新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

創価学会SGIを本音で語ろう

創価学会SGIを本音で語ろう>掲示板

公開 メンバー数:98人

チャットに入る

サークル内の発言を検索する

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: 21世紀さん

    2009/04/14 15:53:52

    icon

    法華講衆としての正しい信心 

    大草講頭、講中の伝統精神を語る

    (於・平成4年2月9日『新入講員決起大会』)



    私は、〝法華講衆としての正しい信心〟について、お話したいと思います。
     師弟相対は法華経信仰の肝心

     まず第一に、私達は、師弟相対して仏法を学び、御本尊様を拝む、ということが一番の肝心であります。

     『蓮盛抄』の一節を挙ぐ

     最初に大聖人の御金言を挙げてみますと、
     「止観にはく『師に値はざれば、邪慧日に増し、生死月に甚だしく。稠林に曲木を曳くが如く、出ずる期有ること無し』云々。凡そ世間の沙汰、尚以て他人に談合す。況んや、出世の深理、寧ろ輙く自己を本分とせんや。」(御書29頁)
      ここでは、まず「師匠を仰がなければ、邪な智慧や迷いが月々日々に増幅していってしまう。そして木の生い茂った林の中に、曲がりくねった木を引きずって入っていくと、曲がりくねった木が、林の中に引っかかってしまって、自分も林の中から出てこれなくなってしまう。それと同じように、師をもたないで仏道修行をすれば、結局、迷いから迷いの中に入り、ついに誤った道から抜けられなくなる」という摩訶止観の文を引かれています。
     そして、「世間の学問とか仕事とか習い事も、自分一人で極めることはできず、必ず、先生とか上司・先輩といった先達の人達から教わって、それで身に付けていくことができる。世間の浅いことですら、そうなのだから、まして甚深の教えを説く仏法において、自分自身を中心として、自分の勝手な智慧で仏法を習い極める、などということは絶対にできない」と示されているのであります。
     つまり、師匠をもたなければ、信仰に狂いが生じて、迷いから迷いに入っていってしまう、ということであります。

     三十三世日元上人の御指南を挙ぐ

     それから次に、三十三世日元上人の御指南を引用します。 
    「法水は慢の高山に留まらず、何に依ってか大道を得ん。」(富要集1巻388頁)

     どういうことかと申しますと、雨が降ったときに、雨の水というのは高い山の上の方には留まりません。 どんどん下の方へ流れ去っていってしまいます。  それと同じように、法水(御本尊様の功徳を水に譬え「法水」といいます)というものも、慢の高山(慢心して高ぶった心を高い山に譬えて「慢の高山」といいます)には御本尊様の功徳は留まらない。どんどん流れ去っていってしまう。だから成仏の大道を得ることはできない、と言われているわけであります。
     では、どうすればよいのか、といえば、結局、水は高い所から低い所に流れるのだから、高い所にいるのではなく、逆に、低い所にいれば、上からどんどん水が流れ込んでくるのであります。

     ですから、私達は、自ら高い山になってしまってはダメなのです。自分の身と心を低くして、謙虚に法を求め、学ぶ、そういう謙虚な信心の心に、御本尊様の功徳が流れ込んでくるのであります。
     私達が、単に〝御本尊様対自分〟ということだけで信心をしてはいけない、必ず師匠をもって師弟相対して信心をしなければいけない、というのは、ここに理由があります。
     つまり、「自分は師を持たない、求めない」ということは、「何でも自分一人でわかる、自分一人で仏道修行をしていくことができる」ということになってしまって、それは〝慢の高山〟になってしまう。自分が自覚するとしないとに拘わらず、その姿自体が慢心していることになってしまうのです。
     私達は、仏法の深い教えというものは、自分には何もわからない、だから、それを本当にわかっている師匠や先達から仏法を教えてもらおう、という心持ちで、本当に謙虚に、身を低くして師・法を求めていかなくてはならない。そういう謙虚な姿勢、謙虚な心で御本尊様を拝んでいくところに、御本尊様の功徳が流れてくるのです。
     だから、同じ御本尊様を拝んでいながら、片方の人には大功徳があって、片方の人には全然功徳がない、などという違いが出てくるのは、ひとつに、こういうところに原因があると考えられます。

     六十五世日淳上人の御指南を挙ぐ

     それから、次に六十五世の日淳上人の御指南を引きます。
     「この場合(誤った師匠に騙されていることに気付いて、その誤った師匠を捨てた場合)、我れにはついに師あらず、といわば上慢なり。中途にして(正師を求めることを)挫折するは怯懦なり。この二者は、ついに道を得ること能わざるべし。怯懦者はなお道を得る機あらんも、上慢においては道を得べからず。(中略)昔、雪山童子が半偈のために身を投げし謙譲と真剣とは、求道者の精神であらねばならぬ。」  
    つまり、師弟相対して信心をしていかなければいけない、といいましても、その師匠の選び方において、誤った師匠に騙されて信じてしまった・・、これは、ちょうど池田サンを信じて弟子になってしまったということが、まさに、それにあたるわけであります。
     この、誤った師匠に騙されてしまった、 正しいと信じてきた師匠が大謗法だった、ということに気が付いたならば、もちろん、その師匠を決然と捨てなければいけません。
     しかし、その間違った師匠を捨てた場合に、「信じてきた師匠に騙されてひどい目に遭ったから、もう、自分は師匠をもたない、自分には師匠はいらない」というならば、それは増上慢であり、また、正しい師匠を求めぬくことに疲れて途中で挫折してしまうとすれば、そのような人は怯懦(成仏を求めるという心が怯んでおり惰弱であること)である、と言われております。
     結局、このような、増上慢の者と、信心惰弱な人、この二通りの人は、結局、成仏することはできない、と仰せられているのであります。
     しかして、このうち後者-つまり、途中で師匠を求めるのを挫折した惰弱な人の方は、将来的には、運良く、正しい師匠に巡り会って救われることもあるかもしれないが、しかし、自分はもう師匠を持たないという増上慢の人は、もう道は得られない、成仏はできない、と仰せられています。

     これは非常に大切なことであります。誤った師匠に騙されるという経験をしたとしても、もう自分は師匠はいらない、というのではなくて、今度こそは正しい師匠を求めよう、正しい師匠に出会うまで求めぬこう、ということが求道者の姿勢でなければいけない。本当に謙虚に、師を求めぬく姿勢でなければいけない、というのであります。
     しかるに、幸いにして皆さん方は、正しい師である御法主上人のもとに、師弟相対して正しい信仰ができる道に到達された、という次第であります。

    正しい師弟子の道を立てよう

    『御本尊七箇之相承』を挙ぐ

     それから次に、師弟相対していくうえで、私達の正しい師匠は誰であるか、ということを明らかに見定めることが大切です。
     もちろん、もっとも根本の正しい師匠とは、本仏日蓮大聖人様ただ御一人であります。
     また大聖人は、
     「代代の上人悉く日蓮なりと申す意なり」 (聖典379頁)
    と、日興上人以来、歴代の御法主上人は悉く大聖人の御身代わりである、大聖人の後継者である、と仰せられていますから、大聖人様亡き後は、歴代の御法主上人を大聖人様と思って師弟相対することが肝心であります。
     私達の現時における根本の大師匠とは、すなわち総本山第六十七世御法主日顕上人猊下ただ御一人である。そこに、根本のただ一人の正しい師があるということを、まず、この大聖人様の仰せから、しっかりと定めなければいけないのであります。

    『佐渡国法華講衆御返事』を挙ぐ

     それから、次に引くのは、第二祖日興上人の御指南であります。こういう御指南があることを、学会では教えません。教えたら都合が悪いからであります。
     「この法門は、師弟子を正して仏に成り候。師弟子だにも違い候へば、同じく法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄におち候也。うちこしうちこし直の御弟子と申す輩が、聖人の御時も候しあひだ、本弟子六人を定めおかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後も、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申やから多く候。これらの人は謗法にて候也。御講衆等この旨をよくよく存知せらるべし。」(歴代法主全書1巻183頁)
     簡単に御説明申し上げますと、私達の根本の師匠は、大聖人様であり、また、大聖人様の後継者である御法主上人猊下であります。しかしながら、信徒の人数が増えるにしたがって、ただ御一人の御法主上人猊下が、一人ひとりの信徒に毎日正しい御指導をなさり、あるいは御注意をくださるということは、現実問題として、物理的に不可能となってまいります。
     そのことは、大聖人様の御在世当時においても、全く同じだったのであります。
     そこで大聖人様は、大聖人様の弟子の御僧侶方の中から、長年修行してきて仏法がある段階までわかっているであろう方を六人選んで、大聖人様の名代として各地に派遣し、各地域の信徒を指導させる、という形を作られました。
      これが、皆さんも知っておられる〝六老僧〟という制度だったのです。
     そして、その六人の人達のもとで指導を受けて信仰していく各地の信徒は、 あくまでも六人それぞれの弟子であって、けっして大聖人の直弟子とは言わせない、という形を大聖人様はとられたのです。
     ところが、当時、それでも信者の中には、 「自分は大聖人の直弟子だ」と言って、はばからない人達がいました。また、大聖人様の御入滅後にも、そのような信者達が出たようです。日興上人は、この、「自分は大聖人様の直弟子だ」という人達をさして、それは謗法である、と誡められているのであります。
     それは何故かといいますと、結局、日常の信仰においては、その信徒は誰の指導を受けて信仰しているのか、わざわざ六人の御僧侶を大聖人様が選んで、御自分の名代として派遣されたのに、その御僧侶を無視して、「自分は大聖人の直弟子だ」と言うことは、実際には、その人にとっては日常の信仰を指導してくれる師匠がいないわけです。つまり、「自分は大聖人の直弟子だ」という言葉を隠れ蓑にして、自分一人だけの勝手な一人信心をしようとしている、師をもたないことになるのであります。だから、これは謗法になるのだ、と言われているわけです。

     それは今日でも同じでありまして、御法主上人猊下が、この日蓮正宗の僧俗を全て直接に御指導されるということは、現実問題として不可能です。だから、御僧侶方の中から一定の域に達した方を選ばれ、指導教師御住職として各寺院を任されて、そこに所属する信徒を、猊下の名代として指導する任を与えられているわけでありまして、そこに所属する信徒にとっては、その指導教師御住職が自分の師匠(小師という)であり、猊下はそのさらに上の大師匠である、ということになるのであります。おわかりですね。

     では、その私達の指導教師御住職・小師はどうやって決まるのか、という問題があります。
     創価学会においては、引っ越しをすると、そのたびに所属寺院が変わります。
     引っ越すたびに、ほとんど自動的に、最短距離のお寺に所属寺院が変わる。しかし、このようにして、所属寺院が決まり小師が決まるというのは、本筋の意味においては在るべき姿ではありません。
     では、どうやって所属寺院・小師が決まるのか、と申しますと、日興上人は、
     「本弟子六人を定め置かれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子と言わせんずる為にて候」
    と仰せられ、その小師(指導教師御住職)が折伏教化した信徒は、その指導教師御住職の弟子だ、と示されています。つまり、私達の所属寺院、指導教師御住職は教化関係によって決まる、ということであります。
     教化というのは、教える側は師であり、教わる側は弟子という関係になるのでありまして、結局、その人を折伏した、あるいは再折伏した、それによって、そこに師弟の関係が発生するのであります。

     たとえば、私なら私が、Aさんという方に折伏あるいは再折伏をされて、信心を正しくやっていこう、ということになったとします。そうしますと、私にとっては、そのAさんが私を教化してくれた人だ、ということになります。
     さらに考えてみますと、そのAさんが私を教化してくれたといっても、Aさんが私を教化してくれた、その大元には、Aさんの所属しているところの先輩達、また指導教師御住職の指導・督励があって、Aさんが私を折伏・教化してくれたわけであります。  ですから、私はAさんを通じて、Aさんの所属している寺院の指導教師御住職から折伏教化されたことになります。そして私は、Aさんと共に、Aさんの所属するところの指導教師御住職を小師と仰いで、その寺院に所属するということになるわけであります。

     さて、皆さん方は、そういう筋道において、妙観講の折伏・再折伏によって、邪義・謗法を捨て、正しい信仰をしていくことを決断されたわけですから、その時点で、妙観講を通じて、指導教師である理境坊の御住職の教化が皆さん方に及んだ、ということになります。そして、そのような教化関係の因縁によって、皆さん方は、理境坊の所属信徒となり、理境坊の御住職を小師・指導教師と定めたのであります。  
      したがって、 九州に在住する講員であっても、あるいは、 京都に在住する講員であっても、あるいは、北海道や東北地方に在住する講員であっても、これは皆、妙観講の講員から折伏・再折伏を受け、 正しい信心をしていくことを決意した時点で、理境坊の御住職の教化が及んだわけですから、その教化関係によって、妙観講の講員となり、また理境坊の所属信徒となったのであります。


    • サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 2
    • サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 1

    icon拍手者リスト

    hide

コメント: 全2件

from: 21世紀さん

2009/04/14 15:56:43

icon

「Re:法華講衆としての正しい信心 」
堕地獄恐れ成仏願う大道心

 最後に、妙観講としての基本的な在り方をいくつか申し上げたいと思います。
 私どもは、何より堕地獄を恐れて、何より成仏を願う、大道心というものを根本精神としております。その精神の上から、次のような在り方を大切にしているわけであります。

『経王御前御書』を挙ぐ

 まず、四条金吾の子供である経王御前が生まれた時に、大聖人様が四条金吾に与えられた御書ですが、
 「現世には、跡をつぐべき孝子なり。後生には又、導かれて仏にならせ給うべし」(御書635頁)
と仰せられています。つまり、自分の子供というのは、現世においては自分の家業・財産を継いでくれて、自分が死んだ後においては自分の追善を供養して成仏を支えてくれる、大切な宝物だ、と述べられているのであります。これは子供のことについて示された御金言です。

 今日、小さなお子さんが、講中の中にもたくさんいます。その子供達は、親御さんにとってもそうでしょうが、私ども妙観講として考えたときも、これは、現世においては私どもの闘いを受け継いでいってくれる、大切な後継者であります。
  また私達が死んだ後は、追善供養をして、私達の後生を守ってくれる大切な宝物である、と思って、育てていかなければいけないということであります。
 子供達が、もし退転して謗法に堕すれば、どういうことになるか。たとえ自分が一生懸命に信心をしていたとしても、自分の亡き後、自分の子供が邪宗謗法で追善供養をしたら、自分は地獄の苦しみを味わうのです。ですから私達は、後生の成仏を支えていってくれる宝として、子供を大事にしなければならない。
 大事にするということは、甘やかすとか、わがままに育てるとか、子供のやりたいようにやらせることではありません。 本当に、大事に厳しく、信心をきちんと教えて受け継いでいかせなければいけない、ということであります。

『可延定業書』を挙ぐ

 それからまた、
「法華経にあわせ給ひぬ。一日もいきてをはせば功徳つもるべし」(御書761頁)
 という御金言があります。これは、一日でも長く生きることによって、それだけ仏道修行を長く行じ、功徳を積んでいくことができる、ということでありますが、妙観講の中には、小さな子供ばかりでなく、お年寄りの方もたくさんおられます。

 私は、このお年寄りの方々に対して、また子供達に対するのと別な意味において、大切に思っていかなければいけないと思います。 それはなぜかというと、高齢であられるということは、やはり人生の残されている年月が少なくなってきている、これは厳しい現実です。その残されている年月の中で、どれだけ正しく信心をし、どれだけ多くの功徳を積めるかが、その方の成仏・不成仏を決めてしまうのです。
 私は、そのようなことを思ったときに、 自分より遥かに高齢な方がいて、いろいろな状況で苦労されているとすれば、 積極的に手を貸してさし上げて、少しでも仏道修行をしやすいように、 また功徳が積めるように、 応援してさし上げることが、本当に地獄に堕ちることを恐れ、成仏を願う者として、当然の振る舞いではないかと思うのであります。

『妙心尼御前御返事』を挙ぐ  

次に、
 「やまひは仏の御はからひか。その故は、病によりて道心は起こるなり」(御書900頁)
との御金言があります。病気のときに、信心によって病を克服し、そのことを通じて信心が強盛になる、というケースが数多ありますが、大聖人様はその事をさして、病を契機として成仏の境涯に到達する、と教えられているのです。

 そうして考えてみると、現在、病気をされている方がいるとすれば、その方を言い励まして、 その病気に挫けず信心で病気を乗り切れるように、 できるかぎり力を貸してさし上げることが大切だと思います。
また自分も、その病人の人を助けて、共々に仏道修行をしていくことによって、その方と共に御本尊様の功徳力を味わい、信心が強くなって、共に成仏へ近づくことができるのであります。

 以上、要するに、何よりも堕獄を恐れ、何よりも成仏を願うという大道心を持つならば、小さな子供達に対し、あるいは高齢の方々や病気で苦しんでいる方々に対し、本当に大切に思って、共々に仏道修行をしていけるよう心がけていくことが大切ではないか、と思うのであります。
 そもそも、組織のために人があるのではありません。どこかの組織では、組織のために人があり、広宣流布の名のもとに人を犠牲にするということが、平然と行なわれております。
 また、若い人は広宣流布に役立って、年寄りや病人は役に立たない等ということを、平然と言い放つ人もあります。
  これらは全て間違いであります。広宣流布というのは、犠牲の上に成り立つものではありません。

 老若男女、また健康な人も病人も、皆、共々に功徳を積んで、一人ひとりが成仏をしていく―、そういう人達が日本中に増えていったときに広宣流布になるのであります。
 それを何か、若い力でないと広宣流布の役に立たないなどと言って、お年寄りで寝たきりの方や癌の末期の方が入信された時に、「こんな者、役に立たない」などという言葉を吐くような者は、信心がまったくないのです。過去に、そういうことを見聞きして、私達は、本当に何とも言えない嫌な気持ちを味わったことがあります。
 妙観講においては、そのような者は一人もおらないはずであります。どうかこの精神を、よく理解し、実行していただきたいと思います。

 それから、次に謗法ということについて、『化儀抄』の文を引きます。

『化儀抄』第57条を挙ぐ  

「法華宗の大綱の義理を背く人をば、謗法と申すなり。謗とは、乖背の別名なるが故なり。門徒の僧俗の中に加様の人ある時は、再三私にて教訓して、用いずんば師範の方へ披露すべきなり。其義無くんば、与同罪遁れ難き故なり。」(聖典983頁)  

 これはどういうことかといいますと、信心をしている僧俗の中で、日蓮正宗の決め事、信心の根本に背くような謗法をする人がいれば、その誤りを見て隠しておいてはいけない、というのです。その人に、はっきりとその間違いを言いなさい、それでも、その人が間違いを直さないというなら、その上の師匠にそのことを報告しなさい、と仰せられているのであります。

 こういう精神で来ている故に、結果的に妙観講はガラス張りの体質となっております。講中の中で「これは絶対にバレないように」とか「隠しておこう」とか「これは絶対に先輩に言わないように」といって、悪いことをしてみても、妙観講の中では、ほとんどこれは無駄です。一時はごまかせそうでも、ほとんど、最後には破綻しています。
 私は、また、そのようなガラス張りの講中で、純粋に信心していけることが理想であると考えておりますので、御了解ください。

『化儀抄』第36条を挙ぐ

 それから最後に、やはり『化儀抄』の文ですが、
「当宗には談義あるべからず。其の故は、 談義とは其の文段を横に沙汰する故に、 智者の所作なり。当宗は信の宗旨なる故に、爾るべからず。但堅に、一宗の建立の様を一筋云い立つるは、説法なり。是れをば当宗にゆるすべきなり。愚者の聞く耳なるが故に云云。」(聖典980頁)
 「談義あるべからず」というのは、要するに、横にあれこれ談じ合ってあってはいけない、というのです。信心とは師弟相対ですから、師から教えを受けなければ弟子は迷ってしまう。弟子同士が横にガチャガチャと訳のわからないことを陰で言い合っていると、全部、迷いから迷いに入っていってしまうのです。だから、横にあれこれ談じ合ってはいけない、すべて、解らないことがあれば、すべて縦に、師匠に質問して解決し、スッキリした気持ちで信心していきなさい、と教えられているのであります。
  以上、私ども妙観講は、自分達の考えや好みではなく、どこまでも、日蓮大聖人 ・日興上人 ・日有上人等、 御歴代の御教示に則った精神で進んでまいりたい、と考えている次第であります。

  • サークルで活動するには参加が必要です。
    「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
    ※参加を制限しているサークルもあります。

    閉じる

  • サークルで活動するには参加が必要です。
    「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
    ※参加を制限しているサークルもあります。

    閉じる

  • 1

icon拍手者リスト

from: 21世紀さん

2009/04/14 15:55:33

icon

「Re:法華講衆としての正しい信心 」
『原殿御返事』の一節を挙ぐ

 それから、次に日興上人の『原殿御返事』という御指南を挙げます。
 「我は民部阿闍梨を師匠にしたる也と仰せの由、承り候いし間、さては法華経の御信心逆に成り候いぬ。日蓮聖人の御法門は、三界の衆生の為めには釈迦如来こそ初発心の本師にておわしまし候を捨てて、阿弥陀仏を憑み奉るによって、五逆罪の人と成りて無間地獄に堕すべきなり、と申す法門にて候わずや。何を以って、聖人を信仰し進らせたりとは知るべく候。日興が波木井の上下の御為めには初発心の御師にて候事は、二代三代の末は知らず、未だ上にも下にも誰か御忘れ候べきとこそ存じ候え。」(聖典560頁)
 これは、どういうことかといいますと、身延山の地頭の波木井実長が、厳格な日興上人に背いて、民部阿闍梨日向という、平気で謗法を犯す坊さんにかぶれて、「自分は民部阿闍梨日向を師匠にしたのだ」と言い放ったわけです。
 それに対し、日興上人が、これでは法華経の信心がひっくり返ってしまったことになる、と言われているのであります。
 何がひっくり返ったかというと、大聖人様の御法門というのは、この地球上の娑婆世界を救う仏として、世に出て我々衆生を教化してくれた有縁の師匠とはお釈迦様である、そのお釈迦様を捨てて、西方浄土にいるとかいう無縁の阿弥陀仏を立てるなどということは、五逆罪のうちの殺父・殺母にあたり(有縁の仏こそ我々の主師親であるから)、無間地獄に堕ちる、という法門である。それほど、師弟の関係を重んじた法門である、というのです。
 ひるがえって、波木井実長一族は、日興上人が折伏教化した一族でした。ゆえに、日興上人こそは、波木井一族にとっては初発心の師匠だ、というのです。
 初発心というのは、初めて正しい信心をするという決心をさせてくれた師匠、ということです。つまり、自分を教化してくれて、自分を本当に正しい信心に導いてくれた人、それが初発心の師匠です。
 私達が、かつて邪宗謗法の人間であったときに、折伏してくれた人があるとすれば、それは初発心の師匠です。それから、誤った信仰になってしまった創価学会にいて、それを再折伏して正しい信心に導いてくれた方がいるとすれば、それがまた初発心の師匠だということになります。
 しかして、波木井一族にとっては、 初発心の師匠は日興上人だった。その日興上人を捨てて民部阿闍梨日向をとるということは、あたかも、お釈迦様を捨てて阿弥陀仏をとることと同じだ、法華経の師弟相対の信心がひっくり返ってしまった、と批判されているのであります。

 これは非常に大切なことでありまして、自分を教化してくれた師匠は、すなわち初発心の師匠であります。その初発心の師匠を捨てて、教化関係のない、初発心の師匠でない方を、別に師匠と立てるということは、法華経の精神に外れるのだということを、ここで教えられているのであります。
 要するに、師弟の関係というものは、これほど堅く守るべきものである、これが本宗の伝統的精神である、ということであります。
 それを、引っ越すたびに師匠がそのつど変わったり、自分はこっちの師匠は嫌いで、あっちの師匠は好きだなどといって、自分の都合で師匠を変えていたら大変なことになります。
 自分の師匠は、自分を教化してくれた初発心の師、それが自分の師匠であることを忘れてはなりません。
 ですから、皆さん方が正しい信仰についた。それは、妙観講の指導教師である理境坊御住職の指導督励のもとに、その教化が及んだわけですから、皆さん方の初発心の師は、理境坊の御住職である、ということになるのであります。

『四条殿女房御返事』を挙ぐ

 次に、大聖人は、
 「今は、左衛門殿を師とせさせ給ひて、法華経へみちびかれさせ給ひ候へ」(御書757頁) と仰せられております。
 これは、四条金吾殿の奥さんに与えられた御書です。「左衛門殿」というのは四条金吾のことでありまして、「今は四条金吾殿を師匠として法華経へ導かれなさい」と教えられております。
 これは、どういうことかといいますと、先ほど申し上げた、根本の師たる大師匠を定め、さらに小師である初発心の師を定めたうえで、さらに、自分よりも一歩でも信心が進んでいる、信行学において一歩でも先んじている人がいるならば、その人達をも師匠と思って身を低くして教えを学んでいく、そういう求道心を持ちなさいということであります。

 今日において、 講中の中で、 先輩の人達からいろいろな話を聞いて、仏法のことを学んでいるわけですけれども、私は、誤解のもとだから、その中では師匠という言葉を使ってはいけない、と注意しております。この大聖人の仰せの中では、在家である四条金吾を師匠とする表現を使われておりますし、たしかに意義においてはそうだけれども、誤解を招かないために、師匠という言葉を使わないことにしております。
 要は、師弟の筋道を正して、まず根本の大師匠を定め、それから直接の小師を定め、さらに、その小師のもとにある講中の中においては、自分より信心の抜きんじている先輩から信心を学んでいく、という謙虚な姿勢で仏道修行に励んでいくことを心がけることが大切だと思います。

『化儀抄』に学ぶ師弟の在り方

第68条「信は公物なり」

 以下、この師弟相対の在り方について、第九世日有上人の『化儀抄』を拝していきます。まず、
 「仏の行体をなす人には、師範たりとも礼儀を致すべし。本寺住持の前に於いては、我が取り立ての弟子たりとも、等輩の様に申し振舞うなり。信は公物なるが故なり云云。」 (聖典986頁)  
 これはどういうことかといいますと、師弟相対というのは、 師匠が弟子を所有物にするとか、師匠が弟子を支配するとか、そういう関係ではないのであります。
 たとえ自分の弟子であっても、 御本尊様を一生懸命に拝み、 また折伏に励む―、そういう人は、皆、仏様の教えられた振る舞いを、同じように実践している人達なのだから、これを大切にしなければいけない、と言われております。
 しかして、 「本寺住持」である御法主上人の前においては、 指導教師御住職も、信徒も、共に猊下の弟子という立場になる、と示されているのでります。  
 つまり、仏法における師弟関係は、 小師が絶対的立場の上から信徒を自分の所有物にして支配する、 などという関係ではなく、根本の師匠は大聖人様であり、大聖人様の名代たる猊下であられる、さらに本師の御指南を正しく伝え指導していくために、小師として指導教師御住職がおられる、そして、自分達に細かく信心を教えてくれる先輩達がいる―、そういう師弟の筋道、本末関係の中で私達は信心をしているわけであります。

 この師弟の筋道・本末関係というものが、創価学会にはなかった、とにかく池田先生が絶対なのだ、というところに尽きてしまっておりました。
 それ故に、狂い放題に狂って、まったくブレーキも効かず、とうとう邪教となってしまったのであります。
 その、正しい筋道がないという点では、かつての正信会の問題も同様でした。あの時に、せっかく創価学会を脱会してお寺についた人達の多くが、結局、邪義謗法になってしまいました。
  それはなぜかというと、彼らが所属した寺院の住職が、猊下に造反して破門になったわけです。その時に、彼ら檀徒達の多くはどうしたかというと、「自分の直接の師匠はこのお寺の御住職だから」と言って、その謗法の元住職について行ってしまった。だから、皆、謗法になってしまったのです。
 なるほど、たしかに自分の小師は御住職だろうけれども、その大本の本師として御法主上人猊下がおわすことを、よく弁えるべきでありました。そして、根本の師匠と小師とが根本的に食い違った時には、迷わず根本の師につくべきだったのであります。そういう師弟の筋道・本末関係を無視したから、彼らは謗法となってしまったのであります。

 私達は、この師弟の筋道・本末関係をしっかりと弁えておかなくてはなりません。 以前にもお話をしたことですが、私が確信をもって言い切れることとして、もし、万が一、私が、日蓮正宗の教義に背いて邪義邪宗に転向し、ある日、突然に講中の会合の席上でそれを言い出したとしたら(もちろん、そのようなつもりは毛頭ありませんが)、その時に妙観講の副講頭および支部長達は、「はい、そのとおりです」といって従うでしょうか、絶対に従いません。それは、師弟の筋道・本末関係に徹した信仰に生きているからであります。

 私達の根本の師は、どこまでいっても、大聖人、そして御法主上人猊下である。さらに猊下の名代である指導教師御住職がおられ、そのもとに講中の指導があるのです。ですから、もし万が一、その筋道の中で、指導のくい違いとか離反という事態が起こったなら、それは、その本末関係において、より根本の師につかなければなりません。
 創価学会にはその筋道というものがありませんでしたが、私達の信仰というのは、正しい師弟の筋道の中で信心をしていくのだということを、よく御理解いただきたいと思います。

第62条「状なからん者」

 次に、
 「末寺の坊主の状なからん者、在家・出家共に、本寺に於いて許容なきなり云云。」(聖典985頁)
 つまり、「所属寺院の御住職の添え書きがなければ、在家であれ出家であれ、本山においてはこの者の登山を認めない」と言われているのであります。
 これは、 今日の〝添書登山〟という形が、まさに、ここに出ておるのであります。私どもの信仰というのは直結信仰ではなく、小師を通じて本師を仰ぐ信仰ですから、小師である指導教師御住職の許可があって、それで本山でも御開扉を受けさせていただくことができるのであります。
 ここのところに、はっきり、小師と我々との師弟の筋道が、具体的な形で顕われているわけです。

第8条「小師の吹挙を取り」  

次に、
 「実名・有職・袈裟・守・曼陀羅・本尊等の望みを、本寺に登山しても田舎の小師へ披露し、小師の吹挙を取りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然るべく候。直に申す時は、功徳爾るべからず云云。」(聖典974頁)
 これも大事なことです。私達でいうと、戒名の日号を猊下から頂戴する際にも、あるいは常住御本尊様や御守り御本尊様を猊下に願って頂戴する際も、小師である御住職を通じて本山に願い出なくてはならない、そういう筋道を踏まないで、本山へ直接お願いした場合には、功徳がありませんよ、と言われているのであります。
 したがって、御開扉も、所属寺院御住職の添え書きがあって、そこを通じて御開扉を願うのでなければ、たとえ御開扉を受けても本当の功徳にはならないのであります。 すべて、本山に願いを出すときには、指導教師御住職を通じて願ってこそ、功徳があるのです。

 このことから考えますと、私達が各地方の寺院で御授戒をお願いしたり、冠婚葬祭をお願いする場合も、すべて同じことであります。結婚式を、お葬式を、法事を、あるいは起工式を、近くのお寺でお願いしたいという場合に、直接そのお寺へ行ってお願いしたらいけないのです。
 小師である指導教師御住職から、その地元のお寺へお願いしていただいて、それで冠婚葬祭をしていただく、という筋道をきちんと立てなければいけません。
 自分の師匠を通さないで、いきなり地元のお寺へ飛び込むというのは、筋が違うわけです。たとえばご婦人が、自分の家の御主人も、隣の家の御主人も、「同じ主人という言葉に変わりはない」などといって隣の家の御主人に接したら、それは筋が違う、家庭不和になってしまいます。
 それと同じように、指導教師御住職であれば、自分の所属しているところの御住職も、あちらのお寺の御住職も、みんな同じ御住職だ、同じ小師だ、というのは筋が違うのであります。よろしいですか。
 どんな地方でも、冠婚葬祭はできますし、御授戒も受けられますから、何の心配もいりませんが、その場合、自分の小師である理境坊の御住職にちゃんとお願いをして、そこからその地域のお寺の御住職にお願いをしていただいく―、これが正しい筋道でありますので、 その辺を間違えないでいただきたいと思います。 そうしないと本当の功徳はありません。

第24条「住持の見たもう所」

 次に、
「弟子檀那の供養をば、先ず其の所の住持の御目にかけて、住持の義に依って仏へ申し上げ鐘を参らすべきなり。先師先師は過去して、残る所は当住持計りなる故なり。住持の見たもう所が、諸仏聖者の見たもう所なり。」 (聖典977頁)
 要するに、大聖人様はすでに御入滅になって、残ったのは日興上人。そして日興上人が御遷化になれば、残ったのは日目上人。そのようにして現在は、御当代の御法主上人がおられる。さらに猊下の名代である小師がおられる。そういう状況のもとで今日、信心をしているわけですが、私達は、その師から信心を認めていただくことが、すなわち仏様から信心を認めていただくことになるのであります。その師に御供養するということは、それはその師を通じて仏様に御供養申し上げたことになるのであります。
 したがって、私達が信心をしていく上で、師からその信心を「まことに善きかな」と御誉めいただけることがあるとすれば、それは大聖人様から御誉めいただけたことに通じるのであります。

 私達は、皆の人気を集めようとか、皆から尊敬されようとか、そんな根性で信心したらダメです。誰からどう思われようと、やはり、師匠の御眼から見て、先輩達の眼から見て、「この人は、立派な信心をしている人だ。真面目な信心の人だ」と、そのように師から認めていただけるということが、じつは、すでに御入滅になっておられる大聖人様からお認めいただけることに通じるのであります。

 ゆえに私達は、 常に、師の御意に添うべく信心に励んでいかなければならない、また、それだけで充分なのであります。

  • サークルで活動するには参加が必要です。
    「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
    ※参加を制限しているサークルもあります。

    閉じる

  • サークルで活動するには参加が必要です。
    「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
    ※参加を制限しているサークルもあります。

    閉じる

  • 1

icon拍手者リスト