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創価学会SGIを本音で語ろう

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  • from: 21世紀さん

    2009/04/14 03:16:46

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    創価学会の邪説を破す!

    要法寺から貫首をスカウト!?
    --------------------------------------- ■創価学会の邪説■
     「富士の清流」というが、人材難で困窮(こんきゅう)した大石寺は、第十五世日昌上人以降、京都の邪宗・要法寺から法主をスカウトし、その命脈をつないできたのであって、その歴史はけっして「清流」と呼べるものではなかった。



    ---------------------------------------
     破折


     創価学会の言う「要法寺からのスカウト」とは、かつて大石寺と要法寺の間に通用(つうゆう)があった時代、九代にわたる御法主上人が要法寺のご出身であられたことを、悪口しているものである。
     要法寺とは
     まず、要法寺について説明する。
     要法寺は、日興上人の御弟子であった大夫阿闇梨日尊師が京都で開いた寺院・上行院と、その弟子日大の開いた住本寺が、合併してできた寺院である。
     それ故、要法寺は実質的に日尊師の開基といってよく、当初、その教えは日興上人の教えをもとにしたもので、大曼茶羅(戒壇大御本尊)を根本とし、大石寺を本寺(本山)と仰ぐ寺院であった。
     しかし、時が下り、広蔵院日辰が貫首となる頃には、釈迦仏像を本尊とし、一部読誦(法華経一部八巻二十八品を全て読誦する修行)を行なうなど、大石寺と異なる教えも混在するようになったのである。

     大石寺との通用
     こうして要法寺は、半分は大石寺を本寺と仰ぎながらも、半分は大石寺とは異なる教えを奉ずる宗団と化したため、大石寺との通用はほとんどなくなった。
     それ故、要法寺の日辰が北山本門寺や大石寺に連合するよう声を掛けた時も、第十三世日院上人はこれを峻拒(しゅんきょ)されている。
     しかし、第十四世日主上人の頃になると、要法寺の中では、大曼茶羅正意を立て大石寺を本寺と仰ぐ者たちが多数を占めるようになった。
     そこで、日主上人と当時の要法寺の貫首・日?(貝+周)師との間で話し合いがなされ、再び要法寺と大石寺の通用が始まったのである。

     要法寺と大石寺との関係
     この時、盟約の証として、大石寺日主上人は要法寺に第三祖日目上人の御本尊を授与され、要法寺側は第二祖日興上人の御本尊を大石寺に納めている。
     この時、日主上人からは要法寺に
     「今度世出申し合わせに就て要法寺貫首日?(貝+周)の時に臨(のぞ)み要法寺に授与せしむる者なり」
     (富要集第九巻六十七頁)と書き送られ、また、日?(貝+周)師の側からも
     「中(なか)ん就(ず)く、前代未聞の真宝日目上人御筆拝領の儀、万年久住の嘉瑞なり。即僧侶を以って謝詞を伸ぶべきの処、遠路の故に遅延し本意の外に候。(中略)御堅約の為に開山上人御筆一幅拝贈納受に於いては欣懌(きんえき)たるべく侯」
     (富要集第九巻六十八頁)との返書が寄せられている。
     この書面の違いを見ても判るように、日?(貝+周)師が大石寺を本寺と仰ぎ、日主上人に師弟の礼をもって接していることが判る。
     以上のことから、当時の要法寺は大石寺の末寺としての意識が高く、現在の様相とは全く異なっていたといえよう。
     こうして通用の始まった要法寺から、大石寺へ登り、血脈相承を受けるお方が出たからといって、「邪宗からスカウトした」だの「富士の清流とは言えない」だのという疑難は、ことごとく的外れであることは、いうまでもあるまい。

     創価学会の自語相違
     ついでながら、日蓮正宗の信徒団体であった頃の創価学会は、要法寺出身の御法主上人についてどう言っていたか、紹介しておこう。
     「血脈相承のない邪宗日蓮宗のあいだでは、やきもちをやいて二箇相承は後人の偽作であると悪口し、ひどいのになると、日蓮正宗は、第十五代から要法寺出身の貫首を迎えたから″欠脈″であるなどという迷論を吐く者もいた。
     最近は、自己のバカさかげんをよくよく知ったのか、ほとんど聞かなくなったが。
     ここでちょっと、要法寺についてふれておくことにしよう。
     要法寺は、日興上人の弟子日尊が開いた寺で、富士門流の京都における牙城であった。
     日尊は東北の出身で、第四代日道上人とは俗縁も深く、親しいあいだがらだっだ。身延に登って日興上人の薫陶(くんとう)を受けるようになってからは、その成長はいちじるしいものがあった。
     ただ″神天上″の宗義に徹しきれなかったきらいがあったため、日興上人から厳しい指導を受けたが、それで発奮(はっぷん)し、伝説によると、東北・関東に三十六か寺も作ったといわれる折伏の闘士であった。
     のちに日目上人にしたがい、京都へ天奏(てんそう)の旅に発ったが、不幸にして日目上人が美濃の垂井でおなくなりになられたため、翌年、日目上人に代わって天奏をとげ、ご遺志をまっとうしたのだった。そして、そのまま京都にとどまり、富士門流の正義を顕揚(けんよう)したのである。
     大石寺と要法寺との交流が繁くなってきたのは日蓮正宗第十四代日主上人のころだった。
     第十五代日昌上人から、第二十三代日啓上人までは、要法寺から晋山(しんざん)された猊下である。他宗の非難する点はここにあるが、同じ富士門流から晋山し、総本山に忠誠を尽くすのに、なんの不都合があろう。しかも、その間、総本山の化儀化法においては、いささかの乱れもなく、宗門興隆の任にあたられたのである。」
     (「大白蓮華」昭和三十八年八月・第一四七号「日蓮正宗の歴史」⑧)
     この見解こそ正論なのであり、現在の創価学会の疑難は、かつて学会が破折してきた「邪宗」そのものの見方なのである。この一事を見ても創価学会の狂いぶりがしれよう。

     御法主日顕上人猊下の御指南から
     ところで、この疑難は、創価学会による「五十二年路線」の渦中に、すでに学会内で準備されていたものであった。
     当時は、創価学会も「時に利あらず」として、これを使わないまま引っ込めたが、その種子が今日まで温存されてきたというわけである。
     平成四年、御法主日顕上人猊下は、これら学会が準備していた疑難を、詳しく破折あそばされている。以下、謹んで奉載させていただき、結びとする。
     「(学会の疑難=十五世日昌上人から九代にわたる法主が要法寺系から来た理由と、なぜ大石寺に人材がいなかったのでしょうか、との質問に答えて)
     これも、何とか誹謗せんとの難癖であります。
     当時は、現在と違って、もっと興門全体がまとまった一つの意識を持っておった、と思われますし、尊門(日尊師門流)の京洛における殷賑(いんしん)興隆の相もあり、現在の総本山と要法寺の状況によって判断するのは、大きな誤りであります。
     特に、法脈の正潤(せいじゅん)に関しては、日道上人の文献に見られる、要法寺の開基である日尊師の道師に対する態度は、師弟の礼と申しても差し支(つか)えない、と感じられるほどでありますし、また、日尊師は、「付弟(ふてい)一人の外は書くべからず」として、生涯、御本尊を書写することはなかったのであります。ゆえに、尊師(日尊師)書写の本尊は一幅もございません。今の要法寺の貫首達は平気で御本尊を書いているけれども、開基である尊師は一幅も御本尊をお書きになっていないのです。
     つまり、尊師が、四世日道上人に相承ありと拝していたからでありますし、大石寺を本山と仰いでいた故である、と考えられます。
     (中略)
     したがって、開基の日尊師のそのような流れの中で、まだ年代があまり経ていない当時は、今日のように大石寺と別の宗派を構える、というような状況では、けっしてなかったわけです。ただ、特に主師(日主上人)の時から通用するようになり、そして十五代日昌上人から九代にわたって、この要法寺から御法主がおいでになっておるということは事実であります。
     けれども、それだからといって大石寺に人材がいなかったというわけでは必ずしもないと思います。
     だだ、そのような流れになりますと、やはり当時、京都は王城の地として、いろいろな面で中心でもあり、対社会的な在り方や布教の形等、さまざまな面で他の田舎の寺院とは違った意味がたしかにあったと思うのです。
     しかし、さらに当時の要法寺門中には、興師門下における大石寺の法脈正系を信じ、できるかぎり加護すべしという、尊師以来の伝統意識があったと思われます。そういう意味からも、一度お迎えするという形ができると、九代にわたってその形が続くような必然性、妥当性が生ずることは当然、とも考えられます。
     それを、当時の要法寺の状況や、大石寺との関係を考慮せずに、大石寺に人材がいなかったのは何故かと疑問視すること自体、考え方が未熟なことからの質問であるといえます。」

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コメント: 全4件

from: 21世紀さん

2009/04/17 13:29:07

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「Re:創価学会の邪説を破す!」
「西奥番室での後継指名で法主が決まった」!?

“遺族が後継指名”などもとよりない

---------------------------------------  
 創価学会の邪説
 
 日達上人が御遷化(ごせんげ)された五十四年七月二十二日早朝、日達上人の御遺体の帰山後、西奥番室にいた遺族の細井珪道(尊師)、細井託道(脱落僧)、そして菅野慈雲(尊師)らに対し、阿部総監(現・日顕上人)は「あとのことはどうなっているのか」と切り出した。菅野(尊師)が「総監さんじゃないんですか」と言ったところ、日顕(上人)は複雑な表情で「そうかぁ……」と呟(つぶや)いた。
 この時、日顕(上人)が法主に決まったのだ。
 前年四月十五日の相承などという“自己申告“は、この、日達上人の遺族三人からの指名を受けて思い立った、辻棲(つじつま)合わせだ。
---------------------------------------

  破折

 そもそも、日蓮正宗の宗規からいって、いかに前御法主の縁者・遺族であっても、後継指名をする立場などに当たっていないことは、宗内の僧侶方の誰もが知悉(ちしつ)している。
 したがって、そこへ、わざわざ後継指名を受けに行くこともなければ、遺族が後継指名を与えるなどということも、もとよりありえないのである。
 では、この西奥番室での会話の実際はどうであったのか――。
 七月二十二日の早朝、あわただしい状況下の総本山に着かれた日顕上人ば、むろん御自身としては、前もって御相承を承けられているお立場であったが、それが″内付″の形であったことから、″日達上人の側近であれば、予(あらかじ)め、その御内意を伺っていたであろう″と思し召しになって、念のために、菅野尊師らに「あとの当職について聞いているか」と質問をなさった。
 それに対し、菅野尊師が「あとのことは、総監さん(日顕上人)だとお決めになっていました」と、自分の存じ上げるままに答えられたのである。
 すなわち、西奥番室でのこの会話自体、御先師日達上人より日顕上人猊下への継承を証明するものであり、″遺族が後継を指名″という与汰(よた)話など、どこにも入り込む余地はないのである。

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from: 21世紀さん

2009/04/17 12:32:28

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「Re:創価学会の邪説を破す!」
三宝論(1)
 「僧宝は血脈付法の日興上人のみ」!?
血脈伝持の御歴代上人に僧宝心義
 
 創価学会の邪説 
 
 宗門は、三宝について、「法宝は大御本尊、仏宝は日蓮大聖人、僧宝は日興上人以下歴代法主」としているが、正しくは「僧宝は第二祖日興上人」のみであって、それ以下の歴代法主を加えるのは誤りである。
 もし、僧宝に歴代法主を加えるとすれば、それは総じての立場であり、そのときは日蓮大聖人の仏法を信じる我々学会員も僧宝なのである。
 
--------------------------------------------------------------------------------

 破折 

 僧宝の意味
 
 僧宝とは、仏の代理者あるいは後継者として、仏の説かれた法を伝承・護持し、世に弘通していく方のことであり、その重大な役割について、『四恩抄』には
 「僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。譬(たと)へば薪(まき)なければ火無く、大地無ければ草本生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝(つた)はるべからず」 (御書二六八頁)また、日寛上人の『当流行事抄』には
 
 「仏恩(ぶっとん)甚深(じんじん)にして法恩も無量なり、然りと雖(いえど)も若し之れを伝えずんば則(すなわ)ち末代今時の我等衆生、曷(なん)ぞ此の大法を信受することを得んや」 (聖典九五一頁)
 と仰せである。
 すなわち、仏宝・法宝は三世常住である、といっても、僧宝があってはじめて世に久住し、万年の衆生を済度せられるのである。
 ゆえに日蓮大聖人は、御入滅後の令法久住を鑑(かんが)みられ、唯授一人の血脈相承をもって、第二祖日興上人に法体と仏法のすべてを委ねられ、僧宝の任を与えられたのである。
 しかして、その任は、日興上人より三祖日目上人へ、日目上人より四世日道上人へと受け継がれ、さらに代々の上人を経て、現六十七世日顕上人に受け継がれているのである。
 学会が主張するごとく、「僧宝は日興上人のみ」とするならば、前(さき)の『当流行事抄』に
 
 「之れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信受することを得んや」
 と仰せのとおり、日興上人が御遷化された時点で、仏法は断絶して、後世に伝わらなくなってしまうことになるではないか。
 しかるを、大聖人御入滅後、また日興上人御遷化の後、現在に至るまで大聖人の仏法が清浄に持たれてきたのは、御歴代上人によって受け継がれてきた故であり、これこそが僧宝の義なのである。
 したがって、道理の指し示すところ、日興上人を筆頭とする御歴代上人方すべてが僧宝にあたることは、申すまでもない。
 
 僧宝の拝し方
 
 さて、この僧宝について、もう少し詳しく述べておこう。
 日興上人以下、御歴代上人が僧宝であられることは、以上のとおりであるが、日蓮正宗宗規には
 「血脈付法の人・日興上人をもって僧宝とする」
 と定められ、また日顕上人猊下も
 
  「基本においては、日興上人をもって僧宝の随一として拝するわけであります。そういうところからするならば、歴代法主は僧宝以下の立場」 (昭和五十八年三月三十一日御指南)
 と述べられ、「僧宝は日興上人である」旨を御教示されている。
 これをどのように拝すべきであろうか。
 順を追って説明すると、まず、「僧宝」とは、単なる客観的概念ではなく、「宝として尊ぶ」という信仰上の尊信の対象である。
 信仰上の尊信とは、自ら身を低くして、下から上を仰いで尊ぶことであるから、もし、自らを宝である、としたならば、そこには信仰そのものが成立せず、かえって驕慢(きょうまん)謗法に堕することになる。
 ゆえに、それぞれの立場における信仰・尊信に約していえば、信徒の立場からは、二祖日興上人以来の御歴代上人方および正法の護持伝承に励む本宗御僧侶方を、次に御僧侶方の立場からは、日興上人以来の御歴代上人方を、そして御歴代上人の立場からは、御本仏日蓮大聖人から直授相承を受けられた日興上人を、それぞれ僧宝と仰ぎ尊ぶことが、正しい在り方となるのである。
 すなわち、日蓮正宗宗規に定められる「日興上人をもって僧宝とする」とは、上一人の御法主上人から下全僧俗までを含む全日蓮正宗として僧宝を仰ぐ場合の表現であり、同じく日顕上人の御教示は、御法主上人としての立場で僧宝を仰いだ場合の表現である。
 したがって、これをもって一般の僧俗が、僧宝を二祖日興上人のみに限定し、「それ以下の歴代法主を加えるのは誤り」などと称するのは、まったく仏法の筋道のわかっておらない大きな間違いである。
 また、「歴代上人が僧宝ならば自分たち学会員も僧宝」などというのは、自ら「自分たちは宝だ,尊信しろ」と言っているようなもので、驕慢謗法の謗(そし)りは免(まぬが)れない。
 
 創価学会の三宝観の変遷
 
 最後に、三宝について、創価学会は、かつてどのように指導し、それがどのように変わってきたか、見てみよう。
 この変遷の激しさを見れば、創価学会の三宝籤がいかにいい加減で、でたらめであるかが理解できよう。「仏法に三宝というものが説かれている。いうまでもなく仏法僧の三宝であるが、この『僧宝』問題なのである。『僧宝』と言っても僧侶を意味するのではなく、社会の中で実践し法を正しく伝持する人々のことである。(中略)今日における『僧宝』つまり仏法実践者の組織としては創価学会があり」云々。 (『聖教新聞』昭和四十九年五月二十七日付)
 これは「聖教新聞』のコラム「名字の言」に掲載されたもので、創価学会自らを「僧宝」と僣称する驕慢謗法の発言である。
 この驕慢発言について、昭和五十二年路線の折、宗門から誤りを指摘され、訂正した際の指導が、次の三つである。
 
 「ここで『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる。」 (『聖教新聞』昭和五十三年二月二十六日付・池田x作指導)
 
  「『僧宝』とは、正宗においては第二祖日興上人のごとであり、また会長(※池田x作)も発言しているごとく、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人猊下であらせられる。したがって、この正宗教義の根本となる僧宝と、信心実践面での和合僧ということについては、絶対に混同するようなことがあってはならない。また、広義においても、学会を『僧宝』という言い方はしてはならない。」(昭和五十三年六月三十日付・「教学上の基本問題について」)
 
  「正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。
 大聖人が『仏宝法宝は必ず僧によりて住す』と仰せのように、仏恩も法恩も広大であり、甚深でありますが、その仏法を正しく伝持してこられた方々がいなかったならば、現在の私たちに、御本尊を受持して、希望と確信に満ちた人生はありえないのです。
 僧宝がいかに尊く大事な存在であるかを知り、尊敬と感謝と報恩の信心をもって御僧侶を敬い、僧俗和合の姿で広宣流布に邁進していくことが肝要です。
 この末法の三宝を正しく信受していくことが、真の信仰であり、それ以外の三宝に執着することは謗法となるのです。」 (『大白蓮華」昭和五十四年十一月号・「教学教典」)
 
 ご覧のとおり、「僧宝は御歴代上人」とし、「創価学会を僧宝と称してはならない」「日蓮正宗以外の三宝に執着することは謗法」と、明確に言い切っているではないか。
 それが、平成三年以降になると、次のように変わる。
 「厳密にいえば、歴代の法主は僧宝以下の立場。」  (『聖教新聞』平成三年九月十日付・池田指導)
 
  「仏法の基本である『三宝』は、歴代上人が御指南されているように、『法宝』は御本尊、『仏宝』は日蓮大聖人、『僧宝』は日興上人であり、三宝が相即する御本尊を拝し奉るのが、私たちの信心である。また日達上人が『代々の法主が日蓮大聖人ではない』と御指南され、歴代法主は僧宝以下の立場であることは明らかである。」(『聖教新聞」平成三年九月三十日付・秋谷指導)
 
 以上に見てきたように、創価学会の三宝観はコロコロと変遷しており、時には 「学会こそ僧宝」と言い、その誤りを指摘されるや、あわてて、「御歴代上人こそ僧宝」と誓い直す。ところが、平成三年以降、日顕上人をはじめとする御歴代上人に対する誹謗が「僧宝」誹謗にあたることを指摘されるや、今度は「歴代法主は僧宝ではない」などと言い出す始末。
 これほど無定見、無節操な僧宝観はあるまい。
 そもそも、三宝は宗旨の根幹であって、これがコロコロ変わっては、教義そのものが変遷していることと同じである。
 それを、その時々の都合次第でいかようにも変遷させるのだから、その意味でも創価学会は、『三宝破壊』の大罪を犯し続けている、といえるのである。

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from: 21世紀さん

2009/04/17 12:27:17

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「Re:創価学会の邪説を破す!」
塔婆)
  「塔婆は信徒支配の道具だ」!?
  塔婆供養で精霊成仏の大功徳が

[創価学会の邪説]
 日蓮正宗では、「故人の成仏に塔婆は不可欠」と言うが、もともと塔婆という言葉は、仏塔(ストゥーパ)が起源で、栄来、仏を尊崇するために建てられたものであり、故人への追善回向のためのものではなかった。
 これを追善回向のために用いるのは日本だけの風習で、大聖人も、「信仰上、塔婆が不可欠」とか「塔婆供養しなければ先祖が成仏しない」あるいは「故人の回向にならない」などということは言われていない。
 今日、日蓮正宗が「塔婆を建てないと成仏できない」とか「地獄に堕ちる」などと言うのは、金儲けと信徒支配の道具にするためである。


--------------------------------------------------------------------------------

破折

 
 仏教史観の誤り
 創価学会は、塔婆の起源を「仏への供養であり、故人の成仏には関係ない」などとしているが、塔婆が故人への供養の意義をもっていることは『瑜伽論起(ゆがろんき)』などにも説かれており、学会の仏教史観は誤りである。
 まして、御本仏日蓮大聖人が、御自ら塔婆供養の大功徳を御教示されており、これを「信徒支配の道具」などと蔑(さげす)むことは、天魔の所為である。
 

 <写真テロップ>
(今では「塔婆は金儲け・信徒支配の道具」と誹謗しているが、平成二年までは、池田らも戸田氏の追善回向のために塔婆を建てていた――学会は言うこともやることも支離滅裂だ!


 塔婆供養の大功徳
  
 まず、大聖人は、塔婆供養の功徳の甚大さについて、『中興入道御消息』に次のように仰せられている。

 「去(みまか)りぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとば(卒都婆)をたてゝ、其(そ)の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕(あら)はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚族)、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風(こち)きたれば西山の鳥鹿(ちょうろく)、其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率(とそつ)の内院に生まれん。況(いわ)んやかのそとばに随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ侯(そうろう)人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並ぴに妻子は現世には寿(いのち)を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つゞみ(鼓)をうてばびゞ(響)きのあるがごとしとをぼしめし侯へ等云云。此(これ)より後々の御そとばにも法華経の題目を顕はし給へ。」(御書一四三四頁)

 
 すなわち、故人の追善供養のために卒都婆(塔婆)を立てれば、その塔婆に当たった風が四方に流れ、それに触れた魚類は大海の苦を離れることができ、烏・鹿等は、畜生道の業を免(まぬが)れて天界に生ずることができる。まして、この塔婆に対して随喜の心を生じ、手に触れ眼で見た人々の功徳はどれほど大きいか計り知れない。この塔婆によって、亡き父母も成仏を遂(と)げ、塔婆供養をなした本人・妻子にも絶大な功徳が具わる。それ故、今後も御題目を認(したた)めた御塔婆を建てるように――と仰せられているのである。
 何とも有り難い御金言ではないか。
 現在の創価学会では、この『中興入道御消息』の御文は「信徒への激励の意味で認められたのであって、塔婆供養の功徳を述べられたものではない」などと反論しているようだが、まったく謗法の害毒で日本語すら読めなくなったのか、呆れ返るほかはない。
 ちなみに、かつての創価学会は、この御文について次のように″講義″していた。

 「夫妻が、幼くして亡くした娘の十三年忌の回向のために、題目を記した卒塔婆を立てたことに関して、その法界万物へ回向される功徳の大きさを教え、喜ばれている。」

 (『日蓮大聖人御書講義第二十九巻』昭和五十二年七月三日発行)

 明確に「塔婆供養の功徳の大きさ」と言っているではないか。これを、今さら「功徳ではない」と言い張ること自体、自らの教義解釈の変遷(へんせん)、頭破七分ぶりを暴露(ばくろ)するものである。
 
 塔婆供養の原理
 
 また、大聖人は、塔婆供養によっで故人が成仏できることを、『草本成仏□決』に次のように説かれている。

 「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。」(御書五二二頁)

 すなわち、故人のため、非情の草木をもって塔婆を建立し、開眼供養することによって、ただちにその功徳を故人に回向して、故人を成仏せしめることができる。これは草木成仏の理(ことわり)による――と仰せられているのである。
 なお、これについて、創価学会二代会長戸田城聖氏は、次のように述べている。

 「(塔婆供養は形式ではないのか、との質問を受けて)形式ではありません。仏法上の儀式であります。色心不二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります。
 塔婆供養の原理についていえば、人が死ぬと宇宙の生命に溶けこみます。色心の二法であるゆえに、この生命を塔婆という体を作って供養すれば、聞いた題目が生命に感じて業が薄くなり、苦悩を少なくしうるのです。
 一個の肉体を塔婆として、これ自体が死人の肉体に変わり、自身の生命を強めることができます。この功徳は、一心法界ですから、自分の身に帰るのであります。生命論がわからなければ、この深い原理はなかなかわかりません。」(戸田城聖全集第四巻)
 故人を成仏せしめるための塔婆供養の意義は、もはや明白であり、けっして「形式」や「信徒支配の道具」などでないことは、誰にでもわかろう。
 
 創価学会の自語相違
 
 塔婆供養に対する妄説の破折の結びとして、少々長いが、以前の学会指導を掲げる。学会員諸君はよくよく熟読玩味(じゅくどくがんみ)し、学会の迷妄に気付くべきである。

 「NSB広布の途上で逝いた方々の追善法要で、塔婆供養がなされたが、塔婆供養の意義について述べておきたい。
 死後の生命は、宇宙に冥伏し、生前の因縁に応じて、十界のそれぞれの世界で、苦楽の果報を受けているのである。塔婆供養による唱題の回向によって、諸精霊に追善がなされ、生命の我を″悪夢″から″善夢″へと転換していけるのである。そして、本日の追善法要で、正しき仏法、正しき僧侶の唱題・回向によって諸精霊が苦悩を転じて仏果を得たということを確信してほしい。」
(池田x作『広布と人生を語る』第六巻・昭和五十九単二月二十八日)
 「父親が邪宗教をやった方であれば、ねんごろに塔婆供養をして回向することが最大の親孝行になるのです。」
 (辻武寿著『私の個人指導』)

 「正宗と他の宗派の彼岸は根本的に違い、生きている我々自身がまず成仏への善根を積み、これを先祖に回向すべきであり、日々の信仰実践が到彼岸の修行という意味をもっている。なかんずくお彼岸の日には、先祖の追善と自身の彼岸を真剣に願って正宗寺院に参詣し、御本尊に御供養申し上げ、塔婆を立てて回向し、広布への強き決意を新たにすることが望まれる。それが真実の報恩であり先祖も自身も福徳を得る道なのである。」
(『聖教新聞』昭和五十七年三月二十日付)
 


 「いわゆる卒塔婆が、単に亡くなった当人の霊のためのみでなく、現実のこの世のあらゆる生命に功徳を及ぼし、今は亡きすべての人々への回向となるものであり、なかんずく、卒塔婆を建て供養した人自身にとって偉大な福運となっていくのだということである。仏法は、どこまでも、自己のみの幸せを願うのでなく、自己を取り巻く一切の存在の幸せを願い、かつ具現していくことがその根本精神である。この御文から、あらためてこの仏法の広大な慈悲の精神を知らなくてはならない。」
 (『日蓮大聖人御書講義・第二十九巻』昭和五十二年七月三日発




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from: 21世紀さん

2009/04/14 03:31:10

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「Re:創価学会の邪説を破す!」
「本尊書写は誰でも出来る」の誤り



ニセ本尊濫造は「僭越の逆罪」だ!!


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創価学会の邪義
御本尊は相貌が大事なのであって、誰が書写しようと問題はない。

破折


 そもそも、御本尊に関する権能が、御法主上人ただお一人に限られていたことは、宗義上・宗史上からも明らかである。
 まず、日蓮大聖人御自ら、
 「此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の甕承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし」
   (御書一六八四頁)と、血脈と御本尊の大事は御歴代上人にのみ伝えられていることを仰せられている。
 また、二祖日興上人の御弟子の一人日尊師(京都・要法寺の開基)は、
 「冨士門跡は付弟一人此(※御本尊)を書写し奉る可きの由、日興上人御遺誡なり」(日蓮宗宗学全書第二巻興尊全集興門集四一八頁)と遺言し、御本尊書写は「付弟一人」の権能であることを日興上人が御遺誡せられていた、と伝えている。
 また、第五十九世日亨上人が
 「尊師(日尊師)は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず」
 (富要集第一巻一一二頁)と仰せられているように、日尊師自身も日興上人の戒めを守って、生涯、御本尊を書写することはなかったという。
 創価学会では、日尊師が、後に謗法化していった要法寺の開基であることをもって、その遺言をも軽んじているようだが、日尊師自身は、逝去に至るまで日興上人の御弟子だったのであり、今日の要法寺と同一視することは、的外れな、ためにする悪口である。
 また、創価学会では、第九世日有上人が
 「末寺に於いて弟子檀那を持つ人は守をば書くべし、但し判形は有るべからず。本寺住持の所作に限るべし」 (聖典九八八頁)
 「曼荼羅は末寺に於いて弟子檀那を持つ人は之れを書くべし。判形をば為すべからず」(聖典九八八頁)と、末寺住職による″判形のない曼荼羅″の書写を許されていることを挙げて、「誰が書写してもいい証拠だ。それに、日興上人の御代にも、日興上人以外の僧侶が書写した御本尊が現存している」などという。
 だが、これは筋違いな暴論、というほかはない。
 第五十九世日亨上人は、この日有上人の御指南を次のように釈されている。
 まず、日有上人が末寺住職に書写を許された理由と背景について、
 「仮使(たとい)不退の行者たりとも、本山を距(さ)ること遠きにある人は、交通不便戦乱絶えず山河梗塞(こうそく)の戦国時代には、何を以って大曼荼羅を拝するの栄を得んや。(中略)此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも、末寺の住持に之を書写して弟子檀那に授与する事を可なりとし給ふ」(富要集第一巻一一二頁・「有師化儀抄註解」)と、戦乱による交通不便のため、一時的に末寺住職に書写を許された旨を御教示されている。
 とはいえ、この末寺住職による″判形のない曼荼羅″の書写は、
 「然(しか)りといへども、此は仮本尊にして形木同然の意なるべし。故に守(※お守り御本尊)に於いては『判形有るべからず』と制し、曼荼羅に於ては『判形為すべからず』と誡め給ふ。此の判形こそ真仮の分るゝ所にして猶(なお)俗法の如し」(富要集第一巻一一三頁)と、所詮、仮本尊であるとせられているのである。
 不相伝家の創価学会は、この一時的な仮本尊書写の御許可を、自分達に都合よく、いつでも誰でも御本尊書写や御形木御本尊を作ることができる、と解釈したわけだが、仮本尊の書写の許可も、その時代背景を踏まえて時の御法主上人(ここでの事例は日有上人)がなされるのである。資料を勝手に誤読してはならない。
 創価学会では、こうした誤った解釈の上から、「御本尊流布こそが広宣流布であり、そのために創価学会が形木本尊を作り流布させている」などとも言っているが、大きな誤りである。
 同じく『化儀抄註解』において日亨上人は、
 「有師斯(かく)の如く時の宜(よろ)しきに従ひて寛容の度を示し給ふといへども、しかも爾後(じご)数百年、宗門の真俗(しんぞく)能(よ)く祖意を守りて、苟(いやし)くも授与せず書写せず、以て寛仁(かんにん)の化優に馴(な)るふこと無かりしは、実に宗門の幸福なりしなり」(富要集第一巻一一三頁)と、日有上人が末寺住職に仮本尊書写を許されたといっても、その後数百年、宗内僧俗は大聖人の御意を守って、まったく仮本尊の書写や勝手な授与をせず、いたずらに「宗門第一尊厳の化儀」を乱すことはなかった、と喜ばれている。
 このお言葉をもって言うならば、学会が許可なく変造本尊を作り、勝手に広く授与していることは、まさに聖意を破壊する法滅の化儀であり、不幸この上ない事態といえよう。
 日亨上人は、また、「不相伝」の者が「猥(みだ)りに曼荼羅を書き散らして」いることは「借越(せんえつ)の逆罪」である、とせられているが、それと同様のニセ本尊作りをした創価学会も、大謗法の罪は免れないのである。
*沖浦某が「降魔の剣」で盛んにこの問題を取り上げ、さくらさんより破折されています。彼は長野法論で樋田昌志氏に敗れていますが、性懲りもなく邪義を振り回すのは毒気深入失本心故の表れでしょうか。

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