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from: 21世紀さん

2009年02月27日 11時42分48秒

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御法主上人猊下御講義 立正安国論

於夏季講習会第1・2期<立正安国論講義の開講に当たって>皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗

於夏季講習会第1・2期
<立正安国論講義の開講に当たって>
皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗門僧俗一致しての正法護持興隆・行学増進に励む次第であります。そういうことから、本年度よりまた、この夏期講習会を始めることになり、今回は第2期に当たります。昨日から、それぞれ担当講師によりまして、折伏その他のいろいろな重要な行学に関する話があったことと思うのであります。

本年度は『立正安国論』正義顕揚750年を6年後に控えた、その最初の年といたしまして、『立正安国論』を拝読して、皆様と共に大聖人様の深い御仏智を拝したいと思うのであります。それで、講義の内容を考えましたが、『安国論』の始めから終いまでの御指南の量は、たとえば『開目抄』とか『報恩抄』『撰時抄』というような御書はとても長い御書でありますが、それに対してもっと短い御書も御消息等においてはあるわけで、この『安国論』は、ちょうどその中間くらいの長さになります。

そこで、全10期にわたっての講義の内容をどのようにしたらいいかということを考えた挙げ句が、『安国論』全体を5つに分けさせていただき、第1期と第2期を最初の部分、次のところを第3期と第4期というような形で行うことにいたしました。したがって本日は、先般の第1期のときに拝読いたしました『安国論』の最初の部分を、もう1回拝読する次第であります。


<安国論建白の背景と意義>

最初に、この『安国論』は、どのような縁由によって示されたかと申しますと、その当時、数年にわたって大風・大雨・洪水・飢饉・疫病・大地震等の災害がずっと重なったのであります。これは日本国中が正に背き、邪を行っておるところの謗法に因るということを大聖人様が御覧になりまして、しかも王臣共にこれを覚らず、したがって仏の弟子としてその謗法を戒め、不義・邪悪を諌めるということが、この『立正安国論』を作り、最明寺入道時頼に献じられたその意義であります。

しかし、これは一往、文に付しての形の上からの縁由でありますが、再往の深い元意におきましては、久遠元初自受用報身という根本の仏様が末法において再誕をせられ、そして法華本門の下種の大法を、その大行者たる日蓮大聖人によって末法万年の正法広宣流布のため、一切の民衆、一国乃至全世界への折伏諌暁の書であると拝して、しかるべきと思うのであります。

その時は、人皇(にんのう)90代・亀山天皇の御宇(ぎょう)でありました。いわゆる文応元(1260)年7月16日に奏呈をされました。そのときの将軍は、鎌倉9代の中の第6代・宗尊(むねたか)親王であり、執権は北条長時という人でありましたが、政治の実権はその前に執権を務めた最明寺入道時頼の手にあったのであります。時頼は4年前の康元元(1256)年に落髪をして入道となりましたが、なお政務に携わっており、したがってその政治の権力を持つ実力者として存在しておりましたから、宿屋入道光則(みつのり)に託して、この『立正安国論』を時頼に献ぜられた次第であります。

その主意は、第一に未来の大災難、これは経文等に明らかに示されるところの自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難と他国侵逼(たこくしんぴつ)の難、この2つは、それ以外のたくさんの災難が現れておるこの時点においても、まだ現れていなかったのであり、かかる大災難の起こるべき所以を、予言書として示されたのであります。第二に、その災難の原因としての謗法の誤りを指摘して、これを強く諌められておる。すなわち仏法上の謗法に対する諌めであります。それから第三には、衆生の現当二世にわたる救済のために、その謗法の罪を糾されるという意義があります。

しかるに、文永9(1272)年の2月にこの予言の一つである自界叛逆の難が起こりました。さらに文永11(1274)年10月と弘安4(1281)年5月の2回にわたって蒙古の国が攻め寄せてきて、他国侵逼の災難の大予言が、まさに寸分も違わず的中したわけであります。これまさに、このことを通じてさらに下種の御本仏が未来末法万年にわたるところの日本乃至世界における真の正法護持、立正安国により真の平和に至る道を示された大予言であり、その大指針であります。


<安国論の題号について>

次に、「立正安国」の題号ということについて申し上げます。

「立正安国」というのは「正を立てて国を安んずる」ということです。この依拠は経文にたくさんありますけれども、法華経の『方便品』に、「正直捨方便・但説無上道(正直に方便を捨てて、但無上道を説く)」(法華経124ページ)という文があります。すなわち、従来の爾前経、大乗・小乗等の四十余年の経々はすべて方便教であるということを、釈尊自らがはっきりと決定した上で「正直に方便を捨てて但無上道を説く」ということを説かれたのであります。この正直に方便を捨てるということは、方便にいつまでもとらわれて真実を見ないところが邪道であり、その邪を破すという意義であります。また無上道を説くのが正法を立てること、顕正であります。いわゆる「破邪顕正」が、この「立正」であります。

次に、「正」の内容は非常に深く、また広いのであり、すなわち五重相対が考えられます。これは第一に内外相対、次が大小相対、第三番目が権実相対、第四番目が本迹相対、第五番目が種脱相対で、この5つの相対の上からはっきりと浅深勝劣をつける。そこに本当の「正」の意義と衆生を開導する徳が現れるのであります。

 ・内外相対

第一の「内外相対」ということは、内道すなわち仏教は法界の一切と過去・現在・未来の三世にわたるところの正しい原因・結果、さらに因縁・果報ということをはっきり正しく述べておるのであります。しかるに、外道たる他の哲学・宗教等においては、このところがまことにはっきりしておりません。イスラム教やキリスト教など、その他世界中にはたくさんの宗教がありますけれども、それぞれの神様が出来た原因は、全く説いておりません。神は元々存在するというのです。しかし、これは一切万物の、原因があって結果があるという理法に反するのです。仏教においては、仏も仏としての原に成る原因がある。また、それによって一切衆生がその筋道の上から本当の仏の修行と悟りに基づいて、真の幸せを得ることができるという次第であります。

また、因縁因果は、そのまま善因善果、悪因悪果という大原則に通じています。この善因は必ず善果を生じ、悪因は悪果を生じるという因果の理法が徹底していないために、今、世の中において「目前の結果さえ良ければ、悪いことをしても平気である」というような誤った思想が現れておるのであります。その悪見が、今日の世界の様々な不幸と大動乱を起こしておるということが言えるのです。

したがって、内外相対した場合に、「内道」の仏教と、仏教以外の教えの「外道」との相対において、仏教が因縁因果の道理を説く故に本当に正しい教えであるということ。その筋目から見ないと、この『立正安国論』のこれから拝読していくところの本当の意義が判りません。やはり仏の教えをきちんと正しい意義と筋道において見ることにより、はじめて「正」が立つわけであります。それが第一の内外相対であります。

 ・大小相対

次は「大小相対」です。この「小」というのは小乗のことで、同じ仏教の中でも小乗と大乗の区別があり、仏教は外道に対すれば正しいけれども、大乗と小乗を内容の上から相対すれば、小乗は非常に視野が狭いのであります。教えの内容が、単に六道の迷いから抜け出して、より安穏な灰身滅智(けしんめっち)のところに行こうということにすぎません。ですから法界全体の存在とその因果の姿、またその大きな法界観、世界観によるところの修行の道が欠けているのであります。したがって、小乗は自分だけが迷いを去って悟りを開けばいいということだけで、他の苦悩の相を見ることができないのです。

しかし実際には、世の中は決して自分一人だけの存在ではありません。必ず他との関連において善悪、正邪、幸不幸等、あらゆることが存在するのです。したがって、自分が善い行いによって幸せになっていくと共に、他をも導いていくということがなければならない。故に、小乗は「空」の真理を示すのみであるのに対し、大乗は「空」と「仮」と「中」の真理観が説かれます。それらをはっきりと示して、全体観の上から教えを説くのが大乗の教えであります。

したがって、小乗と大乗を相対するならば、小乗に対して大乗こそ真実の正法であるにもかかわらず、小乗が大乗に背くならば邪の意義が生じます。故に「正を立てる」とは、小乗を廃して大乗を立てることが大小相対の意味であります。

 ・権実相対

次が「権実相対」。「権(ごん)」とは「かりのもの」方便の意で、「実」とは真実の意です。仏教五千七千の経巻を大きく分ければ、方便と真実に分かれます。この方便教として華厳・阿含(あごん)・方等・般若等の四十余年の諸経が説かれておりますが、それに対して「正直に方便を捨てて、但無上の道を説く」と、釈尊が法華経においてはっきりと宣言され、法華経こそ一切の衆生を真に導き幸せにするところの教えであると示されました。

そうすると、この権教によって宗旨を立てておるところの、いわゆる念仏・禅・真言・律等、様々な仏教における権大乗の宗旨は、すべて正法を無視し、正法の意義と価値に背いておるところに邪の意味があるのです。その邪を打ち破って、真実を立てるところに権実相対における「立正」の意義があります。特にこの『立正安国論』においては、大聖人様の御一期(いちご)のうち最初の御化導の形として、まず第一に法然(ほうねん)の念仏宗の邪義を中心として破折されており、これがこの権実相対の内容からの破折に当たるのであります。

 ・本迹相対

その次が「本迹相対」です。これは法門の上から言うならば、本門の大法をもって根本とし「正」といたしますから、爾前迹門にとらわれた考え方は邪法となります。その法華迹門を中心とする宗旨として天台宗があります。これは一往、法華経の教えをもって正しく仏法を立てたものであるけれども、まだ権実相対までがその教義の主意になっておりまして、きちんとした形で本門と迹門とのけじめがついていないのであります。これは迹門付嘱の天台や伝教の法義としては当然のことなのです。

しかし、すでに時の過ぎた、像法の時代の衆生を導く法華迹門にいつまでもとらわれることは邪法となり、末法においては法華本門の教えをもって爾前迹門との区別を立てていくところに「立正」の「正」という意義が存するのであります。

 ・種脱相対

[本尊] 最後は「種脱相対」です。これは下種の法華本門の教えこそが本門の宗旨の実体であり、大聖人の御出現の目的でありますから、その種脱に迷乱するところの日蓮他門家はことごとく、「立正」と口では言っても真実の「立正」ではありません。それは何かと言えば、下種の本尊とその三大秘法こそが真の「立正」の「正」という意味であり、末法万年の下種仏法の弘通、化導の上にはっきりと示された大法であります。そこに種脱相対しての「立正」とは、三大秘法の妙法大漫茶羅、本門戒壇の本尊であります。その意義はすでに大聖人の『立正安国論』の中に深く篭(こ)められておるわけですけれども、ただ化導の具体的な形としては、文永、建治、弘安等、御一生の御化導の上から、それが次第に現れてくるのであります。

さて、「立正」とは「三大秘法」であるということよりして、この「正」とは何かと言うと、第一には「妙」ということなのです。「妙」が「正」、「正」がまた「妙」です。ですから「妙」ということを離れて真実の「正」はないのです。

故に「妙」についてさらに本仏の悟りを拝するならば、それは「妙法蓮華経」の五字であります。この妙法蓮華経の法体のもとについて、大聖人様が『観心本尊抄』に仰せであります。すなわち、末法万年を救う法華経の根本的な付嘱の要旨として、「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊・薬王等にも之を付嘱したまはず、何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏…」(御書654ページ)と示されております。右の文の「本尊の為体」というところに、特に注目すべきです。

すなわち妙法蓮華経とは、地涌の菩薩に付嘱された法華経本門の根本の法体としての本門の本尊なのです。ですから「立正」の「正を立てる」ということは、三大秘法を立てるということであり、その第一は「本門の本尊」を立てることであります。本門の本尊を正しく立てることが「立正」の「正」なのであります。

[題目]さらに、この御本尊を顕す目的は、一切衆生に正しい修行をさせるためである。ですから、この正境の本尊に縁するということは、正しい本尊に縁して初めて信心が正しくなるわけです。信心が正しくなるから、また「行」というものが正しくなるのです。もし間違った「行」をしていたら大変です。いつの間にか不幸になっていき、未来は地獄に堕ちるような結果となります。

すなわち正しい「行を立てる」とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることであり、これがいわゆる「行」についての「立正」であります。ですからこれは「本門の題目」です。

[戒壇]また、次に「正」とは「一」に「止」まると書きまして、この「一」とは、三に非ず、五に非ず、七に非ず、九に非ず、三乗、五乗、七方便、九法界を超絶し、かつこの一切を含む久遠元初の実相たる人法体一の法体です。これについて、「一大事の秘法を霊鷲山にして相伝」(同1569ページ)という『南条殿御返事』の中の大事な御文があります。その御本尊を所持されて末法に出現し給う大聖人様のおわしますところ、またその御魂を墨に染め流して御顕示あそばされた本門の本尊のところに妙法の法体が止(とど)まるわけであります。

「止まる」とは、すなわち住する、そこに存在するということです。したがって、止まり住するということは、本尊の住するところの意義であり、すなわち「本門の戒壇」であります。ですから、先般、皆様方の尊い御供養によりまして立派な奉安堂が出来ました。この奉安堂に本門戒壇の大御本尊様を御安置申し上げておるところが、すなわち本門の戒壇であります。

さらに、戒壇に関する根本的な大聖人様の御指南の上から拝するならば、『一期弘法抄』『三大秘法抄』のごとく、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同1675ページ)と示された戒壇は、また広宣流布の時の戒壇です。そのような意味において、日本国乃至世界の衆生の妙法受持の功徳をもって立てる事の戒法の顕現たるところの戒壇。それがまた「立正」の「正を立てる」という意味に当たります。故に「立正」とは、末法万年に弘通するところの本尊と題目と戒壇、すなわち三大秘法であるということ、これをまず申し上げておく次第であります。



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from: 21世紀さん

2009年02月27日 16時24分07秒

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「Re:Re:Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
この次が、いよいよ第九問答の主人の答えです。末寺の御会式で捧読されるのが、ここから後のところであります。


主人悦んで曰く、鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤と為る。悦ばしいかな、汝欄室の友に交はりて麻畝の性と成る。誠に其の難を顧みて専ら此の言を信ぜば、風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならんのみ。但し人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。譬へば猶水中の月の波に動き、陣前の軍の剣に靡(なび)くがごとし。汝当座に信ずと雖も後定めて永く忘れん。若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱(いそ)いで対治を加へよ。所以は何。薬師経の七難の内、五難忽ちに起こり二難猶残れり。所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり。大集経の三災の内、二災早く顕はれ一災未だ起こらず。所以兵革の災なり。金光明経の内、種々の災過一々に起こると雖も、他方の怨賊国内を侵掠する、此の災未だ露はれず、此の難未だ来たらず。仁王経の七難の内、六難今盛んにして一難未だ現ぜず。所以四方の賊来りて国を侵すの難なり。

 ・主人悦んで曰く、鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤と為る。

この鳩が化して鷹となるなどということは、皆さん方も、一体どういうことなんだと思っていらっしゃるでしょう。これは中国の『礼記集説』という古い書物にあるのです。その中に、「仲春(ちゅうしゅん、2月)に鷹化して鳩となり、仲秋(ちゅうしゅう、8月)に鳩化して鷹となり」と記されておるのです。つまり2月の寒いときには、鷹が化して鳩となるとあり、鷹のような強いものが逆に弱い鳩になる。それが陽気が非常によくなってくる8月には、今度は鳩が化して強い鷹となると言うのです。この8月の「鳩化して鷹となり」という諺を、ここに挙げられておるのであります。 また「季秋(きしゅう、9月)に雀大水に入り蛤となる」という諺もある。これは9月の季節の変わり目には、このようなこともあると言うのです。要するに季節の移り変わりによる物事の変化を表す昔の諺であります。

これを引かれたのは、正論を聞いて劣ったものが勝れたものに変化するという意味の譬えとして仰せられているのです。

 ・悦ばしいかな、汝欄室の友に交はりて麻畝の性と成る。

この場合に御自身をまさしく「蘭室の友」とおっしゃっておるわけであります。蘭の香りのする部屋、つまり非常に勝れた清浄な部屋に住んでおるということは、清浄な人間が正しい心を持っておるが故に、その住む部屋が自ずから清浄になるということで、それを御自身に当てはめておっしゃっているのです。つまりあなたは私の話を聞いて「麻畝の性」となったと言われるのです。

「麻畝の性」の「麻」とは、植物の麻のことです。「畝」の字は2つの意味があり、一つは田地の長さを測る場合に、1畝とか2畝と言うように面積を示す言葉なのです。もう一つは、田圃などでお百姓さんが鍬で土を高くして畝(うね)というものを作るのですが、そのことを言います。ですから「麻畝」とは、麻の畑のことを言うのであります。

この「麻畝の性と成る」というのは、麻がたくさん植えられている中に、一緒に蓬(よもぎ)を植えた場合、蓬は本来曲がって伸びるものですが、麻の中の蓬は真っ直ぐ伸びるということです。要するに、正しい人と交わり、正しい人の中に入っていれば、曲がった心根の者もまた正しくなっていくという譬えであります。

ですから、あなたは曲がった気持ちを持っていたけれども、今、蘭室の友であるところの主人すなわち私と交わって話を聞くことにより、まっすぐな心になったと言われるのです。

 ・誠に其の難を顧みて専ら此の言を信ぜば、風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならんのみ。

この文は、先ほどからずっと述べてきたように、災禍・国難等が起こっておるのは挙一例諸の上から法然の『選択集』に原因があると言う私の言葉を信じて、あなたがまさしく邪を捨てて正に帰そうと志すならば、緑林の風が和らぎ、また海に立っておる白浪が静かになるという譬えのごとく、謗法をことごとく退治する形が現れることにより、日ならずして豊年、すなわち豊かで安楽な年月を迎えることができるのだと言われるのであります。

 ・但し人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。

この文は、人心の変動しやすいことを警告されるのです。人の心が常に移り変わるように、あなたは今、判ったと言うけれども、あてにならない意味があり、かつあらゆるものの性質は境遇によって改変するものであると指摘されます。

中国の諺に、「江南の橘(たちばな)、江北に移れば枳(からたち)となる」というのがあります。枳というのは刺がたくさんある悪い木と言われておるのです。江南においては橘という立派で有益な木であっても、江北に移ればそれが枳になってしまうと言うのです。これは要するに物の性は境遇によって変わっていくということです。ですから、善い境遇にいれば立派な人であっても、悪い境遇の中に入っていくと、悪い人に染まって悪人になってしまうという意味です。

 ・譬へば猶水中の月の波に動き、

次は、その人心の変化の譬えを示されます。すなわち水に映った月は、風がなければそのまま月の形をもって映っておるけれども、風によって波が起これば、水の上の月は形が崩れて本来の姿を止めない。そのように縁によって物が変わり、間違ってくるのです。

 ・陣前の軍の剣に靡(なび)くがごとし。

また、戦いの前軍において甲冑(かっちゅう)を着、武器を手にして敵と戦う軍勢が揃ったけれども、しかし敵が非常に鋭い刀槍をもって強く当たってきたときには、せっかく戦いの支度をしておりながらも、敵の勢いに恐れて退く。つまり初めには戦おうと思っていても、その志が萎(な)えていくようなものだと言われるのであります。

 ・汝当座に信ずと雖も後定めて永く忘れん。

この譬えのように、あなたは今は信じたようだけれども、この座を去ってしまえば、この正しい道理を定めし忘れてしまうであろうとの警告です。だから直ちに謗法の退治を実行せよということを示されるのが、この次の文です。

 ・若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱(いそ)いで対治を加へよ。

つまり国土の安穏、天下の泰平を願い、そして「現当」、すなわち現在と当来の世という二世におけるところの真の安楽を願わんとするならば、心を正道に向かって思い回らせ、急いで謗法を退治すべく実行すべしと言われるのです。

信心に入って直ちに折伏をせよということは無理という面もあるかも知れませんが、この仏法は正しいのだから、間違ったものにはきちんとけじめをつけるという気持ちを持って入信することが大切であり、その意味からまた御題目をしっかり唱えて功徳を得、確信を持って折伏をすることが大事なのです。それが「忽いで対治を加へよ」という意味であります。つまり折伏という意味において正しいことを実行に移すということが大切であると、はっきり指南されるのであります。

次には、その理由が何であるかを経文の意をもって教示されるのです。初めにも述べましたが、第二問答において金光明経、大集経、仁王経の二文、薬師経、また仁王経、さらに大集経と、四経のうちの七文を挙げておられるのですが、この4つの経典においては仏法の精神に背くことによって起こる難をずっと挙げられております。それについて、その難が現在どのような状態になっているかを、ここから述べられるのです。

 ・所以は何。薬師経の七難の内、五難忽ちに起こり二難猶残れり。所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり。

まず「薬師経の七難」というのは、前にも挙げましたが、人衆疾疫の難・星宿変怪・日月薄蝕の難、非時風雨の難・過時不雨の難があって、その他に他国侵逼の難と自界叛逆の難があります。つまりこの七難のうちの前の5つは、すでにはっきりと起こっておるけれども、自界叛逆の難と他国侵逼の難の2つが、まだ残っておると仰せであります。

 ・大集経の三災の内、二災早く顕はれ一災未だ起こらず。所以兵革の災なり。

次に挙げられる「大集経の三災」とは、一には穀貴、二には兵革、三には疫病の3つであります。穀貴というのは、いわゆる穀物の値段が高くなる、すなわち物価騰貴を意味するのです。今現在でも経済は混乱しているようだけれども、時代の特異性から経済の動乱にはいろいろな状況があるのです。今は今なりにデフレというような形で、いろいろな人が困っておるようであります。当時は大体がインフレという形で、物が少ないことから次第に物の値段が高くなって、ついには物を得ることができなくなるという状態、つまり穀貴であり、それから疫病等が常に盛んであったのですが、しかしまだ兵革の災いのみが現れていないという指摘であります。

 ・金光明経の内、種々の災過一々に起こると雖も、他方の怨賊国内を侵掠する、此の災未だ露はれず、此の難未だ来たらず。

先に挙げられた金光明経に多くの難が述べられ、その中に「他方の怨賊国内を侵掠する」ということが説かれておるけれども、これがまだ起こっていないと言われるのです。

 ・仁王経の七難の内、六難今盛んにして一難未だ現ぜず。所以四方の賊来りて国を侵すの難なり。

「仁王経の七難」というのは、日月失度の難・星宿失度の難・災火の難・雨水の難・悪風の難・亢陽の難・悪賊の難で、これらは前に引かれたように、非常に長く述べられております。このうちの六難は盛んであるけれどもへ最後の賊来の難、つまり賊が来たって国を侵すという一難が未だ現じていないと指摘されるのです。



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