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from: 21世紀さん

2009年02月27日 11時42分48秒

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御法主上人猊下御講義 立正安国論

於夏季講習会第1・2期<立正安国論講義の開講に当たって>皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗

於夏季講習会第1・2期
<立正安国論講義の開講に当たって>
皆さん、おはようございます。今回、平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年に向かいまして、宗門僧俗一致しての正法護持興隆・行学増進に励む次第であります。そういうことから、本年度よりまた、この夏期講習会を始めることになり、今回は第2期に当たります。昨日から、それぞれ担当講師によりまして、折伏その他のいろいろな重要な行学に関する話があったことと思うのであります。

本年度は『立正安国論』正義顕揚750年を6年後に控えた、その最初の年といたしまして、『立正安国論』を拝読して、皆様と共に大聖人様の深い御仏智を拝したいと思うのであります。それで、講義の内容を考えましたが、『安国論』の始めから終いまでの御指南の量は、たとえば『開目抄』とか『報恩抄』『撰時抄』というような御書はとても長い御書でありますが、それに対してもっと短い御書も御消息等においてはあるわけで、この『安国論』は、ちょうどその中間くらいの長さになります。

そこで、全10期にわたっての講義の内容をどのようにしたらいいかということを考えた挙げ句が、『安国論』全体を5つに分けさせていただき、第1期と第2期を最初の部分、次のところを第3期と第4期というような形で行うことにいたしました。したがって本日は、先般の第1期のときに拝読いたしました『安国論』の最初の部分を、もう1回拝読する次第であります。


<安国論建白の背景と意義>

最初に、この『安国論』は、どのような縁由によって示されたかと申しますと、その当時、数年にわたって大風・大雨・洪水・飢饉・疫病・大地震等の災害がずっと重なったのであります。これは日本国中が正に背き、邪を行っておるところの謗法に因るということを大聖人様が御覧になりまして、しかも王臣共にこれを覚らず、したがって仏の弟子としてその謗法を戒め、不義・邪悪を諌めるということが、この『立正安国論』を作り、最明寺入道時頼に献じられたその意義であります。

しかし、これは一往、文に付しての形の上からの縁由でありますが、再往の深い元意におきましては、久遠元初自受用報身という根本の仏様が末法において再誕をせられ、そして法華本門の下種の大法を、その大行者たる日蓮大聖人によって末法万年の正法広宣流布のため、一切の民衆、一国乃至全世界への折伏諌暁の書であると拝して、しかるべきと思うのであります。

その時は、人皇(にんのう)90代・亀山天皇の御宇(ぎょう)でありました。いわゆる文応元(1260)年7月16日に奏呈をされました。そのときの将軍は、鎌倉9代の中の第6代・宗尊(むねたか)親王であり、執権は北条長時という人でありましたが、政治の実権はその前に執権を務めた最明寺入道時頼の手にあったのであります。時頼は4年前の康元元(1256)年に落髪をして入道となりましたが、なお政務に携わっており、したがってその政治の権力を持つ実力者として存在しておりましたから、宿屋入道光則(みつのり)に託して、この『立正安国論』を時頼に献ぜられた次第であります。

その主意は、第一に未来の大災難、これは経文等に明らかに示されるところの自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難と他国侵逼(たこくしんぴつ)の難、この2つは、それ以外のたくさんの災難が現れておるこの時点においても、まだ現れていなかったのであり、かかる大災難の起こるべき所以を、予言書として示されたのであります。第二に、その災難の原因としての謗法の誤りを指摘して、これを強く諌められておる。すなわち仏法上の謗法に対する諌めであります。それから第三には、衆生の現当二世にわたる救済のために、その謗法の罪を糾されるという意義があります。

しかるに、文永9(1272)年の2月にこの予言の一つである自界叛逆の難が起こりました。さらに文永11(1274)年10月と弘安4(1281)年5月の2回にわたって蒙古の国が攻め寄せてきて、他国侵逼の災難の大予言が、まさに寸分も違わず的中したわけであります。これまさに、このことを通じてさらに下種の御本仏が未来末法万年にわたるところの日本乃至世界における真の正法護持、立正安国により真の平和に至る道を示された大予言であり、その大指針であります。


<安国論の題号について>

次に、「立正安国」の題号ということについて申し上げます。

「立正安国」というのは「正を立てて国を安んずる」ということです。この依拠は経文にたくさんありますけれども、法華経の『方便品』に、「正直捨方便・但説無上道(正直に方便を捨てて、但無上道を説く)」(法華経124ページ)という文があります。すなわち、従来の爾前経、大乗・小乗等の四十余年の経々はすべて方便教であるということを、釈尊自らがはっきりと決定した上で「正直に方便を捨てて但無上道を説く」ということを説かれたのであります。この正直に方便を捨てるということは、方便にいつまでもとらわれて真実を見ないところが邪道であり、その邪を破すという意義であります。また無上道を説くのが正法を立てること、顕正であります。いわゆる「破邪顕正」が、この「立正」であります。

次に、「正」の内容は非常に深く、また広いのであり、すなわち五重相対が考えられます。これは第一に内外相対、次が大小相対、第三番目が権実相対、第四番目が本迹相対、第五番目が種脱相対で、この5つの相対の上からはっきりと浅深勝劣をつける。そこに本当の「正」の意義と衆生を開導する徳が現れるのであります。

 ・内外相対

第一の「内外相対」ということは、内道すなわち仏教は法界の一切と過去・現在・未来の三世にわたるところの正しい原因・結果、さらに因縁・果報ということをはっきり正しく述べておるのであります。しかるに、外道たる他の哲学・宗教等においては、このところがまことにはっきりしておりません。イスラム教やキリスト教など、その他世界中にはたくさんの宗教がありますけれども、それぞれの神様が出来た原因は、全く説いておりません。神は元々存在するというのです。しかし、これは一切万物の、原因があって結果があるという理法に反するのです。仏教においては、仏も仏としての原に成る原因がある。また、それによって一切衆生がその筋道の上から本当の仏の修行と悟りに基づいて、真の幸せを得ることができるという次第であります。

また、因縁因果は、そのまま善因善果、悪因悪果という大原則に通じています。この善因は必ず善果を生じ、悪因は悪果を生じるという因果の理法が徹底していないために、今、世の中において「目前の結果さえ良ければ、悪いことをしても平気である」というような誤った思想が現れておるのであります。その悪見が、今日の世界の様々な不幸と大動乱を起こしておるということが言えるのです。

したがって、内外相対した場合に、「内道」の仏教と、仏教以外の教えの「外道」との相対において、仏教が因縁因果の道理を説く故に本当に正しい教えであるということ。その筋目から見ないと、この『立正安国論』のこれから拝読していくところの本当の意義が判りません。やはり仏の教えをきちんと正しい意義と筋道において見ることにより、はじめて「正」が立つわけであります。それが第一の内外相対であります。

 ・大小相対

次は「大小相対」です。この「小」というのは小乗のことで、同じ仏教の中でも小乗と大乗の区別があり、仏教は外道に対すれば正しいけれども、大乗と小乗を内容の上から相対すれば、小乗は非常に視野が狭いのであります。教えの内容が、単に六道の迷いから抜け出して、より安穏な灰身滅智(けしんめっち)のところに行こうということにすぎません。ですから法界全体の存在とその因果の姿、またその大きな法界観、世界観によるところの修行の道が欠けているのであります。したがって、小乗は自分だけが迷いを去って悟りを開けばいいということだけで、他の苦悩の相を見ることができないのです。

しかし実際には、世の中は決して自分一人だけの存在ではありません。必ず他との関連において善悪、正邪、幸不幸等、あらゆることが存在するのです。したがって、自分が善い行いによって幸せになっていくと共に、他をも導いていくということがなければならない。故に、小乗は「空」の真理を示すのみであるのに対し、大乗は「空」と「仮」と「中」の真理観が説かれます。それらをはっきりと示して、全体観の上から教えを説くのが大乗の教えであります。

したがって、小乗と大乗を相対するならば、小乗に対して大乗こそ真実の正法であるにもかかわらず、小乗が大乗に背くならば邪の意義が生じます。故に「正を立てる」とは、小乗を廃して大乗を立てることが大小相対の意味であります。

 ・権実相対

次が「権実相対」。「権(ごん)」とは「かりのもの」方便の意で、「実」とは真実の意です。仏教五千七千の経巻を大きく分ければ、方便と真実に分かれます。この方便教として華厳・阿含(あごん)・方等・般若等の四十余年の諸経が説かれておりますが、それに対して「正直に方便を捨てて、但無上の道を説く」と、釈尊が法華経においてはっきりと宣言され、法華経こそ一切の衆生を真に導き幸せにするところの教えであると示されました。

そうすると、この権教によって宗旨を立てておるところの、いわゆる念仏・禅・真言・律等、様々な仏教における権大乗の宗旨は、すべて正法を無視し、正法の意義と価値に背いておるところに邪の意味があるのです。その邪を打ち破って、真実を立てるところに権実相対における「立正」の意義があります。特にこの『立正安国論』においては、大聖人様の御一期(いちご)のうち最初の御化導の形として、まず第一に法然(ほうねん)の念仏宗の邪義を中心として破折されており、これがこの権実相対の内容からの破折に当たるのであります。

 ・本迹相対

その次が「本迹相対」です。これは法門の上から言うならば、本門の大法をもって根本とし「正」といたしますから、爾前迹門にとらわれた考え方は邪法となります。その法華迹門を中心とする宗旨として天台宗があります。これは一往、法華経の教えをもって正しく仏法を立てたものであるけれども、まだ権実相対までがその教義の主意になっておりまして、きちんとした形で本門と迹門とのけじめがついていないのであります。これは迹門付嘱の天台や伝教の法義としては当然のことなのです。

しかし、すでに時の過ぎた、像法の時代の衆生を導く法華迹門にいつまでもとらわれることは邪法となり、末法においては法華本門の教えをもって爾前迹門との区別を立てていくところに「立正」の「正」という意義が存するのであります。

 ・種脱相対

[本尊] 最後は「種脱相対」です。これは下種の法華本門の教えこそが本門の宗旨の実体であり、大聖人の御出現の目的でありますから、その種脱に迷乱するところの日蓮他門家はことごとく、「立正」と口では言っても真実の「立正」ではありません。それは何かと言えば、下種の本尊とその三大秘法こそが真の「立正」の「正」という意味であり、末法万年の下種仏法の弘通、化導の上にはっきりと示された大法であります。そこに種脱相対しての「立正」とは、三大秘法の妙法大漫茶羅、本門戒壇の本尊であります。その意義はすでに大聖人の『立正安国論』の中に深く篭(こ)められておるわけですけれども、ただ化導の具体的な形としては、文永、建治、弘安等、御一生の御化導の上から、それが次第に現れてくるのであります。

さて、「立正」とは「三大秘法」であるということよりして、この「正」とは何かと言うと、第一には「妙」ということなのです。「妙」が「正」、「正」がまた「妙」です。ですから「妙」ということを離れて真実の「正」はないのです。

故に「妙」についてさらに本仏の悟りを拝するならば、それは「妙法蓮華経」の五字であります。この妙法蓮華経の法体のもとについて、大聖人様が『観心本尊抄』に仰せであります。すなわち、末法万年を救う法華経の根本的な付嘱の要旨として、「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊・薬王等にも之を付嘱したまはず、何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏…」(御書654ページ)と示されております。右の文の「本尊の為体」というところに、特に注目すべきです。

すなわち妙法蓮華経とは、地涌の菩薩に付嘱された法華経本門の根本の法体としての本門の本尊なのです。ですから「立正」の「正を立てる」ということは、三大秘法を立てるということであり、その第一は「本門の本尊」を立てることであります。本門の本尊を正しく立てることが「立正」の「正」なのであります。

[題目]さらに、この御本尊を顕す目的は、一切衆生に正しい修行をさせるためである。ですから、この正境の本尊に縁するということは、正しい本尊に縁して初めて信心が正しくなるわけです。信心が正しくなるから、また「行」というものが正しくなるのです。もし間違った「行」をしていたら大変です。いつの間にか不幸になっていき、未来は地獄に堕ちるような結果となります。

すなわち正しい「行を立てる」とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることであり、これがいわゆる「行」についての「立正」であります。ですからこれは「本門の題目」です。

[戒壇]また、次に「正」とは「一」に「止」まると書きまして、この「一」とは、三に非ず、五に非ず、七に非ず、九に非ず、三乗、五乗、七方便、九法界を超絶し、かつこの一切を含む久遠元初の実相たる人法体一の法体です。これについて、「一大事の秘法を霊鷲山にして相伝」(同1569ページ)という『南条殿御返事』の中の大事な御文があります。その御本尊を所持されて末法に出現し給う大聖人様のおわしますところ、またその御魂を墨に染め流して御顕示あそばされた本門の本尊のところに妙法の法体が止(とど)まるわけであります。

「止まる」とは、すなわち住する、そこに存在するということです。したがって、止まり住するということは、本尊の住するところの意義であり、すなわち「本門の戒壇」であります。ですから、先般、皆様方の尊い御供養によりまして立派な奉安堂が出来ました。この奉安堂に本門戒壇の大御本尊様を御安置申し上げておるところが、すなわち本門の戒壇であります。

さらに、戒壇に関する根本的な大聖人様の御指南の上から拝するならば、『一期弘法抄』『三大秘法抄』のごとく、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同1675ページ)と示された戒壇は、また広宣流布の時の戒壇です。そのような意味において、日本国乃至世界の衆生の妙法受持の功徳をもって立てる事の戒法の顕現たるところの戒壇。それがまた「立正」の「正を立てる」という意味に当たります。故に「立正」とは、末法万年に弘通するところの本尊と題目と戒壇、すなわち三大秘法であるということ、これをまず申し上げておく次第であります。



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from: 21世紀さん

2009年02月27日 16時54分51秒

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「Re:御法主上人猊下御講義 立正安国論」
創価学会なども、今、世間の宗教に迎合して大聖人の教えの本筋を捨て、世の中をうまくごまかすため、あらゆることを言っておりますが、あれはすべて大聖人様の真実の教えではないのです。真実の教えではないから、その言っていることはみんな方便以下のまやかしに過ぎないわけで、そのようなものを一切捨てよということです。

そしてさらに、「南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じてへ三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居(のうご)・所居、身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(同)と。

このところに「能居・所居、身土・色心」とありますが、御題目を唱える人の命が下種本仏の悟りと同じく、無作の法身・報身・応身という、三身の上の功徳を成就していくことを説かれてあります。したがって、その功徳を成就することによって、直ちにその人の所住のところが仏国土となると示されるのであります。

南無妙法蓮華経と唱えるところ、その身がそのまま法の姿を表す。これが、「身土一念の三千なり」(同106ページ)と言われるところの「身」と「土」、つまり衆生の身体と国土が融妙(ゆうみょう)な関係において常楽我浄という四徳の功徳を成ずるという意味であります。依報(えほうし)と正報(しょうほう)という言葉がありますが、その正報は我々衆生であり、依報は国土であります。国土が存在しなければ、我々の生活、我々の身は存在しないわけです。故に、身と土ということは非常に大事な相関関係にあることを、ここでおっしゃっておるのであります。

南無妙法蓮華経と唱えるところが、そのまま三観・三諦即一心に顕れる。と同時に、「能居・所居」、これは能(よ)く居し、居される所、すなわち衆生の身とその身が存する国土を言うわけです。この場合は、我々の体がその妙法の功徳を成就する形において、無作応身を成就するということになります。それから「身土」とは、本有の四徳と修徳の四徳を能所とする身と、その身の所依となる土との融妙な法の体を言われるので無作法身であります。また「色心」とは色法と心法ですが、これはそのまま我々衆生の色法を依拠として心法が存するという上から、その深い悟りを生ずるところが無作報身を意味します。その無作報身の功徳が十法界を遍く照らすのであります。要するに、我々のこの信心の姿が御本尊に冥合し、そのまま無作三身として顕れるということを仰せになっておるのであります。

この『立正安国論』の御文も、強固な信心の上において仏国も衰えることがなく、十方もまた宝土となり、その宝土も壊れることがないと示されます。ここは法華経における三変土田(さんぺんどでん)の変革の上からの宝土の意義も含まれておると思います。

 ・国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。

身と国土の上に変化災難がなければ、我々の身心は安らかにして幸福の境地が定まるのである。

 ・此の詞此の言信ずべく崇むべし。

しかし、このためには邪を破して正を立てるということが大切であり、それが「此の詞」に当たるわけであります。それによって必ず仏国土が成就されるということが、その次の「此の言」に当たっております。要するに立正安国は、信仰の寸心を改め、速やかに実乗の一善に帰するというこの文に明らかに示されておるのであります。


<正に帰して領納す>

次が、最後の客の領解であります。


客の曰く、今生後生誰か慎まざらん誰か和(したが)はざらん。此の経文を被きて具に仏語を承るに、誹謗の科至って重く毀謗の罪誠に深し。我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは是私曲の思ひに非ず、則ち先達の詞に随ひしなり。十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。今世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこと文明らかに理詳らかなり疑ふべからず。弥貴公の慈誨を仰ぎ、益愚客の癡心を開き、速やかに対治を廻らして早く泰平を致し、先づ生前を安んじ更に没後を扶けん。唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。

 ・客の曰く、今生後生誰か慎まざらん誰か和(したが)はざらん。

この「今生」とは現世のこと、それから「後生」とは来世のことです。客は従来の主人の懇(ねんご)ろな教示によって今までの執着を離れ、この現当二世の意味から謗法を深く恐れ、かつ誡めて、主人の一言われるところの立正安国の趣旨にしたがわなければならないということをここに述べるのであります。

 ・此の経文を被きて具に仏語を承るに、誹謗の科至って重く毀謗の罪誠に深し。

すなわち「あなたの言葉を承ったことにより、正法を誹謗するところの科が重いこと、また法を謗るところの罪が深いということが判りました」と、まず申します。

 ・我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは是私曲の思ひに非ず、則ち先達の詞に随ひしなり。

つまり私は法然の捨閉閣抛の教えを信仰し、阿弥陀仏を信じて他の仏を抛(なげう)ってしまい、また浄土の三部経のみを仰いで他の諸経を手に取ろうともしなかったのは、私が自ら曲げて考えたことではありません。すなわち念仏のみを正しい教えとして勧めたところの法然等の人々の詞にしたがったのであります。

 ・十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。

しかし私のみならず、他の多くの人たちも、すべてこのような誤りを犯していることでしょう。

 ・今世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこと文明らかに理詳らかなり疑ふべからず。

それによって、心の表面のみならず、本性を煩(わずら)わすことによって様々な悩みを生じ、また来生には阿鼻地獄に堕ちることが経文に明らかであると共に、その道理が詳らかであることから、それは疑うべからざることでありますと、このように客が自らの領解を述べるのであります。

次が、最後の客の誓いの言葉となります。

 ・弥貴公の慈誨を仰ぎ、益愚客の癡心を開き、速やかに対治を廻らして早く泰平を致し、先づ生前を安んじ更に没後を扶けん。

これは一番最後の大事な御文であります。つまりあなたの慈悲の諭(さと)しをいよいよ仰ぎ、私の誤った心、無智な心を開いて、速やかに災いのもとであるところの謗法を対治し、早くこの世の泰平を見るために努力をいたします。そして生前、つまり現世における身心や国家社会が安らかとなるよう、また没後、つまり死後が幸せとなるよう、この現当二世の意味から願い行じてまいります、ということが客の最後の誓いであります。

 ・唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。

そして、次の最後の一文がまことに大事なのです。これは自分だけが信じるということではなく、他の人々の誤りをも誡めてまいりますという決意です。

このことを大聖人様は、また自行化他の南無妙法蓮華経とおっしゃっております。自らが正法を行ずると共に他にもこれを勧めていく。他に勧めるためには、他の人々が持っておるところの誤った人生観・世界観、乃至宗教観を折伏することが大切であります。折伏をすることによって正法への眼を開かせ、化他の道が成就していくということになるのです。したがって「又他の誤りをも誡めんのみ」というのは、自行の上の化他の折伏であり、それがこの『立正安国論』の趣旨になっております。したがって、我々も縁のあるところから折伏を行っていくことが大事なのです。

しかしながら、大聖人様があの当時においていろいろな謗法がある中で、その中心としてまず法然の『選択集』における邪法邪義を『立正安国論』において指摘あそばされたということは、当時としての衆生の機根や罰の現証の上から大事な意味を持っておったのです。けれども今日では、いろいろな意味において謗法の姿が大きくなり、また変わってきております。

そこで第四問答の最後に、主人の答えとして、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書241ページ)という有名な御文がありますが、この「一凶」ということにおいて、当時、大聖人様は法然の『選択集』を謗法対治の基準とされてお示しになっておるのであります。当時は念仏の教えによって、様々な人が臨終の際に、地獄に堕ちて行くような悪相を現じていたということが、当時の文献において明らかであります。

今日においては、多くの人々がありとあらゆる信仰をしておる姿がありますが、それらはやはり本当の意味で成仏するところの教えではありませんから、これを折伏していくべきであります。しかしながら、今日における「一凶」ということの意味からいけば、これはいわゆる正法の門を出でて邪法の獄に走ったところの創価学会が、最もその邪悪な姿として顕れていることを知るべきであります。その元凶は言うまでもなく、あの池田xxであり、その池田xxの体質をすベてそのまま受けたような形で、偏狭で自己中心の我意識をもって世間に誹謗と邪義の思想をまき散らしておるのが、創価学会の今日の姿であります。

彼らは日蓮大聖人の教えなどと言いますが、彼らの主張するところは全く大聖人様の仏法ではありません。先ほども申し上げましたように、大聖人様は常に正しい修行と振る舞いをもって、真の仏法、南無妙法蓮華経の法体とされておるのであります。ですから妙法を弘める上において、誹謗や邪義をもって世の中を誑(たぶら)かしていこうという考え方は、まことに大聖人様の仏法ではないのです。口先だけ「大聖人、大聖人」と言いながらも、実は大聖人様の仏法に徹底して背いておる。このような矛盾した考え方は、大変な誤りであると言うべきであります。

大聖人様は、「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(同1066ページ)とおっしゃっております。つまり日蓮大聖人、日興上人に背いて、仏法を惑乱しておるところの創価学会の者どもは、特に池田xxを中心とする大幹部の者どもは、堕地獄必定であると、ここにはっきりと『安国論』の教えに基づいて申し上げるものであります。

したがって、この一凶を禁じ、また救うべき意味において、一人でも多くの創価学会員、またそれ以外の人々にも慈悲の折伏を行じ、日蓮正宗の正しい仏法へ導くことが大切であります。なお今日、創価学会の誤りをいろいろに指摘しておる本がたくさん出ておりますが、それらもお読みになれば、参考になる点も多いかと思います。


今、宗門は「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって進んでおります。是非、皆様方には、この最後の御文「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」という、このところを心肝に入れられまして、縁のあるところから一人でも多くの人の迷妄を開き、正しい信仰の道に導かんという気持ちをもって精進していただきたいと存じます。

たとえそれが一人であったとしても、それだけこの世の中が明るくなっていくのであるということを確信されて、あらゆる面から折伏の意義を常に実践していかれること、それが『立正安国論』の正義顕揚に当たるのであります。

皆様の御精進を心よりお祈り申し上げまして、私の『立正安国論』の拙講を終わる次第であります。(題目三唱)



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