「おわる」という意です。「定」は「さだまる」ことで、したがって「畢定」というのは「おわりさだまる」、いわゆる深い仏法において修行すべきことが完全に畢り定まったという意味であります。ですから非常に勝れた境界の菩薩、いわゆる不退の菩薩ということであります。

 ・阿鼻大地獄の中に堕す。

つまりこれら父母・阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩を殺す場合は、阿鼻大地獄という、最も重く苦しい地獄に堕ちると言われるのです。

 ・善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。

この文は、前の三種の殺罪が不可であることと比較対照して、殺の可を示されるのです。すなわち、一闡提を殺すということは、前の三種と異なって罪にならないと言われる。

 ・善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり」已上。

その上で「彼の諸の婆羅門」とは、釈尊が過去において仙予国王だったときに殺した者であり、これは一闡提の悪人であったと言うのです。したがって、それらを殺すことは罪にはならないと言うと共に、同時にまた仏が殺を犯したその境界が、先ほども言ったとおり、悪心を持って殺したのではなく、慈悲の上に殺したということなのです。その両面の意味を含めて、殺は悪いけれども一闡提を殺すのは罪にならないと言われるのであります。さらに、この殺すという趣意が、正しい法を護るということに、その根本の目的があるということを申しておきます。

また、この『安国論』で後の第八問答に出てくる主意から言えば、たとえ一闡提人といえども無闇に人を殺さず、別の方法をもってその邪悪を止めるという義のあることを申し添えておきます。


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