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  • from: 21世紀さん

    2009年05月07日 22時39分54秒

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    化儀抄2

    第61条 慈悲の精神について

    一、居住の僧も、遠国の僧も、何れも信力志は同じかるべき故に、無縁の慈悲たる仏の御代官を申しながら、遠近偏頗有るべからず。善悪に付いて門徒中の事をば、俗の一子を思う如くかえりみん事、然る可きなり。但し機類不同なるが故に、仏法の義理をひずみ、又は本寺(本末)のうらみを含まん族有りとも、尚此くの如くひずむ族の科を不便に思わん事、仏聖人の御内証に相叶うべきか。但し折伏も慈悲なるが故に、人の失をも免ずべからず、能く能く教訓有るべき事なり。不思議に有り合う、世事の扶持をも、事の闕けん人(には、慈悲)を本と為して少扶持をも成さん事、尤も然るべし云云。



    本条では、御僧侶の世界における慈悲の精神を言われている。全文を通解すると、「総本山に居住している御僧侶も、末寺にいる御僧侶も、いずれも信心の志は同じである。自分とは無縁の者にも慈悲を垂れるのが仏であり、その仏の御代官だというならば、師匠たるものは、遠いとか近いとかいうことで、分け隔てをするような心をもってはいけない。良きにつけ悪しきにつけ、弟子や信徒に対しては、世間において親が子供を思うように、慈悲の気持ちで見守っていかなければならない。

    ただし、人はそれぞれ素質も違えば根性も違うから、中には仏法の教えを曲げて解釈する人もいるだろうし、あるいは本山や末寺を恨むような輩もいるであろう。しかし、そのような根性の曲がった者の罪を不憫に思うことが、御本仏日蓮大聖人の御心に適うことになるのである。また、折伏することも慈悲の行ないであるから、人の失をそのまま許すのではなく、よくよく教訓していくことも必要である。たまたま信徒がたくさんいて裕福だというお寺があるならば、世間でも扶助ということがあるのと同様に、窮乏しているお寺や僧侶に対して、慈悲の上から少しの援助をしていくということも当然あってしかるべきであろうと。これは、直接的には御僧侶間のことを言われているのであるが、私達において勘違いしてはならないのが、「ひずむ族の科を不便に思わん事、仏聖人の御内証に相叶うべきか。但し折伏も慈悲なるが故に、人の失をも免ずべからず、能く能く教訓有るべき事なり」と言われているくだりである。つまり、〝自分の弟子や信徒に間違いがあっても、それを寛大な心で見ていくのが、大聖人の御心に適った精神である〝とされながらも、〝それは、けっして、誤りを容認するということではなく、重い罪ならば、よくよく教訓して、その誤りを直させなければいけない。それが慈悲である〝と言われているのである。近年の例でいえば、本宗の信徒であった創価学会員が、池田x作らに引きずられて総本山に恨みを抱くようになってしまったが、この時に、〝仏法の教えを曲げて解釈し、本山に恨みを抱いてしまったのも、機類不同の故だから、不憫に思わなければならない〝などと言って、ただ黙認していったなら、それがはたして慈
    悲といえるだろうか。当然、答えは、否である。やはり、折伏も慈悲の現われである故、許しがたい大きな罪に対しては、その間違いを気付かせるために、よくよく教訓してあげることが、慈悲の行為になるのである。

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コメント: 全38件

from: 21世紀さん

2009年07月24日 06時45分10秒

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「Re:化儀抄2」
第100条 世間的なもてなしは

一、他宗の仏事善根の座へ、法華宗の出家、世事の所用にて行く時、彼の仏事の時、点心を備うには食すべきなり。既に請せず又ロサイにも行かざる故に、態とも用意して翫なすべき客人なれば備うるなり。又受くるも世事なり。されば、同座なれども、経をも読まず布施をも引かざるなり。又、法華宗の仏事作善の所へも、禅宗・念仏宗の出家の、請せず又ロサイの義もなくして、世事の用にて風渡、来らるるには有りあえたる時、点心を備うるなり。是れ又、謗法の人を供養するにはならざるなり、世間の仁義なり云云。



「点心」とは茶菓子や餅のこと。「ロサイ」とは、ここでは、法要前夜の念仏講あるいは題目講の意。以下に、順を追って通解する。「他宗の仏事善根の座へ、法華宗の出家、世事の所用にて行く時、彼の仏事の時、点心を備うには食すべきなり。」本宗の御僧侶が、世間的な用事で他宗の人の家に行った時、たまたま、その家で他宗による仏事(法事や葬儀等)が行なわれていた。そこで、仏事用に用意されていた茶菓等を出された場合、それは食べても謗法にはならない。なぜならば、「既に請せず又ロサイにも行かざる故に、態とも用意して翫なすべき客人なれば備うるなり。又受くるも世事なり。」その家の人が、信仰上の儀式を行なってもらおうとして本宗の御僧侶を招いたわけではないし、御僧侶もロサイのために行ったわけではない。ただ世間的な用事で赴いただけであって、出てきた茶菓も、本来、わざわざ用意するはずの、世間的な付き合いの上でのもてなしである。であれば、それを頂戴するのも、世間的な付き合いの範囲であるから、食べてもかまわないのである。
「されば、同座なれども、経をも読まず布施をも引かざるなり。」したがって、たまたま仏事の最中で、結果的に同席することになったとしても、本宗の御僧侶はお経を読んではいけないし、布施をもらってもいけない(※逆に言えば、経を読まず、布施を受け取らなければ、茶菓のもてなしを受けても謗法にはならない、ということである)。「又、法華宗の仏事作善の所へも、禅宗・念仏宗の出家の、請せず又ロサイの儀もなくして、世事の用にて風渡、来らるるには有りあえたる時、点心を備うるなり。是れ又、謗法の人を供養するにはならざるなり、世間の仁義なり。」逆に、本宗の葬儀や法事を行なっているところへ、頼んだわけでもなく、またロサイに出るためでもなく、たまたま邪宗の僧侶が世間的な用事で訪ねてきた場合、仏事用に用意してあった茶菓等を出してもかまわない。これまた、世間的な付き合いであって、謗法の人を供養したことにはならない。本条では、とくに前半は、直接的には御僧侶に対して言われているが、在家にも通じることであって、また日常にも起こりうることである。たとえば、謗法の人の家を訪問した際、お茶と一緒に、仏壇に供えられていた菓子が出されるようなこともあるかもしれない。その場合も、世間的な付き合いの中では、頂戴しても差し支えない、ということになるであろう。ただし、「これはお供えしたものだから、食べると利益がある」などと言われて出された場合は、やはり、そのままいただけば謗法与同になってしまうから、気をつけるべきである。

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from: 21世紀さん

2009年07月11日 13時24分52秒

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「Re:化儀抄2」
第99条 本門寺の朽木書について

一、日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり、内には本尊を懸けらる。是れは本門寺の朽木書と云云。今の儀にあらず。天下一同に法華経信仰の時は、当宗の鎮守は八幡にて在すべし云云。大隅の八幡宮の石の文に、昔は霊山に在りて法華経を説き、今は正宮の中に有りて大菩薩と現ずと、八幡の御自筆有り。釈迦仏の垂迹にて在すが故なり云云。所詮、朽木書きとは手本と云う意なり。



「朽木書」とは、絵画の下書きのことで、ここでは手本の意。本条を通解すると、「日興上人の時に、重須(※現在の北山)に、垂迹堂として八幡の社を建て、中に御本尊を安置された。これは、広宣流布の暁に建立される本門寺の朽木書である、と示されており、現在の化儀として行なわれたものではない。広宣流布が成されれば、本宗の守護神は八幡である。大隅(※鹿児島県)の八幡宮の石の中にも、八幡の言葉として『昔は釈尊として霊山で法華経を説き、今は正宮の中に大菩薩として現われたのである』と書かれていた。この意は、八幡が釈尊の垂迹だから、である。所詮、朽木書というのは、広宣流布の暁に建立される本門寺の手本、の意である」ということである。
つまり、大石寺から重須に移られた日興上人は、そこに八幡の社を建てられて御本尊を安置されたが、これは、あくまでも垂迹堂の意であり、日興上人御自身が、将来の本門寺の手本として建立したものである、と示されているのである。将来の本門寺とは、もちろん、大聖人が「広宣流布の暁に本門寺を建立せよ」と御遺命された、その富士山大本門寺のことである。したがって、日興上人が八幡の社を建てられたというも、広宣流布以前の、現在の化儀として行なわれたものではない。では、なぜ八幡の社なのか、といえば、八幡は釈尊の垂迹であり、本宗の守護神だから、と示されている。そして、八幡が釈尊の垂迹であることは、大隅の八幡宮における不思議な現証でも窺い知れるとして、本条にそのことを挙げられている。すなわち、大隅の国で、たまたま自然石を二つに割ったところ、その石の中に文字が刻まれていた。それは、一方には「昔は霊山に在りて法華経を説き、今は正宮の中に有りて大菩薩と現ず」また一方には「八幡」という、八幡自身の言葉だったのである。その後、そこに八幡宮が造られたという。この石の文中、昔、霊山で法華経を説いた方といえば、釈尊のことであり、この文は、昔のインドの釈尊が、今の日本国に垂迹して諸天善神の八幡として現じた、ということを表わしているのである。その石は、今日では現存していないが、大聖人の御在世にはあったということで、御書にもそのことが述べられている。さて、言うまでもなく、諸天善神の働きは、仏の力用として顕現されるものであり、大聖人は、『立正安国論』等で、国中に謗法が蔓延している時は、諸天善神は国を捨て去って守護しないが、一国に正法が広まれば、また戻ってきて国を守護する、と説かれている。その諸天善神の中でも、八幡大菩薩はとくに、前述したように、釈尊が垂迹して日本国守護の善神と現われたものであるから、日本の仏法たる本宗の守護神となるのである。この意義の上から、広宣流布の暁には本門寺に八幡の社が建てられるのであって、それ以前に本宗として社を建てるわけではない。

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from: 21世紀さん

2009年07月07日 13時05分14秒

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「Re:化儀抄2」
第98条 開基住職の後任の任命
一、末寺の事は我が建立なるが故に、付弟を我と定めて、此の由を本寺へ披露せらるる計りなり云云。



住職が自ら建立した末寺においては、その住職が、自らの後任の住職を定め、本山に届け出ればよろしい、と示されている。昔は、御僧侶や檀那(信徒)が自ら開基して寺院を建立する、という形が各地に多々あった。開基の御住職といえば、当然、信心強盛で、その御住職の指導・督励のもとに後継のお弟子が育つのであるから、それを御法主上人が信頼されて、開基住職に後住の指名を許されたもの、と拝される。ただし、これは、末寺の御住職を師匠として出家得度する、という制度があった時代のことで、その制度がほとんどなくなった現在には適合しない。今日においては、御僧侶は全て、御法主上人のお弟子として出家されるのであり、したがって、全ての寺院の御住職も、総本山からの任命によって定まるのである。

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from: 21世紀さん

2009年07月05日 00時09分05秒

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「Re:化儀抄2」
第97条 謗法者の仏事を願う
一、他宗の親・師匠の仏事を、其の子・其の弟子、信者にて成さば、子細あるべからず。



すでに亡くなっている親や師匠が他宗の者であったとしても、子供であり弟子である者が本宗の信徒で、その信徒が親や師匠の法事を願い出てきたら、本宗の御僧侶はそれを受け入れてよろしい、と示されている。これは、親もしくは師匠の葬儀が他宗で行なわれていたケースでも、本宗の信徒である子供や弟子が、何日忌とか何回忌という法事、あるいは時に応じて追善回向を、本宗の寺院に願い出ることは許される、とい
うことである。

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from: 21世紀さん

2009年06月30日 18時02分16秒

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「Re:化儀抄2」
第96条 謗法者の祈念を願う
一、他宗の親兄弟の中に、病災等に付いて祈祷を成すべき子細あらば、我が信ずる正法の法華宗の出家を以って我が所にて祈祷せば、尤も仰せに随うべし。既に兄弟が正法の檀那なるが故に、彼の仰せに子細なしと云云。



本宗の信徒に、まだ他宗に籍を置いているような親兄弟がいて、その親兄弟の中から〝病気平癒や災厄払いの祈祷を行ないたい〝という話が持ち上がったとする。その時、本宗の信徒が、「私の信じている正法の御僧侶に祈祷してもらいましょう」と言って、その祈祷を本宗で行なうことになった場合、本宗の御僧侶は、この願いに応じてよろしい、と示されている。なぜ、これが許されるのかといえば、病気になっている人もしくは災難に遭っている人は他宗の信者であっても、その兄弟もしくは子供がすでに正法の信徒であり、その信徒の願いに応ずるわけだから、問題はない。つまり、願主が本宗の信徒であれば、本宗以外の人を御祈念することも許される、ということである。今日においても、たとえば、自分の身内の当病平癒や罪障消滅の御祈念を寺院にお願いしたり、あるいは、家の新築の時など、建築の施主である親や夫は未入信でも、自分が願主になって地鎮祭や起工式をお願いする、ということが受け入れていただけるのも、この意義によるのである。

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from: 21世紀さん

2009年06月28日 00時40分46秒

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「Re:化儀抄2」
第95条 他宗の仏事への協力は

一、法華宗は、他宗の仏事作善をば合力せざるが功徳なり。其の故は、かたきの太刀・刀をばとぎて出だすべきか、敵のようがいをこしらえて無用なるが如し。仍って他宗の仏事の合力を為すべからず云云。但し、公事なんどの義は別の子細なり云云。



本条では、他宗で行なう仏事に協力してはならないことを示されている。通解すると、「本宗の僧俗は、他宗で行なう仏事作善(法要や葬儀等のこと)に協力してはいけない。協力しないことが功徳になる。何故ならば、誰が、わざわざ、敵のために太刀や刀を研いであげたり、陣地を造ってあげたりするであろうか。他宗の仏事に協力するということは、まさに、それと同じである」と示されている。いうまでもなく、他宗は悉くが、正法に背き、正法の流布を妨げる、邪宗謗法であり、本宗の敵である。しかるに、その邪宗謗法の仏事に積極的に協力していくことは、一分なりとも敵に力を貸すことであり、結果的に正法を衰微させていくことに繋がっていく。それ故、〝本宗の僧俗は、邪宗の仏事に協力すべきではない〝と言われ、また〝協力しないことが功徳になる〝と言われているのである。
ただし、「公事なんどの義は別の子細なり」と言われ、公の仕事として行なう場合は例外である、とされている。公事というのは、国や県、あるいは町などの公の仕事で割り当てられることであるが、たとえば、町内会や会社組織の一員として葬儀の手伝いを割り振られる、というような場合も、これに含まれるであろう。そういった場合は、公の割り当てだから、協力するのもやむをえないことであるが、邪宗をもって行なわれる法要に、何の恐れも違和感も持たず、むしろ自分から積極的に協力していく、などという感覚は、本宗信徒にあるまじきことである。

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from: 21世紀さん

2009年06月25日 23時26分37秒

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「Re:化儀抄2」
第94条 無戒だが出家は持戒
一、法華宗は大乗の宗にて信心無二なる時は即身成仏なるが故に、戒の持破をも云わず、又有智無智をも云わず、信志無二なる時は即身成仏なり。但し、出家の本意なるが故に、何にも持戒清浄ならん事は然るべし。但し、破戒無智にして已上すべからず云云。



本宗は真実の大乗教であり、信心が無二であれば即身成仏できるのである。したがって、戒律を守っているとか破っているということを、とくに問う必要もないし、また、智慧の有無も問題ではない。とにかく、信心の志の無二なることによって即身成仏が決定されるのである。ただし、御僧侶においては、出家の本義から考えて、自らを律して清浄であるべきで、平然と破戒無智を犯していくような人であれば上位の位に上らせてはならない、と示されている。末法無戒といわれるように、日蓮大聖人の仏法においては、純粋かつ強盛な信心によってのみ即身成仏ができるのであり、戒律を持っているか、いないか、ということは問題にされない。考えてみるに、釈尊の仏法で説かれた戒律は、たとえば〝嘘をついてはいけない〝とか〝人の物を盗んではいけない〝とか〝生き物をむやみに殺してはいけない〝などといったことは、今日ではほとんどが、世間における道徳あるいは常識になってしまっている。
しかし、ここで問題になるのは、それが道徳であり、そうするのが正しい、とわかっていても、なかなか守れないのが末法の凡夫だ、ということである。では、どうすればよいのかといえば、御本尊を信受することが全ての善の根本であり、戒律というも道徳というも、御本尊を信受するところに全部含まれてしまう、ということを知るべきである。すなわち、御本尊を拝むことによって、道徳も守れるような人格に自ずから変わっていくことができるのであり、それがまた御本尊の功徳なのである。それ故、本宗の仏道修行においては、戒律や道徳をあえて論ずる必要はなく、ただ、ひたすら、謗法なく正しく強盛に信心することに徹すればよいのである。だからといって、信心さえしていればどんな悪いことをしてもよい、などということではない。ここでいうのは、道徳や常識も守れないような悪人でも、信心で善人に変わっていく、ということであって、自ら正しい行ないを心掛けていくことは、当然のことであD法の凡夫だ、ということである。では、どうすればよいのかといえば、御本尊を信受することが全ての善の根本であり、戒律というる。さて、本条では、〝戒律を持っているかいないかを問題にしてはいけない〝と言われながらも、それを前提とした上で、御僧侶に対しては「持戒(※戒律を持つこと)清浄ならん事は然るべし」と示されている。これはつまり、「出家の本意なるが故に」と言われているように、そもそも〝出家〝の本来の意味が、俗世間上のさまざまな煩悩や欲望から離れて仏道に入るということなのだから、在家よりも仏道修行を積んで、自らを律して道徳や常識を守っていくのが当然である、ということである。やはり、本宗においては、しっかりと信心を持って功徳を積まれ、常識も身につけていった御僧侶が、寺院の御住職になるのであり、御法主上人になられるのである。

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from: 21世紀さん

2009年06月19日 23時33分35秒

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「Re:化儀抄2」
第93条 断食等の苦行は無用

一、法華宗は折伏修行の時なる故に、断酒、定斎、夏に入るなんどといい、又断食なんどと云う事、有るべからず云云。



「定斎」とは、一定の期間だけ厳格に戒律を守る、という修行のこと。また、「夏に入る」とは、安居に籠って学問に専念する、の意。これは、インドにおいて、夏の雨期の間は外に出られないために屋内で学問に専念する、という習慣があったことから、日本の仏教界でもこれを持ち込み、〝夏中〝といって、四月頃から七月頃までの間を学問の期間とする、といったことが行なわれていたもの。本条を通解すると、「本宗においては、末法は折伏修行の時である、と説いている。したがって、断酒とか、定斎とか、夏に入るとか、あるいは断食などという、消極的な修行は行なわないのである」ということになる。
とはいえ、ここに「断酒は行なわない」とあるからといって、健康のために酒をやめるのを禁じているわけではないし、まして、酒好きの人が飲酒量を増やす口実にしたりしてはならない。ここで言われているのは、そのような意味ではなく、たとえば、「自分は百日間、酒を断ちますから、御本尊様、この願いを叶えてください」というような、仏道修行の一環として断酒することをさしている。そういうことは、末法今時の修行にはならないのである。「定斎」も同様で、「何日間だけは厳格に戒律を持つ」などと言って、たとえば、その期間は肉食を断ったり飲酒を断ったり、あるいは虫も殺さないなどとしてみても、末法の仏道修行としては意味がない。また、「夏中だから」といって、もし、四月から七月の間は家に籠って勤行と教学だけを行ない、御講にも参詣しなければ会合にも出ない、もちろん折伏もしない、というようなことでは、〝修行の時を失う物怪〝になってしまう。「断食」もしかりで、何日間、食事を断つとか、お茶断ちや塩断ちをして願掛けをする、などということは、末法の修行とはまったく無関係である。末法においては、あくまでも折伏が大事であり、積極的にその時間を取っていかなければならない。そういう時に、家に籠ったり、戒律に気を取られたり、あるいは断食で健康を害したりしていては、意味がないばかりか、かえって折伏の実践に支障をきたすことになってしまう。それ故、本条では、そうした無駄な難行苦行を制止し、折伏に専念すべきことを示されているのである。

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from: 21世紀さん

2009年06月18日 23時17分21秒

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「Re:化儀抄2」
第92条 自衛措置としての帯刀

一、釈迦の末法なる故に、在世正像の摂受の行は爾るべからず。一向折伏の行なるべし。世、嶮なるが故なり云云。仍って刀杖を帯するなり。之れを難ずべからず云云。



通解すると、「今は、釈迦仏法の末法であるから、釈尊在世や正法時代・像法時代の摂受の修行はしてはいけない。ただ一途に折伏の行をすべきである。それは、謗法が充満し、非常に乱れた世の中だからである。それ故、刀や武器を携帯することも許される。それを非難してはいけない」と言われている。そもそも「末法」とは、釈尊の仏法が衰微して利益を失う時代のことであるが、この末法に入ると、人心は濁り、世も乱れて、正法に対する怨嫉・憎悪・迫害が激しくなることが経典に説かれている。そういう険しい時代においては、摂受の行は用をなさず、専ら折伏の行でなければならないのである。つまり、「摂受」とは、相手の非を責めず、柔らかく法を説いていくという行き方で、世の中が平穏で邪宗謗法もあまりなく、正法を聞けばほとんどの人が素直に信受できるという時代の弘教法である。しかし、邪宗謗法がはびこり、正法に怨嫉する人が充満する時代には、摂受では絶対に正法を弘めることはできない。そういう時代においては、邪宗謗法を排除する「折伏」でなければならないのである。また、本条では、そういう、乱れた世の中であるから、僧侶であっても刀などの武器を携帯してもよろしい、と示されている。日有上人の頃は、戦国の時代、それも応仁の乱の前後である。そういう政情不安の時代にあって、富士の地方においても地頭が失脚したり交替したりということが頻繁にあり、争いも起きやすかった。そうしたなかでは、いつ何どき、刀を持った謗法者が本山を襲撃してくるやもしれない。その時、こちらも自衛措置としての武器を持っていなければ、正法を護りきることができない。そこで、自衛のために刀などの武器を持ってもよろしい、それをさして、僧侶が刀を持っているのはおかしいなどと非難してはいけない、と言われているのである。近年、時代背景と文意を弁えない顕正会の浅井昭衛なる人物が、これらの御教示を「仏法を護るためには刀杖を持ってもよい」と短絡的に解釈し、六十六世日達上人に対し、「ついに刀杖を持するに至りました」などという脅迫状もどきの文書を送り付けた事件があった。浅井は、当時、日達上人の戒壇に関する甚深の御指南に対し、それを理解できない自分の浅学非才を棚に上げ、「日達上人が仏法を曲げた。自分達こそが仏法を正しく護っているのだ」と言い張っていた。そして、自分らの主義主張を押し通すことが仏法を護ることであり、そのために武力で攻める、と言うに至ったのである。しかし、〝刀杖を持する〝という浅井の考えは、日有上人が示されたこととは根本的に意味が違う。日有上人は、相手が武力をもって攻めてくる時に、そこから正法正師をお護りするために、最小限の自衛措置として武器を帯することを許す、とされているのである。その点を間違えてはならない。

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from: 21世紀さん

2009年06月13日 11時04分03秒

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「Re:化儀抄2」
第91条 御本尊の客分という意
一、本寺へ登山の諸国門徒僧衆は、三日の間は仏の客人たる間、賞翫之れ有リ云云。



各地方から総本山へ登山する僧侶や信徒達は、三日間は仏様の客人としてもてなされる、と示されている。昔は、地方の僧俗が登山するといえば、山を越え川を越えて、万里の道を歩き、戒壇の大御本尊の元へ、大聖人の元へと参詣して来るのであるから、総本山ではこれを、御本仏にお目通りをしに来たお客であるとして扱われ、三日間は厚くもてなされたのである。当然、今日においては交通が便利になり、昔のような苦労はなくなったので、特別なもてなしなどという必要はなくなったが、それでも、登山者が不自由ないようにと、宿泊の施設や弁当の手配など、総本山ではさまざまな面で配慮してくださっている。考えてみるに、私達は、自らの仏道修行として登山させていただいているのであるから、本来であれば、宿泊の手配も弁当も、自らが用意すべきであるところを、このように配慮していただいているのである。まことに有り難いかぎりではないか。そういう意味で、今日の私達においても、充分に厚くもてなしを受けていると知るべきであろう。なお、五十九世堀日亨上人は、この賞翫(もてなし)を受けるということについて、『化儀抄註解』に「賞翫を受け厚遇に預かる僧檀の客人達は、随所に敬虔の信念を発揮し」云々と仰せられ、もてなされることに対し、至るところに敬虔な信仰心を感じなさい、厚遇されることにあぐらをかいて客人ぶりを悪くしないようにしなさい、と示されている。まことにそのとおりであって、私達は、けっして当たり前のように思ったり、不足に思ったりしてはならないのであり、常に恐縮の気持ちを忘れないようにしたいものである。

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from: 21世紀さん

2009年06月08日 20時19分34秒

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「Re:化儀抄2」
第90条 当宗は日々の行体が大事
一、本寺に於いて、小師を持ちたる僧をば、小師に届けて、仏の使いなんどにも檀方へも遣わし、其の外の行体をも仰せ付けらるるなり云云。



「小師」とは本師(総本山の住持たる御法主上人)に対する語で、手続の師のこと。現在においては、御僧侶はほとんど全てが御法主上人を師範として出家得度するが、昔は末寺の御住職を師範として出家することが常であった。
したがって、本条で言われている「小師を持ちたる僧」とは、〝末寺住職を師匠として出家得度した御僧侶〝の意で、全文を通解すると、「末寺住職を小師とする僧侶が総本山に在勤した場合、総本山では、その小師に通知をした上で、総本山の公の使いとして檀信徒の所へ遣わしたり、その他、行体として日常の諸役などを仰せ付ける」と言われているのである。ここで言われている「行体」とは、修行として日常の業務を行なうことで、さまざまな雑用も含まれる。そもそも、仏道修行においては、信心を行体に表わしていかなければ、その信心は本当には固まっていかない。御本尊にお給仕し、師匠に仕える――といった行体を通じて、信心が培われ、固まっていくのである。これをわかりやすい例を挙げていうと、たとえば、御宝前がゴミだらけ埃だらけで、樒も枯れてしまっている、という状態なのに、唱題だけは三時間、四時間と続けていたとしても、その人は信心があるといえるだろうか。当然、御本尊を仏様として尊び、生身の日蓮大聖人と拝する信心があれば、御本尊に対するお給仕をキチッとなし、御宝前もきれいに掃除するはずである。それなくして、ただ題目だけは何時間も唱えるというのでは、その人は、自動販売機に百円入れれば百円の商品が出てくる、三百円入れれば三百円の商品が出てくる、というような感覚であるといわざるをえない。そのような在り方では、いくら唱題しても、いっこうに信心は深まらないし、本当の功徳など積まれるはずがないのである。このことからも、日常において、仏様や師匠に対してお給仕し、お仕えすることが、修行の根幹としていかに大切であるかがわかるであろう。

以上のことについて、五十九世堀日亨上人は、『化儀抄註解』に、『行体』とは、水を汲み、華を摘み、菜摘み、薪取りより始めて、その外日常の業務なり。事行の本宗にては行体が肝心なり。一信・二行・三学の順序はあれども、行体なくんば信心を彰はすに由なく、講学を積むも詮なきものなり。然るに吾等動もすれば、布教の急なる為に、講学の忙しきが為に、事務の劇なる為に、報恩給仕読経拈花の行体を等閑に付せんとする事あり。慎まざるべけんや」と示されている。つまり、〝「行体」とは水を汲み、華を摘み、菜を摘み、薪をとるなどして、師匠に仕えることから始まって、その他、仏道修行における全ての日常業務も含まれる。本宗は、事の上に行をあらわしていく宗旨であるから、行体が大切である。一に信心、二に修行、三に教学という順番はあったとしても、行体がなければ信心を表わしていくことはできないし、教学も役に立たなくなる。しかるに、我々は、ともすれば折伏・布教が忙しいからとか、教学を学ぶことが忙しいからとか、諸々の仕事が激務だから等々といって、報恩のお給仕や、読経や樒を供えるといった、行体が疎かになる傾向がある。このことは慎むべきである〝と注意を加えられているのである。

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from: 21世紀さん

2009年06月08日 20時17分26秒

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「Re:化儀抄2」
第89条 内外の人と接する在り方
一、法華宗の法師は、他宗他門の人に交わる時は、我が人体の分程振舞うべし。懈怠すべからず、又卑劣すべからず、俗姓程になるべし。我が法華宗の中にては貴賎上下を云わず、仏法の信者なるが故に卑劣すべからず云云。但し檀那に依り、不肖の身たりと雖も上座に居する事有り云云。



本条では、最初に、本宗の御僧侶が他宗他門の人と接する時に留意すべきことを示され、続いて、宗内における御僧侶と信者の関係について示されている。まず、〝他宗他門の人と接する時〝においては、〝自分自身の身分に相応した振舞いをすべきである。礼儀を怠ってはならないし、逆に卑屈になってもいけない。世間法上の出生や立場に応じた振舞いをすればよい〝と。本文中の「懈怠すべからず」というのは〝礼儀を怠ってはならない、失礼の儀があってはならない〝の意であり、「卑劣すべからず」とは〝卑屈になってはいけない、必要以上に小さくなってはいけない〝の意である。では、どの程度の礼儀をもって接すればよいのか、といえば、「俗姓程になるべし」――つまり、在俗の時における氏姓、すなわち出生の身分の程に応じて振舞えばよろしい、と示されているのである。当時、俗世では出自等による身分階級があった故に、「俗姓程」と表現されている。たとえば田舎者なら田舎者らしく、あるいは大臣の子息であれば大臣の子息らしく、というような意味であるが、言わんとされているのは、年齢の上下関係等も含めて、世間の常識で接せよ、ということである。むろん、宗内においては、御僧侶は日蓮大聖人のお遣いであるとして尊ばなければならない。ひとたび出家して僧道に入られれば、世間的な身分や年齢の上下・出身地等は一切関係なく、大聖人の御弟子としてのお立場だけになる。それ故、たとえば、在家の両親が御小僧さんに接する場合においても、俗名で呼んではならないし、道号にも「さん」の敬称を付けなければならないのである。しかし、これは本宗の信仰の中におけることであって、邪宗謗法の人には、本宗の御僧侶を大聖人のお遣いとして尊ぶ、というような信心は全くない。したがって、他宗他門の人と接する時は、本宗内におけることを、そのまま持ち込んではいけない。けっして卑屈にはならず、それでいて礼儀は弁えて、世間通常の分に相応して接すればよろしい、と示されているのである。ここでは、直接的には御僧侶に対して言われているが、当然、在家信徒もこれに準じて考えるべきで、信仰上の役職を持ったからといって、それをもって職場や地域あるいは家庭などでも、上から下に向かって物を言う、というようなことではいけない。



また、邪宗の僧や謗法の上司を折伏する場合などにも当てはまることで、礼儀も弁えず、上から下を見下ろすような、相手をバカにしきった態度で接すれば、それだけで、相手は聞ける話も聞けなくなってしまうであろう。とはいえ、こちらがそのつもりでいても、たとえば、顕正会や池田創価学会の悪餓鬼共のように、まったく世間の礼儀が通用しない相手もいる。向こうから、御法主上人猊下や御僧侶方を呼び捨てにし、悪し様に罵ってきた場合、「卑劣すべからず」であるから、こちらもそれ相応の対応をしなければならないこともある。要は、筋道を弁え、基本的な世間的礼儀は守るが、卑屈になるまでのことはない、ということである。次に、〝宗内における僧俗の関係〝であるが、本条では〝生まれや家の職業の貴賤、あるいは年齢の上下というようなことを論じてはならない。あくまでも同じ仏法の信者であるから、身分が低くても年齢が下でも、卑屈になってはいけない〝と言われている。つまり、ここでは、世間的な身分の高低等は一切排除して、仏法上の立場だけで付き合いをすべきである、と示されているのである。しかる故に、その次下には、〝たとえ不肖の僧侶であったとしても、檀信徒の上座に座ることがある〝と言われている。ここで「不肖の身なりと雖も」と言われているのは、僧階が低いという意味と、生まれが下賤であるという意味の、両意があると思われる。

なお、席の序列に関しては、第二祖日興上人の『遺誡置文』では、「若輩たりと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事」と、身分や位に関係なく、御僧侶は常に檀信徒よりも上席に座るべきことを示されている。しかし、『化儀抄』の本条では「上座に居することがある」として、表現が少し緩和されている。これは、身分の上下が定まっている時代において、たとえば一国の国主・城主というような高位の人が信徒になるという場合もあり、そういう人と同座する時に、年が若く、また位もそれほど高くない御僧侶が、絶対に上座に座らなければならない、と規定することによって、かえってさまざまな支障が出ることもあるので、日有上人が多少緩和されたのである。

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from: 21世紀さん

2009年06月08日 20時15分31秒

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「Re:化儀抄2」
第88条 故人の遺族が謗法者なら(一、)
一、縦い昨日まで法華宗の家なりとも、孝子施主が無くんば、仏事を受くべからず。但し取骨までは訪ろうべし云云。



昨日までは本宗の信徒の家であったとしても、その信徒が亡くなり、残された子供が法統相続しておらず、謗法の者だけになった場合は、葬儀・火葬の骨上げまでは本宗で行なってよい(その後の法事等の願いには応じてはならない)、と示されている。なぜ、骨上げまではできて、それ以後の法事をしてはならないのかといえば、次のような理由によるのである。

まず、故人が生前から〝日蓮正宗で葬儀を出してほしい〝と願っており、遺族がその意志を尊重して本宗に願い出た場合は、本宗においても、故人自身の願い・意志ということで、それを受け入れることができる。しかし、火葬が終わり、骨上げが済んでしまえば、その家にはもはや、その人は存在せず、残っているのは謗法の遺族ばかりである。
しかして百箇日忌や一周忌などの法事は、今度はその謗法の遺族からの願いということになるから、当然、謗法厳誡の本宗としては、それを受け容れることはできないのである。

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from: 21世紀さん

2009年06月06日 17時41分49秒

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「Re:化儀抄2」
第87条 他宗境内で本宗の仏事

一、縦い禅・念仏の寺・道場の内なりとも、法華宗の檀那施主等の之れ有らば、仏事を受くべきなり云云。



たとえ、禅宗や念仏宗の寺院・道場の中であっても、本宗の檀那が施主となって葬儀や法要等の仏事を行なうという場合は、本宗の御僧侶はその信徒の願いを受け入れて、本宗による仏事を執行してよい、と示されている。この場合は、会場として、他宗の寺院や道場を借りるということであっても、もちろん、邪宗の本尊に向かって拝むのでもなければ、邪宗の僧と一緒になって仏事を行なうということでもない。本宗の御本尊をお懸けし、その御本尊に向かって本宗の御僧侶が導師をする場合のことを許されているのである。かつて、池田創価学会は、日顕上人猊下に対し「禅宗寺院の境内地にある墓地で法要をしたから、大謗法だ」などと言い掛かりをつけて大騒ぎしたが、禅宗の境内地であろうと何であろうと、その墓の持ち主が本宗の信徒であり、その人の願いによって法要を執行されたのであるから、謗法でも何でもない。そのことは、本条でも明確に示されているではないか。(※これについて付言すれば、学会は、この墓を「日顕上人猊下の御実家の墓」と宣伝したが、実際は御親戚のものであり、日顕上人猊下の御実家の御墓は大石寺墓地にある。)また、学会は、ある地方で、本宗の信徒の葬儀が他宗の寺を借りて行なわれた、ということについても、謗法呼ばわりし、日蓮正宗攻撃の材料にしていたが、これが謗法でないことは本条に明らかである。ちなみに『化儀抄』には、〝謗法でもないことを謗法呼ばわりして中傷すれば、かえって自らが謗法となり、大きな罪を作ることになる〝という戒めもあるが、無知により、言い掛かりの中傷を繰り返した学会の方こそが、謗法を犯していた、ということである。

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from: 21世紀さん

2009年06月04日 16時20分35秒

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「Re:化儀抄2」
第86条 他宗の葬儀では遺体に合掌

一、他宗他門の人死去せば、知人ならば訪ろうべし。但し、他宗他門の本尊・神座に向かって題目を唱え経を読まず、死去の亡者に向かって之れを読むべし。惣じて法界の衆生の死去の由を聞き受けては之れを訪ろうべし云云。



他宗他門の人が死んだ場合、その葬儀は当然、邪宗で行なわれることになるが、その場合でも、死んだ人が知人であるならば弔いに行ってよろしい、と葬儀に行くこと自体は許されている。ただし、その場合に注意すべきこととして、邪宗の本尊や位牌に向かって、題目を唱えたり方便品・寿量品を読んではいけない。直接、死んだ人の遺体・遺骨に向かって読経・唱題しなさい、と示されている。なぜ、謗法厳誡の宗旨である本宗において、他宗他門の人の葬儀に行ってもよいのか、ということだが、他宗他門であろうとなかろうと、総じて世の中の人が死んだと聞いたならば、追善回向してあげようとの慈悲の心を持つのが当然であり、その心で行くべきである、と示されている。つまり、葬儀とは、故人とのお別れの場であり、故人の冥福を祈る場であるから、本宗の人が、本当の追善回向をすべく、そこに行くことは、当然、許されてしかるべきことなのである。しかし、とはいっても、本条に示されているとおり、邪宗の本尊や位牌に向かって、題目を唱えたり御経を読んだりすることは、自らが謗法を犯すことになる。また、ここには挙げられていないが、邪宗の僧に従って手を合わせてはいけないし、邪宗の僧がたまたま題目を唱えたり、方便品や寿量品を読んだとしても、それに従って共に読経・唱題してはならない。邪僧の導師に従えば、その僧に師弟相対することになり、謗法になってしまうのである。私達は、本条に示されているように、直接、遺体・遺骨に向かって手を合わせ、御本尊を思い浮かべて読経・唱題し、もって故人への追善回向をしてあげるべきなのである。ちなみに、創価学会では、本宗の信徒団体だった当時から、〝心に御本尊を信じていれば、邪宗の本尊や位牌に向かって題目を唱えてもよい〝などというデタラメな指導が罷り通っていたようで、葬儀はもとより、親戚宅への盆参りなどでも、邪宗の仏壇に向かって題目を唱えている学会幹部の姿が、各地で見られた。こういう謗法の姿は、学会が、『化儀抄』も学ばず、本宗の信仰を受け継ごうともしなかったが故に生じたもの、といえよう。そして、日常の信仰がかくもいいかげんだったからこそ、学会の中ではろくな功徳もなければ、成仏できないケースも多くなって、次第に功徳や罰に鈍感になっていったのである。今日、学会自体が完全な邪教団体となってしまって、大謗法ゆえの凄まじい罰の現証が周囲に蔓延しているにも拘わらず、ほとんどの学会員が目を覚ますことができないというのも、もとより、正信の功徳を実感したことが少ないためであろう。やはり、真の大功徳を得ていくためには、日常の信仰をキチッとしていくことが大切であり、そのためにも『化儀抄』を学び、正しい信仰の在り方をしっかり身に刻んでいきたいものである。

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from: 21世紀さん

2009年06月01日 01時25分12秒

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「Re:化儀抄2」
第85条 謗法者の葬儀の執行
一、親類縁者一向に一人も無き他宗他門の僧俗、近所に於いて自然と死去の事有らば、念頃に訪ろうべし。死去の後は謗法の執情有るべからざる故なり。若し一人も縁者有って見次がば、自ら其の所に謗法の執情を次ぐ故に、然るべからず云云。



親類縁者の一人もいない他宗他門の人が、近所で死亡した場合、懇ろに弔ってあげなさい。死人には・邪宗への執着や、本宗に背くという謗法の心もなくなってしまうのであるから、本宗で追善回向しても差し支えない。ただし、もし一人でも身内がいて、その人が故人の跡を継ぐ(邪宗信仰や謗法をも引き継ぐ)、というような場合は、その亡者の謗法の心が引き継がれている故に、その亡者を弔うことはできない、と示されている。本宗は、もとより謗法厳戒の宗旨であり、謗法の人の願いによって、さまざまな御祈念をしたり葬儀をしたり、ということはありえない。それは謗法容認になり、たとえそのような状況で葬儀を執行したとしても、謗法が少しでも混じれば、亡くなった人を成仏させることなど、とうてい適わないのである。しかし、故人に身内が全くいないとか、誰も喪主になる人がいない、というような場合は、故人が生前・邪宗の僧侶や信者であった場合でも、本宗で葬儀をしてあげてよい、とされている。これは、故人は、たしかに生前の謗法によって生命に悪業を積み重ねてはいるものの、現時点においては、死亡したことによって意識の働きが失われ、同時に謗法の心もなくなってしまっているからである。

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from: 21世紀さん

2009年05月29日 19時45分40秒

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「Re:化儀抄2」
第84条 宗内で謗法を見聞したら
一、門徒の僧俗の謗罪を、見隠し、聞き隠すべからず。与同罪遁れ難き故なり。内内教訓して用いずんば、師範に披露なすべきなり云云。



宗内の僧侶および信徒の中において、謗法罪を犯しているのを見聞きしたならば、それを隠していてはならない。自分も与同罪になってしまうからである。そういう場合は、本人に直接、「それはいけないことではないか」と教訓すべきである。それでも聞き入れなかったならば、相手の師匠に告げるべきである、と示されている。

これは、第五十七条とまったく同義であり、宗内で謗法を犯している人がいて、それに自分が気付いた場合、どのように対処すべきかについて、示されたものである。ことに「内々に教訓すべきである」とされている点については、重々の意味が考えられる。まず、相手が、自らの行為を謗法にあたると自覚していなかった場合――この場合は、直接教えてあげることによって、相手も気が付き、反省して直すことができるであろう。それを、もし、直接に指摘しないで、あちこちで「あの人は謗法を犯している」などと吹聴して廻わるようなことをすれば、その人は、立ち上がれなくなって、正法の信仰そのものを退転してしまうことにもなりかねない。つまり、小さな謗法を正そうとして、もっと大きな謗法を犯させることになってしまうのである。これについて五十九世日亨上人は、『化儀抄註解』の中で、〝あの人の信仰はおかしい、謗法である〝などと、同信の徒の横のつながりの中で言い散らかしていくことは、破和合僧にもなるので、厳に戒めていかなければならない、と示されている(『化儀抄のやさしい解説〈上〉』第五十七条参照)。要は、謗法をやめさせることが大事なのであるから、まずは内々に教訓すべきなのである。また、「内々に教訓すべき」意味として、もう一つのことが考えられる。それは、〝自分の目から見たら謗法に見えたが、じつは謗法ではなかった〝という場合がある、ということである。たとえば近年の例でも、池田創価学会が、「御法主日顕上人猊下(の御親戚)が、禅宗の寺の墓地に墓を造り、そこで読経したから、謗法だ」などという宣伝を、機関紙で大々的に行ない、これを真に受けた学会員が猊下を謗法呼ばわりする、という出来事があった。しかし、これは謗法でも何でもない。後の第八十七条にも、〝邪宗の境内地であっても、本宗の信仰をしている人が施主であるならば、そこに出向いて法事をしてもよい〝と明確に示されているように、本宗では、他宗の墓地に墓を造ることも、そこに御僧侶が出向かれて法事をすることも、古来から許されているのである。このように、自分の無学・浅識や勘違い等によって、謗法でもないことを謗法だと思い込んでしまう場合もあるのだから、横に広く言い触らしたりしたら、かえって自分が謗法罪や破和合僧になる場合もある。よって横に言い触らすのでなく、まず本人に直接問いただすべきなのである。以上の二つの意味から、まずは「内々に教訓」することが大事なのであり、もし、自分ではどうしても言いにくいというのであれば、自分の師匠や先輩に報告し、そこから「内々に教訓」していただく、ということでもよいであろう。そして、それでも相手が改めなければ、今度は、相手の師匠に報告するのである。

「謗法を見て知っていながら隠しておいてはいけない」ということと、「本人に直接指摘し、それでもダメならその人の師匠に報告する、という次第を違えてはならない」ということ、これが本条で示されているのである。

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from: 21世紀さん

2009年05月29日 19時42分23秒

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「Re:化儀抄2」
第83条 御飯も筋目に則って
一、俗の亡者乃至出家たりとも余の常の出家の霊供の飯をば、出家に与ふべからず。俗の亡者は位出家に劣なるが故なり。高祖已来代々の御霊供を給わらん事は子細に能わず云云。



亡くなった人が、在家信徒であったり、もしくは出家であっても御法主上人以外の平僧であれば、その精霊に供えた御飯を下ろして御僧侶に食べさせてはいけない、と示されている。
その理由は「俗の亡者は位出家に劣なるが故なり」――つまり、在家信徒は、仏法上、出家した御僧侶より位が低いのであるから、在家に供えた御飯を下ろして御僧侶に差し上げるなどということは、失礼であるばかりか、師弟の筋が逆転してしまうからである。ただし、〝大聖人以来の御歴代上人にお供えした御供物を、御僧侶に差し上げるということは、差し支えがない〝と言われている。この条につき、五十九世日亨上人は『化儀抄註解』において、〝大聖人や御歴代上人だけでなく、位の高い御僧侶への霊供を、それより位の低い御僧侶がいただくということも、差し支えないだろう〝とされている。

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from: 21世紀さん

2009年05月29日 19時40分25秒

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「Re:化儀抄2」
第82条 御本尊に茶湯は供えない

一、茶湯有るべからず、唐土の法なるが故に。霊供の時も後に酒を供すべし云云。此の世界の風俗は酒を以って志を顕わす故に、仏法の志をも酒を以って顕わすべしと云う意なり云云。



「茶湯」とは抹茶・煎茶のことで、〝御本尊にお茶をお供えしてはならない〝と言われている。なぜかといえば、「唐土の法なるが故に」――つまり、抹茶や煎茶を供えるというのは、中国の風習であって、日蓮大聖人の仏法は日本の仏法であるから、日本の風習を用いるべきだ、というのである。

(69)

そして、〝本宗では、霊供の際に、御飯の給仕の後、酒を献ずるべきである〝とされ、その理由を、〝この日本では、喜び悲しみ、あるいは感謝など、喜怒哀楽の心をすべて、酒で表わすことが世間の慣習になっている。そういう日本の風習に従い、本宗においても、酒をお供えして御供養の志を表わすのである〝と説明されている。ただし、本条で酒を供えることが認められているからといって、自ら酒を飲み過ぎて勤行がままならなくなったり、あるいは、酒にうつつをぬかして折伏をしなかったり、というようなことは厳に誡めねばならない。

これについて五十九世日亨上人は、『化儀抄註解』において、〝本宗の僧俗が酒を嗜むのはかまわないが、酒に酔って勤めるべきことが勤められないというようなことは論外であり、破戒になる〝と仰せられている。

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from: 21世紀さん

2009年05月28日 08時27分51秒

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「Re:化儀抄2」
第81条 霊供をお供えする順序

一、霊供を備うるには、仏供二つ、日蓮聖人より代々の御霊供を備えて、今日の亡者の霊供に備うるなり。皆大儀なれば、日蓮聖人の御台計り備え申して、余の代々をば御さんぱ計り備え申して、さて其の日の亡者の霊供を備うべし。代々上人の御台をしたてぬは略義なり云云。又亡者俗人なんどならば其の霊供をば少し下く備うべし云云。



「霊供」とは、御本尊・宗祖日蓮大聖人・御歴代上人・その他の故人の精霊にお供えする御霊膳のことで、本条では、御講や御歴代上人の御命日、あるいは信徒からの願いによる法要などの際の、献膳のことについて示されている。霊供の中でも御本尊にお供えすることを「仏供」といい、この場合は、「仏供二つ」と言われているように、御飯を盛った金碗を二つお供えするのである。お供えする順序については、まず御本尊に仏供を供え、次に大聖人から代々の御法主上人の順で進め、最後に追善回向する故人の精霊の所に供えるべきことを示されている。この順序次第があるのは師弟相対の上から当然のことであり、大聖人や御歴代上人よりも、回向する故人の方へ先に供えたならば、師匠を越えることになるから、それは許されないのである。ただし、全ての御歴代上人に一つひとつお供えするとなれば、これは大変煩雑で、とても無理であろう(「大儀」とは、煩雑で困難である、の意)。ゆえに、大聖人には正式な御膳をお供えするが、御歴代上人については、御さんぱ(散飯のことで、一つの器に御飯と菜を一緒に盛ったもの)をお供えするだけの省略した形にし、その次に故人の精霊に供えるということでよろしい、と示されている。ただし、「亡者俗人なんどならば、其の霊供をば少し下く備うべし」――つまり、回向する故人が在家である場合、そこに供える膳は、御本尊や大聖人・御歴代上人の御膳と同列に並べるわけにいかないから、一段下げるのである。今日においては、末寺の場合はほとんどが、仏供を中心として、その左に大聖人、右に日興上人.日目上人の順で、御宝前に四台の御膳を並べ、他の御歴代上人方の御膳は省略されている(他の御歴代上人方は日目上人のところに摂せられる、という意義による)。また、故人の精霊に対する霊供は、御宝前の横に精霊台が設けられており、そこに供えるようになっている。ここで、御歴代上人が日目上人に含まれるという拝し方について、若干説明を加えておきたい。まず、御歴代上人と一口に申し上げても、第二祖日興上人と、第三祖日目上人以下の御歴代との間には、お立場の相違が存している。つまり、大聖人からの血脈を受け継がれているという意味では同じであるが、その中でも、直接に大聖人
から相承を受けられたのは日興上人ただお一人であり、日興上人は、大聖人のお振舞いや御説法の中から大聖人の甚深の御真意を拝し、それを整えられて、次の日目上人にお渡しになられた。それが唯授一人・金口相承の御法門であり、これが、日目上人から今日までの代々の御法主上人へと、そのまま受け継がれてきたのである。その意味において、日興上人と日目上人以下の御歴代上人とのお立場には少々違いがあり、第四世日道上人以来の御歴代上人については、日目上人のお立場をそのまま踏まれているが故に、日目上人のところにそれ以来の上人方も全て含まれる、と拝せられるのである。ちなみに、御法主上人の座が〝目師座〝とも称されるのは、その意味からである。

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