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創価学会SGIを本音で語ろう

創価学会SGIを本音で語ろう>掲示板

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  • from: 21世紀さん

    2009/03/03 07:13:12

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    戸田2代会長質問会より

    質問会のあり方
    このような大衆の質問会には、質問をする人を大きく分けると二色あるのです。すなわち真実に求めて聞こうとする味方と、やっつけてやろうという敵側とあるのです。

    また質問を受けるほうにも、受ける場所によって覚悟があります。やっつけてやろうという連中ばかりいるところへ行く場合には、それだけの腹がまえがいるのです。

    行って、めちゃめちゃにやられては、たまったものではありません。

    ところが仏法のうちでは、たいてい味方で、自分のわからんことを聞きたいと願ってるのがふつうなのです。

    それで私には敵でも味方でも、どっちでもいいのです。やっつけてやろうというなら、やろうという腹でやってもらいたい。

    質問するのには、敵であろうと味方であろうと、仏法の上には規則があります。

    それはいかなる経文におきましても、仏は「四衆に囲繞(いによう)せられ」ということばが、まず最初にあります。

    これは四つの種類の人に囲まれて、ということであります。
    その四種の人というのを説明します。

    まず影響衆(ようごうしゆ)という人がいます。経典はぜんぶ一つの質問会です。質問のないのは方便品だけですが、あれは無問自説というのです。

    釈尊の経典というのは、みな質問があります。質問をもって問い、問いがあって仏が答えをおこす。日蓮大聖人様の御書もぜんぶそうです。

    問いがあって答えをおこす。その時にその形のなかに、
    いまいう四種類があるのですが、影響衆といいますのは、かならず
    釈尊の説法をたすけ、日蓮大聖人様では五種の説法をたすける人であります。

    また当機衆(とうきしゆ)といいまして、その説法を聞いてわかる人がいます。結縁衆(けちえんしゅ)といいまして、そこで縁を結ぶ人がいます。

    それからもっとも大事な発起衆(ほつきしゆ)といいまして、
    質問をおこす人、この人が、そこに集まった人たちが聞かんとすることを、問いおこすのです。

    自分だけのことではないのです。
    発起衆はみなの気持ちを知っている、一般の代表者という意味になるのです。それを発起衆という。

    それなのに質問会を進めていくと、勝手なことをいいだすのです。

    たとえていえば病気なら病気のことを聞くでしょう。それもけっこうであると思います。このなかにも病気で悩んでる人がいるのですから、
    病気のことを聞いてはいけないということはありません。

    しかし、あの人はこの程度でなおるといわれたのだから私のもなおるのだと、こう承知したらどうですか。これを当機衆というのです。

    ああそういうものかな、もっと信心して、もっとわかろうといえば
    結縁衆です。
    このとおりでありました、私はそういう体験をもっておりますといえば
    、これを影響衆といいます。

    借金の話なら借金の話で、これも仕方のないことでしょう。
    仏法の話なら仏法の話で、いいでしょう。また学会に関することを聞くなら、それもいいことでしょう。

    ただ、同じことを重ねて聞かないようにしなさい。
    それだけを心得ていることです。発起衆は、自分だけ聞けばあとはいいのだというのでは、質問の意味はないと思う。

    それならば支部長でも間に合うことだし。地区部長がおかしいことをいったと、あれでは私の腑(ふ)におちないというなら、全地区部長に対するいい方になりますから、この発起衆の考え方、問い方はいいでしょう。

    また小児マヒの子供をもっているとするのです。このなかにもいるかもしれませんが、これは原則論としていつもいっていることで、なおるか死ぬかのどちらかです。

    親が子に悩む宿命をもってきたのだから子供に罪はない。ところで折伏すれば小児マヒの子をもつ必要がないという宿習に変わる。子供はそこにおれないでしょう。するとどうなります。

    ちょうどシラミをもっていたとする、からだをきれいにしてシャツをきれいにすれば、シラミはどこかへ行かなければならなくなる。理屈はこれと同じことです。

    小児マヒにしても一つの魔ですから、その親のそばにいなくなる以外にない。ここが、いつも教えるところなのです。

    これ一つがわかれば、小児マヒの話は聞く必要はないでしょう。
    それを何べんでも同じことを聞く、ここらで小児マヒの話が出るとあっちでもこっちでもと.....。

    まるで小児マヒの病院へきたみたいなものです。本山だか小児マヒの病院だかわけがわからなくなってしまう。

    借金の話が出ると、あっちもこっちも借金の話ばかりで、なんだか裁判所へきたみたいです。そうならないように質問してもらいたいものです。

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コメント: 全14件

from: 21世紀さん

2009/03/09 09:24:03

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「Re:戸田2代会長質問会より」
唱題中の邪念について
[質問]:唱題中いろいろと邪念がでて困るのですが。



真剣に信心していれば、しだいに御本尊のことだけを考えるようになります。「おどる宗教」で説く無我の境地などというのは、あるはずがありません。自分を忘れたら気違いであります。無常、無我、空は、小乗経の教えであります。

宗教は現実生活のうえの利益をめざしたものです。御本尊は主師親(しゅししん)の三徳を具備しているがゆえに、真剣に念ずる心(念力)があれば、種々の生活の悩みが解決されるのです。

観念文の観念とは心に念ずることで、それがきちんと御本尊に映ります。さきほどの質問にあったアル中の夫を総本山に無理してよこした妻は、自分でくるべきです。なぜなら悩むのは妻のほうだからであります。

いろいろの妄想が浮かぶのは、人間としてあたりまえで、私も唱題中に妻子のことを思うことがあります。信仰が強くなれば御本尊のことのみしか考えなくなります。これを法華三昧(ほっけざんまい)と
称します。妻の愚痴もこのときは子守唄のように聞かれるのです。

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from: 21世紀さん

2009/03/09 09:19:59

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「Re:戸田2代会長質問会より」
題目三唱について
[質問]:題目を三度ずつ唱える理由を教えてください。



日本で、題目を三度唱えることは、叡山(えいざん)から起こっているのです。これは、中国の天台宗からであり、方便品の十如是を三回繰り返すのは、空仮中(くうけちゅう)の三諦(たい)を意味するのです。

また自我偈(じがげ)は、本式には三度あげるのです。それは法報応の三身に読むのです。五度の場合は妙法蓮華経の五字、七度は七文字になぞらえるのです。

題目を三度唱えるのも同じように考えていいでしょう。



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from: 21世紀さん

2009/03/08 23:55:51

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「Re:戸田2代会長質問会より」
大目的のためにお金がほしい
[質問]:巨万の富をお与えください、とお願いしています。この金は大目的のために使いたいと思うのですが、どうしたらかなえられますか。



福運がなければできないことです。あなたは広宣流布のために、巨万の富をお願いするのだろうが、そんなのは大うそです!
また戸田はそんな金は欲しいとは思っていません。

自分の金が欲しいなら欲しいとはっきりお願いしなさい。広宣流布のためだの、学会のためだのという名目を利用して、金をもうけようとしてはだめです。御本尊様はきちんと知っていらっしゃるから、そんな願いはかなわない。

自分で欲しいなら欲しいとお願いしなさい。

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from: 21世紀さん

2009/03/08 23:52:31

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「Re:戸田2代会長質問会より」
御本尊にすがるということは
[質問]:御本尊様にすがるということはどういうことでしょうか。もう少しくわしく教えてください。



題目というものは大事なものであります。数の多いほどけっこうなことであります。
ただし、私が御本尊にすがりなさいということは、私も説明がたりませんでした。
それをはっきり申し上げておきます。

これは「主師親(しゅししん)の三徳」と申しまして、仏は、主人と親と師匠の徳をもっているのであります。大御本尊様は、この三徳を兼備していらっしゃるのであります。

そこで、すがるということは、親にすがるように題目を唱えては「この小児マヒの子供をなおしてください」「私はいま、貧乏で困っております」「お父様どうかお願いいたします」と、

そしてまた、題目を唱えては「ご主人たすけてください」そして題目を唱えるたびに、題目を五へん唱え十ぺん唱えしてはたのむ。「お師匠様、私によい方法を教えてください。こんなに貧乏していては困ります」「うちのだんなは競輪ばかり行って困ります。

なんとかいい方法を教えてください」と、主人と親と、お師匠様にすがってたのむように、御本尊様にたのむことをすがるというのです。

この純真な心から信心をすれば、また折伏もできるのであります。長い時間やったほうがいいとか、二時間やったほうがいいとか、功徳があるとか、そんなのは形式であります。

御本尊様へ、ほんとうの心でぶつかっていくのです。お父さんたのむ、ご主人様たのむ、お師匠様たすけてくださいという、その熱意、その心情が、信心に現れてこそ、医者もなおせない病気がなおるのです。





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from: 21世紀さん

2009/03/08 23:02:53

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「Re:戸田2代会長質問会より」
御本尊を返却した人の生活
[質問]:御本尊様をお返しした人が、どのような不幸な状態になるのか、教えてください。



これは、こわいことです。それは、私の友人に、牢の中へほうり込まれた連中が二十何人といるのです。これは戦争時代(昭和十八年)のことでありますけれども、そのとき、ほうり込まれた連中が、みんなおっかながって、御本尊を返したのです。

それがいま、一人として、ろくなものがいません。生活ができないのです。なかには、その事件におそれて、そうして、牢にも入れられないのに御本尊をそまつにした人間もいます。

そのころはりっぱな家にいたが、いま、四畳半にもいられないのです。だから、御本尊様をそまつにして、満足に生活ができたらお目にかかりたいものです。

私は、名前をいうわけにはいかないけれども、いまときおり、顔をだす人間もあります。御本尊をほんとうに持っている者は、どうにかなります。御本尊様をそまつにした者は一人も満足な者はいません。むかしは創価学会の幹部です。それが、いま、食うや食わずの生活です。こわいものです。

私は、いかなる難にあっても、御本尊様だけはお守りしきってきました。おかげさまで私だけはなんとかして、生かしていただいています。御本尊様をそまつにして、そして食える者があるわけがありません。見ていてごらんなさい。それは一年や二年ではわからないけれども、七年と区切ったら、きちんとでてきます。

それはでてきます。お返しするなら、させたらいいではありませんか。本人の自由です。信仰は自由、強制してはいけませんし、返すのなら返させなさい。やめるのならやめさせなさい。

そのかわりひどいめにあうのです。私が現にこの目で見ているのですから、それが、私が牢へいくまえの、みな幹部なのです。私が受けたあの大難で、おそれをなして逃げていきました。その逃げた連中が、いまどこで生活しているか知っていますが、ひどいものです。

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from: 21世紀さん

2009/03/08 22:57:39

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「Re:戸田2代会長質問会より」
折伏した人が何回も不敬
[質問]:私が折伏した人が、御本尊様を何回も不敬しました。今後はよい折伏ができるでしょうか。



これは難問です。何回も不敬したというのでは。よく罰論をいっておきましたか? (いいません)
それがあなたの悪いところです。御本尊様には功徳があります。また反対すれば罰があります。罰はあたるのではなくて、自分の生命からでるのです。

利益も罰も出る法則があってでるので、自分の力ではどうにもなりません。御本尊様を拝み、題目を唱え、折伏をすると、それが原動力となって功徳がでるのです。

初代会長牧口先生は、罰論専門で利益は後まわしでした。私は利益を先にしています。これが初代と二代の違いです。

初代会長が罰論をいったとき、罰論は創価学会がかってにつくったものだといって、坊さんのあいだにもずいぶん非難がありましたが、これは創価学会がつくったものでもなんでもなく、御本尊様がきちんとおっしゃっているのです。うそだと思ったら、御本尊様をよく拝んでみなさい。

右のかたには 「若(も)し悩乱せん者は頭(こうべ)七分に破れん」 と罰論が、きちんとあります。また左のかたには 「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」 と功徳論が厳然としてあるのです。

ゆえに御本尊様をそまつにすると罰があるのです。このことをあなたがはっきりいっておかないからいけない、罪はあなた自身にあるのです。

いま、たとえてみるに、清水に汚物を少し入れます。少しだから飲みなさいといわれて飲めますか。これと同様に、信心は清らかな法水です。疑ったりそまつにすれば、法水をぜんぶ汚してしまうのとまったく同様なのです。

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金吾

from: 21世紀さん

2009/03/07 09:22:44

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「Re:戸田2代会長質問会より」
なぜいろいろな御本尊があるのか
[質問]:御本尊様は一つだといわれておりますが、いろいろ違った御本尊様があります。どういうわけですか。また懐中御本尊様とはどういうものですか。



御本尊様は一つしかありませんが、無量義経に分身散体(ぶんしんさんたい)の法というのがあります。この分身散体の法というのは、日蓮正宗(昭和30年代当時)を除いて日本広しといえども絶対に説いておりません。

分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提(いちえんぶだい)の大御本尊に帰一するのです。

いま、懐中御本尊といいましたが、ふところに入れるものはなんでも懐中ですが、これはお守り御本尊といって、われわれが身をもって守る御本尊であります。

むかしは功労のあった人に御下付されましたが、現在も功労によっていただけます。純真に信心に励んで、お守り御本尊を受けられるようになりたいものです。

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from: 21世紀さん

2009/03/07 09:19:49

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「Re:戸田2代会長質問会より」
大御本尊を拝まないと罪障消滅しないか
[質問]:十月に入信して功徳を受けていますが、総本山の大御本尊様を拝まないと罪障を消滅できない、といわれたので登山しましたが、総本山の大御本尊様と家の御本尊様との功徳の違いを教えてください。



そんな指導をするのがおかしいし、またそれを聞いてくる者もとんちんかんです。各家庭の御本尊は大御本尊の血肉をわけた分身であり、功徳に変わりがありません。

総本山の大御本尊にお会いするのは、親もとへ帰りたいといった気持ちで、なつかしがってくるようでなければなりません

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from: 21世紀さん

2009/03/07 09:16:00

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「Re:戸田2代会長質問会より」
御本尊の違いについて
[質問]:奉安殿(現在(昭和30年代当時)は正本堂)の大御本尊様、あるいは客殿の御本尊様、御形木御本尊様といろいろありますが、これらの御本尊様に違いがあるかどうか、おうかがいします。



むずかしい問題です。がっかりすると悪いし、よほど信心のしっかりしている人であれば、きちんとわかってくれることなのですが、初信の人だと説明の仕方がへただと、ふと迷ってしまうのです。気が弱ります。

御本尊様には違いがあります。仏法の上では分身散体(ぶんしんさんたい)ということがあります。私なら私の心と同じ心にできているのを分身体というのです。奉安殿(正本堂の)大御本尊様、ここの客殿の御本尊様、私どものいただいている常住御本尊様、あなた方が拝んでいる御形木御御本尊様、それぞれ違うのです。

違うのですが、こちらの信心の仕方で少しも違わない結果を出せるのです。すべてそれは信力の問題です。

あなた方の御本尊様の力をいえば、釈尊時代からある仏と菩薩とを、みないっしょにしたその功徳の何億倍と違ってくるのです。釈尊時代にもその前にも仏はいたでしょう。それらの三世の諸仏の功徳がぜんぶ出ているのです。

これは勧心本尊抄に 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲(ゆず)り与え給う」 (御書全集二四六ページ)ときちんと出ています。




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from: 21世紀さん

2009/03/07 09:12:29

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「Re:戸田2代会長質問会より」
御本尊の罰について
[質問]:二年前に入信して、その後、御本尊様を返却したところ、そうとうな罰を受けました。ふたたび今年四月二十二日に入信しましたが、またあれやこれやの罰がでて、五月一日には、相手が人事不省になるほどの交通事故を起こしたので、班長に指導を受けておわびに登山しましたが、今後も、罰がでてきますか。家族の考えとしたら、もしも罰がでてきたら、とても恐ろしくて、御本尊様を持っていられない、「さわらぬ神にたたりなし」だから、また返したほうがいいのではないか、というのですが。



罰という問題ですが、これは、仏様が罰を与えるというふうにとるのは大間違いです。罰というものは、自分のもっている運命がでるものなのです。罰を与えるとかなんとかということを、よくいっておりますが、そんなものではないのです。

罰というのは、宿業のことなのです。自分の身にもっているものがでるのです。それを罰とも宿命ともいうのです。どんな仏様でも、罰なんか与えるわけはありません。ただでるだけのことです。御本尊を持(たも)っていると軽くでるのです。

山に登った者はかならず降りなければならぬと日蓮大聖人様はおっしゃっています。過去世からもってきた宿業は、かならずださねばならぬとおっしゃっています。ですから、罰というものは、わが身にあるものが、でるのです。それが軽くでるのが、この仏法の極理なのです。

ですから、おそらく、いま苦しいかもしれませんが、軽いものだと思っております。もしそれが、この御本尊を受けなかったら、重くでるのではなかったかと、私は思うのです。この御本尊をいただいておりますれば、でるのが軽くでるのです。

この片腕を取るという宿命の場合、小指一本取られたとします。片腕の代わりに、小指を取られるということを知らない場合には、御本尊様を拝んで小指を取られたではないか、そんなばかな話はないではないかと思うのです。

しかし、片腕を取られることがわかっていて、小指が取られたのなら「ああ、助かった」と思うのです。

そこです。これを転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)法門というのです。そういう法門の理でありまして、私はいまのご質問の方は、それでも、軽く受けているのではないかと思うのです。

ここで、また、御本尊を捨てたら、その運命は、また重くくるのです。軽く受けさせてやったのに、まだ文句いっている。そんなばかな話はないではないですか。それは、罪というものは、それで消えているはずなのです。二度続くはずはないわけなのです。軽く受けているのです。

私は、そう断じます。ですから、それを、変毒為薬(へんどくいやく)と申しまして、毒を変じて薬となす。そのことがあなたの信心と、あなたの誠意とによって、かならず軽く、そしてまた、そのことが、あなたの一生の生活に、得になってくるはずなのです。変わってこなければならないはずです。

まだ、これはほんとうの信心ではありません。いま、あなたは苦しいでしょう、嘆くでしょう、つらいでしょう。

そのことが幸せに変わらなかったら、ほんとうの信心ではありません。御本尊様はほんとうであるというわけにはいきません。悩み、苦しみ、そのことが幸せに変わってこなければいけない、それが御本尊様の功徳なのです。

ですから総本山に登った以上は、大御本尊様にたいして、あなたの心からのことをお願いしなさい。かならずとおります。とおらなかったら御本尊様ではありません。かならず、あなたの願いどおりになります。おわかりですか。

御本尊を返すなどとは根性がよくありません。そんなことをするから、ろくなことが起こらないのです。ただ宿業のままにでてくるのです。御本尊様を拝んでいれば、宿業のままにでても、軽くでます。同じ形ででるけれども、軽くでるのです。

それでそれが、ご利益に変ずるのです。そこが大事なことなのです。この御本尊様のありがたさはそこなのです。

持っている宿業のままにでて、それが罰として現れるのですが、宿業のままにでて、そのままで終わったのでは、たまったものではありません。前のなにをやったか知らないことがでてくるのですから、こちらが悪いことをした気持ちはないのですから、

前の世でやったからといって、でられたのでは、たまったものではありません。どうですか諸君、それは軽く、だしてもらって、それがこっちのもうけに変わらなければなりません。それを変毒為薬というのです。毒を変じて薬となす、そこが大事なことなのです。

中風で困っている、それは前の世で中風になるようなことをしたから中風になっているのです。それが釈尊の説法です。そんなことを聞いて 「ああ、そうでございますか」 といって、中風で「うんうん」といっていても、たまったものではありません。

その中風がなおって、そして前よりじょうぶになったら、毒変じて薬となったのでしょう。それでいいではありませんか。 「おまえは貧乏している、前の世でドロボウしたからです」「それでよくわかりました」 と、わかって貧乏したってしようがないではありませんか。

貧乏変じて金持ちになった。けっこうなことではありませんか。それが御本尊の功徳なのです。悪い宿業変じて、いい宿業に変わる、それが変毒為薬ということです。いま、あなたの苦しみは、そのまま変じて、かならず、薬にならなければならないはずです。

私のいうことを信じて、御本尊様に向かって、御開扉願った後であったならば、こちらの、これは御開山日興上人様の御本尊ですから、この御本尊様にきちんと、お願いして帰りなさい。

かならず願いどおりになるはずです。ならなかったら私のところへ、文句をいってきなさい。断じてひき受けます。

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from: 21世紀さん

2009/03/06 23:28:15

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「Re:戸田2代会長質問会より」
万年救護と一閻浮提総与の御本尊
[質問]:万年救護の御本尊と一閻浮提総与の御本尊との違いについて。



万年救護(まんねんくご)の御本尊と申し上げますのは、日蓮大聖人様の宣言書であります。この宣言書には二つあるのです。佐渡始顕(さどしけん)の御本尊も宣言書であります。

これは三世十方の諸仏に向かって「日蓮はこの本尊をもって、衆生を救いますぞ」という宣言書が、佐渡始顕の本尊です。

また万年救護の御本尊は「おまえたちを、これによって救ってやるのだぞ」という宣言書であります。

一閻浮提総与の御本尊というのは、その奥にもう一段高く、この御本尊をもって「おまえたちはみな拝めよ。この御本尊によれば、おまえたちのいっさいの悩みは解決するぞ」という御本尊です。

万年救護の御本尊は保田(ほだ)の妙本寺にあらせられます。保田の妙本寺を開基した日郷(にちごう)という人が、寂日坊にあった万年救護の御本尊を持ったまま、千葉の保田へいって、そこへ寺を造ったのが、妙本寺なのです。

今度ようやく、妙本寺の富士師が目ざめて、六百何十年後の今日において、総本山へ帰伏(昭和三十二年四月)したのです。大石寺門流になったのです。

そこに万年救護の御本尊はあります。「先祖がもっていったのだから、いずれ、かえすだろう」と私は思うけれども、まだわかりません。

万年救護の御本尊は、衆生に対する宣言書なのです。いま奉安殿に(現在(昭和30年代当時)は正本堂に)います大御本尊様が、ほんものなのです。これが大もとになってしまうのです。

たとえていえば、金庫みたいなものです。金庫の前に書いた証書が、万年救護の御本尊です。中身が奉安殿の大御本尊様であらせられるわけです。

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from: 21世紀さん

2009/03/05 21:38:16

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「Re:戸田2代会長質問会より」
大御本尊の対告衆について
[質問]:一閻浮提総与の御本尊様と、弥四郎国重という方とは、どういう関係でしょうか。



邪宗のものが「大御本尊様の対告衆(たいごうしゆ)が弥四郎国重となっているが、法華講中弥四郎国重という方は存在していない」という。
これが一般の断定なのです。

また、これを、熱原三烈士の一人となぞらえている人も、学説上あります。南条殿の子供と断定している人もあります。だが、だいたいの学説においては架空の人ということになっています。これは私ももっともなことだと思います。

なぜ、日蓮大聖人様が「法華講中弥四郎国重」として、弥四郎国重を大御本尊様の対告衆にしたかという問題なのです。これはよほど仏法に通達してこないとわかりません。

しろうと論議だと納得できないことです。少なくとも、信仰に透徹して、仏法の奥儀がわかれば、ごくかんたんな問題なのです。

なかにはこういう議論を立てる者もいます。「大御本尊様は日興上人に授与したのであるから、なぜ対告衆を日興上人になさらないのか」と。

それは、日興上人を対告衆としたのでは、一閻浮提総与とはならないのです。この一閻浮提総与の御本尊すなわち南無妙法蓮華経というものは、全世界にひろめる人、まずこれを日本にひろめて戒壇を建立する人に授与すべきものなのです。

ここで問題が一つあります。そのまえにいっておきますが、私がおどろいたことが一つあります。
それは、私が東之坊を創価学会として総本山へご寄進申し上げたときのこと、僧侶から話がありまして
「仏器から御厨子(おずし)までぜんぶ私がお引き受けしますから、あとはよろしく取り計らっておいてください」といったのです。

そうしましたら、東之坊の御本尊の対告衆は私になっているのです。ほんとうなら東之坊に御僧侶がいらっしゃるのですから、その御僧侶へお下げ渡しになったらいいはずでしょう。

「私の名前でやってください」といったのではないのです。しかるに、御本尊お下げ渡しの原則によって、私にお下げ渡しになっている形になっています。

しかし、あの御本尊様は東之坊の御住職の、身にあてたまわる御本尊です。ただ対告衆が、私であるというところを、よくよく考えてもらわなければなりません。

そこで、弥四郎国重の問題ですが、対告衆に一連のものがあるのです。まず法華経の読み方がわかっていれば、弥四郎国重の問題もわかってきます。

法華経がりっぱな経典であることは、だれでも認めています。そのなかに書いてあることを、まず認めなければなりません。ところが日蓮大聖人の御書にも、序品八万の大衆ということばが使われていますが、序品八万の大衆はどうなるでしょうか。

経文には、そこに集まった人の名前が記されています。まずはじめは舎利弗(しゃりほつ)、神通第一の大目犍連(もつけんれん)、その他の阿羅漢(あらかん)を集めて万二千人となっています。

菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)八万人、摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)の眷属(けんぞく)六千人、名月(みょうがつ)天子その他の天子の眷属数万人、跋難陀(ばつなんだ)竜王などの眷属、

これも、何万人、かくして集まった阿闍世王(あじゃせおう)の眷属何千人。ソロバンにおいてみたことはないのですが、霊鷲山(りょうじゅせん)へ、ざっと二、三十万集まっています。

そうしたらどうなるでしょう、そんなにたくさん集まれますか。一つの都ができてしまうではないですか。しかも八大竜王もきています。阿修羅王もきています。そんなものがきているわけがないではないですか。

かりに集まっても便所の設備だけでもたいへんです。八年間もそんなに集まって、いくら釈尊が仏でも二十万、三十万に聞かせる声がありますか。

そうなってくると霊鷲山に集まったというのは、おかしいではないですか。菩薩が八万人も集まるわけがないではないですか。総本山に七万人の人が御遷座敷(せんざしき)に集まっても、あの騒ぎです。

いま三千人集まってもこの騒ぎではないですか。山の中です、広場ではないのです。そうなったら仏法上の根幹をなす「序品八万の大衆」はどうなりますか。

日蓮大聖人様は、はっきりとお認めになっています。しかも事実の研究の上からゆけば、そんなものはありません。ないものを書いた法華経は、信用できなくなるでしょう。

もし法華経がだめだとなれば信ずるものがなくなってしまいます。

それは何十万でもかまわないのです。なぜかならば、釈尊己心(こしん)の舎利弗であり、釈尊己心の八万の菩薩であります。釈尊己心の提婆達多(だいばだつた)であり、釈尊己心の八大竜王であります。

死んでそこにはいないはずの舎利弗にも、己心の舎利弗なるゆえに話しかけえたのです。釈尊の胸に集めた何十万の人、それを対告衆として法華経を説いているのです。
生命の実相をはっきりしなければ、法華経の序品から読めなくなってきます。

よく「法華経を読みました」などという人がいますが、おかしくてたまりません。読めるものですか、読めるわけがありません。大御本尊を信じないで、読めるわけなんかありません。

もし、ありとすれば、大御本尊様を信じないまでも、大御本尊を知りぬいていえなかった竜樹(りゅうじゅ)、天親(てんじん)、天台、妙楽はこのかぎりではありません。読めていたのです。

その意味からいきますれば、弥四郎国重は法華経をひろむべきいっさいの人を代表した人物、日蓮大聖人己心の弥四郎国重なのです。実在の人物ではない。実在の人でなくても、いっこうさしつかえないのです。

歴史的に調べて実証して、こうあらねばならんなどというのは、科学ということばに迷った人のやり方で、仏法哲理の上からいけば、日蓮大聖人己心の弥四郎国重に授与あそばされたのですから、

日蓮大聖人のお考えとしては、もっとも理想の人格、法華経の行者の弟子として、理想の人格の人物として、世の中へおさだめになって、その者にお下げ渡しになっているのですから、

そんなこと、実在であろうとなかろうと、考えなくともいいことになってきます。

第一、智者の舎利弗の議論にたいして、寿量品を立て、生命を捨てて守護する信者を代表して、己心の弥四郎国重を日蓮大聖人は立てられたのです。

諸君も、日蓮大聖人己心の弥四郎国重になりきりなさい。

これは私はたくさんの人のなかでは話しません。もしこれを話して、あなた方がこれを人に話していい負かされたり、自分の心に疑いを起こしたりしたならば、かならずや罰を受けねばなりません。

それほど重大な本尊論の問題でありますから、めったに話したことはありません。ごく側近の者に話したことがあります。

本日はもしこれをいわなければ、なおさら疑いを起こす時期にきているように思いますからして、やむなく問いにまかせて答えました。これは絶対にまちがいのないことですから、信じていただきましょう。

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from: 21世紀さん

2009/03/05 01:23:36

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「Re:Re:戸田2代会長質問会より」
弘安二年十月十二日の大御本尊
[質問]:弘安二年十月十二日の御本尊様について教えてください。



弘安二年の御本尊は、本門戒壇の大御本尊と申し上げ、日蓮大聖人が出世の御本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕になられたのであります。

聖人御難事に、建長五年より、余は二十七年にして出世の本懐を遂げるとおおせあそばされています。

日寛上人は、大御本尊様について
「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟(くきょう)中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況(いわん)や一閻浮提(世界)総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄分段)と
いわれています。

さらに、日寛上人は、大御本尊の功徳について
「これ則(すなわ)ち諸仏諸経の能生(のうしょう)の根源にして、諸仏諸経の帰趣(きしゅ)せらるる処なり。故に十方三世の恒沙(ごうしゃ)の諸仏の功徳、十方三世の微塵(みじん)の経々の功徳、皆咸(ことごと)くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬(たと)えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用(みょうゆう)あり。故に暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕(あらわ)れざるなきなり。妙楽の所謂(いわゆる)「正境に縁すれば功徳猶(なお)多し」とはこれなり」(観心本尊抄分段)と
おおせであります。

このようにすばらしい大御本尊が、七百年の昔から日本に厳存し、今日では奉安殿に(現在は正本堂に)御安置されているのです。

これに対しては、なにものも絶対疑っては相なりません。いま安永弁哲が、偽作論のなかで、第九代の日有(にちう)上人様が板曼荼羅(いたまんだら)を偽作したといっている。

これが他宗の間違った議論なのです。これにみな迷う。総本山で、明らかにすればいいのに秘密主義なのです。

それは「時を待つ可(べ)きのみ」(御書全集1022ページ)というご命令をそのままうけていらっしゃるから、正直なのです。総本山ぐらい正直なところはないのです。

日有上人が御本尊を偽作したというのは、身延の連中のいうことなのですが、そういわれると、そういうこともあるかなと、思うものもあるでしょう。

私は総本山にきて、日有上人の御本尊を拝したことがあります。これは現在でも御宝蔵にきちんとしまってあるのです。身延派はこの御本尊様と間違えているのです。

またおかしいのは紫宸殿(ししんでん)御本尊様のことをいっているのでもない、これは年号が違うのです。またどの御本尊様ともいえない。まったくのうそです。

弘安二年の御本尊様は、弘安二年の御本尊様です。これは拝んでみれば功徳があるのでわかるではないですか。あの御本尊様を他の人がつくれますか。

私がラジオやテレビを作るようなもので、いくらやっても映らないようなものです。洗濯機にしても私の作ったのでは動かないのです。そのようなものです。

大御本尊様を拝んでいれば、そんなことはわかるではないですか。弘安二年の大御本尊様は、日有上人がつくったのではありません。日有上人のは別にあるのです。





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from: 21世紀さん

2009/03/04 18:55:00

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「Re:戸田2代会長質問会より」
南無妙法蓮華経とは
質問]:「南無妙法蓮華経」とは、どのような意味があるのでしょうか。



南無とは帰命、すなわち妙法蓮華経に絶対にしたがうという意味です。妙法とは、われわれ人間の智ではかりしれぬ不思議な法であり、蓮華の法であります。

われわれは泥沼にいるのです。泥沼から咲く花は美しい、華と果が功徳となって現れる、これが因果倶時(いんがぐじ)であります。

経とはわれわれがありがたいと思うことです。これ自体が、われわれの運命を支配するのです。

別の立場からこれを拝せば、無作三身如来すなわち根本の仏様であり、永遠に不変の仏の御名をいいます。末法にはいっては日蓮大聖人様であり、
日蓮大聖人様御自身所有の、久遠元初(くおんがんじょ)のありのままの生命と力とを、大御本尊様にしたためられたのが、法本尊即日蓮大聖人様、人本尊です。すなわち人法一箇であります。

われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、われわれの生命に感応して湧いてくるのです。

われわれもやはり、ありのままの永遠真如の自分にかわるのです。これが「南無妙法蓮華経」の実体であります。

さらに私の体験から話をします。

いまから十年前に「仏とは何であろうか、いるのか、いないのか」と考え、仏教書を読んだがわからず、無量義経につきあたりました。

それには「其の身は有に非ず亦無に非ず....紅に非ず紫種種の色に非ず」(無量義経徳行品第一)とあり、真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました。

そして十界論から南無妙法蓮華経と仏とはいかなる関係かを悩んだすえ、仏の名であることがわかったのです。

あらゆる人の宿命を、転換しうる力を備えられた久遠元初の、宇宙の根本の力、最高の仏と気づき、これよりあらゆる仏典が読めるようになりました。

宇宙の現象は、みな妙法蓮華経の活動であります。妙法とは一応われわれの心であり、蓮華とは体のこと、泥沼より清浄な開花をみせる蓮のごとく、欲ばり、ひねくれた根性で、泥沼にいるような者も、

蓮華の清浄さをたもつ体になれるのです。経とは心と体の働きをいいます。さらに、貧乏人が金持ちになるように奇蹟(きせき)のような、説明のつかぬ現象が起こる、これを妙法というのです。

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